zorozoro - 文芸寄港

ジャンクション=インターフェクション

2024/07/08 14:10:49
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「株式会社アーバンメカトロニクス・立川工場」の金属色をむき出しにした外観は壮観だった。
敷地面積からしていえばそれほど広大ではないが、歩道橋からフェンス越しにその姿を見やると、積み上げられた構造物の集合体が、さながら都市に横たわる巨大生物の様相を呈していた。
周囲の街路樹の先へ向かい近づいて見ると、工場が要塞とか軍艦といった無機物ではなく生命体に例えられる所以がようやく理解できる。多くの工場でもそうだが、この巨大な建造物には血管が走っており、絶え間なく血が通っている。無論、その血管は鉄のパイプや電線の暗喩であり、絶え間なく流れているのはオイルや工業用水、あるいは電力だ。それらの管は外壁を蔦のように這いまわり、分岐しつつ、工場内部へ続いていた。内部は、体積は大きくとも居住空間は少ない。製造ロボットやベルトコンベアがところ狭しと並べられているからだ。作業区域は白い照明が眩しく、製造ロボットが放つ作業音と電子音のせいで常に喧しい。
大勢の従業員が周囲を行きかう中、一人の若い技術者が休憩時間を得て、黄色い帽子を外しながら出口付近へと歩いていく。一度足を止めると、目の前に山積みの段ボールを載せたカートが横切り、カートを引いていた作業員が軽く会釈した。
彼の目には、この光景は不自然に映った。この工場は新しいモノと古いモノが混在している。数メートル先では最新の梱包用ロボットがそのメカニカルな腕をダイナミックに可動させ、重い部品を軽々と持ち上げているのに、一方では人力で荷物を運搬する工程が残っている。この様子ではサイコ・インタフェースの導入も楽ではないな。と思った。
もちろん、今までの意味でのインタフェース。すなわちプログラム間のデータのやり取りや、入出力デバイスの接続を行う装置は、ずいぶん前から導入されている。これはロボットを導入する製造現場には必要不可欠なものであり、この工場で生産されている機器「コアユニット」も、これに分類される。
ここ最近ではロボットのプログラムや記憶に関する基盤など重要で繊細な部品は、この「コアユニット」と呼ばれる筒状のデバイスにまとめられ、共通規格のロボットに差し込むことで容易にプログラムと記録の共有が可能となっている。この工場では、この部品を生産し日本各地のロボット工場に直送している。
そんな立川工場で取り沙汰されているのは、前述のような機械同士を繋ぐインタフェースではなく、機械と「人間」を繋ぐインタフェース、正式名称で「サイコ・インタフェース」という代物だ。サイコ・インタフェースは、この技術の導入を芳しく思う人間と、思わない人間に、この工場を分断してしまった。

「やっぱさ」

そして、彼に話を振ってきたベテラン技術者は間違いなく後者だ。

「インタフェースなんてものはいらねんだよ」

目の周辺に深いしわを蓄えた中年男性が、黄色い帽子をかぶったまま若い技術者に言った。機械同士のコネクタを現す「インタフェース」と混同し、紛らわしくなることを承知で多くの人々は「サイコ・インタフェース」を「インタフェース」と呼ぶ。

「まあ、これも時代の流れってやつですよ。別に良いじゃないですか。仕事を覚えやすくなって悪いことはないですから」

彼はベテランの言葉をそれほど深刻に受け止めず、いなすように弁明した。ベテランも初対面の若者に向けてこんな話題を振っているわけではない。同じベンチに座っている二人の男性は、お互いそれなりに気が知れた仲ではあった。
彼の言う通り、インタフェースの機能は仕事を「覚えやすく」することだ。ドラえもんに登場する道具で「暗記パン」というものがあるが、インタフェースの機能はそれと概ね同じだった。もちろん、数式や単語を書き込んだパンを食べるわけではない。インタフェースは、骨伝導型イヤホンのような形状で首から耳に取り付けて使用する。そうすることで、クラウドに保存されていた情報が電気信号として脳に送られる。そうして一瞬で情報を記憶することができるというわけだ。すでに人類はノートとペンを一切必要としない段階にたどり着きつつある。学生が試験前に赤シートやら演習問題やらを使って情報を頭に叩き込んでいた時代は終わり、試験そのものさえ消滅しつつあった。なぜ「しつつある」なのかというと、この新技術には多くの制約が残っているからだ。まず、インタフェースで脳に送ることができるのは数式や単語のような単純な情報だけだ。手足の動かし方など、複雑な「技術」は今まで通り現場で手足を動かして学ぶしかない。そのうえ、他人の脳と自分の脳を繋げることも不可能とされている。
インタフェースの制約は、技術的なものと倫理的なものに大別され、その境界は曖昧だ。若い技術者は、それだけの制約があるのならば、工場にインタフェースを導入することは恐れることではなく、むしろ積極的に進めるべきと考えていた。

「だから問題なのよ。技術者っていうのは自分の頭で判断しないといけない。それが、インタフェースで、一瞬で脳に書き加えられるようになったら、人間もロボットもおんなじじゃねえか」

ピロピロピロ!
作業機械がうごめいている方向から続けざまにブザー音が鳴った。若手技術者はそれに気を取られて、彼の話を半分ほど聞きそびれた。とりあえず、今まで考えてきたことを口に出してみる。

「そうですね。でも、インタフェースで覚えられるのは単純な情報のみですから、製造機械をいじったりとか、製品の検査をしたりとかっていうのは、実際に手を動かして体に教え込まなくちゃいけない。そこは今まで通りですよ。頭に叩き込む作業が省略された分、実務に打ち込む時間を増やして生産性を向上させる。そう考えれば、この技術も良いものだと思いませんか」
「魚の缶詰みたいなもんかね。下処理が終わっていて、そのぶん料理に力を入れられる。みたいな」
「そうです。そういうイメージ」

最新技術から缶詰に話題が逸れたことは意外だったが、その例えは分かりやすい。出来合いの製品は必ずしもオリジナリティを潰すものではなく、オリジナルの創作を助長するものもある。

「だけんが、楽になった分ほかの場所に力を入れるっていうのを、インタフェースを導入した人間にできるのか。それが分からんのよ。俺の予想じゃあ、あいつらは料理をせず、缶詰のまま食べるんじゃないのか」

確かに、それもあり得る話だ。若い技術者も独身時代は料理などまともにしなかったし、夕食は毎日カップ麺かコンビニ弁当で済ませていた記憶がある。それでも当時は余裕がなかった。インタフェースにしても同じことだ。インタフェースを導入したところで、社会人に余裕が無いことは変わらない。大多数の人間は、もっと仕事を効率化しようというより、仕事が楽になったとしか考えないだろう。

「まあ、若者にもいろいろいますからね」

自分で言っていて、そもそも今までの会話が特定の若者を指したものだったのか疑問に思ったが、ベテラン技術者はそのまま続けた。

「そりゃ、俺らの同期にも真面目なやつもいりゃどうしようもないやつも…」

彼の話を遠くに聞きながら、数メートル先で作業する若い女性の工員に目を向けた。小柄な体をせわしなく動かし、ベルトコンベアに流される部品の検査を行い、端末に記録を打ち込んでいる。その首には見慣れた機器が取り付けられていた。インタフェースだ。既に導入されていたのか。呟こうとした瞬間、彼女の体が大きくよろけた。危機感が彼の頭をよぎる。これは、かなりマズいのではないか。
次の瞬間、ばたりと小さな音を立てて、女性が地面に倒れこんだ。若い技術者とベテラン技術者は驚き、とっさに駆け寄った。若い技術者は肩を叩き、彼女の帽子に刺繍された苗字を見た。

「泉森さん、大丈夫ですか!意識はありますか!」

とりあえず、高校時代に教わったきりの応急処置の方法を思い出そうとするが、焦りが冷静さを上回っている。

「えーっと。こういう時は心臓マッサージ?AED?」

彼女の意識がないことに慌てている若い男の後ろで、ベテランが言った。

「まずは呼吸とか脈の確認だな」

若い技術者はハッとして彼女の手首をとった。しばらく探っていると指先に脈動を感じる。心臓は動いているようだ。よく見ると意識を失っているものの、胸が上下していて、呼吸はしている。

「昏睡状態です」

若手技術者は冷や汗をぬぐいながら言った。深刻な状態ではないことは確認できたが、まだ安心できそうにない。

「熱中症かな?」彼は自分でも信憑性に欠ける憶測を口にした。
「バカいえ、もう秋だぜ」

もっともな意見が返ってくる。秋といっても立秋ではなく、むしろ立冬だ。朝と夜は冷え込む季節だ。

「じゃあ貧血かな。とにかく運ばないと」

自分で言っていて、これが最も妥当な原因だと思った。ベテラン技術者も納得し、周囲に伝えようとしたとき、さらなる異変に気が付いた。かなり目立つ場所で人が倒れたのに、自分たち二人しか気が付かないのはおかしくないだろうか。彼は立ち上がり、周囲を見回す。
すると、奇妙な光景が目に映った。工員たちは各々の場所で行っていた作業をやめ、自分たち二人のように、地面にしゃがみこんで何やら相談しあっている。
あの衆等はなにをやっているんだ。という眼差しを向けると、向こうから同じ眼差しが返ってきた。まさか、と彼は思った。

「まずいことになってませんか?」
「なんだよ?」

若い技術者は、工場のあちこちを指さした。

「あそこにも倒れてます。望月さんかな?あっ。あそこにも」
「斎藤じゃないか。あそこでも倒れてるぞ」

今まで目に映らなかった場所でも人が地面に突っ伏している。なんということだ。工場の至るところで人が卒倒している。見える限りでは近くにいる人が助けに向かっているが、倒れている人は七人以上いて、人手が足りていない。

「早く助けを呼ぶぞ」

若い技術者は内線の場所へ向かい、ベテラン技術者は泉森の意識を再び確認した。

「泉森、おい、大丈夫か。起きろ。おい」

息はしている。しかし、呼びかけには応じない。他の部署から助けが来たが、昏倒していた全員が一向に目を覚まさない。

「一体何が起こってる?」

七人以上が同時に貧血を起こすことなど、あり得るのだろうか。自分の理解の及ばないことが起ころうとしているのではないか。目の前に展開する不可解な現象に、彼は背筋が冷たくなるのを感じた。

 



 

淀んでいると言うには不十分だが心地よい天気とは言えなかった。静岡県警の私服警官、竹田は板についたしかめっ面のままパトカーのドアを開いた。続いて反対側のドアから後輩の梅川が降りてくる。梅川は刑事課の若い女だ。竹田からの評価は可もなく不可もないというくらいで、天然というのだろうか。時々抜けた所を見せる性格だが、今のところ公務に影響を及ぼしていない。竹田はドアを強めに閉め、正面に目を向けた。至る所が赤くさび付き、雹が降り注げば崩れてしまいそうな貧弱な建物がある。老朽化した廃工場の放置された倉庫だ。この場所にいるのは二人だけではなく、周囲にはパトカーが十台近く並び、シールドを構え武装した警官がぞろぞろと倉庫を囲み始めている。
竹田は雑草の海に浮かぶ難破船のような倉庫を一瞥し、梅川に呟いた。

「例の長門様のアジトがこんな貧相な場所とはな」
「ネットでは、未来へのラボと謳ってましたね」

梅川は、厚縁の赤眼鏡を直しながら言う。

「バカバカしい。こちとらガキの遊びに付き合っている暇はないってのによ」

彼はいつもの調子で嫌味をこぼした。隣で、梅川が心配そうに言う。

「そうですけど、長門がやってることは、もう子供の遊びどころの話じゃないっすよ」
「なんだお前、奴の肩を持つのか」
「そんなんじゃないっすよ。彼の作品は子供のおもちゃみたいに可愛いもんじゃないって事です」
「それは分かってるよ。それにしても、作品、ね…」

長門キサラギ。本名か偽名かは知らないが、この男の名前が一部の界隈を賑わせ、警察官の頭を悩ませている。ネット上に顔を晒したことはないが、この男は殺傷力を持つロボット開発のプロとして、一部のダークウェブで有名な人物だった。
急激に発達したロボット技術は人間の生活を豊かにしたが、その代償を求めるかのように暴走事故や特殊犯罪が頻発した。しかもその原因の大半は個人が改造したロボットだった。結果、この国は自動車と同じように、ロボットの製作、改造を規制する法律を制定した。だが、長門はそれをあざ笑うように危険なロボットを生み出し、ネット上に発表し続けた。
警視庁も手をこまねいていたわけではなく、数か月にわたる捜査の末、ようやく彼の素性と潜伏場所が探し当てられた。こうして、長門担当の二人がこの倉庫にたどり着いたというわけだ。

「じゃあ、そろそろ始めるか」

竹田は砂利道を踏みしめ、武装した警官の隣をすり抜けると、錆びて小さい穴の開いた扉の前に立った。
だるそうに右手でドアをノックする。

「警察です」

中に聞こえるくらいの声量を出すが、応答はない。なので、今度はドアが粉砕するのではないかという勢いで手の甲を叩きつけた。

「開けろ!警察だ!」

またしても反応がない。竹田は思い切りドアを蹴った。腐食した金属特有の鈍い破裂音が響く。続けて蹴りつけると、二発目でドアが揺らぎ、三発目で何かが壊れる音がした。

「開いたぞ」
「お見事です」

つま先の激痛をこらえながら満足げな竹田を見て、梅川は静かに拍手を送った。
緊張した面持ちの警官隊が建物の中に足を踏み入れていく。捉え方によれば相手は「兵器」をいくつも所有しているのだから恐れるのは当然だ。集団に続いて竹田と梅川も扉の向こうへ進んだ。倉庫の内部は思いのほか幻想的だ。天井は一部が抜け落ち、空からの光を断片的に降らせている。倉庫の内部にほとんど物は置かれておらず、だだっ広い空間だけが広がる。
そして、コンクリートの床の中央に置かれた椅子に、一人の青年が座っていた。

「長門キサラギだな」

竹田はドスの効いた声で尋ねたが、男は何も答えない。答えないという事は正解なのだろう。しばらくの沈黙を経て、長門は椅子から立ち上がり、言った。

「よくぞいらっしゃった。歓迎するよ」

長門は、竹田たちが想像していたよりも、ずっと若い男だった。良い生地のシャツをまとった外観だけでは好青年にすら見える。だが、みてくれに惑わされてはいけない。この男は指名手配犯だ。

「あんたがロボットを違法に開発していたことは分かっているんだ。さっさとブツを差し出せ」

竹田は一歩ずつ近づき、相手が凶器を隠し持っていないか詮索しながら言う。少し遅れて、梅川が小さな紙きれを掲げた。

「あ。ちゃんと捜査令状も出てますからね」

長門は大勢の警察官に囲まれてなお冷静沈着だった。プライドが高いだけならいいのだが。竹田がそう考えると、長門は再び開口した。

「君たちが私の発明品をいち早く見たい気持ちは痛いほどわかる。しかし、君たちが探しているロボットは、この場にはないよ」
「クソッ」

竹田は思わず悪態をついた。長門は自分が逮捕されることも想定内だと言わんばかりの態度だ。長門には共犯者がおり、すでに最重要の「発明品」は移動させてしまったらしい。

「どこにやった!」吐くはずがないことを承知で、声を荒げた。
「慌てる必要はない。君たちはすぐに目撃することになる」

貼り付けたような笑顔のまま、長門は言葉を続ける。

「そうだ。代わりに良いものを見せてあげよう」

長門が気まぐれに発した一言で、警官隊は危険を察した。

「警戒しろ!」

竹田が怒鳴る必要もなく、警官たちは一斉に防護盾を構えた。長門は立ち上がり、パチンと指を鳴らした。
場の緊張感は最高潮に達したが、数秒間経っても何も起こる気配はない。逃げ出すために、こちらの意識を逸らしたのか。竹田がそう考え始めた時、長門の背後から4体の黒い物体が飛び出してきた。大型犬ほどの大きさで、大きな箱から4本の脚が生えている。その物体は不気味なほど静かに着地し、脚を伸ばした。振り返ると、背後にも同じ物体が4体ほど降り立ち、警官隊に距離を詰めている。

「なんだコイツら」
「一時期有名になった犬型ロボットですよ」

犬型ロボット?竹田は梅川の声を聞き、愛玩用のペットロボット「アイボ」の姿を思い浮かべた。メタリックな質感に似合わず、あたかも本物の小型犬のような仕草をするロボットだ。しかし、目の前でじりじりと距離を詰めてくるロボットは四つの脚を与えられているものの、犬として見るにはたいへん苦労がいる姿をしていた。まず、これには犬特有の面長な頭部が存在しない。あるのは長方形のバッテリーをそのまま大きくしたような胴体と、ぬるりと細長いフォルムの脚部だけだ。
その姿を見続けていると、遠い昔これと似たロボットを見た記憶が蘇ってきた。現代ほどロボット技術が発達していない時代、つまり竹田が子供の頃、報道番組で特集が組まれていた。
番組では軍事偵察用に開発されたロボットで、ダンスをさせたり、荒野を自在に駆け回る映像が紹介されていた。ダンスでも披露してくれるのではないか。本気で期待した次の瞬間、その期待は裏切られた。
風を切るような音とともにロボットが飛び上がる。そして、空中で前足を振り上げると、爪を立てるようにつま先から小さなナイフが突き出した。突き上げられた刃物は、まっすぐ梅川の頭上に伸びている。彼女は、そのことに気が付いていない。

「ちいッ!」

竹田は茫然としている梅川を突き飛ばし、襲い掛かってきたロボットを殴りつけた。拳に鈍い痛みが走り、ロボットが目の前に転倒する。痛みの本番は数秒後にやってきた。人間より重い硬質の物体を殴ったのだから当然だ。

「畜生が!」

悪態をつきながら、じんじんと痺れる手首を振った。気が付くと、周囲では辺りを飛び回る犬型ロボットと、それに悪戦苦闘する警官隊の間で阿鼻叫喚の光景が繰り広げられている。竹田は羽織っていたコートから携帯電話を取り出し、本部の番号を打ち込んだ。その隙を逃さず、ロボットが襲い掛かってくる。

「電話の邪魔をするな!」

片手がふさがれているので、目の前で距離を詰めてくるロボットは右足で蹴とばした。「アーッ!クソッ!」先ほどドアを破壊したときの痛みが蘇ってくる。

「聞こえるか。こちら竹田。例の廃工場にて長門を発見。問題のロボットは移動されていた。は?どこにって?そんなもん奴に聞かなきゃわからんだろ!」

本部の気の抜けた声から察するに、彼らは長門キサラギの身柄をすでに拘束しているものと思い込んでいるらしかった。しかし現実には、長門の奇妙なロボットと熾烈な戦いを繰り広げている。

「おぉっと。あぶねえな、オイ!」

ロボットが前足を振りかざし、竹田の足首すれすれをナイフが掠めた。背後から断続的な発砲音が響く。とうとう本部の声に困惑の色が滲み始めた。

「だから、今奴を追っているところなの!」

ようやく何体かは煙を立てて沈黙し始めている。あたふたしている梅川を警官隊に任せ、竹田は拳銃を引きながら正面に走った。主人を守るためか、道をふさぐように二体のロボットが竹田の正面に躍り出る。こういう状況に限って、彼の脳は冷静になる。右側のロボットの前足に狙いを定めて、引き金を引く。拳銃を握る拳が震え、発砲音が響いた。
狙い通り、足の根本を撃ち抜かれたロボットは思うように跳躍できないでいる。続けざまにもう2発弾丸を撃ち込んだ。今度は左側のロボットだ。細い両足の関節が砕け、ロボットは地面に突っ伏した。これでもう焦る必要はない。かろうじて動ける方のロボットにも数発弾丸を撃ち込み、まともに動けなくした。本体を破壊していないので死にかけの昆虫のように仰向けに動き続けているが、無視して長門の方へ向かった。
彼はやはりプライドが高いらしく、逃げられないことが分かると抵抗はしなかった。今走って逃げ出したところで外に待機している警官に捕まるだけなので、騒ぐだけ無駄と理解したのだろう。乱暴に腕をとり、手錠をかける。重い金属の音が響いた。すでに背後で物騒な音は聞こえないため、残りのロボットも鎮圧されたようだった。

「開発したロボットを何処へやった。言え!」

竹田は超然とした長門を怒鳴りつける。相手は、それに怯むどころか平然と言い放った。

「崇高な目的を果たせる場所へ。だよ」
「てめえ!」

激昂し、思わず手を上げてしまう。しかし宙に振り上げられた拳は長門の顔を打つ前に誰かの手首に阻まれた。

「先輩、だめです」

知らぬ間に梅川が背後に回っていた。その、少し悲しげな表情を目の前に、竹田はようやく冷静さを取り戻す。

「ちッ。」軽く舌打ちし、長門の腕を引いて歩き始める。

「署のほうでありがたいお話をじっくり聞いてやる。覚悟しとけ」
「そうか。とても楽しみだよ」

竹田は、長門の手を引きながら倉庫の出入りへ向かった。先ほどの警官らが長門を睨んでいる。負傷した警官もいるらしく、数名が肩や腕を押さえ、止血しているのが見えた。相変わらず長門が態度を崩すことはない。掴んでいるその腕は、先ほどのロボットの脚のように細長く、不気味に感じられた。



 アーバンメカトロニクスの工場に併設された事務室は、工場の規模に対して小さいのだが、この三日間はいつにも増して室内が圧迫されている。普段は整然としているオフィスが混沌と化したのは、三日前に起きた怪事件が原因だった。工場で九名の工員が、ほぼ同時に昏睡状態に陥ったのだ。
病院に搬送された九名の意識はいまだ回復しておらず、工場の稼働も停止せざるを得ない状況に置かれている。職員は取引先の対応に追われ、棚に収納されていた紙の資料があたりに散らばっている。お世辞にも居心地が良いとは言えないこの空間に、佐賀美サツキが入室した。
裾の長いスーツも短い髪型も入社四年目の職員としてごく一般的な恰好だったが、彼女の存在はこの会社の中でどこか浮足立っていた。外観から言えば、その中性的な顔立ちが理由かもしれない。彼女は社内ではよく喋るほうだが、こうして口を閉じていると、その容姿はティーンエイジャーの少年のようにも、大人びた顔立ちにも見える。
オフィスの中央に位置する大きな椅子から、皺の刻まれた手首が揺れているのが見えた。課長が手招きしているのだ。工場指定の制服に身を包んだ職員たちと長いデスクの間をすり抜けながら、課長の座る席に進んだ。プリンターで隠れていた、中年の少し丸い男性の姿が見えてきた。

「原因は、まだ分からないのでしょう?」

佐賀美は落ち着いた声で言った。親子ほど歳の離れた上司への態度としてはいささか不適切に思えるが、課長はあまり気にしていなかった。発言を自粛しないというだけで、舐められてはいないからだろう。

「あの日は、インタフェースを導入して業務を開始した日だ。やはり我々としては、あれに原因があると考えているのだがね」
「それは早計です。あの日にインタフェースを取り付けていた作業員は、あの九人だけではありませんし、インタフェースを外した後も、彼らの意識は戻っていない。この事件をインタフェースの導入を中止するだけで片付けることはできません」

課長も、病院に精密検査を依頼したり、事件の発生現場を穴が空くほど調査したりしている。佐賀美の中には、ここまでさせるのは悪いという感情もあった。だからこそ、この状況に妥協することはできない。
その眼差しが変わらないのを見て、課長は難しい表情で腕を組んだ。

「この件では厄介なことは二つある。一つは、警察が介入するつもりがないことだ。なにやら、全国区で大規模な捜査が進められているらしくてね。九人が意識を失った原因がはっきりするまで、処理は見送られるらしい」

タイミングの問題だろう。手が空いているときは細かい取り締まりを行う警察だが、忙しい時は事件性が認められるまで動いてくれない。
そもそもこの件は警察が出る幕ではないのかもしれない。患者を昏睡状態から目覚めさせるのは医師の仕事であり、工場内で発生した事件の原因を突きとめ対策を講じるのは自分たちの仕事だ。とはいえ、この会社も普段の仕事を進めなくてはならないし、自力での調査にも限度がある。
また、厄介な問題がもう一つある。

「もう一つは、インタフェースの分解に資格が必要なことだ。よりによってインタフェースの詳細な情報は、簡単に得ることができないとは、何とも皮肉な問題だね」
「サイコ・インタフェース取扱い資格。インタフェースの悪用を恐れた人たちが作った制度、ですよね」

佐賀美は課長の言動を補足した。当然、誰もが知っている制度だ。

「そうだ。インタフェースに関する情報は、犯罪兆候が認められず、それこそインタフェースに頼らずに情報を得る能力を持つ人物でなければ得ることはできない。だが、今はその制度が我々の貴重な労働力を脅かし、生産を中断するという事態を招いている」

課長の言う通りだ。しかも、その資格を持つ人物はこの国を探しても一握りであり、ほとんどの人がインタフェースを分解したことがないから、仮に分解しても、何が何だか分からないと思われる。

「なら、私が原因を探してみます。警察があてにならないのなら、自分たちで調べるしかない。私が一番関心を持っていることですから、私にやらせてください」

佐賀美が淡々と啖呵を切ると、厳しい表情を向けられた。

「君にできるのか。君は入社四年目の若手社員だ。インタフェースの資格を持っているわけではない」

課長は不安そうな表情を浮かべる。どうして佐賀美がインタフェースを擁護するのか判断しかねたのだろう。世話をかけている課長にも、その理由は説明できない。代わりに、佐賀美はこの事件への入れ込みを示すように、少し前のめりで上司の両目を見据えた。

「やって見せますよ。弊社の品質と信頼を守るためなら」



佐賀美は定時を少し過ぎた時計を一瞥しパソコンで退勤時刻を打ち込んだ。
灰色の壁に設けられたエレベーターのボタンに触れ、液晶に示された数字が自分の階と一致するのを待つ。十秒も経たずして控えめなチャイム音とともに扉が左右に開いた。乗員は佐賀美ひとりだけで、すぐに1階に到着した。エレベーターの自動ドアをくぐり、自社製品が展示される棚の隣を通り抜ける。
外に出ると、街灯の明かりが眩しかった。頭上はもう十分に暗く、北西の方角はサーモンピンクに染まっている。夕日が夜の暗闇にじわじわと浸食されていた。もう夜が長い季節がやってきてしまったのか。感慨とも感傷ともつかぬ心境を抱き、ほの暗いアスファルトの上を歩き始めた。
外を出歩く人の数はまばらだった。場所と時間も相まって、徒歩で帰宅する会社員ばかりが目立つ。同僚と談笑している人もいれば、今の彼女のように単独で鞄を抱えている人もいた。
横断歩道を渡っている途中で刺すような北風が吹きつけた。この数分間で徐々に体温を奪われていたため、思わず身震いした。マフラーくらいは持ってくるべきだったかもしれない。
しばらく考えて、横断歩道を渡った先にあるコンビニエンスストアに足を運んだ。外とのギャップで蛍光灯が眩しい店内も、やはり人影はまばらだった。店内を回ることもなく、無人のレジでカップを購入し、入り口付近にあるコーヒーメーカーに向かう。左側の引き出しにカップを入れ、カフェラテのボタンを押した。香ばしい香りとともに、熱い液体が断熱カップに注ぎ込まれる。カップを取り出して、映画やライブチケットの広告で覆われた自動ドアを通る。右手には、数分前までなかった熱があった。
夜は歩くたびに深くなっていった。昼間は閑散としている飲食店はネオンを光らせ、つがいを誘う蛍のように客引きしている。ランプの照り返しで、手に持っているカップや自分の鼻が様々な色彩に染まった。繁華街に入ると、さすがに人の数が増えてきた。今度は仕事帰りのサラリーマンだけでなく、カップルや派手な服で笑いあう大学生らしき集団も散見された。
この場所では、むしろ一人で歩いている佐賀美の方が浮いているような気さえする。
そのまま繁華街を抜けると、足元を照らす光が無機質な街灯だけになった。
道は徐々に細くなり、周囲に見えるのも民家や古いタバコ屋ばかりだ。正面の小さな踏切はちょうど閉まる所だったらしく、カンカンと単調なリズムで赤いランプを明滅させていた。この路線は町から工場まで繋がっていて、二駅分歩く気力がない時だけ利用している。鐘のリズムとランプの点滅は、最初の方は連動しているように見えて、電車が来る頃には揃わなくなる。熱く甘いカフェラテを啜りながら待っていると、轟音とともに貨物列車が通過した。分厚い風圧が来て、短いもみあげが揺れる。数十秒後には鐘の音も電車の音も消えて、踏切は立ち上がった。
横断歩道を渡り始めると、目の前が昼のように明るくなり、足元に自分の影が浮かび上がる。踏切の鐘に音がかき消されて気が付かなかったが、トラックも踏切を待っていたらしい。道の端にずれ、トラックが通り過ぎるのを待った。最近見かけるようになった、運輸会社の真っ白な無人トラックだ。ヘッドライトさえ混じりけの無い白色光で、辺りが昼のように明るくなる。届け先はすぐそこのようで、トラックは裕福そうな家の前で停車した。間髪を入れずに荷台が開き、四本足のカニのようなロボットが段ボール箱を抱えて降りてくる。
カニロボットはよちよちと歩き、玄関の階段を難なく上ると、荷物を抱えるアームからさらに細長いアームを伸ばし、インターフォンのボタンを押した。まじまじと見続けるのも野暮かと思い、佐賀美はふたたび歩き出した。
「オトドケモノデス!」背後から、カニロボットの威勢の良い声が聞こえた。
そこから数分、代わり映えしない住宅街を進むと自分のアパートが見えてくる。飲み終わった耐熱カップをゴミ箱に捨て、軋むステンレスの階段をのぼる。自室は2階の一番奥だ。扉を開けて靴を脱ぐと、ようやく肩の荷が下りるような気がした。
一人暮らしを始めるにあたって、なるべく必要のないものは買わないように心掛けているのだが、結局、社会人数年目として平均的な乱雑さを保っている。とはいえ、趣味といえる趣味もなく、珍しいものがない陳腐な部屋だ。
いつも通りの変わらない一人の夜だった。それでも自分は恵まれている。手をゆすぎながら、自分に言い聞かせた。会社に不満はないし、こうしていれば誰かに迷惑をかける心配もないし、迷惑を被ることもない。これ以上何を望むというのだろう。
ソファに転がり込み、電話帳から「先生」の連絡先を探す。これは今日中にやっておきたかった。電話をかけるには遅い時刻かもしれないが、相手も独身なので大丈夫だろう。
「先生、もしもし。私です。佐賀美」
佐賀美はソファに仰向けになりながら知り合いの名前を呼んだ。疲れからか、口ぶりが不自然になってしまい、少し恥ずかしい。
「ああ、佐賀美か」
穏やかな口調で若い男性の声が返ってきた。
「例のモノ、預かったんだね」
思わず苦笑した。これでは闇取引の会話みたいになってしまう。もっとも、自分にはそんな団体と関わる機会はないだろう。
「ええ。捜査の許可も出ました。課長からね」
基本的には休日に、個人的に調査をするだけで、許可を得る必要はないかもしれないが、あとからとやかく言われる事態は避けたかった。
佐賀美は小さな鞄から、骨伝導イヤホンに似た装置を取り出した。課長に取り計らって持ち出してもらった、泉森ヤヨイのインタフェースだ。
そうか。と続けて先生が言う。
「君が良かったらだけど、今日、早速調べてみないか?」
「今日ですか」
窓越しに見える夜空を見つめる。
今日から調査を始めるという発想は、さすがに持っていなかった。
「もちろん、君が良ければ、だけどね」
佐賀美はしばらく考えた。今日は金曜日で疲労も溜まっている。だが、一刻も早く事件を解決したいという意思も揺らいではいない。
「わかりました。先生が良ければ」
そう言って、佐賀美はベッドから立ち上がった。



派手でも地味でもないトレンチコートを羽織り、暗がりの駅前を歩いた。
ファミリーレストランの前で電話の相手が待っている。淡い髪はもともと色素が薄いらしく、鼻は高く、目元は柔らかい。厚手の白のトレーナーという格好は急用ゆえの手軽さだろう。もうすぐ三十代とは思えない彼の容姿に思わずため息が出そうになる。顔を見るのは久しぶりだったが、前と一切変わっていない。
彼が高校時代の教師、近江シロウだ。
「やあ、佐賀美。お久しぶり。よく来たね」
近江はふざけているでもなく、お爺さんのような口調で言った。
「普段、卒業生と会う機会なんてそうそうないからね。変わりないようで何よりだよ」
「先生こそ、五年前から変わってない」
佐賀美は近江の特徴的な口ぶりに答えつつ、今まで感じてきたことを語った。
「っていうか、変わらなさすぎですよ。しわの一本ぐらい刻んで年長者の威厳を見せつけてくださいよ」
しわが多い方がいいのかと聞かれればそうではない。しかし、この男は70代を過ぎてもこの顔でいるような気がして、若さのピークが近づくことに怯える佐賀美は微かな嫉妬心を覚えた。
「ここ最近はずいぶん冷え込むな。早く店に入ろうか」
佐賀美の様子を軽い微笑で返したあと、彼は小さく震え、少し目を広げた。
「そうしましょ」
店内は空いているわけではないが、閑静そのものだった。仕事疲れのサラリーマンが多く利用する時間帯だからだろう。暖色系の照明も相まって眠気を増幅させてくる。
佐賀美は、近江の正面に座ると不自然に身じろぎした。なぜか、急に彼の職業が教師であることを思い出した。
「どうかした?」
今までと変わった佐賀美の表情に、彼は不思議そうな声をあげる。
「え?」
自分はそれほど変な顔をしていたのだろうか。心配になる。
「落ち着きなさそうに見えたからさ」
落ち着きがない。か。高校時代、自分はまさにそういう人間だった。もちろん騒がしい性格だったわけではない。落ち着きがないのは、つまり内面の方だ。休み時間はいつも、教室の隅で腕を枕にして眠っていた。だからこそ、面接のように大人と対峙する局面では、なすすべがなかったのだ。
今の状況が就職試験の面接会場を無意識に思い出させたのかもしれない。確かに、就職試験には楽しい思い出がない。専門学校は学科試験にウエイトが置かれたためどうにかなったが、就職試験では学力でカバーするという方法は使えず、ただでさえ慣れない面接会場で、企業の重役と対話するしか方法はなかった。
入学試験において受験生は、言ってしまえば客であり、授業という商品を受け取るにふさわしい人間かどうかを見極められるだけだ。一方、就活では自分を商品にして会社に売り出さなくてはならない。自分に商品価値が無いと思っていた佐賀美にとって、これほど苦痛なことはなかった。
「こうして座っていると、高校の時、先生に面接練習をしてもらったことを思い出しますよ」   
「昔は話すことが苦手だったもんな。それが、今じゃあ課長に直談判して仕事を請け負うくらいだから、大したものだよ」
純粋に生徒を褒めるような口調だ。今回の件が面倒事だとは思っていないようで、佐賀美は少しほっとした。
「それにしても、高校の時からガラッと印象が変わったみたいだけど、専門学校で何かきっかけがあったの?」 
近江からの問いに、佐賀美は首をひねった。
「さあ、どう克服したのかとか、その辺りはうまく思い出せないです」
本当のことだ。記憶喪失というほどではないが、過去のどんな経験が対人恐怖症を克服させたのかは、考えても思い出せなかった。無理に思い出そうとしても嫌な記憶が蘇ってくるだけなので、極力考えないようにしていた。
この話を続けていても仕方がない。彼女は話の方向性を変えた。
近江と直接話すのは5年ぶりだが、距離感は当時よりも近いくらいだった。佐賀美が変わったからだろう。ここは学校ではないし、制服も着ていないが、良くも悪くも、一時的に女子高生に戻ったような気分だった。もっとも、高校時代に、それも若い男性教諭とファミレスに入ったところを見られたら、同級生にあらぬ噂を流布されていたことだろう。途端に昔の空気感を思い出し、懐かしくなった。
夕食はひと段落着いた。佐賀美はホットココアを片手に本題を切り出した。
「この前話したことですけど、私の工場でおかしな事件が起こりました」
その一言を合図に、近江の表情が少しだけ変化した。これが馴染みのある姿、教師としての近江だ。彼女も気持ちを切り替えて、今までに起きた怪事件の内容を、事細かく説明した。
「仕事の方でトラブルがあったとは聞いてたけど、そんなことが」
予想通り、近江は意外そうな反応を見せた。
「でも今朝のニュースでもそんなこと言ってなかったよ」
「世間にはそれほど注目されていないんだと思います。新聞には、三面の片隅に小さく記載されたくらいですし」
自分の会社で起こったトラブルが騒ぎたてられてほしいわけではないが、一般に知られていないおかげで調査が進まない状況だ。
「警察には事件性がないからという理由で、突っぱねられてしまって」
「それで、君が捜査することになったのか」
近江は、自分の説明と佐賀美の体験をつなげて納得した。そして、少し口角を上げた。
「すごい。じゃあ君は探偵だ」
今度は確実に冗談で言っていることだろう。佐賀美は難しい表情を見せた。
「先生の解釈は自由ですけど、インタフェースは私だけでは調べきれませんから」
抱えてきた鞄を開く。荷物はすぐに見つかった。泉森が事件当日に装着していたインタフェースを手に取り、近江に差し出す。彼は感動気味にその機器を手にとり、「外観」を眺めた。
「ああ、本当に良いインタフェースを使っているなあ。最新モデルじゃないか。頭とのフィット感を追究して、より有機的で合理的な形状に進化して…」
「まあ、外観の話はいいとして、先生は資格をお持ちなんでしょう」
佐賀美の話から外れて、本筋と関係ないデザイン面の話を始めたので、早々に止めに入った。彼は、この手の話を始めるとブレーキが利かなくなる傾向がある。
「うん。資格は持っているよ。それで、ここの中央部分に配されたマークなんだけど」
小さな記号の解説だけはどうしてもしたいらしい。佐賀美はそのまま追及した。
「じゃあ、先生はインタフェースを分解して調べられるのね」
「このマークは脳科学とデジタル技術の融合を示していて…いや、分解はできない」
「え?できないの?」
佐賀美は大いに驚いた。しかし思い起こせば、資格でインタフェースを分解できる権利が得られることを知っていても具体的に何級から得られるのか、などは想定外だった。彼女の困惑を察したように、近江は口を開いた。

「その権限を持つのはインタフェース資格二級に合格した人だけだ。僕が持っているのは四級の資格。今度三級を取ろうと思っているところだよ」
「てっきり二級かと思ってた。ていうか、四級から取る人なんているんですね」
「そもそもみんな、取ろうとしないだろう。面倒くさがって」

近江の言う通りではあった。特に佐賀美の世代では身の回りの技術に関して使い方を覚える人は多いが、構造まで理解する人は少ない。それが、バイオロジーとテクノロジーが複雑に絡み合ったインタフェースとなれば尚のことだ。
佐賀美は無意識に近江をけなしたことを反省し、顎に右手を添えた。

「まあ確かに、その通りですね。でも、先生以外にインタフェースに詳しい知り合いを、私は知らない」
佐賀美が落ち込んでいる様子を見て、近江は説明を付け足した。
「四級でも、インタフェースをサーバーにつなげて調べることはできるからさ。とりあえず、それはやってみるよ」

佐賀美はその説明を聞き、顔を上げた。分解のことを物理的な分解と、ソースコードの分析で両方の意味に捉えていたが、どうやら、ソースコードの分析は四級でも可能になるらしい。人体に悪影響を及ぼすプログラムというのは想像がつきにくいが、未使用のインタフェースと比較して分析すれば、異常が見つかるかもしれない。
「それができれば十分ですよ」
佐賀美は顔を上げた。
事件解決に十分というわけではなかったが、調査が一段階進むという実感があった。
近江は、わかった。と一言呟くと、足元からリュックサックを持ち上げ、小さなノートパソコンを取り出した。
それを立ち上げた後、インタフェースからコードを伸ばし、端子をつなげる。

「手際が良いのね」
「これに関しては、何度も試したんだ」彼はあっさりと答えた。
カタカタと音を立てながら、近江がキーボードを叩く。しばらく経つと白かった画面が黒に変わり、白い文字でプログラムの文字列が並び始めた。
彼はさらに集中し、作業に没頭していった。その様子を見ていると、自分が持ち込んだ仕事が無関係の人を巻き込んでいるという罪悪感がこみあげてくる。
「ねえ、先生。今話しかけても大丈夫?」
このまま見ているのはどうにも居心地が悪く、声をかけてしまった。近江が凝視しているソースコードを見てみるが、それが示す意味は理解できない。今度、プログラムに関する情報を脳にインストールしよう。と思った。
「なんだい」
画面から目を離さず、近江が言った。彼女は分かっているようで納得していない疑問を投げかけてみることにした。
「どうして、インタフェースのリバースエンジニアリングには資格がいるんでしょう」
「車と同じで、事故を起こさないようにするためだよ」
近江の答えは至って単純なものだった。言われてみれば当然だが、危険なものを取り扱うには資格が必要だ。とはいえ、インタフェースの性質は自動車やボイラーとは違う。それは大人だけが使うものではないし、利用者として使う分には安心とされている。
もっとも、この事件の真相によっては安心でなくなる可能性も十分にあるのだが。

「インタフェースって、今に小学生もつけるようになるのに、中身をいじるのはそんなに危険なことなんですかね」
「さてね。インタフェースについては、あらゆることが未知数なままなんだ。その制度を作った人の言い分も、ちょっとは分かる気がするよ」
近江は小さく首の後ろを掻いた。
「何十年か前まで、人間は欲しい情報。たとえば、何でもいいや。道端で見つけた花の名前とか、空の色の名前とか、そういった些細な情報でも、図鑑を買ってくるか、図書館に行くか、もしくは人に聞いて調べるしかなかった。それしか方法がなかったからね。けれど、インターネットが普及して、スマートフォンが普及して、そんな情報は数十分、いや、ものの数分で調べられるようになった」
「時代の躍進ですね。良いことだわ」
佐賀美は江戸時代に生きる自分の姿を想像した。情報を得るために歩き回り、情報を伝えるために歩き回り、情報を残すためにはコピーも取れない半紙に筆で書き記すしかない。現代では数分で済む情報の伝達に、これでは丸一日を費やしてしまう。
いや、昔の人々にとっては情報をやりくりする行為自体が馴染みのないものだったのだろう。ただ目の前の仕事に忙殺され、いつの間にか短い寿命が尽きてしまう。

「今になって、情報を記憶することさえ省略できる時代が来てしまった。情報を伝達する能力は生物より機械の方がはるかに高い。インタフェースは人間を機械に近づけすぎてしまったんだ」
「でも、人間は機械じゃないわ」

近江の持論に、佐賀美は反駁した。
インタフェースは脳科学とデジタル技術を組み合わせたものだ。しかし、それは脳の情報処理能力というごく一部の機能に干渉することが可能となっただけであり、人間の人格や意思に影響するとは考えられない。近江も、表情を変えぬまま返答した。

「そうとも。だけどインタフェースに資格を設けた人はそう思わなかったんだろう。人間が苦労して情報を集めていた時代のことを忘れ去れば、それこそ人間と機械の区別がつかなくなると思ったんじゃない?」

近江は微笑を浮かべ、語尾にしらんけど。と付け加えた。
彼は科学技術に対する倫理観について、それほど深い見解を持っていないようだ。
しかし、この短い会話で彼が言わんとしていることだけは理解できた。

「つまり、すべての人間が自力で情報を得る能力を失った時のために、インタフェースの技術者だけは、自ら情報を得られなければならないってこと?」
「そういうこと」

佐賀美はあまり納得のいかないような表情を浮かべたが、近江は自分の作業に戻った。泉森のインタフェースを取り出し、未使用のインタフェースと並べてコードをパソコンに突き刺す。二つ分のコードが机に散らばり、パソコンの周囲がタコ足配線のようになっている。会話が途切れた後も、彼は黙々と作業していた。
「私もなんか手伝うよ」
近江はパソコンの周りを見て、苦笑いを浮かべる。
「特にやってもらえることがないしなあ」
彼はそれっきり黙ってしまった。佐賀美は徐々に話がつまらなくなる現象を数日前、友人との会話で体験したばかりだった。友人であり同僚でもある彼女に対しては、いまだに煮え切らない感情が続いている。子供のように仲直りすることさえ、今の状況では困難なことだ。
自分から謝ることが恥ずかしいからではない。
佐賀美サツキの友人、泉森ヤヨイは同時昏倒事件で意識を失ったうちの一人だからだ。



小一時間が経過し、近江の作業は山場を迎えた。三つほど奥の席でもパソコンと睨めっこしている男性がいたので、二人の行動はさほど悪目立ちしなかった。とはいえ、インタフェースをパソコンに接続している様子は一般には見慣れない光景で、店員から好機の目を向けられなかったことには安堵した。彼はパソコンの前で大きく背伸びし、後片付けを始めた。インタフェースから伸びる細いコードを慎重にパソコンから取り外し、本体に収納する。
「終わったの?」
「一通りね」
近江は二つのインタフェースを掴み、佐賀美の目の前に置いた。
「僕が調べられる限りでは、プログラム上に異常は見つからなかった。一般に問題なく利用されているインタフェースと全く同じものだよ」
彼女は軽く頷いた。この事件の謎がさらに深まったことは不安だったが、それはインタフェースが原因でないことの証明に一歩近づいたという意味でもある。
とはいえ、プログラム上の話だ。この小さく細い機器を分解して、中にあるものを覗いてみない限りは、真相はつかめない。それには近江よりも専門的な資格が必要だ。専用の治具でなければ分解できないインタフェースを無理やり破壊して中身を調べたところで構造は理解できないし、破壊した瞬間、自動的に通報される可能性もある。
「そうですか。じゃあ、分解できる人を探すしかありませんね」
それくらいしか方法は思いつかない。近江にも、彼以上にインタフェースに詳しい知り合いはいないだろう。彼女がそう考えていると、近江は意外な回答をした。
「そうだね。僕の大学時代の教授にでも聞きに言ったらどうかな」
「先生の先生は、もっとインタフェースに詳しいんですか?」
最初に言ってくれればいいものを。と思うが、切れかけていた糸が再び繋がったことは、喜ばしいことだ。
「そうだよ」
近江が答えると、佐賀美は冷静になって聞いた。
「それが良いですね。ところでその人はインタフェース資格2級なの?3級なの?」
「高校の時、言わなかったっけ?」
近江の、高校時代の授業を追憶した。彼は社会学課の教師だったので、黒板に貼られた世界地図をバックに教鞭をふるっていた姿や、大昔の戦争について語っていた姿ばかりが記憶に残っている。彼がインタフェースについて話していた記憶はなかった。
「聞いてても覚えてないかも」
目線をそらしながら答えた。その時は、気持ちよく昼寝していたかもしれない。近江の授業は決まって午後の最初だったため、クラスメートの大半は睡魔に敗北していた。
「それもそうか」お茶を啜り、近江は平然と答える。
「インタフェースの開発に関わった人なんだけど」
佐賀美の脳は、一瞬、重大な事実を押し付けられたように感じ、ほんの少しだけ眩暈を感じた。
「それはすごいですね」
まるで他人事のように、平然と言った。熱いココアを、ゆっくりとすする。その間、佐賀美の脳はひとりでに彼の言葉の意味を再構築し始めた。ココアを飲み込み、マグカップをテーブルに置いた。
「エッ?」
そして、数十秒ほど遅れて、驚愕の色を示した。
 

 
刑事ドラマを見ていると、たいてい警察署のセットは散らかっている。刑事課では、書類を内包したファイルや判子、白い電話などが煩雑に散りばめられ、壁には賞状などが悠然と置かれているのが碇石だ。竹田の机回りも万人のイメージ通りというわけではないが、やはり荒れていた。彼は見た目に似合わず、読書を趣味としている。現在読んでいる21世紀初頭の小説では、刑事が端末を嫌い、ボールペンでのメモ書きに拘っているという描写があった。当然だが、そういう時代が少し前まではあったのだ。今の価値観に即して言えば、手書きですべての情報をまとめるなんて言うのは、ほとんどモラルハラスメントだ。署内でも、ワードで作成した文章は印刷されず、専用メールアカウントに添付されている。
それでも職場環境が片付くわけではない。未来予想図に表されるような、ミニマムでスマートな生活は永久に未来予想図であり続けるだろう。どれだけ社会がスマートになろうとも、煩雑なものは煩雑なのだ。

「長門のやつ、なかなか口を割ってくれせんよ」

男の後輩のような口調で、梅川が話しかけてきた。きっと彼女自身が聞き出した結果ではない。彼女は、尋問には一番向いていないタイプだ。
そうか。と一言答えつつ、竹田はデスクに散らかる書類をまとめ始めた。冷静を装っているが、この次に何が起こるか分からないという事態に、彼は神経を尖らせていた。

「俺は拷問でもしてやりたい気分だよ」

ふいに、本心が洩れてしまう。言い方に語弊があった。もちろん、拷問部屋で長門の指を潰してやりたいなどと考えているわけではない。拷問というのは、あくまで尋問の範疇を逸脱した行為を指してのことだ。彼は、猛禽類のような風貌や、突き刺すような鋭い目つきに加え、荒々しい口ぶりで周囲からサディスト扱いされていることがコンプレックスだった。梅川も自分を同じような目で見ていることは間違いない。
手の甲と右足のつま先が鈍く疼いた。長門を捕まえるときに酷使した四肢の末端は、数日たっても竹田を責め立てている。
「怖いこと言わないでくださいよ」
さほど怖くもなさそうに、梅川は笑いながら答えた。
「警官がルールを破ってどうすんですか」
彼女が続けた言葉は、もっともな意見だ。だが、竹田も竹田で、考えなしの意見ではなかった。一度手の動きを中断し、後輩と向き合う。
「だけど、そうじゃないか。犯罪者の遊びのために、多くの罪のない人間の命が奪われるかもしれない。それなのに、取調室で犯罪者相手に俺達が使える武器は、言葉だけだ」
「それと、かつ丼ですね」
「かつ丼で自白させる奴はいない」

自身も刑事だというのに、あまりに古い刑事ドラマのイメージを持ち出す梅川に呆れつつ、竹田は自問自答した。自分が尋問した人間が冤罪だったらどうするんだ。という考えもあるし、絶対に冤罪ではないことが確信できる場合もある。行き詰まった思考を振り払い、竹田は続けた。

「もちろん、俺もルールは大事だと思ってる。だが、ルールが人間を絞め殺す場合もあるんだ。俺もそういう場面を何度も見てきた」
「でも、ルールを軽視して良いって風潮が流れれば、犯罪が横行するんですよね」

竹田自身の妄想よりも先に、梅川が反論した。

「ルールに限らず、何だってそうじゃないですか。本当は“ほどほど”が一番良いのに、どうしても人は片方に偏ってしまう」

ほどほどが最善と分かっていながら、人間は何かにのめりこんでしまう。酒にせよ博打にせよ仕事にせよ人間を依存させ、破滅させてきたものの例は、挙げ始めればいとまがない。梅川の言葉に、思わず同調してしまった。

「人間は常に最善を選べるほど賢くないって事か。まあ、人によって“ほどほど”の定義は変わってくるしな」

それが一番の問題だった。“ほどほど”の定義が全人類で一致していれば、ルールの是非について、こうして悩むこともないだろう。

「まあ、自分の見解ではですけど」
梅川はさらに続けた。
「大昔と比べて、人間は賢くなってきたと思いますよ。人によって異なり、安定しない“ほどほど”を集計して、体系化した“法律”を守ることに際しても、“ほどほど”が要求されているわけですから」

ほどほどを信仰することもほどほどに。ほどほど依存症に注意。ルールというシステムの限界を考えることは、そんな馬鹿げたことなのだろうか。頭が混乱してきた。これ以上は堂々巡りで不毛な会話になる気がする。そう考えているうちに、腰のポケットに入れていた端末が振動した。きっとセキュリティをガチガチに固めた本部からの通知だろう。竹田が端末をいじっているうちに、梅
川はメッセージを読み上げた。

「市民からの情報です。県内で不審な荷物が無人トラックに積み込まれるのを見た。との通報が」

捜査に関わる情報が与えられ、竹田の脳は不毛な妄想から抜け出した。

「こっちで確認された無人トラックを調べ上げるぞ。それと、長門とつながりのある人間をあぶりだす」

竹田は最低限の荷物をまとめ、外回りの支度を始めた。しばらくは靴底をすり減らすことになりそうだ。

「長門は単独犯ではない。内通者がいるはずだ。長門が自供しないのなら、自力で突き止めてやる」



「尊敬するなあ」

佐賀美の心は柄でもない冗談を言うほど浮き上がった。消えそうなところで繋がった真相への糸は、糸どころか極太の手綱のようだ。

「先生ってそんな凄い人の知り合いなんですか」
「いや、こんなことにならなければインタフェースに興味持たなかったでしょ」

近江は、佐賀美の態度の変わりように突っ込みを入れた。彼女は苦笑いを浮かべつつ、内心では決してそうではないと思った。こんな事件が起こらずとも、自分はインタフェースについて知ろうとしただろう。

「で、その教授とは会えるんですか?」再び本題へ戻り、問いかけた。
「ああ」なぜか、彼の目元が遠慮がちになる。
「彼は駿河区に住んでいる」
「駿河区⋯。駿河区。ああ、静岡県か」
近江がいきなり教授の名前を出してこなかった理由を悟った。連絡が取れる場所とはいえ、東京都から遠く離れた場所に住んでいるのだ。近江が通っていた大学がどこなのか考えたことは無かった。
「先生、静岡の大学に通っていたんですか?」
「うん。実家はこっちだけどね」 
手元には確かな手綱がある。情報を得るためなら、そのぐらいの距離は取るに足らない。だが、事件の起こった立川市周辺を離れるだけでも、重要な情報を逃してしまう気がした。

「ところでなんだけど、佐賀美の作ってるコアユニットってやつ、どこに流れてるんだい。」

彼女の葛藤を察したように、近江が話題を変える。

「どこだったかな。どうして?」佐賀美は質問の意図を尋ねた。
「今、泉森のインタフェースと、未使用インタフェースのプログラムを解析して比較したんだけど、君の工場で事件当日に作られたコアユニットと、事件発生以降に作られたコアユニットも比較しないと、原因は分からないんじゃないか」

近江はアーバンメカトロニクス立川工場で生産している機器のことを知っている。佐賀美は感心した。

「そうね。私はコアユニットに原因があると思って、事件発生前のコアユニットを分解していたけど、事件発生時のコアユニットを調べなきゃ意味がない」

工場内部のあらゆる原因が調べつくされ、後はインタフェースくらいしか疑う要素がないという所まで来ていたわけだが、あの時間に製造したコアユニットに関しては、調査の手が及んでいない。事件発生当日、9人が同時に昏倒し製造は一時ストップした。しかし、それまでに生産されたコアユニットは梱包され、出荷された。もしも、「あの時間帯」に製造されたコアユニットに原因があるとすれば、取引先の工場、ひいては、完成したロボットの製品を購入する消費者にまで被害が及ぶ可能性がある。そうなってしまえば、「不可解な事件」では済まされない。沸き上がってきた焦燥に駆られ、立川工場のデータベースを調べた。端末を指でこすっているうちに、息をのんだ。

「うちのコアユニットは、浜松のロボット工場に回されてる。山城重工株式会社・浜松工場。事件当日の物も、そっちに流れたはずです」
「浜松なら、静岡駅から一時間くらいで着くはずだ」

あくまで可能性の一部とはいえ、自社製品が外部に危害を及ぼすかもしれないとなれば、迷っている暇はない。

「どうだい、君も来るかい」

近江は、またもや斜め上を行く提案をした。これでは、質問を質問で返すしかなくなる。

「君もって。先生、静岡に行く予定があったんですか」
「サイコ・インタフェース資格三級の講習を受けにね。教授の実家に直接馳せ参ずるよ」

近江を先生と呼んでいた割に、彼が先生だということをしょっちゅう忘れてしまう。
教師も絶えず勉強しているのだ。
つまり、彼はもともと予定していた静岡行きに、佐賀美を連れて行こうとしているわけだ。偶然、事件と自分の都合が重なったからだが。

「明日出かけるつもりだったんだ」
「いきなり部外者の私が押しかけて、大丈夫?」
「それは僕から連絡しておく」

今日は夜遅いので、先方に電話をいれるわけにもいかない。明日電話をかけたとして、その日のうちに訪ねるというのは、さすがに無理がある。うまく交渉しても山城重工の工場に向かうのは明後日になりそうだ。
二人は急いで、新幹線チケットや、時刻表を確認した。

「あとは、君の会社の問題だ」

近江は、最終確認をするように尋ねた。彼女がそこまで自由に動けるのか心配しているのだろう。だが、問題はなかった。

「会社の問題もなにも、明日と明後日は休日ですから」

そもそも近江が出かけるタイミングを明日に設定したのも、明日と明後日が土日だからだろう。明日の予定は空白だ。

「じゃあ、決まりだな。静岡旅行だ。楽しんでいこう」

この個人的な出張が旅行と呼べるほど気楽なものではないことを承知の上で、近江は皮肉を言っている。近江の真意を理解した上で、佐賀美は突っ込みを入れた。

「そんな気楽なものじゃないですよ」



ある建物の一室で、灰色のスーツの男がソファに腰かけている。豪華という言葉からは程遠い、荷物を後方へ押しのけた倉庫のような場所だ。扉の反対側には高々と段ボール箱が積み上げられ、大きい安物のソファは中央に置かれている。この部屋は、不要になった備品をかき集めて構成されている。

「甲斐さん」

紺色のスーツの男が灰色スーツを呼ぶ。紺色スーツは若く、薄い眼鏡をかけており、身長が平均より高い。一方、甲斐と呼ばれた灰色スーツの男は30代後半くらいの風貌だった。

「長門さんが逮捕されたそうです」
彼は、仲間が逮捕されたにして冷静な口調で報告した。
「彼にとってはそれも計算内だ。焦る必要はあるまい」
「承知しております。彼はあれが完成するまで、何一つ喋らないでしょう」

長門が逮捕されたことが予定調和であるかのように、紺色スーツが言い返す。

「それともう一つ」
「なんだ」
「非常に興味深い情報が送られてきました」

紺色スーツは、抱えていたタブレットを開き、画像を確認し始めた。

「取引先からです」
「新しいクライアントか?」
「いいえ、例の取引先からです」

抽象的な発言に、甲斐は苛立ちを覚えた。素性を明かさず、メールだけを寄越してくる「取引先」は、はっきり言って不気味だった。
「じきにわかります」そう言って、画面を甲斐の顔に向ける。

「この女です。アーバンメカトロニクスの品質管理課に勤めている」
男の取り出した端末には彼女の顔写真は記載されておらず、“佐賀美サツキ”という名前と、一般人には理解できないような数値が列挙されていた。

「すごいな」

数値の意味を理解し、甲斐は感心したように言った。

「しかし非常に厄介な相手です。今のうちにおさえておく必要があるかと」
「とうとう、クレイ・ドールのお披露目というわけか」

紺色スーツの男は返事をせず、代わりに乾いた笑いを見せた。



佐賀美は近江と別れ、暗い夜道に足を踏み入れた。
外の乾いた空気は一瞬で彼女の体温を奪った。同時に、近江と会話している間は麻痺していた一週間分の疲労が肩にのしかかり、明日からの行動が不安になる。普段より長く感じる道のりを歩き、アパートの自室にたどり着くなり、火傷しそうな温度のシャワーを全身に打ち付け、這うようにベッドに倒れこんだ。
過剰な情報がストレスの原因になるという説は、どこかの記事で読んだことがあった。現代人のストレスの原因はインターネットとSNSによるものだと、記事の作者は批判的に述べていた。その記事を読んだときはまだ学生で、情報が疲労に変わるという感覚は理解しづらかった。きっと外界から切り離された時間を十分に楽しむことができたためだろう。
黒い掛け布団をかぶり、今日1日に取り入れた情報、それもインタフェースで取り入れた情報と実際に見聞きして取り入れた情報の両方を思い起こす。事件が発生せずとも行っていたであろう普段の仕事と、事件についての新しい調査の件と、近江と組み立てた今後の調査の件。それぞれは単純な情報でしかないので、自分の頭の中でぐるぐると行き来させ、整頓する必要があった。
ところが、ここ最近は思考に霧があるような気がして、うまく頭が働かない。今こそ頭を働かせるべきなのに、脳が言う事を聞いてくれない。無理して考えようとすると、今度は、なぜか胸の奥が渦巻いてくる気がした。

 

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