zorozoro - 文芸寄港

ジャンクション=インターフェクション

2024/07/08 14:10:49
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「ようこそ、こちら側の世界へ」

長方形の机を隔て、黒いクレイ・ドールが言った。その声は、間違えようもなく泉森ヤヨイのものだ。この体には口がないが、クレイ・ドール同士では直接対話することができるらしい。最近はあまり耳にしない、テレパシーという奴だろうか。

「あなた、ヤヨイなの?」

信じ切れず、佐賀美は尋ねた。

「口調を変更しましたので、不自然に思われるかもしれませんが、そう思っていただいて結構です」

佐賀美は泉森の変わりように、言いようのない不快感を覚えた。この機械のような口調が、彼女が泉森であるという事実を受け入れられない最大の原因だった。彼女の言葉遣いには敵意こそみられないが、事実だけを淡々と述べる機械のような冷淡さが感じられる。

「そうだ。そこまでの知識をため込んだ人間が一体どうなってしまうのか、私には想像もつかない」

ふと、山門の言葉を思い出した。彼の言う通り、泉森は人間が手にすることのできる限界以上の知識を得たのだろうか。そして、別人のように変わってしまったのだろうか。

「普段のあなたなら、そんな言葉遣いはしない。何かきっかけがあったんでしょう?」

佐賀美の問いかけに、黒いクレイ・ドールはためらわず返答した。

「ええ。わたくしは5日前、工場の方々と記憶を共有しました」
「そうして、あなたは普段より賢くなった」
「ええ。“記憶の共有”を行っていない誰よりも真理に近づいたと言えます」

佐賀美はさらに追及した。

「この計画を立案したのはいつから?私とコーヒーを飲んだ時にはもう構想していたの?」

泉森は佐賀美とコーヒーチェーンを訪れた次の日に昏倒したのだ。これだけ大規模な計画がその間に構想されたとは考えにくい。
しかし、彼女は佐賀美の考察をことごとく否定した。

「いいえ。この計画を立案したのは、5日前のことです」
「5日前って、あなた達が初めて昏倒した日、いや、あなた達が初めて実験を行った日じゃない?」
「そう、この計画はすべて、あの瞬間に完成したものです。あの瞬間より以前のわたくしは精神的に脆弱でした。しかし、それを克服する方法を、インタフェースとコアユニットが共鳴したその瞬間、閃いたのです。その方法は、同じレーンの望月さんの考案でした。この瞬間、わたくしは望月さんと記憶を共有したのです」

その瞬間が泉森にとってのターニングポイント。あるいは原罪の瞬間だったというわけだ。アダムとイブが知恵を手にした代償として楽園を追われたように、泉森も知恵と引き換えに人間の肉体を追われた。しかし、彼女は自ら人間を捨てることを選んだ。

「最初は偶然だったのね」
「そう。その日、私は初めてインタフェースを装着して業務に従事していました。しかし、突然目の前が白い光に包まれ、わたくしは、無の空間に放り投げられました」

コアユニットに人格が移行した瞬間のことを言っているのだろう。

「そのメカニズムも、すぐに解明できました。コアユニットはほぼ無限とも言える容量を持つ記憶装置です。もし仮に、インタフェースから逆流した装着者の人格が流れ込んできても、問題ない容量です。こうして、わたくしの人格はデータになった」

人間の人格や記憶はデータ量としては気が遠くなるほどの大きさだが、コアユニットはそれを受け止めるほどのポテンシャルを秘めていた。

「そして、肉体の枷を外し、無の空間をさまよっていたわたくしは、そこであるものを発見します。それがわたくしと同じ状況に置かれた望月さんの記憶と人格でした。最初は興味本位でした。しかし、望月さんと記憶を共有した瞬間、世界が逆転するような衝撃を受けました。飢餓感にも似た知識への欲求を感じた私は、残り七人とも即座に記憶を共有しました。」
「そして九人分の思考を取り込んだあなたは、全員分の叡智を手に入れた。と」

そこで、佐賀美は不可思議な事実に気が付いた。記憶がすべてデータ化し、そのすべてを他人と共有したのなら、自分と他人の境界線はなくなってしまうはずだ。

「個々の人格を構成しているのは、それまでの人生、つまり記憶でしょう?なら、記憶の共有を行ったら、自分と他人の区別がつかなくなるはず」
「その心配はありません。たとえ他人と記憶を共有しても、“わたし”という概念がゆらぐことはない。他人の記憶というものは、いわば映画と同じものです。映画を見ているからといって、自分が物語の主人公だと本気で錯覚することはありません。記憶も同じなのです。メインとなる自分自身の記憶と感情は、確固たる地位を保ち、他人の記憶はそれを補助する道具の域を出ません」
「ただ、知識として他人の記憶を得るだけ。それで賢くなったとしても、他人が意見をまとめた本を読んだのと同じ。ってこと?」
「その通りです。そして、これによってどんな事が可能なのか、わたくしは考えました。そして、その答えは一瞬で導かれました」

さすが九人分の知恵。佐賀美は心の中で皮肉を送る。泉森が何をしようとしているのか、佐賀美にはすでに分かり始めていた。

「誰よりも知識に貪欲になったあなた達は、全人類の記憶を欲した」
「少々語弊がありますが、間違いでもありません。そして、この計画の成立には、中枢となる我々の人格データを安全に移動させる器が必要不可欠でした」

コアユニットはただの筒で、手も足も生えていない。泉森達には計画を遂行するための新たな肉体が必要になったわけだ。そして、偶然にもわが社の取引先、山城重工の社員たちが長門キサラギとともに、その器にふさわしいものを開発していた。

「その器が、このクレイ・ドールというわけ?」
「その通りです。彼らは、極限までヒトに近づけた関節構造を持つクレイ・ドールを開発しました。しかし、それを人間と同じように動かすことは難しかった。なぜなら、プログラムできる動作の細やかさには限界があるためです。そこで、我々は彼らに取引を持ちかけました。彼らの目的である、人間そのものの動きを実現することを条件に、彼らからクレイ・ドールを買い付けました。我々九人の人格と紐づけされたコアユニットは浜松へ出荷され、そこでクレイ・ドールに格納されました」

コアユニットには手も足も存在しないが、人格をデータ化した泉森達には、肉体を失ったまま甲斐たちに匿名のメールを送ることなど容易だろう。

「私たちを殺そうとしたクレイ・ドールの正体も、あなた達なのね」
「当初は、排除することが適切であるという判断がなされました。あなたの、インタフェースに対する異常な適性と、性格は我々にとって脅威となりえるためです。しかし、私の命令により、それは中止しました。私は、あなたが我々のよき仲間となることを信じてやみません」

何もかもが理解し難い真実で、頭を覆いたくなった。幸いなことに、クレイ・ドールには顔がないため表情を表に出さずに対話できる。外面では冷静に、泉森に質問を続けた。

「あなたがどうやって計画を組み立てたのか、それだけは分かった。でも、まだ知りたいことがたくさんある。なぜ、世界中の人間の思考を盗みとろうとするの?それは、あくまで知識への欲望のため?それは、法を犯してでも手に入れたいものなの?」
「少々誤解があるようです。我々の目的は、他人の記憶の強奪、またそれを応用した犯罪ではありません。幸福を生み出すという点において、犯罪行為がそれほど有意義な手段ではないと、我々は理解しています」

他人の記憶を盗み見る。犯罪者にとっては夢のような話だ。賭博では相手の手札を筒抜けにできるし、金庫の場所や暗証番号、さらには留守の時間までまるわかりだ。しかし、九人分の知識を得た人間が、そんなケチくさい犯罪に手を染めるだろうか。

「確かにその通り。あなた達はもう九人分の思考を共有しているのだから、それはすぐにわかることね。じゃあ、あなたはなぜ、こんなことをしているの?」
「その動機を説明するためには、まず、我々がこの計画を実行するに至った経緯をご説明せねばなりません」

話が込み入ってきた。脳裏に苦悶の表情を浮かべる近江の姿が思い浮かぶ。梅川がいるとはいえ、彼が心配だ。だが、今は泉森の真意を確かめなければならない。

「わかったわ」

佐賀美が小さく答えると、黒いクレイ・ドールは右手を高く掲げ、パチンと指を鳴らした。こんな芸当までできるのだから、このロボットは本当に器用だ。しかし、彼女を飲み込む本当の驚きはこれからだった。
小さな部屋の風景がテーブルクロスを引くように、一瞬で暗闇に変わる。黒いクレイ・ドールも、佐賀美のクレイ・ドールの体も暗闇に消えた。今の彼女には手足も顔もなく、ただ魂だけがさまよっているような状態になる。
ようやく気が付いた。これが泉森の言っていた、「無の空間」だ。
今まではクレイ・ドールの肉体を手にしていたから五感を保持していたのであって、コアユニットに人格と記憶だけが流し込まれた状態というのは、こういう状況なのだろう。ひどく暗く、上下もなく、深海に沈むような不安が襲ってくる。こんな場所に一人きりでいたら気が狂ってしまいそうだ。

「我々九人は、以前からそれほど面識があった訳ではありません。しかし、皆、共通の命題を持ち合わせていました。それは、なぜ人間社会に不条理が存在するのか。という疑問です」

すべての感覚がなくなったはずなのに、相変わらず泉森の声だけはどこからか響いてくる。
肉体があれば眉をひそめただろう。今までとは、まったく方向性の異なる話題だ。
ただの暗闇だった視界に、過去のニュース映像が流れ込む。それは泉森達の記憶から抜き出したものらしく、ところどころ映像が虫食いだったり、ぼやけていたりする。しかし、それぞれの番組が何を放送しているかは明白だった。それらは過去に発生した凶悪な殺人事件の報道だ。

「それは、どういう意味?」

疑問を転送する。今の佐賀美には口どころか通信機能もないが、泉森と対話することだけはできた。

「理不尽、と言い換えた方が分かりやすいでしょうか。たとえ話になってしまいますが、落ち度のない善良な市民が通り魔に襲われ死亡したとします。そして、よほど同情すべき境遇があればまだしも、その通り魔は衣食住に恵まれ、善良な家族もいる人物でした。そして、やがて、刑期を経た殺人犯は釈放され、被害者はこの世に帰ってくることはありません。こういったものが、この世の不条理です」
「たしかに、そういう話は世界中に、溢れかえるほどある。今のは特に顕著な例だと思うけど」

おそらくこれは犯罪に限った話ではない。人を見下したり、他人の意見を認められない他人と出会い、心に傷を負うケースは、犯罪に関わりのない人間の周囲でも頻繁に発生している。電子機器の発達は、その構図をより顕著にしてしまった。佐賀美が確証を持って言えることは、犯罪は誰も(犯罪者さえも)幸せにしないという事だ。仮に、法を犯すことでしか幸福を得られない精神構造の人間がいたとすれば、その人間は生まれながらにして世界から否定されていることになる。自分の幸福と他人の幸福が嚙み合わない人生が楽しいわけがない。

「この話で不思議に思われるのは、なぜ、恵まれているはずの犯人は犯罪を犯したのかという点です。これは、なぜだか分かりますか」

大学講師のような口調で、泉森の声が問いかけてくる。

「そうね。今ならわかるかもしれない。犯人は自分の精神に恵まれないか、他人に共感できない人間だった」

犯罪は動機なしには行われない。動機は、つまり欲求によって裏打ちされている。そして、欲求とは、すなわち葛藤である。飢えていて食べ物が欲しい。でもお金がない。だから窃盗する、というように。

「仮に、その犯人の動機が誰でもいいから人を殺したい。というものだと仮定すると、それが抑えられないくらい強い欲求が生まれていた。と推測できる。馬鹿馬鹿しい気もするけど、周囲から虐待されているわけでも、命の危機が迫っているわけでもないのに、人間は簡単に心を病むのよ」

相模は自分の就活生時代を思い返した。家族は皆、出来すぎているほどに常識人だった。周囲の同級生は、自分よりも能力に優れており、それを見せびらかそうともしなかった。だから、自分があまりにも小さな存在に感じて、周囲から厳重に守られていることが苦痛だった。
しかし、考えてみればそれは贅沢な話だ。家族に暴力を振るわれる子供も、凄惨ないじめを受け続ける子供もいる。もちろん、そうした事情は犯罪を犯していい理由にはならないが、何不自由ない生活を送る人間にも、凶悪な犯罪者は生まれる。幸福な人生を幸福と思えない自分には、「この世の不条理」になりうる素質があったというわけだ。
また、単純な憎しみからくる暴力も、元をたどればそういった「不条理」にたどり着く。

「そうして誰のせいでもない人生に悲観した誰かが、取り返しのつかない犯罪を起こしてしまうのね」
「おっしゃる通り。しかし、日本、いや、世界の現状をご覧になってください。各国が行っているのは、犯罪者を摘発し、投獄することだけ。それでは犯罪の芽を摘むことにはならない。目に見える異常だけを改善するのではなく、原因を逆算して追及する必要があることを、品質管理課のあなたならご存じでしょう」
「ええ。耳にタコができるくらい、聞かされる」

泉森や佐賀美が生まれてから目にしてきたニュースには、何度も痛ましいものがあった。同情の余地がない凶悪な犯罪が起こるたび、人々は「悪は悪でしかない」という結論に達するほかなかった。犯人が社会の恩恵を十分に受けていたなら、これ以上どうすればよかったのかと。
ニュース映像がコメンテーターの映像に切り替わり、不快感をあらわにした男性の表情が映し出された。音は聞こえなかったが、佐賀美はこの番組に見覚えがあった。彼は、たしか「こういう事件が起こると個人が悪いのか社会が悪いのかっていう話になりますけど、個人に決まっているじゃないですか」と言っていた気がする。
罪を犯す直前まで追い込まれている人を救うことが、最善の方法であることは分かっている。だが、それは理想論ではないだろうか。

「でも、他人に共感できない思考って、そもそもどうやって改善するの。全人類をカウンセリングにかけて、そういう兆候がある人を治療するの?」
「現実的に、それは不可能です。しかし、ガジェットとインタフェースを併用することで、別の方法が可能となりました」

泉森はこの質問を待っていたらしい。論旨からずれた凶悪犯の話も、そのために用意したのだろう。佐賀美も泉森の影響を受け、わずかに聡明になったのかもしれない。彼女の言わんとしていることは、すぐに理解できた。

「まさか、それが」
「そう。それが記憶の共有です。話し合いで相手の主張が理解できなくても、その主張を行う相手の精神性が理解できれば、この世から紛争はなくなります。犯罪以外の手段で自分を幸福にする方法が見つかれば、この世から犯罪はなくなります。理不尽な犯罪も、他人への攻撃も、無知であるがために発生する事象なのです」

まるで企業のプレゼンテーションのようだ。ニュース映像は徐々に消えていき、人々が手を繋ぎ合ったり、抱き合ったりして喜びを分かち合う画像に変わっていく。
人間は誤解なく分かり合うことができる。他人に共感できなくても、他人の主張の根拠の一部を理解すれば、他人を赦すことは容易だ。おそらく、泉森は近江と同じ内容を主張している。
彼女はそのまま続けた。

「もう少し分かりやすく言い換えましょうか。今の人類は、価値観が非常に多様化しています。それ自体は、種の存続という点では良い傾向で、必然であると考えられます。しかし、多様化は分断を生みます。互いに別々の正しさがあるとはよく言いますが、それは同時に、別々の間違いも孕んでいるという意味です」
「間違いとは?」佐賀美の疑問に、泉森は答えた。
「“倫理的”な間違いではなく、“論理的”な間違いのことです。わたくしは、この世に善も悪もないと思いますが、正しさと間違いはあると思っています。誰かが1+1が3だと言えば、それは間違いでしょう。」
1+1が2であることを、「正義だ」とは言わない。それは「正解」もしくは「定理」だ。
「つまり、間違いとは、単純なデータの齟齬でしかありません。そこに感情は介在しないのです。我々は閃きました。この世に発生する争いは、すべての人が無知からくる間違いを犯しているために起こるのではないかと」

泉森は人間社会に巣喰う闇の本質を、間違いという形に集約したのだ。

「そうか。ようやくわかった。あなたたちの目的」
「そう、我々の目的は、記憶の強奪などではありません。すべての人が、記憶の共有を気軽に行い、他人と誤解なく分かり合える未来の構築です」

暴力は憎しみに起因する。憎しみは理不尽に起因する。しかし、人間はよく理不尽をはき違える。自分の人生に悲観したからと言って、人を傷つけても幸せになれるわけではない。それは普通の精神状態の人からすれば当然の事実だが、苦しみの中にいる当人はそれに気づかない。自分の人生が振るわないのは他人のせいだという「間違い」を犯し、それに付き従って進んでしまう。そうならないためには、すべての人間が賢くあればいい。
佐賀美は、その主張の一部には共感できた。人は、いつも自分がすべて正しくて、相手が間違っていると考えがちだ。しかし、すべての情報を客観的にデータ化すれば、どちらが正しいかははっきりする。自分が取るべき行動は、すぐに見つかるはずだ。
それでも、彼女のやろうとしていることには賛成できなかった。

「でも、本末転倒よ。あなたは犯罪を消すために、犯罪に手を染めた」
「わたくしは悪を撲滅すべきとも、法を順守すべきとも言っていません。間違いを正すべきと言っているのです」
「でも、泉森ヤヨイの中の間違いがことごとく修正された結果、あなたはあなたでなくなった」

こういっては何だが、本来の泉森は論理的に間違いだらけで、おかしな人間だ。しかし、それが彼女の最大の魅力でもある。今聞こえてくる泉森の声とは正反対だ。
相手は佐賀美の持論にことごとく反論する。

「人生において、経験に影響され、考え方が変化することは珍しいことではありません。あなただってそうでしょう」

痛いところを突いてくる。確かにその通りだ。高校生の自分と今の自分はまるで別人だ。しかし、この泉森とは決定的な違いがある。佐賀美は“自分自身の選択”によって考え方を変えた。

「それは、自分の意思で思考を変えた場合だけ。あなたのその思考は、機械に植え付けられた偽物よ」
「本物であろうと、偽物であろうと、この考えは揺るぎません。人間は歴史の中で学び、道徳を進化させていく生き物なのです。そして、これが、新時代の道徳なのです」

確かに、従来の道徳は、宗教にせよ教育にせよ、人間の清廉な感情に根差している。人を愛し、思いやることの素晴らしさ。平等性とルールを順守する清らかさ。しかし、こうした教えには、どうしても教えを説く者の主観が入ってくる。それを伝える者にとって都合の良い解釈が持ち出され、容易に人は洗脳される。だから、泉森達はそれを廃止し、新たな道徳を普及しようとしている。そこにあるのは、どうすれば最も効率よく物事を進められるかという論理で、そこに感情は交わらない。そこには静かな安らぎだけがある。
感動的な画像が消え、暗闇が捌けていく。小さな部屋の空間が戻り、目の前に黒いクレイ・ドールが再び姿を現した。佐賀美は戻ってきた右手で黒いクレイ・ドールを指さし、言った。

「あなた達九人はたまたま適性が高かっただけ。同じことを全人類に行ったところで、すべての人間が記憶を共有することはできない」

インタフェースを装着したままコアユニットに近づいた人間は、泉森達以外にも多くいたはずだ。しかし、実際に記憶と人格のデータ化が行われたのは泉森達九人と、佐賀美だけだった。

「そうですね。あなたやわたくしが記憶のデータ化に成功したのは全くの偶然。生まれつき適性があり、条件に合致したというだけです。望月さんたち八人は適性があった訳ではない。彼女らはインタフェースを装着し、その場に立っていただけ。私のインタフェースから連鎖反応を起こし、同じような現象が起こった。これは単純な奇跡なのです。おそらく、同じような現象が起こる日は二度と来ない」

隕石が落ちてきて頭に直撃するとか、同じ日に生まれた子供にすべて同じ名前が付けられるとか、ありえない確率の出来事はいくらでも思いつくが、すべてに共通していることは、それが何億分の一の確率であっても、ゼロではないということだ。泉森は、その確率を引き当てた。インタフェースとコアユニットの特定の条件が奇跡的に重なり、サイコ・インタフェースの「記憶を逆流させることはできない」という原則を覆した。

「だからこそ我々は、その奇跡を成就させます。そのためにすべての人間に、知識への欲望を与える」
「どうやって?」
「あなたならご存じでしょう。インタフェースの基本機能を」
「そんなの、単純な情報を脳に送り込むことだけ…」

言葉が詰まり、動けなくなった。今の泉森の手には、泉森のものも含めた九人分の記憶がある。それはすでにデータ化され、単純な情報と化しているではないか。

「まさか、あなた達の記憶を」
「そう。インタフェースを装着したすべての人間の脳内に流し込みます…」
「正気なの?人間九人分の記憶よ。そんなものを生身の人間に流し込んだら、脳が焼き切れる」
「いいえ。データは人間の脳の容量に応じて圧縮され、必要に応じて引き出されます。それに、人間の脳はそれほど貧弱ではありません。我々は種をまくだけ。あとは知識への飢えに耐えかねた人間が自発的に適応性を乗り越える方法を編み出し、やがてそれは全世界に広がる。富裕層だけのものだったタブレット端末が、原住民族にまで広がったように」

泉森達にとっては、この技術はすでに常識なのだ。そして、想定される未来ももはや夢物語ではない。現実そのものだ。

「本当はここであなたの理解を得て、協力を仰ぎたかった。残念です。しかし、あと十数分で、クラウドに我々の記憶がアップロードされる。インタフェースの自動アップデートで、それが彼らの脳に入り込みます」

佐賀美はぞっとした。自分は九人の記憶を受け入れるかという選択を与えられ、それを拒否する権利を有していた。しかし、一般の人間にはその防壁さえもない。ただわけもわからず、他人の記憶が脳に流れ込むのだ。そして、彼らは善悪ではない「間違い」を排除することに躍起になり、自ら自分の記憶を他人へ差し出すようになる。

「洗脳だ!」佐賀美は激昂した。
「他人に、いや、機械に押し付けられた幸福なんて、誰が認めるの!?」
「もう遅い。しかし、あなたも理解するでしょう。間違いのない、だれもが聡明である世界のすばらしさを」
「ヤヨイ!」

佐賀美は叫ぶが、自分の声が驚くほどに小さく聞こえる。黒いクレイ・ドールの姿がすぼまり始めた。視界が再び狭まっていく。意識が暗闇へと沈み景色が急激に遠ざかっていく。視界は歪み、やがて完全に流転した。

「がみ、さがみ、佐賀美!おい!佐賀美、大丈夫か!」

全身を貫くような痛覚とともに蘇ったのは、近江の声だった。



「先生⋯」
佐賀美は弱弱しく呟き、うっすらと瞼を開けた。傷のせいか、手足は思うように動かない。隣で、右腕に包帯を巻いた近江が腰かけている。佐賀美は横向きに寝かされていた。

「よかった。深刻な怪我なんじゃないかと」
「先生は自分の心配してください」

佐賀美の言葉に、近江は力なく笑う。

「いや、教え子の身のほうが大事さ。梅川さんが救急車を呼んだ。もうすぐ来るから安心だよ」

梅川が野次馬を押しとどめている様子を一瞥すると、佐賀美は真剣そのものの表情で告げた。

「私、今、ヤヨイと対話してきたんです」
「泉森と?」

一つ一つ丁寧に説明したいところだが、そんな時間はない。泉森が黒幕だったことを冷静に伝え、彼女の計画を説明した。

「あと二十分もしないうちにヤヨイたちが計画を実行する。彼女の目的は、他人の記憶をのぞき見することじゃなくて、すべての人がすべての人の記憶を見られるようにすることだった。彼らは九人分の頭脳を抱えた結果、そういう思考にたどり着いたの」

近江は終始言葉を失っており、言葉に詰まる様子だった。折れていない左手を広げる。

「半分も理解できたかわからないが、あと二十分なんて、どうやったって間に合わないぞ」
「それに、ヤヨイたちが使うクレイ・ドールは、今東京にいる」

佐賀美には確信があった。あのコンテナのような部屋は、アーバンメカトロニクス立川工場の倉庫の一角だ。山城重工と同じように、あの工場にもいくつかデッドスペースが存在する。泉森はあの場所に身を隠し、クラウドに情報をアップロードする気だ。それを止めるには、あの黒いクレイ・ドールを破壊するしかない。

「いよいよ手詰まりか」

近江は諦めるようでいて、どこか期待するような声で言った。そういう意味では、彼の直感は正しい。佐賀美は最後の手段を用意していた。

「今考える限りでは、一つだけ方法があるの」

火には火をもって立ち向かうしかない。ずっと握りしめていたコアユニットを近江に見せた。そして、ポケットから佐賀美の物とは違う、もう一つのインタフェースを取り出す。昨日からずっと携帯し続けていた、泉森のインタフェースだ。

「クレイ・ドールを活用した作戦は完璧だったけど、私がヤヨイのインタフェースを持ち出していたことは盲点だったみたいね」
「これをどうする?」
「これを使って、東京に送られたクレイ・ドールのうち一体に私が入り込む」

佐賀美自身はインタフェースを持っていないが、調査のために持ち出した泉森のインタフェースが手元にあった。

「君が?でも、そうしたら、君はあの九人と同じ状況に置かれることになる。君まで、思考を機械に浸食されるかもしれないぞ」

近江が警告するが、同じ状況を二度経験している佐賀美は絶対的な自信を持っていた。

「大丈夫。私は私を貫くから。だから、信じて」

佐賀美の濁りのない仁美を見て、近江も彼女の意思を肯定した。

「わかった」

気が付くと、正面から受話器を耳に当てたまま、梅川がこちらに走ってきた。彼女も外傷はないにせよ打撲しているらしく、ぎこちない走り方だった。

「どうかしました?」

焦りつつ、尋ねる。梅川はあたふたしながら携帯を差し出してくる。

「意識が戻ったんですね。実は、あなたの会社の上司から何度も連絡がありまして。」

おそらく課長からだろう。佐賀美の携帯に直接つながらないと知るや、事件に巻き込まれた可能性まで考慮し、浜松市の警察署までかけてきたということか。起点が効くというべきか、執念深いというべきか判断しかねるが、休日に課長がそこまで必死に動いたという事実に、尋常ではないほどの胸騒ぎがする。梅川に礼を述べ、彼女が差し出した携帯を受け取る。

「はい佐賀美」
「君か。携帯を落としたらしいな。いや、そんなことはどうでもいい。今どこだ?」
「浜松です」
「そうだよな、浜松だよな。いや、そんなことはどうでもいいんだ」

課長は相当焦っている。こっちこそパニックに陥りそうだが、佐賀美はどうにか諫めた。

「課長、どうか落ち着いて。何があったんです?」佐賀美が聞くと、課長はすぐ答えた。
「あの九人の容態が急変した。呼吸が止まってる」

佐賀美は絶句した。彼女らは、すでに退路を断とうとしている。人間の肉体を捨て、機械と融合した完璧な生命に成ろうとしている。課長に出来る事がないことは分かっていたが、釘を刺さずにはいられない。彼女らの肉体が死んだら、すべてが無駄になる。

「絶対に持ちこたえさせてください。それ以外は私が何とかします」

課長は沈黙した。おそらく困惑しきっているのだろう。

「それじゃあ。時間がないので」

佐賀美が会話を結ぶと、課長は食らいつくように質問を重ねてきた。

「一体どういうことだ。君はどういう状況なんだ?おい、待ってくれ、報連相が大事だっていつも」
「ごめんなさい!」

佐賀美は謝罪と同時に通話を切った。無言でインタフェースを首にかける。そこからコードを伸ばし、コアユニットに接続する。

「佐賀美」

近江が呼び止めた。もう時間がないが、彼の目は真剣だ。

「なんです?」
「君は本当に強くなった。もう、高校の時のか弱い女の子じゃない。でも、これだけは約束してくれ。君は向こう側に行ってはダメだ。泉森達を連れて、必ずここに戻ってくるんだ。それは僕にはできない。今それができるのは、君だけだ」
「わかってます。先生」

佐賀美は微笑み、頷くと、ゆっくりと目を閉じた。

「じゃあ、行ってきます」

今度こそ消されるかもしれない。近江にも会えなくなるかもしれない。それでも、泉森を連れて帰ることは、絶対に揺らぐことのない意思だ。
もう覚悟は決まっている。

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