zorozoro - 文芸寄港

ジャンクション=インターフェクション

2024/07/08 14:10:49
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岩城は無表情を貫いたまま、清潔そのものに保たれた通路を歩き続ける。第一印象の通り乾いた性格なのかもしれない。

「我々の工場では6日前に入荷したコアユニットを組み込んでいます。当日に製造されたコアユニットは倉庫にあるはずです」

歩き続ける岩城の隣で、佐賀美は丁寧に謝辞を述べた。確定していないとはいえ、自分の会社は取引先にとんでもない製品を送り付けたかもしれない。
その製品とはつまり、人間の人格を吸い取ったりデータに書き換えたりするような機能を上乗せされた欠陥品のことだ。佐賀美も昨日あのロボットに襲われさえしなければ、馬鹿馬鹿しい妄想だと一笑に付していたことだろう。

「倉庫は工場の一番奥にありますから、もしよければ見学者用の通路を見て回りませんか」

岩城は用意していたのであろう台詞を流暢に述べた。

「ええ。そうさせていただきます」

佐賀美は誘いに乗った。ここから倉庫まで回り込んで行くよりも、工場内部の見学者通路を突っ切って進んだ方が近い気がする。しばらくの間、再び沈黙が訪れ、その間に二人は迷路のような通路を進んだ。フラットホワイトが均一に塗装された壁面は張り紙などもなく、永遠に同じ景色が続くような錯覚を起こさせる。しかし、それは錯覚に過ぎずと通路は唐突に姿を現した扉で途切れていた。

「こちらから見学者通路となります」

佐賀美は、中学生以来の工場見学に静かな懐かしさを覚えた。もちろん、それは客として他社の工場を案内されるという体験に対しての感情で、しょっちゅう足を踏み入れている工場自体に心が浮き立つことはない。
しかし、開かれた扉の先の光景を目にした時、その前提は揺らいだ。
小窓から見える光景は壮大なSF映画のワンシーンのようだった。
ゴンドラのように、あるいは観覧車のように未完成状態のカニロボットがロープに吊るされ、レーンに沿って次々と運ばれていく。カニロボットの脚に当たる部分を接続する工程らしく、全自動のロボットたちが、まるで触手のようにカニロボットに絡みつき、大型の部品は大きなアームが、精密な部品は小さなアームが担当している。
現実離れした壮大さなので、窓が液晶で、CGの映像が放映されているのではないかと疑ってしまう。
自分たちが勤めているのは「ロボットの部品工場」で、こちらは日本各地から入荷した部品を組み上げ、完成させる「ロボット工場」だ。その違いが、ここまでの迫力の差を生み出すとは思っていなかった。そのうえ、この工場は最新の機械を次々と導入している。
佐賀美は自社工場が巨大だと思っていたこと自体が信じられなくなり始めた。

「最新のロボットの駆動には感心しますでしょう」

呆気に取られている佐賀美の心境を見透かしたように、岩城は語り掛けてきた。

「医療分野に最新技術が取り入れられたことで、義肢の性能は過去のものと比べ格段と進歩しました。体が不自由でない人もインタフェースを装着し、今や、多くの人が自分の体をパソコンのようなハードウェアとして捉え始めています。」

自分の得意とする領域に踏み込んだことで、岩城は徐々に饒舌になり始めた。他愛もない会話をすることが苦手だが好きなものに関しては四六時中語れるタイプなのだろう。

「一方で、ロボットの性能もそれに比例するように進歩を遂げています。人工知能は人間そのものと見分けがつかぬほどに進化し、ロボットの関節は生物よりもしなやかに、柔軟に動きます」

岩城の言葉に反応するように、窓の向こうで再び機械の触手たちがうごめいた。その様子を興味深げに眺めながら、佐賀美は言った。

「人間が機械に近づき、機械は人間に近づいているのですね」
「その通りです。そして、それはすなわち人類の環境への適応であり、必然であったとも考えられます。佐賀美さんは、これをどう捉えられますか?」

唐突な問いに、少し戸惑った。

「それは、良いことか、悪いことか。という問いでしょうか?」

佐賀美が聞き返すと、岩城は当然だという様子で、そうです。と相槌を打った。
佐賀美は、賛否のある話題に対しては、明確に自分の意見を述べることが相手に敬意を示す態度だと思った。テクノロジーの進歩と人間の関係性は日ごろから考えている問題だ。では、自分なりの言い分は何だろうか。少し間を開けて、一応の答えを出した。

「全体的に見れば、良いことだと思います。そもそも、そのような進歩が行われているということは、人類全体がそれを望んでいるわけですから」

佐賀美の答えを聞くと、岩城は日ごろから持ち続けているであろう意見を述べた。

「私も同じ考えです。人間が機械に近づくことにも、機械が人間に近づくことにも、多くの人は言いようのない不安を感じます。しかし深く考えれば、それ自体は憂慮すべき事柄ではないでしょう。新技術が発表されるたびに批判の声を上げる人の意見を聞いてみてください。大抵は、神の領域に立ち入ることは許されないとか、自然への冒涜だという声。そのほかで最も多いのは、倫理に反するという声です」

その指摘に対しては、佐賀美もおおむね賛同していた。自分の理解の及ばない新しいモノが押し寄せてきた時、ときおり大人はとってつけたような理由でそれらを突き放してしまう。インタフェースにしても同じことで、曖昧な言葉で新しい方法を否定する人は、自分たちが階段で苦心して上ってきた階層まで、エレベーターで他人が軽々と昇ってきてしまうことが悔しくてたまらないのだろう。そして、その苦労の差に何らかの意味を見出そうとする。苦労こそが価値であると。
その悔しさは、共感はせずとも理解することはできる。しかし、それが稚拙な感情だと理解しているからこそ、彼らは個人的な悔しさを隠すために倫理や経験と言った曖昧なものを武器に取っている。

「おそらく、こうした批判の問題点は、許されざる行動に明確な規定が存在しないことですよね」

佐賀美の言葉に、岩城は深く頷いた。

「おっしゃる通りです。科学技術への批判は、どこまでが倫理に反しないかという問いには答えられない。我々人類は、原始時代から衣服を生み出し、住居を生み出し、その果てにネットワークを、遺伝子操作の技術を手に入れました。それは、人間が作ったものであるというだけで、アリが蟻塚を作ったり、微生物がコロニーを作ることと本質的には変わらない。人間の行いもすべて地球上の自然現象なのです。蜂の巣が作られることについて、自然への冒涜だとは言いませんよね」

再び右手の窓を見ると、完成したカニロボットが整然とレーンに並べられていた。人間が既存の生物に似せて作り上げた「奴隷(ロボット)」が次々と産み落とされていく。岩城の理屈に準ずれば、この光景すらも地球上で営まれる単なる自然現象に過ぎないのだ。

「確かに、その通りです」

前置きを述べ、佐賀美は岩城との同調を降りた。

「しかし、そうした技術の進歩に不安を感じるということは、無意識的にそのデメリットに気が付いているという意味ではないでしょうか。どんな技術にも、大きな事故のリスクがついて回ります。原子力発電の様に、万能だと思われていた技術が大きな災害を引き起こした事例もある。」

大事故のリスクは曖昧なデメリットではなく、現実味を帯びている。あらゆるものが複雑化した現代に、開発者でさえ手に負えない新技術がばらまかれたら、作為的なものかに関わらず誰も予想できない事件が発生する可能性は、確かにある。
岩城は少し表情を硬め、ですが、という言葉から切り返した。

「リスクを恐れて立ち止まることが、最終的に我々を滅ぼすことになります。資源の枯渇に人口過密。気候変動に廃棄物問題。人間を取り囲む環境は、地球の滅亡に王手をかけようとしている。成長をやめ、時代に逆行するという方法はすべきではないし、できるはずもない。ならば、我々は時代を先に進めるほかないでしょう」

岩城はゆっくりと、佐賀美に言い聞かせるように語った。口調は落ち着いているが、論旨に熱が入っている。

「滅ばないためには進歩するしかない」というある種廃退的な思考にも、多少なりとも共感できる。だが、バックギアやブレーキを用意せず先へ突っ走る行為が正しいとも思えない。そのうえ、世界を滅ぼすかもしれない環境変化でさえ、元をたどれば多くの原因は人間だ。新技術によって生じた環境問題を新技術でつぎはぎしていくことは、最終的に自らの首を絞めることにならないだろうか。

「リスクを正しく評価して進むべきでしょう。」
佐賀美は再びマイクを握った。
「リスクといっても、人間のためのリスクです。1パーセントも利己的でない人間はいませんし、人類全体で見ても、結局は人間が一番大事だと思っています。しかし、目の前のエサに食いつくだけでは獣と変わらない。一番効率よく、安全にエサを手に入れる方法を模索する狡猾さが、我々には必要なのではないでしょうか」

こう言っておきながら、佐賀美は人間と獣の間に明確な違いが無いことを知っている。しかし、人間には知性と理性が備わっている。

「しかし、そう考えているうちにも、後方の波は迫ってくる。今の人類にリスクを一つ一つ吟味している暇などはないという考えもありますが…」

そこまで語ったところで、いきなり心の熱が冷めたように岩城の表情は緩くなった。

「いえいえ。論旨が飛躍してしまいましたね」

数秒前まで熱弁を振るっていたとは思えない切り替えの早さだ。岩城の言葉が詭弁だとは思わなかったが、彼女が話を終わらせようとしていることを察した。カニロボットは梱包される工程に入り、見学者通路の終わりを示している。岩城は窓に背を向け、真っ白い壁に備わった扉を開いた。扉の先には下方に続く短い階段が伸びていて、その先にもう一つ扉が見える。階段は暗く、奥の扉の窓から漏れる光が際立っていた。

「あちらの扉から、倉庫につながっております」

佐賀美は迷わずに階段を降り、冷たいドアノブに手をかける。背後から岩城の乾いた声が聞こえてきた。
                            
「最後に、あなたに謝罪しなければならないことがあります」

その言葉に疑念を抱いたときにはもう遅かった。佐賀美の細い腕は岩城にからめとられ、背中側で締め上げられる。すごい力だ。身動きが取れない。

「あなたを騙していたことです」

これだけ力をかけていながら震えの一つもない岩城の言葉と同時に扉が開き、扉の隣に立っていた紺色スーツの男がおもちゃの銃のような物体を佐賀美の頭部に突きつけた。一般には馴染みがないが、佐賀美にはそれが何か分かった。ニードルガン、すなわちくぎ打ち機だ。本来くぎ打ち機は壁に押し付けなければ発射できないが、彼らには小さな機械の改造など造作もないだろう。
岩城や男たちの表情はいたって冷静で、佐賀美を監禁する一連の流れは事務作業のように淡々としていた。岩城は佐賀美を密室の中に突き入れ、鍵を閉める。
佐賀美は理解した。自分は事件の黒幕の尻尾を掴むためにここに来たのだが、あろうことか、事件の黒幕そのものと対面することになったのだ。
窮屈な部屋の中央で、山積みの段ボールを背に灰色のスーツを着た男が座っている。
男は、佐賀美の姿を見て不敵な笑みを浮かべた。

「会えてうれしいよ。佐賀美サツキさん」
「あなた、誰なの」
頭に押し付けられている凶器に対する動揺を悟られないように、語気を強めて言った。
「私かね」
男は恰幅の良い体格をこちらに近づけ、少し虚ろな表情を浮かべた。
「私は、甲斐ヨシミというものだ」



竹田と梅川は午前中のうちに有力な情報を掴もうと意気込み、早速、浜松駅周辺の住宅街で聞き込みを開始した。浜松市内は想像よりも整然としている。均等なアスファルトで舗装されている道を歩いていると、一人で散歩している人影が目に留まった。

「すみません。お尋ねしたいことがあるのですが」
「なんだいあんたたち、刑事さんかい?」

ハンチング帽を被った、落ち着いた様子の老人が竹田の呼びかけに応じた。

「ええ。お話が早くて助かります。我々は甲斐ヨシミという男を捜索しておりまして」

自分たちが持っている情報は甲斐ヨシミの名前だけで、顔写真などは出せない。とはいえ、同姓同名の人が多い名前でもないと思われる。

「ああ、甲斐君か」

老人はすぐに反応した。竹田は驚き、さらに追及する。

「彼をご存じで?」
「ええ。アパートの隣人だよ」
「本当ですか。すみませんが、ご住所をお聞きしてもよろしいですか」

老人は一呼吸置いて、住所を話し始めた。振り向いて梅川と目配せすると、すでに彼女は手帳にボールペンを走らせている。

「彼の職場は分かりますか?」
「ええと、どこだっけかな。一回、玄関先で挨拶したときに聞いた気がするんだけど。山本重工だったかなぁ」

浜松には機械工場が数多く存在する。似たような名前の工場が複数存在してもおかしくないだろう。梅川は素早くスマートフォンを取り出し、浜松市の工場を検索した。

「もしかして、山城重工では?」
「ああ、そうそう。山城重工でしたわ」

老人は納得した様子で頷き、竹田には何も追求せず歩き去った。甲斐の知り合いなら、彼が何をしたのか気になるはずだが、老人は甲斐とそれほど深い関係ではないのかもしれない。甲斐の名前が浮かぶまでに苦労したのに、彼の素性が暴かれるのは一瞬だった。拍子抜けした様子の竹田に向け、梅川が気楽そうに言う。

「最初から大トロが来ましたよ」
「分からないもんだな」
「これからどうします?」

竹田は真剣なまなざしを浮かべ、今後の行動を組み立てた。

「まず、甲斐本人を重要参考人として引っ張る必要があるな。断られたらおしまいだが」
「捜査令状もないですから、甲斐のアパートに上がるのは難しいでしょう」
「そうなると、あの男の職場に行ってみるのがいいだろう。休日勤務だったら本人と会えるかもしれん」



日曜の昼間に関わらず人っ子一人いない公園の隅で、植木に隠れた公衆電話を発見した。ずいぶん古いものらしく、ガラス張りの電話ボックスは白濁し、もともとは白かったらしいフレームもさび付いて赤茶けている。大げさに言えば遺跡のような劣化ぶりだったが、ようやく足のつかない通信手段を発見し、安堵のため息をついた。スマートフォンが当たり前にある世代だった近江にとって、端末を使わずに歩くことがこれほど不便だとは思わなかった。
特殊な状況に置かれない限り、人々が公衆電話に触れる機会はもう来ないだろう。
かつては家族との連絡や恋人との待ち合わせに欠かせなかった緑色の電話は、いつしか町中のオブジェに変貌している。
近江はさび付いた扉を開け、電話台に硬貨を流し入れた。現金も厄介な風習として風化し、やがて消滅していくことだろう。過去の遺物に包まれながら、静岡市警察署の電話番号を入力した。警察がこんな現実離れした話を信じるとは思えないが、事件が明るみに出た時、すぐに警察に通報しなかったとなればこちらが変に疑われてしまうだろう。もっとも、今電話するにしてもなぜ事件当日に通報しなかったのだと言われそうだが、位置情報を特定されるリスクから携帯を使えない事情があったことは事実だ。
受話器は冷たく、かじかむ手が痛んだ。なかなか相手につながらず、単調なリズムの発信音が流れた。もしかして、自分の知らない間に公衆電話のサービスは終了したのだろうか。焦り始めたころ、警察官のものらしき若い男性の声が聞こえてきた。

「はい、こちら静岡中央警察署です」
「昨日、列車が奇妙な機械を轢いて停車する事件があったことはご存じですか」
「はい。静岡駅ですね」
相手は答えた。
「何か情報がありましたか?」

相手の声は落ち着いていて、どんな情報でも真剣に聞いてくれそうな頼もしさがあったので、信用して自分の体験を語ることにした。

「あの機械は人型ロボットで、私と同行者はそのロボットに襲われたのです。信じてもらえないかもしれませんが、」
「本当ですか!」

近江が語りだした言葉を、警察官が遮った。あまりに食い気味に尋ねるので、近江の方が驚いてしまう。

「詳しくお聞かせください。我々は、長門という男が製作したロボットの所在を探っているのです」
「私たちを襲ったのは、そのロボットかもしれないということですか?」
「すでにロボットが動き始めているのであれば、十分に考えられます」

予想外の事態だった。警察に連絡することでかえって泉森達の救出が遅くなるという判断だったが、警察も例のロボットを追っていたとは。

「長門が逮捕されているなら、今現在動いているのは長門と共謀してロボットを開発した共犯者のはずです」
「長門の共犯者は、長門が口を割らないため、今現在捜査中で、あっ。少しお待ちください」

警官は誰かに呼ばれたらしく、しばらく電話を開けた。警察署の電話待機音が聞こえてくる。そして、数分後、警官はさらに興奮した様子で電話に戻った。

「現在、浜松で捜査している刑事課の者から、長門と関わりのある人物の素性が明かされたとの情報がありました。長門は甲斐ヨシミという人物と接触していたそうです。甲斐ヨシミは浜松市内のロボット工場の従業員です」
「なら、部品や組み立て技術の調達も容易ですね。その三人は、どこのロボット工場に…?」

近江はそこまで言葉を繋げると、突然得体の知れない焦燥感に駆られた。浜松市内のロボット工場という響きは、やけにデジャブを感じる。

「まさか」
「どうされました?」

突然押し黙った近江に、警官が心配そうな声で応じた。近江は迷わずに尋ねた。

「まさか、その甲斐という人の勤め先って、山城重工の浜松工場じゃないですよね。」
「その通りです。どうしてですか?」

後頭部を殴られたような衝撃が広がりった。こんな偶然があり得るのか?近江はさらに思考を巡らせる。いや、これは偶然の一致などではない。
アーバンメカトロニクスから出荷されたコアユニットを入荷する工場であり、いま佐賀美が訪ねている工場。そこに、長門の内通者かもしれない男がいる。近江の第六感が、緊急事態を警告した。彼ほとんど脅迫するような口調で言った。

「今すぐそこに向かってください!僕の同行者の命が危ない」



「どうぞお掛けになってください」

佐賀美にくぎ打ち機を突きつけている男が、客人をもてなすような口調で言った。

「そんなものを構えながら言うセリフと思えないんですけど…」

佐賀美の両腕は岩城に拘束されたままだ。佐賀美が岩城に訴えるような視線を送ると、彼女は甲斐に是非を問うような視線を送った。甲斐が一度頷き、佐賀美の両腕が解放される。佐賀美は甲斐の座る椅子の向かいにあるソファに腰を下ろした。くぎ打ち機は突きつけられたままだ。当然、殺されるかもしれない事への恐怖心はあった。この三人がどれだけ凶悪な人間なのかもまだ判断できない。しかし、身の危険は山門の家を出る時からずっと感じてきたし、今はその危険を冒してでも泉森の昏睡状態を解きたかった。今更暴力に臆するつもりはない。

「この部屋の存在は会社にも知られていない。うちの工場はひたすら増築と解体を繰り返すから、こういう隠し部屋がまれに残るんだよ」
「私の身を狙っていたのはあなた方ですか」
「ええ」

岩城が応じる。佐賀美はすぐに追求した。

「では、あの人型のロボットもここで作られたものですね?」

佐賀美が唐突に質問を投げかけると、甲斐は「クレイ・ドールの事かな」と呟き、言った。
「あれは、我々4人の共同制作だよ。長門がデザインと設計を担当し、我々三人が製作した」

甲斐や岩城の言葉を分析する。彼の言葉が本当なら、山城重工そのものが事件に関与しているわけではないと思われる。
この事件は、この場にいない長門という人物と、彼らが山城重工を利用して個人的に起こしたものと見ていい。長門が設計した「クレイ・ドール」というロボットを、山城重工の設備を利用して彼らが組み立てたのだ。確かに、この工場の技術を利用すれば、あれほどの機械を作り出せても不思議ではない。

「あれはまるで人間そのものの動きをしますね。優れたAIだ」
「あれはAIでも遠隔操作でもございませんよ」

佐賀美の皮肉に対し、紺色スーツの男が口をはさむ。甲斐が掌をかざして静止した。

「その話は後程」

このほかにも知りたいことは山のようにあったが、先に甲斐が口を開いた。

「さて、佐賀美サツキくん。我々は君という存在に深く興味を示している。話を聞いてくれないかね」
「むしろ、私の方から聞きたいことが山ほどあるんですけど」

面識のない相手から知らぬ間に興味を持たれるのはさすがに気分が悪い。佐賀美は相手を試す意味合いも含めて言った。佐賀美の態度を見て、甲斐は残念そうな表情を浮かべる。

「こうは言いたくないが、今の君の立場を理解してくれないか」

それはあなた方の態度のせいだと突っ込みを入れたくなる。とはいえ、自分の命が相手に握られていることは事実だ。佐賀美は甲斐をまっすぐ睨んだ。

「わかった。お話を聞きましょう。で、結局何が言いたいんです」
「単刀直入に言おう。我々の計画に参加してもらいたい」

甲斐の身振りは大企業の重役のようで、うさん臭さを助長していた。

「昨日、取引先に依頼して君を追わせたのは、君があのロボットを動かすのに大変な素質を持ち合わせていることが分かったからだ」
「私、プログラミングは得意ではありませんよ」

佐賀美はとぼけたように聞き、甲斐の語る事実を引き出そうとした。

「先ほど言った通り、あれを動かしているのは人工知能でもプログラミングでもない。言うなれば、天然の知能だ。その“天然知能”に君が適任だった」
「神経接続」という言葉を使わないことに引っ掛かりを感じるが、甲斐の言葉を聞く限りでは、昨日の推論通りクレイ・ドールは神経接続で動くらしい。そして、この三人は昏倒事件と繋がっている可能性がある。

「ではなぜ、私を殺そうとしたのです?」
「君を殺すつもりはなかった。身柄を保護したかっただけだ」

嘘だと直感した。計画の遂行に枢要な人材であるという事は、計画を破綻させる恐れがあるという事だ。彼らは、佐賀美が重要人物であることが判明した時点で、彼女を抹殺しようとした。

「どうして面識もない私の情報が分かったのです?

いちいち指摘していてはきりがない。疑問だけを口にした。

「取引先から流れてきたんだ。君の脳波の情報がね」

佐賀美は一瞬息の詰まるような思いにとらわれた。脳波が流出した?そもそも脳波なんてものがどうやって流出するのだろうか。
落ち着いて考えてみると、その答えは目に見えて明らかだった。
サイコ・インタフェースだ。彼らはインタフェースの裏技を熟知している。これで、彼らが泉森達の昏睡事件にも関わっていることは確定した。

「あなた方の提案ですが、謹んでお断ります。私が法を犯す理由がない」
「そう言うだろうと思った」

佐賀美の言葉を聞いて、甲斐は初めて犯罪者らしき表情を作った。冷たい大人が正義感に燃える子供に投げかける目だ。

「我々の目的はクレイ・ドールを完成させ、世に広めることだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「お金のためにでしょう。だから正規ルートでは販売できないようなロボットを作った」

ロボットに関する法改正については理解している。クレイ・ドールのようなロボットは存在自体が違法だという事も。そして、甲斐たちの目的もおおよそ理解できた。彼らは、クレイ・ドールを兵器として売り出すつもりだ。殺傷力を持つロボットは正規に販売できない。だから、闇ルートで他国やテロリストに売りさばこうとしている

「否定はしないよ」
甲斐の口調にぶれはなかった。
「もっと世界のために有効な使い道があると思わないの?あれだけ進歩したロボットなら、義肢の開発にも応用できるだろうし、医療や介護にだって…」
「残念だけど、それはできない。人間以上の腕力を持つロボットが人間そのもの挙動をすれば、凶器とみなされ、没収される。その後、この国はどうすると思う?長門から技術を奪い、我が物顔で世界に売り捌くだろう。それはあまりに理不尽だ。だから、我々は自分なりの方法でクレイ・ドールを売り出すことにした」
「でもそれは犯罪です。長門という人だって、今まで違法にロボットを改造していたから、こんな事態に直面したのでしょう」

甲斐は短くため息を吐きだした。

「では君は、犯罪が絶対悪で、法が絶対正義だと信じているのかね」
「確かに、やむを負えずルールを破ることは、誰にでもあります」
「そうだろう。そして、どんな状況に置かれたら“やむ負えない”のか、説明できるかね?」
「私は司法には詳しくありませんが、それは裁判で決めることでしょう」
「裁判なんてものは、いかにして自分側の主張に都合のいい解釈を引き出すかの勝負だ。裁判の結果は弁護士の力量によって決められる。結局は、勝った方が正義なのだよ。いや、正義など実在しないと言った方が良いかな」
「それなら、人間は何をしても許されるというのですか?」
「そのとおり。法は何も意味をなしていないし、そもそもこの世には善も悪もない。殺したければ殺せばいい。奪いたければ奪えばいい。すべての人間はそうすべきだ」
佐賀美は甲斐たちの主張に驚愕し、のちに落胆した。
「あなたがたは、人間ではない」
「そうさ。でも、人間なんて、この世界のどこにもいない。君もじきにそれがわかる」

佐賀美は彼らの良心を測ったが、無意味だった。闇取引には正義も信条もなければ悪意も介在しない。ただ商品があり、金が動く。その事実があるだけだ。
彼らは単なる密売人に過ぎない。長門という男が趣味で設計したクレイ・ドールを、甲斐たちが兵器として売り出そうとしている。浮かび上がったのは、そんな単純極まりない構図だ。しかし、この事件には間違いなくインタフェースと昏倒事件が関わっているという確信があった。彼らは何気なく「取引先」という言葉を口にした。つまり、すでにクレイ・ドールは出荷され、「取引先」の手に渡っている。しかし、後になって甲斐たちは佐賀美を抹殺するよう「取引先」に依頼した。売り手が買い手に使い道を指示するとは勝手な話だが、そういう条件でクレイ・ドールを販売したのかもしれない。そうなると、近江の言っていた「記憶の強奪」を行おうとしている黒幕は、その「取引先」という事になる。

「議論は平行線ですね。興味深い話題ですが、時間がなさそうです」

岩城が間を指す。彼女は佐賀美との契約をスムーズに進めたいらしく、次の会話を切り出した。

「本題に戻ろう」

甲斐が顔を前のめりに近づけ、圧迫してくる。

「我々の計画に加わることを決定していただきたい」
「先ほど申し上げた通り、ご期待に添うことはできません」

甲斐たちが黒幕ではないことが判明した以上、この場で割を食っている時間はない。一刻も早く、「取引先」の存在を突き止める必要があった。しかし、彼らが「取引先」の情報を漏らすとは思えない。

「我々があなたに多くの情報を与えたのがなぜかわかるかね」

失望に近い表情で、甲斐が問いかける。
「君と対等な取引を行うためだ。相手に十分な情報を与えないまま取引を迫るのは不当だからね。君にはそれに応えてもらいたい」

再び、後頭部から冷たい金属の触感が伝わる。くぎ打ち機が突きつけられていた。
冗談じゃない。情報を与えないことが不平等なのに、凶器を突きつけて取引を迫るのは平等なのか。佐賀美の肩は勇敢な内面に反して震え始めた。額に冷や汗が滲む。

「残念だ、君を殺すことは我々にとって大きな損失だ」

佐賀美は歯を食いしばり、後悔した。この場をうまく切り抜ける方法があったかもしれないが、自分はそれほど賢くない。甲斐との会話から真相を追う事にばかり気を取られていた。
前兆もなく、過去の大人に怯えていた時期の記憶が押し寄せた。しかも今回は、相手が自分に殺意を向けている。
一瞬、頭が真っ白になった。彼らの口調がフラットすぎるせいで死が目前に迫っている実感がないが、彼らはどんな所業を行っても罪悪感を感じない人間だ。自分は何の慈悲もなく殺される。万事休すという単語が浮かんだ次の瞬間、後頭部の方面から大きな音が鳴った。その音はくぎ打ち機ではなく、背後の扉が勢いよく開く音だった。
そして、聞きなれた男性の大声が響き渡る。

「佐賀美、無事か!」

近江シロウだ。

「先生!」

近江は、三人が呆気に取られている間に部屋の中へ飛び込み、くぎ打ち機を持っていた男を思い切り殴りつけた。男はスケート選手のようにスピンし、机の角に頭をぶつけ、情けない表情で床に転げ落ちた。
呆気に取られたまま半立ちで固まっている佐賀美に、近江の手が差し出される。佐賀美がその腕に手を伸ばすと、近江は佐賀美の腕を強く握った。

「どうしてここが?鍵もかけられてたのに」

近江に手を引かれ走りながら、佐賀美は尋ねた

「マスターキーを借りてきたんだ。受付との交渉に苦労したけど」

暗い階段を駆け上がり、つい先ほど通った見学者通路を走り抜ける。

「警察に連絡したら、あっちもロボットを追っていたことが分かった。もっと早く連絡するべきだったな」
「でも、真相に近づいた」
「何がわかった?」

一歩先を走っていた近江がこちらを振り返る。

「昨日の話はだいたい正解でした。それと、昏倒事件の犯人はたぶん、うちの会社の人間です」

近江の顔が突然強張った。背後から二人分の足音が聞こえてくる。佐賀美の手首をつかむ握力が強まった。
甲斐たちが背後から追ってきたと思ったが、違う。一瞬振り返ると、昨日の戦慄が鮮やかによみがえった。背後から二体の人型ロボットが追ってくる。クレイ・ドールだ。

「くそッ。今度は二体がかりか」

昨日の経験からしてそのまま走って逃げきれる相手ではない。二人は迷路のような館内を利用し、様々な階段を上り下りした。ほとんど勘だったが、工場の外壁に近づいている確信があった。外からは小さくサイレン音が聞こえ、警察が駆けつけているのが分かる。どこまで行っても真っ白な通路を走っているうちに、ようやく非常口の表示を見つけた。近江が大きく重い扉を開き、佐賀美を外に押し出す。
扉から外の湿った風が吹き込む。足元には簡素なステンレスの階段が伸びていた。手すりの位置は低く、慎重に降りなければ転落は免れない。十五メートルほどの高距だが、階段の隙間から覗くパトカーがミニカーのようだ。
車から警官がぞろぞろと出てきている。
迷っている暇はなかった。二人は冷たい手すりを握り、一段ずつ階段を降りた。階段からは広大な工場や煙突が一望できた。こんな状況でなければ見とれていたかもしれない。
半分ほど階段を降りたところで、二体のクレイ・ドールが非常口のドアを蹴り破った。そして、手すりを掴まずに着々と足を踏み出していく。階段がこちらまでギシギシと揺れる。
二人は自身の顔が青ざめる感覚を知った。地上まで数メートルだが、ここで焦ると落下し、大変なことになる。背後からは無表情の殺意を蓄えたマシンが追いかけてくる。打開策が思い浮かばないまま階段を降りていくと、追手は近江に触れられそうな位置まで近づいてきた。すると、視線の先でパトカーの横に立つコート姿の私服警官が黒く鈍い光沢を放つ物体をこちらの方向に向けた。
佐賀美と近江は咄嗟に身をかがめた。続けざまに発砲音が響き渡る。警官が放った弾丸が一体のクレイ・ドールに直撃した。クレイ・ドールを大きく体をぐらつかせ、頭から地面に落下した。機械の集合体が地面と接触し、落雷のような音が響くが、クレイ・ドールは立ち上がった。頭が凹んでいるが、このくらいの衝撃なら停止しないらしい。だが、一連の流れで生じた隙を利用し、二人は階段を降り、アスファルトの地面に足を付けることができた。束のようにまとまっていた機動隊が一斉に展開し、壁のようにクレイ・ドールを追い詰める。そのうち三名が佐賀美と近江を保護し、パトカーの付近へ誘導した。パトカーの隣にはさきほど発砲した強面の私服警官が立っており、その隣で赤縁の眼鏡をかけた女性警官が憤慨している。

「先輩何してんすか!お二人に当たったらどうすんですか?」
「どっちみちあのままじゃ二人はロボットにやられてただろ」
「ぐぬぬ…」
「あの…」

変わったコンビの警官は佐賀美たちの存在に気が付かないでいるので、近江が声をかけた。

「助けていただいてありがとう。僕が通報者で、彼女は同伴者です」
刑事たちは真剣な目つきに戻り、機動隊ともみ合うクレイ・ドールに目を向ける。彼らは警官など興味がないらしく、機動隊の壁をこじ開けて佐賀美に食らいつこうと手首を伸ばしていた。
それを察した男性の私服警官は二人を連れてきた機動隊に指示を送り、応戦に向かわせた。

「あれはこちらで対処します。お二人はパトカーに乗って避難を」

男性の私服警官は低いがよく通る声で言い、後部座席のドアを勢いよく開けた。二人がパトカーに乗り込むと、何やら部下らしい眼鏡の女性警官と示し合わせていた。手振りから察するに、自分は機動隊に合流し、女性警官に運転を任せるらしい。
数秒後、女性警官が頷き、運転席のドアを開けた。

「静岡県警の梅川です。私のハンドルさばきをご覧下さい」
彼女は屈託のない笑顔だ。
「安全運転で頼むよ」
近江は不安げに釘を刺した。間髪を入れずに車が発進する。駐車場の中とは思えない急発進だ。二人は車内に頭を打ちつけそうになった。頭を上げると、梅川は大舵を切るようにハンドルを回しているのが見えた。彼女の運転は少々心配だが、クレイ・ドールも車には追い付けない。一時的な身の安全を確保し、佐賀美と近江はようやく大きなため息を吐き出した。



「つまり甲斐たちも、自分が売ったクレイ・ドールが何の目的で使われるのか分からないってこと?」
「そう。彼らの目的はクレイ・ドールの販売とその利益だけです。これは私の単なる推測ですけど、その“取引先”が、泉森たちの記憶を奪ったんじゃないかと」
「そしてそれが、アーバンメカトロニクス内部の人間というわけだ。でも、どうしてその“取引先”はクレイ・ドールが必要だったんだろう」

佐賀美はかぶりを振るほかない。
甲斐の説明から、「取引先」がサイコ・インタフェースの裏技を知っていることは明らかだが彼らが泉森達を昏睡状態に陥らせた証拠は十分ではない。そもそも、「取引先」はその存在自体が不明瞭だ。甲斐が作り上げた妄想かもしれない。運転席から梅川が興味深げに言った。

「あのクレイ・ドールってロボット、最初は着ぐるみかと思いましたよ」

確かに、あれほど生々しい動きを見せつけられては、中に人間が入っていても不思議とは思えない。顔がのっぺらぼうであることを除けば、その姿は「スターウォーズ」に登場する「ストームトルーパー」にも似ている。しかし佐賀美も近江も、大破して砕け散ったクレイ・ドールを見た。あれは完全に全身が機械だった。佐賀美はほぼ確信した様子で言った。

「人間が操作しているんでしょう」
「リモコンですか」と梅川。
「鉄人28号じゃないんだから」

近江が突っ込みを入れるが、梅川と佐賀美は同時に首を傾げた。話が通じないことを知り、近江は悲痛な表情を浮かべる。

「神経接続でしょう」

佐賀美にはそうとしか思えなかった。

「いやあ、世界にそんな技術はまだありませんよ」

梅川はありえないと言いたげだ。
昨晩山門が述べた仮説を信用するなら、クレイ・ドールはインタフェースの技術を応用した神経接続のロボットということになる。だが、彼らは神経接続という言葉をあえて避けていた。それは何故だろうか。佐賀美は改めて考えた。
すると、頭の中を一つのイメージが駆け巡った。神経接続という言葉からは、無数のコードが繋がったヘッドギアを被り、VRゴーグルを装着して専用のシートで外部からロボットを遠隔操作する。こんな光景が目に浮かぶが、サイコ・インタフェースとコアユニットを用いれば、それすら必要ないのかもしれない。インタフェースによってデータ化された人格をコアユニットに移動し、クレイ・ドールに差し込む。たったこれだけの操作で、人間の人格はクレイ・ドールに移すことができる。
佐賀美は凍り付いた。
クレイ・ドールはロボットではない。人間の第二の肉体。現実世界におけるアバターなのではないか。だとすれば、そもそも操作するという考え方が存在しない。自分の肉体を操作するとは言わない。

「もしかしたら、あの昏倒事件はクレイ・ドールの起動実験だったのでは?」

佐賀美が発した言葉は、梅川には理解できなかった。一方で、近江は冷水をかけられたような顔を浮かべた。おそらく、彼も佐賀美と同じ結論にたどり着いたのだろう。

「コアユニットに人間の人格が移せることを実験で立証した“取引先”は、自分たちの人格をクレイ・ドールに移した」

真相が浮かび上がるたびに、不安が心臓を締め付ける。それが本当だったとして、泉森達の安否はどうなるのだろう。

「コアユニットに人格を移す理由が、今なら分かる気がするよ」

近江が重い口調で続ける。

「サイコ・インタフェースには限界がある。体の動かし方までは記憶できないし、記憶を送ることもできない。でもそれは、人間の肉体のキャパシティを超えているからだ。長門は、クレイ・ドールという完全な肉体を完成させてしまった。肉体のキャパシティも、記憶のキャパシティもほぼ無限の」

クレイ・ドールになることで、インタフェースの本領は発揮される。人類はホモサピエンスからクレイ・ドールへ進化を遂げる。途方もない話だ。佐賀美は頭痛を感じた。
彼女が頭を両手で覆うと、背後から派手なエンジン音が響いてきた。電気自動車が主流の現代には珍しい大排気量のスポーツカーだ。かなり荒々しい運転で、信号無視して飛び出してきたうえに、こちらに強引に幅寄せしてきた。佐賀美は目を疑った。パトカーを煽る車があるだろうか。近江も同じ考えらしく、二人同時に運転席をのぞき込んだ。
その表情が絶句に変わる。スポーツカーを運転していたのは、クレイ・ドールだった。二人がそのことに気が付くのと同時に、スポーツカーが車体をこちらにぶつけてきた。鈍い振動が走り、視線の先でサイドミラーが破損する。

「やばい」
追手が隠れていた
「スピード上げて!」
近江が大声で言った。
「合点承知の助!」

梅川がほとんど蹴りつけるような勢いでアクセルを踏み、車体が急加速する。
彼女はサイレンをかき鳴らし、せわしなくステアリングを切った。車体が旋回し、交通量の多い通路に迂回する。追突すれすれで通られた車が警報機で非難の声をあげた。
背後からは障害物を蹴散らしながらスポーツカーが追いすがってくる。相手は一般車両に接触することも構わず狭い道路を直進してきた。焦った通行人が次々と道路付近から捌けていく。犯罪者を追うパトカーと言えど、ベース車は普通のセダンだ。対して相手は六リッター以上のアメ車で、その体格差は小鳥と猛禽類のようだ。

「あれじゃ追いつかれる!」と近江。
「これ以上スピード出ませんよ!」
「ほかに振り切る方法…」

佐賀美の声が激しい振動で中断される。急発進した時とは比べ物にならない衝撃が三人を襲った。スポーツカーの体当たりがパトカーのトランクに直撃したのだ。爆発音が響き、ステアリングが不安定になる。リアガラスをのぞき込むと、トランクが潰れた段ボールのように変形していた。後輪もパンクしているかもしれない。相手のフロントガラスにもひびが入っていた。さらに運転しているクレイ・ドールを覗き見ると、頭部の右側が凹んでいた。

「さっきのクレイ・ドールだ!」

佐賀美が言うと、梅川は不安げな表情を浮かべた。

「機動隊から逃げ出してきたんだ。先輩大丈夫かな?」

難破船のように頼りない進路で走る車を憂いながら打開策を探していると、背後でかすかに聞き覚えのある音が聞こえた。耳を澄まさなければエンジン音にかき消されるような小さな音だが、佐賀美は直感で危機を察した。もう一度振り向くと、クレイ・ドールがこちらに向けて拳銃を構えている。機動隊から奪ったものだろう。

「伏せて!」

佐賀美は叫んだ。続けざまに乾いた発砲音が響く。同時に相手のフロントガラスとこちらのリアガラスが割れ、目の前のシートに弾丸がめり込んだ。幸いシートは貫通せず、梅川に危害は及ばなかったが、事態はすでに最悪だった。パトカーはまともに走らない。佐賀美はシート下に頭を隠したまま、この状況の原因を探した。
クレイ・ドールが狙っているのは自分の命だけだ。昨日の静岡駅でも、近江は自分を助けようとしたから狙われた。今二人の命が危険に晒されているのは、自分のせいだ。

「私を降ろして」
彼女ははっきりとした口調で申し出た。
「何言ってる」
近江が、彼には珍しく怒りに近い口調で言い返した。
「それじゃあ君が車にいる意味がない」
「でも、これじゃあ三人とも死ぬ!」

パトカーは蛇行運転になっていた。車線を縫うように左右し、どんな事故を引き起こしてもおかしくはない。佐賀美が後部ドアに手を伸ばすと、近江は彼女を抱きかかえるようにして阻止した。混乱を塗り重ねるように、二発三発と発砲音が響く。今度は直接射殺しようとはしなかった。後輪に弾丸が撃ち込まれ、ゴム製のタイヤが破裂する。パトカーはいよいよ完全に制御を失った。
「なんのこれしき!!」
梅川がハンドルをフル回転させ、金切声をあげる。
車体がスピンし、ゆがんだ景色が目の前で何度も繰り返した。まるで自分たちが正常で、世界のほうが狂ってしまったようだ。梅川の頭がエアバッグに包まれるのを見た次の瞬間、今までで最大の衝撃が来た。もはや音も聞こえない。耳が役目を放棄している。弾丸が貫通していたリアガラスが砕け散り、外の冷たい空気がなだれ込む。そして後部ドアが吹っ飛び、自然光が差し込んだ瞬間、後頭部に強い衝撃が加わり、佐賀美は意識を手放した。



目が覚めると、全身に鈍い痛みと鋭い痛みの両方を感じた。全身打撲と裂傷という言葉が脳によぎる。
命が助かったことは幸いだが、体を動かすのが億劫だ。
すぐに近江と梅川の顔を思い出す。二人の安否を確かめなければ。佐賀美は赤紫に滲んだ手首で体を持ち上げた。運転席では白いエアバッグの上で梅川がぼんやりと目を開いている。彼女は意識が朦朧としているが、目立った外傷はない。すぐに左右を見回したが、近江の姿は見当たらない。
すると、麻痺していた聴覚が蘇り、車の外で男性のうめき声に似た声が聞こえてきた。かろうじて原型をとどめているパトカーの左後部座席はドアごと外れ、近江が降車した形跡があった。

「先、生⋯」

佐賀美は全身の痛みを忘れ、車外に飛び出した。幸いにもパトカーはどこかの駐車場に飛び込んで停止したらしく、アスファルトには短い白線が並んでいた。
視界は白く濁り、意識も朦朧としている。車の周囲を回り、近江の姿を探す。そして、目の前で繰り広げられている光景に絶句した。
大型のスポーツカーの正面で、クレイ・ドールと近江が揉み合っている。壊れたパトカーに向かおうとするクレイ・ドールを、近江が全力で押しとどめていた。彼の服も穴だらけで、至る所が赤黒く滲んでいる。

「行かせ⋯ない!」

近江はまっすぐ進もうとするクレイ・ドールと正面から組み合い、充血した目で両腕に力を込めた。佐賀美には、彼がなぜ逃げようとしないのか不思議だった。人間ではクレイ・ドールの腕力に敵わないことなど分かっているはずだ。しかも、クレイ・ドールの狙いは近江の命ではない。自分だ。佐賀美は耐え難いほどに胸が苦しくなり、涙でさらに視界が滲んだ。

「やめて!」

悲痛に震えた声で叫ぶ。クレイ・ドールは佐賀美の声に一瞬反応したが、目の前の障害物を排除する意思は曲げなかった。組み合っていた近江の右手を乱暴に振り払い、指先をそろえると、手刀のように近江の右腕に打ち付ける。
何かが砕ける音が響く。近江の低い叫び声が響いた。

「嫌!」

佐賀美は叫んだ。無意味と知りながら、クレイ・ドールに向かって叫ぶ。

「やめて!その人を離して!」

何も考えられなくなり、夢中で近江のもとに走った。そして、近江の傍までたどり着いたとき、奇妙な現象に気が付いた。彼女の言葉通り、クレイ・ドールがその場に停止している。罠だろうか。佐賀美は疑念に囚われた。しかし、クレイ・ドールは近江から手を離し、彼は地面に突っ伏している。相手は完全に停止したわけではないらしく、その場にひざまずき、まるで佐賀美にひれ伏すような態度を示した。佐賀美は信じられない思いとともに、甲斐の言葉を反芻した。
彼は佐賀美に適性があると言っていた。それは、クレイ・ドールを思うがままに操る適性という意味なのだろうか。彼女は眉間に溜まっていた涙を拭き、険しい表情でクレイ・ドールに手をかざした。

「完全に停止して、コアユニットを排出しなさい」

クレイ・ドールは佐賀美の要求に応じた。その場にひざまずいたまま筒状のユニットが頭部からせり出し、その姿勢のまま電源が落ちる。
足元の近江を見ると、折れた右腕を抱えて苦悶の表情を浮かべているが、この状況を乗り切ったことへの安堵が浮かんでいた。今すぐ救護をすべきだと思ったが、先にクレイ・ドールのコアユニットを回収することに決めた。今までの行動が罠だとすれば、近江を救護している間に襲い掛かってくるかもしれない。頭部のハッチが開き、露出した見慣れた機器を握った。
唐突に、激しい眩暈に襲われる。
その次に、抗いがたい強烈な睡魔に襲われた。昨日の新幹線と同じ状況だ。まずい。
こんなところで眠っている場合ではないと体に語り掛けるが、ひとりでに体は地面に倒れ、瞼は重くなった。どうにかして手を伸ばし、近江のいる方向に進もうとするが、彼に触れる寸前の位置で、視界は暗闇に落ちた。



「叡智を手にするのです。我々と一つになりましょう」

呼びかける声が脳を揺らす。
佐賀美は昨日見た奇妙な夢の内容を鮮明に思い出した。頭の内側から、奇妙な声が繰り返し鳴り響いている。目の前には、一体の黒いマネキン人形が立っている。よく見るとそれはマネキン人形などではなかった。確かに、のっぺらぼうの頭部や四肢の球体関節はデッサン人形や可動するタイプのマネキン人形を思い起こさせるが、その姿はまごう事無い。クレイ・ドールだ。
色以外は今まで通りだが、曲線的なボディが光沢のある黒色に溶け込み、全身から蠱惑的な恐ろしさを放っている。
さらに、自分の全身を流れるように見る。気が付くと、自分の体も白いクレイ・ドールに変わっていた。先ほどまで感じていた全身の痛みは、今や微塵も感じられない。ドーパミンやアドレナリンの作用ではないことは明らかだった。視界は夢としては不自然なほどに鮮明で、自分の体が機械になっているにも関わらず感覚は研ぎ澄まされていた。周囲を見回すと、自分が小さな倉庫に閉じ込められていることが分かる。どこか見慣れた景色のような気がした。これは夢ではない。彼女は確信した。昨日の佐賀美は状況がつかめないばかりに、この状況を奇妙な白昼夢として片付けていた。
しかし、今や自分はコアユニット、サイコ・インタフェース、そしてクレイ・ドール、それぞれの裏の機能を知り得ている。仮説に過ぎなかったその機能は、この現象によって立証される。
まず、サイコ・インタフェースでデータ化された人間の人格は、無線でコアユニットに転送される。コアユニットがクレイ・ドールに格納されれば、人間は機械の肉体を得る。佐賀美は、昨日、新幹線の中でこの現象を引き起こしたのだ。それは全くの偶然だった。
昏倒事件当日の現象から察するに、インタフェースとコアユニットは無線で繋がっているとはいえ、最初にデータを転送するには最長でも五メートルほどの距離に近づかなくてはならない。しかし、佐賀美は奇跡的にこの条件をクリアした。
近江と言い合いをした後、佐賀美はポケットの中のインタフェースを握り、ふてくされていた。その間に、新幹線の真下を貨物列車が通過した。その貨物列車に、コアユニットを搭載したクレイ・ドールが積み込まれていた。佐賀美と接触し、彼女の人格をデータ化していたインタフェースは一時的に佐賀美の人格をコアユニット、もとい貨物内のクレイ・ドールに送り込んだのだ。そして、佐賀美の人格は一時的にコンテナ内部のクレイ・ドールに移行した。しかし、クレイ・ドールとの同化を彼女自身が無意識に拒んだことで、彼女の人格は元の肉体に戻った。
今回は、無人になったクレイ・ドールのコアユニットに接触したことで再び人格が遠い場所に転送されたのだろう。最初の「登録」はコアユニットの近くで行わなければならないが、二度目からはどんな場所からでも可能だ。
知らず知らずのうちに、佐賀美は第二の肉体を手に入れていた。その理屈は容易に納得できた。最後に残る謎は、頭に直接響くこの声の主の正体だ。

「我々と一つになるつもりはありませんか」

直感的に、その声は黒いクレイ・ドールから発せられていると分かる。この声の主が泉森達を実験台にし、甲斐からクレイ・ドールを買い付けた黒幕に違いない。

「我々と協力しましょう」

ノイズのかかっていた声から徐々に雑音が消え、音質が透明化していく。その声は、若い女性のものだと分かった。
その声は、佐賀美の聞きなれた人物の声だった。
佐賀美は痛感した。どうして、自分はこんな単純な事実に気が付かなかったのだろう。泉森は奇妙な事件に巻き込まれた単純な被害者だと思い込んでいた。犯人は泉森たちを実験台に利用し、その効果が立証されてから実用した。そう考え、自分の身を使わずに人体実験を行う犯人に憤った。しかし、不思議な話だ。犯人は泉森達を、なぜ、どうやって実験台に使ったのだろうか。効果を実証するには、自分たちの体を利用することが最も効果的で、効率が良い。
だから、その通りなのだ。犯人は自分たちの体を用いて記憶や人格をデータ化する実験を行った。そして、それは成功した。だからこそ、彼らの本来の肉体は抜け殻になった。

「お久しぶりです。佐賀美サツキ」

高いがよく通る声が聞こえる。いつもなら優しさと温かさを感じる口調が、今は人工知能のように無機質なものに変わっている。
「ようこそ、こちら側の世界へ」
黒いクレイ・ドールから放たれていたのは、間違いなく泉森ヤヨイの声だった。

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