灰色のコートを羽織った刑事は紅葉の並木道を淡々と進んでいく。この学校は県内有数の規模を誇る工業大学らしく、校舎を取り囲む植物のロケーションが絢爛だ。校舎は数年前に建て直したばかりらしく、新築同様の新鮮な外観を誇示している。一方、学校自体の歴史は相当古いらしい。校名はやたら難解な漢字がいくつも並んだもので、いまだに解読できていない。いよいよインタフェースに頼らざるを得ない時が来たのか。と憂鬱な気分になる。自分が中年と呼ばれるのは違和感があるが、青年でないことは確かだ。そうして考えると、むしろインタフェースを必要とするのは高齢者の方なのではないかと思う。青年から年を重ねるたび、記憶力は低下していくからだ。
しかし、現状は逆だ。自然の記憶力を持つ若者は自ら学ぶことをやめ、年寄りは新たな技術を毛嫌いしている。それはあまりに非効率的ではないだろうか。
そうこう考えているうちに、並木に阻まれた細道から派手な髪色の女性が小さな歩幅で歩いてきた。この大学の学生だろう。
刑事の方向に流れてきたわけではない。帰り道を刑事がふさいでいるのだ。学生は怪訝そうな表情だった。
「すみません。静岡県警の竹田というものです」
竹田は堂々と質問を繰り出した。取調室で撮影した男の顔写真を突き出す。
「この男なんですが、見覚えはありませんか?」
決め顔ともとれる無表情を顔面に貼り付けた長門キサラギの顔写真。彼は抵抗することなく撮影に応じた。アイドルの顔写真のように鮮明な画像を見ると、かえって腹立たしい気分になる。長門は物珍しいほどの美形だった。
竹田の胸中は存じ上げないという様子で、女子大生は首を傾げた。
「見覚えのないお顔ですわ」
「彼、ここの学生だったようだけど」
こうなると無駄足でしかないのだが、一応、長門の情報を補足説明してみる。今言ったことは紛れもない事実だ。あの男の経歴は、彼を逮捕する段階で調べ上げている。
女子大生の目つきは変化しなかった。今日一日歩き回ってはいるが、有力な情報にはなかなか出会えない。長門を知っているという人を見つけても、彼が他人と話しているところを見たという証人はほとんどいなかった。決まって、彼はいつも一人でいたという。げんなりしつつお礼を言おうとすると、女子大生で隠れていた視界から、もう一人、小柄な男性が現れた。工業大学の教師らしくポケットだらけのベストを着ている。男性は竹田が手帳に仕舞おうとした顔写真を凝視した。
「あ、長門さんではありませんか。」
「あら、先生、この方のお知り合いですの?」
学生に「先生」と呼ばれた中年男性は頷いた。頼りない角度だったので、彼も多くは知らないのだろう。違法ロボットの動画を投稿していた長門は、ウェブ上に自分の顔を晒していない。彼は、犯罪者としての長門が自分の元教え子とは知らないのだろう。案の定、彼は不安そうな表情で尋ねてきた。
「ぼくは、ほとんど関わりはなかったのだけどね。彼がどうかしたのですか」
「申し上げにくいのですが、彼は逮捕されました。違法に殺傷力を持つロボットを開発した容疑です」
「ええ、長門さん、ロボットなんて作っていたのですか?」
一般市民は、長門が逮捕された事実をまだ知らない。上層部が不明瞭な情報による混乱を恐れ、一時的な報道規制を行っているせいだ。それが捜査を遅らせる原因の一つだった。表沙汰にしないことが裏目に出たというところか。
「彼の交友関係について何か知りませんか?」
男性は驚いているもののショックは受けていない。
「彼が人と話しているところは滅多に見ないのですが、記憶が確かなら、一度だけ見たことがあります。確か、甲斐ヨシミという男性と、校舎裏で話し合っていました。特別仲がよさそうにも見えませんでしたから、事務的な連絡かと思っていたのですが」
甲斐ヨシミ。初めて長門に繋がる人間の名前が出てきた。かといって、重要人物とは確定していない。できる限り他人との接触を避けていた長門が気まぐれで口を交わした相手かもしれない。
「甲斐ヨシミという男性は、どのような人物ですか?」
「うちの大学では、ロボット工場の技術者を招いて講演会を開くのですが、甲斐さんは講師のアシスタントの方です。学生とは何の関わりもないはずですから、それも長門さんと話している様子を見たのは驚きました」
「なるほど」
竹田はそのあとも捻った質問を続けたが、有力な情報は得られなかった。男性に礼を言うと、彼は足早にその場を去っていった。いつの間にか女子学生も消えている。再び竹田は一人きりになった。捜査は二人一組が基本なので、この状況はどうも落ち着かない。彼がそう感じたのとほぼ同時に、梅川が唐突に姿を現した。本部からの重要な入電だったらしい。
「不審な無人トラックの目撃証言が取れたそうです。しかも、出来立てほやほやの新しいやつです」
赤縁の眼鏡を直し、興奮気味に報告してくる。
「何時だ」
「11時半です。きょうの」
「4時間前だと。どこで?」
「静岡駅の北口です。数人の証言がありました。聞くところによると、無人トラックは、荷台から男を一人降ろし、走り去ったみたいっす」
梅川が語ったのは、竹田の想像より奇妙な証言だった。彼が想像していたのは怪しげな荷物を運ぶ無人トラックや、その荷物を倉庫のような場所へ淡々と運び込むカニロボットの姿だった。その空想が一息に塗り替えられ、大きな荷台からたった一人の男が吐き出され、走り去っていく光景にすげ変わった。
「無人トラックから人間が降りてきただと?それとも、その男が実はロボットで、長門の発明品だった。なんて、あほらしい推理を報告書に書くつもりか」
自分の推理を自分でけなすという意味不明な行動を見せても、梅川は表情を崩さない。それどころか
「えぇ。まあ…そんなとこっす」
と言い放った。
「おいおい、正気かよ」
竹田は犯人を前にしているとき以外、感情を大きく出すことはしないが、思わず声を張り上げてしまった。すると、梅川は弁解するように語りだした。
「いやですね、静岡駅南口での目撃情報の後、北口でも不審者を見かけたという情報があったんですよ。なにやら、黒ずくめの男が男女二人を追っていたんだとか。その男の格好は、無人トラックから飛び出した男のものと証言が合致するので、同一人物と思われます。それからすぐ、静岡駅付近で電車の接触事故が発生しました。車掌は何を轢いたのか、いまだに分からないと言っています」
「それが、長門とどう繋がるんだ」
竹田の質問を待ち構えていたように、彼女は送付された画像を見せつける。
「接触事故の現場近くに、こんなものが」
画像は、初見では凄惨なバラバラ死体のように見え、竹田は顔をしかめた。しかし、近づいてよく見ると、コンクリートに散らばる四肢は真っ白で節々に球体関節を配している。まるで、デッサン人形か、アパレル店のマネキン人形の手足だった。しかし、その断面からは複雑な機械が見え隠れし、千切れた配線が飛び出ている。
「義手?それにしてはメカメカしいな」
疑問は徐々に確信へ変わる。この腕が義手でもマネキン人形でもないのなら、考えうる可能性は一つだ。
「そうか、ロボットの腕か。こんな悪趣味なものを作る人間は、一人しか思いつかん」
先日戦った犬型ロボットのインパクトが強すぎて、彼の開発した新型ロボットは獣の形だと思い込んでいた。そもそも、ロボットに直立二足歩行をさせるのは非常に難しいはずで、さすがの長門も、そんなものは作れないと思っていた。
「これが長門の言っていた発明品でしょうか」
竹田は思わず苦笑いを見せる。それが事実なら、誠に遺憾ながら長門が天才であると認めなくてはならない。
そして、今はそう仮定して捜査を進めるべき段階だ。
「で、その発明品は何故か電車に轢かれて大破したと。そんな大事な発明品を、奴が一つしか作っていないとは考えにくい。まだストックがあるはずだ」
無人トラックや貨物列車のような手段で、得体の知れない人型ロボットが、どこか見当もつかない場所にばらまかれる。恐ろしいイメージが脳内に湧き出し、焦りが沸き起こった。
「これからどうします?」
後輩の問いかけをきっかけに、彼の中で刑事としての責任感やプライドが戻ってきた。理性と感情が口をそろえて、まずいことになる。と告げている。
「例の無人トラックの目撃証言を集めて、出所を突き止める。それと、長門と関わりがあった甲斐ヨシミという男について調べる」
梅川はようやく手掛かりらしきものを掴んだことに感嘆し、高いトーンで聞いてきた。
「甲斐という人物を引っ張れば、例の発明品がどこにばらまかれたのかまで分かるっていう事ですか」
「そいつが共犯者ならな」
竹田はつとめて感情を感じさせない声で答えた。
※
踏切のサイレンが後方に遠ざかっていく。
線路沿いには特徴のない住宅街が乱立し、遠方には日本海側を隔てる山々が聳え、反対側には複数の高層ビルが立ち並んでいる。
自然と人工物に挟まれた線路を、一本の貨物列車が通過していた。
やがて、大量の貨物を積載した車両がゆっくり減速していく。周囲にはいくつもの架線柱が立て並び、まもなく目的地に到達することを告げていた。運転手は右手の景色を見た。灰色の倉庫が並んでいる。ようやく、東京都の貨物駅に到着した。
運転手は背伸びし、体の疲労を分散させた。周囲はすっかり夜中だが、業務はこれで終わりではない。荷物の積み降ろしが終わるまで待機し、再び列車を戻さなければならない。今日は泊まり込みだ。運転席の扉から体を出すと、乾いた冷気が体にまとわりついた。走るなりして体を温めたい気分を堪え、ゆっくりと地面に降りた。目の前には、おそらく整備士の一人であろう、紺色のジャケットと黄色のヘルメットの男性が立っている。
「どうかされました」
運転手が問いかけると、整備士は、たじろぐように答えた。
「検閲です」
「え?」
「警察から、積み荷の検閲を行うようにと申し出がありまして」
運転手は顔をしかめた。警察は麻薬が運ばれているとでも思っているのだろうか。もしそうだとしたら、見当違いもいいところだ。この列車は信頼のおける企業から直接運び込まれた荷物しか積み込んでいない。
「全部開けて確認するんですか?」
「すみませんけど、その、重大な事態だそうで」
整備士も何も知らされていない様子だ。彼に言っても仕方がないが、土台無理な話だった。
列車の運行ダイヤにも取引先への配達にも遅れてしまう。
「冗談言わないでくださいよ」
そんな重大な事態なら警察が自ら来ていないとおかしいはずだ。
「うちは不審な荷物は運んでいない」
そのことは自分の勤務のプライドとして根付いていたので、つい熱くなってしまう。整備士はさらに困惑しているが、彼は続けた。
「うちは武器も運んでない、麻薬も、爆発物も、」
ボン!
突然鳴り響いた爆発音に、二人はそれぞれ逆の方角を向いて固まった。そして、当惑そのものの表情で互いの顔を見合わせる。
「爆発したのか?」
運転手は冷静になり、音の響いた方向を思い出した。あの音は荷台から響いていた。後ろを振り向くが火の手は上がっていない。
しかし、鉄製のコンテナに何かが起こったことは、明らかだった。運転手は、こちらから見て車両の反対側に向かった。向こう側は、整備士もほとんど立っておらず、人の注目を集めていない。走ったことで体温は上昇したが、得体の知れない異常に背筋が凍りそうだった。
そして、目の前の光景に運転手は息をのんだ。
十個目のコンテナの側面が、いびつな楕円形に切り取られ、大穴があいている。さらに近づくと、コンテナの手前に、横壁を構成していた鉄版が無造作に寝そべっている。先ほどの爆発音は、これが地面に落ちた音のようだ。
レーザーカッターでコンテナの外壁を外側からくりぬいたなら、くりぬかれた外壁はコンテナの内側に落ちるはずだ。しかし実際には、外壁は外側に落ちている。この事実は、内側から壁がくり抜かれたことを示していた。では、コンテナの中に人間が潜んでいたというのか?
運転手は周囲を見回した。すると、停車してからこちら側に待機していた整備士があんぐりと口を開け、破壊されたコンテナを指さしていた。
「俺、見ちゃったんです」彼の口調は震えていた。
「暗くて見えなかったんですけど。真っ黒なコートの人たちが5人、コンテナの壁を壊して、中から出て行ったんです」
運転手は、すぐに視線を泳がしたが、そのような人影は見当たらない。周囲は闇に包まれてしまっている。身を隠すのは容易だ。顔が青ざめていくのが自分でもわかった。もはや、運行ダイヤどころの話ではない。
何も得られないことを承知で、破壊されたコンテナに近づいていく。数少ない駅の照明が心もとなかった。怯えている整備士を尻目に、運転手はコンテナの大穴をのぞき込んだ。これがホラー映画ならオバケかなにかが現れて、自分は真っ先に殺されるパターンだ。備え付けの懐中電灯を取り出し、コンテナの中を照らし出す。
しかし、中に確認できたものは青いビニールシートだけだった。
※
夢を見なかったからか、夜は一瞬にして更けた。考え事をしながら目を閉じ、目を開けるともう朝だったという具合だ。しかも、不思議なくらいに目が冴えている。
佐賀美も近江も静岡駅に荷物を置いてきてしまったせいで手ぶらだった。近江は今のところ困っていないが、佐賀美はバッグにスーツを入れていたので、途方に暮れていた。地味な服装だが、私服で他社の工場に出向くわけにもいかない。念のため山門に相談したところ、彼の娘の就活用のスーツが残っていて、それを貸してもらうことになった。彼の娘に承諾を得ていないので、心の中で何度も謝罪しながら他人のスーツに袖を通した。外は昨日に増して湿った空気を纏っていて、雨の気配が近づいている。今日の夕方、東京では大雨になるらしいが、静岡の天候も悪くなる一方らしい。富士山は一度として雲から姿を見せなかった。そんなことを気にしている場合ではないが。
三人は昨日と同じくワンボックスカーに乗り込んだ。静岡駅から数駅先まで山門が車で送り、二人が電車で浜松まで行くという手はずだ。山門は車で浜松まで送ることも提案したが、昨日の事件でこの車までマークされているとすれば、かえってリスクが大きいという結論に至った。数十分間車を走らせていくと、車窓のはるか向こうで山々が連なっているのが見える。人通りも徐々に少なくなり、ワンボックスカーは小さな駐車場の端に停車した。
「本当にここまででいいのか」
運転席からこちらに振り返り、山門は不安そうな声で言った。できるだけ二人を守ろうとする配慮は嬉しかったが、本来無関係の彼をこれ以上巻き込みたくない。
「大丈夫ですよ。浜松駅に着いたら、すぐにタクシーに乗り換えます」
近江は明るい声で答え、車を降りる準備を進めた。
「そうか。わかった」
二人がすぐに車から出て行ってしまいそうな雰囲気だったからか、山門は今一度二人を引き留めた。
「それで、最後になんだが」
「どうしたんです」
近江は半分ドアを開け、山門の方を振り返る。佐賀美から見ると、昨日の山門の冷徹な雰囲気とは変わって、今の彼は人間的な後悔の感情を抱えているように見えた。
「今起きている事件も、君たちが危険にさらされたのも、元をたどればインタフェースを開発し、その危険性を野放しにした私の責任だ。こんなことになって、本当に申し訳ないと思っている」
彼は、あらゆる原因は自分にあると思い、責任を感じたのだろう。インタフェースが無ければこんな事態には陥っていない。しかし、自分たちがインタフェースから多大な恩恵を受けてきたのも事実だ。この十数時間でインタフェースに対する考え方は目まぐるしく変化してきたので、自分の中で意見を纏めることは難しかった。だから、佐賀美は今思うことを口に出してみることにした。
「山門さん。私は、インタフェースは生み出されて良かったと思ってますよ。モノは使いようです。便利な道具にはそれ相応のリスクが伴いますが、そのリスクから生じた問題は、開発者だけじゃなくて、使用者も責任を負うべきだと思います」
佐賀美は、今回のような事件があってもインタフェースは必要な技術だと感じていた。もっとも、この事件が表沙汰になったところで、インタフェースの普及は止まらないだろうが。
「教授、僕もそう思いますよ」
近江も、佐賀美の意見に賛同した。
「ありがとう。近江、君も良い教え子を持ったな」
山門が感慨深そうに言うのを聞いて、近江はドアを完全に開いた。名残惜しそうに言う。
「長話は後にしましょう。じゃあ、行ってきます」
状況はまだ動いてすらおらず、泉森達の命が危険に晒されているかもしれないという事実を再確認し、佐賀美は緊張を取り戻した。泉森が事件に巻き込まれた原因は自分にあるかもしれない。その真偽を確かめるためにも、彼女らは助け出さないといけない。絶対に。
車を降りるとすぐ、JR用宗駅の小さな駅舎が視界に入った。レトロな外観で、天井から小さな小窓が顔を出している。駅というよりは、小さな異人館のような建物だ。
簡易的な手荷物検査はここでも機能していた。二人は浜松行きの電車がホームに到着するまで、沈黙を崩さなかった。昨日と比べると、気まずさを感じない沈黙だった。
在来線に乗車し、辺りを見渡すが、中折れ帽とロングコートに身を包んだ黒ずくめの男は車内のどこにも見当たらなかった。目に入るのはくたびれた様子の中年男女だけだ。どうやらここに乗っているのは人間だけらしい。ひとまず安心したが、気は緩められない。二人は扉の近くに並んで腰かけた。二人が座るとほぼ同時に、列車が動き出した。昨日の新幹線よりは緩慢に、並木や色とりどりの民家が流れ始める。窓から目を逸らすと、近江と目が合った。彼の眼はどこか輪郭がぼやけているような柔らかさを湛えている。しかし、煙のような薄さではなく、その奥にはっきりとした実体があるような、そんな目つきだ。昨日、新幹線の中で唐突に沸き上がった彼への猜疑心は、いつの間にかすっきりと消えていた。互いの意見を交わすことに恐怖は感じず、純粋に彼と言葉を交わしたいと思った。
「ねえ、先生」
「どうした」
近江はいつも通りの、のらりくらりした様子だ。彼の内面は、命の危険が伴う局面でもない限り常に安定しているのだろう。それはおそらく、良し悪しの問題ではない。最初から彼がそうあっただけだ。
近江から目を逸らし、揺れ動くつり革を見た。
「私、たしかに今でも理解できない思想とか、理不尽に感じることも沢山あるけど、理解しようと思えばできることも結構あるんじゃないかって、思ってきた」
佐賀美は少しだけぶっきらぼうに言った。近江の思想に合わせたわけではない。これは自分なりに考えてみた結果だ。
「そうか。それはたぶん…成長だな」
近江はそれっきり黙ってしまった。
周囲の客は無言で座っていて、ささやくような二人の会話も終わると、電車の揺れる音だけが辺りに響き始めた。最初から無言ならいいが、少しだけ言葉を交わしたあとだと気まずくなってしまうものだ。
向こう側の車窓を見つめながら、少しだけ迷っていた。本当に話したかったことは、この話題ではない。泉森ヤヨイのことだ。あのとき、彼女にどんな言葉をかけるべきだったのかをずっと考えていた。
あの時思ったように、泉森の悩みは自分とは関係のないことだ。しかし自分の心には、彼女を突き放してはいけなかったという確信がある。その理由は分からないが、もし数日前に戻れるのなら、どんな態度で彼女と接するべきか、その検討はつき始めている。
佐賀美はもう一度近江の方向を向き、再び語りだした。
「あの子のこともなんだけど、私、あの子にどう声をかけたらいいか、分からなかった。それで、インタフェースが全部を解決してくれると思い込んだ。でも、たぶんそれは間違ってる。インタフェースは情報を一瞬で記憶させることができる凄い技術だけど、それが人間の悩みを消すことには、きっと、つながらない」
佐賀美は、ずっと前から自分に言い聞かせている。自分は恵まれている。健康な体で生まれてきて、善良な家族に育てられ、何不自由ない生活を送り、今も安定した収入を得て、病気も事故もなく過ごしている。この国で健康に生きているだけでも奇跡的だし、自分たちにとっては当たり前のものを持ち合わせていない人たちがいることも、十分承知していた。多少の不平を感じることはあれど、自分の人生に文句はないつもりだった。だからこそ、泉森ヤヨイの心の中も自分と同じだろうと勝手に思い込んでいたのだ。
しかし、現実は違う。恵まれているはずでも幸福を感じられない人は案外少なくない。
そういう人たちは、そもそも自分が恵まれていることに嫌気が差してしまうのではないだろうか。自分にはその幸福を享受するだけの価値がないと思ってしまうのではないか。
そんな人たちに新しい技術を与えたところで、余計に「自分たちは部品に過ぎず、人間としての価値がない」という考えを深く信じてしまう。
それはとても悲しいことだ。
「僕も、昨日の言い方は語弊があったかもしれない。泉森は仕事に慣れるべきじゃなくて、自分自身に慣れるべきなんだ」
近江は佐賀美の考えを言い換えた。自分らしく生きるというのは、いつの時代も、誰にとっても非常に難しいことだ。しかし、それが理解できれば、佐賀美はもう少しだけ他人に寛容になれる気がした。
「そうね。私たちは内面にある弱さを他人の言葉や機械で補おうとしてきたけど、結局、自分の内面から来た痛みは、自分の内面で戦わなくちゃいけない。自分を認めるにも、何かを頑張るにもね」
圧倒的に恵まれている人生でも、すべてが無意味に思う事や、立ち直れないほどの悲しみを感じることは、確かにある。佐賀美自身も、そういった経験がないわけではない。しかし、すでに与えられてばかりの自分たちに必要なものは他者からの救いよりも、自分自身の強さかもしれない。
「こういえば、あの子は納得してくれるかな」
「きっとそのはずだよ」
近江はすぐに頷いた。
列車は着々と各駅を流れていき、何のトラブルもなく正常に運行を続けた。電車がホームに入るたび不審な人物が乗車しないか不安に駆られたが、乗り込んでくるのは暗い色をしたスーツの会社員ばかりだった。今になって、あのロボットと今回の事件は全くの無関係なのではないかとさえ思えてくる。ロボットはどこかの試作品が暴走したものかもしれないし、9人が倒れたのには、今まで確認していなかっただけで他に原因があるのかもしれない。自分たちは全くバラバラの事件の共通点だけを繋ぎ合わせ、壮大な妄想を作り上げてしまっているのではないか。そんな疑念もある。
しかし、自分はこうして山城重工に向かっている。真実を突き止めない限りは、何も分からない。
電車は一度大きく揺れ、駅のホームに停車した。開いたドアの向こうに灰色の通路が見える。
「浜松。浜松です」
淡々としたアナウンスが響く。浜松駅に到着した。
こうしてみると、浜松駅そのものの大きさは、県名を駅名に冠している静岡駅よりも大きく感じる。東京駅と比べてしまうと説明するまでもなく小規模だが、二人は人ごみに身を隠すことができた。
「静岡駅よりも大きくない?」
「浜松は政令指定都市だからね」
佐賀美が感じた違和感を口に出すと、近江は口をひそめて言った。
「静岡は政令指定都市じゃないの?」
「そうだけど、浜松の方が人口は多いよ」
「静岡が県庁所在地なのに?」
「ニューヨークとワシントンみたいなものでしょ」
「静岡県を米国で表してもなあ」
外は薄暗かった。相変わらず空は綿のような雲で濁っている。二人は不審な動作をしないようにタクシー乗り場まで歩いた。名残惜しさもあるが、近江とはここで一旦お別れだ。
「工場までついていこうか」
不安そうに言う近江の表情が今朝の山門のそれにそっくりだったので、思わず笑ってしまった。深い関わりのある教師と教え子はよく似るのかもしれない。
「絶対、大丈夫です。フラグじゃないですよ」
佐賀美は強がりで柔らかい笑顔を浮かべ、タクシーの黄色いドアを開けた。幸か不幸か、二人はスマートフォンを静岡駅に置き去りにしている。つまり、相手がGPSなどの追跡手段を持っていても、二人を追うことは難しいはずだ。だからこそ、ここまで問題なく事が進んだのかもしれない。
「先生、うなぎパイ買っといてください。私あれ好きなんです。あとで食べましょう。すべてが終わった後に」
佐賀美が付け加えると、近江は苦笑した。
「やっぱりフラグじゃないか」
※
タクシーの運転手は山門よりも年上とみられる小太りの男性で、二人の短い会話からその関係性を割り出そうと沈思黙考している様子だった。自分たちのプライベートを推し量られるのは好きではないが、少なくとも自分の命を狙っているようには見えない。
そこまで考えて、自分がすっかり神経過敏になっていることに気がついた。思えば、今朝から周囲の人間すべてに疑いを払っている。これではまともに他人と話すのも難しそうだ。佐賀美は少しだけ警戒を緩めることに決めた。
運転手は、佐賀美と言葉を交わすことなく、淡々とアクセルを踏んでいた。外の景色を見ると、繁華街の風景は東京と大して変わらない。ルームミラーに新品同様のスーツを着た自分の姿が映り、佐賀美は奇妙なデジャブを感じた。
すっかり忘れていたが、以前にも同じような状況があった。混濁している数年前の記憶を探っていると、みぞおちに石が入ったような鈍い痛みと、理由の見つからない羞恥心を覚えた。
そうだ、前にタクシーを利用したのは、佐賀美が専門学生だった頃、就活に追われていた時期だ。自分にプレッシャーをかけすぎて面接試験に失敗し、最寄駅から自宅に帰るまでの道のりを歩く気力がなくなり、出来心でタクシーを呼んだのだった。
あの時は自分に自信がなかった。実力以上の期待をかけられていて、周囲に対して劣等感を感じていて、特に大人が苦手だった。それに対して、今の会社に内定してからの精神は安定しているし、年上の人に臆することもない。その心境の変化は、自分でも不思議に思う。
嫌な思い出だったが、なぜか、その日の出来事をもっと思い出したい。というより、思い出さなければならないと感じる。こめかみに指をあてて、痛みに耐えるような表情で過去の記憶を手繰り寄せた。あの日、タクシーを呼んだはいいが、自宅の場所を説明するのはおっくうだったので、近くの公園で降ろしてもらった。そこで知り合いと鉢合わせた。
その知り合いが誰だったのか思い出そうとしたところで、足元から小さな振動が伝わった。タクシーが停車した。
「つきましたよ。お客さん」
冷たくもなければ愛想もない運転手の声で我に帰った。気が付くと車窓越しに巨大な工場が広がっている。目視でもアーバンメカトロニクス立川工場を大きくしのぐ大きさと分かる、軍艦が積み上げられたような迫力だ。古いやり方に縛られているアーバンメカトロニクスと違い、山城重工は老舗工業製品メーカーでありながら積極的に最新技術や新事業を導入していくポリシーで有名だった。生産物と製造機械が目まぐるしく入れ替わる様子は新陳代謝と形容するにふさわしく、アーバンメカトロニクス立川工場よりもさらに生命体に近づいている印象だ。
運賃を支払って降車すると、駐車場の合間を縫って一人の女性職員がこちらに歩いてきた。佐賀美の到着を待ち、わざわざ出迎えに来てくれたらしい。
「お待ちしておりました。岩城と申します」
岩城と名乗った女性はこちらの正面に立ち、彼女を見下ろすような形で名刺を手渡した。
彼女はかなりの長身で、佐賀美の頭がその首筋に収まってしまうほどだ。裾の長い白衣を着ているせいか、余計に身長が際立った。目つきは少し虚ろで、頬にはうっすらとえくぼが浮かんでいる。握手を求める手の甲は男性のように骨ばっていた。
「相模サツキさんですね。お話は聞いております」
社交辞令のような一瞬の握手を交わし、岩城は工場の方向に顔を向けた。彼女を正面から飲み込もうとするように、メインホールの大きな自動ドアが開いた。
「どうぞこちらへ」
※
JR浜松駅の南出口からくたびれた様子の男女が姿を現した。電車に乗る前は使命感に燃えていたが、不運にも通勤ラッシュと鉢合わせて体力をこそぎ取られてしまったという具合だ。今になって、この移動に意味がないのではないかという疑念さえ芽生えてくる。
「あーあ、脚が丸太になっちまう。まさか、静岡からほとんど立ちっぱとは」
竹田が不満を垂れると、右後ろから梅川が前に出てきて、ずれていた赤眼鏡をなおした。辺りが少し暗くなったと思ったら、屋根付きの通路に入っていたらしい。空が完璧に白い雲で覆われているので、頭上を見上げるまで気が付かなかった。
「これで収穫が無かったら絶望ですね」
彼女の声は上ずっていて、むしろこの状況を楽しんでいるようにさえ見える。竹田はつかみどころのない後輩から目を背け、初心に帰って自分たちの目的を思い起こした。今の仕事は、長門が製作したロボットの居場所を突き止めることだ。電車に轢かれ砕け散ったあのロボットが例の発明品で一品ものなら幸いだが。現実はきっとそう甘くない。竹田は大量の殺戮ロボットが街にあふれ、先日の犬型ロボットのように人々を襲う光景を想像し、鳥肌が立った。まるでSF映画だ。昨日見つかったロボットも誰かを追い回していたという情報があるため、すでに映画のような出来事が現実になっている可能性もある。あまりに荒唐無稽だが、今はそれを受け入れて頭を使うしかない。
ロボットたちがひとりでに日本中を旅しているとは考えづらい。それを操作する者や、運搬する共犯者がいるはずだ。竹田は、その共犯者の主犯格こそが甲斐ヨシミだと踏んでいた。しかし、いまだにあの男の素性が分からない。ただ一つ得られた情報は、甲斐は静岡市の大学を卒業した後、浜松の企業に就職した「らしい」ことだけだった。この捜査は無駄足に終わるのだろうか。疑念を払うように頭を左右に振り、確信を声に出す。
「いや、甲斐ヨシミは絶対にここにいる」
「刑事の勘ですか」
梅川は驚いたような顔で聞いてきた。
「いや、地道な捜査と事実に元づく推論だ」
竹田は鋭い目つきで切り返した。しかし、その表情と言葉の間には微妙な齟齬がある。
「先輩、あんまりそういうセリフは似合わないですね」
後輩が薄ら笑いを浮かべて言ってくるので、竹田は「なんだと」と睨み返すしかない。
「でも、甲斐がこの辺りに住んでいるのは間違いないでしょう。実家を離れて、わざわざ職場から数時間もかかる距離には住まないでしょうしね」
「そうだな。問題は奴が事件に関わっているかどうかだ。ちきしょう。やっぱり報道規制はするべきじゃなかったんだ」
「ところで、長門やその仲間たちの目的って何なんでしょう?」
梅川は歩きながら小首を傾げた。
「長門は、ただの趣味だな。自作ロボットを格好よく動かしたいだけだ。迷惑な話だが、あいつはそういう奴だ」
「では、甲斐は?」
「甲斐が共犯者と決まったわけじゃないが、結局のところ、商人の目的は金だろう。面白半分でロボット作って、それで満足してる長門を彼らが放っておくわけがない。長門の発明品を闇ルートで売りさばいて、その利益で長門がロボットを作る。そういうサイクルだろう」
「ほんとに犯罪じゃなかったら良いんですけどね。」
「他人に迷惑をかけてなきゃ、な」
梅川は両手を後頭部に当て、竹田の言葉に切り込んだ。
「やっぱり先輩の善悪の評価基準って、迷惑をかけるかどうかなんですね」
「そうだな、法律だけで人間は救えん」
「でも、どのくらいの迷惑までなら許されるんでしょうね」
「法に触れるくらいの迷惑じゃないか」
「やっぱり法律じゃないすか」
「だったら、どのくらいの犯罪なら許されるんだよ」
「それは個人の主観です」
「おいおい。それじゃ、」
「でも、それでいいんです。警察官が言っていい台詞じゃないですけど、善悪なんて最後はみんな主観ですよ。全人類の正しさの基準を統合するなんて、誰にもできやしません」
「だけどよ⋯」
竹川は口ごもり、苦々しく認めた。
「まあ、そうだな。」