zorozoro - 文芸寄港

ジャンクション=インターフェクション

2024/07/08 14:10:49
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黒いクレイ・ドールは、目の前の白いクレイドールを八つ裂きにした。首筋を折り、コアユニットを握りつぶす。もったいないが、これで佐賀美の意識がここに送られることはない。
泉森はクレイ・ドールの頭脳の中で望月の意識を呼び出し、言語を介さずにメッセージを発信した。それは一瞬の間に行われ、外部からは確認できないが、二人の間では確かにコミュニケーションが成立していた。
「わたくしの失態です。まさか、佐賀美サツキの意思がこの計画を拒絶するとは」
何通りものシミュレーションの中では、佐賀美は記憶の共有により、九人と同じ「知恵」を手に入れ、最終的に計画に参加する手はずだった。彼女の手元に泉森のインタフェースが渡っていたとしても問題はなかったのだ。しかし現実には、彼女はインタフェースを計画の阻止に用いようとしている。それは、九人にとって最悪の事態をもたらすことになる。それは、世界に知恵を撒くためのマシン、すなわちクレイ・ドールが佐賀美の手に渡ることだ。

「我々すべての失敗といえるでしょう。これだけの知恵をもってしても予測不可能な事象が存在するというわけです」

望月の返答が、圧縮された情報のように脳内に送られてきた。
泉森は、九人と記憶を共有したとき、宇宙の真理を得たような感覚を覚えた。しかし、その時に得た知識は七十億人の人類のうちたった九人のものだ。人間は、仮に他人と記憶を共有せずに生きていても、些細なことで世界のすべてを知り尽くしたつもりになることがある。そういう時に限って、初歩的なミスを犯し、自分がいかに愚かしい存在であったかを再認識するのだ。
確かに、九人のみのシミュレーションではデータに抜けがあったとしてもおかしくはない。

「より精度を上げるためにも、より多くの人間と記憶を共有する必要がありますね」
「そのとおりです」

すべてのクレイ・ドールが起動準備を開始した。適性の高さからこの計画の中心に選ばれた泉森は、東京に集結した三人の仲間に通達した。クレイ・ドールの数には限りがある。静岡県に残した分を引けば、残ったクレイ・ドールは泉森の黒いテストタイプを含め、合計4体だ。

「この計画が成功した暁には、人間はあらゆる苦痛から解放される。今こそ始めましょう」

およそ顔と呼べるものが存在しない、のっぺらぼうの頭部の上部に小さく設けられた青いセンサーが発光する。東京都立川区の街で、人間サイズのマシンがひそかに起動した。
突然、計画に異常が発生した。
彼らが思考するよりも早く、すべてのクレイ・ドールの視界に警告表示とアラートが鳴り響く。イレギュラーはすぐに検知され、全員に知らされる仕組みになっている。

「何の異常でしょうか」

泉森は考えた。考え始めるのとほぼ同時に結論が導き出される。泉森を除く三体のクレイ・ドールが起動したが、そのうち一体のバイタルサインに異常が発生している。クレイ・ドールのうち一体が、何者かのハッキングを受けている。泉森は意識の中で眉をひそめた。そんな芸当ができる人間は、思いつく限りでは一人しかいない。

「やはり。そうなりますか」

泉森は、呆れとも諦観ともつかない口調で言った。

「ここにきて、我々の邪魔をするのですね、佐賀美サツキ」
「我々のうち一体が敵に強奪された模様です」

三人のうちの一人、斎藤が分かり切った情報を伝えた。それと同時に、ハックされた個体にもっとも近い位置にいる望月が立ち上がり、姿を隠していた車から降りた。

「了解しました。私が排除します」



ここにはなにもない。
また、あの「無の空間」だ。目の前は完全な暗闇と孤独が支配している。まるで、光のない小さな密室に閉じ込められているかのようだ。このままでは、闇が自分の魂さえ浸食し、自分のすべてが消えてなくなる。彼女は焦り、存在しない手足で必死にもがいた。
自分の目的を思い起こす。自分は、泉森とあの八人を連れて帰るためにここにいる。こんな場所で道草を食っている場合ではない。
佐賀美の想像のなかで、泉森の顔が徐々に遠ざかっていく。彼女との記憶がスモークグレーに曇る。
消えちゃダメだ!
彼女は声にならない叫びをあげた。今までの記憶を脳に焼き付ける。数時間前の記憶から順番に、これが佐賀美サツキの人生であると教え込むように、闇に沈んでいく意識に叩きつけた。
思考に沈黙と静寂が訪れ、続いて変化が起こった。
次の瞬間、彼女は息をのんだ。視界が再構成されていく。前の二回は、泉森から客として招かれただけだが、今は違う。佐賀美が自分の意思でクレイ・ドールを掌握している。
視界には運転席のような文字列やメーターが映し出され、続いてカメラが映し出す外界の映像が現れた。機械の目が見ている世界が、そのまま佐賀美の視界に飛び込んでくる。視界だけでなく、全身に感覚も伝わってきた。正面から重力を感じ、背面に床が当たっている。天井は異様に近く、ひどく小さな箱に閉じ込められているようだった。佐賀美が意識下で地図を欲すると、視界にグーグルマップが映し出された。

「すごい」

マップには、東京都立川市のビルに併設された立体駐車場の一部が示されている。そこで、自分は車の荷台に寝かされているのだと理解した。

「冷却中・起動まであと14秒」

冷静な合成音声が、クレイ・ドールの起動を告げる。
数字だけが一秒ごとに減っていく。重要な場面が迫った時、いつもなら緊張から取り乱してしまうが、今は何故か、カウントダウンを経るごとに心が静まっていくように感じた。
今までに感じたことのない心地だった。自分のすべきことはもう、分かっている。

「待ってて。今すぐ、そこに行く」

秒読みが5つを超えたあたりで小さく呟いた。



「我々の邪魔はしないでいただきたいですね」

クレイ・ドールと一体化した望月は白いワゴン車に向かって歩みを進めた。強すぎる照明が車の光沢に反射し、視界が白く濁っている。直線的な白線や黄線を踏み越え、色や種類も様々な車の中で、どこにでもありそうな軽自動車の背後に回り、電子ロックを解除する。機械的な電子音とともに、ワゴン車の後部ドアが左右に展開した。

「今日は記念日なのです」

後部ドアからゆっくりと車内に侵入し、室内に横たわる一体のクレイ・ドールに近づいた。
なまめかしい手首をなめらかに動かし、その首元に視線を寄せる。

「目覚ましい科学の発展と道徳の進歩には、一切の邪魔をさせません」

中腰で見下ろす形で、佐賀美の人格が格納されているであろうクレイ・ドールを睨んだ。
彼女ほどの適性を持つ人間を失うのは名残惜しいが、彼女が計画を拒絶するのなら致し方ない。彼女がその動かし方を熟知しないうちに、彼女の人格と記憶、すなわち魂が格納されたコアユニットを破壊する必要があった。

「まことに残念です。しかし、あなたの死によって、世界中が救われる」

シリコンで覆われた首筋に視線を向け、確実に狙いを定めた。
これでイレギュラーは排除される。
人類は進化する。

「残念だけど、そういうわけにはいかない」

突然、正面から圧縮されたメッセージが飛び込んできた。
次の瞬間、望月の体は派手に弾き飛ばされた。100キロ近い重量の人型が宙を舞い、後ろの車のボンネットに追突した。鈍い爆音が轟く。ボンネットは凹み、車はずれ動いた。
望月は状況を整理した。痛みは感じないが、左胸のあたりが殴打されたことが分かる。ストレートを直撃させられたのだ。体の形にめり込んだボンネットから立ち上がると、佐賀美サツキのクレイ・ドールがワゴン車の後部ドア前に直立していた。

「おかしいですねえ!」
望月は叫んだ。
「すぐに、自在に四肢を操れるわけが…」
「これは素質の問題だと思う」

佐賀美は肩や背中に伸びている充電ケーブルをまとめて引き抜き、車の中に放り投げた。

「こんなことに才能が有っても、あんまりうれしくないけど」

これは本音だ。
相手のクレイ・ドールに向けて意識を飛ばそうと試みるが、二体を同時に制御することはできなかった。格闘の経験はないが、戦うしかない。
胸部のエアダクトから大きく空気を吸い込む。

「ここまで来て、才能で負けてたまるものですか!」

至極冷静だった先ほどの泉森とは対照的に、望月の態度はあまりに感情的だ。九人と記憶を共有してなお、感情は必要であるという結論に至ったのか、彼女が泉森に遅れをとっているのかは分からない。だが、彼女の言動から察するに後者だろう。
躍起になった望月は、突っ込んだ車のボンネットを踏み台にして、佐賀美の方向に飛び込んできた。
人の形をしているのに、猛獣のような挙動だ。
佐賀美の斜め上から飛びついてきた望月は、重力に任せて佐賀美をコンクリートの床に押し倒した。望月は殴るわけでも突き刺すわけでもなく、大きく手のひらを広げてこちらの首筋を鷲掴みにしようとしてきた。ここが急所らしい。突き出してきた右手を自分の左手で掴み、佐賀美は体位を変えようともがいた。交差するように相手の脇腹に左手を入れ、思い切り引きはがす。すると、二体は寝転がったまま隣り合わせになった。

「うっ!」

わずかの差で先に立ち上がった佐賀美が、望月の胴体を雑に蹴り飛ばした。勢いはすさまじく、中腰のまま蹴りを入れられた望月は丸太のように地面を転がる。体勢を崩した望月に、追いすがる佐賀美。
立ち上がった望月が放つストレートをかわし、その横顔を殴りつけた。突風が立ち、望月の頭部の外装が砕け散った。間髪をいれず、佐賀美は一歩詰める。そして、よろけた相手を右手で押さえこみ仰向けに倒したあと、その胸部を右足で踏みつけた。

「あんたごときに負けるわけが!」
「もう良いでしょ。あなたには他の才能があるはず」

佐賀美は首筋に狙いを定め、思い切り振りかぶった手首を突き刺した。グシャ。配線やシリコンが手首にまとわりつく嫌な感触が伝わる。さらに探っていくと、中央に触り慣れた形状の物体が見つかる。

「やめなさい!それは私の!」

佐賀美は、絶叫し抵抗を続ける望月を抑え込み、コアユニットを引きずりだした。激しく動いていた機体の抵抗が弱まっていき、やがて脱力する。慌てて確認するも、コアユニット本体は傷ついていなかった。それと同時に、コアユニットの液晶画面にLOGOUTの文字が浮かんでいた。望月は本体の破損と同時に離脱したのだ。
つかの間の安堵とともに、コアユニットを手放す。
まず一体を排除した。だが、彼らはたとえ最後の一人になっても計画を遂行するだろう。残りすべてのクレイ・ドールを破壊しなければならない。

「残りの“仲間”は?」

自身の体に問いかける。プログラム上では、泉森達は佐賀美の「仲間」と認識されている。回答はすぐに与えられた。立体駐車場のマップが3D のホログラムのように現れ、自分が黄、他人が青で示されている。立体駐車場にはもう一体敵がいるらしい。しかも、こちらに向かってらせん状の通路を降りてきている。まさに、思考より先に体が動くという形容が相応しい。いつの間にか通路に躍り出た佐賀美は、体に意識を集中させ、登り坂に向かって走った。視認できないほどの速度で四肢が動き、短距離走の世界選手ほどの速度でU字型の坂道を駆け上がる。
高校の持久走以来、走るという行為を滅多にしていない。
その事実とは無関係に、機械に置き換わった身体は想像できないほどのパフォーマンスを発揮した。インタフェースにはできないはずの、四肢の動きという技術が一瞬のうちに学習され、走るフォームは常に最適解が更新され続けていく。格闘も同じだった。
五階層分ほど登ったところで、もう一体の敵とかち合った。相手は、立体駐車場に併設されたビルの入り口付近に立ち尽くしている。望月とは違い、姿勢に隙が見られない。
相手は言葉(メッセージ)を一切発さずに、こちらの出所を伺ってくる。その気になれば一瞬で首を折りに来るのではないかというような鋭い構えだ。相手は、格闘に関する技術をひたすらダウンロードしているのかもしれない。
佐賀美は再び考えた。まともに突っ込んで勝てる相手か分からないが、迷っている暇はない。
力強く地面を蹴り、接敵する。待ちわびていた様子で、敵は佐賀美の機体の手首をつかみ上げ、柔道技のように後部に投げとばした。激しい音とともに、ガラスが砕け散る。
ガラス張りの扉が破損し、ビルに続く通路まで突き飛ばされた。すかさず後転して起き上がり、恐ろしい速度で距離を詰めてくる敵の猛攻をしのぐ。プログラムされたような、こちらの弱点を計算しつくした攻めだ。ガラス張りの狭いビルへの通路を進みながら、敵は続けざまに手刀を突き出してくる。すれすれで二発を交わし、一層力の加わった一発は頭部をかすめて背後の窓ガラスを突き破った。鋭い破裂音が響き、道路にガラス片がまき散らされる。
敵の動きを学習した佐賀美は、一瞬の隙を見て、窓ガラスを突き破ったままの相手の手首を思い切りつかみ上げ、背負い投げのように振り回した。相手が直撃した小さな木製のドアは裂け、二体はどこかの会社のオフィスに突入した。大きな机を後転すると、敵は立て膝で姿勢を整えた。
唖然とした様子の社員たちが、理解の及ばないものを見る目で二体のロボットを追う。敵はその場にあった折り畳み式の机を片手で持ち上げると、身体を回転させるように捻らせ、こちらに放った。
男女の悲鳴が上がり、社員が一斉に逃げまどう。佐賀美は投擲された机をつかみ取り、大きな机に乗り上げ、敵へ斧のように振り下ろす。が、机は敵に蹴り飛ばされ、ブーメランのように宙を舞ったと思えば、オフィスの天井に突き刺さった。間髪を入れずに、敵はさらに大きなデスクを持ち上げた。整然と置かれていたノートパソコンが床にずり落ちる。相手がデスクを放り投げるのとほぼ同時に佐賀美は飛び出した。足元にあるパイプ椅子を手に取り、こちらに飛んでくるデスクのへりにつま先をひっかけ乗り越えると、敵の頭上に飛び込んだ。敵が投げたデスクが壁面にめり込む。火災報知器に瓦礫が直撃したらしく、故障したスピーカーがけたたましいアラートを響かせる。
同時に、パイプ椅子の金属部分が確実に敵のクレイ・ドールの左ひじ関節をとらえた。
何かが潰れたような音とともに敵の関節が破損する。しかし、相手はしゃがみ込んだと思えば、ダンサーのように足技を繰り出した。鋭利な爪先が佐賀美の首筋すれすれを掠め、再び距離をとる。

「会社の人、ごめんなさい」

佐賀美は心の中で謝罪した。この会社は事件に何の関係もないが、オフィスを滅茶苦茶にされた挙句、死の恐怖まで加えられた。しかし、その謝罪は今までの破壊行為に対してだけではなく、これからの破壊行為も含まれている。
この敵を抑え込み、コアユニットを引きずり出す方法はない。なら、どうやって相手を沈黙させるか。天井に突き刺さった折り畳み式の机がぐらりと揺れた時、発想と覚悟が同時にやってきた。
チャンスは一度きりだ。そう心に念じて、障害物の机を飛び越え、敵に向かって走り出す。相手にたどり着く直前で天井に突き刺さっていた折り畳み式の机が落下し、それを正面に突き出した。不意打ちを受けた敵はもろに突き飛ばされ、胸に机のへりがめり込んだまま背後のガラス張りの窓を突き破る。先ほどとは比べ物にならないくらいのガラス片が辺りに飛び散った。
そして、言葉を圧縮したデータにして、叫ぶ。

「ログアウトして!」

割れた窓ガラスから下を覗きこむと、敵はそのままビルの10階から落下した。自分と同じサイズだった相手の体がどんどん小さくなり、やがて地面に叩きつけられ、その四肢が四方に砕け散った。その頭部のあたりを集中して見ると、頭上に架線が入り、LOGOUTと表示された。
どうやら相手は負けを認め、佐賀美の忠告に従ったらしい。
目線の先の方にはここよりも背が低いビルが立ち並び、車が道路を往来している。この通りには見覚えがあった。佐賀美の工場の近くにある街だ。マップを睨みつけ、泉森のクレイ・ドールの位置を探す。少なくとも半径1㎞圏内には「仲間」のマーカーは見つからなかった。躍起になり、マップの尺をルーズにする。すると、ここから2㎞ほどの地点に、赤いマーカーが確認される。
佐賀美は確認の意味も込めてもう一度凝視した。赤いマーカーが示されている地点は、佐賀美と泉森にとって最も馴染みの深い場所。アーバンメカトロニクス立川工場だ。
確信した。あの場所に泉森がいる。もう一秒も無駄にはできない。最も早く目的地にたどり着く方法を検索し、迷わず実行した。
助走の意味も込めて、窓ガラスから数歩後退する。機械の体とはいえ、これほどの高所から落下すれば、命はとりとめても四肢はバラバラになることだろう。失敗は許されないが、今に始まったことではない。彼女は割れた窓ガラスに向け、床を蹴った。
ビルの外に飛び出した瞬間、頭上に空一面の曇天が広がった。道路を飛び越え、視線の先のビルの屋上を捉える。物理法則に応じて、放物線の頂点を超えた体は落下を始める。向かいの小さなビルの屋上が近づき、世界が上へスライドする。まずい、飛距離が間に合わない。地面に落下する。
心臓が凍るかと思った。
すれすれで屋上のへりを掴んだが、窓ガラスに体をしたたかに打ち、ガラスにヒビが入る。
これでは崖っぷちで踏ん張っている人の格好だ。自身の重い体を持ち上げることは、クレイ・ドールの腕力の限界に近いことらしい。
這い上がるようにして柵に足をかけ、どうにかビルの屋上に降り立った。ここからは周囲の街並みがよく観察できる。人通りの多いスクランブル交差点と、その上に走る高架線。
時刻表が展開し、まもなく次の列車が到着する旨の情報が表示された。ここから生身で走ったところで、計画の実行には間に合わない。だが、公共交通機関を利用すれば話は別だ。
すぐにフォームを整え、屋上の端まで疾走する。幸いビルは幾重にも連なっており、その上を駆けていくのは容易だった。簡易梯子を足場に段差を乗り越え、パルクールのようにビルの屋上をまたいでいくと、高架線に貨物列車が近づいていた。
今までで最も高い高低差を落下し、寿司チェーン店の屋根に飛び移る。走るたびに足場の瓦が砕けていくが、気にしている暇はなかった。大きく飛び上がり、高架線の鉄柵を掴む。頭上にはすでに貨物列車が通行していた。いつも何気なく見ている列車も、走っている状態でここまで近づくとすさまじい音と迫力だ。
線路上までよじ登り、貨物列車の荷台に飛び乗る。高速で移動している物体に接触したせいで、体は車体に弾き飛ばされ、コンテナ上を派手に転がった。思わず振り落とされそうになるが、燃料タンクを固定するフレームを掴み、姿勢を立て直した。車輪が線路を叩きつける音が断続的に響き、振動がじかに伝わってくる。
佐賀美は過ぎ去っていく繁華街を見送った。そこから振り返り、視線を貨物列車の進行方向に向ける。静まりかえった河川敷を挟んだずっと先に、うっすらと武骨な建造物が見え始めた。
アーバンメカトロニクス・立川工場。
あの場所で黒いクレイ・ドールが待っている。



例の、得体の知れないロボットが十数名の機動隊と激しく揉み合っている。その力は人間のものをはるかに越えるらしく、何度も隊員が突き飛ばされ、コンクリートに叩きつけられていた。
だが、数でいえばこちらが圧倒的だ。たった一体の白いロボットはグンタイアリのような隊員たちに押さえつけられ、身動きがとれなくなっている。
竹田は携帯端末をポケットに仕舞った。梅川からの連絡では、車に乗り、脱走したロボットは停止し、例の二人は怪我を負ったものの命に別状はないという。
頭が凹んだ方のロボットが消えていた時には肝が冷えたが、ひとまず安心した。全てのロボットが沈黙した、のだろうか?

「オトドケモノデス!」

うっすらと、工場の内部から甲高い合成音声が響いてくる。竹田は耳を疑った。なんの声だ?そびえたつような工場に小走りで近づくと、今度は無線機から声が鳴り響く。

「工場内部で製造されてるロボットが暴走しています!工場の見学者通路になだれ込んでます!やばいです!」

竹田は無線を切り、考えるより先に駆け出した。ロボットがハッキングされたものだとすれば、その目的は主人の護衛だろう。あの人型ロボットがこの工場から飛び出してきたことも考慮すると、工場の内部に違法ロボットの密売人、おそらく甲斐ヨシミがいることは間違いない。工場のエントランスに飛び込み、机越しに受付の女性に尋ねた。

「本日、甲斐ヨシミさんはいらっしゃいますか?」
「甲斐は休暇ですが、あの、どちら様?」
「刑事です」

竹田はせっせと手帳を見せ、続けた。甲斐はいないのか。竹田ががっかりするよりも先に、通りすがりの男性が不思議そうに言う。

「あの人オフだっけ。今日見たけどなぁ」

休日なのに出勤している。単なる休日出勤かもしれないが、確信がさらに高まった。ひとまず、次に取る行動は決定した。竹田は工場の奥側を指差す。

「ここで生産しているロボットが暴走したみたいなんで、早く逃げてください。それでは」

それだけを告げ、一目散に工場内へと駆けて行く。

「あの、見学でしたら事前に予約を…」

当惑した女性の声は遠ざかっていく。竹田は聞こえないふりをして走った。なにせ、大学にまで出向いてほとんど痕跡を残さずに消えた男だ。今逃したら海外に逃亡するかもしれない。
迷路のように入り組んだ階段をあてずっぽうに上り、見学者通路と書かれた扉をあけ放った。
次の瞬間、あの威勢の良い声が響き渡る。

「オトドケモノデス!」

大音響とともに、正面から想像を絶する光景が迫ってきた。

「オトドケモノデス!」
「オトドケモノデス!」
「オトドケモノデス!」

無人トラックに搭載されているカニロボットの大群が狭い通路を埋め尽くす勢いでなだれ込んでくる。すべての個体が警告灯を発している。真っ赤な発光ダイオードで目が眩み、思わず顔を袖で覆った。

「なんだありゃ!」

愕然としながらも、状況を見極める。竹田は自分に言い聞かせた。こういう時こそ冷静になるんだ。状況は、長門を逮捕したときとほとんど変わらない
カニロボットの個々の重量は30㎏以下だが、何重にも積み重なって踏みつけられたらひとたまりもないだろう。しかも、4層ほどに積み上げられたカニロボットはさながら迫りくる壁となって、進路をふさいでいる。主人を護衛するには十分な障壁だった。
しかし、進むたびに上段のカニロボットが落下し、その上に次のカニロボットが飛び乗ることによって、その壁は毎秒形を変えている。一時的に階段状になる時もあった。
竹田は深呼吸した。タイミングが重要だ。羽織っていたコートを脱ぎ捨て、中腰で走り出す準備を整えた。カニロボット群が階段状になるには前触れがあり、その前触れの形状にも前触れがある。その瞬間を見計らい、彼は走った。
ピラニアの群れに飛び込む魚のように、カニロボット軍団に飛び込む。その瞬間、四層に積みあがるカニロボットの陣形は崩れ、歪な階段状になった。
竹田は一番低い位置のカニロボットを踏み台に、一気に三段目まで上がり、一瞬できた天井との隙間に滑り込んだ。目線の下で赤や銀の機械がガチャガチャと動き回り、竹田の体はもみくちゃにされた。そして、一時的なカニロボットのトンネルを潜り抜け、彼らが守っていた通路に降り立った。
息をつく暇もなく、竹田は正面を睨んだ。狭い通路からさらに狭い階段が下側に伸び、その正面に長身の男女が立ちふさがっている。
二人の顔は無表情で、人を殺めても罪の意識を感じなさそうだ。そのうえ、男の右手には武骨なくぎ打ち機がぶら下がっている。
竹田は仏頂面を崩し、薄ら笑いを浮かべた。ここ最近はロボットの相手ばかりをしていたが、どんな事件でも最後に相対するのは、結局のところ同じ人間だ。

「ようこそ」

右手でくぎ打ち機を持ったまま、無表情を顔に張り付けた男が会釈した。

「工場見学はお楽しみいただけましたか」
「ええ、あれか?」

竹田はこちらに迫ってくるカニロボットの群れを指差した。

「最高の体験だったよ」

竹田の言葉を合図に、殺意だけを目に宿した女が突っ走ってくる。竹田も同時に駆け出し、女と組み合うようにみせかけ、足を引っかけた。女が体勢を崩したところを掴みかかり、背後に背負い投げる。
不意を突かれた女はカニロボットの荷台に後頭部を強打し、気を失った。その隙を狙い、男が釘打ち機を突き出してくる。竹田は男の頬を平手打ちし、わき腹を蹴り上げた。
男の口から、ぐほお、と気の抜けた声が漏れ、彼はその場に倒れこんだ。竹田は男の顔を一瞥すると、下に伸びていく短い階段を視野に入れた。
乱暴に扉を開くと、辺りを見渡すまでもなく、正面に恰幅のいい男の姿を発見した。
男は灰色のスーツで、ボロボロのソファに座ってくつろいでいた。

「甲斐ヨシミだな?」

竹田の質問に、男はしばらくの間沈黙していた。何も言わないと言うことは正解と見ていいだろう。

「長門キサラギを知っているか」

再び沈黙が続く。
ややあって、甲斐は小さく答えた。

「ああ。知ってる」

竹田は手錠を掴み、甲斐が重要参考人に過ぎないことを思い出した。男と女は明らかにこちらを殺すつもりで殴り掛かってきたが、この男はただこの部屋にいただけだ。現行犯逮捕にもならない。
苦笑ともため息ともつかぬ短い息を吐いた。

「甲斐さん」

竹田は今思う事を、そのまま甲斐にぶつけた。

「法律って、厄介だな」
刑事の脈絡のない言葉に、甲斐は不敵な笑みを浮かべた。
「そうだな。君とは気が合いそうだ」



激しく振動する列車の荷台にしがみついていると、目線より下に見慣れた風景が飛び込んできた。昼間はネオンが消え、活気を失う飲食店、広範囲に広がるアスファルト。その中央に、山城重工とまでいかなくとも大規模を誇る工業メーカーの工場が開けてきた。アーバンメカトロニクス立川工場だ。珍しいルートで職場に戻ってきた。
佐賀美はクレイ・ドールの四肢を駆り、レールを駆ける列車を右足で蹴ると、高架線から飛び降りた。小さな団地の屋上に着地し、間髪を入れずに走り出す。そして、次の建物の屋上に向かって跳び、泉森の反応が示されている場所、すなわち工場まで走っていく。
クレイ・ドールの身体能力は超人的だ。かつて、ロボットが超えられる人間の能力はいたって断片的なものだった。しかし、人格との結合によって、ついに機械は人間の性能を凌駕してしまったようだった。
全高約五メートルの事務所から、三メートルほどの建屋に飛び降り、そのまま地面に着地した。車通りが少ない道路を横断し、毎日のように通っている事務所を通り過ぎ、工場内部へ向かう。すでに彼女は計画を実行に移してしまったのではないだろうか。不安が胸中を撒いたが、構わず進んだ。人間の体と違って息切れしないことが幸いだった。
ほとんど破壊する勢いで扉を開け、搬出口付近のレーンに飛び込んだ。休日出勤し、機械の点検をしていた社員は目まぐるしく動かしていた手を止め、異世界の魔物を見るような目でこちらを観察してくる。

「なんだあれ。コスプレ?」

彼らからすれば、人間以上の動きをするロボットという存在が理解できないだろう。その気持ちはよく分かる。昨日の佐賀美も同じだ。
彼女は好機の目を向けられながら、作業機械の間を縫って工場の中心部へ進んだ。すでに泉森を示す赤いマーカーは目下にある。しかし、黒いクレイ・ドールの姿はどこにも見当たらない。焦燥に駆られ周囲を見回すと、馴染みのない口調で、聞きなれた声が頭の中に響いた。

「あなたなら、どんな手を使ってでも来ると思っていましたよ」
「ヤヨイ、もうやめなさい」

佐賀美はすぐに言い返した。
自身のヘルメットのような頭部を掴み、友人に説論する。

「あなたの行動は危険すぎる」
「今更やめることはできません。あなたこそ、今すぐ我々と記憶を共有すべきです。そうすれば、会話をするまでもなく分かり合える」

相変わらず泉森のものとは思えない口調に佐賀美は激昂し、反論した。

「私と理解し合うのに、どうして最新技術が必要になるの?私は、意地でもあなたと話し合う。アナログな方法で!」
「昔からの間柄なら簡単に意思を通わせられるという考え方も、根拠がありません。友人であろうが、恋人であろうが、家族であろうが、他人は他人です」
「何を言われても、気を変えるつもりはないわ」
「無駄なプロセスを踏むことには抵抗がありますが、我々を受け入れないのなら」

目の前に歪な円形の板が落下し、激しい衝撃音が響いた。何者かが天井をくりぬいたのだ。周囲の作業員がおののき、一歩後ずさった。
そして、落ちてきた円盤の上に、黒く丸い何かが勢いよく落下し、着地した。

「今すぐ逃げて!」

佐賀美がクレイ・ドールのスピーカーから警告を発すると、自分たちの身に及ぶ危険を察した社員たちが血色を変え、一斉に非常口へ走った。不安が連鎖し、増幅し、混乱状態に陥った。悲鳴や怒号さえ響く中、彼女は足元に落下した黒い物体を凝視した。丸く見えたのは、それが体を丸めていたからだ。
それは黒いクレイ・ドールだった。これが「今の泉森の姿」そのものだ。金属が擦れる乾いた音が響いた。泉森のクレイ・ドールがゆっくりと起き上がり、今までの騒ぎで足元に転がった鉄パイプを拾い、握りしめた。見た目は他のクレイ・ドールの色違いだが、醸し出す殺気が明らかに異質だ。おそらく泉森の適性は、佐賀美のそれよりも高い。
黒いクレイ・ドールは音も前触れもなくこちらに駆け出した。泉森が肉迫してくる。佐賀美はすんでのところで鉄パイプの直撃を避けた。今に限った話ではないが、表情が読み取れないせいで相手の次の行動が読めない。泉森は金属の壁にめり込んだ鉄パイプを引き抜き、素早く構えなおした。
佐賀美は三歩ほど後退し、機械の周囲に散らばっていたモンキーレンチを手に取る。その直後、鉄パイプをバットのように振りかざした泉森が目と鼻の先に迫った。

「わああ!」

刀のように振りかざされた鉄棒をレンチで受け止める。リーチの短すぎるレンチは押し合いで圧倒的に不利だ。クレイ・ドールの腕力に任せて相手を押し切ろうとするが、向こうは動じずにこちらを追い詰めてくる。
じりじりと壁際に追いやられ、体勢を崩される。判断が追い付かなくなった時、佐賀美のクレイ・ドールは自動的に動いた。機械の体になったことで、条件反射も研ぎ澄まされたのか。
佐賀美は背後に置かれているハンマーを握り、正面の泉森に向けて放った。黒い頭部を捉えた工具が正確に飛んでいくが、泉森は頭をのけぞらせるだけでそれを回避した。ハンマーは回転をかけながらあらぬ方向に飛翔し、太い配管に直撃した。破裂音とともに配管が破裂し、大量の水蒸気が流出する。
もみくちゃになった音や視界に乗じて、勢いよく泉森を押し返す。そして、胸のあたりにつま先を押し当て、突き飛ばした。正面に転げまわった相手が体勢を立て直している間に、泉森のものとほぼ同じ長さの鉄パイプを見つけ、手に取った。
非常時のアラートが鳴り響き、水蒸気がランプの光を吸収して真っ赤に染まる。お互いがどこにいるのか、目視では何も分からない。

「あなたも目撃したはず。インタフェースの可能性を」

泉森の黒い身体が赤い蒸気の中から唐突に出現し、左側から飛び込んでくる。佐賀美はいたって冷静に、彼女の特攻を受け止めた。刀を握るようにパイプを両手持ちして、相手のパイプをはじきかえす。一発目は鐘のような音が響き、二発目はさらに火花が散った。

「でも、それより先に使うべきことがある。私たちよりも先に、そういう技術を必要としている人がいる!」

闘争を体に任せながら、泉森の思考に思いを馳せた。確かに彼女の思想は理想かもしれないが、彼女は手段を選ぼうとしていない。

「持つもの持たざるものという考えがあるからこそ、格差が生まれるのです。すべての人間がすべての人間の事情を理解すれば、すべての人間に不公平感はなくなる。この世に、均等化とも違う真の平和がもたらされるのです」
「それは理想論よ。真の平和なんて、生命が滅びでもしない限り訪れない」
「もちろん、理想論です。しかし、いつの時代も叶うはずだった理想を現実という都合のいい理屈が押し潰してきた。大きく時代を進め、多くの人を救うはずの技術を!」

黒いクレイ・ドールは鬱積を散らすように佐賀美を凪ぎ払い、大きく突き飛ばした。
周囲が霧で覆われているせいで飛ばされる地点を予想できなかった。佐賀美のクレイ・ドールは大量に積み上げられたカラーボックスの山に突っ込み、それらを派手に崩しながら埋もれた。すぐに周囲のボックスを蹴り飛ばし、頭上のボックスを放り投げ、泉森の懐に向かう。
泉森は待ち伏せするように両手で鉄パイプを握り、佐賀美の首筋を狙って突き出してきた。
自分の首が貫かれる直前で、相手の鉄パイプを掴んだ。そして、力を込めて一歩ずつ押し返す。

「時代が進むごとに、人間は絶滅の危機に瀕してきた。あなたの計画は、人間の滅びを早めることになる!」
「何も手を打たない事が最も滅びに近い道であることが、なぜわからないのです!」

泉森の言葉には感情が宿りつつあるが、彼女の内奥から生まれたものだとは思えなかった。まるでAIが表現した感情をそのまま出力しているような、表層的で中身のない感情だ。
泉森が佐賀美を振り払い、小競り合いが再開される。鉄パイプ同士が激しく衝突し、幾度も火花が散る。相手の次の行動をコンピュータが予測し、次の一手を佐賀美に伝えてくる。それは彼女の頭脳を経由せずに、条件反射としてダイレクトに体に反映された。
右、左、左、右、上、下。
自分の身に起こっていることが理解できなくなっていく。状況はサイコ・インタフェースだけでは実現し得ない段階まで進んでいる。ごく普通の会社員であるはずの自分が、相手をねじ伏せるためだけに存在する戦士に憑依されたような気分だった。今も目にもとまらぬ速度で鉄パイプを振りかざす泉森はもちろん、自分自身の動きでさえ、自分の意志では停止不能になっていく。
応酬に次ぐ応酬。互いのクレイ・ドールの挙動が処理能力の限界を超えそうになった時、佐賀美の左腕にすさまじい衝撃が加わった。一瞬の隙をついた泉森の鉄パイプが直撃したのだ。摩擦から生じた火花とは違う、流血のようなスパークが左腕から噴き出す。
痛みこそないが、自分の腕を折られたという不快感は沸き上がってくる。ここでは、わずかな集中力の乱れが勝敗を分ける。佐賀美は泉森と距離を取り、深呼吸するように気持ちを落ち着かせた。大丈夫だ。本当に腕を折られた近江と比べればこれほどの苦痛は問題にもならない。
いつの間にか、二人は工場のさらに内部、金属の加工現場へと足を踏み入れていた。作業員が急いで避難したせいか、停止せず稼働している機械も見受けられる。
片腕が使えない分、力比べで勝ち目がないことは明白だった。泉森はここぞとばかりに重いパイプを振りかざしてくる。佐賀美が避けるたびにそれが次々と周囲の機械を直撃し、精密な機械が砕け、火花やスパークが飛ぶ。たった二体の人型ロボットのせいで、工場内部は混沌に陥った。
泉森は自分の職場であることなど気にもせず暴れまわり、辺りの照明は次々と砕け散った。
地面に電球のガラスや金属の破片が散らばっていく。

「あなたの生命を奪いたくない。早く、我々の計画を肯定してください」
「いやだって⋯言ってるでしょ!」

佐賀美の言葉に応答する代わりに、泉森は左肘をもう一度強く殴打する。骨がねじ切れるような音に次ぎ、佐賀美のクレイ・ドールの左腕は数メートル先に吹き飛ばされた。泉森は守りが薄くなった体を、バッテンを書くように二度叩きつけ、居合のように鉄パイプを振るった。佐賀美の体は派手に吹っ飛び、背中を硬いもので強打した。
今度打ち付けられた場所はカラーボックスの山ではなく、歯車がむき出しの精密な機械だった。背部を強かに打ち、視界がクラッシュする。警告表示で本体の60%が損傷していると告げられた。
しかも、最悪なことに背中の製造機械はいまだ停止していなかった。複雑なギアやカッターが生物のように胎動し、佐賀美の体を引きずりこんでいく。機械の体が痙攣した。ガキガキと軋むような異音が響き、徐々に体が潰されていく。彼女は抵抗し、右手に握りしめていた鉄パイプを機械に押し込んだ。機械の内部に金属棒がつっかえ、モーターの動きが鈍くなった。
しかし、安堵する暇はない。身動きがとれない佐賀美の正面へ、泉森のクレイ・ドールが迫る。相手は着実に、ゆっくりと距離を詰めてくる。

「非常に残念です。あなたがもう少し聡明であれば」

彼女は鉄パイプを地面に引きずり、殺人者のように、あるいは獲物を見据えた獣のように、じりじりと近づいてきた。
泉森が佐賀美の正面で停止し、鉄パイプを振り上げた瞬間、再び体がひとりでに動いた。火事場の馬鹿力か、すさまじい腕力で機械に埋もれていた鉄パイプを引き抜き、体をしならせて構えると、槍を投擲するように放り投げた。
グシャッ。周囲の喧騒にかき消されるほど小さな破裂音が聞こえる。
目の前を見ると、投擲した鉄パイプは、黒いクレイ・ドールの胸部に深々と突き刺さっていた。勝利を確信した泉森に一瞬の隙が生じたのだ。鉄パイプは機械に挟まれ、切断されたことで先端が竹串状になっていた。偶然鋭くなった先端は、クレイ・ドールの強化プラスチックを突き破るのには十分だ。
佐賀美は機械に巻き込まれかけていた体を力ずくで引き起こす。歯車に噛みつかれていた部品が破損し、ボロボロと散らばった。
胸に突き刺さった鉄パイプを握り、どうにか抜き取ろうとする泉森の姿が見えた。佐賀美は、その体を地面に叩きつけ、その場にあった工具を両手で握ると、相手の両足を同時に潰し、起き上がれなくした。

「これで満足?」

クレイ・ドールの頭部には顔と呼べるものがない。ただ平らでのっぺらぼうな面があるだけだ。それでも、黒いクレイ・ドールはこちらをあざ笑うような表情に見えた。

「流石です。佐賀美サツキ」

外壁の外がやけに騒がしい。野次馬たちの怒号とパトカーのサイレンが聞こえてきた。視界は相変わらず赤く染まった水蒸気で満たされていて、アラートの音は騒がしく鳴り響く。佐賀美は硬質な頭部を今一度左手で覆う。精神がどうにかなりそうだった。仰向けに伏したままの泉森がさらに続ける。

「だからこそ、我々の計画に賛同してほしかった」
「あなたは、まだ…!」

佐賀美が言い返そうとしたとき、首筋に鋭い衝撃が加えられた。脊髄を折られたような振動が伝播し、視界が上下反転する。何が起こったか分からなかった。しかし、背中側から覗くフレキシブルな太い関節と、聞きなれたメカニカルな可動音が状況を理解させる。工場に最初から備わっていた梱包用ロボットアームが、佐賀美のクレイ・ドールを掴み上げたのだ。すでに満身創痍だった白いクレイ・ドールは急所を潰され、ついに動けなくなった。

「どうして、アームが動かせる?」

苦し紛れに聞くが、答えは聞かずとも明らかだった。泉森はこれ見よがしに言う。

「今のわたくしの体がクレイ・ドールだけだと思うのなら、それは誤りです」

四つのフレキシブルアームが下半身を砕かれた泉森の体を掴み、宙に晒す。そのうち一本が分離し、胸に突き刺さっていた鉄パイプを引き抜いた。

「この工場の機械は、すべてこの手のうちにある。この工場そのものが、わたくしの体なのです」

機械が停止していなかったのも偶然ではなかった。最初からすべて泉森の手の内だったのだ。
クレイ・ドールを使って戦わせたのも、こちらを説得させるための時間稼ぎと考えられる。この工場に佐賀美がおびき寄せられた時点で、泉森の勝利は確定していたようだ。
四本の巨大な腕に支えられ、舞台の大道具のような姿と化した泉森が、同じアームに拘束された佐賀美の元に近づいてくる。泉森はその黒い右腕を伸ばし、佐賀美のクレイ・ドールの首筋を掴み上げた。クレイ・ドールはすでに佐賀美の制御を受け付けない。いくら四肢を動かそうともがいても、体は一向に反応しなくなった。

「最初から、こうしておけば早かった」

指揮者のように両腕を広げ、泉森は語る。

「なにを、したの?」
「あなたの機体を制御下に置かせてもらいました。これで、我々の計画を完遂させることが可能となります。あなたのクレイ・ドールを軸に発動させれば良いわけです。そうすれば、あなたを説得することもできる」

それは説得ではない。洗脳だ。そう叫ぼうとしたとき、周囲の光景が大きくS字に歪み、聞こえていた音にノイズが混じり始めた。今までの戦闘でセンサーに異常は発生していたが、それとは明らかに異質で非現実的な体験だった。今の佐賀美の意識そのものが歪められ、五感がない交ぜになるような未体験の感覚が全身を埋め尽くす。視界はマーブル上にかき混ぜられ、やがて極彩色の雪崩に変貌した。

「何これっ!」

彼女は情報の濁流に飲み込まれた。竜宮城へと続く海に落ちていくように、もしくは不思議の国に続くトンネルと落下するように、ひたすらに奥へ奥へと沈んでいく。肉体という概念が消失し、ただ、彼女の意思だけが深淵へ導かれる。トンネルに反響するように、周囲から泉森の声が響いてきた。

「あなたは人生という万華鏡を見ている」

極彩色の洪水の正体は、これまでの佐賀美の記憶だ。
二十三年前、この世に生を受け、幼少期から今までのすべての記憶が、複雑に絡み合い、練り上げられながら周囲を包み込んでいく。不可思議な体験だが、この場所へたどり着く前兆はあった。新幹線に乗っている間も、一時的にクレイ・ドールと一体化した時も、先ほど改めて人格を移した時も、数日前までの記憶がフラッシュバックした。事件の発生から、いや、今よりもずっと前から、もしかすると生まれた時から、この瞬間が訪れることは運命づけられていたのかもしれない。
感慨に浸るのを止め、自分の本来の目的を思い出す。泉森を正気に戻して、連れて帰らなければ。奈落の底に落ちていくような感覚を味わいながら、断片的に浮かび上がる記憶の中で泉森の姿を探した。きっと彼女も自分と同じ状況にいる。記憶のトンネルを漂っているはずだ。
断片的な記憶に意識を集中していくと、混ざり合って形を失っていた記憶が、一つ一つ復元されていくのを感じる。泉森と死闘を演じた記憶から始まり、電車の中で近江と交わした会話、中学校、高校の文化祭など、時系列もジャンルも異なる様々な記憶が出現しては、消えた。きっと、泉森は自分と共通の記憶のなかにいるはずだ。佐賀美はそう思った。
佐賀美サツキと泉森ヤヨイ。二人の、二人だけの記憶はどこにあっただろうか。佐賀美は心当たりを探す。すでに、情報の濁流はせせらぎのように穏やかに変化していた。
泉森の記憶を探し当てていくうちに、自分の記憶も一つ一つ思い出していく。数年前の事であろうと、嫌な記憶は心の隅に放り込み、無理やり忘れてしまう。自分はそういう精神構造だった。泉森との記憶を探す行為は、すなわち自分自身の記憶を探すことと同じだ。
真っ先に思い浮かんだのは、就活中の記憶だった。泉森と専門学校は別々だ。就活で関わった覚えはない。
それでも、心の声が導いている。彼女はそれに従うことを決めた。一つの記憶を想像することで、並行して流れていた余計な記憶は捌けていき、探していた記憶だけが残った。

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