佐賀美の網膜に,数年前の自分が見たかつての世界がぴたりと重なった。
どこかの会社の、どこかのビル。十社以上の面接を受けては、ことごとく落選していったあの日々のこと。特徴のない就活用スーツに身を包んだ気弱そうな自分が、震える足取りで面接官と相対している。
元気よく見せる余裕などなくて、足元がぐらついて、いつ卒倒してもおかしくはなかった。
根本的に、人間と関わることが苦痛だった。
特に恐ろしかったのは、何十歳も年の離れた大人だ。高校まではエスカレーター式だったし、専門学校の入試は学科試験にウェイトが置かれていたため、なんとか潜り抜けた。学生一年目までそれで、ほとんど人と関わらずにやっていけたことは、ある意味では奇跡だったが、その後の就職活動が悪夢だった。進学と就職は違う。就職では、自分がいかに利用価値のある部品であるかを、会社に売り込まなくてはいけない。
先生には、もっと自分の能力を売り込め言われたが、何一つ誇れるものを持っていないのだから、語るべき内容などない。何をやっても人並み未満に収まるのだ。それが素質なのか、努力不足のせいなのか、それは今でも分からない。
正確に自分の伝えたいことを伝えることは、今でさえ苦手意識がある。しかし、昔は病的にコミュニケーションが苦手だった。その原因は、自分の意見を持てないことだ。
自分の何気ない一言が誰かを傷つけるかもしれない。その不安は常に自分の脳に渦巻いていて、振り切れなかった。
甲斐の言葉もあながち間違いでもないかもしれない。この世には善も悪もない。人間には、自分にとっての都合の良し悪ししかないのだ。それが分かっていながら、他人を善人と悪人に振り分けてしまう。人間とはそういう生き物なのだ。
佐賀美はただ静かに、指でなぞるように曖昧な記憶を目の前で反芻した。
当時の佐賀美の口からは意味をなさない小さなかすれ声が響くばかりで,まともな面接試験になっていなかった。考えてきた台詞を吐き出そうとすると、脈絡もなく涙が出た。
過去の自分と現在の自分の心境がシンクロし、胸が締め付けられる痛みを感じる。どうしてうまくいかなかったのだろうか。自分には何が足りなかったのだろうか。
その日は、足がほとんど動かないように感じて、家の近くまでタクシーに乗ることにした。曇った窓越しに街を行きかう人も、タクシーの運転手の顔さえ直視できなかった。そのまま家に帰る気分にもなれず、家の近くの公園のベンチに腰を下ろした。周囲はすでに暗闇が覆っていた。
現在の佐賀美は、途方に暮れた過去の自分(サツキ)を正面から見つめていた。病的に細い手足が自重で折れそうだ。
そのまま待っていると、サツキのもとに彼女の知り合いが姿を現した。
ようやく思い出した。そこに現れたのは他でもない、泉森ヤヨイだ。どうして忘れていたのだろう。
数年ぶりの再会だったにも関わらず、ヤヨイは慣れ親しんだ口調で佐賀美サツキに声をかけた。
ところが、サツキは彼女を突き放すような物言いで、その言葉を押しのけた。顔を膝にうずめたまま、サツキが激昂する。自分の姿を客観的に捉え、複雑な心境を抱いた。過去の自分は、自身で完結すべき問題をヤヨイにぶつけている。自分は、人の事をどうこう言えた義理ではなかったのだ。
この先の展開も思い出せなかった。きっとヤヨイは呆れてしまうだろうと思った。しかし、彼女は臆せず、一歩ずつサツキの元に近づき、言葉を続けた。
夏夜にも関わらずサツキのスーツ姿は寒々しかった。一方で、ヤヨイの格好は暑苦しい。有り余っている熱を、常に誰かに分け与えようとしているように。サツキの頭に優しく手を置き、それがこの世の真理であるかのような声色で言った。
彼女の言動は昔から支離滅裂で、間違いだらけだ。しかも、それが当たり前であるかのように、堂々と弁じたてる。それが彼女の最大の魅力でもある。
その時は、もう何が何だか分からなくなって、親友の体に抱き着いて子供みたいに泣いた。就活中の学生としては情けない姿を晒したのだが、結果的に、この日を境に佐賀美は変わった。人はそう簡単に変わらないと言うが、ある出来事を境に、精神が鎖から解き放たれることは確かにあるのだ。佐賀美は、そのことを誰よりも理解していた。
文明の進歩は目覚ましく、日本人の多くは生理的欲求も身の安全もおおむね満たされている。それにも関わらず、一部の人は精神を摩耗させてしまう。重病や、肉体的あるいは精神的な虐待など、原因が明らかなら周囲が手を差し伸べることができるだろう。しかし、内向的であるがゆえに自分自身に絶望する人間は、その原因が存在しないがために救えないものである。しかし、それは本人の考え方ひとつで変わる事が出来ると思う。
佐賀美は自らの意思で追いやっていた記憶を、目の前でありありと見せつけられた。そこには、ガラス細工のように弱く脆かった自分がいた。
それは絶対に忘れてはいけない記憶だった。皮肉にも、その「記憶という情報」が欠けていたせいで、自分は大変な間違いを犯していた。
佐賀美サツキという人間を変えたのは、佐賀美サツキだけではない。泉森ヤヨイだった。
あの日以降、佐賀美は自分に悲観することをやめた。
きっかけは単純なことだった。それが泉森の意図するところだったのかは分からないが、他人が必死に生きているように、自分も必死である事を認めてもいいのではないかと思ったのだ。
今でも、誇れるものは何も持っていない。自分は空っぽの箱だ。できることと言えば、せいぜい箱をきれいに装飾することくらいだ。だが、それの何が悪いというのだろう。人間は、死ぬまで何が正しいのかもわからず、ただ必死に息を切らしながら走り続ける無様な生き物だ。
でも、それでいいのだとも思う。
※
気が付くと、辺りの光景はフィルムの停止した映画のようにぴたりと動かなくなり、空虚で静かな夜の公園の景色が広がっていた。
記憶の中の自分とのシンクロは終わり、自分の身体を自由に動かせるようになった。
佐賀美は一度瞬きして、自分の手の平を顔の前にかざした。そして、正面の泉森を見た。
泉森は4年前の姿から再び、黒い機械の身体に変わっていた。自分は人間の体を取り戻しているのに、泉森はクレイ・ドールのままだ。これの意味することは直感的に理解できた。彼女は、まだ正気を取り戻していない。
泉森があんな状態になってしまったのも、一向に元に戻らないのも自分のせいなのだ。
彼女がいなければ、人生の方向性は変わらなかった。それなのに自分は、自分と似た立場に立たされていた泉森を前に、逃げ出した。
改めて彼女と対峙してもなお、自分は逃げていただけだった。
しかし、今は違う。逃げ続けていた記憶と向き合って、自分の責任を思い出した。
事態はなおも深刻なのに、佐賀美の心の中は青く澄んでいた。心臓を縛り付けていた鎖がほどけたようだった。
「ごめんなさい。ヤヨイ」
すがすがしいほどに堂々とした表情で、彼女は言った。クレイ・ドールには目がないので、目を合わせられないことが歯がゆい。
「私の悪い癖だね。いつも、建前で話す癖があるから」
近江の指摘は、まさに的を得ていたと言える。
「どういう意味です?」
黒いクレイ・ドールが一切の仕草をせずに聞き返す。佐賀美はすぐに続けた。
「私はほんとに馬鹿だった。自分が本音で話していないのに、分かり合えるはずがないもの。本当は世界なんて、なるようにしかならないでしょ。きっと、あなたの計画が実行されても、世界の本質は変わらない。プライバシーが消滅すれば、それはそれで苦しみを呼ぶでしょうし、そのおかげで技術が進歩するなら、万々歳じゃない」
あらゆる論理は穴だらけで、しかも複雑に交差している。いつまで考えても答えは見つからない。だからこそ、正義にも正解にも未練はない。すでに泉森を引き留める理由は、世界の為ではなくなった。
「やっとわかっていただけましたか。それなら、」
「まって!」
突然引き留めたせいで、声が上ずる。
「それでも、私には受け入れられない理由がある」
泉森は殆どうんざりしているようだった。
「ほかに何があるというのです?」
「それは」
佐賀美は深呼吸し、本当に一番伝えたかったことを口に出した。
「ヤヨイが私に敬語を使っていること」
「理解しかねます。しばらくすれば必要すらなくなる言語の形式に、何の意味があるというのですか?」
「大いにあるわ。私が知っているヤヨイはあなたみたいにロジカルじゃなかった。何を言っているのか分からなくて、支離滅裂だし、年中暑そうだし」
「それは、先ほど説明した通り、考えを改めたまでです」
「だとしても!」
佐賀美は一歩足を踏み出した。
「私は、昔のヤヨイが良かった!それが私のエゴでも!今のあなたが正しかったとしても!」
黒いクレイ・ドールをまっすぐ見据え、一歩ずつ歩みを進める。
きっとこの計画が完遂されれば、人々はみな一律に賢くなることだろう。だが、どこまで賢くなっても、人間は苦しみからは逃れられない。だから、時代が変わっても、幸せの総量は変わらないんじゃないかと、佐賀美は思った。なら、彼女の好きにさせればいいじゃないか。どうせ世界は変わらない。
しかし、世界中の人間が互いを傷つけあうことなく、もっとも効率的な方法を割り出すようになれば、不器用で朗らかな泉森ヤヨイの人格は、この世に不要なものとして消え失せるだろう。
それはだめだ。
「あなたにするお願いを改める」
佐賀美は真剣そのものの表情で言った。
「いつものヤヨイに戻って」
散々正しさを追求し合い、最後にたどりついた結論は自分自身の欲求に過ぎなかった。友人が変わることを拒む、どこまでも無責任な望みだ。
「不器用でも、要領が悪くてもいい。私は、いつものヤヨイがいい」
「何を言っているのです」
黒いクレイ・ドールは動揺を隠していた。しかし、その後には意味深な沈黙が続く。
「口調は違えど、わた、わたくしは、いつも、の…」
黒いクレイ・ドールは両手で頭を抱え、後ろに大きくのけぞった。すると、その身体が大きく揺らぎ、泉森の姿が残像のように浮かび上がった。相手は揺らいでいる。佐賀美はさらに畳みかける。
「思い出して」
「わたくしは、違う、わたしは、わたしは泉森ヤヨイで、それで」
泉森は、疑念を振り払うように、両手を左右に勢いよく伸ばした。
「わたしは、こんなことを望んだんじゃない!」
黒いクレイ・ドールの姿は大きくゆらぎ、徐々に泉森ヤヨイ本人の姿に再構築されていく。数秒後、黒いクレイ・ドールは、一人の着ぶくれした女性のシルエットに変身した。今の佐賀美と同じく、四年前の姿ではあるが。
彼女は呆気にとられたような表情のまま、佐賀美に問いかけた。
「それで、サツキちゃんは私をこんなところまで、助けに?」
すでに佐賀美は、泉森の目と鼻の先にいた。
「助けることになるのかは分からないけど、あなたを連れ戻しに来た」
彼女の正面に立ち、ゆっくりと右手を差し伸べる。
「帰ろう」
今自分たちが置かれている状況はよく分からない。この記憶の世界を抜け出して、クレイ・ドールから抜け出して、元の肉体に帰らないといけない。確実な打開策は見当たらないが、とにかく彼女の手を取るほかに方法はないように思われる。
「ありがとう、サツキちゃ⋯」
鈍い衝撃が伝播する。
あと少しで手が触れるという時点で、佐賀美は何者かに思い切り突き飛ばされた。ここは現実ではないはずなのに、脇腹に鋭い痛みが走る。予想し得なかった衝撃に転倒し、地面に伏してしまう。
「どう⋯して?」佐賀美の声は掠れた。
「わたくしにもわかりかねます。思考にバグが発生したのか」
右手を地面について立ち上がると、目の前で困惑する泉森の姿が見える。彼女は確実に元に戻ったはずだ。だが、その背後をみると、消えたはずの黒いクレイ・ドールが実体を取り戻しているではないか。
「聡明なあなたなら間違わないはず。彼女こそが偽物、あなたの願望が生み出した錯覚です」
この人工知能のような泉森は彼女自身ではないと確信した。これは泉森に被さった仮面で、意思や感情のない無機物だ。それでも、佐賀美は怒りを覚えた。自分を狂わせる怒りの感情は嫌いだった。だが今は、この感情が、自分が人間であることを証明してくれる。彼女は地面に手のひらを突き、痛みを無視して立ち上がった。
「ヤヨイを返しなさい」
「あなたには失望した」
黒いクレイ・ドールは、その背中から黒々とした機械や歯車を広げ始めた。孔雀の羽のようなシルエットが後方に広がっていく。それは4年前の夜空を覆いつくさんとする勢いだった。無機質なクレイ・ドールは今や、混沌から這い上がってきた化け物のような姿に変わっている。
この空間では、すべてがイメージのままになるのかもしれない。気が付くと、黒いクレイ・ドールそのものの大きさも人間サイズから人間の数倍の大きさに膨れ上がっていた。
このサイズ感には見覚えがあった。中学生の頃大きな寺の前で見た金剛力士像とかいうやつだ。
黒いクレイ・ドールの背後で空が赤黒く染まり、異様なシルエットが浮き彫りになる。泉森もその異形の姿を認め、当惑した表情で佐賀美の後ろまで後ずさった。
機械的な怒りを滲ませ、それは一歩ずつ佐賀美に歩み寄ってくる。人間で言うところの口に当たる部分は破損していて、牙をむいているように見える。
「佐賀美サツキ、あなたには素質があると思った。だが、最後にあなたは、個人的な感情を優先した」
前のめりで、眼球のない巨大な顔を突きつけてくる。四方に広がったロボットアームの束が佐賀美の目前に迫り、凶器に満ちた声が響く。
「やはりこの世界は間違いに満ちている!」
泉森の声で、彼女が絶対に発しない言葉を吐き出すクレイ・ドールを前に、佐賀美の心は少しだけ怯んだ。だが、彼女の隣に、もう一つの人影が近づいた。
佐賀美の心に恐れが生じたことを察したように、泉森が彼女の前に立ちふさがった。
「私にまかせて」
泉森は佐賀美の耳に手を当てると、彼女が装着していたサイコ・インタフェースを取り外し、手に取る。そして、自分の耳からも同じものを脱着し、自分の右手に持ち替えた。
「私はもう、大丈夫」
「何、を、しているのです!」
泉森は二つのインタフェースを黒いクレイ・ドールの脚部に思い切り押し込んだ。
「姑息な!」
黒いクレイ・ドールの言葉とは無関係に、その体は小さな機器を受け入れた。黒い足の腱にあたる部分がスライムのように溶融し、インタフェースを握る手首が沈み込んでいく。
泉森が手を離すと、インタフェースは脚を伝ってボディに吸収されたようだった。
佐賀美と泉森、二人分の意識がクレイ・ドールへと注ぎ込まれていく。佐賀美はただ呆気に取られているが、その隣で、泉森は何やら右手に意識を集中しているようだった。
黒いクレイ・ドールの背後に広がっていた精密機械たちが一つ一つ組み合わさり、一つの塊に集合していく。クレイ・ドールにとってそれは想定外の事態らしく、頭を左右に振り、当惑していた。
泉森が力を込めるように、クレイ・ドールに開いた手のひらを向ける。佐賀美もつられて同じ動作を行った。情報への適性は、今のところ佐賀美と泉森が最も高い。今さらになってそんな情報を思い出した。
指先と脳に強い負荷がかかるのがわかった。泉森の思惑が直接脳に流れ込んでくる。佐賀美は泉森とイメージを共有し、中から焼き切れそうな頭を左手で押さえ、右手の指先に力を込めた。電子機器、油圧式アーム、歯車、ありとあらゆる機械が集合した塊はさらに肥大化し、クレイ・ドール本体の倍ほどの大きさに変貌していた。そして、その先端が大蛇かサメのような大口を開けた。
「偽物が!わたくしを喰うのか!」
二人に体を固められ、動けないクレイ・ドールは叫んだ。
苦しげな表情のまま、佐賀美も叫んだ。
「お生憎様!偽物はあんたよ!」
次の瞬間、あらゆる機械の塊が真下へと落下した。黒いクレイ・ドールが自らの背中から生えてきた機械の顎に上半身から嚙み砕かれる。無数の破片が辺りに飛び去り、同時に二人の集中の糸も切れた。精密機械の集合体は部品ごとに分解し、空中へと巻き上げられたかと思えば、粉雪のように降り注ぎ、地面に着く前に消滅していった。
記憶の世界はもう意味を持たない。公園の景色はガラス板のように砕け散った。辺りはセットが片付けられたスタジオのような黒い空間に変わり、二人の周囲には金色のネジや歯車などが幻想的に降り注ぐ。それらは彼女らの身体に触れる前に光の粒子へと分解した。
佐賀美はただ呆気にとられ、泉森の表情を見つめたまま何度か首を傾げた。泉森も同じように、何度か首を傾げた。
しばらくの間逡巡しているうちに、佐賀美の方が先に我に返った。だが、ここから脱出する方法を聞くよりも先に、別の言葉が出てきた。根拠はどこにもないが、それは取るに足らない問題であるような気がしてきた。
「私、ずっと忘れてた」
泉森の顔を見て、佐賀美の表情が少し曇る。
「どうしたの」
「私、ヤヨイに助けられてたのに、私は、ヤヨイを突き放した」
「なんの話?」
泉森は目を細長くして、本気で心当たりがない様子だった。佐賀美はいつもの親友の様子に安堵と困窮の感情を抱き、しばらく沈黙した。
「えっとね、これは私の個人的な話で、しかもちょっと長いんだけど、いい?」
泉森は少しだけ真剣な顔つきになって、頷いた。佐賀美はその場に立ったまま、話を始めた。
「私、中学生くらいまで人の顔色を伺う事ばかり上手かった。それでも周りからは褒められてたから、それだけで自分が大人になったような気分だったのよ」
泉森はお腹の前で両手を組んで、静かに佐賀美の言葉を聞いている。
「でも、それは違った。私は背伸びしているだけで、誰にも負けない何かを持っているわけじゃない。高校ぐらいになると、私の本質を見抜く人が増えてきた。近江先生みたいに」
佐賀美はジェスチャーも入れず、同じ姿勢のまま話した。泉森もずっと、軽く目を閉じたまま彼女の言葉に耳を傾けていた。
「だから就活の時、私は、自分が大人になった気分でいる子供に過ぎないってことがようやく分かって、すごく惨めだった。でも、公園でたまたまヤヨイと会ったとき、あなたは言った。必死ならそれでいいじゃん。ってね」
泉森は突然瞼を開けて、再び両目を細長くした。
「そんなこと言ったっけ?」
「言ったよ」佐賀美は笑った。
「あなたは頑張ってるならいい。必死ならいいじゃん。って、それだけを繰り返してた。その日の夜、やっとその意味がわかった。それまで、私は優秀な人間にならないといけない。正解にならないといけないと思ってた。だけど、そもそも自分はそんなに賢くないし、今からそんな優秀な人間にもなれない。自分にできることは、せいぜい目の前のことを必死でやることだって」
おもむろに上を向いた。天井に空は見えないが、見上げるという行為自体にも何かの意味があるのではないかと思う。
「だから、私はあなたに言いたい。自分がどんなに情けなくて駄目だと思っても、あなたが自分自身と、目の前の問題に必死に向き合っている限り、あなたは素敵だ」
佐賀美がそう言い切ると、飄々としていた泉森の表情が一瞬固まって、朱く染まり、数秒後に、また笑った。
「ありがとう」
笑いながら、涙が出そうになった。そこで今度こそ本当に我に返って、佐賀美はあたりを見渡した。
「そんなことより、ここを出ないと。どうすればいいかな」
再び深刻な表情になった佐賀美を前に、笑ったまま泉森が言った。
「ここはわたしのなかの世界だから、今のわたしを形作るものがなくなれば、この空間はなくなる」
あまりにも自然な物言いだったので、佐賀美は思わずうなずいてしまいそうになった。段差につまずいたような心地がして、疑問符を口に出した。
「え、それじゃあ?」
泉森を形作るものが消える?そうしたら、自分がここまで来た意味は完全に消えてしまう。佐賀美の焦燥を感じ取ったように、泉森が付け足した。
「心配しないで。ここでわたしが消えても、あの八人と記憶を共有してからの四日間の記憶が消えるだけ。病院で目覚めたわたしは、たぶん、工場で意識を失った直後から記憶がないはずだよ。他の八人も、きっとそう」
泉森そのものが消えるわけではないが、それだけでは安心できない。過去の泉森が救えても、今の泉森は救えないのでは意味がないのでは?佐賀美は率直に聞いた。
「今の自分が消えることは怖くないの?」
「不安がないわけじゃない。でも、怖くはないかな」
そう答える泉森の身体は、少しずつ透け始めていた。
「記憶って不思議だよね。どんなに大切だと思っても、すぐに書き換えられて、薄れていく。人間の頭そのものが過去に縋ることを拒否してるみたいに。でもそれって、自然なことなのかもしれない。今のわたしが消えても、それが過去になって、泉森ヤヨイはこのあとも続く。些細なことで喜んだり、傷ついたりしてね。それこそ、生きてるってことじゃない?」
クレイ・ドールだった影響か、今の泉森は以前よりもやや聡明に見えた。もしかすると、八人分の記憶が蘇ることで、彼女はまたあの怪物に戻ってしまうのかもしれない。
「一つだけ名残惜しいのは、さっきの言葉を忘れちゃうことかな。四日前の私が目覚めたら、もう一度言ってくれる?」
泉森の表情に少しだけ陰りが見えたので、佐賀美は前よりもずっと不安になった。その不安をかき消すように、答えた。
「うん、絶対言う。ヤヨイがそれを忘れても、何回でも」
震えた声でそう言った佐賀美を、泉森は、強く抱きしめた。
「ありがとう。じゃあまた、現実で」
「うん。また、すぐに、会おうね」
腕の中の感覚が消える。気が付くと、泉森の姿は完全に消滅していた。花びらか粉雪のように舞い散っていた無数の部品も、いつのまにか綺麗さっぱり消え去っている。ここにはもう何もない。無の空間だ。
その場に立ち尽くすと、さざ波のような眠気がやってきた。立ったまま、目を閉じて、今度は自然に身を任せた。すると、地面が抜けて、深海に漂うような心地に身を包まれた。
こんな静かな眠りは久しぶりで、何日間でも眠れる気さえした。
一瞬、廃墟のようになった工場内部の情景が蘇った。残骸と化した黒と白のクレイ・ドールが同時に崩れ落ちるイメージが浮かぶ。そして、佐賀美は深い眠りに落ちた。
※
竹田や梅川の中に多くの疑問を残したまま、長門キサラギが巻き起こした一連の騒動は終息を迎えた。甲斐ヨシミをはじめとした長門の共犯者たちは全員逮捕され、すべてが終わったと見るや、今までの黙秘が嘘だったかのように、長門が事件の詳細を赤裸々に語ったのだ。
しかし、クレイ・ドールと呼ばれるロボットが誰の手に渡っていたのかは、それは長門でさえ知らなかった。自分は人間に限りなく近いロボットを作っただけで、それを利用して取引を行ったのは甲斐だと言った。竹田はすぐに甲斐たちを問い詰めたが、彼らも取引先の正体は知らなかった。
無論、クレイ・ドールに追われていた男性にも話を聞いたが、「何も知らないし襲われた理由も分からない」の一点張りだった。彼が何かを隠している予感はあったが、今はいいだろう。工場を滅茶苦茶にしたクレイ・ドールの真相はいつか解明されるはずだ。
それはそうと、竹田には明らかにしておきたい個人的な謎が一つだけあった。それを解明するために、彼は長門との面談を組んだ。
小さな照明が置かれた机の先で、長門が手首を組んで座っている。自分の計画も、開発品もすべて押収されたというのに、相変わらず想定内だと言わんばかりの微笑を浮かべる男を一瞥し、サテン調の黒い椅子を引いた。
「一つだけ、聞いてないことがあった」
「なんだい、刑事さん」
長門は組んでいた手首をほどき、顎肘をついた。
「あんたは、作詞が趣味の冴えない学生だった。だが、ある日突然、ロボット設計の才能が開花した。唐突に、いまだかつてないロボットを開発するという野心が芽生えたんだ。今まで作ってきたロボットも、あのクレイ・ドールとかいうやつの前座だった。そうだろう」
「ああ。既存のロボットの改造でノウハウを得て、最終的に一から設計したんだ」
今までの捜査から長門の略歴もおおよそ把握していた。長門がロボットを開発していた旨を伝えると、彼を知る人物は皆、驚愕と興味の色を示した。
クレイ・ドールは単純な機械ではなく、現代の技術を超越したオーバーテクノロジーだ。
技術は魔法ではない。その内部には原理があり、物理法則に基づいている。それでも、電子制御が複雑すぎるためか、回収したクレイ・ドールから技術を解析することは困難と結論付けられた。結局、最後に残ったクレイ・ドールも上層部の判断で解体され、破棄されることとなった。あれは今の人間の手に余るということだろう。長門は逮捕直前にクレイ・ドールの設計図データを破棄していたため、あれがどのように駆動しているのか、すべての真相は彼の頭の中にしかない。
「どうしてあんなものを作れた?」
竹田は最大の疑問を問うた。長門はわずかに表情を硬くし、答える。
「偶然だよ」
「偶然?」
そのままの表情で続いた言葉は、竹田の予想に反してあまりに突飛なものだった。
「本当だよ。偶然、思いついたんだ。興味本位で買ったコアユニットをいじっていた時、突然、世界中の名だたる天才たちの記憶が浮かび上がった」
「はあ?」
竹田は思わず口を半開きにした。言っていることが理解できない。
「何言ってんだ?」
「私にもよくわからないよ。それに、その記憶も今はどこかへ消え去った。クレイ・ドールを組み立てることはもう、私にもできない」
「なんだそりゃ」
竹田は眉をひそめた。今までさんざん警察を煙に巻いてきた男だ。わざとおかしな話を持ち出し、こちらを混乱させようとしているのかもしれない。惑わされないように長門の目を睨むが、網膜の中に、こちらをあざけるような戯れは感じ取れない。むしろ彼の表情はどこか虚ろで、生気のない寂しさが浮かんでいた。竹田は追求した。
「なら、どうして設計図を削除した。自分の発明が他人に利用されることを防ぐためか」
「そうではない」
いつの間にか、長門の顔は無表情に変化していた。
「飽きたんだ。クレイ・ドールが完成した瞬間にね」
初めて知った。彼はすでにクレイ・ドールへ興味を失っていたのか。竹田の中の長門のイメージが崩れていく。そこには虚無感に苛まれる痩せた青年の姿だけが残った。
「ロボットの製作に、か。だが、あんたの話が本当なら、頭に浮かび上がったマニュアルをなぞるだけで、あんなものを作り出したんだろう。あんたはその過程を楽しんでいたはずだ」
「ああ。最初はね。本体の組み立ては甲斐達の担当だった。私はただ設計図を書き出し、複雑な電子部品を組んだだけだ。だが、すべてが完成したときに気が付いた。自分は、自分の頭脳を一切使わずにクレイ・ドールを生み出した。そんなものに価値があるだろうか。自分はこれを創造したのではない。自分はクレイ・ドールに“作らされていた”んだ」
彼の言う事を信じればの話だが、竹田は不覚にも長門の考えを理解した。人は自分の頭で考え、実行することで充足感を得る。だが、最初から答えを渡された長門にはそれがなかった。頭の中に設計図が送り込まれ、その指示に従っただけだ。
インタフェースは、絶えることなく進化を続けている。常に頭の中には最善の選択肢が提示され、誰もが何も考えずに済む日が来るのかもしれない。その時代に、自分たちのような人間の居場所はないだろうな。と竹田は思った。
「付け焼き刃の技術とはそういうものだ。その記憶が消えたのも、今の時代には早すぎたってところだろうさ」
「たしかに、早すぎたかもしれない。でも、クレイ・ドールに時代が追い付く瞬間は確実に来る」
竹田の言葉を皮切りに、再び長門は微笑を浮かべた。何がおかしいのか。いまだに彼の頭の中は理解できない。
「その日は十年後かもしれないし、一年後か、一か月後か、一週間後か、もしかしたら、明日かもしれない」
まもなく、機械の性能は人間を追い越すだろう。その先の世界がどこへ向かうのか、竹田には知る由もない。
「恐ろしい話だな」
消化不良のようにも感じるが、一つの区切はついた。彼は椅子を引き、扉へと向かった。
「その時代は、“すぐ”に来るだろう」
背後からから聞こえてきたのは、初めて相対した時と同じトーンの声だった。
竹田は無表情のまま扉を閉じ、通路を歩こう、とした。
「先輩!何してたんすか!」
高く、威勢の良い声が響いてくる。廊下の階段側から、赤縁の眼鏡の後輩がすごいスピードでこちらに走ってきた。竹田は半分感心して、半分呆れた。
「報告書が!取材が!仕事が!雪崩のように!」
「ああ、わかったわかった!」
小型犬みたいに取り付いてくる梅川につられ、竹田は走った。この調子では、数年後の未来どころか明日の予定すらままならない。明日も明後日も、たぶん同じだろう。
※
「⋯がみ、⋯がみ」
どこか遠くから、この暗闇の外側から自分を呼ぶ声が断続的に聞こえてくる。同時に、うっすらとしたサイレンの音と、誰かの話し声も聞こえてくる。
自分を呼ぶ声に答えないと。そう思って、目や口を開こうとするも、それらは鉛のように重く、ずっと開けないままでいる。そのままでいるうちに、自分の身体が今までよりずっと楽になった心地がした。
それから、ささよくようなサイレン音も、自分を呼ぶ声もぴったりと止んで、再び静寂が訪れた。世界そのものが停止したような静けさの後で、佐賀美はようやく目を覚ました。
クリーム色の天井と、馴染みのない切り餅のような蛍光灯が視界に映った。重い布団の中でかすかに傷が疼いて、今までに起きたすべてのことを思い出した。同時に、自分を呼ぶ声の主も思い出した。
おもむろに頭を右側に傾けると、すぐそこに近江の顔があった。驚きかけたが、相手があまりに無反応であるがゆえに、平静が保たれた。
佐賀美のベッドのすぐ横で、近江が首を前に傾けて眠っていた。佐賀美よりも大人なのに、こうしてみると、年齢よりずっと幼く見える。窓から差し込む光が、彼の髪を透き通して、白い肌を照らしていた。
右腕には太いギブスが巻かれ、窮屈そうに見える。佐賀美の心境が少し曇った。彼の怪我も、自分を助けようとして負ったものだ。
自分が目を覚ました代償に彼が目を覚まさなくなったような気がして、根拠のない不安に駆られた。彼の顔は手を伸ばせばぎりぎり触れられるほどの距離にあったので、佐賀美はゆっくりと手を伸ばした。ところどころガーゼが巻かれ、絆創膏の張られた右手が布団の上を伸びていく。
ところが、近江の頬に触れる直前で彼の瞼が短く痙攣した。
「ん」
近江が目を覚ましたらしい。佐賀美は慌てて手をひっこめた。
「先生」
呼びかけると、近江は眠そうにまばたきして、言った。
「佐賀美、目が覚めたのか。丸三日眠ってたから、心配したよ」
「先生、ヤヨイは?」
矢継ぎ早に質問を繰り出してしまったが、近江は優しげに答えた。
「無事だよ。東京の病院で目覚めたらしい。あの八人もね」
今度こそ、本当の安堵がやってきた。数日間ぶりに心から気が緩んで、布団に身を任せた。
「戻ってきてくれて、良かった」
「ほんとうだ。君もね」
「先生も、無事でよかった」
佐賀美は本心で言った、泉森がどこか遠くへ行ってしまうことは、どうしても耐えられない。それは、近江に対しても同じことだ。
「先生」
佐賀美は続けざまに言った。
「ありがとう。私、今回は頼りきりだった」
彼の助けがなければ、事件は解決していないし、自分はこの場所にはいないだろう。まともに礼を言っていなかった。事件からだいぶ時間が経ったのに。申し訳ない。
「いいや。事件を解決したのは、きみだ。僕じゃない」
近江は少し驚いていたが、すぐ口角を上げた。彼には珍しく照れ笑いに近い微笑だった。
「それでも、ありがとう」
佐賀美が体を起こすと、窓の外で雲が大きく動いて、彼女や近江を照らしていた日光を遮った。唐突に眩しさが消えて、近江の顔がはっきりと見えるようになった。そして、新しい不安が押し寄せた。
アーバンメカトロニクス立川工場は滅茶苦茶になってしまったし、町のいたるところで被害が出てしまった。その犯人は、偶発的な現象によって正気を失った泉森で、それは彼女自身が望んだことではない。いつか、この事件の真相が白日の下にさらされる日が来るのだろうか。もしそうなら、彼女が身に覚えのない罪を背負うことになるかもしれない。
「あの子は、私が支えないと」
何度か瞬くと、自然と口から言葉がこぼれた。近江は心配げな表情だ。
「君が負い目や責任を感じているなら、そんなことは、」
「ううん。私は、高校の時から、ずっとあの子に助けられてた。やっと思い出したけど、私が普通に大人と話せるようになったのも、あの子のおかげなんだ」
「そうか」
近江は静かに、小さく頷いた。
「君の人生はこれからの方が長いんだ。自分で決めるのがいい」
「先生も大して変わらないのに」
彼はどんな時でも正面を向いている。たった二日間の出来事だったけれど、自分が前を見続けられたのは、心が後ろ向きになりかけた時、彼の手がそこにあったからだろう。
佐賀美は黙って、右手を持ち上げた。その動作を察した近江は、すぐにギブスの巻かれていない左手を差し出し、佐賀美の手を力強く握る。互いの肉体が幻ではなく本物であることを確かめるように、佐賀美も近江の手を強く握り返した。
※
近江が病室を後にして、一人になった佐賀美は青空の広がる窓に目を向けた。考えなくてはならないことは山ほどあるが、この二日間の間に触れたあらゆる事実から、ひとまず空想を広げた。
文明の始まりから現代に至るまで、時代は目まぐるしく変化している。それは、進歩したというよりは、世界に適応して、形を変えたと言うべきかもしれない。歴史の濁流に飲み込まれないよう人々が必死にもがいた結果が、住居を作ることであり、農業を営むことだった。そして、その延長線上にインフラやネットワーク、そしてインタフェースがある。
世界の流れには抗えない。人類が本当に「記憶の共有」を必要とする局面に立たされた時、新しい世界は幕を開けるだろう。
黒いクレイ・ドールに変わり果てた泉森の姿を思い出し、足がすくむような思いになる。自分がそれを望まなくとも、世界が変革を望むのなら、抗うすべはもう、ない。
だが、世界がどれだけ変化しても変わらないことがある。人は悩み、取捨選択を繰り返すことだ。やがて「記憶の共有」により、人は肉体の枷から解放され、暴力や苦しみは摘出されるだろう。それでも、完璧と思われた世界にはどこかに綻びがあり、やがてそれは人間社会の傷口に変わっていく。そして、その傷を埋めるために、世界の形は変わっていくのだろう。
佐賀美は目を閉じて、瞼の裏に浮かび上がる情景を追った。
正面には暗く狭い道路が続き、その先にはうっすらと交差点が見えている。
分かっているのは、後退も停止もできないことと、どの道が正解か誰も知らないことだけ。
どこにもゴールはない。間違いなら落とし穴が、正解なら新しい交差点が現れるだけだ。
人間は皆、迷い、葛藤し、苦しんでいる。右折すべきだろうか、左折すべきだろうか。それとも直進か。
考えた末の選択を肯定する人もいれば、否定する人もいるだろう。絶対に後悔することのない選択肢はない。考え抜いた先にあった真理でさえ、突き詰めていくと粗が出始め、しまいには機能しなくなる。世間の正しさを集約した法やルールも万能な地図にはなってくれない。
それでも、必ずどこかへ進まなければならない。後退することはできない。だから、最後まで選べず、目前まで決断を迫られたときは、自分の心に任せてしまおうと思う。原始的な直感に。
考え抜いた先に待っているのが苦しみだったとしても、甘んじて受け入れよう。
それはそれで、私の選択なのだから。