zorozoro - 文芸寄港

ジャンクション=インターフェクション

2024/07/08 14:10:49
最終更新
サイズ
259.79KB
ページ数
8
閲覧数
960
評価数
0/1
POINT
100
Rate
12.50

分類タグ



最後に泉森と会話を交わしたのは、都内のコーヒーチェーンの一角だった。外資系のチェーンではなく、いかめしい漢字の店名を持つ日本のブランドである。佐賀美の職場近くには似たようなチェーン店が隣接しており、利益を食い合ってしまうのではと心配になるくらいだ。
佐賀美と泉森は同期だが、現場と品質管理課という立場の違いから休日が合わないことの方が多い。久々に予定のない日が重なるというので、二人はこの店で落ち合うことにした。店内はそこそこ混み合っていたが、自分たちの声だけが目立つこともないので、かえって安心した。周囲には学生と見られるカップルや家族連れが賑やかに過ごしているなか、一人で軽食をとっている男性の姿も見られる。優雅な午後を過ごしに来たのかもしれないが、こうも騒がしいと落ち着かないだろう。仕方のないことだと思った。人はあらゆる場所で、「騒いではいけない」と釘を刺されるが、どこまでが「騒ぐ」に当たるのか、誰も分からない。では逆に、これに基準を設けてルールを設定したらどうだろう。一人当たり何MHzの声量を出したらルール違反となります。そんな張り紙があちこちに貼り付けられる空想が浮かび、馬鹿馬鹿しい気分になった。この世界は個人の良識でなんとなく回っているのだ。そこに何かしらの齟齬が生じるのは仕方がない。
二人は店内の壁際にある小さな二人用の席に座り、楽しい話をするわけでもなく、どこか疲れた顔で飲み物を前にしていた。泉森はエスプレッソのように濃い、真っ黒なブレンドコーヒー。佐賀美は、コーヒーより練乳の方が多いのではないかというくらいに甘いカフェオレを飲んでいた。ときおりカップを口に運びながら、泉森の容姿をぼんやりと見つめる。鋭いストレートの髪と痩身のせいか年中寒そうな印象の佐賀美とは対照的に、泉森は年中暑そうな恰好をしている。ロングの天然パーマは腰のあたりまで伸びているし、彼女は常に分厚い服を着ていた。普段はそれが彼女の性格由来の温かさと合致して、場所を共有する人々に心地よさを与えるが、今の彼女からは、じめじめとした嫌な暑さが伝わってきた。
「社会人に向いてないなあ。あたし」
天井でゆっくりと回転する木製のファンを眺めていると、正面から弱弱しい声が聞こえてくる。陰鬱な雰囲気をまとった声色に自分の心も引きずられるような気がした。同時に、静かで暗い怒りがすっと沸き上がった。「話が違う」と主張するときの怒りに似た、理不尽で場違いな怒りだ。
そもそも、彼女は陰湿な性格ではない。佐賀美の倍ほどは明るく、人との関わりを生きがいとする女性だ。しかし、だからこそ、その変わりように違和感を覚える。
「どうしてよ」
佐賀美はできるだけ負の感情を悟らせない口調で言った。
どうしてよ。と聞くも、心当たりはあった。仕事の都合で現場に出向くと、泉森はたいてい周囲から注意を受けているか、怒られている。その姿を見るたび、彼女の学生時代の朗らかさは消え、冴えない工員になってしまったことを実感し、こっちまで気分が落ち込んだ。

「今の仕事が向いていないんじゃない」

佐賀美は、うつむき加減の泉森の様子を見かねた。この世には数えきれないほどの職場があるのだから、社会人に向いていない人。というのはあり得ない気がする。泉森のカップから苦いコーヒーの臭気が漂ってくる。

「どんな仕事でも、続けられる気がしない」
「今の仕事でも、もうしばらくすれば慣れるでしょう」

要領を得ない会話に、別の回答で切り込んだ。事実、二人が務める工場は夜勤や休日出勤はあれど、その分の給料は支払われるし、振替休日もある。ブラック企業と呼ぶには無理があった。それに、会社に不満がないのに仕事に不満を持つのは不条理な気がする。

「サツキちゃんは、すぐに適応できるよね」
「そうでもないよ。私だってうまくいかない事もある」
「あたしとは違うよ」

しばらくの間生産性のない会話が繰り広げられ、コーヒーは冷め、佐賀美の注文したアイスクリームは溶け始めた。
泉森が別の職場で働いているのなら、無責任に辞めればいいとでも言えたかもしれない。だが、部署が違うとはいえ彼女は同僚だった。彼女を見下して劣等感を逆なでするのは抵抗がある。
佐賀美は、アイスクリームの溶け始めた部分をすくい、口に運んだ。カフェオレのおかげで、甘味が全く感じられない。舌に残るのはねっとりとした触感だけだ。どうして甘いコーヒーを注文したのだろう。

「そういう自信喪失も、一時的なものだよ。もうしばらくすれば仕事も覚えるようになるだろうし、慣れると思うよ」

進展しない会話の中で、これが結論のように感じた。佐賀美自身が自信を失っていた時期を思い出したためだ。それは入社前の、学生時代の話だが。これで納得してくれるだろうか。そう思いながら泉森の表情を伺うが、その表情は何一つ好転していない。追い打ちをかけるように、泉森が重い口を開いた。

「サツキちゃんにはたぶん、分からない」

今度は本当に心外だと思った。自分から話を振っておいて、突き放すような物言いはないだろう。

「じゃあどうしたいのよ。それが分からないと、私にはどうすることもできない」

感情のハンドルがうまく回せず、声が上ずってしまう。周囲の客から目立つほどの声ではないが、言った後にとても後悔した。怒りのコントロールは誰よりも得意だと自負していたからだ。感情にさほど意味はない。いつも理性ではそう思っていた。ニヒリズムとまではいかないが、人間がただの物質や事実に感動する理屈が理解できなかった。だが、それとは対照的に、自分の内奥はことあるごとに感情を叫ぶ。そして、その感情を外側に吐き出せと命令してくる。

「それもたぶん、分からない」

泉森の態度は終始変化しなかった。自分が感情豊かな人間で、泉森が感情を失った人間のように感じ、佐賀美は一層不機嫌になった。本当なら、その立場は逆であるべきだ。
これ以上話す言葉も見つからず、冷めきったカフェオレを口にした。当人の間でその関係性を確認しあったことはないが、泉森は高校時代からの友人だ。互いに別々の専門学校へと進学し、偶然同じ会社に就職した。これまで、彼女と意見が食い違ったことも何度かあった。それに、今の会話は口喧嘩と呼ぶほどのものではない。だが、この数十分の会話で、佐賀美の心には、泉森との間にあった重要なつながりの一つを絶ってしまったような、後味の悪い後悔だけが残った。しかし、何に後悔しているのか、それが分からない。
それからは話を続ける気にもなれず、なあなあで泉森と別れた。帰路につく頃には、明日からの仕事のことで頭がいっぱいになってしまった。
その次の日、泉森は昏睡状態に陥った。



理由は分からないが、起きなければと思った。夢の内容は思い出せない。温水でおぼれているような感覚を覚える。水面に這い上がろうと手首を振り回し、押しつぶされるような眠気と倦怠感の中、ようやく目を覚ました。アラームを忘れてしまったらしい。寝過ごしたかもしれない。ベッドに落ちていたスマホを開くと、時刻は十時を過ぎていた。近江との約束の時間の三十分前だ。眠気が一気に遠のいた。
すぐに支度を始めた。再びスマホを見ると、昨日、課長へ打ったメールに、山城重工に連絡を入れておいたという旨の返信が来ていた。休日出勤と出張の申請もしてくれるらしい。このフットワークの軽さは課長の美点の一つだ。今のうちに自分からも山城重工に電話をかけることにした。寝巻のまま、スマホの電話マークをタップする。山城重工の若い男性は硬い敬語で予定を確認し、明日の訪問の予約は滞りなく完了した。スーツを鞄に詰め込み、ラフな服装に着替えた。遊びに行くわけではないので、当たり障りのない平凡な格好だ。大方の準備が終わったところで、近江から電話がかかってきた。
アパートの軒下に降りると、彼はポケットに手を入れて待っていた。オリーブ色のジャケットを羽織っており、肩からバッグを下げている。この格好で佐賀美の隣を歩くと、ただの同年代のカップルとみなされそうだ。

「それじゃあ、行こうか」

彼はそう言って、佐賀美の一歩前を歩き始めた。頭上は一面の曇り空で、佐賀美のもやのかかった思考を象徴しているかのようだ。それが今は、少しだけ心地よく感じた。
立川駅が視界に入るまで歩くと、道を行きかう人で辺りは混雑していた。
交差する橋のようなオブジェクトを避けて歩いていく人々を眺めた。皆、鼻や口まで素顔を隠すことなく語らい、笑いあっている。今でこそこの光景は当たり前だが、十年ほど前までは違った。世界で未曽有のパンデミックが発生し、世界中のあらゆる民族と、人種がマスクを着けて生活することを余儀なくされたのだ。当時は子供だったが、幼いなりに、このウイルスの流行が世界を変えるきっかけになったことを実感した。人類が経験したことのない地球規模の災害を目の当たりにし、人類はいよいよ母星の限界が近いことを思い知った。それまでは、地球は絶対的な力に守られていて滅ぶことはないと誰もが無意識に考えていた。
ところがその感染症は、人間がいつ死ぬか分からないように世界もいつ終わるか分からないという事実を残酷なほど簡単に突きつけた。一方で、環境破壊や人口爆発、食糧危機といった問題は一向に解決へ向かわず、世界の命運に諦観を示す人々も現れた。数十年前の生活に戻れば地球は大幅に延命できるという意見もあったが、歴史を逆行することは人間にとって最も難しい行為だった。だから人類は、世界に生じ始めた傷口を新技術で縫い合わせることを選択した。ロボット技術の躍進やインタフェースのような新技術も、そんな後ろ向きな理由から生み出されたものだ。
昨日ほど会話は弾まず、二人は淡々と地面を踏んだ。並んで歩くと、近江の身長は佐賀美とさほど変わらない。客観的に見ると自分たちはカップルというより、年の近い兄妹に見えるのではないか。

「今更こんなことを聞くのは野暮だと分かっているんだけど」

窓口で切符を購入しホームに向かう途中、近江が唐突に話を振った。

「工場で起きた昏倒事件って、本当に周辺環境が原因ではないんだよね」
「ええ。それは調べ尽くしました」

エスカレーターに足を乗せ、堂々と答えた。これは確証を持って言えることだ。

「倒れてすぐは貧血を疑われたけど、何日間も意識が戻らないのはおかしい。それに、事件の数日前に健康診断が行われ、九人とも異常は見つかりませんでした」
近江の背後でどこかの病院の広告が流れていく。
「まあ、九人が同時に意識を失うっていう事態が、偶然ではありえないしね」

近江はそう言いつつ、貧血以外に何の原因があるのだろうと訝しむような表情を見せた。
エスカレーターを降りると、ホームにたどり着く。全面タッチパネルの自動販売機が一番線乗り場と二番線乗り場を分け隔てていた。
近年の駅のホームには簡易的な手荷物検査が敷かれている。大量に流れ込んでくる利用客を赤外線で分析し、危険物が紛れ込んでいると疑われれば、その周囲にいる人も含めて一斉に検査されるという仕組みだ。手荷物検査は、かつて空港にしかなかったが、今や新幹線だけでなく、在来線にもこのシステムが導入されつつある。不正確なシステムだが、明らかに怪しい客を弾き出すことには成功しているらしい。

「ホームに列車がまいります。黄色い線の内側でお待ちください」

数人の列に二人が加わったところで丁寧なアナウンスが流れ、会話を一時中断させる。黙って待っていると、数十メートル先からヘッドライトの白色光が向かってきた。橙色のラインが入った在来線がホームに停車し、一呼吸置いて老若男女を吐き出していく。近江は乗車すると、仮説の一つを口にした。

「工場内に有害なガスが充満していたとか?」
「それも検証済みで、一酸化炭素の充満とか感電の可能性とか、現実的にあり得ないような条件まで考慮して実験を行ったんですけど、どこにも異常は見られなかったんです」

再び扉が閉じ、見慣れた景色が加速し始める。アーバンメカトロニクス立川工場の真横を通過し、その先にビル群が見えてくる。この三日間、必死に調査を重ねたことは近江にも伝わっていた。しかし、環境が原因でないとすれば他に何があるのだろうか。

「睡眠薬を仕込まれたんじゃないか」
「犯人がいる可能性まで考慮しているんですね」

いたって真面目な表情で近江が言うと、佐賀美は微笑を浮かべた。その意見も馬鹿にはできない。同時刻に複数人を眠らせる睡眠薬という仮説はいささか荒唐無稽だが、彼女も事件の裏に何らかの思惑があるのではないかと思い始めていた。

「これだけ不可解な事件となると、犯人がいないとも限らない」

佐賀美は考えた。犯人がいたと仮定すると、その動機は多少見当がつく。昏睡事件が発生したのは、インタフェースを導入したその日だ。その日が訪れるまで、社内では議論が白熱していた。インタフェース導入の是非を問う議論だ。だとすれば…。

「インタフェースに反対する人がやったんじゃないかしら」

佐賀美は軽率だと思いつつも、彼らに疑いの目を向けていた。事件の原因がインタフェースにあると主張すれば、インタフェースの導入を中止させる口実になる。しかし、事件発生当時現場に居合わせた反対派のベテラン技術者は、異様な事件を前に動揺しており、そこに悪意は感じられなかった。

「でも、どうやって?」

近江は、もっともな指摘を行う。それこそ、万能な睡眠薬がなければ無理だ。

「それは、ますますわかりませんね」

会話は再び中断した。今は、昨日のように事件と関係ない雑談をする気分にもならなかった。
そのままJR中央線快速に乗り続けると、電車はまっすぐ東京駅に吸い込まれていった。東京駅は人通りが多く、人の波にかき消されないようにするためか、電子広告も巨大だ。構内のお土産屋の横を通過し、大阪方面と書かれたエスカレーターに足を乗せた。時刻表を確認すると、新幹線の到着時刻はもうすぐだ。家を出るにはちょうどいい時間だったなど、意味もない会話をしているうちに、東海道新幹線がやってきた。新幹線のホーム特有の柔らかい電子音が辺りに響くなか、車内に乗り込んだ。東海道新幹線の700系にはN700Aという型と新しいN700Sという型があるらしく、二人が乗り込んだのは後者だった。こちらは内装が飛行機のものと似ていることが特徴らしい。新しいといっても10年以上前の話なので700Aと比較した場合の話だが。

「お席を立たれる場合は、貴重品の管理に御注意ください」

二人は自由席の通路を歩いた。出入口付近に空いている二人席を見つけ、立ち止まる。佐賀美が先に窓側の席に座り、少ない荷物を足元に置いた。

「空いてるなあ」

近江は分かりきったことを口にしながら、佐賀美の隣に腰かける。二人が席についてすぐに、新幹線は東京駅を出発した。



少年は徳川家康像を取り囲む鳩をぼんやりと眺めていた。
JR静岡駅の北口にはバスターミナルがあった。複数台のバスがこのロータリーを回転し、乗客を入れ替えるのだ。普段と何ら変わらない土曜日の昼だった。地下道に続く階段を降りようとしていた少年は、こちらに向かって珍しい車両が近づいてくるのを見た。試験的に運用が開始された無人トラックというやつだろう。少年は一度足を止め、物珍しさから郵便局ビル付近に停車した純白の車両を観察した。車というのは窓ガラスがないだけでこれほど不気味に映るものなのだろうか。普通なら運転手の顔が見えているはずの車体上部は、分厚いガードに覆われており、その下には複数のセンサーやカメラが無機質に並んでいる。
無人の輸送車がこんな場所に何の用だろう。少年が訝しむと、トラックの荷台がゆっくりと開き、一人の男が車両を降りた。
少年は目を疑った。人間が乗っていたのなら、なぜ無人トラックなのだろう。無人トラックは、カニのような作業ロボットとセットで展開する無人運輸サービスだ。そのため、荷台から姿を現すのは荷物をいっぱいに抱えたカニロボットでなくてはならない。しかし、実際にはたった一人の男が降り立ち、トラックはせっせと走り去った。
目を離した隙に、男は忽然と姿を消した。思えば、男の服装も変だった。あの一瞬の間に見た限りでは、真っ黒な中折れ帽に真っ黒なコートを身に纏い、足は先端が尖った靴を履いていた気がする。もちろん、つま先に至るまで、その色はすべて黒だ。
全てが視界から消えてしまった今は、幻覚を疑わざるを得なかった。もしかしたら、頭上に飛ぶ飛行機の影やカラスなんかと見間違えたのかも知れない。
しかし、周囲にいるのは鳩ばかりで、飛行機の音も聞こえなかった。
 


新幹線が東京駅を出発してから数十分間、近江と佐賀美は黙りこみ、それぞれ個人の世界に没入した。この地が都心であることを主張するビル群が視界から追いやられ、丘のように小さな山や田んぼ、または民家が目線の先で流れていく。しばらくの間、佐賀美は見慣れたはずの景色に見とれていた。景色は徐々に田園風景から工業地帯に変化していく。工場は見慣れた場所で、知らない会社の工場であろうと興味はなかったが、ロボット産業の急激な発達に応じて増築を繰り返す巨大な工場は、まるで未来の戦争に使われる要塞のように見えた。
一方で、通路側の近江は熱いコーヒーを何回か飲もうとするも、舌を火傷し断念していた。手持ちぶさたになったらしく、彼の方が数十分ぶりに沈黙を破った。

「佐賀美はさ、インタフェースの導入には賛成だったの?」

佐賀美は突然景色に飽きたように無表情になり、近江の座る方向に向き直った。

「私は、賛成ですよ」
「今回みたいな事件が起こっても?」

試すような口調だ。彼女は言葉の節々を強調させた。

「そうですよ。だから、私はむしろ事件にインタフェースが関与していないことを証明したいんです。」
「それはやっぱり、仕事が楽になるからかい」

近江は続けて聞く。説教するような尋ね方ではなく興味本位のような気がした。佐賀美は正面を向き、コートで厚くなった腕を組んだ。

「楽っていうより、合理性ですよね。インタフェースがあれば仕事の効率は今までになく上昇するし、それこそ、すべての技術者が均等の知識と技術を身に着けられる。仕事場においてこれほど良いことはないでしょう」
「そうか」

近江は、感情を感じさせない声で相槌を打つ。

「私はうんざりしてたんです」

淡々と、事実を報告するように佐賀美は言った。

「仕事は自力で覚えるから価値があるっていう考えに」
「新しいテクノロジーの普及にはつきものだね。僕が小学生の頃、書類はすべて手書きで書かないといけない会社があると知って、驚いたよ」

近江は微笑を浮かべ、懐かしむように言った。

「そうでしょ。仕事に必要なのは根性じゃなくて計画性です」
「それが、君がこうして調査を進める理由かい?」

急に真顔になり、近江が聞いてくる。彼は忘れたころに先生の顔に戻る。正直なところ、近江の教師としての顔は、あまり好きではない。

「そうですとも」
「なるほどね」
「疑ってるんですか」

佐賀美は不服そうに聞き返した。負の感情と、それを押し込めようとする理性が拮抗し、彼女の胸に、少しだけ黒いものが溜まった。

「うん。まあ、そうだな。疑ってる」
「私は嘘を言っていないですよ」

彼女は言い切った後に、必ずしもそうではないことに気が付いた。

「効率性っていうのも、君が行動する理由の一つだということはわかるよ。でも、それは一番の理由ではないんじゃないかな」

教師としての近江が質問を重ねる。

「他になんの理由があるっていうんですか」
「君は昔から建前で目的を話す癖がある」

近江は佐賀美を焦らすように一呼吸明け、続けた。

「心配なんだろう、泉森のことが」

佐賀美は体裁など忘れ、近江にしかめっ面をさらした。
図星だ。彼は佐賀美が隠してきた感情を、その理由とともに把握している。その通りだ。自分は泉森の身を案じている。だからこそ自ら調査を受け持ったし、今もこうして静岡に向かっている。だが、そのことは近江にも話したくなかった。
なぜなら、自分は一度泉森を突き放しているからだ。自分は、いつもの彼女とのギャップに嫌悪感を感じ、話を聞こうとしなかった。いつでも話はできると思っていた。こんな事態に置かれてから、周囲に「友人を救うために頑張っている」などとは、口が裂けても言えない。

「どうして、分かるの」
「君の様子を見て分からない方がおかしい。泉森が昏倒した患者の一人ってことは昨日知った。それと、君はたぶん焦燥感だけじゃなくて、罪悪感も感じている」

佐賀美は、教師の顔をした近江がなぜ苦手なのか、ようやく思い出した。彼は教師の顔になると、人の感情をくみ取るのが上手くなる。言い訳を見繕っても、大抵のことは見透かされてしまうのだ。彼女は観念し、事件の数日前のことを打ち明けた。

「インタフェースだって、あの子、仕事を覚えるのが苦手だから、あの子がインタフェースを使えば、もう仕事で苦労することはないって思って」
「でも、インタフェースを導入してすぐ、彼女は事件に巻き込まれた」
「そう、仮にこの同時昏倒事件が解決したとしても、その原因がインタフェースにあるとすれば、あの子は間違いなくインタフェースを使えなくなる」
「だから事件にインタフェースが関与していないことを証明したい。ということか。なるほど」

近江は納得したらしく、小さく頷いた。
佐賀美は、個人の能力の総量は一定であり仕事の出来不出来は采配によるものと考えていた。向いている役職に就けばどんな人でも能力は発揮できる。泉森は、今の仕事が向いていないか、成長期がまだ来ていないだけだと。

「佐賀美は、インタフェースが泉森を救うと思っているのか?」
「ええ」

近江の設問に短く答えた。インタフェースは泉森の潜在的な才能を呼び起こし、彼女の仕事の不調という問題を解決するだろう。

「そうか。でも、僕はそうは思わない。」
佐賀美の意図に反して、近江はぴしゃりと言い放った。

「それはなぜ?」佐賀美はすぐに言い返した。
「インタフェースの能力は、あくまですべての人間の能力を底上げすることだ。人間同士の力量差は、機械で埋めることはできない」

近江にしては珍しく冷淡な口調だ。

「いま彼女にできることは君の言った通り、仕事に慣れることさ」

佐賀美はかすかに心が渦巻くのを感じた。今の近江は、佐賀美のイメージする近江とは違う。この事態に苛立ちを覚えれば、泉森との会話を再現する羽目になる。今後、人との対話が毎回こんな流れになるのではないかという不安に襲われ、一層暗い気分になった。
正直、これ以上会話をしたい気分にはならなかった。しかし、ここで話が途切れるのも不自然な気がする。

「それじゃあ、先生は、インタフェースの導入に反対なの?」

佐賀美は、先ほどから気になっていた疑問をぶつけた。佐賀美にだけ意見を聞いて、自分は話さないというのは不公平だろう。近江は少し考えるように沈黙を作った。

「まあ、インタフェースにも一長一短だ。反対派の言うことも分からないでもない。」

近江の回答は佐賀美の予想よりもありきたりだったが、彼が何の根拠もなく発言するとは考えにくいとも思う。

「今回の事件にインタフェースが関わっていなかったとしても?」
「そうさ。重要なのは、実際に事故を起こしたかではなく、そういうリスクを抱えているか。だよ。新しい技術を仕事に導入するのは、それなりにリスクが伴うものさ。わかりやすい例が原子力発電かな。災害に伴う事故や、核廃棄物の兵器転用。そうしたリスクは人々の心の中に存在し続ける。どんなものでも、デメリットとメリットが共存しているんだ」

確かに、共感できる部分はあった。こうしたリスクは、人々を不安に陥れているうちは害を及ぼさず、それが生活に定着して身構えなくなったときに牙をむくのだ。しかし、それは世の中のあらゆる技術に言えることで、インタフェースに限った話ではない。事故を無くすために車の販売を禁止するようなものだ。佐賀美は、近江の何に違和感を感じているか分析し、自分なりの考察をまとめた。

「なんだか先生の意見って、なにかにつけて中立的じゃない?」
「そうかもしれない。賛否両論ある話題について考えると、結局、どちらにも正当な理由がある場合が多いからね。」
「絶対的に正しいものも間違っているものもないってこと?」

思えば、近江は昔から善と悪は存在しないという持論を述べていた。高校生の佐賀美は、教師がそんなことを言っていいものなのかと不思議に思ったくらいだが、近江は、善も悪も立場の違いでしかないと主張した。ただ一つ、それを図る指標があるとすれば、それはルールと、契約だと。

「そうだね。強いて言うなら、この社会で善と悪を分けるものは法とか個人の約束とか、決められたルールでしかなくて、それ以外は善悪両方の側面を持っている、つまり、インタフェースは、良くも悪くもない」

佐賀美は、彼との討論とは別の意味で安心した。近江先生は昔から変わっていない。それこそ良くも悪くもだが。
それはそれとして、佐賀美もその持論のすべてに賛同しているわけではなかった。高校の時は教卓との距離がその反論を阻んでいたが、今や近江は佐賀美の隣に座っている。

「私は、法に規定されてなくても理不尽な出来事とか、そもそも理不尽な法とかルールって、あると思いますよ。どちらにせよ、意見は持たないといけないでしょう。」

佐賀美は自分の口の軽さを呪った。まただ、自分は自分の考えを相手に押し付けてしまう癖がある。

「先生は、誰かを敵に回すことから逃げているように見えますよ。」

佐賀美は言い終わって、乱暴な物言いを後悔した。自分の言いたいことを言い切ったところで、気持ちよさなどは感じない。そのうえ近江は、佐賀美が話している間こそ真顔で真剣に聞いていたように見えたが、佐賀美が話し終えると、苦笑いのような微妙な表情を浮かべた。

「それもそれで、君の意見だ」

中立を批判したはずなのに、中立でそれを肯定されている。これでは、どれだけ議論を進めたところで、平行線が続くだけだ。

「これじゃあ埒が明かない」

佐賀美は小さく首を振り、近江から目を背けた。トンネルに入り、外は暗くなった。窓に映る近江の横顔は、今だけは少し寂しそうに見えた。
小さな街が見えてきた。線路が下に連なり、数百メートル先から、色とりどりの箱を載せた列車が向かってくる。貨物列車だ。在来線特有の音がこちらに近づいてくる。その様子をぼんやりと見ていると、唐突に睡魔が襲ってきた。
あまりに急激で耐え難い睡魔だ。今朝は十分寝たはずなのに、頭が重く、思考がまとまらない。生き残った理性が、このタイミングで眠りこけるなんて馬鹿みたいじゃないかと主張する。しかし、この異常な眠気は、気力で太刀打ちできるようなものではない。
次の瞬間には、瞼が落ち、意識が飛んでいた。



佐賀美は不思議な夢を見た。押し入れくらいの小さな部屋の中に閉じ込められている。青いビニールシートをかぶせられ、横たわっている人間の姿が見え、ぞっとした。しかし、よく見るとそれは人間ではなく、マネキン人形のようなものだとわかった。
自分の右手も球体関節になっている。自分もマネキン人形に変わっているらしいことに気が付き、これは夢だ。と確信した。夢は夢と気が付くと、すぐに目が覚めるものだ。しかし今回は、現実に浮上しようとしても、なかなか目を覚ますことができない。目を開こうとしても、マネキンの体には目も瞼もないのだ。彼女は焦り始めた。すると、脳内に直接声が流れ込んできた。声は、テレビの取材に答える人のような、甲高く加工された声だった。

「叡智を」
「叡智を手にするのです」
「今すぐ一つに」
「一つになるのです」
「一つになりましょう」

得体の知れない恐怖に身がすくみ、必死に目を覚まそうとした。これは、悪夢だ。

「嫌だ、来ないで」

佐賀美は、周囲のマネキン人形の脳内に直接訴えかけた。

「来ないで!」

まるで現実のように感じていた風景がぼやけ始め、新幹線の風切り音がかすかに聞こえ始めた。



「⋯がみ、佐賀美」

近江の声が聞こえてきて安心した。同時に、先ほどの口論を思い出し、気まずい気分に陥る。まだ頭が重く、意識は朦朧としていた。白く靄のかかった視野で景色を見ると、丁度どこかの駅に停車するところだった。

「佐賀美。着いたよ。降りるよ」
「ふぇ?」

思わず、変な声が漏れてしまうが、ふざけたつもりはなかった。声帯も寝ぼけているらしい。

「静岡駅だよ」
「え、ああ。うん。なんで静岡だっけ?」
「早く降りないと」

近江は右手で彼女の荷物を。左手で彼女の手首を掴み、急ぎ足で出入り口に向かった。
混濁する意識に困惑しつつ、近江の手にひかれるまま進んだ。狭い扉を通り抜け、駅のホームに降り立つ。席に座っていただけなのに、ひどく疲れている気がした。
しばし俯いていると、近江が顔を覗き込んできた。その顔には、意外なことに憂慮の表情だけが浮かんでいる。

「働き詰めで、疲れてたんだろ」
近江はそう言うと、近くのベンチに向かって歩き出した。
「休憩しよう」
「ああ、うん、大丈夫、意識がはっきりしてきた」

佐賀美は大きく背筋を伸ばした。目をこすると視界も数秒前と比べてずいぶん透明になっている。近江の性格からして、静岡駅に到着する直前に自分を起こそうとはしなかっただろう。静岡駅に到着し、アナウンスが入るころに起こし始めたはずだ。そうなると、かなり長い間を起こそうとしたが、それでも自分は起きなかったという事になる。この意外なほどの心配ぶりも、それが原因だとすれば納得した。

「心配かけてごめん。行きましょ」

佐賀美はベンチには座らず、構内に続く階段に向け、歩き始めた。足取りがふらついていなかったので安心したらしく、近江もその後に続いた。
東京駅と比べて、駅の規模そのものは小さく人通りも少なかった。改札を通ると広い通りに出た。四角い柱の四方に電子掲示板が貼り付けられ、絶えず広告を流している。奥は駅ビルに隣接しているらしく、飲食店の看板が並んでいた。出口は北と南で二つあるらしい。静岡駅の構内を見回していると、近江は彼女とは違う方向に、疑うような目を向けていた。これも彼には珍しい表情だ。佐賀美も同じ方向を向いた。
そこには、全身黒ずくめの男が立っていた。その風貌は「私は怪しいです」と顔に書いてあるくらい怪しい。男は、高く襟の立ったロングコートを身にまとい、怪盗のような黒いハットをかぶっていた。その風貌はさながらノワール映画から飛び出してきた殺し屋だ。
距離が遠いためか顔は良く見えないが、素肌が見えないため、白い仮面で覆っているようにも見える。人々は男の姿の異様さに恐れをなし、避けるように通りを進んでいた。

「ねえ、先生。」佐賀美がささやくように問いかける。
「あの人が、先生の教授?」

絶対に目を合わせないようにしていたのに、男は顔をこちらに向けた。相変わらず顔がはっきりと見えない。しかし、向こうがこちらの存在に気が付いたことは確かだ。
獲物に忍び寄る黒ヒョウのように、男がこちらにゆっくりと足を進め、距離を詰めてくる。偶然こちらに向かっているようには見えなかった。近江は一度目配せし、口を開く。

「そうだな。だとしたら」
そう言って、いきなり佐賀美の右手首をつかんだ。
「教授は、相当な変態だったってことだ」
その言葉とともに、佐賀美の手首は彼の腕に強く引かれた。
「逃げるよ」
「どこに?」
「どこか」

近江が全速力で走りだしている。一瞬振り返ると、コートの男も歩くのをやめ、走って追ってきた。何が起こっているのか、佐賀美にも近江にも理解できなかった。しかし、捕まればそれこそ何をされるか分からない。二人は通行人の間を縫って必死に走った。

「何なの。あれ」

佐賀美は息を切らし、苦しげに聞いたが、近江は首を振ることしかできない。咄嗟の判断で二人は南口に向かって走り出していた。黒ずくめの男は通行人を押しのけ、徐々に距離を詰めてくる。向こうは全速力に見えないのに二人の速度についてくるのが不気味だった。ガラス張りの出入り口を抜け、二人は静岡駅の構内から飛び出す。手の込んだコスプレのような格好の男が男女二人を追っているという現実離れした光景に、通行人は好機の目を向け、写真を撮ろうとポケットに手を突っ込んだりしている。

「なんだあれ?」
「映画の撮影か?」

まさか自分が「映画の撮影か?」の当事者になろうとは。そんな「お約束」の台詞を誰かが発していることも含めて滑稽でしかなかったが、苦笑する余裕もない。相手は追跡をやめるどころか、ペースも全く落ちていなかった。このまま逃げ続けても近いうちに追いつかれる。
左右には5つほどビルが立ち並び、その中央に大きな幹線道路が広がっている。

「道路を突っ切ろう」

路上には多くの車やバイクが流れ続けているが、定期的にその流れが弱くなり、空洞ができる時間があった。タイミングを誤れば轢かれる可能性もある。リスクは高いが、佐賀美は男に捕まる時のことを想像し、不安と恐怖に耐えた。すでに男はこちらから7メートルほどの距離まで接近している。
「行こう」タイミングを見計らい、近江が生身で道路に侵入した。遠くで車がクラクションを鳴らし、近江の行動に驚愕と非難の信号を送った。行くしかない。佐賀美も、彼の背中を追い、道路を横断した。道路を走っている間は、時間が永遠のように長く感じた。黒ずくめの男の存在に現実味を感じられないせいで、自分たちの方が狂っているのではないかという疑念が払拭できない。クラクションが鳴り響く中、二人は白線を踏み越えて道路の向こう岸にたどり着いた。今の道路は、二人が停止させたぶん、交通量が増加している。ここまで計算して行動していたのなら、近江はかなりの切れ者だろう。道路を振り返り、刹那の安堵に浸った。黒ずくめの男と距離を開けることができたためだ。しかし、再び後ろを向いた時にそれが「ぬか喜び」だったことを悟った。
男は、遠回りして追ってくるどころか、絶え間なく走り続ける車のボンネットを乗り越え、他の車のボンネットに飛び移り、無理やり道路を横断している。助走もなく次の車に飛び乗り、それを踏み台にして次の車へと飛び乗る。男は相当の重量らしく、不幸にも踏み台にされた車のボンネットは、重い石を落とされたように凹んでいた。あの恰好でこの動きをしているのであれば、恐るべき身体能力だ。
信じがたい光景を前に、二人は一瞬固まった。
黒ずくめの男は、瞬く間に距離を詰めてきた。逃走が再開される。いよいよ二人は呼吸を乱し始めたが、相手は平然と近づいてくる。駐輪場を横切る中、近江は苦い表情で佐賀美に告げた。
「佐賀美、先に」
佐賀美が困惑していると、近江は鍵をかけずに駐輪している自転車を持ち上げた。「早く!」
黒ずくめの男は今や目の前だ。男が、その腕を近江に叩きつけようと振りかぶる。
そこで、今まで見えなかった男の腕があらわになる。
「義手?」土壇場にも関わらず、近江は素朴な疑問を感じた。
男の腕は、関節に節をもつ機械だった。近江がそれを確認したとき、手刀が飛んできた。
ステンレスが破損する音が辺りに響く。相手の指先は、近江が咄嗟に持ち上げた自転車の前かごを貫いていた。鋭い指先が網目状の籠に引っ掛かり、抜けなくなる。近江はその隙を見逃さず、自転車ごと相手を押し倒した。黒ずくめの男は、力が緩んでいたとはいえ、かなりの重量だ。なんとなく鍛えておいた筋肉がこんな形で役に立つとは。冷や汗をかきながら苦笑した。
黒ずくめの男を覆っていたコートははだけ、男は上半身をむき出しにしている。しかし、そこにあるのは肌ではなく、白い部品の集合体だ。ところどころ人体を意識した造形が見られるが、男の体はロボットそのものだった。これではむしろ、相手は男ではないし、女でもない。
人間代のサイズで人間を模したロボットは現実にないわけではない。しかし、先ほどまでにこのロボットが見せた動きは、まるで人間そのもの、いや、人間以上だ。現代の最新技術をもってしても、こんな代物は作り出せるわけがない。

「なんなんだ、コイツ」

近江が現実感を喪失し始めた時、ロボットが抵抗を始めた。すさまじい力だ。どう考えても人間の限界を超えている。近江も自転車の重量を利用して、相手を地面に押し付けた。ロボットが被っていた中折れ帽は外れ、その素顔が明らかになる。フォルムは人の頭に似ているが、顔のパーツが一切存在しない、完全なのっぺらぼうだ。相手はますます力を加え、立ち上がろうとしてきた。このままでは、立ち位置が逆転する。彼の中で現状を打破する策が底をついたとき、横からもう一台の自転車が突っ込み、ロボットは再び地面に突っ伏した。近江は左に立つ人影に目を向けた。佐賀美だ。

「持ち主さん、ごめん!」

佐賀美はそう言うと、背後から施錠していない自転車をもう一台持ち出し、ロボットに向けて乱暴に投げつけた。自転車のフレームがロボットの手足に絡まり、疑似的に拘束している状態になる。

「先生、逃げましょう」

佐賀美は必死の表情で訴え、近江はそれに従った。
二人は並んで走り出し、線路沿いのさびれた街並みを横切った。タバコ屋や並木が次々と流れていき、通行人は不思議そうにこちらを一瞥した。
無機質な足音が背後から聞こえてくる。ロボットはすぐに3台の自転車を押しのけたらしく、先ほどと変わらぬペースでこちらを追ってきた。全身を覆っていたロングコートと素顔を隠していた中折れ帽がなくなり、球体関節人形のような四肢を振り回して迫ってくる。

「あれ、あのマネキン…」

一瞬、後ろを振り返った佐賀美が、近江には分からない言葉を口走った。正気を失いつつあるのかもしれない。彼はその台詞を黙殺し、走るに徹した。走りながら打開策を講じる。静岡駅の駅舎が見えた。もっと進んでいくと、線路と道を阻む大きなガードレールがある。はるか向こうから、汽笛に似た音がこちらに近づいているのを感じた。
何かを決心したように、近江が発言した。

「ガードレールが消えた場所で、線路を横断する」

佐賀美にはその意図がつかめなかったが、その言葉を信用する以外に方法がないと思った。道路を横断する方法は失敗に終わったが、彼は命がけで佐賀美を守ろうとしている。
「わかった。」彼女は迷いを見せず、真剣な表情で頷いた。
歯を食いしばり、ガードレールが途切れる場所までラストスパートをかけた。一生分の肺活量を消費したのではないかという勢いで、二人は走った。
城壁のように続くガードレールは、100メートルほど走ったあたりで途切れていた。電線と武骨な線路が姿を現す。近江は佐賀美を先に進ませた。低い柵を飛び越え、数メートル幅の線路を横断する。近江もそれに続いた。80メートルも離れていない場所から、電車がこちらに向かってきた。心臓が凍るような思いで、近江は線路横断を果たした。
アドレナリンが分泌されているのか、二人とも息は上がっていなかったものの、その場に貼り付けられたように動けなくなった。電車はスピードを緩めることなく、徐々に轟音を大きくしながら、こちらに近づいてくる。近くの踏切から、東京のそれとは違うサイレン音が響いてくる。佐賀美は、ようやく近江の思惑を理解した。相手が人間でないにしても、電車を飛び越えるのは無理だろうという事だ。しかも、ガードレールが死角となり、電車が接近していることは気づきづらい。四角い在来線が、その巨大な塊をぐんぐんと近づけてくる。あと数秒でここを通過する。そう二人が考えた瞬間、線路の反対側に何者かが姿を現した。例の人型ロボットだ。左手で柵をつかみ、スタントマンのように跳躍し、全身を使って線路内に飛び込んでくる。
ロボットは電車の存在に気づかなかったのだろう。
電車の運転手が顔を真っ青にし、近江と佐賀美はただ目を見開くことしかできなかった。
次の瞬間、解体工事のような凄まじい爆発音が響き、ロボットの四肢が辺りに砕け散った。二人を追って線路に踏み込んだロボットと電車が衝突したのだ。電車のフロントは大きく歪み、そのまま駅へと走り去った。佐賀美の目の前に、白いロボットの腕が転げ落ちてくる。彼女の目の前で、腕はトカゲの尻尾のようにぐねぐねと蠢いた。
何かが電車と衝突したことを悟った通行人が、恐る恐る線路の方向に近づいてくる。助かったという実感を嚙みしめるより先に、まずはこの場を離れよう。と思った。一人ではまともに歩くことさえままならない状況のため、近江と肩を組んで歩き始めた。彼と身長が近いことが、初めて役に立った。



佐賀美は一分近くの時間を置いて、得体の知れないロボットの魔の手から逃れたことを実感した。同時に今まで忘れていた肺への負担と、倦怠感が襲ってくる。こんなに走ったのは、二人とも高校の持久走以来だ。それに今回は命がけというオプション付きである。彼女は荒い息を繰り返した。その場に寝そべりたかったが、追手があのロボットのみとは限らない。なるべく早く、どこかに身を隠すしかない。

「この近くで、先生に迎えに来てもらってる」

目の前の駐車場に目立たないワンボックスカーが一台停車していた。二人が近づくと、運転席のドアが開き、壮年の男性が顔を出した。瞳は小さく、足が影法師のように長かった。当然ながら黒ずくめではなく、年齢と長身の体に合わせた服装だ。

「教授だ」

近江が倦怠感と安堵を混合した表情で言った。教授は、普段は無表情なのかもしれないが、二人の異常な姿に困惑し、心配そうに目を細めている。
佐賀美と教授が互いを観察し合っているうちに、車の前にたどり着いた。

「追われているんです」
近江は訴えるように言った。
「警察じゃない何かに」

一瞬、教授はこちらの心情を見透かすような表情を浮かべた。そして、目を細めたまま、運転席に体を向けた。

「すぐに乗りなさい」
「ありがとうございます。」
佐賀美は短く返事をして、後部座席のドアを開いた。彼女が車内に乗り込んだ後、近江が周囲を警戒し、佐賀美の隣に乗り込んだ。
「カーテンを閉めたほうがいい。」
佐賀美は車内を見渡した。夏の紫外線対策の名残なのか後部座席の窓にカーテンが付いている。二人は迷わずそれを閉めた。車内が夕方のように薄暗くなった。
二人とも、今しがた起こった騒動に理解が追い付かず、しばらくの間シートに身をゆだねてぐったりとしていた。高級なシートではないが厚みがあり、座り心地がいい。助手席と運転席の隙間からフロントガラスを覗き込むと、細い道路が流れていく様子が見えた。周囲にビルなどが見えず、閑静な住宅街が続いている。教授は目立たない道を選んでいるらしい。

「助かったな」

先に息を整えたらしく、近江が静かに呟いた。それにつられ佐賀美も少しだけ冷静になり、現状の確認を始めた。すると、いままで気にしていなかった事実を、実感を伴って理解した。静岡駅に荷物を置きざりにしていた。今の二人は手ぶらだ。

「ああ、荷物全部落としてきちゃった」

彼女は頭を落とした。

「携帯もだろ。僕もだよ。でも、あんなロボットを使う相手だ。携帯を持ってたら、電源を切ってても追跡してくるかもしれない」

近江はさほど気にしていないように言った。
佐賀美の手元にはポケットに入れていた財布しか残っていない。落としてきた鞄にはスーツも入っているので本当なら取りに戻りたいが、あの付近にもう一体ロボットが待ち構えている可能性も捨てきれない。さっきは偶然の力を借りて乗り切ったが、もう一度同じ目にあった時、生き延びる自信はなかった。

「あのロボットは一体何なんだろうか」
「私にもわからないですよ」

近江がこちらの顔を見て尋ねてきたので、佐賀美は首を横に振った。当然ながら、彼女もそのようなロボットの製品は聞いたことがない。そもそもあれがロボットという事実そのものが受け入れがたいが、目の前に転げ落ちてきた腕は、明らかに機械で構成されていた。そこで彼女はあることを思い出した。あのロボットの手足は可動域を確保するためか球体関節で構成されていた。その姿が新幹線で見た夢に出てきた、あのマネキン人形のイメージと重なったのだ。
その情報を近江と共有するか悩んだが、結局口にしなかった。きっと、これは自分の脳が夢と結び付けた妄想だろう。夢の方の記憶が改ざんされているに違いない。

「あのロボット、私たちだけを狙っていた。どうしてでしょう」

思考を切り替え、数ある疑問のうち一つを提示した。当然ながら、二人とも危険な団体とは関わりが無いし、人の恨みを買うような事をした覚えもない。あるのは、インタフェースについて調査を進めている事だけだ。そもそも、自分たちの情報を、相手はどうやって調べたのだろう。

「わからない」

近江は結論を先に述べ、持論を展開した。

「だけど、仮に僕たちが昏倒事件の真相を探っていることがばれていたとしたら」
「その真相を知られたくない人がいる。ってことになりますね」

佐賀美は確信に近いものを感じ始めていた。あの事件は偶然による事故などではなく、何者かの思惑で仕組まれたものだ。

「僕たちのやってることは、思っていたよりも危険かもしれない」

近江が腕を組みながら言うと、運転席から再び教授の声が聞こえてきた。

「インタフェース資格の講習を受けに来たと思ったら、大層な厄介ごとに巻き込まれているようだな」
「あとで、詳しく説明しますよ」
近江の声からは、すでに余裕を取り戻しているのが分かった。
「教授の名前を紹介していなかった」

彼はそう言うと、運転中の教授の後頭部を見ながら、佐賀美に向けて言った。

「僕の大学時代の教授、山門ハジメ先生だよ」
「先生が先生の先生ですね。佐賀美サツキです。よろしく」

佐賀美は、目上の人に硬くならないという特性を応用して、気難しそうな山門とあいさつを交わした。山門は軽く返事をする程度だったが、彼女の態度に不満を持っている様子は見られなかった。
その後、ワンボックスカーは数十分ほど走り続けた。住宅街を抜け出し、森の中を通り、山道を超え、やがて車は小さな集落に入っていく。

「もうすぐ、うちに着く」

山門は、感情を感じない乾いた口ぶりで言った。

コメントは最後のページに表示されます。