zorozoro - 文芸寄港

位置について

2024/04/20 01:16:45
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夏季競技会二日目の女子四×四〇〇メートルリレーは、定刻よりも大幅に遅れてスタートするらしいが、僕は余裕をもって先輩のもとへ向かうことにした。既に日は西に傾き始めているにも関わらず、競技場の中は視界が揺らぐほど暑い。これほどの暑さの中だが、先輩は競技開始の二時間以上前からウォームアップのためジョグに出ていた。

朝早くに駅のコンビニで買ったアクエリアスは生温かく、ひどい味になってしまっている。僕は不味いアクエリアスを飲みながら、少し駆け足で先輩のもとへ向かう。スタートを告げるピストルの乾いた音や、選手名を読み上げる無機質なアナウンスを背に競技場を抜けると、先輩が真っ青なストレッチマットの上に寝転んで柔軟をしているのが遠くに見えた。

「先輩、そろそろ招集の時間ですよ」

僕の呼びかけに気づいた先輩は、ストレッチマットの上で体を起こし、こちらに手を振った。日頃の練習でこんがり焼かれた肌に汗の粒がきらめく。雫の煌めきと同じぐらいに、先輩はまぶしい笑顔をみせる。表情は笑顔だったが、そのまなざしは固く、適度に緊張しているように見えた。競技のことを考えているときの目だ。僕は持ってきた新品のテーピングと先輩の水筒を渡す。

「ん。ありがとう。出来ればマイル始まる前に私のスパイク、スタートのところに持ってきてくれる?」

先輩は近づいた僕に向かって合掌のジェスチャーをして見せた。

「いつも人使いが荒いですね」

僕の小言に対して先輩は悪戯に舌を出す。その表情がこの上なく可愛らしく、不覚にも先輩から目をそらしてしまった。僕の動揺をよそに、先輩はついでにゼッケン用の安全ピンも持ってくるようにと付け加える。先輩の声を適当にあしらうように装いながら、僕は部のテントに戻ることにした。

先輩のために働かされるのは、僕にとって慣れたことである。明るくストイックで、誰もが憧れる先輩と「陸上」という種目を介して関われることは、むしろ誇らしいことだ。

ただこうして先輩にこき使われるのも、きっと今日が最後だ。先輩はこの夏季競技会を最後に、陸上を辞めて受験に集中するらしい。本当はもっと一緒に陸上を続けたかったが、先輩の選択に僕が異論を唱える理由はないし、先輩が叶えたい夢があるなら背中を押してあげるべきだろうと思う。同時に、どことなく感じる寂しさが僕の足取りを重くしている気がするのも事実だ。ただ今は、きっと、そんなことは気にしないのが先輩のためだろう。とりあえず今は先輩のスパイクと安全ピンを取ってこなければならない。気が付けば、僕はまた駆け足になっていた。



結局、先輩のもとにスパイクとピンを持ってこられたのは、競技開始のギリギリになってからだった。

「あ! 遅いぞ! もう三組目始まっちゃってる」

先輩が待ちくたびれた様子でぼやく。既に先輩は肩まで伸びた髪を後ろで一本に束ね、上下セパレートのユニフォームに身を包んでいた。僕の一番好きな先輩の姿だ。名残惜しいが、あまり長く見つめていては気まずくなってしまうので、遅くなった適当な言い訳を吐く。

「ごめんなさい。スタンドの通路が込み合っていて、なかなか通れませんでした」

「まぁ間に合ったからいいよ。ありがとう」

そう言って先輩はスパイクに履き替える。汗ばんだ手で赤い靴ひもを穴の一つ一つに丁寧に通し、ほどけぬようきつく縛り上げている。その手は小刻みに震えているように見えた。僕は微力ながら、先輩の役に立ちたいと思い、緊張を和らげるような言葉を探した。

「先輩。頑張ってくださいね。ここで応援します」

 ありきたりな応援の言葉しか見つからなかったが、座り込んでいる先輩の上から声を掛ける。すると先輩は突然、気合を入れるように自身の腿をバチンと叩き、勢いよく立ち上がった。座り込むときに手についた赤黒いゴムチップを払いながら、先輩は覚悟を決めたような表情を見せる。先輩の真っ直ぐな視線は、炎天下の空よりも澄んだ、この世で一番奇麗な瞳だ。残酷なまでに奇麗な瞳はどこか遠い「ゴール」のその先を見据えているようだった。



「行ってくる。私のラストラン、ちゃんと見ててね」

 

先輩はそう言い残し、トラックの中へ入った。スタートブロックを調整する先輩の姿を、僕はトラックの外から見つめる。その間、先輩の「ラストラン」という単語が僕の脳内で反復していた。そうだ。これは先輩の「ラストラン」なのだ。スタートのピストルが鳴ってしまったら、先輩の陸上部としての最後が始まってしまう。そしてこの競技が終わってしまえば、僕と先輩をつなぐ「陸上」という関係は無くなるのだ。遂にスターターのアナウンスがかかる。



『On your marks』



選手がそろって位置につき、クラウチングの姿勢をとった。競技場内が静寂に包まれ、早まる僕の鼓動だけが耳に響く。それとほぼ同時に、汗に似た何かが、僕の顔の輪郭をなぞる。もし今僕が涙を流しているとするならば、これは何に対する涙だろうか。憧れが失われてしまうことに対する喪失感だろうか。それとも単に仲の良い先輩がしばらく受験で会えなくなる寂しさだろうか。いや、きっとどちらも当てはまらないだろう。



『Set』



 自分の心拍が上昇し続けているのを感じる。スタートの姿勢をとった先輩を見るのが、なぜかとてもつらくなった。この次走り出した頃には、先輩の背中は小さくなって、見えなくなってしまうだろう。僕は先輩のことだけをずっと見ていたい。でも、先輩の目は、ゴールよりも先のはるか遠くを見据えていた。今更気づいた僕の感情を、僕はもうどうすることもできないことを知っている。

本当はまだ陸上を辞めてほしくなかったのに。本当はまだ一緒に走れると思っていたのに。

本当は



『』



 ピストルの音が僕の心臓を貫いた。
2年のゼミ課題の作品です。今見ると表現が露骨だなぁ。
HandCuff
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コメント



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1.80v狐々削除
良かったです。初心だぜ。
2.90インマヌエル削除
先輩が魅力的で好き。地の文の重複表現を減らせるともっと洗練できそう。
3.80べに削除
てぇてぇ。好きですよかったです。