2-5
約束の日。その日の昼は曇りひとつない快晴だったからか、欠けた月が眩しかった。ただ、ネオンや提灯や窓の明かりが明るいから、星はよく見えない。赤い顔をした若者たちが笑いあう声。タクシーのエンジン音。信号のチュンチュンした音。時おり通り過ぎる電車のけたたましい走行音。居酒屋が立ち並ぶ駅周辺の裏通りは喧しい。
これだけ若者の酒離れがどうこうといわれる時代でも、やっぱり店で酒を飲むことが好きな層はどの年代にもいて、彼らの需要を引き受けるために、店側もなんとか経営を続けているのだろう。大企業に属せず、店を切り盛りして生きていく。そういう生き方も楽しいだろうけど、やっぱり大変だろうと思った。望月さんが予約したもつ鍋の店の看板の前にたどり着いた。集合時間の十分前だが、周囲に見知った顔は見られない。まだ集まっていないのかと思って、その場に立ったまま携帯で電子書籍を読んで、気が付くと集合時間を過ぎていた。もしかして店を間違えたかと思い、焦ってラインの履歴を探そうとアプリを切り替える。安いスマホなので読み込みが遅い。白い進捗インジケータが延々と回転する。
「あ、櫻橋!」
望月さんが店の暖簾をかき分け、こちらに手招きした。
「みんな、中だよ!」
「ゴメン」
「いいって」
櫻橋は親指を店側に向ける望月さんに一言謝って、急ぎ足で暖簾をくぐった。ふくよかな体型の望月さんを追って、かつての仲間たちが集まる席を探す。店内は込み合っている。ずいぶん奥の方だ。壁際の座敷に、見知った顔が並んでいる。望月さんを含めて同級生が四人と、後輩が二人そして、一番壁際の席に、櫻橋が一番会いたいと思っていた人がいる。
「久しぶり」
「お前変わったな」
旧知の仲だったかのように、同級生たちが櫻橋を歓迎する。しかし、それが形だけのものではないかと、櫻橋は邪推してしまう。草凪以外の部員とは、数回ずつしか話したことがない。そういう疑念が顔に出ていないか気にしながら、櫻橋は笑顔を返した。
「わたるも、けっこう変わったね」
長机の対角。よりにもよってもっとも遠い位置から、草凪がこちらに笑いかける。さすがに、櫻橋も今日は恰好に力を入れた。ニキビ跡をクリームでごまかし、癖毛をおさえつけ、殆ど着たことがないような洋服を棚から出してきて数時間唸った。その成果が出ているならいいが。結局、お互いに制服姿か、登山用の格好しか見たことがないうえ、数年間会っていないのだから、新鮮に感じるのは当然のことだろう。そんなことよりも、草凪の言葉に返答しなければ。櫻橋は草凪の整った横顔をじっと見る。高校の時より髪は伸ばしている。耳にはピアスを開けていて、化粧も自然だ。服は、なんという名称か分からない。黒いシースルー。高校の時代から確実に大人になり、素人目にも美しい。櫻橋は圧倒された。圧倒され、何を言えばいいか分からない。草凪も、変わったね?それしかないか。その美しさを褒めたいが、自分の口からはどうあがいても気持ち悪くなるに違いない。
「草凪も……」
「皆さあ、仕事どうよ」
櫻橋の声に気づかず、同級生の山下くんが話題を提示した。いつも会っている面子に向けているように自然だ。手慣れている。
「いや、着替えてからタイムカードきれって言われてさ」
「えー、ケチだね」
山下君を筆頭に高卒組たちが盛り上がり始めた。一方で、大学生たちもモラトリアムの終わり、あるいは就活の始まりを嘆いていた。
「やだー。もう就職したくない」
「嫌でも来年は就活だぞ」
「あたしらだってゼミの課題が」
「アルバイトが」
ちらりと草凪の方を見る。彼女は、誰か特定の人を批判する言葉は軽く受け流しつつ、会話の流れに着実に乗っている。櫻橋以外の全員で合唱曲を歌っているかのようだ。一定のリズムで話が滑り流れ、皆して笑っている。櫻橋も、それに合わせて、笑うよう心掛ける。頼んでいた無味のサワーを流し込む。これで少しは流暢になれるはず。と思いきや、頭が更に重く、回転しなくなった。
「櫻橋は、彼女いんの?」
時折、誰かが櫻橋に話を振ってくれる。気を遣われてしまっている。しかしよりによって、答えずらい話題だ。
「いや、なかなか出会いなくて」
「ほんとそれな!みんなどうやってるの?」
「アプリとか?」
「アプリはだめよ。私なんて、40代のおじさんに粘着されてもううんざり」
櫻橋への質問は全体の議題となり、話題は再び全体に広がった。それに安堵する一方。このままではいけないという焦りも沸き上がる。
「じゃあ、合コン?」
「それもないよねえ。彼女持ちだったり、数合わせのコミュ障っていう感じ」
望月さんの悪意なき言葉が櫻橋の心の奥底に深く突き刺さった。もしかして、自分も数合わせのコミュ障なのではないか?コンプライアンスなど気にしなくていい、狭いコミュニティの中の気楽な会話。楽しいはず。でも、焦燥がそれを上回る。これからいろんな飲み会があって、毎回自分はこんな空気な感じになるのか。
こんなはずではなかった。想像では、もっと器用に立ち振る舞って、自然に草凪とサシで話す流れになって、それから……。それができたとして、どうすればいいのだろうか。ぼんやりとしたイメージを具体的に想像しようとすると、何もわからない。思えば、草凪や、三門のようなわずかな例外を除いて、そもそも櫻橋は会話の中心に回ったことがない。櫻橋以外の全員は、そういった困りを感じさせない健やかな表情だ。もしかして、こういう場も仕事と同じで、場数を踏まなければまともに立ち回れないのだろうか。ほとんど、家で一人で飲んでばかりだった櫻橋には想像もしていない事だった。
一軒目を出るころには終電間際だったので、二次会はなく同窓会はそのままお開きとなった。草凪を含めた6人組が店内のムードを保ったまま固まって駅へ移動していくので、櫻橋もそれについていった。駅の構内に入ると、証明が眩しくて目を覆いたくなる。全員でふらつきながら改札にICカードをかざし、それぞれのホームに向けて二手に分かれた。山下くんと櫻橋と草凪が上り、望月さんたちが下り方面。お互い手を振りながら、別れを惜しんだ。
終電は恐ろしく空いている。櫻橋たちのように飲み会の帰りらしき人たちが見受けられるが、街ではみんな騒いでいたのに、車内では眠っているように静かだ。
発車メロディーに続いて、一定のリズムで電車が揺れる。山下くんはいまだ流暢で、草凪との会話が弾んでいる。櫻橋はその中に入り込む余地がない。どうやら、二人とも過去に恋人の浮気を経験したことがあるという。櫻橋は驚いた。浮気って芸能人とか本当にモテる人だけがするものだと思っていたし、こんな身近にあるものとは思わなかった。
「じゃあ、俺この駅だから」
軽快な音とともに空気が吐き出され、ドアが開く。唐突に山下くんが離席した。偶然ではあったが、草凪と二人きりの空間が生み出される。この状況でなら、話したい事はいくつもあるのだった。飲み会の熱気とスピード感にあてられて、すっかり自分のペースを忘れていた。
「あの、林先生……アウトドア部の顧問の。まだいるのかな」
「林先生は、去年定年退職したみたい」
「アウトドア部は」
「今年いっぱいで廃部だって」
「え……悲しい」
「ね」
話すネタなら幾らでもある。しかし、それは気まずくない状況を長引かせる時間稼ぎに過ぎなかった。本当に伝えたいことは他にある。
「ねえ、部長」
「どうしたの、副部長」
ここでそのまま草凪と別れれば、次に会えるのはいつになるか分からない。何もせずに後悔はしたくなかった。
「僕は、高校の時、自分が何になりたいかとか、そういう人生設計をまったくさぼってた。自殺願望とかじゃないけど、高校生活が楽しすぎて、それ以降の人生なんてつまらないだろうし、別に死んでもいいかと思ってた」
電車の振動が強まる。橋を渡っているらしい。その後トンネルに入ったのか、車窓が真っ黒に染まる。
「そうだね。わたるは、そんな感じがしてたよ」
別人のようだった草凪の顔に、高校時代の輪郭が重なる。喋り方も、あの時と何も変わっていない。櫻橋はその表情を見て、軽薄にも安心してしまった。
「でも今は違う。今まで将来のことを考えていなかったせいで、今苦労しているけど、もうじき周りの人にも追いつく。ぼくにも、ちょっと厳しいけど優しくて優秀な先輩がいるんだ。その人についていって、僕はまともな大人になる」
早口でまくし立てる。以前の自分は間違っていた。今から自分は変わるから。
「わたる」
草凪が自分の名前を呼ぶ。しかし、箍が外れた櫻橋の口は停止しなかった。頭で固まっていたアルコールが口の中に溶けて落ちてきて、潤滑油のように舌を動かした。
「僕は、君が一緒に上京する仲間を求めていたことは分かっていた。でも、僕は上京したところで、金をドブに捨てるだけだと思って、やめたんだ。でも、今はちがう」
「櫻橋わたる」
フルネームで呼ばれて、ようやく口を閉じた。しかし、今までの言葉で、櫻橋は既に引き返せない領域にいる。
「いま、わたるは、何を言いたいの?」
「草凪ゆう。僕は……」
恋愛のセオリーとか分からない。くだらないと思って、ずっと避けてきたから。デートに誘う?どうやって?いつも自分は行動の前に思考が来る。それがだめだ。もっと直情的に生きなければ。それで失敗しようが知ったことか。ここで逃げたら一生このままだ。言っちゃえよ。
言え!
「君が好きだ。高校の時から、ずっと」
「ごめんなさい」
破綻。
瞬間、世界の色彩が反転した。白が黒に。赤が緑に。電車が逆向きに動き出し、天井と床がひっくり返る。櫻橋は、もう、自分が今何を言ったのか分からない。
「でも、わたるが悪いんだよ。あの時、私についてきてくれなかったのに。今度は俺について来いって虫が良すぎと思わない?」
「それは、その、承知のうえで」
自分の言葉が相手に届いているのか分からない。自分の脳の中に溶け出しているだけな気がする。
「わたるがさ、好きなのは私じゃなくて、わたる自身なんじゃないかな。違ってたらごめんだけど、今まで何も経験がないのが恥ずかしくて、大人としての箔がほしいから、それで彼女作ろうとしてない?」
世界が再び反転し、また反転する。ドラッグをきめているかのように。これは現実?それとも夢?
「え……あ……」
「そうだよね。だから、昔仲良かった私ならワンチャンあると思ったんだよね……うん」
草凪の言葉にも視線にも、侮蔑や嫌悪の色は感じられない。あるのは、ただ、憐みだけだ。
「あのね、責めてるわけじゃないよ。でも、言葉と行動が一致してないなって思っただけ。自分が好きで、ずっと自分のために生きてるなら、それでいいと思うんだけど、それを肯定するために時間を割いてくれる人って、たぶんいないと思うな」
気が付くと、電車は駅に停まっている。扉が開く音がひどく歪んでいる。世界のすべてが無限に開き続ける蕾のように、無限に生え替わるサメの歯のように、回転して、開いて、開いて、開いた。
「私、ここで降りるから。ごめんね」
草凪が、櫻橋の人生の拠り所が小さくなって、どこか遠くへ吸い込まれていく。
いかないで。
世界がぐちゃぐちゃになるけど、それは櫻橋のなかだけの話らしく、周囲には櫻橋は普通に座席に座っているだけに見えるらしい。
ほどなくして歪んだ視界の先に、櫻橋の実家の最寄り駅の看板が見えた。なけなしの体力を振り絞って、電車の外に這い出る。ふらつきながら歩いた。途中でいきなり酔いと吐き気が回って、立ち止まった。まずい。吐きそう。まずい。まずい。まずい。
……セーフ。
2-6
アパートに帰ってSNSのアカウントで草凪ゆうを見つけると、彼女は筋肉質な男といるのが見えた。いかにもスポーツマンの成功者。櫻橋が何度人生をやり直しても敵わなそうな相手だ。一周まわって愉快な気分だった。彼女に拒絶されることをなにより恐れていたのに、たいしたことないじゃないか。と安心して、ふらつきながらシャワーを浴び、落下するようにベッドに倒れこんで寝た。
ところが、次の日の朝、虚無感と自己嫌悪が遅れてやってきた。高校の時、草凪と出会った時から、自分は彼女のことなんて考えたこともなかった。自分勝手な理屈で彼女を裏切り、また、近づいた。もっとも許しがたいことは、いなくなったペンタゴンの代わりに、草凪ゆうの存在を求めたことだ。ペンタゴンはペンタゴンでなくてはならず、また、草凪ゆうは草凪ゆうでしかない。それぞれ、代替できない存在であることは、わかっていたはずなのに、どうして自分はあんな行動に出てしまったのだろうか。
数日前まで死ぬことをひどく恐れていたのに、今度はこの世から消えたくてたまらなくなった。誰一人、自分自身すら幸せに出来ないのに、どうして自分はのうのうと生きているのだろうか。今消えれば、周囲に不幸をまき散らさずに済むのではないだろうか。どうにかして、皆の記憶から自分だけを消せないものだろうか。そうすれば、気兼ねなく死ねるのに。
ペンタゴンが今の自分を見たらどう思うだろうか。きっと失望するだろう。しかし、どうしようもないのだ。国ガチャでアタリを引いて、親ガチャでアタリを引いて、職場ガチャもそこそこのレアを引いた。それなのに、古祥や真水のような優秀で良い人になれないのはなぜ?努力が足りない?
グルグル、グルグルと堂々巡りが繰り返され、しまいには、何も分からなくなったので、櫻橋は、いままでぼんやりと脳内に渦巻いていた、華やかな青春への忌避感、荒野への渇望を自分なりに噛み砕き、可能な限り無意識のバイアスを取り除き、化石を岩からクリーニングするように、自分の本来の性格を暴き出すことに決めた。活動就職のとき提出するエントリーシートなどは、自己分析などではなく、企業が喜びそうなことを書いているすぎない。そう考えると、じっくりと自分自身のことを研究する機会は、人生において少ない気がする。
櫻橋は、ベッドに腰かけ、目を瞑りながらひたすら考えた。その時間は、櫻橋にとってとても有意義に思えた。何よりも、周囲に影響され、自分の本意から外れた行動をとって恥を晒すようなことは、二度としたくなかった。櫻橋は、少しずつ自分のことを理解した。自分は一人でいることに慣れすぎて異常な性格になったのではなく、生まれつき他人の幸せを願うことをできない異常な性格だったために、一人になったのだ。高校時代、草凪ゆうは、櫻橋の異常性に惹かれていたのかもしれない。その異常性は、清廉な草凪にはないものだったから。櫻橋も、自分の本質がすべての他者と相いれないことを、薄々気が付いていた。常々感じていた、他人との精神的な壁は乗り越えるべき障害などではなく、根本的に醜い自分の姿を他者に晒さないための安全弁だったに違いない。年を重ねるにつれ、櫻橋は他人と深く関われなくなっていった。表層の、浅い部分での他者との交流、共感。それが限界地点だったからだ。
ペンタゴンは、櫻橋が芯から心を通わせられた最後の存在だったのかもしれない。古祥や三門や両親とも、いつか分かり会えなくなる時が来る。徹底的な破綻がもうそこまで来ている。なぜ自分は人と違うのか、そもそも何が違うのか、まだこの時は櫻橋にはわからなかった。ただ、徹底的なほどの隔たりは、確かに見えた。
結論が出たからと言って気持ちが楽になることはなく、食欲は失せ、眠れなくなる日々が続いた。平日の深夜に、日付が変わっても眠気がやってこず、動画サイトで好きなバンドのMVを観たりした。何度も観ていて今更何も感じないが、やめることもできない。そのあと数時間眠っているのかいないのかわからないような時間が続き、寝不足状態で仕事に出たら、案の定、ケアレスミスをした。
良いことも悪いことも起きないような、空虚な日々がしばらく続いた。そんななか、猛暑が突然終了し、一日にして気温が反転した。ニュースでは異常な気温の変化を報道し、櫻橋は偏頭痛に襲われた。その日は薬を飲んでも頭痛が引かず、仕事がおざなりになりかけた。なんとか終業時間になって、櫻橋は帰りのバスに乗った。まだ9月の半ばなのに、ひどく寒く感じ、咳が出てきた。家に帰り、熱を測ると、38℃くらい出ていた。
会社に電話し、有休をもらって寝込んだ。次の日には喉が腫れ、恐ろしい倦怠感に包まれた。しかし悪い気はしなかった。なにより仕事を休めたし、何もしなくていい時間がとれたからだ。その時になって気が付いた。人間、とくに日本人は、健康でいる限り、常に何かに追われているのだ。仕事、恋愛、趣味、夜遊び、セックス。人生は限りあるものだから、何かを成し遂げなくてはいけない。成長しなければと、何かを追いかけているようで、何かに追いかけられている。しかし、それは不思議なことだ。
日本に生まれていれば、必死に働かなくとも、最低限生きていくためのお金は稼げるのだし、ゆっくり寝られるベッドと、温かいご飯、そして、ささやかな趣味さえあれば、これ以上ない幸せではないか。
このまま、浮世の慌ただしさから解放された幸せを抱いたまま消えることができれば、それが一番の望みだったが、二日後には熱も喉の痛みも引いて、痰も出きって、遺憾ながら、いつも通りの健康な櫻橋わたるが戻って来てしまった。健康が戻って来た以上は、なにかを頑張らなくてはいけない。悲しきかな、人はそういう生き物だ。
櫻橋は自分の部屋の戸棚から、「大型自動倉庫に関する諸々の資格」の資料とテキストを引っ張り出し、机の上に並べた。それらを、講習で習った順に整理して、古びたリュックサックに詰め込んだ。スニーカーを履いて、外に出る。高校以来行っていなかった、辺鄙な図書館に入って、勉強用に開放されたスペースに荷物を置く。目の前に広がっているテキストと、今まで書き連ねてきたノートの文字。それらは決して意思を持つことなく、櫻橋のすべてを肯定していた。独学。櫻橋が今、身を置いていられる唯一の場所。そして、目の前に用意された、まさに今、やるべきこと。櫻橋は一度大きく息を吸って、体中の毒を捨てるように、一気に吐き出した。再びペンを握り、グラフの用紙にプロットを打ち込む。学生時代はあまり好きではなかった「学習」が、今、生きていくための唯一の手立てとなった。
櫻橋が自分の生活から娯楽を廃し、勉強に集中した数週間の間に、季節は肌寒い風を運んできた。職場の作業着も徐々に半袖から長袖へと移行し、GWHの遠くに見える山々も、オレンジや黄色に衣替えを始めている。駐車場には、どこからか流れ着いてきた枯れ葉がひとひら、ダンスするように辺りを転がっている。
櫻橋が仕事帰りのバスに乗る前に、車に向かう途中の古祥がこちらを呼びとめた。
「櫻橋、試験は明日だっけ」
「そうです。自信まんまんです」
櫻橋は私服のトレーナー姿でダブルバイセップスをきめた。あまりにも不釣り合いな光景に古祥は吹き出し、そのあと優し気な表情を見せる。
「それならよかった。けっこう頑張ったみたいじゃない、勉強」
「学生の時は、勉強なんてちっとも良いと思わなかったんですけどね」
学生時代は、自分は勉強するために生きているのではないと反抗していたが、一生を勉強に捧げることができるのなら、それも悪くないと思った。とにかく、今の櫻橋にとっては、遊ぶことのほうが恐ろしかった。遊んでも遊んでも、何も感じなくなっていることに、気が付いてしまう気がしていた。いつの日か三門と話した、自分の為に遊ぶことが虚しくなる日が、もっとも無意味なタイミングで、櫻橋に訪れたという事実に。
次の日、電車を乗り継ぎ、新幹線で東京に向かった。東京駅の周辺は再開発が進んでいたが、その印象はGWHとは違い、いい意味で猥雑だった。いろいろなテナントや入居者がその場所を取り合い、まったく思惑の違う者たちが、同じ空間を共有している。櫻橋も、その有象無象の一部となった。
水道橋駅の近くにある安価なハンバーガーチェーンで昼食をとった。昼休憩のサラリーマンで混雑していたが、不思議と居心地よく感じた。その後、公園のベンチで最後の復習をした。風が強くて、テキストのページが勝手にめくれてしまって不便だがそれも悪くない。ここ最近、やりたいと思えることが試験勉強くらいのものだったので、テキストは穴が開くほど読み込んだ。それが不思議と楽しく感じていた。その心地よさは、何か、絵をかくときになんでも好きなものを描けと言われたらなかなか描けないのに、お題を出されたら筆が進む感覚と似ていた。やはり人間は、どこかで思考停止しなければ、うまく生きていけないのだと思った。
会場が開く時間になって、櫻橋は講習の時よりは大きなビルに足を運んだ。それからすぐに始まった試験自体は、ただの作業だった。散々やってきたことを、一回ずつ繰り返して、つつがなく終わった。勉強の日々から解放されたはずなのに、どこか空虚な心持ちだった。高校の入試の時などは鎖から解き放たれたような気分だったが、いまは逆に、自己無能感の鎖がこちらを縛り付けようと待ち構えているように感じた。ただ、こちらから会社に頼んで、新しい資格を取らせてもらうのは、何か違う気がする。自分には他にすべき事がある気がするが、それが何かも分からない。
解答用紙をスタッフの人に渡して荷物をまとめていると、かなり多くの人が集まっていたことに気が付いた。この前話していた通り、伊藤さんの姿は見えなかった。ところが、今まさに試験を終了して、会場の外に出ていく後ろ姿に、櫻橋は目を引きつけられた。
紅葉を思わせる赤毛のボブカットが、マスタード色の長袖Tシャツの上に揺れている。人違いだろうか?偶然にしては出来すぎている。彼女が、櫻橋と同じ講習を受け、今日、同じ日に試験を受けに来るのだろうか。
真偽を確かめたくて、櫻橋は帰り支度を急いだ。薄い上着を羽織って、リュックサックを背負う。会場の貸会議室を出ると、廊下の突き当りを例の赤髪の人が曲がって消えていくのが見えた。それを追いかけていくと今度は、階段を降りて、櫻橋の視界から消える。櫻橋は自分に呆れた。まるでストーカー行為だ。しかし、彼女が本当に、パワーローダーの教習で出会った、柚ノ木なのかを確かめたかった。さすがに走ると怪しまれるので、早歩きで彼女の姿を追ったが、彼女が歩いていったルートをたどっても、広い廊下で見失った。
意気消沈したまま、櫻橋は帰路に就いた。あらかじめ購入した切符で水道橋駅の改札を通る。微妙な時間だからか、駅のホームは人が少なかった。ペットボトルのコーヒーでも買おうかと、キオスクに足を運ぶと、その隣のベンチに座って雑誌を広げている女性と、ばったりと目を合わせてしまった。彼女は櫻橋の顔を見て、その目を大きく見開いた。
「櫻橋さん!どうして東京に?」
もっさりとした声とは裏腹に、彼女の瞳は目を引くように大きく、その奥には星空のようなきらめきが灯っていた。その表情は純粋な驚きだったので、彼女は会場で櫻橋の存在を知ったうえで立ち去った訳ではなさそうだ。
「大型自動倉庫に関する諸々の資格」
「き……気づかなかった……」
櫻橋は、彼女が広げていた本のタイトルに目を向けた。白地の表紙に、ざっくりしたオートバイとライダーのイラストが描かれている。それは雑誌というよりも、免許取得のガイドブックのようだった。
「バイク、好きなの?」
「お父さんが、好きだから! ちょっと影響されてて、費用でも調べておこうかなって……」
柚ノ木は、はにかみながらも震えた声で言った。柚ノ木は、バイクの教習所でもいろんな人に片っ端から話しかけるのだろうか。どもりながら、不安におびえながら。櫻橋は、心の中で首を振る。どうせ、柚ノ木だってしょせんは他人だ。自分には何も関係ない話だ。彼女の不安を和らげるためについていくなどという動機は、下心を隠すために自分に嘘を吐いているようにしか思えない。
だが、これが、柚ノ木から与えられた試練というふうに解釈すれば、どうだろう。不思議とも櫻橋の中に、やる気が湧き上がってきた。もともと、バイクの免許は取得したいと思っていた。たまたま、この場所で柚ノ木と再会したことや、彼女も櫻橋と同じくバイクに興味があるという事実の一致は、単なる偶然で片付けられないような気もする。
「僕も取ろうかな」
櫻橋は、一瞬の沈黙の後、そう言った。それを聞いて、柚ノ木がその場に起き上がった。
「ほんと!?」
「いや、あたらしく何か勉強したい気分だったし」
「そ、そしたら!一緒に取りにいかない?一人だと、ちょっと、不安で…もちろん!櫻橋さんが良ければ。だけど……」
「うん」
「やった…じゃあ櫻橋さんは仲間……だね!」
柚ノ木は手を伸ばし、櫻橋はそれをとった。柚ノ木のあは、変な人なのだ。きっと、櫻橋以外の知り合いとこうしてばったり出くわしたとしても、同じような反応を示すに違いない。それでも構わないと思った。櫻橋もバイクは好きなので、半分は自分から申し入れたようなものだが、柚ノ木がそれを望んでくれるのなら、櫻橋はその免許を取るために、もう少しだけ生きていくことができる。それはとても喜ばしいことだと思った。
駅のホームに自動音声が流れる。もうすぐ電車がやってくる。大量の他人を乗せて、轟音を立ててやってくる。櫻橋は、不意に、台風が来る前のような、緊張感に襲われた。彼女との再会は、一つの物語のゴールとは思えなかった。むしろ、大きな嵐の前兆のように思えた。すべてを呑み込む巨大な破綻が、嵐を引き連れてやってくる。そんな予感がした。
後編へつづく