2−1
櫻橋がパワーローダーの免許を取得してから、はや一月半の月日が経過していた。日に日に苛烈さを増す猛暑は住民からことごとく活力を奪っていた。それは中部地方の山脈に囲まれたこの地域も例外ではなく、敷地のほとんどが灰色のコンクリートで塗り固められたGWHの屋外は、壁や地面すべてがフライパンのように加熱され、まともに生き物が生存できる環境ではない。
その週のシフトは遅番で午後からの出勤だった。櫻橋はバスの車窓から、いつにも増して辺鄙な風景を眺めた。蜃気楼で、建物も、車も溶け始めのバターのように歪んでいる。地獄のような暑さのなかでも、無人トラックやドローンは季節など意に介さず、いつも通りの配達業務を遂行していた。冷房の効いたバスを降りると、全身が熱気に包まれ、薄い汗が噴き出した。遅番のシフトは昼まで寝ていられるのでありがたいが、真夏日は仕事場に向かうたびにうだるような暑さに襲われるので、少し憂鬱だ。遠く、人工物に追いやられた木々からクマゼミの合唱がうっすらと聞こえてくる。強すぎる日差しが職場の駐車場のアスファルトを焼き、周囲は加熱式たばこのような臭気に包まれている。ゆっくり顔を上げると、白い壁に反射した日光が眩しすぎて目がくらんだ。あまりの暑さと眩しさに、両方の目が押し付けられたように痛い。櫻橋は、思わず目をつむり、両掌で両目をおさえた。
さらに遡ること、三年前。櫻橋わたる、高校二年の夏。進路を決めて自分を追いこんでいる生徒と、櫻橋のように何も決めずに漫然と過ごしている生徒が混在していたあの頃。部費の予算もろくに通らない、廃部寸前のアウトドア部の部室が、当時の櫻橋にとって最も居心地の良い場所だった。平日の活動内容は、学校周辺のハイキングコースを調べたり、気分に応じて筋トレをすること。彼はその、運動部とは名ばかりのゆるさに魅かれて入部したのだが、そこで同級生の草凪ゆうと出会い、彼女と言葉を交わす事が部活、ひいては学校に通う目的に変わっていった。彼女との接点は部活動だけだった。クラスは遠く離れていて、休み時間に出くわすことも稀で、二人だけでどこかへ出かけたこともなかった。ところが、ひとたび部室で顔を合わせると、二人の話題は途切れることなく続いた。草凪は、その容姿のイメージとは対照的に思慮深い性格で、櫻橋の知らない世界をいくつも知っていた。
二人で登山雑誌を開いて、次に登る山を決めたり、お互いの知らない食べ物の話をした。気まぐれでやってくる他の部員や、顧問の先生と協力し、備品のテントを空き部屋に立ててみたり、家庭科室から電気ポットを借りてコーヒーを淹れたりした。そういうゆるやかな日々が永遠に続くように思っていた。
「人はなるべく広い世界を見ないといけないと思うんだ」
草凪が突然そんなことを言い出したので、櫻橋は目を丸くした。夏休み明けの放課後、エアコンのない狭い部室で、櫻橋は簡素なパイプ椅子に腰かけ、その対角の窓際に、草凪が淡い笑顔を浮かべて立っている。十数年前のモデルと思われる扇風機が怪しい音を立てながら首を振り、破れたカーテンが生きているように波を描いている。他の部員はとっくに帰ってしまい、備品室を改装した小さな部室には、櫻橋と草凪の二人だけが残されていた。
「私たちの先祖も、海に引きこもらないで、陸に上がったから哺乳類になった」
櫻橋が何も言わないので、草凪が補足するように言った。
「それは、進化じゃなくて、適応だよ。僕たちは海中じゃ生きてけない」
「でも、広い世界を知ることは、人生には大きな意味があると思うから」
草凪は櫻橋に背を向けて、開いた窓の向こうを見た。強すぎる日差しをもろともせず、自分に特別な力があると信じて疑わない、まっすぐに澄んだ目を見開いた。
「私、ここよりも広い世界が見たい。だから、東京の大学に進学するね」
「そうなんだ」
櫻橋は、頭になにか重いものがぶつかったようなショックに見舞われた。学生時代とは、人生の通過点に過ぎない。その、覆しようのない事実を草凪から告げられるとは思っていなかった。当時の櫻橋には、高校卒業後の目的などなかった。小学校の時から憧れてきた高校が人生のゴールであり、それ以降は死んでしまっても構わないとさえ思っていた。でも、それは彼の都合でしかなく、社会からすれば今から働き手となる若者を失う訳にはいかないし、櫻橋の家族や友人も、彼に死なれては困るだろう。彼女にとってもそれは言うまでもないことで、崩れていくつり橋を華麗にステップするように、新しい場所へと足を踏み出す準備を整えているようだった。
「わたるはさ、どうするの?」
草凪は櫻橋のほうに歩み寄って、微笑を近づけてきた。櫻橋は困っていた。彼自身が高校入学時からずっと目を逸らし続けていた「将来」について、ほかでもない、目を逸らした先にあった、草凪から唐突に突き付けられたのだから。だが、その時の櫻橋は、将来を悲観できるほど現実を直視していなかった。自分の内面世界と同様に、現実も思い通りに書き換えられるという根拠なき自信があった。
人生に目的がないなら、刹那的な感情に身を委ねてしまえばいい。それは彼にとって当然の権利だった。高校卒業後も、草凪と今と同じように過ごしていくことは叶えたい夢などではなく、決定した未来だった。社会人の櫻橋からはきれいに消え失せた、楽観という感情だけが、この時の櫻橋を突き動かし、その口を開かせた。
「じゃあ、僕も、上京してみたいと、思う」
カーテンの隙間から差し込んだ日差しがあまりにも強く、部屋中のあらゆるものが輝いて見えた。窓の隙間から見える空も、スプレーで塗りつぶしたように青く、この世のすべてのモノが、二人の旅路を祝福しているとさえ思った。
「そうなんだ。じゃあ、わたるは私の戦友だね!」
草凪は、櫻橋が最も好きな表情を浮かべた。その時、櫻橋は、人はいくらでも変わることができると確信した。人間には環境に応じた適応能力があり、世界は自分の望んだ形になり、自分は世界に適合した形に成長するものと思った。その楽観が、自分と草凪の学力の差という、単純明快な現実によってわずか数か月の間に崩れ去るとも知らずに。
眼球の熱が冷め、手のひらを戻すと、その場には誰も残っていなかった。櫻橋は、現実から目を背け、過去の栄光に縋った自分を恥じ、さっさと職場のエントランスに足を運んだ。
大股で歩きながら考える。自分が同世代の異性とあれほど距離を縮めたのは、草凪が最初で最後だ。結局、櫻橋が途中で進学を諦めたことで、彼女とは疎遠になってしまったのだが、紛れもなく、あの時間は櫻橋にとって自己肯定感の極致にあった。実際、当時の自分の写真を見てみると、今よりも背筋が伸びていて、肌荒れもなく、髪にはつやがあった。理想の自分みたいなもののビジョンが目に見える位置にあって、他人との関わり合いに悩むこともなかった。それが、今やこの有様だ。不摂生で、常に頬はニキビで痛み、体躯はやせ細り、猫背で、体毛は増え、時々、人と何を話したらいいのか分からなくなる。なんと醜い人間だろう。思えば、その姿は、中学時代の自分の荒んだ姿と似通っている。自分の身なりなど構う暇もなかったあの頃。そういう時間があったからこそ、高校時代が充実していたとも言えるが、それならば、自分の人生において価値があるのは、楽しい時間などではなく、もがき苦しんでいる時間だけなのだろうか。
自動ドアを潜り抜けた。抜け目のない冷房が全身と頭を急速に冷やし、ネガティブな思考を洗い去る。
「だめだ、だめだ」
櫻橋は声に出して自分に言い聞かせた。何度か首を横に振り、冷静な思考を取り戻す。今、自分は、学歴に対して不相応なほど安定した暮らしを約束されているじゃないか。周囲にも高圧的な人はいないし、仕事にも少しずつ慣れてきた。自分は過去を見すぎなのだ。今と、未来に目を向けなくては。
櫻橋の部署に行くには、入口から向かって右手に進むのだが、今日は初めて、エントランスからまっすぐ続く通路を通って、研究課の棟を目指した。三門から数冊テキストを借りるためだ。先日、櫻橋は再び試練……もとい、試験を与えられた。送られてきた資料の束はまだよく確認していないのだが、先輩の古祥が言うには、「大型自動倉庫の管理に関する諸々の資格」だそうだ。近々、三日間の研修を受けて、その二か月後に東京の会場で試験があるのだという。試験は学科だけだと聞き、櫻橋はひとまず肩をなで下ろした。試験までの期間は二か月も用意されているから、準備さえ万全にしておけば恐れる要素はない。ただ、万全は期す必要があった。昨年、同じ資格を三門が取っていたというので、重要な箇所にアンダーラインの引かれたテキストを借りようと思い、連絡を入れておいた。
櫻橋も、三門も、今まで互いの部署に足を踏み入れたことがなかった。最低賃金の掲示や労災防止の張り紙が並ぶ通路を進んでいくと、途中で床が硬いタイルから病院のようなリノリウムに変わって、同じ建物のはずなのに、まったく別の空間に移行したような気分になった。研究課の小さい扉の前に立ってみると、想像よりも、部外者が容易に立ち入ってはいけない敷居の高さを感じた。普通にノックして入ればいいか。そんなことを考えて立ち止まっていると、背後から一人の足音が近づいてきた。
「あら、いらっしゃい。櫻橋くん?」
よく通る女性の声が聞こえて、少し驚いた。右手を振り向くと、自分の母親より少し若いくらいの年齢の、白衣を着た女性が立っていた。顔は知らなかったが、三門の口から、研究課のリーダーが中年の女性であることは、耳にしたことがあった。
「どうも。今日は遅番なんですけど、三門から本を借りようと思いまして」
「あらそう」
櫻橋は、研究所の引き戸に掲示された何らかの予定表に目を移した。その名前の列の中に「岡入」の文字を見つけた。そこで、彼女の名前が「岡入(おかいり)いりえ」であることを思い出した。
「三門ならもうじき来ると思うわ。今週はあなたと同じシフトだものね」
「そうですね」
「廊下で待ってるのもあれだし、中で座っていれば?」
岡入はそう言って、研究室の引き戸を開けた。ドライな話し方だが、冷たい感じはしない。お礼を言って入室してみると、自分たちの他に人の気配はなかった。研究室の内部は高校の理科室を数人しか入らないように狭めた感じで、よく見るフラスコとか試験管、希釈用のスポイトや正式名称の分からない機器がところ狭しと並んでいる。そのわりに開放的と感じるのは、壁際に大きな窓が設けられているためだろう。
岡入は櫻橋のことは気にとめず自分の鞄を開け、実験の準備を進めていた。櫻橋は少し気まずかった。少しの間、黙って携帯を見ていたが、ポケットに仕舞って立ち上がった。せっかくの機会だと思い、気になっていたことを尋ねてみることにする。
「岡入さんの研究について知りたいですけど……企業秘密ですよね」
「そうね。会社の規則だけが理由じゃないけど、詳しくは話せないわ」
遠慮がちに聞いてみたが、相手も申し訳なさそうな反応だった。岡入は不躾な返答をしてしまったと感じたのか、補足するように続けて口を開いた。
「まあ、強いて言うなら、保存溶液関係の研究よ」
「保存溶液で漬け込んだ食品の扱いなら、僕の部署でもやってますよ」
「そうね」
お互いが沈黙し、言葉のキャッチボールは早々に終了した。岡入も気まずそうだ。彼女は会話自体が苦手なのではなく、口が滑って、大事な情報を漏らすことを恐れているようだ。仕事のことを尋ねたのは悪手だったかもと、櫻橋は内省した。他の話題を探そうと思って周囲を見回すと、岡入のデスクに、一枚の写真がフォトフレームに収まっているのが見えた。若い夫婦が、黄色いワンピースの幼い一人娘と手を繋いでいる様子が収められている。一見すると普通の家族写真だが、写真に写る母親の容姿は、岡入とは似ても似つかない。別の家族の写真のようだ。
「櫻橋くん。仕事はどう? 難しい?」
棚の薬品を整理するかたわら、櫻橋の注意を写真から逸らさせるかのように、岡入は言った。何気ない質問だが数分前の自分の思考を見透かされたような気がして、櫻橋は少したじろいだ。将来の、特に仕事に関する不安はいまだぬぐえない。
「簡単ではないですけど、たぶん大丈夫です。皆さん、優しいので」
古祥たち、職場の上司たちに感謝していることは本心だった。叱られることもあるが、皆、櫻橋が仕事を覚えるのを根気よく待ってくれる。誰も自分を突き放さなかったから、自分はまだこの場所に立っていられる。だからこそ、時々思うのだ。自分がもっと優秀な人と入れ替われば、仕事は今よりもスムーズに進むのではないかと。櫻橋は正直、今の仕事ぶりで精一杯なのだが、古祥たちは余裕があるように見える。櫻橋と違い、この先、責任とともに仕事量が増えても、やっていけそうな自信をまとっている。そうした姿を追っていると、自分には、この立場は分不相応なのではないかと思ってしまうのだ。
「ただ、もしもの話なんですが」
櫻橋は、それが自身の問題ではないとしたうえで、岡入に聞き返した。
「自分の身の丈に合わない職についてしまった人は、辞めるべきと思いますか?」
「そうねえ」
岡入は少し頭を掻いて、棚から引き出したノートにボールペンで何かを記入し始めた。
「本人の同僚や、下の立場の人からすれば、自分たちよりも仕事が出来ないのに同じかもっと高い給料をもらっている人がいれば、不満は出てくるかもしれないわね」
「能力が高い人にはそのぶん仕事や責任が押し付けられるわけですからね」
能力が低いことを言い訳に仕事をさぼっている人も一定数いるのだろうが、やはり必死に働いていても、仕事の出来不出来には差が出てしまうものだと、櫻橋は思っている。ただ、人は、自分にできることは、自分以外の人にも出来ると思ってしまいがちだ。今は大丈夫でも、いつか本当に、自分が職場環境を悪化させる病巣と化すのかもしれないと、暗い気持ちになる。しかし、岡入は櫻橋の考えを見透かしたように、話を次に進めた。
「ただ、今の仕事を辞めて、もっと簡単で安い仕事を探すことが得策とも言い難いわ」
「どうしてでしょう」
「人は、自分の長所も短所も、自分自身では正確に分からないものよ。本来ならもっとレベルの高い仕事ができるのに、諦めてしまうという可能性がある。誰にでもできるような仕事は、給料は安いし、いつかAIやロボットにとってかわられる。なにより本人が幸せではないと思うわ」
「ですが、根拠のない自信を持つことも良いとは思えません。岡入さんは、どうすればいいと思いますか?」
岡入はペンを止めて熟考していた。櫻橋の問いこそが、もしかすると彼女の人生における命題なのかもしれない。もしくは、既に答えは出ているが、それを櫻橋の前に開示するべきか、迷っているのか。
「社会が、変わっていくしかないわね」
ややあって、岡入は口を開いた。
「自分の能力が数値化され、すべての人が持つ潜在能力のすべてを、過不足なく発揮できるようにする。この国のすべての職場でそのような仕組みが導入されれば、解決すると思うわ」
「昔から、新人研修でその人の適性を見て、配属を決めるっていう文化がありますけど、それを突き詰めた感じでしょうかね」
「そうね。人の主観ではなく、機械によって、寸分の狂いもなくね」
予想に反して、彼女の口から出てきた答えはSF小説のような、突飛なものだ。
「そうですけど、そんなこと」
岡入は平然と言ってのけるが、出来るはずがない。櫻橋はそう思って聞いていたが、彼女は地に足の着いた理想を語っているように見える。
「おそらく、今後、その国はそうなるわ。あの人がそう願ってたみたいに」
岡入は、そう言って例の写真を手に取る。
「この写真。岡入さんのご家族じゃ?」
「ええ。春日さん。なかなか、片付けられなくて」
「春日さん……」
「私の同期で、ずっと研究を続けてたんだけど、結婚した後、亡くなったの。20年くらい前に」
岡入の表情が曇ると同時に、空気が沈んで部屋まで暗くなったような気がしたが、それは、空が陰って日差しが弱まったからだ。「春日さん」と岡入がどれだけ親しかったのか、亡くなったのが、旦那さんなのか、奥さんなのかもわからず、櫻橋は返答に窮したが、岡入も適切な言葉が見つからず沈黙しているようだった。
「おはざす」
ゴロゴロと引き戸の開く音がして、聞きなれた男の声が響いた。白衣を着た三門が、テキストを抱えて研究室に入って来る。
「三門」
「櫻橋、来てたのか」
櫻橋は適度に軽口を吐いて空気を明るくしようと思ったが、想像よりも三門の目に光が無かったので、やめた。彼の顔はやや下を向いていて、小刻みに視線を揺らし、岡入の顔色を伺っているようにも見えた。
「はい。これ、テキスト」
「あ、ありがと……」
本を受け取って壁掛時計を見ると、始業の10分前だった。櫻橋は岡入に頭を下げ、研究室を後にした。引き戸を閉めた後も、奇妙な違和感が胸の中を渦巻いていた。岡入の言っていたような仕組みが導入されれば、自分のような人間は不安から解放されるのだろうか。櫻橋は、自分の能力値が記載されたプリントを手渡される様子を思い浮かべた。もし、すべての能力が0だと断定されれば、気が楽になるのだろうか、それとも、自分の将来に絶望し、気力を失うだろうか。どちらにせよ、それが幸せな未来とは思えなかった。
2-2
その日の休憩時間、櫻橋はスマホで中古車の情報をリサーチしていた。貯金がたまって来たので、そろそろ車を買おうかと思っていた。
近年は、個人用の自動車はリース契約が主流となり、安価なモデルは軒並み廃止され、ほとんどの車が昔で言う所の高級車みたいになっていた。個人が買い切るには高すぎる出費だが、市場価値が下がる前に手放すので、初期費用さえあえば中流階級でも家に置けているというわけだ。おまけに接触事故防止機能が過剰に装備されていて、普通に運転していれば車体に傷がつくことはめったにない。
こうした現状に、櫻橋は、昔と比べて自動車の公共交通機関化が進んだというふうに思っていた。今の車の内装は新幹線か飛行機のように快適だが、それを個人で所有しているという感覚はあまりなく、皆、公共の資源とでもいうように、丁重に扱っている。昔の車は今ほど快適ではなかったが、仕事や遊びの道具として多少乱雑に使っても許容される雰囲気があったように思う。それは、車体本体の価格がそれほど高くなかったからでもあるし、車を買う人が、車に乗ること以上に、車を所有することに意味を見出していたからでもある。みたいなことを、勝手に考察していた。
「車が昔の方が良かったっていうのも、一理あるんだよ」
櫻橋が、移動の足が欲しいというような話題を持ちかけると、管理室で些事をこなしていた古祥がそう言った。彼女もリース契約の車に乗っているが、思うところはあるのだろう。
「安全機能とかいろいろ考慮するとああなるんでしょう」
「自動運転が認可されたおかげで交通は昔と比べ物にならないくらいに整理され、まるで全ての車が時刻通りに運航するバスみたいだからね。これは、交通戦争を経験した日本がたどり着いた、完璧に調和された楽園。ハーモニー・ワールド」
「なんですそれ」
首をかしげる櫻橋に、古祥は不満げな表情を見せた。
最近では、櫻橋と古祥は二人で仕事をすることが増えていた。少しずつながら、櫻橋が仕事を覚えていって古祥の仕事を肩代わりするようになり、仕事以外の会話も増えていった。櫻橋はどちらかというとバイクが好きなのだが、彼女の車の趣味も少なからず理解があったので、その話で盛り上がったりすることがあった。古祥は音楽好きでもあり、櫻橋の知らないラップの曲などを教えてくれたりした。
一度だけだが、GWHの敷地外に出て、ラーメンを奢ってもらったこともあったが、彼女の経済事情が櫻橋のそれよりも厳しいと知って以降、二人で食事に行くことは無くなった。古祥は彼氏持ちなので、二人で仕事場の外に出るのは気が引けるというのもあった。彼女はスポーツ関係のサークルの主催もやっていて、そこで知り合った人とよく飲みに行くのだそうだ。車のローンもあるので、休日につるむ友人が三門くらいしかしない櫻橋と比べると、毎月の出費の差は明らかだ。ちなみに、そのスポーツのイベントで知り合った年下の彼氏が研修医らしく、かなりの年収というが、年下から世話になるのはポリシーに反するらしい。それどころか、今の仕事でもっと稼いで、彼氏と並んで恥ずかしくないようにしたいと言っていた。櫻橋は、そういう先輩の背中を見て仕事ができるのは、非常に恵まれたことかもしれないと思った。
櫻橋のように無気力な青年が増えたこの時代には珍しく、古祥は活気に満ちた社会人だった。彼女のような人が増えれば、日本の経済はもっと回るのかもしれない。しかし、だからこそ櫻橋には、古祥とはいつか分かり合えなくなる時が来るという予感があった。二人は生まれも育ちも全く異なり、きっと、根本的な価値観がコインの裏表のように、決して重ならないのだ。それなりに仲良くやっていけているのは、表層の、共感し合える部分だけを見ているからだ。
彼女は櫻橋よりもはるかに人生を謳歌しているように見えたが、それを羨ましいとは思えなかった。櫻橋は、彼女のように器用に生きていく自信がなかったし、器用に生きることで得られる報酬に関心が向かなかった。古祥が纏っている空気感は、例えるなら、ネオンが煌々ときらめく夜街のようだ。だが、櫻橋はタンブルウィードが転がる荒野を心の中に宿し、その先の景色が見たかった。でもそれは櫻橋個人の望みなので、誰かに押し付けることはできない。それに、この時の櫻橋には、自分が追い求める「荒野」がどこにあるのかすら分からないままだった。しかし、ネオン街は相変わらず、いつも古祥のすぐ隣にあった。
「櫻橋。このパレットだけど、この順の方がおさまり良くない?」
「そうですかねえ」
管理室のモニターには、製品を積んでいない、空のパレットがどのように配置されているかが示されている。この並び方には、これといった決まりが無いので櫻橋は気に留めたこともなかった。
「その方が、効率がいいですか?」
「いや、そういうんじゃないけど、見栄えが悪くない?」
確かに、古祥が示したやり方の方が、パレットの段数が列ごとちょうど同じになるので、揃ってはいるのだが、櫻橋の頭には、仕事場の資材の配置に「見栄え」という概念が無かった。思い返せば、古祥は休憩室の机や椅子がずれていたら無意識に直しているし、ボールペンは色ごとに分けて整列させたりしている。つまり、生粋のキレイ好きなのだ。
「私とあんたの、美的センスの違いだね」
「まあでも、事故らなければいいじゃないですか」
櫻橋はむっとして、思わず減らず口を叩いた。後輩の尊大な態度に古祥はため息を吐いた。
「あんたさあ、もっとこだわりをもって生きないと」
「こだわりですかあ」
「私は、櫻橋が何にこだわりがあるのか知りたいんだよ」
櫻橋は脱力し、自分のこだわりについて考えた。それは確かに存在するが、その、脳内にあるイメージを言語化しようとすると、3Dの映像のように捕まえらず、手のひらをすり抜けて消えていく。
「破綻……」
思考がまとまるよりも先に、櫻橋の口が自由意思を持ったように、短い単語を漏らした。
「何か言った?」
櫻橋は自分の口から出てきた言葉に驚き、慌ててごまかした。
「いいえいいえ!」
管理室の椅子を立って、クリップボードを手に取り、モニターで古祥が示したパレットの並び順をメモする。
「やっぱ、僕もこの順に並べますよ。古祥さんと僕でやり方が違うと、良くないでしょ」
「お、おお……」
古祥は、頭をひねりながら、櫻橋の行動を見ていた。
その日仕事が終わった後も、あの時、自分が何を口走りそうになったのか自分にすら分からず、代わりにひとつの疑念がぬぐえなくなっていた。自分はもしかすると、一人で行動することに慣れすぎて異常な性格になってしまったのではないか。自分のことを俗物的な人間と思っていたが、悪い意味で、そうではないのかもしれない。いい意味で俗物的な人間とはつまり、古祥のような人だ。彼女はよく働き、よく遊び、誰かを支え、誰かに支えられることで生きている。それが普通のことだ。しかし、自分は違う。あまねく問題を、自分一人で解決しようとし、他人をノイズのように扱っていた。それが、すべての間違いだったのではないか。
仕事が苦手でもよほどの失敗をしなければ、クビにはならないはずだ。今の時代、仕事よりも大切なのは、一緒に生活する人の存在ではなかろうか。守るべきものがあれば、背負い込んでしまえば、自分の存在価値に目を疑う必要はない。櫻橋は、自分は間違っていた。と思った。どこにあるのかも分からない荒野ではなく、古祥の近くにある、ネオン街を目指すべきなのだ。この時期が、行き先を修正する最後のチャンスなのだ。今のうちに人間関係を広げ、周囲から認められ、これまで避けてきた恋愛経験も積む必要がある。これは、「大型自動倉庫の管理に関する諸々の資格」と同等、いやそれ以上に重要なことだと確信していた。
少なくとも、この時は、そう確信していた。
自らの発見に慄いていると、後ろから強いLEDライトの光と電気自動車特有のモーター音が迫って来た。立ち尽くす櫻橋の隣に見慣れた小さいバンが停車し、運転席の窓が開いた。
「送ってくぜえ」
聞きなれた声とともに、サムズアップした手首が窓からのび、その親指が車内に向けて傾いた。遅番の業務は22時頃に終了する。GWHでは、この時間でも職員のために無人バスが運行しているが、今週は三門と終了時間が被っているので、彼に送ってもらうことにした。
「皆、どんどん大人になっていくなぁ」
「先輩の彼氏に嫉妬したか?古祥さん、綺麗だもんな」
前席にしかないスピーカーから、気の抜けたリズムに乗せて中身のない歌詞が垂れ流されている。三門も飽きた曲のようで、ハンドルのボタンでボリュームを下げていた。
「なんというか、嫉妬してるのは、先輩にかな」
「どういうこったよ」
三門は前を見ながら不思議そうに言った。
「あの人は青春を謳歌してる。なんていうか、あの人、女だけど、ひと昔前のモテる男みたいな……」
「そりゃあ、いい車を乗り回して、仕事ができて、顔が良いんだから、そりゃあ女だってもてるだろうよ」
三門はハンドルの曲送りボタンを連打して好きな曲を探していた。ぶつ切りにした野菜みたいに、多種多彩なイントロが連続する。昼間の熱気を残した暗い景色が、徒歩とは比べ物にならない早さで左右のガラス越しに流れていく。葉の生い茂った街路樹がこちらに手を振って、過ぎ去っていく。
「僕らとは、住んでる世界が違うんだ」
櫻橋は、急激な寂しさに襲われた。十年ほど前と比べると、日本社会の中には古祥のような女性は増えていた。女性の社会進出は進み、一方で正規雇用と非正規雇用の賃金格差が拡大した。しかも、その格差は本人の人生の結果であるという風潮も手伝って、低所得者は肩身の狭い思いをしている。それは、昔の三門や櫻橋……特に三門が少なからず経験した差別でもあった。
「まあ、でも、体力づくりくらいはした方がいいのかな」
櫻橋は、三門というよりも、自分自身に向けて呟いた。最低条件として、多忙な仕事や用事に耐えられる基礎体力を身につけなければ、周囲から認められることは難しそうだ。
「どうやって鍛える?」
「筋トレとか」
「三日ももたんやつやん」
ハンドルを握って苦笑している三門は、三日坊主にすら及ばなかった経験を数多くしているので、その言葉には説得力があった。ではどうすればよいか。櫻橋は腕を組んで考えた。自分が、飽きずに運動を続けられる方法はあるだろうか。きっと、あるはずだ。
「山登り?」
次の日。職場でデータをパソコンに打ち込みながら、古祥が櫻橋の言葉を聞き返した。櫻橋の口から、運動に関する言葉が出てきたことそのものが不思議だったのだろう。
「体力つけようと思いまして」
少し照れくさそうに、櫻橋は首筋を掻いた。ずっと過酷な運動部に籍を置いていた古祥に、気楽なアウトドア部での生活は説明したことが無かったので、彼女には、櫻橋の登山は初めての経験と思ったのかもしれない。古祥は隣の椅子に座る櫻橋の方を向いて、怪談を始める子供のように、少しいたずらっぽい表情を浮かべた。
「それで、家でできる筋トレとかじゃなくて、登山か。あんたらしいよ。でも、遭難するぞ。クマが出るぞ。怖いぞ。……一人だと」
「でも、一緒に登ってくれる人なんていないっすから」
今のご時世、しかもこの季節に山登りなどに貴重な休日を使う社会人はいないだろう。三門もさすがにめんどくさがりそうだ。
「なら、うちのサークルに来るか?今度、浜石岳に登るんだけど」
少しの沈黙の後、古祥が言った。最初からその話をしようか迷っていたようだ。
「良いんですか」
「まあ、その、彼氏も来るけど、うちらのことは気にしなくていいから」
櫻橋の明るい声に対し、古祥は少し困った顔をした。古祥の彼氏の話になると、毎回気まずい空気になる。それだけ古祥と櫻橋の距離感が異質なものだからかもしれない。恋人がいる異性との関係を心得ている人は櫻橋の知り合いに数多くいるが、櫻橋は古祥が普段接している唯一の同年代の異性であり、彼女も本来は奥手なほうなのだそうだ。意外ではあるが、学生時代からストイックに文武両道を維持し、就職後も真面目に働いてきた彼女は、今の彼氏が初めての恋人なのだという。この年になってようやく遊ぶことを覚えてきた。と古祥の知人が評価していた。仕事と同様に、遊びを覚えるのも得意という事だろうか。
「ありがたいっす」
ねばついた嫉妬が心の中に生まれるのを食い止めながら、櫻橋は混じりけの無い感謝を心に作った。
その週の週末、櫻橋はバスと電車を乗り継いで興津の実家に帰省した。家に着いた時間には両親はおらず、物音を聞きつけた茶トラのペンタゴンがリビングで小さく鳴くのが聞こえた。廊下の物置を開いて、その一番奥にあるものを引っ張り出した。紐やストラップがごちゃごちゃとぶら下がった、登山用のバックパックだ。やけに重いので、登山用品もこの中に入っているはずだ。およそ三年ぶりに目にしたそれは、前に背負った時よりも一回り小さく感じた。チャックを開けて中身を確認すると、当時の登山のしおりや、小さな道の駅で買った木製のプレートなどが出てきた。期せずして用意していたタイムカプセルを開いてしまったような気分だ。数年しか経っていないのに、感嘆の声が出そうなほど懐かしい。だが、思い出に浸るために取り出したわけではない。明日、これを再び背負うのだ。
「にゃお。にゃお」
「ペンタ。危ないよ」
扉を開けてリビングに入ると、足にまとわりついてきたペンタゴンを適当にあしらいながら、櫻橋は重いバックパックを置いて、流れるようにソファに座り込み、明日の予定を確認した。浜石岳は電車で一駅、徒歩でも行けそうな距離にある。標高は700メートル程度で、頂上付近までコンクリートで舗装されている。比較的登りやすい山である。
「なああ」
ペンタゴンがしきりになにか訴えている。普段と違う自分の行動に不安を感じたのかもしれないと思い、ペンタゴンの首筋から背中を撫でて、詳しい事情を説明した。
「お前に特別に教えてあげる。去勢されてしまったお前には関係ないかもしれないけど、独身の大人というのは、たいてい哀しい生き物なんだ」
「にゃ?」
「自己肯定感もなく、将来も不安しかなく、悪い異性に簡単に騙されてしまう」
「にゃうにゃう」
ペンタゴンは黄色い目を細くして、わかるぜ。というように小さく頷いた。ように見えた。それから床に寝そべって、後ろ脚の毛づくろいを始めた。櫻橋はスマホで時刻を確認して、急に静かになったペンタゴンに問いかけた。
「そろそろ、ご飯の時間じゃない?」
「ふん」
以前は、「ごはん」というワードに過剰なほど反応していたはずなのだが、最近では少し鼻を鳴らす程度に収まっていた。実際お腹が空いているのかは分からないが、櫻橋は立ち上がり、猫用の食器を探した。青い魚柄のボウルにカリカリを注いで、猫缶の中身を乗せた。いつもの場所にそれを置いて見せたが、ペンタゴンは近づいて数口食べただけで、その場を離れて毛づくろいを再開した。
「食べないの? 前まで食欲旺盛だったのに」
櫻橋が再び背中を撫でると、ペンタゴンは満足そうに喉をグルグルと鳴らした。
2-3
翌日、熱中症になるとか遭難するとか心配する両親をよそに、古びた登山靴の靴ひもを結んで、家を出た。この地域は緑が近くにあるおかげで、気温がそれほど高くない。今日は通気性のいいTシャツを着て、半ズボンとスパッツを履いてきた。山は夏でも寒くなることがあるので、薄い上着もリュックに入っている。ペットボトルの飲み物も4本入っている。相変わらず日差しが強いのでキャップを被ってきて正解だった。
歩いて由比駅まで行くと、派手なサクラエビのオブジェの乗っかったアーチがこちらを出迎えた。自販機でアクエリを買って、立ち止まって数口飲んでいると、その自販機に若い男女二人組がやってきた。男性はペットボトルのブラックコーヒーを、女性はライフガードを買って、櫻橋の数歩先で飲んでいた。櫻橋は再び歩こうとすると、女性の視線がこちらに向いていることに気が付いた。不審に思い、こちらも女性の顔をみつめかえした。見覚えのある顔だ。その整った顔の輪郭が昨日の記憶の一部と重なり、櫻橋は目を見開いた。それと全く同じタイミングで、相手も口を大きく開いた。思えば、お互い私服を見たことがほとんどないので、すぐには気が付かなかった。登山用の服装を私服と呼んでいいか分からないが。女性がこちらを指さし、反射的に、こちらも相手を指さしてしまった。
「あっ櫻橋」
「古祥さん?」
第一声に迷っている古祥を横目に、隣の男性が櫻橋に一歩近づいてきた。
「りんの後輩さんですか?」
古祥の顔で隠れていた男性の容姿が明らかになった。背は少し小さいが、顔はこれでもかというほどに整っている。狼の血を引いた犬のような、人懐っこいようで、一目で頭が良いと分かる、柔和な表情と、パーマのかかった茶髪が機能的な登山用の服と似合っている。容姿を見ただけで、なるほどやはり古祥の彼氏だ。と軽くうなってしまう。
「初めまして。櫻橋わたるです。古祥さんにお世話になってます」
人間としての圧倒的な差に怯みつつも、櫻橋はそれらしい挨拶を並べた。
「初めまして。真水(しみず)しんやです」
真水はさらに数歩、櫻橋に近づいて、あろうことか握手を求めてきた。櫻橋は、有名俳優を前にしたような気持ちになりつつ、彼の手を握った。想像に反してその手は硬くごつごつした質感だった。直感的に、人助けをしている手だ。と思った。
「しんや。勘違いしないでよ。櫻橋はただの後輩で、それ以上でもそれ以下でもないんだから!」
後ろで古祥が目を細め、薄い上着のポケットに手を突っ込んでいた。真水が彼女の浮気を疑っていると思ったのだろうか。
「わかってるよ。りん。僕は君を心から信用している」
彼女の焦燥に対し、真水は冗談のような台詞を恥ずかしげもなく言ってのけた。
「僕は、隣にいてくれるのが君でなきゃいけないし、君だってそうだろ」
真水がそれを言うと、冗談めかした雰囲気も、痛々しい気まずさもなかった。だが、それによって発生する空気感は古祥や櫻橋の脳内に化学変化を引き起こし、あらぬ方向へ状況を流転させた。古祥の表情を覗き見ると、驚き、怒ったような表情で顔を耳まで真っ赤にしている。
「なッ……あ……」
この場に櫻橋はいるべき存在ではなかった。彼は二人の時間を守るため、少しずつあとずさった。
「それじゃあ僕は、先に行きますね」
「浜石岳の頂上まで競争ですね。望むところです」
どうしてそういう解釈になるのか分からないが、この奇妙な空気を創り出した張本人である真水は、櫻橋の早歩きに追従してきた。追われたら逃げるという動物的本能に従って櫻橋が走ると、真水も走って追って来た。民家の隣をしばらく走ると、強すぎる日差しが顔面を焼き、全身の体温が沸騰するかのように上昇した。さっきの混乱のせいで、今日が炎天下であることをすっかり忘れていたのだ。もはや立つことさえままならず、数メートル先で、櫻橋と真水はその場に崩れ落ちた。
顔じゅうから噴き出した汗をぬぐうとすぐに喉が渇いて、またアクエリを飲んだ。もう半分以上なくなった。
「君たち、もしかして馬鹿なの?」
呆れた様子の古祥が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。一分近くして、櫻橋は静まった体を引き起こした。目線の先では、ふやけた表情の真水が古祥に支えられて起き上がっていた。
「まだ山に入る前に干からびてどうするのよ」
櫻橋は苦笑して、辺りを見回した。すると、見ず知らずの若い男女がその場に集まっていた。古祥や、真水に笑顔を向け、手を振っている様子から察するに、彼ら、彼女らが古祥のサークルのメンバーであることは確実だった。古祥が櫻橋を紹介し、軽く挨拶を済ませた。皆、古祥と同じような明朗な性格で、破綻や荒野を望む心など、微塵も感じられない。そうだ。このような人たちについていくべきなのだと、櫻橋は安心した。
青空の下に由比の古びた木造建築が立ち並んでいる。心の凪が落ち着くような、嫌いではない雰囲気だ。家からすぐの場所だが、最近はほとんど歩いたことがなかった。看板を目印に山へ進んでいく。橋を越えて、民家がまばらになる。それから急に斜面が来て、まだ基幹システムの管理を受けていないミカン畑や茶畑が櫻橋たちを迎えた。そして、崖のような開けた場所から由比駅の周辺がジオラマのように小さく見えた。そのころには、もう自分は山に登っている最中なのだと実感した。
真夏日の登山は、山中に入るまでは過酷だが、木々の葉が連なった影の下に入ると、冷房をきかせているように涼しかった。櫻橋たちは灰色の地面に沿って歩みを進めた。普段は見飽きているコンクリートが頼もしい相棒のように感じる。この近辺で、頂上近くまで道が舗装されている山は貴重だ。清涼感のある花の香りが鼻腔をかすめ、あちこちで木陰が揺らいでいた。道中には小さな滝のようなものがあって、岩をつたって透明な水がさらさらと流れている。
周囲の環境は快適そのものだったが、やはり体力的に、櫻橋は周囲に後れをとっていた。普段から体を動かしているサークルのメンバーはおしゃべりに夢中になりながらどんどん先に進んでいき、30分ごとに2メートルくらいのペースで、櫻橋と古祥たちの間に距離が開いていた。もともと一人で登るつもりだったので不満は感じなかったが、これが人生の縮図と思うと焦燥に駆られる。古祥たちの背中から足元のコンクリートに目を向けると、サークルのメンバーのうち一人が櫻橋を慮り、立ち止まったのが分かった。櫻橋が顔を上げると、そこには純粋そのものの笑顔を浮かべる真水しんやの顔があった。
優しさを向けられることは、櫻橋にとって怖いことでもあった。自分がその優しさを返すことができないからだ。しかし、今はそれ以上に、他人から逃げ続けた先の末路のほうが恐ろしかった。
「真水さん。ありがとう」
「しんやでいいよ。お互いタメでいこう」
真水の口調は驚くほどシンプルなのに伝わりやすかった。コミュニケーション能力とは、声質や話す速度なども影響するのだろうか。昔は、人と話すことを怖いと思っていなかった。しかし、頭の中でリハーサルしても自分の考えが伝わらず、相手をいらだたせることが増え、人と話すことが億劫になっていった。いまでも、うまく話せる人とそうでない人の違いはよく分からない。だが諦めるわけにいかなかった。多少無理をしてでも、人間関係を拡充する必要がある。櫻橋は、ひとまず当たり障りのない質問を投げかけてみた。
「しんやは、研修医なんだっけ?」
「まあ、知り合いに拾ってもらったようなものだよ。運が良かっただけさ」
真水の口調に、少しだけ自嘲的な響きが混じった。運良く今の職場にいることは櫻橋も同じだが、真水と自分が同じとは思えなかった。
「すごいね。ところで、何のお医者さん?」
「まあ、外科医だけど、主に、遺伝性疾患かな。最近増えてるんだよ。二十歳を超えると発症する遺伝性の病気が」
「それについて、先生と研究してるんだってさ」
よく通る女性の声がしたかと思えば、いつのまにか、隣に古祥が立っている。彼女も櫻橋が心配で立ち止まったのだろうか。
「すご」
素直に感心している櫻橋とは裏腹に、真水の表情は少し沈んでいる。
「病院に勤めてると、知り合いになった患者さんが亡くなることがよくあるんだ。前に合った時は元気そうにしてたのにってこともね」
「そうなんだ。僕ならつらくて続けられないなあ」
「慣れてくるけどね。でも、ご家族は後悔される方が多いよ。僕も、いつどこで誰が病気になるか分からないという事を肝に銘じておきたいね」
真水の表情は固まっている。自分の人生におけるやるべきことが定まっているのだ。そしてその決意は、形はさまざまであれ、だれもが大人になるために必要なものだと分かった。
人生について改めて考えるきっかけになったが、想定よりも重たい空気になってしまった。櫻橋は、別の会話の切り口を探して、周囲になにか面白そうなものがないか目を泳がせた。真水のバッグを見てみると、櫻橋にとって馴染みのあるキャラクターが揺れている。
「このラバスト、もしかして大怪獣ゴルディモラに出てくる……」
「分かるの!?これ、イベント限定販売で」
真水が、先ほどの医者を目指す聡明な表情から一転して、純粋な少年のように目を輝かせた。
「ソフビも買ったんだけど」
「それ、伝説の原型師がその数十体のために3か月かけて造形したという!」
櫻橋は思い出した。自分は、こういう話題については事欠かないのだ。真水からしても、このような話題で盛り上がれる相手は多くないらしく、楽しげな笑顔を浮かべている。
「君ら早くも仲いいね。私は、特撮とか分からんからな」
和気あいあいとしている二人を横目に、置いてけぼり気味の古祥は寂しげだ。コアな話題はそれを知っている者同士では盛り上がるが、誰にでも適応するわけではない。やはり、コミュニケーションは難しい。しかし、その難しさもゲームと思って攻略するやる気が、この時の櫻橋にはあった。
そうこうしているうちに、一行は山頂へと続く最後の丸太階段にさしかかった。滑って転ばないように、一段ずつしっかりと踏みしめていく。いつの間にか手足にはだいぶ疲労がたまっていた。標高が高いので涼しいが、徐々に捌けていく木陰の間から差し込む太陽の光がまぶしい。その眩しさに目を閉じて、帽子を深くかぶり、もう一度目を開くと、そこには地平線まで広がる広大な海の景色があった。太古から続く物流の要。全世界を繋ぐ通路。かつて生命が引きこもり、その多くが飛び出していった巨大なふるさと。
海。
先頭を歩いていた集団は既に看板と富士山をバックに写真を撮ったりしている。櫻橋は荷物を置いてベンチに腰を下ろすと、用意していた小型のガスストーブの用意を始めた。
「たまにはこういうのもいいよな」
ガスストーブのヒンジをひねり、点火させていると、さりげなく古祥と真水が隣に腰かけてきた。
「大人になると、遊びに行くことがほとんど飲みに行くのと同じ意味になっちゃいますからね」
小学生の時の記憶を掘り返すと、田舎の祖父母の家に遊びに行き、裏山でタケノコを掘ったり、昆虫を捕まえたりした映像が蘇る。こういう、自然に親しんだ遊びは大人になるほど機会を失っていくことがほとんどだ。それは、いつの時代もそうなのかもしれない。
「まあでも、櫻橋。あんたも酒が飲めるなら、飲みに行った方がいいと思う」
古祥はわりと真面目な声で櫻橋に言った。確かに、自分は成人を迎えても滅多に外に飲みには行っていない。飲みの場とはつまりコミュニケーションの場所であり、そこでうまく立ち回ることに自信がなかったのと、貯金が貯まらない知り合いに話を聞くと、その原因の多くは夜遊びであったため、無意識にそういったものを敬遠していた。ただ、大人を形成するのは真面目な職場よりも、ある意味そういう場所なのかもしれない。人生の最終的な満足度を考えると、交際費をケチって遊びに行かないことは、かえって勿体ないことなのだろう。
「いつの時代も、大人の出会いは飲みの場にあるものだからね。お酒が飲めない人からすると、理不尽な話なんだけど」
そういったことにも慣れてそうな様子の真水が、頬杖をつきながら言った。
「まあでも、飲みに行ける友達あんまいないんですよね」
櫻橋は、組み立てたガスストーブを点火した。
三門は体質的にアルコールが飲めない。別に酒を飲まなければいけない訳では無いが、彼と二人で遊びに行き、櫻橋だけ酒を飲むのもどうかと思う。
「高校の同窓会とか開けば?部活とかさ」
櫻橋のぼやきに対して、古祥の口からは、考える間さえもなく妙案がふらっと出てきた。
アウトドア部と、草凪ゆうの存在が頭をよぎる。あらゆる事象が、山手線のようにきれいに円形に繋がった気がした。そして、自分が次にやるべきことが分かってしまった。
櫻橋は下山して、真水たちとの連絡先を交換したあと、彼らと別れて家路についた。実家の自室のなかで数時間悩んだあげくに、数年間放置され、リストの底に眠っていた山岳部のグループラインを開き、メッセージを送った。
「同窓会開きませんか」
「興味がある方は櫻橋に連絡ください」
櫻橋がメッセージを送信した瞬間に既読が付き、言いようのないい不安感が胸を締め付ける。自分の言動から、その奥にある思惑や下心まで、すべてが見通されてしまう気がする。櫻橋は、他者から自分を誤解されることを何より恐れたが、自分自身も、自分のことがよくわかっていない。
「えー!?(喜)めっちゃやりたい!」
当時幽霊部員だった望月さんが返信を返してきた。ネガティブな反応ではなかったので、ひとまず安心する。その一日後、草凪からも返信が来た。「イイネ!」と大きくテロップの張られたスタンプのみだったが、櫻橋は彼女から反応が来たことが素直にうれしかった。「よし」と、スマホを片手に自室でひとりごちた。
一週間が過ぎた。最初はある種の刺激に満ちていた猛暑も、ただの拷問に変わり、日本全域が倦んでいるように感じた。週末は何も予定がなく、三門と映画に行った。映画館まではいつも通り三門に車で送ってもらった。彼にはいつも世話になっている。彼自身もそれくらいしか他人に頼られる機会がないので幸せそうである。
映画館では、豪華客船が座礁して沈むラブロマンスの映画が再上映していた。独身の男二人で行く映画ではないと、三門と自虐しつつも、不朽の名作なので、一度は見ておきたかった。映画のクライマックスのシーンで、沈んでいく男優を見て、櫻橋は、草凪ゆうの為なら死んでも良いかもしれないが、彼女に認識されないまま、一人で消えていきたくはない思った。人はいつ死ぬかわからないものだ。無神論者の櫻橋にとって死は一巻の終わりであり、今の自分が最も避けるべき事態だった。自分は、比較的恵まれてはいるが、人間が享受するべき幸福の一部しか知らないと思っていた。
この他にはさしたるイベントもなく、大きな山も谷もないような平凡な日々が繰り返され、いつの間にか8月が終わった。猛暑はようやく折り返し地点を迎え、長い滑り台のような、のろのろとした残暑がはじまった。
「大型自動倉庫の管理に関する諸々の資格」の講習会の当日、櫻橋は冷蔵庫から冷やしたペットボトルのブラックコーヒーをホルダーに仕舞い、それをそのままくたびれたリュックに放り込んだ。じめついた暑さのもと、バスと電車を乗り継ぐこと一時間弱、街のはずれにある年季の入った小さなビルにたどり着いた。会議室までのフロアは病院みたいな匂いがした。エレベーターに乗って、今回の研修のタイトルが大きくプリントされた紙が貼りつけられた扉を開けると、総勢30名くらいの男女が並んで腰かけている。年齢も服装もまちまちだ。営業職っぽい真面目そうな男性はこの暑さでもネクタイを締めている。一方、髪を茶髪に染めて、何らかのキャラクターがプリントされたTシャツを着ている人もいる。部屋の奥の左手には小さい机とノートパソコン、正面には大きなスクリーン。天井には、切り餅みたいな蛍光灯。説明するまでもない普通の貸会議室だ。
部屋の入口で受付を済ませてテキストを受け取り、指定された席に座り、15分ほど経って、講義の開始時間になった。進行役の男性の声がマイク越しに響き、わずかに談笑していた人たちの声がぴたりとやむ。当然だが、学校の入学式のような和気あいあいとした空気感はない。初老の男性の講師はマイクを持って壇上に上がると、研修のカリキュラムを矢継ぎ早に説明して、すぐに本題に移行した。
「えー、今から40年以上前にですね、沸き起こった働き方改革の影響によって、えー、物流関係の人手が不足するというですね、2024年問題って言うんですけど、それがですね……」
何年間も使いまわしていそうな、古いスライドの画面が次から次へとスクリーンを移動する。
「まあ、無人のトラックやバスとかですね、あと、ドローン便の普及によって、徐々に解消されてきたわけです」
右前の人が、こっそりペン回ししていて、気が散る。左どなりの人も完全に居眠りしていて、眠気が誘引される。リュックからコーヒーを取り出して、脳髄に流し込む感じで一気にあおったが、あまり効果はなく、ぼんやりとした眠気が残った。
「物流センターでの荷物の管理も、今ではほとんど自動化されてるわけですけれども、人間が一人もいない状況では回せない訳でして。え……」
櫻橋が就職の際に穴が開くほど目を通した「GWH設立の経緯」が語られている。数年前に読んだ資料と一言一句同じ内容だ。眠気がピークに達したころ、三門が難しいと言っていた、計算が必要な項目が始まった。スライドの画面もトラックやドローンのフリー素材から、いきなり記号やグラフたちに変化し、なんだかいきなりレベルが上がった。居眠り気味の人たちが顔を上げ、会議室全体が目を覚ましていくようだ。櫻橋も言われた通りにグラフを作成して、そろそろ集中力が切れて来たな。と感じるころに、すべての時計の針が12時を掠めて、昼休憩の時間になった。
「なんでもかんでも自動化すればいいってわけじゃないよね」
支給された弁当をつついていると、隣の男性がおもむろに話しかけてきた。真水しんやと同じく、話す相手がいないと落ち着かないタイプかもしれない。ただ、真水のように目を引くような端正な容姿ではなくて、白髪まじりで細身の、30代くらいの優しそうな普通の人だった。
「たしかに、いくら自動化しても、結局人は必要になりますもんね」
櫻橋は初対面の人と話す時耳の後ろを掻く癖があって、それが出てしまった。食事中なのでマナーが悪かったかもしれない。
「そうなると、その少数の人の責任が重いし。ロボットが普及したら、簡単な仕事はどんどん取られちゃうわけじゃない。そう考えるとさ、今の若い子は、これから大変だよね」
「そうですかね、昔の方が働きづらい気がしますけど」
「昔は、会社でやっていけなそうな人にも働き口はあったから。今でもフリーランスとかあるけど、それこそほんとに賢くないと食ってけないでしょ」
男性は、櫻橋と会話しているというより、櫻橋を通して昔の自分と会話しているような感じだった。遠い目をして、顔は天井の蛍光灯を向いている。
「僕が今若かったら、得意な事をひたすらやるかなあ、そうすれば、取り越し苦労しなかっただろうし」
櫻橋は、自分の箸が止まっていることに気が付いた。味は想像つくが、なんとなく最後に残しておいた唐揚げが寂しい。やはり、自分だけではないのだ。周囲に、社会に追いつけない人が、この世には大勢いる。自分はもっと下なのかもしれないが。
「おっと、自分語りがうざかったね。すまないすまない」
櫻橋が俯いているのを見て、男性が取り繕うように笑った。櫻橋も、「あ、いえいえ」
みたいな意味のない言葉で取り繕って、唐揚げを口に運んだ。
午後の講義は午前と違って、ひたすらグラフの作成と計算が続いた。予習しておいたおかげで追いつけてはいるが、やはり退屈だ。子供の時から数学は苦手だった。一度集中力を切らすとおいていかれる。逆に社会系の授業は語句を覚えるだけだったので、時々授業を聞いていなくてもテストで困らなかったな。と考えていると、危うく目の前の講義に置いていかれそうになり、焦る。そんなことを繰り返しているうちに時計の針が5時を指して、講義は終了した。
帰り際、テキストをリュックに入れながら隣のおじさんの名札を見ると、「GWH 伊藤」と書かれていた。
「伊藤さんも、GWHの人なんですか?」
「そういえば、きみもだね。同じ職場だけど、部署が違うと、もはや別の会社の人だよね」
櫻橋の唐突な質問に、伊藤さんは自然に答えてくれる。
「伊藤さんは、ずっとここに?」
「いや、もともと東北の支部に勤めてたんだけど、異動になっちゃって」
「そんな遠くからですか?」
「人事の人、何考えてるのかわからんよね。それじゃあ、また明日」
伊藤さんは一足先に会議室を出ていき、櫻橋はゆっくり帰り支度をした。普段通勤時間が短いせいで、片道一時間弱の移動時間はけっこう長く感じる。僻地とはいえ時間は通勤・退勤ラッシュと重なり、ゆっくり本を読んだりもできない。吊革につかまって、器用にスマホをいじりながら移動し、家に帰った。
3日間の講習会は、最後まで特別な出来事はなかった。講義は何事もなく終了し、1か月後の試験に向けてコツコツと勉強するだけとなった。
「お疲れ様でした。次は一か月後ですね」
「いや、僕は2か月後の試験を受けるよ。ここから僕の部署は繫忙期だし」
「そんな何度もあるんですか」
「試験は毎月やってるよ。前回の講習の人が受けに来ることもあるし」
伊藤さんと別れの挨拶を交わし、櫻橋はビルを後にした。資格の勉強は別段苦痛という事はなかったし、その少し前には同窓会が控えている。毎日が充実しているはずなのに、どこか心に引っ掛かりがあり、あらゆることが手につかないような、好きではない気分だった。
2-4
振替休日の前日、櫻橋は実家に戻った。両親と夕飯をとり、明日山梨のアパートに戻るという旨を伝えた。一人暮らしを始めると、親がいろいろ家事をやってくれることが普通ではないことに気づくが、こうして帰ってくると、まだ自分が何かに甘えているような気がしてならない。
「昼頃むこうに帰るから」
櫻橋はみそ汁を一口飲んだ後、よく脂ののったサバの塩焼きをつつきながら言った。テーブルを挟んで向かいに座っている両親が同時に頷いた。
「その時は父さんも母さんもいないから、戸締りちゃんとしてってね」
「最近物騒だからな、空き巣に入られて、ペンタゴンに手を出されでもしたら大変だ」
父親の言葉に、櫻橋はその様子を想像しただけで激しい憎悪を感じた。自分よりも肉体的に弱い動物や子供をいたぶる人は一体、何を考えているのだろう。それの何が楽しいのだろう。確かに、自分たちも、動物の肉を食べて生きているが、家畜は意図的に嬲られて殺されているわけではないはずだ。
櫻橋の内面を知ってか知らずか、ペンタゴンはソファにくるまって寝ている。両親はペンタゴンの様子を横目に呟いた。
「ここ最近ずっと寝てるわね」
「ご飯もあんまり食べないし、今度病院に連れていこうかな」
翌日、両親は仕事に出かけ、櫻橋は荷物をゆっくりとまとめた。またしばらくは会えなくなるので、リュックを背負い、いつもと同じソファに横になっているペンタゴンに声をかけた。
「ペンタゴン、そろそろ行くよ」
「にゃぁ」
ペンタゴンは少し目を開け、あくびをした。櫻橋は、ソファの対角にある扉から廊下に出て、ペンタゴンの顔を見ながら、ゆっくりと扉を閉めた。視線の先で、不思議そうな顔でこちらを見つめている。整った猫の顔が、扉に隠され、やがて見えなくなった。
振休を平日の真ん中に取ったというのに、暑さのせいか、身体がひどく重たかった。岡入さんが言っていた、研究所にいたという春日さんという人の話や、真水しんやとの会話、あるいはこの前見た映画の内容が頭から離れなかった。あの映画は素晴らしい出来だったが、どうにも娯楽として楽しむには「教育的」すぎたような気がした。小学校の時「火垂るの墓」を道徳の授業で見た時のような、激しい教訓的な何かがあった。運命が、これから起こることの警告を行っているような感じだ。
考え事をしていたせいか、バランスを崩して工具の入った箱を地面に落とした。大きい音がして、驚いた上司に軽く𠮟られてしまった。それは良いのだが、どうにも体が重い。工具箱を拾って、散らばったレンチやスパナを収納する作業でさえ、大変な労力を必要とした。
昼の休憩の時、食堂でパンをかじっていると、母親からラインが来ていることにきがついた。
「明日来れますか?」
「ペンタゴンが入院することになったので、戻ってきてほしい」
昨日休んだので明日休むのは難しそうだった。明後日が金曜日なので、その時行くことにした。ペンタゴンが入院とは。考えたこともなかった。元野良猫とはいえ、推定まだ4歳くらいだし、寝ている時間が長かったり、食欲が少し減ったくらいだったし、特に体調が悪そうな素振りもなかった。心配だったが、きっと一時的なものだろう。
そうだ。お見舞いに、ちょっと高級なペットフードを仕入れておこう。と思いついた。今から注文すれば、明日の仕事終わりまでにはアパートに届くだろう。普通のペットフードで食欲がわかなくても、高級なツナなら食べるかもしれない。櫻橋は、スマホで「猫 入院」とウェブで検索した。すると、SNSにペットの写真を投稿していた人たちの、ペットの死を報告する投稿がいくつか出てきて、急に焦りを感じ始めた。そんなはずがない。きっと、そんな悪い病気ではないはずだ。深刻な病状なら、親からもっと連絡があってもいいはずだ。
金曜日、櫻橋が足早に実家に戻ると、ペンタゴンがお気に入りのソファの上で寝ていた。もう退院したのかと思って手を触れると体温がきえていて、ようやく状況を理解した。
一昨日、突然呼吸が荒くなったらしく、病院に連れていくとすぐに集中治療が始まった。前日、両親が病院に行くと、もう今わの際だったそうだ。最期は家に帰りたいだろうということで、車で家まで送ったのだが、玄関に着いたときはもう息をしていなかったという。櫻橋はペンタゴンのソファに、昨日取り寄せた高級ツナ缶を添えて、その場に座り込んだ。両親は、努めて明るくふるまっていた。長く苦しんだ上で死ぬのはもっとかわいそうだと言っていた。その両親の様子を、誰が薄情と言えようか。まだうちに来て3年しか経っていない家族の死という事実と正面から向き合えば、心が壊れて修復できなくなることは明白だった。
しかし、櫻橋は、死の間際のペンタゴンに、孤独でつらい思いをさせたのではないかという疑念がぬぐえなかった。知らない病院で、ひとり怖い思いをして、このまま家族に会えないまま死ぬかもしれないという不安を味合わせてしまったのではないか。
両親が迎えに来られたのは唯一の救いと思えた。しかし逆に言えば、家族に見守られず、孤独に死んでいく者が、動物に限らず、人間にも多くいるのだ。その事実は櫻橋をほとんど絶望させた。自分や、自分の知り合いが、そういった残酷な死を突きつけられるかもしれないのだ。なんとなく、身の回りの家族も友達も永遠に生き続けると錯覚していた。だが、違った。人も動物も、生き物である以上、いつかは死ぬのだ。
山奥に個人で営んでいるこじんまりとした動物霊園があり、長く乗られ、色褪せた軽の自家用車でそこに向かった。櫻橋家は特に仲が良いわけでも、悪いわけでもなく、全員がそれぞればらばらの人生を歩んでいるようだったが、このときだけは、全員が同じ方向を向いていた。おそらく、考えていることは皆同じで、三人があつまって一人の人間のようになっていた。そうしなければ、精神が肉体ごと瓦解してしまうという恐れが、彼らの中にあった。
「どうして、父さんと母さんは結婚したの?家族が増えれば、その分別れも増えるのに」
「人は、つらさを分け合うために家族になるの。ずっと一人で生きていけるという人がいるけど、それは嘘だから」
ペンタゴンの火葬のあいだ、このような会話を母親としたことを覚えている。その会話の内容は朧気だったが、動物霊園の煙突から、灰色の煙が白い空に向かって立ち上っていく様子は、まるで映像のように、櫻橋の脳内にはっきりと記憶されている。
その時はもう、櫻橋のなかに自分の死にざまを心配する気持ちはなかった。ただ、3年間家族でいてくれたことに対する、ペンタゴンへの感謝だけがあった。ペンタゴンが灰になり、生物から物質に変わるにつれて、その思いは強まった。本当に大切なものは失って初めて気が付くとか、当たり前の日常があることのありがたさとか、使いまわされた陳腐な言葉が、全部否定しようのない事実であることを思い知らされた。
櫻橋家がペンタゴンを世話していたのではなくて、ペンタゴンが櫻橋家を、櫻橋わたるを世話していたのだった。ペンタゴンは櫻橋をずっと支えていたのだ。
葬儀が終わり、ペンタゴンの遺骨は合同の棺に納められた。櫻橋一家は自宅に戻り、しばらくのあいだ涙を流したり、昔話をした。
夜になって、櫻橋は一人でアパートに帰った。職場で思い出さないように、ベッドで布団にくるまり、もういちど泣いた。
何もする気が起きないが、仕事はいかざるを得ないので、いつも通り、櫻橋は出勤した。季節的には秋のはじめなのだが、一日にして気温が下がったようだった。仕事が終わると母親から電話が来た。両親は、それぞれの職場で色々な人が慰めてくれたと言っていたが、櫻橋は古祥や、三門に対しても、ペンタゴンの死を打ち明ける気になれなかった。ここで自分が泣きたいだけ泣いて、他人からの同情を集めれば、すべては完結してしまう。それで気持ちに整理がついてしまえば、ペンタゴンのいない世界に自分を迎合することになる。それだけはどうしても納得がいかなかった。たとえただの遊び相手としても、ペンタゴンは櫻橋わたるを必要としてくれたかけがえのない存在なのだ。それを奪っておきながら、何食わぬ顔で続いていく世界とともに幸せになどなれない。自分は墓場までこの悲しみを連れていくのだと心に誓った。たかが猫一匹と笑うだろうか。しかし、櫻橋にとっては何よりも大事なことだった。
仕事が終わり、アパートに帰宅すると櫻橋は、壁に背を預け、ベッドに垂直に座りこんで、何をするでもなく放心していた。昔は何も考えずに瞑想することなどなかったが、ここ最近は、そういう時間が増えていた。しばらく動かないままでいると、右手に握っていたスマホが振動して、誰かからメッセージが届いていることを知らせてくる。
「来週の飲み会、この店にしようと思うんだけど」
遠目にスマホの画面を確認すると、幽霊部員だった望月さんから予約ページのスクショが送られているのに気が付いた。すっかり忘れていたが、飲み会は来週の週末だ。数年間ものあいだ、草凪に会いたいと思っていたが、口実もなく、決心も付いていなかった。櫻橋はこれまでの自分を恥じた。
どうせ皆、いつか死ぬのに、どうして相手に気持ち悪がられることを恐れていたのだろう。この時の櫻橋は無気力というよりむしろ、自分が生きている間に欲しいものは全て手に入れようという心地だった。幸せになるためではなく、それが自分の生きる意味、本能のように感じていた。今の不甲斐ない自分が、世界などゴミだと叫んだところで、負け犬の遠吠えに過ぎない。自分は大人の男として成長しなければならなかった。大人としての箔を身に着けることで初めて、こんな世界はうんざりだと吐き捨てることができるのだと。