zorozoro - 文芸寄港

櫻橋わたるの小説(前編)

2025/03/28 20:36:04
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1−0

 「櫻橋(さくらばし)わたる」は、その日、風呂を沸かさずにシャワーだけで済ませることにした。
 二日ぶりに無精ひげを剃って風呂場を出たころには、スマホに表示された時刻は午前0時を回っていた。髪を乾かしたあと、寝巻がわりに古い柄シャツを羽織ると、さびついた中古の冷蔵庫を開けて、昨日から冷やしてある発泡酒の缶を手に取った。
 プルタブを起こして一気に半分くらい飲んだ後、とつぜん、彼は静止した。気が変わったように飲みかけの缶をテーブルの上に置き、アパートの自室の玄関に向かう。昼間乗ったバイクに、まだカバーをかけていなかった。過熱したマフラーが冷めるのを待っているうちにすっかり忘れていた。
 玄関の重い扉を開くと、もう四月だというのに突き刺すような冷気がドアの隙間から部屋に流れ込んでくる。こうも寒いなら、カバーをかけるのは明日の朝でも良いような気もするが、念には念を押しておきたかった。あのオートバイは借り物みたいなものなので、汚損や盗難などはあってはならない。幸い、いまの櫻橋の部屋はアパートの一階のため、鉄の階段を降りる音に配慮する必要はなかった。彼は靴箱のあたりに丸めていたカバーを抱えて、玄関の扉を開いた。 
 贅沢に駐車場の一台分を使って停まっている大型のアメリカンバイクを、人工的なほど強い光で、青白い半月が照らしていた。櫻橋は、美術館の絵画を前にしたような心地で、それをじっと見つめた。彼のほかに外を出歩く人影はない。コンクリートで塗り固めた団地の夜は驚くほど静かで、櫻橋の耳に届くのは、クビキリギスの機械めいた遠い鳴き声と、しんと冷えた風の音ぐらいだった。

 転勤で東北に引っ越してきたのは、つい先日のことだ。荷物はほとんど無人トラックに委ねて、トラックより先に到着するように、バイクで十時間くらいかけてここまでやって来た。櫻橋わたるは独身の二十一歳の会社員であり、髪型も服装にもこだわりのない平凡な男だ。趣味はバイクと読書、それと小説の執筆。仕事はGWH(グレートウエアハウス)という巨大な物流センターでの倉庫作業。力仕事がそれほど多くないせいか、痩身の体型を維持し、食も細い。仕事は昔からあまりできるほうではない。
 彼は少しだけ酔っていた。しばらく自分のバイクを見つめているうちに、脳裏に非現実的な空想が立ち上がった。もしもあの時、遠くへ旅立った彼女についていってしまったら、今、自分はどこに立っているだろうか。
 数週間前まで、櫻橋の隣には、一人の女性がいた。櫻橋と彼女は互いによき理解者であった。しかし最終的に、二人が同じ場所を選ぶことはなかった。
 櫻橋は、けっきょく自分にはこの道しかなかったし、別の選択肢を考えても無駄だと理解している。人生は一本の小説みたいなもので、台詞も展開も最初から最後まで決定していて、そこに自分自身(キャラクター)の意思が介在する余地はない。彼女との出会い。共に過ごした時間。そして別れまでを回想するとなお、その確信は深まるのだった。
 櫻橋の物語が始まったのは、たった一年前のこと。今と同じ、桜の花びらがアスファルトに散り尽くしたころ、春と梅雨のすき間。中部地方の山間部で過ごしていたあの日の櫻橋は、今の彼とはまるで別人だった。あの時、彼の手元にはバイクもなければ、文学もなかった。自ら切り開く未来と、無限の可能性。そんな希望を抱えて走り続けていた。それらが何の意味ももたない虚妄であることに、気がつかないように目を背けながら。

1−1

 重量物が落下した音と、激しい警報があたりに鳴り響いて、週末の予定をぼんやりと考えていた櫻橋の意識は急激に叩き起こされた。周囲を見渡す限り、無数に列をなすコンテナと、ロボットアニメの格納庫のような鉄のフレームだらけの構造物が目に映る。音の発生源を探してみるも、いま立っている位置から異常は見られない。
 一年間ここで働いた経験から、今のは運搬中の荷物が落下した音と思われた。櫻橋はズレていた黄色いヘルメットを直して、警報が鳴り響く方向へと歩いた。外はまだ冷え込む季節だというのに、機械のコンディション維持の関係で過剰に暖房が回されていて、巨大な倉庫の中は蒸し暑かった。機械の間を少し歩いて、棚の三列目、その4メートルほど頭上を見上げると異常の原因が明らかになった。コンテナを自動的に棚に振り分けるクレーンが荷物に接触し、動けなくなっている。
 幸い、コンテナ下部の、クレーンの爪を差し込む穴が壊れているだけで、荷物の中身は問題なさそうだ。櫻橋の職場では、規格化されたコンテナに様々な荷物、主に食料品が詰め込まれているわけだが、一歩間違えてコンテナに穴が開き、食品や、それを保存するための溶液が流れ出せば、大惨事は免れない。下手に櫻橋が動けば、職場全体に多大な不利益をもたらす可能性がある。
 ここは経験のある人に任せて静観すべきだろう。そう考える一方、この現象を目にするのは今回が初めてではないという事にも気が付く。半年以上前のことだが、同じトラブルが発生し、対処までの過程を教わったことがある。おぼろげな記憶だが、手順を教わった手前、何もしないわけにいかない。しかし、複雑な機械の復帰は容易ではない。やり方はメモした覚えがあるが、あったとしてもメモ帳は現場から離れたロッカーの中だ。しかも、すぐに見つかるとも限らない。背中に冷や汗が流れ、焦りからか視界がすぼまるような感覚を覚えた。いつもこの瞬間に怯えながら生きている。現場で働いている以上、トラブルからは逃げられない。しかも、失敗すればただでは済まない。動くべきなのだが、どう動けばいいのか分からず、身体が前後から交互に引っ張られるように、小刻みに震えた。
 櫻橋があたふたしていると、正面から人影が近づいてきて、体を逸らして避けた。すれ違ったのは背の高い女性の職員で、異常が起きているクレーンの位置まで軽い身のこなしで登っていった。鋭い目つきの後ろで、長い髪を纏めている。後ろ髪の形で、彼女が櫻橋の三つか、四つ年上の先輩、「古祥(ふるしょう)りん」であることが分かった。彼女は一言も発さず、警報停止ボタンを押すと、さっそく復旧作業に取り掛かった。
「動かします」
 彼女は、はじめに周囲に声をかけ、操作盤からクレーンを手動で動かそうと試みた。が、大きな機械は潰れかけたコンテナに引っかかったままピクリとも動かない。彼女は操作盤の位置から降りてきて、櫻橋の後ろにいる男性に声をかけた。男性が頷き、早歩きで消えていく。
「あ……えっとぉ……」
 櫻橋は、立場上は古祥と同じ正社員であった。先ほどの男性よりも年下とはいえ、ここで動かないわけにはいかない。そうして、指示を仰ぐ声を絞り出すと、「パソコンもってきて」と、古祥から仕事が与えられた。櫻橋は安堵した。目の前に仕事があるという状況は、心にとっては平穏だ。周囲がせわしなく働いている間、自分だけ何もしないというのは、不安極まりない。
「早くして」
「は…はい!」
 静かだがよく通る声に急かされ、櫻橋は現場から背を向けた。そして歩き出し、しばらく進んだとき、あることに気が付いた。パソコンと言われて管理室に置かれていたものを想像していたが、あれは部屋に据え置かれているもので、異常の際、プログラムを確認するのに使うのは別の小さいパソコンだった。古祥はそれのことを言っていたに違いない。小さいパソコンの所在は分からなかった。櫻橋はそっと背後を見て、それを聞きに戻ろうか迷った。トラブルの現場には、先ほどの男性が乗って来たのであろう、フォークリフトに手足が生えたような小型の重機(パワーローダーという)が近づいていて、クレーンよりもフレキシブルに動くアームを用いて、問題のコンテナを受け取ろうとしていた。古祥は男性と絶え間なく指示を出し合って、作業に専念している。水を差しづらい空気感だ。櫻橋は、パソコンを自力で探すことに決めた。作業場から出た渡り廊下に備品の棚がある。時々使うパソコンなどは、大抵あそこにあるはずだ。
 ところが、それは愚断だった。櫻橋が働いているGWHは、従来の物流センターとはまるで規模が違う。あらゆる分野の製造、流通、研究機関まで包括する巨大産業施設。中部地方の山間部を切り開いて作り上げた要塞のような施設だ。彼の部署である食品流通課に絞っても、従来の物流センターをしのぐ大きさがある。そのため、一つしかないパソコンを探し当てることどころか、迷宮のように入り組んだ通路からパソコンが保管されている戸棚を見つける事すら容易ではないのだ。探し物のありかが最初から分かっていれば、地図などを頼りに探すことはできるが、現状、櫻橋の手元には何も情報が無かった。カメラなどが保管されている棚に向かい、目当てのものを探す。しかし、ジャンクめいた機材ばかりで、ノートパソコンは見つからない。体感五分くらいの時間が流れて、いよいよ焦りを感じ始めた。今から聞きに戻るべきだろうか?そしたら、どうして最初に聞かないのかと怒られてしまいそうだ。それなら、一縷の望みにかけて見つけ出すべきではないか。
 そこまで思い至って、自分の置かれている状況の無様さが悔しくなった。本来なら、自分は、古祥と同じように、現場でトラブルに対処しているべきなのだ。それなのに、本当に必要なのかも分からないパソコンを探すのに手いっぱいになっている。なにかイレギュラーが発生すると、いつもこんな感じなのだ。

 結局、パソコンは見つかったものの、それを現場に届けた時には状況はあらかた終了していた。問題のコンテナは回収され、ラインは再開していた。直接的な原因はコンテナが破損していた事らしく、中身だけが新品のコンテナに移し替えられるらしい。
「あ、やっと来た。もう遅いよ」
 現場に立っていた古祥がこちらに声をかけた。そこまで怒っているようにも見えなかったが、櫻橋は驚き、早足でそこに向かった。その無意味な焦りが仇となった。突然、足もとに何かが引っ掛かって、櫻橋の身体が正面に崩れ落ちた。まずいと思って、手に持っていたパソコンを、かろうじて床に叩きつけまいと腕を曲げた。その直後、櫻橋の肩が床に走っている金属のフレームに叩きつけられ、その後、激痛が走った。大きな音はしなかったものの、パソコンを持った作業者が転倒したので、なにごとかと、周囲の視線がこちらに集まった。櫻橋は自らのいたたまれなさに目を瞑った。
 パソコンは動きはしたものの、画面の端にヒビが入り、虹色のノイズが発生していた。全くトラブルとは関係のない、機材の破壊と労災事故だった。腕を負傷し、手当てした櫻橋が管理室に戻ると、古祥が仏頂面で腰かけていた。
「足元には気をつけろって、前にも言ったよね?」
「すいません」
 櫻橋は頭を低くしていたが、自分がどんな表情をしているのか自分でも分からなかった。
「もうすぐ、あんたの後輩が入ってくるんだからさあ」
 櫻橋は、申し訳ないですとか、同じような失敗はしませんとか、テンプレートな謝罪を繰り返していた。しかし、平謝りしているわけではなく。実際に心の中でもそう思っていた。失敗に対する誠意とは、今後失敗をしないことだと、櫻橋は分かっている。しかし、今までの失敗をすべて覚えておくことは難しいし、常に失敗を避けることを意識して生活することも、櫻橋には難しかった。

 退勤し、自動ドアの外に出ると日が落ちかけていた。一つの街と呼ぶには小さいが、職場と呼ぶには大きすぎる建築物を一瞥し、櫻橋はバス停に向かって歩き出した。走るのは好きではないので、ゆっくりと歩いた。街路樹さえない、寸分の狂いなく整備された道路の端を数分間歩いていくと、GWHの敷地内に設けられたバス停が見えてきた。
 作業員はおおかた前のバスで帰ったらしい。待合室には人気が無く、櫻橋はベンチの隅に座ってスマホで顔を隠した。自分の向かいにある喫煙コーナーで談笑している年上の男性たちは面識があるような気がしたが、今は話しかけられたくはなかった。頭の中にあるのは、仕事の失敗の事だけだ。櫻橋は悲観的な考えを嫌い、そういった出来事は前向きにとらえようと努力したが、それが裏目に出ることもある。
「成長しない若手社員の特徴5選」
 おもむろに開いたネット記事サイトの見出しにそんなタイトルがあって、ひどく心臓を揺さぶられた。それでも、櫻橋の指はそのタイトルへ向かった。何よりも仕事が苦手なくせに意識だけが高い櫻橋はネット記事で仕事に関するものを読む癖があった。ネット記事のアルゴリズムは、櫻橋がビジネス書を好むと認識し、彼に仕事関連の記事を提示した。彼は無意識的にその記事を選び、自分自身を痛めつけるサイクルを形成していた。
 その記事をおおまかに要約すると、仕事で成果が上げられない人というのは、学生時代、ろくに勉強もせず、全力で部活動に打ち込んだわけでもなく、ただ自堕落に過ごしてきた怠け者であり、その結果を嘆いている愚か者ということだった。つまり、彼らの現状は全て当人の努力不足によるものらしい。
 間違いではないと思った。
 静かにバスがやってきた。空気が吐き出される音とともに扉が開き、幸せそうに談笑している二人組が互いを小突きあいながら乗車していった。櫻橋が席に腰かけた後、バス停に誰も取り残されていないことをセンサーが確認し、発車した。号令も案内もすべて自動音声だった。櫻橋にとってはどうでもよいことだが、今日は無人バスの日だったようだ。スマホから目を離し、バスの窓から流れていく代り映えのしない景色を眺めた。
 努力とは何か。社会人になる前からずっと考えてきたことだが、それは年を重ねれば重ねるほど答えから遠のく問題だった。小学生の時から、櫻橋は周囲に後れをとっていた。算数の授業は一度では理解できず、体育でも順位がつくような種目はだいたい最下位だった。あの時の大人は櫻橋にとてもやさしかった。あるいは、甘かった。母は、お前は遅生まれだから少し周りから遅れても平気だと言い、体育の教師は櫻橋がどれだけダメでも成績表に最低点はつけないでくれた。大人たちは、櫻橋は彼なりに頑張っている。努力と結果は必ずしもイコールではないと言った。彼のような落ちこぼれにとっては喜ばしい言葉だが、そこには大きな矛盾が孕んでいる。人は大人になればなるほど、結果を出す人間のみが必要とされるのだ。優秀な生徒たちは櫻橋よりも勉強や体力作りに勤しんだだろう。リターンが櫻橋よりも大きくなるのは当然の帰結だ。学校も、仕事も実際は熾烈なレースの連続なのだ。
 櫻橋が悲しいのは、そのレースが死ぬまで永遠に続くという事実だった。生まれた時、捉え方によっては生まれる前……無数の精細胞の一つに過ぎない時から、その戦いは始まる。何億分の1という熾烈な争いを勝ち抜いて卵細胞に着床し、この世に生まれ落ち、すぐに授業の成績、習い事や部活動でのカースト、受験戦争や就職難があり、それらの結果すべてを抱えたうえで会社での出世レースが待ち構えている。目が眩むほどの戦いの連続だが、「ふつうの人生」というのは、それを戦い抜いた勝者にのみ与えられるトロフィーであることを、成人を迎えてやっと思い知った。

1-2

 GWHに隣接された団地の前で、バスが停車した。
「お降りのお客様は、忘れ物に……」
 誰も聞いていない自動音声が流れ、バスの扉が再び開いた。櫻橋は降車して辺りを見渡した。360度見渡す限り、あるのは均一に塗装された灰色のコンクリートの壁、地面、そして道路の白線だけだ。ここに就職した者の多くは、会社から補助が出るこの住宅で暮らしている。大概の生活必需品はGWHで流通しているので、注文すれば圧倒的な早さで届くうえ、保育施設、学校、病院までもがこの付近に設立している。櫻橋たちは、本人が望めば死ぬまでこの場所から出なくて済むのである。
 6階建てアパートの階段を昇り、最上階の自室の電子キーの番号を押した。扉を開けると、積みあがっていた読みかけの本や、作りかけの模型、やりかけのゲーム、描きかけの絵が櫻橋を歓迎した。安堵とともに今まで忘れていた徒労感が押し寄せ、手を洗う前に灰色のソファに倒れこんだ。もう少ししたらお風呂に入ろう。そう思いながら、パソコンやゲーム機のモニタと一体化したテレビのリモコンを握った。すると真っ先に、コメンテーターらしき初老の男性の渋い顔が画面に映し出される。
「この国の少子化は深刻化の一途をたどっている。それは、若者たちが何事にも前向きに取り組まなくなったからだと思うんですね。こんなことを言うとコンプライアンスだのなんだのと言われそうですが、昔の若者は、なんだかんだ欲望があったし、そのおかげで輝いてた」
 地上波からはバラエティー番組がほとんど消失して、残されたのは報道番組ばかりである。楽しい内容ではないが、櫻橋は惰性で視聴を継続した。
「ですが、見てください。今、出世欲があったり、恋愛、結婚に興味がある若者なんて一握りでしょう。自分の時間ばかりが大事で、そのくせ仕事は言われたことだけをやって、休日は寝るかスマホを見ておしまいです」
「良いんじゃないですか。誰にも迷惑かけてないですし」
 カメラが切り替わって、先ほどの男性よりも少し若い女性のコメンテーターが気楽そうに反論している。
「よかありませんよ。そんな人ばっかりになったら、この国は滅びます」
「この国の政策が若者をそうしたという見方もありますが」
「そうやってなんでも人のせいにする所こそ、最初に改善すべきと思いますね」
 これ以上自分の傷口を広げる必要はないと感じたので、テレビを消した。リモコンをソファの隅に放って、背もたれに体重を委ねた。男性コメンテーターの言いぐさは気にくわなかったが、彼の言葉が正論であることもまた事実だった。今の若者……というより、日本人全体に足りていないものはおそらく、動物的欲望だ。少子高齢化が叫ばれ始めて半世紀が過ぎても、その流れは留まることを知らなかった。結婚することも、子供を産むことも、本来人間の本能に根差した欲求だが、今の若者の多くにとっては時間の浪費としか思えなくなっている。    
 ところが、自分の時間を確保するために、あらゆるものを切り捨てても現代人は心の病から逃れることができないでいる。全てにおいてタイムパフォーマンスを重視する生き方は、やがて生きていること自体が無駄という真理に行きつくからだ。
 風呂を沸かすのが面倒だったのでシャワーだけを浴びた。古いドライヤーで髪を乾かしながらスマホを触っていると、同僚でGWHの研究課に勤めている「三門(みかど)だいや」から連絡が来ていた。明後日の土曜日、ドライブに行こうという誘いだった。片手で「おk」と打って、そのまま送信した。三門は雑な返事でも許してくれる男なのだ。
 半裸のままキッチンに立ち、小さい冷蔵庫の上に置いてある箱を開けた。ピンク色の液体で満たされた容器の中に生魚の切り身が漬け込まれている。ピンク色の液体は、研究課が発明した保存溶液だ。生鮮食品を漬け込んで蓋をしておくだけで、常温で数年間保存できるという優れもの。櫻橋の職場では、この溶液に浸された生鮮食品を大量に流通、管理している。これを使い始めたうちは気味が悪いので洗い流してから焼いていたが、最近はそのままフライパンに油をしいて焼いている。加熱すると、溶液は無色透明になって蒸発する。細胞組織をそのまま維持する液体なのだから当然だが、飲み込んでも人体に害はないらしい。
 IHの上で、細胞だけ延命された切り身と、それを載せたフライパンが雨のような音を立てている。櫻橋はいついかなる時も考え事をしてしまう癖があったが、ひとりで夕飯の支度をしているときだけは終始瞑想状態だった。脂がはね、焦げた匂いが広がる、魚のたんぱく質が白く変色する。それはそうあるべくしてそうなっているだけで、特に深い意味はなかった。養殖場で大量の魚が生まれ、育ち、水揚げされて捌かれ、各家庭で加熱される。それが永久に繰り返されるだけだ。そして、人間もきっと同じなのだ。
 夕食をとり、歯を磨くと、他になにをする気も起きなくて、ベッドで横になっているうちに眠ってしまった。

 ピリリリリリリ
 朝だ。耳障りなアラームの音が部屋中に響き渡り、櫻橋の脳は半分くらい覚醒した。鉛のように重たい腕を持ち上げ、スマホの目覚まし時計を停止。再び10分後にセットし、二度寝に入った。一度で起床できないので、いつも意図的に二度寝している。ベッドに横になり、目を閉じるとまた、すぐにうるさいアラームが叫び出す。時間を間違えたかと思ってスマホを見るが、本当に10分間が経過していた。これ以上寝るわけにもいかず、溜息を吐いて、部屋の明かりをつけた。この季節では、この時間はまだ日が昇っていない。街灯の明かりがちらつく窓に自分の顔がくっきり映りこんでいる。
 キッチンに向かい、朝食の総菜パンを棚から引っ張り出した。ソーセージパンの味はとっくに飽きているはずなのに、他のパンに興味が湧かないせいで、毎日のようにこれを消費している。喉が渇いていることに気がついて、インスタントコーヒーの粉末を多めにマグカップに注ぎ、電気ケトルで少量のお湯を入れて溶かし、水で薄めてすばやく飲んだ。毎日飲んでいる生ぬるいコーヒーは酸味と苦みだけが口に残るが、タイムパフォーマンスに優れ、眠気覚ましには最適だった。昔よく使っていた本格的なコーヒーミルや、ドリッパーは引き出しの奥底に眠っている。
 家を出るには早い時刻だったが、スマホをいじったりしているとすぐに時間が溶け、遅刻すれすれになるので、着替えて歯を磨いた後、すぐに出発することにした。高校生の時買った、くたびれた黒いリュックに荷物を詰め、ノーブランドの運動靴に足を突っ込んだ。履ききれていない靴につま先を押しこみながらアパートを出ると、櫻橋と同じ早番の職員たちがおのおの無頓着な服装をして、不機嫌顔をぶらさげて歩いていた。自分も周囲から同じように見られているだろうと思うと、少し笑えてきた。ここで働くすべての人が、皆、毎日めげずに出勤している。若手も、ベテランも、男性も、女性も、仕事の失敗やトラブルの不安に晒されながら、休日がくるまで足を止めず、歩き続けている。頭上を見上げると、空は調色を失敗した絵の具のような色に染まっている。これも、見慣れた光景の一つだった。

 定員ぴったりの乗客が敷き詰められたバスが物流センターの搬出口近くに停車し、老若男女様々な作業員が無言で降りていった。櫻橋も流れに乗ってバスを降りると、停留所の奥に停まっている自家用車の列を遠目に眺めた。赤や青などの派手な色のEV軽自動車が大半だが、一台だけ紺色のセダンが目立っている。あれはたしか古祥のものだ。一度、彼女があれの運転席に乗り込むのを見たことがある。古祥は櫻橋より年上だが、ここの平均年齢からすれば充分に若手である。高そうな車で出勤していると色眼鏡で見られるのではと思っていたが、他人の車に興味を持つ人は現れず、櫻橋の心配は杞憂に終わった。高級車がステータスだった、昭和の価値観はすでに消失していた。そんな世間の風潮とは裏腹に、櫻橋は自分の車やバイクを所有することにひそかな憧れを抱いていた。電車やバスのように限られた区間だけを移動するのではなく、自分の足のように遠くの場所へ、見たことがない場所へ行ける手段があればどんなに良いだろうと思っていた。仮に、次の日にはいつもの場所に戻らなくてはならないとしても、誰も知り合いのいない場所に逃げたような気分に浸ることができれば。朝が来るたび、そんな危険な願望を抱いた。もっとも、古祥は、櫻橋と違って人望があるから、そのような逃避欲求はないだろうが。
 櫻橋は大きく深呼吸をした。古祥のセダンから目を離し、眼前にそびえたつ巨大な建造物を見て、気分を入れ替えた。自分はこの場所を目指して生きて来たのではなく、周囲に流されて生きてきた結果、ここにたどり着いたのだ。ここから知らない場所に逃げたとしても、新鮮なのは最初だけで、その場所がまた「いつもの場所」になるだけだ。そんなことは分かっている。だから、今、自分にできることは、仕事をやりきって、良い気分で週末を迎えることだけだ。

 金属の扉を開けると、広大な貨物駅のジオラマのような光景が広がっている。今から出荷されるコンテナが列をなし、コンベア上に並んでいる。昨日のうちに梱包が完了した製品が、始業の時間を待っているのだ。すれ違った人たちに挨拶していくと、特に昨日のことで櫻橋を責める人はいなかった。トラブルは毎日とは言わずとも頻繁に起こるため、それを引き起こした原因をいつまでも非難しても意味はないという認識があるようだった。
「櫻橋」
 少し安心していたところを、古祥の声がして身構えた。また自分の気づかないところでミスを犯しているのではないかと不安だったが、彼女の表情をみて、そうではないと分かった。どうやら、業務連絡に類する話のようだった。彼女の手にはA4の青い封筒が握られていた。
「パワーローダー。再来週から取ってもらうから」
 ついにか。と心の中でため息を吐いた。櫻橋は、まだパワーローダーの資格を取得していない。就職した時から、いつかは取らなければならないものと分かっていたが、こうも唐突に予定が決まるとは思っていなかった。
「私は入って一ヶ月で取らされたんだから。あんたは良い方だよ」
 古祥は半笑いで言っているが、すごいですねえ!尊敬します!では、引き続きよろしくお願いいたします。と責務を先輩に丸投げするわけにはいかなかった。櫻橋が固まっているので、古庄はすこし怪訝そうな表情をした。
「どうした」
「いや、なんでもないです。資料、ありがとうございます」
 お礼を言って、教習の資料を受け取った。平静を装っていたが、内心は不安で埋め尽くされていた。仕事もそうだが、櫻橋は技術の習得が不得手である。とくに、教習所という施設が苦手だ。学校と違って短期間で卒業させないといけないので、教官も教習生もスケジュールに追われている。櫻橋は、毎回そこで周囲においていけぼりとなっていた。
 櫻橋は高校卒業後、同級生の三門とともにGWHの一般職に就職した。この職場において、高卒の一般職というは事実上の非正規雇用に等しく、昇進もなければ、基本給も大卒との差が著しい。ただし、当時の仕事の内容は櫻橋からしても明朗であり、一週間の研修を終えればすぐに従事できるようなものだった。自分の仕事の範囲は明確に定義され、日によって変わることもなく、機械の修理やメンテナンス、トラブルの発生などイレギュラーな事態は大卒の職員が対応した。
 櫻橋には、安く簡単な仕事を続けることが性に合っていた。結婚する気もなく、図書館で借りた本を読むことが趣味の彼にとって、お金とは生きるための最低額さえ稼げればよいものであり、派手な遊びよりも、平穏な生活こそが至高だった。しかし、彼が社会人になって半年ほど経ったころ、状況が変わった。櫻橋と同時期に入社した大卒の職員が二人同時に退職したのだ。いくらでも代わりがきく高卒や非正規雇用の人材と違い、大卒の社員の損失は上層部にとって痛手だったらしい。そこで、櫻橋たち高卒の社員を大卒と同じ待遇に引き上げるという特例措置がとられた。多くの高卒の社員は責任が増えることを恐れ、その提案には乗らなかった。櫻橋も当初、その気はなかったが、車を買うためのお金を稼ぎたい三門は喜んでその話を受け、結局、櫻橋もそれに追随した。その日から、櫻橋の試練の道のりが始まった。

 仕事が終わり家に帰った櫻橋は、今日もピンク色の液体から生魚を取り出し、焼いていた。
このまえ報道番組でこの液体について特集が組まれていた。その番組によると、常温でイカを生きたまま仮死状態で保存することができたという。専門の研究者は、従来とは別のアプローチで人口冬眠の研究が進められるなどと言っていた。今日のこの時間も、それと同じ番組が流れていたが、今回は全く別のテーマを扱っていた。
「予測されている大規模な太陽フレアは、およそ30年後に発生し、地球にも甚大な被害を及ぼすと考えられています」
「特に心配なのが、農作物や養殖、つまり、食糧基幹システムへの影響ですよね。田中さん。これはいったいどのような影響が考えられるんでしょうか」
「はい。世界、特に我が国は既にあらゆる作物の栽培、家畜の養殖が人の手を介せず機械によって行われています。食品の製造のような第二次産業が機械化していったように、第一次産業も機械化したわけですね」
「少子高齢化や、労働人口の減少が主な原因ですよね」
「はい。しかし、今回予測されている太陽フレアは、その食糧維持システムに何らかの悪影響を与えるのではないかと思われています。例えば、温室を管理するシステムにエラーが生じて、作物を枯らしてしまったり……」
 相変わらず、地上波は報道番組ばかりを垂れ流している。櫻橋は、世の中の関心ごとに興味がなかったが、情報として知っておいた方がいいと思っていた。彼にとって世界情勢とは街に掲示される電子広告のようなもので、彼の心に影響を及ぼすこともなく、すり抜けて消えていった。

 櫻橋の人生は、物心ついたころから劣等感とともにあったが、高校生になるころには、惨めさを回避するくらいの賢さは身に着けていた。赤点を取らなければ毎日は平穏だったので、テスト前の勉強でなんとか落第せずに済んでいた。放課後は、アウトドア部とかいうゆるい部活に通った。極めつけは就職活動で、周囲には苦労していた人もいたが、学校への求人から応募し、二回ほどの面接でバイトのように簡単に決まってしまった。あまりにもとんとん拍子で物事が進んでしまったので、あの時、櫻橋は自分が周囲よりも劣っていることをすっかり忘れていた。内定が決まった後、自動車の教習所に通い出して、ようやく、そのことを思い出した。
 昔から、人から何かを教わる時、相手が何を言いたいのか分からず、自分の言いたい事が相手に伝わらない。それは、自分のコミュニケーション能力が低いだけだと思っていたが、そうではないのかもしれない。高校からの友人である三門も櫻橋と同じような悩みを抱えていた。三門は、周囲からコミュ障の陰キャという烙印を押されていたのだが、櫻橋は彼との間にコミュニケーションの不和はいっさい感じたことがなかった。いつしか櫻橋は、同じ地域に住む人の間にも、言語の壁が存在するのではないかと考えるようになった。人は生きていく中で、それぞれ独自の言葉遣いをするようになる。同じ言語を話していても、違う言葉でしゃべっているのだ。たいていの場合、それは誤差なのだが、技術の伝達という高度なコミュニケーションにおいては、そこに齟齬が生じ、解釈の違いによる事故が発生するのではないだろうか。
 無意味な考察を脳内で回しながら、昨日とまったく同じ味の焼き魚をつついて、ドローン便で取り寄せたバドワイザーを飲んだ。350mL缶を一本しか飲んでいないのに、頭が重くなるくらい酔って、気持ち悪くなった。明日、遊びの予定がある割に気分が上がらず、櫻橋は、ソファに仰向けになったら、いつの間にかそのまま眠ってしまった。

1-3

 休日にしては早い時間に、自然に目が覚めた。一週間ぶりに、カーテンのすき間から差し込む朝日を見た。時間に余裕があったので、朝食は少し贅沢にした。食パンを焼いて野菜とかハムとかチーズを乗せ、目玉焼きを焼いた。
三門との約束の時間は、朝と昼の間くらい。櫻橋は斜めがけの小さいバッグに財布を入れ、バンズのスニーカーを履いて外に出た。少し待っていると、三門の小さいバンがアスファルトの壁からひょっこりと姿を現し、櫻橋の目の前まで来ると、減速して停車した。
「うす」
 運転席の窓が開き、カーキ色のパーカーを着た三門が小さく手を挙げているのが見える。
「外で待ってるとは、準備が良いことだ」
「2時間くらいしか待ってないよ」
「冗談なのか微妙なラインやめろや」
 軽口を叩き合いつつ、櫻橋は助手席のドアを開けた。車内は散らかっているわりに新車の酸っぱい匂いが残っている。荷物を積むために折りたためる助手席のシートはパイプ椅子のように硬いが、櫻橋はこの座り心地をいたく気に入っていた。
「出発、進行」
 三門が車掌の物まねをして、シフトレバーをパーキングからドライブに入れた。大きな窓から見える景色がゆっくり動き出す。サーキットのように曲がりくねった道路を抜けて、GWHの敷地から脱した車は、国道52号線に進入した。コンクリートの海から一変して、周囲には青々とした草木と、遅咲きの乙黒桜の散り残りが、遠くには開拓されていない山肌が見えた。三門の運転するバンは、太平洋側に背を向け、栄えすぎた文明から逃げるように富士山のふもとへ進んだ。中部横断自動車道の入り口が見えたが、今日は自動運転のトラックが多い日なので、三門は下道を選んだ。
「車内が汚いなあ。いざって時に女の人を乗せられんぞ」
 後部座席に無造作に置かれた空のペットボトルやビニール袋を横目に、櫻橋は三門をつついた。自分はむしろこのくらい汚い方が落ち着くたちだが、三門は叩けば鳴るタイプの男なので、ついついからかってしまう。
「うるせえ。車は汚くても心は綺麗だからいいんだよ。お前こそ、早く車を買え。そんで、卒業せい、童貞を」
「童貞じゃないやい!」
ウソだ。櫻橋は童貞である。
「え、おま……卒業したの?」
 童貞をいじられたら嘘でも否定するのが彼の流儀だったが、本気で卒業したと思われ、櫻橋は一瞬焦った。
「あ……いや、してない」
「なんだよ!」
「っていうか、三門は僕に彼女を作ってほしいわけ?」
「俺の知らない景色を代わりに見てくれるだろ」
 車はギリシャ建築を思わせる洞門を抜け、半分ほど干ばつした川沿いの道が開けた。櫻橋は助手席で自然に前傾姿勢をとり、ぐんぐん流れていく景色を見送った。高校の時から付き合いのある三門はつるんでいて苦しさを感じない数少ない友人であり、彼と櫻橋は互いに空気のような関係だ。櫻橋にとって、その距離感は心地良いものだった。他人から自分の存在を強く意識されることは、それがプラスの感情だとしても、生きた心地がしない。

 最初の目的地に到着した。山に囲まれた小さな街の片隅に、さびれた古いゲームセンターがある。三門はそこの駐車場に車を停めた。ゲームはほとんどソーシャルゲームに移行して、アーケードゲームは衰退の一途を辿るが、一部ではしぶとく生き延びている。
 店先には錆びついた筐体がいくつか並んでいた。なぜ屋外に設置しているのか謎だが、店内と比べて静かに遊べるのは良いことだ。
「俺たちって、いつまでこうしてられるんかね」
 絶妙に可愛くないぬいぐるみが陳列したクレーンゲームに百円を投入しながら、三門は突然、柄にもないような言葉を口にした。
「このままじゃ駄目なの?」
「いや、駄目じゃないけど」
 三門は苦笑しつつ、レバーをいじって適当にアームを動かしている。別に景品が欲しいわけでもなく、虚空にお金を放り込むことが目的であるかのように。
「いつか、こういう遊びには飽きるってこと」
「いいや、飽きないね。僕らはずっとこのままさ」
「今は若いから周りも何も言わねーけど、これが30代、40代になったら…」
「やめようやめよう! 」
 今、この瞬間、櫻橋の人生は彼自身のためにあったし、他の誰のものでもなかった。それは当然の権利のように思っていたが、実はそうではないのだ。
櫻橋の両親は、理想論な大人の姿をしていた。櫻橋を育てるために己の人生を犠牲にした。自分の時間を削らなければ、子供を育てられないからだ。だから両親と同じように、櫻橋にも、自分自身のために人生を消費することが虚しく感じる時が来ることは分かっていた。しかし、自分は弱い人間で、今を生きていくことに精一杯なのだ。仕事や、慣れないコミュニケーションで消耗した精神は、遊ぶことで回復するほかない。それは、どれだけ年を重ねても変わらない気がしていた。つまり、自分のために遊ぶことができなくなるのは、櫻橋にとって、苦しみだけが残ることであり、死の宣告と同義だった。
 三門が放った三本のアームが不細工なぬいぐるみを掴み、惜しいところで落っことした。要らないものをつかまずに済んだという安堵と、ゲームに負けた悔しさの入り混じった様子で、三門がこちらに苦笑いを向けた。

 その日は、山中湖の周囲を探索したり、山奥のサウナに行ったりして、道中、ふざけ合って過ごした。二人の話題はそのほとんどが事細かく説明する必要もないくだらないもので、クレーンゲームの時のような真面目な話の方が少なかった。二人でやっているゲームや、知り合いの面白エピソードについて語り、時には互いのコミュニケーション能力の低さをけなしあい、「俺たちの人生は終わってる」という身も蓋もない事実を、世界で櫻橋と三門だけが持つ勲章のように、笑顔で言い放ったりした。二人はすでに、まっとうな人生への参加を諦めていた。重要なのは、いつまで、この、誰からも脅かされない日々を継続できるのか、ということだった。
 辺りがすっかり暗くなった後、三門は通り沿いのファミレスに車を停めた。店内は空いていて、他の客も、つかの間の京楽を楽しんだ後の余韻を漂わせていた。櫻橋には、このような空気感が心地よかった。
「お前、今日実家に帰るんだろ。送ってくぜ」
 食事の後、夜風になびくのぼりを窓越しに眺めながら、三門が言った。
「遠いけど大丈夫?」
 櫻橋はそう言って、グラスの水を一口飲んだ。櫻橋の実家は、この山道をずっと降りて、静岡県に入り、高台から海が見える地域にある。山中湖付近のこの位置からは、高速道路を利用しても一時間以上はかかりそうだ。ところが、櫻橋の心配とは裏腹に三門は少し悪そうな笑みを浮かべた。
「走りたいんだ。久々に、夜中に」
 昼間の時とは裏腹に、辺りに冷気が立ち込めている。二人はファミレスを出ると、縮こまりながら小走りで駐車場に向かった。車に乗り込むと、三門がすぐにエンジンをかけて、スマホを櫻橋に投げ渡した。
「大音量で流してくれ。櫻橋のセレクトを」
辺りが暗くなるにつれて、櫻橋の鼓動は高まった。高速道路に合流し、三門が思い切りアクセルを踏み込む。景色がスライムのように溶けて見えるほどの速度が出た辺りで、三門も知っている曲の中で、櫻橋は激しいロックバンドの曲を流した。大音量に負けじと、三門が大声で歌う。櫻橋もつられて、声を張り上げて歌詞をなぞった。とんでもなく音痴に。でも、世界を書き換えるような大声で。今いる場所から逃げ出したい。誰かに生かされているんじゃなく、自分の力で今を生き抜いていると叫びたい。うろ覚えで、そんな青臭い歌詞を口ずさんだ。商用バンの大きな窓の外で、道路照明灯が砲撃のように飛んでいく。前の車のテールランプの赤色がゆらゆらと揺れている。
 時間はあっという間に過ぎ去り、トンネルを抜けた山の隙間から、無数の窓の黄色い明かりが、美しい夜景が姿を現した。あの光の中に、櫻橋の実家がある。
人生がこういう時間だけだったらいいのにと思った。
明日は休みだが、それが終われば、また苦手な仕事の日々が待っている。
 この時、櫻橋は自分がかなり俗物的な人間だと思っていた。できるなら一生遊んで暮らしていきたいし、お金もあるだけ欲しいし、童貞のまま死ぬのは御免だし、人に好かれたい。そのために人のために何かできる人間になりたい。それはそれとして自分のための時間も惜しい。脳内から、欲望が壊れた蛇口みたいにあふれ出てくる。それらを最初から持っている人はとても羨ましいが、友達と職は、何も頑張らなくても手に入った。

 家の近くのコンビニで三門に降ろしてもらい、今までの興奮が嘘のように静かな夜を少し歩いて、実家にたどり着いた。
「とにかく、わたるが正社員になれてよかったよ」
「昔と比べて、非正規と正規の壁は大きいからな」
 実家のリビングの明かりは、アパートよりもいっそう明るく見えた。櫻橋が家に着くと、両親はダイニングテーブルに座って、食後のお菓子などをつまんでいた。櫻橋がその輪に入り、たわいのない会話を続けているうちに、母親と父親の口から出てきたのがその言葉だった。
「たまたまだよ」
 いちおう、高卒で入社したときから正社員ではあるのだが。そういった、意味のない認識のずれの訂正が面倒くさくて、短く返答した。両親が自分の職場での姿を見たら幻滅するかもしれないが、そんな機会はないから大丈夫だろう。
 そんなことを考えていると、櫻橋が座っているソファの隙間から茶色い毛玉の塊みたいなものがもぞもぞと動いてきて、櫻橋の足元でどすんと横になった。実家で飼っている、猫のペンタゴンだ。
「お前は猫でよかったな。知ってる?人間は働かないと食っていけないんだよ」
「にゃうあ」
 櫻橋が椅子の下にかがんで小声で言うと、興味なさそうに、ペンタゴンはあくび交じりの鳴き声を発した。ペンタゴンは、櫻橋が実家暮らしの時、三年くらい前に、両親が引き取ってきた元ノラの猫だ。
 櫻橋は、当時は、人がペットを飼う理由がよく分からなかった。動物なら、動物園とかそういうカフェに行けばいくらでも見られるのだし、両親は共働きだったので、面倒をみるのも大変だろうにと思っていた。しかし、実際にペンタゴンが家に来ると、その理由に納得した。櫻橋家にとって、ペンタゴンは他の猫では代わりが務まらなかったし、ペンタゴンにとっても、自分の家は櫻橋家でなければならなかっただろう。ペンタゴンは、いくらでも人材の代わりの利くこの社会の中で、家族は代わりの利かない枠組みだという事を教えてくれた。
 櫻橋はそれほど猫が好きなわけではなかったが、彼が猫じゃらしを振ると、よく反応するので、ペンタゴンの事はとても気に入っていた。両親とはあまり遊ぼうとしないらしく、自分がペンタゴンから必要とされていることが嬉しかったからかもしれない。

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