時刻は午前〇時を過ぎたあたり、日本時間だと二十二時ごろだろうか。今僕の目の前には、ビールを抱えながらツインベッドに横たわった金髪の女がいる。夜中になり、街からちらほら明かりが消え始めたとはいえ、大都市オークランドの夜はなかなか眠らない。その眠らない象徴となっているのが、窓に映るスカイ・タワーだ。光に包まれたそのタワーは、夜にもかかわらず眩い光で僕らを照らしている。こんなに眩しくされたら、たとえ部屋の電気を消したとしても、いい感じのムードを演出できない。夜のパーティーが台無しだ。僕は目尻に皺を寄せた。そもそもビール抱えている女を目の前にして、欲情に駆られるということはない。そして、今も金髪の女は気持ちよさそうに寝ている。さっき買ったTuiというニュージーランドの地ビールを持ちながら。よく見ると、金髪にところどころ黒い毛が混じっている。お色気の街六本木で蝶よ花よと活躍していた彼女が、このような姿を男の前で見せるのはどうなのだろうか。そもそもこの旅行も、彼女が行きたいと言い出したのだ。いくら呑みすぎたからといって、この姿は果たして恋人に見せる態度なのか。気がつくと、さっき寄せた皺がますます目尻に集まっていた。
僕は彼女を頭を軽く小突き、着ていたスーツを脱ぎ始める。彼女も「痛ぁ」と頭を抑えながら寝ぼけ眼でベッドから起き上がり冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を一気に飲み干した。さらに、彼女は可愛げなポーチから、白くて小さい何かを出し、それを飲み込んだ。今から飲んでも遅いかな、と言葉を漏らしながら。僕はベッドに入る準備をし、彼女の脱ぐ姿をチラチラと見た。髪の毛は汚いくせに、背中は見事な純白。まるで日本アルプスの万年雪みたいだ。流石は夜の店の看板娘。だてに六本木で水商売やってない。チラチラ見ている僕に気付いたのか、彼女は、
「あんま激しくしないでね。傷とか見つかるとオーナーに怒られちゃうから」
と僕に背を向けてそう言った。わかったよ、と僕は覇気のない言葉で返し、裸の状態でカーテンを閉めた。しかし閉めたところで、タワーの光はカーテンを貫通して僕たちを照らす。横から照らすその光にむっとしながら、僕は起き上がったばかりの彼女をベッドへ押し倒した。ちょっと、という彼女の声は聞こえたが、僕は無視してしまった。乱暴にしてしまって申し訳ないけど仕方がない、ムードを作れなくて苛立ってしまったのだ。光に包まれた2つの影。それは小刻みに震えながら、徐々に合わさってゆく。プレイ中に漏らした彼女の声は甲高く、そして一定のリズムを刻んでいる。その間から微かに聞こえるギシギシという音。その音の正体は、今二人が揺らしているベッドの音だ。その音は、彼女の声の裏拍となって少し心地よいリズムを生み出している。「あぁ」という音の後に必ずギシとなる。その音を聞いて、さっきまで塞がっていた欲情が解放され、声のBPMが30ほど上がった。少し早くなった夜のリズム、それはジャズというにはあまりにも荒らしく、ロックというには、どこか柔らかさがあるのだった。僕は夜のパーティーを欲情のままに楽しんだ。明け方になり、カンカンの太陽が顔を覗かせる。楽しんでいたリズムは途切れてしまい、彼女はシャワーを浴び始める。僕は、枕元に置いたあったスマホを見た。画面を開くと同時に、一つの通知が届く。それは、いつも使っているチャットアプリからではなく、何十年も使っていないカレンダーのアプリからだった。開くと、「今日は日奈子さんの誕生日です」と書かれている。今日が誕生日だったんだ、その声を僕は彼女に聞かれないように、心の中で止めた。不意にタワーの先にある、明けたばかりの空を見る。雲ひとつない、綺麗な空だ。その時、窓に反射した自分を見てしまった。猫背で目の下にクマが出来ている僕。肌は痩せこけていて、とても二〇代には見えない。行為の疲れからなのか、僕は気づいたらベッドの端に座って俯いていた。
昼に近くなった朝。ホテルを出て、僕と彼女はフラフラと街を歩いた。ちゃんと歩こうと思っても、身体がいうことを聞かない。昨日はしゃぎ過ぎたつけは、今日に持ち越されるのだった。そして、僕らはフラフラのまま電車に乗り、目的地の駅まで寝るのだった。長いこと電車に揺られ、ようやく目的地についた。今日は彼女が行きたいと言っていたショッピングセンターへ行く日だった。何やら、ブランド品が安く売っているらしい。さっきまで眠そうにしていた彼女は目の色を変え、
「アタシすぐ買ってくるから、その辺で散歩してて。あとで一緒にお昼食べよ」
と言い、ジェット機のような速さでショッピングセンタ―へ向かったのだった。一人残された僕は、海辺へ行って貝を拾ったり、近くのホテルに入ってロビーでコーヒーを嗜んだりした。ショッピングに肩をぶん回している彼女と違い、僕は何の思考回路を巡らすことなく、ニュージーランドという国を満喫していた。もうそそろかな、と思ってロビーを出て、またフラフラ歩きながらショッピングモールへと向かった。すると、左側におかしな建物が見えた。僕はその建物に吸い寄せられるように、ショッピングモールからその建物へと足を向けた。
それは、鏡で出来ている建物だった。壁全てが鏡になっており、唯ならぬ雰囲気を放つこのオブジェ。スマホで調べたところ、どうやら有名な美術館らしい。それに自ら近づいて、僕は僕自身を見た。それを見て驚愕した。鏡に映った僕は、知らない僕だったのだ。
「あれ、誰だこれ」
そこ映っていたのは、空港で買ったヨレヨレのシャツを着ている僕でも、暗かった過去の僕でもない。その男は、白い襟付きのシャツで清潔感のあるジーパンを履き、靴はMartinの綺麗な革靴だった。そして、ガイドブックを片手にもち、血の巡りが良さそうな顔でこちらを見ている。その鏡に映る男、それは少し違和感があるにしろ、顔のパーツは僕と一緒だった。でも、向こうはこちらと違って、ピンとした背筋やはにかんでいる表情を持っている。そしてもっとも違うのが、若さだ。鏡に写っている僕の方が圧倒的に若いように感じる。そんな若々しい僕の後ろで、何かがモワァっと煙のように現れた。現れたのは、白いワンピースを着て、白いハットを被った女性。黒のロングヘアは白と合わさってモノトーンを描いている。誰だかわからないその女性。しかし、顔がはっきりと見え始め、口元が見えた途端、僕は確信した。それは大人になった日菜子だった。僕は久しぶりに日菜子と思わぬ形で再会した。八年ぶりの再会だった。
日奈子とは、学生時代に付き合っていた。当時から黒髪で、一〇代の頃から少し大人びた雰囲気持っていた気がする。僕が一番覚えているのは口元だ。日菜子は笑う時、いつも右頬だけを上げ、口元を歪ませていた。イタズラを企んでいる子供の顔、と言うとわかりやすいのかもしれない。友達の少なかった僕にとって、日菜子は彼女であり唯一の話し相手だった。特に音楽の話しは盛り上がった。同じバンドが好きで、そのバンドの曲を聴き合い、ライブにもよく2人で行っていた。僕がベースをやっていることを恐る恐る打ち明けた時も、日菜子は嬉しそうな顔で僕を見ていた。そして、僕がその好きなバンドの曲を弾くと、君はいつものように口元を歪ませて笑っていたね。
二人を特別な関係へと発展させた音楽、でも僕らの関係を壊したのも音楽だった。彼女と付き合ってから僕がベーシストとしての才能を買われ始めた頃、今まで取れていた日菜子との時間はライブの愚痴と酒に変わっていった。大学卒業間近で、僕が音楽の道に進むといったとき、日菜子は笑ってた。でも、それは最初に出会った時の表情と違い、半分喜んでいたが、もう半分は渋い顔をしていたように思う。日菜子と会わなくなって、音楽としての活動が忙しくなったとき、一通のメールが届いた。長ったらしく書かれていたメールは小さな文字の羅列で、でも僕の目から最後の「もう会いたくないかも」という文字だけデカデカと見えた。
「日菜子、ごめんね」
やつれた顔で、僕は鏡に映る日菜子に謝った。日菜子はやっぱあの頃と変わらず、口元を歪ませて笑っていた。よく見てみると、両手で重そうな何かを抱えていた。近づいてみると、それは可愛らしい表情でスヤスヤと眠っている赤ん坊だった。
これが、本来の姿。だったのかもしれない。
もし今隣にいるのが日菜子だったら、家族で楽しいニュージランドの旅行だったのかもしれない。
もし今隣にいるのが日菜子だったら、家族で誕生日の前祝いをしていたのかもしれない。
もし今隣にいるのが日菜子だったら、六本木で出会った水商売の金髪と性交渉なんてしなかったかもしれない。
どうしようもできないことを、どうしようもない僕の脳みそで思い浮かべる。
そして、鏡に映る自分に
「大切にしてやれよ」
と酒でしゃがれた声で言った。今の僕にはそう言ってやることしかできなかった。
鏡に映る幸せそうな僕は、その言葉を聞いて少しだけ頭をコクっと下げたように見えた。
「何ブツブツ言ってるの?気色悪」
声のする方を向くと、金髪の女がいた。買い物が終わったらしく、腕には大量の荷物をぶら下げている。彼女はオブジェに背を向けて歩き出した。僕はクルリと向いて鏡に映る3人に手を振った。沈みかけたオレンジ色の太陽が、二つの世界の僕を照らしていた。
僕は彼女を頭を軽く小突き、着ていたスーツを脱ぎ始める。彼女も「痛ぁ」と頭を抑えながら寝ぼけ眼でベッドから起き上がり冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を一気に飲み干した。さらに、彼女は可愛げなポーチから、白くて小さい何かを出し、それを飲み込んだ。今から飲んでも遅いかな、と言葉を漏らしながら。僕はベッドに入る準備をし、彼女の脱ぐ姿をチラチラと見た。髪の毛は汚いくせに、背中は見事な純白。まるで日本アルプスの万年雪みたいだ。流石は夜の店の看板娘。だてに六本木で水商売やってない。チラチラ見ている僕に気付いたのか、彼女は、
「あんま激しくしないでね。傷とか見つかるとオーナーに怒られちゃうから」
と僕に背を向けてそう言った。わかったよ、と僕は覇気のない言葉で返し、裸の状態でカーテンを閉めた。しかし閉めたところで、タワーの光はカーテンを貫通して僕たちを照らす。横から照らすその光にむっとしながら、僕は起き上がったばかりの彼女をベッドへ押し倒した。ちょっと、という彼女の声は聞こえたが、僕は無視してしまった。乱暴にしてしまって申し訳ないけど仕方がない、ムードを作れなくて苛立ってしまったのだ。光に包まれた2つの影。それは小刻みに震えながら、徐々に合わさってゆく。プレイ中に漏らした彼女の声は甲高く、そして一定のリズムを刻んでいる。その間から微かに聞こえるギシギシという音。その音の正体は、今二人が揺らしているベッドの音だ。その音は、彼女の声の裏拍となって少し心地よいリズムを生み出している。「あぁ」という音の後に必ずギシとなる。その音を聞いて、さっきまで塞がっていた欲情が解放され、声のBPMが30ほど上がった。少し早くなった夜のリズム、それはジャズというにはあまりにも荒らしく、ロックというには、どこか柔らかさがあるのだった。僕は夜のパーティーを欲情のままに楽しんだ。明け方になり、カンカンの太陽が顔を覗かせる。楽しんでいたリズムは途切れてしまい、彼女はシャワーを浴び始める。僕は、枕元に置いたあったスマホを見た。画面を開くと同時に、一つの通知が届く。それは、いつも使っているチャットアプリからではなく、何十年も使っていないカレンダーのアプリからだった。開くと、「今日は日奈子さんの誕生日です」と書かれている。今日が誕生日だったんだ、その声を僕は彼女に聞かれないように、心の中で止めた。不意にタワーの先にある、明けたばかりの空を見る。雲ひとつない、綺麗な空だ。その時、窓に反射した自分を見てしまった。猫背で目の下にクマが出来ている僕。肌は痩せこけていて、とても二〇代には見えない。行為の疲れからなのか、僕は気づいたらベッドの端に座って俯いていた。
昼に近くなった朝。ホテルを出て、僕と彼女はフラフラと街を歩いた。ちゃんと歩こうと思っても、身体がいうことを聞かない。昨日はしゃぎ過ぎたつけは、今日に持ち越されるのだった。そして、僕らはフラフラのまま電車に乗り、目的地の駅まで寝るのだった。長いこと電車に揺られ、ようやく目的地についた。今日は彼女が行きたいと言っていたショッピングセンターへ行く日だった。何やら、ブランド品が安く売っているらしい。さっきまで眠そうにしていた彼女は目の色を変え、
「アタシすぐ買ってくるから、その辺で散歩してて。あとで一緒にお昼食べよ」
と言い、ジェット機のような速さでショッピングセンタ―へ向かったのだった。一人残された僕は、海辺へ行って貝を拾ったり、近くのホテルに入ってロビーでコーヒーを嗜んだりした。ショッピングに肩をぶん回している彼女と違い、僕は何の思考回路を巡らすことなく、ニュージーランドという国を満喫していた。もうそそろかな、と思ってロビーを出て、またフラフラ歩きながらショッピングモールへと向かった。すると、左側におかしな建物が見えた。僕はその建物に吸い寄せられるように、ショッピングモールからその建物へと足を向けた。
それは、鏡で出来ている建物だった。壁全てが鏡になっており、唯ならぬ雰囲気を放つこのオブジェ。スマホで調べたところ、どうやら有名な美術館らしい。それに自ら近づいて、僕は僕自身を見た。それを見て驚愕した。鏡に映った僕は、知らない僕だったのだ。
「あれ、誰だこれ」
そこ映っていたのは、空港で買ったヨレヨレのシャツを着ている僕でも、暗かった過去の僕でもない。その男は、白い襟付きのシャツで清潔感のあるジーパンを履き、靴はMartinの綺麗な革靴だった。そして、ガイドブックを片手にもち、血の巡りが良さそうな顔でこちらを見ている。その鏡に映る男、それは少し違和感があるにしろ、顔のパーツは僕と一緒だった。でも、向こうはこちらと違って、ピンとした背筋やはにかんでいる表情を持っている。そしてもっとも違うのが、若さだ。鏡に写っている僕の方が圧倒的に若いように感じる。そんな若々しい僕の後ろで、何かがモワァっと煙のように現れた。現れたのは、白いワンピースを着て、白いハットを被った女性。黒のロングヘアは白と合わさってモノトーンを描いている。誰だかわからないその女性。しかし、顔がはっきりと見え始め、口元が見えた途端、僕は確信した。それは大人になった日菜子だった。僕は久しぶりに日菜子と思わぬ形で再会した。八年ぶりの再会だった。
日奈子とは、学生時代に付き合っていた。当時から黒髪で、一〇代の頃から少し大人びた雰囲気持っていた気がする。僕が一番覚えているのは口元だ。日菜子は笑う時、いつも右頬だけを上げ、口元を歪ませていた。イタズラを企んでいる子供の顔、と言うとわかりやすいのかもしれない。友達の少なかった僕にとって、日菜子は彼女であり唯一の話し相手だった。特に音楽の話しは盛り上がった。同じバンドが好きで、そのバンドの曲を聴き合い、ライブにもよく2人で行っていた。僕がベースをやっていることを恐る恐る打ち明けた時も、日菜子は嬉しそうな顔で僕を見ていた。そして、僕がその好きなバンドの曲を弾くと、君はいつものように口元を歪ませて笑っていたね。
二人を特別な関係へと発展させた音楽、でも僕らの関係を壊したのも音楽だった。彼女と付き合ってから僕がベーシストとしての才能を買われ始めた頃、今まで取れていた日菜子との時間はライブの愚痴と酒に変わっていった。大学卒業間近で、僕が音楽の道に進むといったとき、日菜子は笑ってた。でも、それは最初に出会った時の表情と違い、半分喜んでいたが、もう半分は渋い顔をしていたように思う。日菜子と会わなくなって、音楽としての活動が忙しくなったとき、一通のメールが届いた。長ったらしく書かれていたメールは小さな文字の羅列で、でも僕の目から最後の「もう会いたくないかも」という文字だけデカデカと見えた。
「日菜子、ごめんね」
やつれた顔で、僕は鏡に映る日菜子に謝った。日菜子はやっぱあの頃と変わらず、口元を歪ませて笑っていた。よく見てみると、両手で重そうな何かを抱えていた。近づいてみると、それは可愛らしい表情でスヤスヤと眠っている赤ん坊だった。
これが、本来の姿。だったのかもしれない。
もし今隣にいるのが日菜子だったら、家族で楽しいニュージランドの旅行だったのかもしれない。
もし今隣にいるのが日菜子だったら、家族で誕生日の前祝いをしていたのかもしれない。
もし今隣にいるのが日菜子だったら、六本木で出会った水商売の金髪と性交渉なんてしなかったかもしれない。
どうしようもできないことを、どうしようもない僕の脳みそで思い浮かべる。
そして、鏡に映る自分に
「大切にしてやれよ」
と酒でしゃがれた声で言った。今の僕にはそう言ってやることしかできなかった。
鏡に映る幸せそうな僕は、その言葉を聞いて少しだけ頭をコクっと下げたように見えた。
「何ブツブツ言ってるの?気色悪」
声のする方を向くと、金髪の女がいた。買い物が終わったらしく、腕には大量の荷物をぶら下げている。彼女はオブジェに背を向けて歩き出した。僕はクルリと向いて鏡に映る3人に手を振った。沈みかけたオレンジ色の太陽が、二つの世界の僕を照らしていた。