年に一度の親戚の集まりは、野乃花のお母さんの実家で行われます。
お母さんの故郷は日本から遠く離れたアイルランドという国の、コングという緑が豊かな小さな村でした。夏休みのうちの一週間はここで生活する事になります。野乃花が生まれて歩けるようになってから九歳になった今に至るまで、ずっとそうでした。
野乃花はこの村が、あまり好きではありません。なぜならいつも日本で暮らしている野乃花は、異国の地で生活しているうちに疎外感を覚えてしまうからです。近所の子供たちと遊んだりもしますが、言葉が通じないのでなかなか上手くいきません。だから一人になった時はいつも、村の外れにある森の、その入り口にある小さな家に赴いて日が暮れるまで時間を潰していました。
「じゃあ、ノノカは話せないことがイヤなのね?」
「うん。わたし、キアラとちがって英語はわからないんだもの」
「ベンキョウすればいいじゃない」
「いやよ、つまんないもん」
窓からは木漏れ日が差し込んで、木張りの床に葉の紋様を描き出しています。野乃花は穏やかな光を浴びながら、読めない絵本を開いて挿絵のみを眺めていました。
その傍らでは、長い黒髪を後ろに纏めた背の高い女の人が、絵の具のついた細い筆でキャンバスを撫でています。お互いに顔は合わせませんが、会話だけは続いていました。
キアラはこの家の主で、村でひとりにしている野乃花をこうやって匿ってくれます。野乃花も野乃花で、彼女の家に転がり込むことで、年に一度の、この憂鬱な一週間を乗り切ることが出来ました。親戚の集まりはとてもうるさいし、近所の子達と挨拶したりするのは好きじゃないけれど、こうやってキアラと言葉を交わすこの場所は、野乃花が気を張らずに落ち着ける安息地でした。
「でもキアラは日本語でもはなせるから、すきよ」
野乃花がそう言うと、キアラはクスクスと笑って「そういう言葉はね、本当に好きな人ができた時にいうのよ」と誤魔化されたので、野乃花は少しムッとしました。けれどホントに腹が立っているわけではありません。だから「ほんとに好きなのになぁ〜」と拗ねることしか出来ませんでした。
しばらく話していると自然と会話が途切れ、時計の秒針が進む音と絵本を捲る音、たまに筆を水につける音だけがぽつぽつと雨音のように家の中に鳴っていました。絵本の挿絵を一通り読み終えた野乃花が暇そうにしていると、キアラの作業もひと段落を迎えたのか、「少しオチャにしましょう」と言って、キッチンへ向かっていきました。
運ばれてきたのは紅茶と、何処から仕入れてきたのか、どら焼きがお皿に盛られていました。ここにきて和菓子が出てきたことに野乃花が不思議そうな顔をしていると、「本当はクッキーとかフィナンシェが良かったんだけどね。これも意外と合うのよ」と言って、キアラが紅茶の注がれたカップを差し出してくれました。
「しってる! だいようひんってやつね!」
野乃花は元気に手をあげて言い放ちました。
「すごい、よく知ってるわね」
褒められてすっかり上機嫌になった勢いでそのままどら焼きを頬張ります。どこか懐かしい味に思わず野乃花の口から笑みが溢れました。
そういえばどうしてキアラはいつも和菓子を用意していたり、日本語を話せたりするんだろうと思いました。思えば前にもそんな事を聞いた気がします。そのときはたしか「実は私はすごいマジョで、いつかノノカと出会うことを知ってたからよ」と茶化されました。
どら焼きをもぐもぐしながら野乃花はキアラをじっと見つめます。当のキアラはというと、紅茶を飲みながらずっとキャンバスと睨めっこをしていて、たまにこっちを向いてニコリと微笑みかけるばかりです。疑問の答えを与えてはくれませんでしたが、今はどら焼きが美味しいので知らないふりをする事にしました。
おやつの時間を挟んだことで多幸感に包まれ、すっかり意識が散漫になった野乃花の興味は、先程までキアラが描いていた絵の方へ向かいました。
「キアラは、いつもおんなじひとの絵をかいているのね?」
見つめる先、まだ白い部分が大半を占めるキャンバスには、一人の女性がはっきりと描き出されていました。すらりと伸びた肢体に碧い目、金髪の長い髪は風に靡いていて、未完成なのに見ていて思わず惹き込まれてしまいそうです。
野乃花がその女性を見たのは初めてではありません。野乃花が去年ここを訪れた時も、またその前の年も、いつもキアラの描く絵にはその女性が描かれていました。
「いつも同じだと、飽きてしまうかしら」
「ううん、とってもすてきにかけているからあきないわ」
キアラは「ふふ、ありがとう」とお礼を言うと、食器を片付けて再び椅子に座ります。そしてパレットを手に取り、絵の具を付けた小筆を細やかに動かし始めました。野乃花はそれをじっと黙って見つめています。
真っ白だったキャンバスは、キアラの手によって服を着替えるみたいに深い緑色に染まっていきます。キアラは本当に魔女なのかもしれないと、野乃花は息をのんで見守っていました。
ふと気になって横を向くと、真剣な顔をしながら深く呼吸をして絵を描くキアラの姿がありました。それは慈愛に見ているようでもあり、同時に苦しさのようなものを孕んでいる気がしました。野乃花は不思議と、キアラから目を離すことが出来ませんでした。
それから大分な時間が経って、最後に自分の名前をキャンバスの隅に小さく描くと、キアラはもう一度深く息を吐いて静かに筆を置きました。
「できあがり?」
言ってから、野乃花はキアラの集中を邪魔してしまったのではないかと思って申し訳なさを覚えましたが、「ええ」と笑顔で応じる彼女の満足そうな表情にホッと胸を撫でおろしました。
出来上がった絵は、それはもう素晴らしいとしか言えないものでした。先ほどの女性の周りにはキアラの巧みな色遣いによって木々が生い茂り、ちょうどこの家の近くにある森のようでした。野乃花が感動から言葉を紡げないまま黙っていると、キアラが口を開きます。
「これはね、私がスキだった人なの」
そう言って、目を細めながら自分の絵を見つめています。彼女の言葉に、野乃花は「えっ」と間抜けな反応をしてしまいます。
「すきって、恋をしてたってこと?」
「そうよ」
まだ恋が何かもよく知らないのに、野乃花は無性にどきどきとしてしまいました。
「でも、わたしは彼女がいなくなる前にそれを伝えられなかったの」
「このひとは、とおくにすんでるの?」
野乃花が聞くと、キアラは少し考えて「遠くなったり、近くなったりしてるわ」と答えたので、その意味がよく分からなかった野乃花は「へんなの」としか言えませんでした。
気付けば空は夕焼けに染まっていて、辺りは暗くなり始めています。野乃花はお母さんから夕飯までには必ず帰って来るように言われていたことを思い出しました。
「あしたもくるねっ」
「うん、いらっしゃい」
野乃花はキアラに手を振って、それから家の方向へ駆け出しました。
「ノノカ」
名前を呼ばれて振り返ると、キアラは野乃花の知らない英語で何かを言いました。
「なんていったの?」
言葉の意味が分からずに聞き返すと、「たくさん話せるようになって、次は英語で話をしましょ」と言って、珍しくいたずらな笑みを浮かべました。
帰ると家の中は相変わらず賑やかでした。親戚のみんなが話していることは分かりません。お母さんは帰ってきた野乃花を見つけると、「おかえりなさい、沢山遊べた?」と言っておかえりのハグをしてくれました。野乃花も楽しかったことに嘘はないので元気に「うんっ」と答えます。「今日はどこへ行ってきたの?」と聞いてくるお母さんに、野乃花がキアラの話をしようとすると
「ママー、ちょっといいー?」
リビングの方からお母さんを呼ぶ野乃花のお父さんの声が聞こえてきました。
お父さんは日本の人で英語もたどたどしいため、お母さんの通訳がないと親戚のみんなとの会話も一苦労です。丁度難しい質問をされてしまったのか、お母さんに助けを求めたところでした。
「はーい、今行くから待ってて〜」
お母さんはそういうと野乃花の額に一度優しくキスをして、長い金髪を靡かせながら振り返り、パタパタと騒がしい方へ向かって行きます。そこで、ハッと。
お父さんの元へ向かうお母さんの姿が、あの森の奥へ行ってしまいそうな女の人によく似ていることに、野乃花は気付いてしまったのでした。
お母さんの故郷は日本から遠く離れたアイルランドという国の、コングという緑が豊かな小さな村でした。夏休みのうちの一週間はここで生活する事になります。野乃花が生まれて歩けるようになってから九歳になった今に至るまで、ずっとそうでした。
野乃花はこの村が、あまり好きではありません。なぜならいつも日本で暮らしている野乃花は、異国の地で生活しているうちに疎外感を覚えてしまうからです。近所の子供たちと遊んだりもしますが、言葉が通じないのでなかなか上手くいきません。だから一人になった時はいつも、村の外れにある森の、その入り口にある小さな家に赴いて日が暮れるまで時間を潰していました。
「じゃあ、ノノカは話せないことがイヤなのね?」
「うん。わたし、キアラとちがって英語はわからないんだもの」
「ベンキョウすればいいじゃない」
「いやよ、つまんないもん」
窓からは木漏れ日が差し込んで、木張りの床に葉の紋様を描き出しています。野乃花は穏やかな光を浴びながら、読めない絵本を開いて挿絵のみを眺めていました。
その傍らでは、長い黒髪を後ろに纏めた背の高い女の人が、絵の具のついた細い筆でキャンバスを撫でています。お互いに顔は合わせませんが、会話だけは続いていました。
キアラはこの家の主で、村でひとりにしている野乃花をこうやって匿ってくれます。野乃花も野乃花で、彼女の家に転がり込むことで、年に一度の、この憂鬱な一週間を乗り切ることが出来ました。親戚の集まりはとてもうるさいし、近所の子達と挨拶したりするのは好きじゃないけれど、こうやってキアラと言葉を交わすこの場所は、野乃花が気を張らずに落ち着ける安息地でした。
「でもキアラは日本語でもはなせるから、すきよ」
野乃花がそう言うと、キアラはクスクスと笑って「そういう言葉はね、本当に好きな人ができた時にいうのよ」と誤魔化されたので、野乃花は少しムッとしました。けれどホントに腹が立っているわけではありません。だから「ほんとに好きなのになぁ〜」と拗ねることしか出来ませんでした。
しばらく話していると自然と会話が途切れ、時計の秒針が進む音と絵本を捲る音、たまに筆を水につける音だけがぽつぽつと雨音のように家の中に鳴っていました。絵本の挿絵を一通り読み終えた野乃花が暇そうにしていると、キアラの作業もひと段落を迎えたのか、「少しオチャにしましょう」と言って、キッチンへ向かっていきました。
運ばれてきたのは紅茶と、何処から仕入れてきたのか、どら焼きがお皿に盛られていました。ここにきて和菓子が出てきたことに野乃花が不思議そうな顔をしていると、「本当はクッキーとかフィナンシェが良かったんだけどね。これも意外と合うのよ」と言って、キアラが紅茶の注がれたカップを差し出してくれました。
「しってる! だいようひんってやつね!」
野乃花は元気に手をあげて言い放ちました。
「すごい、よく知ってるわね」
褒められてすっかり上機嫌になった勢いでそのままどら焼きを頬張ります。どこか懐かしい味に思わず野乃花の口から笑みが溢れました。
そういえばどうしてキアラはいつも和菓子を用意していたり、日本語を話せたりするんだろうと思いました。思えば前にもそんな事を聞いた気がします。そのときはたしか「実は私はすごいマジョで、いつかノノカと出会うことを知ってたからよ」と茶化されました。
どら焼きをもぐもぐしながら野乃花はキアラをじっと見つめます。当のキアラはというと、紅茶を飲みながらずっとキャンバスと睨めっこをしていて、たまにこっちを向いてニコリと微笑みかけるばかりです。疑問の答えを与えてはくれませんでしたが、今はどら焼きが美味しいので知らないふりをする事にしました。
おやつの時間を挟んだことで多幸感に包まれ、すっかり意識が散漫になった野乃花の興味は、先程までキアラが描いていた絵の方へ向かいました。
「キアラは、いつもおんなじひとの絵をかいているのね?」
見つめる先、まだ白い部分が大半を占めるキャンバスには、一人の女性がはっきりと描き出されていました。すらりと伸びた肢体に碧い目、金髪の長い髪は風に靡いていて、未完成なのに見ていて思わず惹き込まれてしまいそうです。
野乃花がその女性を見たのは初めてではありません。野乃花が去年ここを訪れた時も、またその前の年も、いつもキアラの描く絵にはその女性が描かれていました。
「いつも同じだと、飽きてしまうかしら」
「ううん、とってもすてきにかけているからあきないわ」
キアラは「ふふ、ありがとう」とお礼を言うと、食器を片付けて再び椅子に座ります。そしてパレットを手に取り、絵の具を付けた小筆を細やかに動かし始めました。野乃花はそれをじっと黙って見つめています。
真っ白だったキャンバスは、キアラの手によって服を着替えるみたいに深い緑色に染まっていきます。キアラは本当に魔女なのかもしれないと、野乃花は息をのんで見守っていました。
ふと気になって横を向くと、真剣な顔をしながら深く呼吸をして絵を描くキアラの姿がありました。それは慈愛に見ているようでもあり、同時に苦しさのようなものを孕んでいる気がしました。野乃花は不思議と、キアラから目を離すことが出来ませんでした。
それから大分な時間が経って、最後に自分の名前をキャンバスの隅に小さく描くと、キアラはもう一度深く息を吐いて静かに筆を置きました。
「できあがり?」
言ってから、野乃花はキアラの集中を邪魔してしまったのではないかと思って申し訳なさを覚えましたが、「ええ」と笑顔で応じる彼女の満足そうな表情にホッと胸を撫でおろしました。
出来上がった絵は、それはもう素晴らしいとしか言えないものでした。先ほどの女性の周りにはキアラの巧みな色遣いによって木々が生い茂り、ちょうどこの家の近くにある森のようでした。野乃花が感動から言葉を紡げないまま黙っていると、キアラが口を開きます。
「これはね、私がスキだった人なの」
そう言って、目を細めながら自分の絵を見つめています。彼女の言葉に、野乃花は「えっ」と間抜けな反応をしてしまいます。
「すきって、恋をしてたってこと?」
「そうよ」
まだ恋が何かもよく知らないのに、野乃花は無性にどきどきとしてしまいました。
「でも、わたしは彼女がいなくなる前にそれを伝えられなかったの」
「このひとは、とおくにすんでるの?」
野乃花が聞くと、キアラは少し考えて「遠くなったり、近くなったりしてるわ」と答えたので、その意味がよく分からなかった野乃花は「へんなの」としか言えませんでした。
気付けば空は夕焼けに染まっていて、辺りは暗くなり始めています。野乃花はお母さんから夕飯までには必ず帰って来るように言われていたことを思い出しました。
「あしたもくるねっ」
「うん、いらっしゃい」
野乃花はキアラに手を振って、それから家の方向へ駆け出しました。
「ノノカ」
名前を呼ばれて振り返ると、キアラは野乃花の知らない英語で何かを言いました。
「なんていったの?」
言葉の意味が分からずに聞き返すと、「たくさん話せるようになって、次は英語で話をしましょ」と言って、珍しくいたずらな笑みを浮かべました。
帰ると家の中は相変わらず賑やかでした。親戚のみんなが話していることは分かりません。お母さんは帰ってきた野乃花を見つけると、「おかえりなさい、沢山遊べた?」と言っておかえりのハグをしてくれました。野乃花も楽しかったことに嘘はないので元気に「うんっ」と答えます。「今日はどこへ行ってきたの?」と聞いてくるお母さんに、野乃花がキアラの話をしようとすると
「ママー、ちょっといいー?」
リビングの方からお母さんを呼ぶ野乃花のお父さんの声が聞こえてきました。
お父さんは日本の人で英語もたどたどしいため、お母さんの通訳がないと親戚のみんなとの会話も一苦労です。丁度難しい質問をされてしまったのか、お母さんに助けを求めたところでした。
「はーい、今行くから待ってて〜」
お母さんはそういうと野乃花の額に一度優しくキスをして、長い金髪を靡かせながら振り返り、パタパタと騒がしい方へ向かって行きます。そこで、ハッと。
お父さんの元へ向かうお母さんの姿が、あの森の奥へ行ってしまいそうな女の人によく似ていることに、野乃花は気付いてしまったのでした。
なんか言ったような気がしないでもないのですが、異国をもっと前に持ってきたり、言語の話を前に押してもいいかなと思ったり。でもその異国と本国の距離感がそのまま関係性に投射されてるから良いのかなと思ったり。とりあえずご馳走様でした。