きぬちゃんは、いつも困り顔だった。ポップな効果音がつきそうなくらいウキウキで芝生を走っているのに、困り顔。それにマルチーズにしては鈍臭すぎるし、すっとぼけるのが上手かった。
ある春の午後、散歩から帰ってきてすぐのこと。泥がついた体を拭こうとしたのに、ハイテンションが限界突破していたきぬちゃんは玄関で待てができず、私の腕をすり抜けて家の中に入ってしまった。
「あぁぁぁぁ、こら! 待てって言ったのに!」
泥を避けながら追いかけているせいで、小型犬はなかなか捕まえられない。廊下を爆走したあとに華麗なドリフトを決めたきぬちゃんは、ケージに置かれてたお気に入りのタオルに飛び込んだ。この時ばかりは、鈍臭さのかけらもなかった。
「きぬちゃん、まだふきふきしてないのにダメだよ」
抱き上げて汚れを拭いている間も、ずっともぞもぞ。私がどさくさに紛れて肉球を堪能していることにも気がつかず、タオルに向かってその短い足を必死に伸ばしていた。
「捕まえたぞ〜。昨日行ったばかりだけど、今日もお風呂行こうかなぁ〜?」
そう言いながら覗き込んだら、きぬちゃんは黒曜石みたいにキラキラした丸い目で『こんなに可愛い私にいじわるするのですか』とでも言うように、こてっと首を傾けた。自分の困り顔の効果が引き立つ瞬間を、実によく分かっている犬である。
「……分かった。でも次は駄目だよ」
根負けした途端に私の頬をぺろりと舐めて、いそいそとタオルの上に戻った。やっぱりお風呂入れてやろうかなと思うほど、悠々自適にくつろいでいる。
「タオル、本当にきぬちゃんが気にいるなんてね。捨てられなかったけど大丈夫だったね」
本来は別の子をくるむために購入したタオルだった。けれど別の子には会うことが叶わず、押し入れにしまい込むこと三年と二ヶ月。時を経て、我が家にきぬちゃんがやって来た。最初は夫もタオルを使うことは渋っていたけれど、思いの外きぬちゃんが気に入っているので次第にこちらまで愛着が湧き、今に至る。
「眠そうだね。私も寝ようかな、いっぱい遊んだもんね」
たんぽぽの綿毛みたいにふわふわで、シルクみたいにさらさら。そんなきぬちゃんをゆっくりと撫でていたら、互いに大きなあくびをかいた。
目が覚めたとき、空は杏色に染まっていた。十七時半、もう日没。妙に背中が暖かかったので寝返りを打つと、夕陽が私のまぶたに触れようと背筋を伸ばし、真っ白いシーツを照らしていた。
ベランダの草花が涼しそうに揺れている。ぼやけた身体を丸ごと冷ましたくなったので思い切って窓を開けると、レースのカーテンをふわりと舞い上がらせて、春風がリビングに広がった。
「きぬちゃん」
ベッドに腰掛けると、隣にはいつの間にか寝転がっていた綿菓子がひとつ。小さな鼻がひくついて、寝ながらでも薫りを感じているのがよく分かった。夕飯をどうしようかなと考えながら、ベランダの淵にかかる夕陽を眺める。ひき肉があるけど麻婆豆腐はこの前やったし、ハンバーグを作る元気も無いな。きっと野菜がたくさん、出番を求めて冷蔵庫で待機しているはず。そもそもちゃんと食べられるかどうかも分からないのに、どうしよう。
だんだん飽きてしまった私は無意識にきぬちゃんを撫でていると、タレた耳の毛に何かが付いていることに気がついた。
「ちょっとお嬢さん、失礼しますねー」
見つけたものは、白い冠に黒い種。たんぽぽの綿毛だった。お風呂に入れていたらきっと気がつかなかっただろう。耳の内側に限りなく近いところにくっついて、きぬちゃんは痒くなかったのだろうか。
私はそれをそっと摘むと、ベランダの空いた鉢植えにゆっくりと下ろし、ついでに隣に植っているエンドウを手に取って、肌触りの良く青々とした三日月を眺める。
「まだ……あの人にも言ってないんだけどね」
さやの実はまだ小さい。無理をしたら、すぐに消えてしまいそうでもある。こんなにも怖いのに、きぬちゃんには伝えたいなと思った。言葉にすることで叶うって誰かが言っていたし、と自分に言い聞かせながら、縋り付くようにきぬちゃんを撫でる。
「きぬちゃんはお姉さんになるんだよ」
その瞬間、きぬちゃんは勢いよく飛び起きた。その時ばかりは困り顔ではなく、すっとぼけるわけでもなく、しっかりと笑っていた。
ある春の午後、散歩から帰ってきてすぐのこと。泥がついた体を拭こうとしたのに、ハイテンションが限界突破していたきぬちゃんは玄関で待てができず、私の腕をすり抜けて家の中に入ってしまった。
「あぁぁぁぁ、こら! 待てって言ったのに!」
泥を避けながら追いかけているせいで、小型犬はなかなか捕まえられない。廊下を爆走したあとに華麗なドリフトを決めたきぬちゃんは、ケージに置かれてたお気に入りのタオルに飛び込んだ。この時ばかりは、鈍臭さのかけらもなかった。
「きぬちゃん、まだふきふきしてないのにダメだよ」
抱き上げて汚れを拭いている間も、ずっともぞもぞ。私がどさくさに紛れて肉球を堪能していることにも気がつかず、タオルに向かってその短い足を必死に伸ばしていた。
「捕まえたぞ〜。昨日行ったばかりだけど、今日もお風呂行こうかなぁ〜?」
そう言いながら覗き込んだら、きぬちゃんは黒曜石みたいにキラキラした丸い目で『こんなに可愛い私にいじわるするのですか』とでも言うように、こてっと首を傾けた。自分の困り顔の効果が引き立つ瞬間を、実によく分かっている犬である。
「……分かった。でも次は駄目だよ」
根負けした途端に私の頬をぺろりと舐めて、いそいそとタオルの上に戻った。やっぱりお風呂入れてやろうかなと思うほど、悠々自適にくつろいでいる。
「タオル、本当にきぬちゃんが気にいるなんてね。捨てられなかったけど大丈夫だったね」
本来は別の子をくるむために購入したタオルだった。けれど別の子には会うことが叶わず、押し入れにしまい込むこと三年と二ヶ月。時を経て、我が家にきぬちゃんがやって来た。最初は夫もタオルを使うことは渋っていたけれど、思いの外きぬちゃんが気に入っているので次第にこちらまで愛着が湧き、今に至る。
「眠そうだね。私も寝ようかな、いっぱい遊んだもんね」
たんぽぽの綿毛みたいにふわふわで、シルクみたいにさらさら。そんなきぬちゃんをゆっくりと撫でていたら、互いに大きなあくびをかいた。
目が覚めたとき、空は杏色に染まっていた。十七時半、もう日没。妙に背中が暖かかったので寝返りを打つと、夕陽が私のまぶたに触れようと背筋を伸ばし、真っ白いシーツを照らしていた。
ベランダの草花が涼しそうに揺れている。ぼやけた身体を丸ごと冷ましたくなったので思い切って窓を開けると、レースのカーテンをふわりと舞い上がらせて、春風がリビングに広がった。
「きぬちゃん」
ベッドに腰掛けると、隣にはいつの間にか寝転がっていた綿菓子がひとつ。小さな鼻がひくついて、寝ながらでも薫りを感じているのがよく分かった。夕飯をどうしようかなと考えながら、ベランダの淵にかかる夕陽を眺める。ひき肉があるけど麻婆豆腐はこの前やったし、ハンバーグを作る元気も無いな。きっと野菜がたくさん、出番を求めて冷蔵庫で待機しているはず。そもそもちゃんと食べられるかどうかも分からないのに、どうしよう。
だんだん飽きてしまった私は無意識にきぬちゃんを撫でていると、タレた耳の毛に何かが付いていることに気がついた。
「ちょっとお嬢さん、失礼しますねー」
見つけたものは、白い冠に黒い種。たんぽぽの綿毛だった。お風呂に入れていたらきっと気がつかなかっただろう。耳の内側に限りなく近いところにくっついて、きぬちゃんは痒くなかったのだろうか。
私はそれをそっと摘むと、ベランダの空いた鉢植えにゆっくりと下ろし、ついでに隣に植っているエンドウを手に取って、肌触りの良く青々とした三日月を眺める。
「まだ……あの人にも言ってないんだけどね」
さやの実はまだ小さい。無理をしたら、すぐに消えてしまいそうでもある。こんなにも怖いのに、きぬちゃんには伝えたいなと思った。言葉にすることで叶うって誰かが言っていたし、と自分に言い聞かせながら、縋り付くようにきぬちゃんを撫でる。
「きぬちゃんはお姉さんになるんだよ」
その瞬間、きぬちゃんは勢いよく飛び起きた。その時ばかりは困り顔ではなく、すっとぼけるわけでもなく、しっかりと笑っていた。