一つ。相手の陣営へ侵入し、相手選手にタッチする。これをレイドという。
二つ。タッチした選手は、相手陣営に阻まれずに自陣へ帰ってくると、得点になる。
三つ。一連の動きの中で、レイドを行う選手は必ず「カバディ」と言わなければならない。
これが分かれば、君もインドのスポーツ『カバディ』を、最低限は楽しむことができるだろう。
放課後の第二体育館に、シューズの擦れる甲高い音が響いている。そのど真ん中、四角く線で括られた場所で、俺とルカは互いに向かい合って、軽いステップを踏んでいた。ルカはなかなか、俺の間合いに入ってくれない。相変わらず手強いヤツだ。ならば俺がルカを間合いに引き摺り込むしかない。
俺は今レイド側、レイダーだ。グッと足に力を入れて、ある一つの言葉を唱えながら大きく一歩を踏み込んだ。これがないと、得点が決まったことにならない。
「カバディ、カバディ、カバディ」
俺が仕掛けたのに反応して、ルカは細やかにサイドステップを踏んだ。フェイントをかけるらしいつもりらしいが、その手には乗らない。
アイツはいつもフェイントをかけるとき、左に飛び出す癖がある。利き手が自由になるからだ。俺はルカの挙動を無視して左に突っ込み手を伸ばす。予想通り、ルカは少しフェイントを挟んで左へ飛び出してきた。
このままいけば、放課後の五十戦に渡る勝負は……俺の勝ちだ!
「カバディ!」
しかしここでルカは脚をしなやかに折り曲げ、姿勢を低くした。わかりやすく言えば、飛び出した体勢からスライディングに切り替えたといった感じだ。そのままルカは俺の攻撃を躱わし、俺はそのまま勢い余って顔面から体育館の床にダイブしてしまった。痛い。
「ったぁ……」
俺とルカは、男子カバディ部と女子カバディ部のキャプテンだ。おそらく男女合わせても、俺たち二人がこの学校の中で最もカバディに熱中していると言っても過言ではない。だからカバディには混合種目はないけれど、放課後にこうして俺とルカは二人で一対一のレイド練習をしている。
本当は他の部員もこれくらいやって欲しいのだが、俺はこの二人きりの時間が、まるでルカと自分だけの共通言語を持っているような感じがして嫌ではなかった。
いや、この比喩はいささか間違っているかもしれない。なぜなら。
「カバディ(惜しかったねぇ、浩介)」
「カバディ、カバディ(クッソ、ルカお前……裏の裏をかいてきやがって!)」
「カバディ、カバディ?(あはは、こんだけ連戦してんだから流石に慣れてくるでしょ)」
これで会話が出来るからである。
俺たちはカバディにのめり込むあまり、『カバディ』という単語のみで話が成立するようになっていた。
時期は忘れてしまったが、ある日からルカの発するカバディが「好きだ!」に聴こえたのが全ての始まりだった。ルカが言うには「私、カバディが好きだからさ、いっつも感情を込めて言ってるんだよねっ」だそうだ。俺も同じようにほかの部員にも試してみたが、結局ルカにしか伝わらなかった。
しかしこれはなかなか便利で、レイドの時は基本、途中で指示を受けたり出したりことが出来ないのだが、これなら相手に気付かれないように指示が出せたりする。あとは練習中にちょっとした雑談ができたりとか。まあ、俺とルカは競技区分が違うので実際に役に立ったことはない。
息を切らしていた俺に、ルカは自分のバッグから予備のスポーツタオルを取り出して投げつけた。使え、ということらしい。遅れて「カバディ(ちゃんと洗って返して)」と声が飛んでくる。俺たちは体育館の端っこに並んで座って、小休止することにした。
外からは野球部の掛け声がする。日は傾きだして、下校の時間が迫っていた。
「カバディ(最近どうなの、大会の方)」
「カバディ(うーん、正直微妙。そっちは?)」
「カバディ(私の方もあんまりかなぁ、連携とかもまだバラバラだし。あ~~気分下がってきたぁ……)」
そう言ってルカはあからさまな泣き真似をして見せて、サラリーマンみたいにスポーツドリンクをグイっと飲み干した。
うちの高校のカバディ部は毎年成績が芳しくない。健闘はするが、いつもせいぜいが県大会止まりだった。そんな中で、俺もルカもがむしゃらに取り組んで、時に慰め合って、時に励まし合ってきたが、それでも成績はなかなか伸びず、いつの間にか最後の年になっていた。正直なところ、俺はかなり弱気になっている、のかもしれない。もしくは焦ってるのかも。
「カバディ(でも、負けたくないな)」
ルカは真っすぐ、コートを見つめていた。思えば、ルカが時折見せるこの表情に俺は何度も救われていた気がする。
「カバディ(じゃ、もう一回するか)」
俺がそう言って立ち上がると、ルカも嬉しそうに頷いて立ち上がった。
今のスコアは俺が二十五勝二十五敗、引き分けだ。つまり、次で今日の勝敗が決まる。
お互いに構える。細やかにステップを踏みながら、肺活量を抑えてあの言葉を唱えた。
「「カバディ、カバディ、カバディ……」」
ルカは先ほどのレイドと同じようにサイドステップを踏んだ。これはまた左に飛び出すパターン。しかし、さっきのことを考えるに飛び出しを予測してルカはその更に裏をかいてくるだろう。向こうも俺の警戒を感じ取ったのか、すっかりフィールドは膠着状態になった。
ルカが俺を見る。俺もただ、彼女を見る。
「カバディ、カバディ」
そのとき、不思議な気持ちが湧いて、すべてが繋がった気がした。
なんでルカのカバディを、俺が聞き取ることができたのか。その意味が分かった気がする。
ああ、そうか。そうだな。そうかもな。
俺は、こいつのことが。
グンッ、と足に力を入れて、大きく一歩、脚を前に出した。ルカもそれを感じ取って左に避けた。しかし今回、おれは突っ込まずにルカの前で静止する。唐突に動きが止まった俺を、ルカは不思議そうに見つめていた。警戒しているのか、ステップは続いている。
俺は一度息を吸って、自分の気持ちと一緒に、吐き出した。
「カバディ、カバディ(瑠香、好きだ)」
「カッ……!(なッ……!)」
驚いたルカは一瞬ぴたりと止まってしまう。おれはじりじりと距離を詰めた。
「カバディ、カバディ!(ちょっと、そういう作戦は卑怯なんだけど!)」
「カバディ(作戦じゃない、もし俺が全国に行けたら、付き合ってくれ)」
ルカはすっかり動揺して、ステップにもキレがなくなっている。
「カバディ、カバディ(どうして、どうして私なの?)」
そう問うルカの語気は、明らかに荒くなっていた。
「カバディ(それは、お前がカバディが真剣で、俺はそれに惚れてしまったからだ)」
俺はルカへ向かって駆け出す。真っすぐではなく大きく右から回って、彼女を中心にすっかり立ち位置が逆になったところで、俺は素早く切り返してルカの先にある自陣へ向かって突っ込んだ。そのまま姿勢を低くして、スライディングの体制に移行する。
ルカも瞬時に対応して、両足で踏み切るポーズをとった。ジャンプで避けるつもりだろう。相変わらず、期待を裏切らないヤツだ。
けど俺は、そのスーパープレイを待っていたんだ。
バンッ! と掌で地面を突き、身体を回転させながら跳ね上がった。伸ばした手は、綺麗なジャンプを決めたルカに届こうとしていた。
「カバディ(俺は)、カバディ(お前が)、カバディ(好きだ)!!!」
全身に力を入れて、いつもより少しだけ強く伸ばした俺の手は、ほんの僅かな差で、ルカのシューズに触れる。スライディングの勢いを逃さぬまま、俺は自陣に戻った。
俺はすっかり息を切らしていた。
ルカの方を見ると、彼女もかなり体力を消耗したらしく、肩で息をしている。けれどその表情は満足そうで、こちらを向き直して一言、「ずるい」と俺の告白を一蹴した。
「でも、大会。絶対勝って」
そう言って彼女は手の甲で顔を隠した。気のせいかもしれないが、手の隙間から覗くルカの頬には仄かに朱色が差していた。
「私も、その、カバディ……だから」
二つ。タッチした選手は、相手陣営に阻まれずに自陣へ帰ってくると、得点になる。
三つ。一連の動きの中で、レイドを行う選手は必ず「カバディ」と言わなければならない。
これが分かれば、君もインドのスポーツ『カバディ』を、最低限は楽しむことができるだろう。
放課後の第二体育館に、シューズの擦れる甲高い音が響いている。そのど真ん中、四角く線で括られた場所で、俺とルカは互いに向かい合って、軽いステップを踏んでいた。ルカはなかなか、俺の間合いに入ってくれない。相変わらず手強いヤツだ。ならば俺がルカを間合いに引き摺り込むしかない。
俺は今レイド側、レイダーだ。グッと足に力を入れて、ある一つの言葉を唱えながら大きく一歩を踏み込んだ。これがないと、得点が決まったことにならない。
「カバディ、カバディ、カバディ」
俺が仕掛けたのに反応して、ルカは細やかにサイドステップを踏んだ。フェイントをかけるらしいつもりらしいが、その手には乗らない。
アイツはいつもフェイントをかけるとき、左に飛び出す癖がある。利き手が自由になるからだ。俺はルカの挙動を無視して左に突っ込み手を伸ばす。予想通り、ルカは少しフェイントを挟んで左へ飛び出してきた。
このままいけば、放課後の五十戦に渡る勝負は……俺の勝ちだ!
「カバディ!」
しかしここでルカは脚をしなやかに折り曲げ、姿勢を低くした。わかりやすく言えば、飛び出した体勢からスライディングに切り替えたといった感じだ。そのままルカは俺の攻撃を躱わし、俺はそのまま勢い余って顔面から体育館の床にダイブしてしまった。痛い。
「ったぁ……」
俺とルカは、男子カバディ部と女子カバディ部のキャプテンだ。おそらく男女合わせても、俺たち二人がこの学校の中で最もカバディに熱中していると言っても過言ではない。だからカバディには混合種目はないけれど、放課後にこうして俺とルカは二人で一対一のレイド練習をしている。
本当は他の部員もこれくらいやって欲しいのだが、俺はこの二人きりの時間が、まるでルカと自分だけの共通言語を持っているような感じがして嫌ではなかった。
いや、この比喩はいささか間違っているかもしれない。なぜなら。
「カバディ(惜しかったねぇ、浩介)」
「カバディ、カバディ(クッソ、ルカお前……裏の裏をかいてきやがって!)」
「カバディ、カバディ?(あはは、こんだけ連戦してんだから流石に慣れてくるでしょ)」
これで会話が出来るからである。
俺たちはカバディにのめり込むあまり、『カバディ』という単語のみで話が成立するようになっていた。
時期は忘れてしまったが、ある日からルカの発するカバディが「好きだ!」に聴こえたのが全ての始まりだった。ルカが言うには「私、カバディが好きだからさ、いっつも感情を込めて言ってるんだよねっ」だそうだ。俺も同じようにほかの部員にも試してみたが、結局ルカにしか伝わらなかった。
しかしこれはなかなか便利で、レイドの時は基本、途中で指示を受けたり出したりことが出来ないのだが、これなら相手に気付かれないように指示が出せたりする。あとは練習中にちょっとした雑談ができたりとか。まあ、俺とルカは競技区分が違うので実際に役に立ったことはない。
息を切らしていた俺に、ルカは自分のバッグから予備のスポーツタオルを取り出して投げつけた。使え、ということらしい。遅れて「カバディ(ちゃんと洗って返して)」と声が飛んでくる。俺たちは体育館の端っこに並んで座って、小休止することにした。
外からは野球部の掛け声がする。日は傾きだして、下校の時間が迫っていた。
「カバディ(最近どうなの、大会の方)」
「カバディ(うーん、正直微妙。そっちは?)」
「カバディ(私の方もあんまりかなぁ、連携とかもまだバラバラだし。あ~~気分下がってきたぁ……)」
そう言ってルカはあからさまな泣き真似をして見せて、サラリーマンみたいにスポーツドリンクをグイっと飲み干した。
うちの高校のカバディ部は毎年成績が芳しくない。健闘はするが、いつもせいぜいが県大会止まりだった。そんな中で、俺もルカもがむしゃらに取り組んで、時に慰め合って、時に励まし合ってきたが、それでも成績はなかなか伸びず、いつの間にか最後の年になっていた。正直なところ、俺はかなり弱気になっている、のかもしれない。もしくは焦ってるのかも。
「カバディ(でも、負けたくないな)」
ルカは真っすぐ、コートを見つめていた。思えば、ルカが時折見せるこの表情に俺は何度も救われていた気がする。
「カバディ(じゃ、もう一回するか)」
俺がそう言って立ち上がると、ルカも嬉しそうに頷いて立ち上がった。
今のスコアは俺が二十五勝二十五敗、引き分けだ。つまり、次で今日の勝敗が決まる。
お互いに構える。細やかにステップを踏みながら、肺活量を抑えてあの言葉を唱えた。
「「カバディ、カバディ、カバディ……」」
ルカは先ほどのレイドと同じようにサイドステップを踏んだ。これはまた左に飛び出すパターン。しかし、さっきのことを考えるに飛び出しを予測してルカはその更に裏をかいてくるだろう。向こうも俺の警戒を感じ取ったのか、すっかりフィールドは膠着状態になった。
ルカが俺を見る。俺もただ、彼女を見る。
「カバディ、カバディ」
そのとき、不思議な気持ちが湧いて、すべてが繋がった気がした。
なんでルカのカバディを、俺が聞き取ることができたのか。その意味が分かった気がする。
ああ、そうか。そうだな。そうかもな。
俺は、こいつのことが。
グンッ、と足に力を入れて、大きく一歩、脚を前に出した。ルカもそれを感じ取って左に避けた。しかし今回、おれは突っ込まずにルカの前で静止する。唐突に動きが止まった俺を、ルカは不思議そうに見つめていた。警戒しているのか、ステップは続いている。
俺は一度息を吸って、自分の気持ちと一緒に、吐き出した。
「カバディ、カバディ(瑠香、好きだ)」
「カッ……!(なッ……!)」
驚いたルカは一瞬ぴたりと止まってしまう。おれはじりじりと距離を詰めた。
「カバディ、カバディ!(ちょっと、そういう作戦は卑怯なんだけど!)」
「カバディ(作戦じゃない、もし俺が全国に行けたら、付き合ってくれ)」
ルカはすっかり動揺して、ステップにもキレがなくなっている。
「カバディ、カバディ(どうして、どうして私なの?)」
そう問うルカの語気は、明らかに荒くなっていた。
「カバディ(それは、お前がカバディが真剣で、俺はそれに惚れてしまったからだ)」
俺はルカへ向かって駆け出す。真っすぐではなく大きく右から回って、彼女を中心にすっかり立ち位置が逆になったところで、俺は素早く切り返してルカの先にある自陣へ向かって突っ込んだ。そのまま姿勢を低くして、スライディングの体制に移行する。
ルカも瞬時に対応して、両足で踏み切るポーズをとった。ジャンプで避けるつもりだろう。相変わらず、期待を裏切らないヤツだ。
けど俺は、そのスーパープレイを待っていたんだ。
バンッ! と掌で地面を突き、身体を回転させながら跳ね上がった。伸ばした手は、綺麗なジャンプを決めたルカに届こうとしていた。
「カバディ(俺は)、カバディ(お前が)、カバディ(好きだ)!!!」
全身に力を入れて、いつもより少しだけ強く伸ばした俺の手は、ほんの僅かな差で、ルカのシューズに触れる。スライディングの勢いを逃さぬまま、俺は自陣に戻った。
俺はすっかり息を切らしていた。
ルカの方を見ると、彼女もかなり体力を消耗したらしく、肩で息をしている。けれどその表情は満足そうで、こちらを向き直して一言、「ずるい」と俺の告白を一蹴した。
「でも、大会。絶対勝って」
そう言って彼女は手の甲で顔を隠した。気のせいかもしれないが、手の隙間から覗くルカの頬には仄かに朱色が差していた。
「私も、その、カバディ……だから」