zorozoro - 文芸寄港

東京メトロノーム

2024/06/06 14:20:09
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「死して、ゆえに自由を得るか、生きて、なおも地獄に居続けるか。」
 これまでに幾度自分に問いただろうか。マンションのベランダで、洗剤を流したあとの包丁の光沢の中で、通過電車の到来するホームの黄色い線の内側で、僕の頭の片隅に不意に浮かび、そしてジワジワと心に実感を持って広がっていく問い。
 しかし、そのたびに情けなく後者を選び続けてきたからこそ、僕は未だにこうしてここに生きている。そのことを天命かのように喜べるときもあれば、そのことを心の底から憎悪するときもある。
 そう、僕は、ささいなことですぐに歓喜し、ささいなことですぐに絶望する。
 つまり、僕は、弱い人間だ。


 厚い雲の天蓋が月明かりと星々を隠している。車窓に薄く反射した自分の顔ごしに、陰鬱な黒い空の下、渋谷のビル群の無数の光が煌々と瞬いているのがまぶしい。無造作に散らかった光の粒は黒い海に揺らめくようで、騒々しく、目に染みた。山手線内回りの列車は光る海をゆるやかに左に曲がりながら進んでいく。
 車内は、同じように帰路につく大学生や、くたびれた表情のスーツ姿の社会人、ポーカーフェイスの老人などで、みな肩を狭めて、出荷される養豚場の豚のようにひしめき合っていた。暑く、苦しく、鬱陶しい。列車が駅につき、扉が開くたび、大量の人が降りては大量の人が乗ってくる。そのたびに鞄は押しつぶされ、靴は踏まれ、疲労感と鬱憤は蓄積されていく。

 あ。
 なんとか品川まで乗り続け、背中の熱と圧力に押されながら電車から降りようとしたとき、右耳に差していた無線イヤホンが取れた感覚がした。はっと後ろの床を振り返ると、さっきまで耳についていたはずの白い小さなイヤホンが、革靴やブーツやスニーカーの群れの中に吸い込まれていくのが見えた。それは誰の気にも留まらないまま、踏まれ、蹴られ、見えなくなっていった。
 やっぱり、東京なんか来るべきじゃなかった。
 ため息さえ出なかった。

 自分と自分の周囲との「リズム」がまるで合わなくなるときがある。社会の中で、未来という一方向に続く舗道を走る人々の歩幅と自分の歩幅がどうしても合わない。世界が一様のリズムを刻んでいる中で、一人ポツンと取り残されている錯覚に陥る。いくら再び自分の刻むリズムを周りに合わせようとしても、上手くかみ合わない。合奏中、ふと一人だけリズムに置いてかれ、追いつこうと思っても、もう周りがどこを演奏しているのかわからない。そのまま、周囲のリズムの狭間にこぼれて、永久の孤独にさまようような感覚すら覚える。舞台のスポットライトがまぶしく、額をとめどない冷や汗が流れ落ちる。観客の目には自分の狼狽ぶりが憐れに映っていることだろう。
 ときおり、そういう日がある。周囲と一切リズムの合わない日。都会の夜景を鬱陶しく感じる日。満員電車で靴を踏まれる日。イヤホンが雑踏に踏みつけられて消えていく日。
 僕は人ごみから離れてホームの端のベンチに腰掛けた。過呼吸になりそうな胸をなだめる。品川駅は人だけでなく電車の往来さえも騒がしく、常にどこかからひっきりなしにアナウンスが聞こえてくる。ホームの屋根越しに外を見上げても、そこには暗黒の中にそびえ立つ巨大なビルがあるだけで、閉塞感に胸の奥の小さな何かがきつく締まる感触がした。ほろり、と頬に冷たい何かが触れた。気づかぬうちに涙が出ていた。
 ここから蒲田駅まで満員電車を3駅、アパートまで徒歩15分。帰る気力など微塵も残っていなかった。僕はそのまま気の抜けた顔で、1番線のホームの端のベンチに深い根を張ったようにずっと腰かけたままでいた。何本もの電車が止まり、何人もの人が降りて乗り、そしてまた何本もの電車が出ていった。一〇月の東京の夜は、僕をベンチに取り残したまま、ゆっくりと更けていった。

 なんとかアパートまでたどり着いたときはもう深夜だった。もちろんこういう日はいまが何時だとか、そういう感覚自体がなくて、ただ惰性で家に流れ着いたようなものだった。時計は0時30分を指している、しかしそれは実感からは遠く離れた、概念としての数字でしかないように思えた。
 アパートの古びた階段を上り、玄関を開けた先に待っていたのは、よどんだ空気と散乱した紙束と朝に脱ぎ捨てたままの服だった。僕は床に散らかった紙束を広い、ざっと目を通してから丸めてゴミ箱に棄てた。コピー用紙や大学の講義のレジュメの端に殴り書きで書かれていた小説のアイデアは、どれもありきたりで短絡的、その上リアリティがかけらもなく、無価値極まりなかった。
 僕は左耳だけになったイヤホンをしまい、スマホをスピーカーにつないで音楽を流した。
 散らかった服を洗濯カゴに押し込み、使えそうないくつかのシナリオのメモは角を揃えて机に置く。カーテンと窓を全開に開け放つと、通りの向かいのLEDの街灯が夜闇の中まぶしく光っているのが見える。スピーカーから溢れ出る音符は、暗い陰鬱な空の、さらにその上を目指して、僕の体を通り抜けていく。
 明日は、由奈さんがうちに来る。
 由奈さんは、昔のバイト先で社員だった人だ。今では友達。僕の数少ない東京の友達。そして、あこがれの人。
 僕は立てかけていたコードレスの掃除機を手に取って、8畳半のひと間を隅から丁寧に掃除していった。
 今部屋を片付けておかなくても、きっと彼女は明日一緒に喜んで手伝ってくれるだろう。あるいは、もし今掃除していることを知ったら、わざわざ掃除なんてしなくてもいいのに、と言うかもしれない。だから僕は掃除をする。彼女が前に来た時と変わらないような状態に。彼女に気遣われたら、僕はいつも返事に窮してしまう。困った顔になってしまう。
 由奈さんは、恋人ではない。あくまでもあこがれの人、なのだ。僕は彼女のことを好きだと思う。愛しているか、と聞かれればわからない。けれど、今の関係性は心地よいと思っている。ひと月に1、2回会って、日帰りでどこかへ遊びに行ったり、家でお茶するような関係。僕の性指向が男性だったら、間違いなく彼女は僕にとって一番の親友になっていただろう。
 僕は一通り掃除を終えると、カップに紅茶を入れて、小さなライトグリーンのソファーに腰を下ろし、スピーカーに耳をすました。紅茶からは静かに湯気が立っていて、顔を近づけるとかぐわしい香りが鼻腔をかすめた。僕は目をつぶり、より匂いを味わう。少し酸味のあるフルーティーな優しい香りの奥に、奥ゆかしい深みのある茶葉の香りがする。由奈さんは紅茶とコーヒーが好きだ。これは彼女のお気に入りのセレッシャルなんたら、とかいう輸入商品らしい。僕の家の冷蔵庫横からストックがなくなると、彼女はコーヒー豆と一緒に毎回忘れずに買ってくる。僕は全身の力を抜いて、ソファーに背中をあずけた。バラードの歌声が僕の身を包む。その歌詞の意味をひとつひとつ、たしかに咀嚼する。

 こうしたゆとりのある時間に、僕は支えられていると思う。こういう時間には、リズムがないからだ。時間が秒や分といったリズムとして刻まれる不自然さのない、連綿たる時の流れ。本来時間とはそういうものなのだ、と僕は思う。このしなやかに流れる時間を単位で刻み始めたのは、ここ百年ちょっと、産業革命以降でしかない。それまで時間とは、川の流れのように途切れのない、悠久そのものであった。いや、時間の本質は今もそうであるはずだと思う。少なくとも僕の脳の構造は、定量的に時間が刻まれ続ける世界には不向きなものだった。
 僕は熱い紅茶を一口含んで、味わった。気づけば曲のプレイリストは一周している。ブルートゥーススピーカーは、指定されたプレイリストをぐるぐると、連綿と繰り返す。

 僕は次の日も大学に行かなければならなかった。1限に出るには8時の電車に乗らなければならない。僕は7時前に起きていたが、朝から満員電車に乗る気が起きず、昨夜仕込んだ炊き込みご飯を茶わんによそってゆっくり食べることにした。炊飯器を開けると、もわっとした湯気とともに、食欲のそそる香ばしい匂いが僕の顔を包んだ。子供の頃、食卓に炊き込みご飯が出てくるととてもラッキーな気がしたものだ。白一色のいつもの白米とは違う、それだけで心躍ったものだった。
 炊き込みご飯は一人暮らしの朝食に最適だとつくづく思う。前日の夜に、切った野菜とツナ缶と醤油と酒とみりんを、研いだお米の上に乗せて、ボタンを押すだけで済む。美味しく、香りも良い。そして一品で済むのでおかずを作る必要もない。そういうわけで、僕はこの東京生活の二年半ほどを、毎朝炊き込みご飯を食べて過ごしてきた。
 僕は食器を洗い終えると、カーテンを開いて窓の外を眺めた。相変わらず雲は空を覆っていたが、西の空には晴れ間も見え、天気は悪化しなさそうに思えた。僕はゆっくりと歯を磨き、ゆっくりと着替え、2限に間に合う時間に家を出た。
 渋谷駅で降り、大学の門で生徒証を見せ、B棟に向かう。今日の英語の授業はPCの置いてある部屋での授業だった。白い清潔な壁、青みがかったグレーの絨毯。廊下を進んだ先の、412―Aと横に書かれたドアの少し手前で、はたと僕は立ち止まった。いびつな感情がふと胸に湧き上がってきたのだ。薄暗い教室の中には、沢山の学生がいる。すべての机の上に一台ずつパソコンが並べられ、それらから伸びる配線の数々が、廊下と同じ素材の絨毯の上を縦横無尽に走っている。言いようのない嫌悪感が僕の全身を包み始めた。学生同士の喋り合う声が、何重にも重なって、騒々しく僕の耳の中で反響する。昼にもかかわらず薄暗い部屋の中、ただでさえ狭い机にところせましと並べられたパソコンの山脈、青みがかったグレーの絨毯の上をくねくねと跋扈するコードの群れ。まさにそこは異界の深い森のようであった。教室に一歩でも足を踏み入れてしまえば、もう帰ってこられないような、そんな深い霧のかかった森の不気味さを、この教室は湛えているように思えた。せめてもう少し部屋が明るければ、せめてもう少し中にいる学生が少なければ、せめて床が青みがかったグレーの絨毯でなければ。言い訳がましいかもしれないけれど、そうしたすべての要因は僕にとって恐怖の対象となりえたのだった。立ち尽くしたまま、たちまち僕の身体の節々は痛みだし、頭はグワングワンと揺れるような感覚を催し出した。僕は引き返した。結局、自分の恐怖に打ち勝つことはできなかった。僕はああいった場所が苦手なのだ。鬱蒼として混然とした、自分の知らないものに囲まれる場所が。みんなは平気な顔をして入っていくけれど、僕にはそれができないときがある。誰しも得意不得意はあるというけれど、この類の不得意は時に生活に支障をもたらすものだったりもする。そうなったとき、僕はひどくいたたまれない気持ちになる。自分がとても惨めで、情けないように思える。実存への実感がなくなって、踵を返し進む自分の足は、自分の意志とは関係なく動いている感覚がする。
 この漠然とした恐怖は何なのだろう。何か大学で嫌なことがあったわけでもない、友達だっている、でも、なぜか怖いのだ。生に対して感じる重み、みたいなものが心の底の方に深く沈んでいる。そしてそれはときどき僕の足に絡みついてきて、僕自身を暗い沼の底へ引きずり込もうとするのだ。
 なぜみんなができることが僕にはできないのだろうか。なぜ教室に入って静かに座っていることすらできないのだろうか。僕は短い歩幅で、俯いて歩道を歩いていた。薄明るい昼の青山通りを、車が過ぎてゆく。歩道を歩く僕の横を、中年のサラリーマンが走ってゆく。体が重い。息がしづらい。どうしてこうも気分がすぐれないのだろうか。まるで、天井の低い部屋でずっと首をかがめながら生活しているみたいだ。正体のわからない暗い塊が、心に低い蓋をかざしている。この塊はなんなのだろう。なぜこうなってしまうのだろう。なぜこんなにもしんどいのだろう。なぜ僕はこの社会に生きているのだろう。答えのない暗く重い無意味な問いが、思考の大部分を占領し始める。いくら考えてもわからない、状況を余計に悪化させる問いが、頭にまたひとつ、またひとつ浮かんでくる。足取りがさらに重くなる。僕はこのまま家に帰って、いったいどうするというのだろう。どっと疲労感が全身を覆っているようだった。そうして疲労を感じるたび、再び僕は情けない気持ちになるのだった。



 聞きなれたバイクのエンジン音が、すぐ家の近くまで来て止んだ。僕はそれを聞き、由奈さんが到着したのを察する。
「おじゃま~!!」
 ノックが6回されたのを聞き終えて、僕は鍵を開けて由奈さんを向かい入れる。
 6回なのは、6回も叩く人は他にいないであろう、という、由奈さんが決めた僕らなりのサインだ。ピッチャーとキャッチャーが指の出す本数でサインを伝え合うように、僕らにとっては6回のノックがお互いの証であった。
 彼女がコートをかけている間に、僕はミルにコーヒー豆を入れ、ハンドルをくるくるとリズムよく回しはじめた。こうばしい強い香りがあたりにぱっと咲く。その匂いはハンドルを回すたびに広がっていき、まるでキッチン全体がコーヒーの香りに包まれているような錯覚すら覚える。サントスだとかなんとか言う豆らしい。ブラジル産の有名なブランドだそうで、由奈さんのお気に入りだ。
 洗面所で手洗いうがいを済ませた由奈さんは、何も言わずにドリップポットにウォーターサーバーの水を入れ、火をかけた。手際よく棚からフィルターとドリッパーとサーバーと2人分のカップを出してセットし、カップにお湯を注いだ。由奈さんいわく、あらかじめカップを温めておいた方が温度が下がりにくくて美味しく飲めるらしい。もちろん僕にその味の違いなど分からないが。僕は豆を挽き終えると、それを計量スプーンで3杯フィルターの中に入れる。「いい香りだね」と由奈さんがこちらを見て微笑んだ。肩までの柔らかな髪が微かに揺れる。甘酸っぱい、深みのある奥ゆかしい微笑み。由奈さんの微笑みはまるでこのコーヒーのようだ。サントス的笑み。僕は由奈さんのことと同じくらい、このコーヒーを作る時間、このコーヒーを作る空間が好きだった。シュッと音がして、ドリップポットの細い口から蒸気が吹き出る。すばやく由奈さんは火を消して、フィルターの中のコーヒーの粉に、中央から外へ円を描きながら丁寧にお湯を注いだ。「97℃が一番おいしいんだよ。」と、白いきめ細やかな泡を立てるコーヒーに向かって由奈さんは語りかける。

 やはり、由奈さんと飲むコーヒーは格別だなあと思う。由奈さんと過ごす時間は、きめ細やかな布地のようで、僕を優しくつつみこんでくれる。何かに急き立てられることもない、緩やかな時間の流れ。
 僕はソファーに座って、由奈さんはベッドに腰かけて、小説のページを繰っている。それぞれの手元には、湯気の立ったコーヒーが、優しい香りを放って置かれている。
 いま僕は、夢野久作の『ドグラマグラ』を読んでいる。ヘンテコな話だ。記憶をなくし、精神病棟に入れられた主人公が、教授と会話しながら精神病とはなにかについて迫っていく話。かと思えば、今度は教授の先生の歌が始まる。論文が始まる。映画が始まる。きっと何かの伏線なのだろうが、展開が突然すぎてよくわからない。ただ、ときどき独特過ぎる文章表現に思わず笑ってしまう。もちろん内容は、至ってシリアスなのだが。そして内心、どこか自分のことを言及されている気分にもなる。しかしそれは、決していやな類の気分ではない。むしろ、精神に何か問題を抱えている人はいつの時代でも生きにくいものだ、という小さな同情心で、僕の胸に少なからずあった「つっかえ」が和らぐようだった。

「映画見ない?」
 キリの良いところまで読み終わったのか、不意に由奈さんが声をかけた。いつの間にか、まだ明るかった外は夕暮れに変わり、コーヒーはとうに無くなってカップの底に乾いた茶色が残るだけになっていた。
「これ、めっちゃ良いらしいよ。」
 そういって彼女は大きなiPadをソファーの前の小さなテーブルに立てて置いた。僕たちはソファーの前のカーペットに肩を並べて座った。由奈さんの肩が少しだけ僕の腕に触れる。僕はすこし昂揚して、思わず視界の端で由奈さんの横顔を見遣った。由奈さんはそんな僕の気持ちなど気に留めることもなく、再生ボタンに指を動かす。一瞬、目が合ったような気がした。心の底が覗かれたような気がして、僕は瞬間に緊張する。この人は僕の気持ちをどれだけ見透かしているのだろうか。しかし、結局のところそれは直接聞かなければわからないし、直接聞けばそれは愛の告白のような体裁になってしまう。だから、それは分からないことなのだ。見透かされていてもいなくても、そのことは大した問題ではない。僕のことを気が合う仲間と思っていてくれるなら、それで十分だ。僕はそう決めて背筋を伸ばし座り直した。やがてタブレットから音楽が鳴り出し『きっと、うまくいく』が始まった。

「…めっちゃ…よかった。」
 僕は鼻の詰まった声で、未だ冷めやらぬ感動を由奈さんに伝えようとした。
「ほんとに、ね。『オールイズウェル』っていい言葉ね。私もつらいとき自分に呟くことにしようかな。…ってちょっと、泣きすぎじゃない!?」
 由奈さんはすこし驚いたような顔でそう言ってティッシュボックスを僕に差しだした。僕は由奈さんに背を向けて鼻をかむと、再び振り返って、「めっちゃ泣いちゃった」と笑った。
 僕は映画とか小説とか音楽とかに、すぐに涙してしまう。主人公やその感情、作品の世界観にのめり込みやすいのだ。
 それらを芸術と呼ぶのなら、僕は芸術を現実逃避の手段と呼びたい。芸術の中では、僕らはその登場人物になることができて、現実に起こるつらいことや眼前に横たわるあらゆる苛酷や悲惨から目を背けていられる。死してゆえに自由を得るか、生きてなおも地獄に居続けるか、そんな問いを完全に忘却することができる。もしかしたら僕は、元来から芸術にのめりこみやすいのではなく、生きるための適応としてそういう様になっていったのかもしれない。
 由奈さんも、映画や小説といった芸術が好きで深く精通しているけれど、決してそれは僕のような狂信的なものではないはずだ。由奈さんは、映画や小説や音楽を何のために見るのだろうか。単なる1コンテンツとして考えているのだろうか。気になったが、映画の余韻の残るこの空気感に水を差したくなくてどうも聞けなかった。
「喉乾いたからちょっとお水取ってくる。」
 しばらく感想を喋り合っていたからか、てっきり喉が渇いてしまった。そういえばコーヒーは飲み物なのに、飲んでもすぐに喉が渇く気がする。以前何かの海外の記事で、コーヒーは飲んでも喉が渇くから飛行機に乗る前に飲むのはよくない、みたいなものを目にしたような。
「泣きすぎたからじゃん?」
 後ろから由奈さんが茶化してくるのが聞こえる。
「かもしんない。」
 とそれに笑って返しながら、僕は棚からコップを取り出してウォーターサーバーの水を注いだ。
「あっ!」不意にコップを持つ手が滑り、コップから水が盛大にこぼれた。こぼれた水は木目調のフローロングの上に水たまりをつくっている。「ちょっと、も~」由奈さんは、コップを片手に床を見つめる僕を見て、苦笑いして腰を上げた。僕は掛けてあったタオルをとって水をふき取りながら「オールイズウェル、オールイズウェル」と言って由奈さんを見遣る。
「いま見たばかりの映画をすぐに引用しないでよ、こういう時の便利な言葉じゃないでしょ~ただの水でよかったね」
 由奈さんも笑って、一緒に水をふき取ってくれた。
「ありがと。こういう時に使う言葉でしょ、ほら、唱えたおかげで万事休す!」
 拭き終わって僕はおどけて言うと、由奈さんは肩をすくめて大げさに渋い顔をしてみせた。

「じゃあ、またね!」
 21時を少し過ぎたころ、由奈さんは掛けていたコートを羽織ってタブレットを鞄にしまい帰っていった。扉が閉まり、アパートの階段を下りる足音だけが一人になった部屋に響く。単気筒のエンジン音が遠ざかっていったあとには、やがて静けさだけが広がった。
「気を付けて帰ってね!来月の予定はまた分かったらラインするよ。」僕はそうラインを彼女に送ると、ベッドに仰向けになった。
 天井の白い素材が、円い蛍光灯に照らされている。僕は幸せを噛み締めるように、深く深呼吸をした。まだほのかに残るコーヒーの香りの中に、微かに女の人の匂いが感じられるような。高い山に人知れず咲く、花弁が雪のように白い小さな美しい花を想像した。なぜ女の人はこのような良い匂いがするのだろうか。決して直接匂いをかぐことはなくとも、こうして部屋に残された由奈さんの香りで僕は十分に満足を得た。もう一度ゆっくりと深呼吸をすると、再び小さな幸せが微かに鼻腔をかすめるようだった。僕は幸せな気持ちとともに、ゆっくりと夜に沈んでいく感触を味わった。由奈さんが帰ったあとの夜は、凪いだ海のようにどこまでも静かで、どこまでも孤独だった。僕の心はいつになく落ち着くようだった。そうして、ゆっくりと目を閉じてみる…。



「お前さ、大学ちゃんと行けてんの?」
 もつ鍋を挟んでテーブルの反対側に座る祥吾は、ビールを一口飲んでから、心配そうに眉をひそめて僕の目を見つめた。
「ん~、微妙な感じではあるけど、このままだったら何とか進級はできそうかな。」
 僕はさも当たり前のことのように返したが、祥吾の目を見返すことはできなかった。彼は真剣に僕のことを案じているのだ。僕は東京に飛び出してきてから二年半、精神の不調もあって上手く大学に通えていない。
「まだ後期始まってばっかだし、できる科目からでいいからがんばれよ。同じ授業のノートなら、来てない分はおれの見ていいからさ。」
 祥吾は大学の友達で、本来は一つ下の学年だ。僕は1年生を2回やっていて、その2回目のときに入学してきた。彼と僕は雑学好きが共通して仲良くなり、今もときどき二人でこうして居酒屋に来ては、酒のあてにいろんな話を展開している。
「ありがとう。頑張ってみるよ。だんだん良くはなってきているとは思う。ただ、なんというか、自分でもなんで行けなくなってしまうかがわからないんだ。どうしても無性に気分がすぐれない日がある。」
 僕はここまで言って後悔した。心を占める暗い感覚は、自分にもわからない。彼に伝えたところで困惑させてしまうだけだ。
「そっか。…あの、こんなことを言っていいのかわからないけれど、でもなんとなく、分かるよ、その気持ち。おれはそんなしょっちゅうじゃないけれど、訳もなく悲しくなるときあるもん。なんの理由もないんだけどね。なぜか全てが空しく、夢うつつに感じてしまうような時がさ。」
 彼はそう呟いて、もつ鍋をつついた。その言葉は本当なのか慰めの気遣いなのかは僕にはわからない。ただ、彼がそう同情して言ってくれたのは嬉しかった。祥吾は基本的に優しく、一緒にいると心が落ち着く。僕は肩の力を抜いたような安堵感を感じながらビールを口に運んだ。生ビールより瓶の方がおいしいというのが僕の持論だ。
 そんなことを考えながら味わっていると、そういえばさ、と祥吾が思いだしたような口調で呟いた。
「なに?」
「その由奈さんって人とはどうなの?うまくやってんの?」
 祥吾はさも興味なさそうな素振りで、しかし返事は決して聞き逃さないような様子でそう聞いた。
「ん~、まあ、そうだな、なんというか、仲良くやってるよ。」
 たしかに祥吾にはたびたび由奈さんの話をしていたのだった。しかし不意打ちを受けたようで僕は返事に窮した。仲良くやってる、とは思う。けれど、うまくやっているか、と言われれば微妙なところだ。現状に満足してはいるが、正直由奈さんと出会ってから二年半、関係はなに一つ進展していないような気がする。進展させる気がないわけではないが、今以上の関係を構築したいと強く願っているわけでもないのだ。

 由奈さんとは二年半ほど前、派遣会社でバイトをしていた時に出会った。色んな派遣業務をしている会社だったが、僕が担当したのは蒲田駅前のドンキホーテでクレジットカードを勧誘する、といったものだった。時給は1400円と、東京に来たばかりの僕にとっては信じられないほどの高給で、僕は友人から紹介されるなりすぐに申し込んだ。由奈さんはその派遣元の会社の社員で、派遣社員とバイトを取り仕切っていた。
 初日からの研修の担当が彼女だった。忙しい中で丁寧に業務内容を教えながらも、堂々とお客と接する姿はまさに僕の抱いていた大人の社会人像にぴったりで、そこにたまに見えるやさしさから、僕の彼女への第一印象は素敵な大人そのものだった。
 その日は五月の初旬で、蒲田駅前のロータリーに植樹されたクスノキは春の落葉を終え、落ち葉がそよ風にメロディを奏でていた。夜空には明るい月が浮かび、蒲田の駅前は鮮やかなネオンと賑やかな人々で溢れていた。僕の胸には疲労感よりも達成感が満ちていて、目に映る町並みは、さながら「眠らない街東京」だった。
「なんでここでバイトしようと思ったの?」
 このときはまだ、後ろで一つに結んでいた髪を揺らし、由奈さんは僕を見つめて、そう尋ねた。
「やっぱり、時給ですかね。」
「貯まったらなにか欲しいものあるの?」
「ん~…。」
 僕は今欲しいものをいくつか考えようとしたが、思い当たるのは何もなかった。そのまま僕が黙り込んでしまうと、由奈さんはこっちを見て、少しニヤっと笑って言った。
「ねえねえ、じゃあさ、バイク買うとかどう?東京は電車は混んでるし道は狭いしで不便だけど、バイクあると案外便利だよ。まあ、道が混んでるのと冬寒いのはシンドイところだけれど、なかなか走ってるのも気持ちいし。」
 そう言うと由奈さんは目を閉じて顔を少し上げ、そよ風の匂いを嗅ぐようにした。
「由奈さんは乗ってるんですか?」
 僕はその横顔に問いかける。
「そうだよ。都会って長くいると窮屈な感じするけどさ、バイクに乗ってて風を感じてるときは、自分だけの小さな自由を感じられるような気がするんだよね。」
 自分だけの小さな自由。由奈さんはそれをとても素敵なことのように言った。ふふっと笑う横顔を見ると、なんだかこちらまで自由を得たような気分になる。
「どうして、僕に勧めるんですか?」
 やや間をおいて、僕は尋ねた。その間僕は、通りのネオンを反射していろんな色に染まる由奈さんの横顔を眺めていた。
「ん~、ツーリング仲間がいないのよ。まあまずは、免許を取らなくちゃね。」
 そうやって思いついたことを何でも話してくれるところが、由奈さんの魅力ひとつでもあった。

 しかし次の日が終わったころには、疲労感は僕の全身を覆うほどになり、ついに僕はバイト3日目にして過呼吸になって倒れた。僕は閉店まで残り少しというところで、店内のあまりの人の多さにめまいと耳鳴りを覚え、地球が今までの10倍の速さで自転しているかのようにすら感じた。通路まで埋め尽くさんばかりにせり出した商品の陳列、その隙間を巣の中を移動する無数のアリのごとく行き交う人々。赤、黄、オレンジ、黒、貼り出された目の回るような原色のコピーの数々。僕の精神はこうしたものに耐えられるようにはできていなかった。胸に苦しい塊がこみ上げてきて、気がついたときには極度のストレスで過呼吸になって倒れていたのだ。
 やはり助けてくれたのは、由奈さんだった。救急車を呼ぼうとしてくれたが、無理を言って飛び出してきた実家に話が行くことを恐れた僕は、それを断固として拒否した。結果、僕は由奈さんの家に運び込まれ介抱されることとなった。

「ごめんなさい、紅茶まで出してもらって。」
 僕は由奈さんのベッドに横たわっていたが、しばらくして息は戻った。どうやらあのドンキホーテの環境がだめだったみたいだ。僕はベッドに腰かけ、小さな円い木製の机に出された温かい紅茶を飲んでいた。部屋は白を基調に整然と整えられていて、とても綺麗にされていた。なんというか、納得だ。
「ごめんね~狭いでしょ。」
 由奈さんは玄関の隣のキッチンで食器を洗いながらそう言った。
「たまにこうなっちゃうことあるの?」
「…はい。パニック障害ではないんですけど、周囲の環境に他の人より敏感な方で。幼いころに非定型自閉症の疑いがある、とは診断されていたらしいんですけど、障碍者ではなくって。手帳も持ってないです。」
「つまり、その傾向がある、ってことなのね。」
「そうですね、グレーゾーンというかなんというか。」
 僕は、障碍者ではない。ある程度社会に適応し、18歳までなんとか生きてきた。しかし、ときどき僕の精神は混乱状況になる。その原因は大量に押し寄せる群衆であったり、一度に複数のことを思考することであったり、高々と積まれためまぐるしい商品の陳列であったりもする。しかし、この精神の錯乱状態と過呼吸の症状は何かの病気なわけではない。診察によってあなたはこういう病気である、とは診断されない。あくまでもある種の精神疾患の傾向があるに過ぎない。
 そのことは、ときどき僕をひどく不安にさせた。名前のない病気。それはすなわち、この世界の誰にもこのパニックや過呼吸を解明できないということだ。誰にも分からない、謎に包まれた大きな「何か」が僕の胸のすぐ内側に常に存在している、という事実は、名付けられたそれよりもはるかに恐ろしいものだと思う。「あなたにはこういう疾患があり、それによってこういう症状がみられます」と診断されることがどれだけ安心できることだろうか。人の精神はそれぞれだとしても、それに対する客観的なラベリングは、自己を他者とを相対化する上で役に立つ。診断、というのはその意味では自己を客観視するためのある種のラベリングなのである。そしてそうした相対化こそが、自分が何者なのかということを明らかにさせるのだ。だから人はよく他人をなんとか系やなんとかタイプとして分類したがる。こうした一見何の意味もなさげな分類さえも、自己と他者の相対化、つまり自分が何者であるかといった問いに一役買っているのだ。だから、自分が分類やラベリングされないということは、自分自身を探る手段を失うことであり、自分自身に対して不安を抱く原因に他ならない。それがなにかしらの症状に関してであればなおさらだ。
 僕は小さく息を吐いた。
「僕は、自分の症状の原因がはっきりと分からない。大事な場面で人に迷惑をかけてしまうし、ルールや決まり事もちゃんと守れない。一度に複数のことを考えるとダメなんです。おまけに人に気を遣えない。僕は弱い人間ですし、」そこまで言って気づいた。こんなことを由奈さんに言っても仕方がない。困らせてしまうだけだ。
「…義人はいない。ひとりもいない。」
 ぼそっとキッチンから声がした。優しい声だった。
「自分のことを弱い人間と思うのは当然よきっと。」
「…えっと、由奈さんってクリスチャンなんですか?」
 その引用は正しいのかな、と思いながらも僕は聞いた。それと同時に、素敵な人だな、とも思った。
「違うわよ。」
 由奈さんはそう答えて笑った。柔らかな紅茶の香りが僕の頬を包んだ。

 しばらくして僕はあらためて部屋を見回した。部屋のつくりは僕の部屋とさして変わらない、よくあるワンルームの間取りだった。テレビの隣の本棚にたくさんの本が置かれている。本棚には、作者順に丁寧に小説が並べられていて、右端から綿矢りさ、山田詠美、森絵都、となっているのに気付いた。
「あ、読んでる本の傾向、近いかも。」
「ほんと?」
 洗い物を終えた由奈さんは手をタオルで拭くと、本棚の前にしゃがんだ。
「うん、日本語の描写が素晴らしく、どちらかといえばストーリーの展開よりも美しい日本語で読ませる作品、ですね。」
 僕も本棚のそばに近寄った。由奈さんが振り向いて僕を見る。
「詳しいのね。」
「一応僕、作家になりたくて。」
 僕が恥ずかし気にそう言うと、由奈さんは目を丸くしてすごいじゃん!と手をたたいた。たいそうなものじゃない。僕には日本語しか居場所がないだけだ。
 僕らはそれから、しばらく小説について語り合った。あっという間に時間は過ぎて、僕は帰り際、勇気を出して尋ねた。
「あの、もしよかったらこんど僕の家にも来ませんか?今日言っていたやつ貸します!」
「そうね、今日出した紅茶を持ってお邪魔させてもらおっかな。」

 そうして、僕と由奈さんとの日々は始まったのだった。

 祥吾と別れた帰り、僕は家に着くとコーヒーを淹れることにした。
 ミルを回して粉を挽き、ドリップポットに水を入れて火をかける。サーバーにドリッパーをセットして、折ったフィルターを乗せる。そこに挽いた豆を計量スプーン3杯分入れる。味の違いはわからないけれどあらかじめカップを温めておいて、味の違いはわからないけれど「97℃が一番おいしいんだよ。」と語りかけて、お湯を内側から外側に回しながらフィルターに注いだ。

 僕はその後、一週間たたずしてそのバイトをやめた。山口の片田舎、ゆっくりと時間の流れる場所で育った僕にとって、蒲田のドンキホーテはまさに阿鼻叫喚の異界の地そのもので、ひしめく人々は無間地獄で足掻き暴れる罪人たちのようですらあった。
 けれども、地元は地元で生きづらかったと思う。どこに行っても見知った人ばかりで、どうしようもなく窮屈で仕方なかった。規律の重視された厳格な「リズム」があの地にはあった。誰一人として違うことなく、全ての人が同じ歩幅で歩み続けることが求められているかのような、そんな空気感が嫌だった。
 僕の父は焼き物の職人で、僕は親族からも周囲の人間からも家業を継ぐことを求められ続けていた。僕は圧倒的に不自由の中にいた。自分の未来や人生に対する自由が、はるか遠くきらめく星のようで。よく晴れた冬の夜空に無数にきらめく美しい星々は、だからこそ僕を憂鬱にさせた。それらは決して掴むことができない。その事実は、否応なく僕に己の小ささと弱さを証明する。それは図らずも真理であり、暗いあなぐらから見上げる星が美しく見えるのも、また真理に他ならない。僕は、周囲の、伝統への羨望、血統への期待、そうした声を聞くたびにうんざりし、ただただ真理の前に降伏した。
 さらに言えば、僕の不可思議な精神も、またそうした一端を担った。母は僕が過呼吸で倒れたりパニックに陥ることを極度に警戒し、僕の生活の全てに干渉し続けた。さらにそうした干渉や世話焼きを、親の子に対して在るべき愛情だと錯覚し、僕は母の管理下に拘束され続けた。また、この奇妙な精神の傾向は警戒や束縛の対象になるだけでなく、ある特定の大人からは何かしらの才能を期待され、あらぬ興味を持たれることもあった。そうした全てが鬱陶しく、そうした全てが僕にとって生きづらさになった。だから僕は、東京に来た、はずだった。
 血縁と地縁による束縛から解放され、自由を求めた。自分の足で足音を刻みたかった。けれどここには僕の足の踏み場などなかった。
 あとには、文学だけが残っていた。騒々しい雑踏の最果てに、眩暈のするようなネオンのその影に、ただそれだけが残されていた。
 小説の中の世界に入り込めば、リズムは自分の手で刻めたのだ。そこには何者も介入できない、僕だけの世界が残されている。相対化も自己言及もない、僕にだけに開かれた世界が、そこに残されているのだ。
 僕はソファーに座りコーヒーを一口味わうと、『ドグラマグラ』の続きのページをそっと開いた。



 僕は江國香織の『つめたいよるに』の短編を一つ読み終えると、ソファーから由奈さんの方を振り返った。由奈さんはスマホでマンガを読んでいたらしいが、こちらに気が付くと顔を上げた。
「つめたいよるに、私の家にもあるのよ。」
 由奈さんは腰かけていたベッドから立ち上がり、本の表紙をじっと見つめながら言った。本を手渡すと、ページをパラパラとめくり、「この、『いつか、ずっと昔』って短編、すごい好きで今も覚えてるわ。」とひとりごとのように呟いた。その短編は、ちょうど昨日読んだところだった。
「それ、素敵な話だよね。恋の美しさと儚さがファンタジーっぽく書かれていて童話みたいな感じ。」
 そう言いながら僕は、小説に出てきた夜桜の道を、由奈さんと二人で歩く妄想をしていた。まだ少し寒い春の夜、街灯に照らされた風に舞う桜の花びらが、二人を包んでいる。由奈さんの腕が僕の右腕に絡んでいて、僕はその温かさを感じながら「きれいね。」なんて平気な顔して言ってみたりする。静かなそよ風が再び桜の花びらを夜空に吹き上げる。
「今年も行きたいね。」
 由奈さんはそう僕に微笑んで言って、私、花見が好きなの、と付け足した。

 去年の春、僕らは花見に行った。その年は例年より桜の開花が早く、行ったのは三月の中旬ごろだったように思う。
 その日は春らしいぽかぽかと温かい陽射しが優しくて、少し暑いほどでもあった。窓の外では春の鳥がさえずりはじめ、空にはふわふわと羊雲が青空に浮かんでいて、僕は思わず日光の明るさに目を細めた。炊き込みご飯を食べ、歯を磨き、着替え、鼻歌を歌いながらコンタクトをつけているときには聞きなれたエンジン音が近づいていた。6回のノックにドアを開けると、由奈さんが笑顔で待っている。「おはよ」と微笑む由奈さんの仕草に、僕はようやく春の到来を感じたのだった。
 僕は由奈さんの運転するバイクの後ろに乗って、由奈さんの腰に手をそっと回す。思っていたよりも腰が細くって、僕の腕は由奈さんに触れるか触れないかぎりぎりのようになってしまった。由奈さんが「ちゃんと掴まって」と言って、僕の腕を腰に巻きつくように動かす。僕は緊張と気恥ずかしさが限界まで高まって、吹き出る手汗をずっと気にしていた。
 平日の昼の品川は思ったより道が空いていて、春の陽気の中をバイクはゆっくりと走っていた。
 バイクを停め、多摩川の土手沿いを二人並んで歩く。桜はまだ五分咲きだったが、それでも美しかった。広い川幅を挟んだ両岸に桜並木がどこまでも並んでいて、ところどころの木は満開に咲いていた。どこからともなく、ほんのりと甘い香りが風に運ばれて鼻腔をかすめる。僕は目の前にはらはらと舞い落ちてきた花弁をひとつそっと掴んで、手のひらの上に包んだ。その優しい色合い、その柔らかな質感、小さくもたしかにそこに宿る温かみを僕は感じた。
 由奈さんは、満開に咲く大きな桜の木の前や、桜を眺めながら仲良く歩く老夫婦、川面を泳ぐ水鳥など、絵になりそうだと思ったときには立ち止まり、スマホを出して写真をたくさん撮っていた。そういう由奈さんは無邪気で、僕はまるで犬を散歩に連れてきた飼い主のような心地で笑いながら後ろから連れて歩いた。
 嬉々としてはしゃぐ由奈さんは少女に戻ったようで、生き生きとした表情はかわいらしく、僕はそうした由奈さんの新しい表情を知ることができて、満ち足りた気分になった。僕はそんなふうに由奈さんの後ろ姿を眺めながら、花見に来たのはいつ以来だろうかと思い返していた。
 花見は、それ単体の美しさよりも、それを美しいと一緒に愛でることができることに意味があるのかもしれない。だとしたら僕は、由奈さんと来たこの花見のことをずっと憶えてるのだろうか。あるいは、由奈さんは僕と花見に来たことをずっと憶えてるのだろうか。そう思って由奈さんの方を見たが、由奈さんは桜の木にとまっているセキレイに向けてシャッターを切っていた。



 歩道にまではみ出しているけばけばしく光るネオン、明るすぎる店内照明の光を煌々と道路に漏らしている店々。それぞれから聞こえてくる人々の話し声や流れ出る音楽、食器を並び立てる音などは、すべてがあわさり、街全体が鳴らすひとつの大きな音のようになって、二人を包んでいた。
 左に歩く由奈さんは僕を見上げて、「焼き鳥でいい?」と聞き、僕はゆっくりとうなずく。僕らは各々の読書のあと、家から少し歩いて蒲田の駅前まで来ていた。
 僕はいつも、この眩暈のするような街明かりと騒然とした喧騒、人々が押し合いへし合い行き来する大量の群衆に圧倒されて辟易していた。
 しかし、今日はそうしたすべてが僕らを歓迎しているように思えた。由奈さんは不思議だ。由奈さんが隣を歩いているだけで僕の心はゆったりと落ち着いて、この繁華街のすべてを自然と受け入れられるようになる。眩しく様々な色に光り輝く電飾、店先のスピーカーから大音量で溢れる流行りのポップスが、由奈さんの横顔の後景を右から左へゆっくりとフィルムのように流れていく。それらはまるで写真のぼかした背景のように淡い光の粒となって、由奈さんの横顔をロマンチックに彩っていた。
 由奈さんは昔から変わらず、横から見るのが一番美しいと思う。大きな瞳を縁取る長いまつげ、輪郭のはっきりとした鼻筋、麗しげな唇、サラっとそよ風になびく肩までの髪。通りの明かりで少し翳って見える横顔は由奈さんをさらに大人びて魅せ、僕を図らずもドキッとさせるのだった。
 星の瞬く夜空の下、通りに並んだ店々から伸びる無数の光が、二人の歩く道をスポットライトのように照らしている。それは、暗い夜の東京にこの通りだけが浮かび上がっているような感じすらした。頬をなでる少しつめたい夜風が、僕を心躍らせる。東京も悪くない、そんな気のする夜だった。

「美味しいねここ。」由奈さんはそう言ってタレのかかった鳥皮の串を置き、ウーロン茶を一口飲んだ。こぎれいな雑居ビルの二階、カウンター席といくつかのテーブルが置かれた、アンティークなバーのような雰囲気の店内は居心地が良かった。僕らは窓際の二人用のテーブルに向かい合って座っていた。大きな窓の外に見える向かいの建物のネオンの電飾はきらびやかな緑色に点滅していて、由奈さんの端麗な横顔に陰影を映していた。
 僕は「うん、美味しい。」と大きくうなずいてロックのウイスキーを一口飲んだ。優しく香ばしい味わいが口の中に広がる。机に置くと氷がカラコロと涼しげな音を立てた。
 僕はこのロマンチックな店内と、ときどき緑色の光に染まる妖艶な由奈さんの姿に早くも酔っていた。由奈さんはしばらく僕の手元に置かれたグラスの中の透き通ったウィスキーの色を眺めていたが、小さく「私も何か飲もっかな。」と呟いてドリンクのメニュー表を手に取った。
 今思えば、これまで由奈さんがお酒を飲んでいるところを見たことがなかった。それは、由奈さんは毎回バイクで家に遊びに来るし、そもそもあまりこうして一緒に夕食をする機会がなかったからなのかもしれない。それにやはり由奈さんにはコーヒーや紅茶が似合うような気がするのだ。
 しかし、どれにしよっかな、と由奈さんがアルコールのメニュー表を眺めているのは新鮮で、新たな由奈さんの一面を知ることができるかもしれないと僕は少しの期待感に嬉しくなった。
 シークヮーサーサワーを飲み干し、由奈さんは美味しかったと言わんばかりに微笑んで見せた。由奈さんの良いところは、美味しいという感情が表情にそっくりそのまま出るところかもしれない。少し薄桃色に染まった頬は少女のようで愛らしく、僕はしばらく由奈さんの顔から目が離せないでいた。
 三年ほどの時をともに過ごしていても、由奈さんにはまだ僕の知らない表情がある。僕はそのことが純粋に嬉しかった。窓の外の妖艶な緑色の電飾に照らされて淡く光る由奈さんの楽しそうでロマンチックな表情に、僕の胸は小さくかすかに震える。少しアルコールの回ったぼうっとした頭で僕は、自分が由奈さんに対して恋心を抱いていることを自覚した。
 もしかしたらこの感情は、恋なのではないか、と。その発見は、驚くほど自然に僕の心に浸透していった。そこには何の躊躇いも戸惑いもなかった。もとから存在していたものに今さら名前が付いたのか、という感覚だった。そして僕は、途方もない安心感に満たされた。自分の感情に名前が付くという安心感。僕はその幸福感に浸っていた。
 僕は、由奈さんのことが大好きだ。どうしようもないほど切実に。これまでの長いあいだ気が付かなかった本心が、そのかけてきた時間の分だけ僕の胸いっぱいに溢れ出してくる。ああ、これは恋だったのか。これは、恋だったのか。
 イルミネーションに照らされた由奈さんの愛らしい表情に見つけたその小さな喜びは、僕のからだ中を駆け巡り駆け巡り、僕のすべてをすっぽりと包み込んだ。
 今ならわかる。彼女は僕の取り留めのない日常、不安定な「リズム」を奏でつづける鬱屈とした日々に、一筋の光を照らしてくれていたのだった。僕を置きざりにして駆け足で過ぎていく東京の雑踏も、由奈さんと次に会える日を待ち望めば耐え得るものだった。彼女の手のひらは、永久の孤独の中でも確かにつかめた温かい小さな手のひらだったのだ。由奈さんは、僕が僕でいられるための、僕の中の大きな一つの芯であり、僕が僕のリズムを刻むための、僕の心の中で絶えず揺れ動くメトロノームだったのだ。

 店を出ると、柔らかくつめたい夜風が二人をつつみ込む。高揚感とアルコールで少し火照る身体に夜風は気持ちよく、僕は思わず大きく息を吸い込んだ。由奈さんも同じように顔を少し上げて夜の街の透き通った匂いをかいでいた。
 由奈さんと二人で歩くと、世界は二人だけのもののように感じられる。通り沿いの店の賑わいも、酔った人々のざわめきも、どこか遠くのことように感じられるのだ。それらは皆、違う世界の出来事のような。僕らを囲む半径2メートルの半球がこの世界のすべてで、その外はすべて非現実なのだ。
「由奈さんがお酒を飲んでるところ初めて見た。」
「ほんと、ひさびさに飲んだわ。たまにはいいものね。」
 僕にとってそうであるように、由奈さんにとっても今日が特別な日になったなら良いな、と願った。大切なのは、特別であることではなく、僕と由奈さんが同じ思いを抱えているかどうかだ、とも思った。
「私、明日は蒲田駅前に出勤なのよ。だからバイクは明日の帰りに取りに来ることにしようかな。」
 由奈さんは、そう横目で僕を見ながら言った。純粋な、なんの含みもない声で。
 僕は少し寂しくなった。この時間が、二人寄り添って歩くこの今が、永遠のものであるという気がしていたのだ。あるいは、無意識にそう、願っていたのだ。この夜にいつまでも浸っていたい、と。永遠という言葉は、たしかに今、僕のために存在していたのだ。
 僕は心配になり、「今日はどうやって帰るの?」と聞こうとして、逡巡の後やめた。そう聞いてしまえば、今が終わってしまいそうで。僕はまだもう少し、この幸福感に浸っていたかった。未来を考えるというのは、時には野暮なことで、時には残酷なことになり得るのだ。
 僕は幸福と少しの焦りを抱えたまま、由奈さんの横顔を黙って見つめていた。ネオンに翳る由奈さんの横顔はいつもより大人びて見える。だが、そうしたすべては、やはり僕にとっては尊く、愛おしいことだった。
「今日は、タクシーで帰るかな。」
 しかし由奈さんはそう言って、僕を見つめて微笑んだ。何の罪悪感もない表情で、たったいま思いついたことを口にするようにして。由奈さんは思いついたことをすぐに口に出して伝えてくれる。それはたしかに、僕にとって由奈さんの好きなところのひとつでもあった。しかし、それはこうして意味もなく僕を傷つけもするのだ。
 僕はひどく切ない気持ちに陥った。急に冷や水を浴びせられたような、目を背けていた現実に急に連れ戻されたような。しかし、それはどうしようもなく仕方のないことのように思えた。幾度となく経験しているはずの、当たり前の由奈さんとの一日の終わり。それが今日はなぜこんなにも切ない気持ちになるのだろうか。僕はうなだれた。僕は由奈さんの一挙手一投足、言葉のひとつひとつにすぐに歓喜したりすぐに絶望したりしてしまう。僕は自分を憂いた。それで、僕は歩みを止めて、咄嗟に言葉を紡いだ。
「…泊まっていかない?」
 唐突な言葉に由奈さんも立ち止まって、僕の方を振り返った。見つめ合った瞳が、いつもより少しだけ大きいように見える。僕は自分の言った言葉に驚きながらも、それが自分の最も望んでいたことだったと自覚した。もっと由奈さんと一緒にいたい、由奈さんと朝まで一緒にいたい、そう心が叫んでいた。
 由奈さんは、少し考えたふうに「うーん、」と唸ってから
「でも、明日早いし、今日は帰るね。」
 と言った。
 心の中にほんの微かにだけ残っていた淡い期待が、やっぱり、というようにさらさらと消えていった。引きとめる言い訳など、ただのひとつも思い浮かばなかった。
「…そっか。」
 言葉が見つからず、沈黙のあと僕は小さな声でそれだけ呟いた。情けないほど小さな声だった。もっと一緒にいたかったのにな、そうも言いたかった。
 気まずい沈黙の中、由奈さんは少し寂しそうな顔をして、それからまた歩き始めた。通りに伸びる店々の灯りは相変わらずスポットライトのように僕を照らしている。好きなんだ、由奈さんのことが。ずっと。
 僕は由奈さんの袖を人差し指と親指でそっとつまんだ。由奈さんがふと振り返る。僕は、しかし、それをゆっくりと離した。二人の間を、三月の夜風が吹き過ぎていった。



 僕は読んでいた小説を机の上に置くと、小さなライトグリーンのソファから立ち上がってゆっくり伸びをした。窓から差し込む西日が、部屋を密色の光で満たしている。僕はクーラーの温度をさらに2℃下げた。夕刻になってもなお、夏の太陽はじりじりと僕の部屋を温めている。
 僕は立ち上がって、インスタントコーヒーのパックを取り出し、カップに沸かしたお湯と一緒に入れた。色が出たところに氷を入れ、アイスコーヒーにする。豆から作ったほうが美味しい気はするが、インスタントの方が楽な上に味もそこまで悪くないので僕はこれで満足だ。
 郵便受けが、カタと音を立てたので覗いてみると、中に一枚のはがきが入っているのが見えた。僕はそれを何の躊躇もなく手に取ってしまったので、久々に見た送り主の名前に少しだけ、びくっとした。『コロナウイルス感染拡大防止を図るため、結婚式および結婚披露宴は延期が決定いたしました。』と書かれたその下の写真には、由奈さんと、僕の知らない男性が二人で寄り添って写っていた。
 あの蒲田駅前で一緒にお酒を飲んだ日以来、由奈さんとは会っていない。コロナウイルスの蔓延もあって気づけばすっかり疎遠になってしまっていたのだ。あれから一年半ほどが経ち、由奈さんはどんな日々を過ごしていたのか、僕にはもはや分からない。いや、そもそも二人で会っていた頃もどんな日々を送っていたのか、僕にはわからないのだった。
 僕は由奈さんにとって何だったのだろうか。僕は由奈さんにとって何かしら意味のある存在だったのだろうか。僕は由奈さんと最後に会った日から、そのことを繰り返し悔やんでいる。由奈さんと過ごした三年の間、たとえ恋人じゃなくとも、僕は彼女にとってのなにかしら「特別」な存在になれていると思っていた。でも、本当にそうだったのか。僕は由奈さんにとって、他の誰へとも違う感情を抱くべき相手であれたのだろうか。残念なことに、僕はその自信が一塵もなかった。
 僕は、名字の変わったはがきの送り主の名前に、彼女と過ごした日々を思った。あの日々に帰りたかった。心から、あの日々に帰りたかった。全てを捧げてでも、あの日々が恋しかった。彼女の優しい微笑み、コーヒーの香り。由奈さんを思い出すとき、そこにはいつもコーヒーの香りも伴う。それから、6回のドアノック。サントスのコーヒー豆のパッケージ。単気筒のエンジン音。フローリングに伸びた美しい横顔の影。帰ったあと部屋に残る女の人の匂い。何年たっても、恋しかった。しかし、未練がましく感傷に浸ったところで、それがもう二度と戻らないただの思い出であることも分かっていた。そのくらいの、時が流れたのだ。どれだけあの頃を慈しんでも、もうあの日々は二度と訪れないし、どれだけあの時の自分を羨んでも、もうあの自分自身にはなれない。それを僕はもうわかっている。
 僕は、はがきに書かれた延期日程の出欠欄の「欠席」にそっとボールペンで丸を付けた。
 来たる未来よりも過去が美しく見えてしまったなら、未来より過去を渇望してしまったなら、そこに希望は一つとしてありやしないのだ。暗澹たる日々を過ごす中で、先の見えない未来の中で、だから僕はふと、由奈さんのことを思い出す。あの日、由奈さんを本気で引きとめていたらどうなっただろうか、と。しかし、それは後悔とは違う、ただの純粋な疑問だっだ。もしかしたら、今も僕は由奈さんのそばにいたのだろうか。もしくは、もっと強く過去を悔やんでいたのだろうか。ただ、そんなことはもう、どうでもいいのかもしれない。過去は過去であり、それはもう分からないことなのだ。
 今でも生きていくことはつらい。集団の中で周囲のリズムからこぼれ落ち、永久の孤独を味わう日もある。家から出るのは未だに怖いし、耐えきれずに大学を自主退学してしまってからより自信はなくなった。
 もともと世の中のすべては苦痛と苦悩に満ちているのかもしれない、と最近よく考えるようになった。人生がつらいのは原罪があるからだ、とか、この世は苦難に満ちいているから極楽を目指しましょうとか、キリスト教や仏教だってそのことを前提にしているのだ。
 それでも、由奈さんと過ごしたあの空間は、宇宙で最も苦痛と苦悩から遠い場所だったと思う。僕はそこから再び、本来あるべき場所へと帰ってきたにすぎない。僕は知恵の実と、それを食べたアダムとイブを恨んだ。彼らを唆した蛇を恨んだ。説法を説く釈迦と仏僧と、それから極楽を恨んだ。そうすれば、僕の心は少しだけ安らかになる。「いま」を呪うことはすなわち、あの日々を思い出へと昇華させるための一つの手段なのだ。
 僕は欠席に丸をつけた結婚式招待状のはがきをポケットに入れて、蒲田の駅の方へとバイクを走らせた。夕日が沈んでもなお暑い熱帯夜は、汗が噴き出し辟易とするが、アクセルを少し開くと風が体を冷やすようで心地いい。まだ納車して一ヶ月もたたないが、バイクを買ったのは悪くなかったと思う。
 由奈さんと過ごした日々は、否応なく今の僕に影響を及ぼしている。そのことを天命かのように喜べるときもあれば、そのことを心の底から憎悪するときもある。
 そう、僕は、ささいなことですぐに歓喜し、ささいなことですぐに絶望する。
 つまり、僕は、弱い人間だ。
 夜闇に浮かぶような道の両側の店や建物の明かりが、路面に差し込んでいる。それらは煩いほどにけばけばしく、眩暈のするほど煌々と僕の行く先を照らし出している。僕を飲み込むように、街の夜が始まっていく。そのあまりの息苦しさに、僕は思わず目を細めた。
 ふと向けた視線の先に、緑色のネオンがまばゆく点滅している。僕はいつか見たそのネオンの影に、僕だけのためのメトロノームの音を見つけた。
 過ぎ去ったあの日々の延長線上に、いまも僕が生きている。その自覚が、実感を伴ってふつふつと胸にこみあげてきたのだ。あれは遠い幻でも宇宙の最果てでもなく、僕の中に過去としていまも確かに存在している日々なんだと。
 死して、ゆえに自由を得るか、生きて、なおも地獄に居続けるか。僕はこの期に及んでも、情けなく後者を選び続けている。だが、それでいい、と思った。それでいいのだ、と。あの頃確かに胸の中に存在していたメトロノームは、いまも微かに僕の中で鳴っているのだから。いつか思い出としてあの日々を懐かしく思えるその日まで、僕は何度だって由奈さんを思い出し、何度だって思い悩もう。
 由奈さんは今ごろ、あの写真に写った男の人と一緒にいるのだろうか。本棚のある整然としたあの白い部屋か、二人で暮らす新居か。由奈さんは今も素敵な横顔をしていて、その人とささやかな幸せを祝っているのだろう。それはなんだか、素敵なことにも思えた。この輝く光の街のどこかで、由奈さんが笑って暮らしている。なんて素敵なことなのだろう。
 それは諦念なのかもしれない。けれど、それでいいのだ。すべてのことは美談にしてしまえばいい。人に備わった忘却機能は、過去の呵責やトラウマによる心的ストレスを和らげるためにあるのなら、人は海馬に、過去のすべてを美談にできるプログラムを生まれながらにして持っているのである。だからもう、あの日言えなかった言葉や伝えられなかった気持ちは、ノスタルジックな思い出と共に淡く溶かして、すべて美談にしよう。それ以外はいずれセンチメンタルの中に融解して、トロトロと溶けて原型を留めないようになって仕舞えばいいのだ。
 横断歩道を、サラリーマンが千鳥足で歩いている。ビル風がコンビニのビニール袋を吹き上げていく。胡散臭いキャッチの定型文句と酔っ払いの怒号が、狭く湿った汚い通りをこだましている。僕の知らない夜が始まろうとしている。そのことに少しだけ、心躍るような。
 僕は夜風に息を大きく吸い込んだ。東京は今日も、美しい。
いろんな恋愛がありましたねえ。ええ、生きていますよ。
今は障害者手帳が出てだいぶ生きやすくなりました。この頃は大変でごぜえやした。
かぱぴー
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コメント



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1.100v狐々削除
面白く良かったです。うーん凄い。切ない。