「はい、はい。食前に二錠です。処方量を超えてはいけませんよ。大丈夫、この三ヶ月であなたは、見違えるほど理想に近づいています。はい。」
男の声が狭い部屋に響いた。打ちっぱなしのコンクリート壁は冷たく蛍光灯を反射している。積み上げられたダンボールが、男に影を落としていた。
「明日、また業者がお宅に伺いますので、いつも通り受け取ってください。え?多めに?だめですよ…」
電話の向こう側で、安堵のため息が漏れた。
東堂は、芸能界でそれなりに活躍するカメラマンだ。縁あって、現在メディアで引っ張りだこの人気モデル「BEEL」ことベルの写真集のカメラマンを担当していた。
四月某日、撮影も順調に進み、最終日となった。休憩時間になると、各々差し入れの弁当をとっていき、スタジオのパイプ椅子や楽屋でくつろぎ始める。
「ベルさんって、何を食べたらあんなに細くなるんでしょうね」
連日の疲れが表面に出たのか、東堂はそんなことを口走った。
「それが仕事だからだろうよ」
今回の撮影で仲良くなったスタッフの一人、羽丹がそう返す。彼の目線の先では、薄手の青い浴衣を着たベルが女性スタッフと楽しそうに会話をしていた。
「でも、あのスタイルの良さは中々ないと思うんですよね。何か、秘訣とかあるのかな…」
詳細に語れば、セクハラ発言とも取られてしまう。東堂は言葉を選びながら呟いた。
「ううん…やっぱり、自分の力だけじゃ無理だろうな」
「え?どういうことです」
「きっと何かに頼ってるよ。整形ほどじゃないけどさ」
「あぁ……」
同意とも否定とも取れるような曖昧な相槌で、東堂は話を流した。彼女の人当たりの良さや、自分を飾らない行動は彼女を業界の中でも人気にさせる一つの理由だった。それを否定するような印象を与えられたことは、東堂にはまだない。
「わにさん、わにさん」
ベルが羽丹を呼んだ。イントネーションは爬虫類のワニだ。その愛らしい声に、東堂も思わず声のする先を見た。
「今日の打ち上げのことなんだけど…」
羽丹は彼女の方へ駆け寄り、二人で話し込んでいた。
(なんだかんだ言って、二人とも仲良いよな…周りから付き合い長いって聞くし…)
東堂は二人の様子を窺いながら、羽丹が置き去りにした弁当の容器をゴミ袋に捨て入れた。羽丹たちはそのことに気づく様子もない。
「ベル、打ち上げ来るって!みんなも撮影のラストスパート、頑張ろう!」
羽丹の気張った声が、スタッフたちの背筋を伸ばさせた。
飲み会の会場に一行がついたのは十八時ごろだった。広いホールで、一般客も会話や食事を楽しんでいる。華美なシャンデリアが、店の高級感を引き立たせていた。
スタッフや東堂たちが自席に向かう。しかし、ベルが店には入って間も無く向かった先は化粧室だった。彼女の手は小刻みに震え、息が上がっている。個室に入り、肩から下げた小さな鞄から、ミネラルウォーターの入ったペットボトルと錠剤を二つ取り出すと、勢いよく喉に押し込んだ。水を飲んだ頭を下げると、口に髪の毛が二、三本まとわりついていた。視線をペットボトルに移すと、水面が小さく波打っている。震えは止まっていない。もう二つ、錠剤を取り出し、今度は歯で噛み砕きながら水で喉の奥まで流した。
「ショホウリョウヲ、コエテハイケマセンヨ」
電話口で聞いた声を反芻する。大丈夫、口で細かくしたから……。それは、彼女が考えられる精一杯の言い訳だった。
化粧室から出てきたのは、いつもと何も変わらない、人気モデル「ベル」だった。
「今日まで本当にお疲れ様でした!かんぱーい!!」
ベルの左隣に座っていた東堂は、彼女の音頭を聞いて、既に疲れを癒やされていた。中年の監督がやるよりずっといい。
「ビュッフェ形式の居酒屋って、おしゃれですね」
「居酒屋じゃない、ビアホールと呼ぶんだよ。ここは日本でも数少ない、本格イタリアンの高級チェーンだ」
ベルの右側に座る羽丹が代わりに答えた。まだまだ庶民肌です、と苦笑する東堂。
「このローストビーフ、おかわりしてこよっ」
ベルが腰を上げた。
「ベルさん、ペース早いですね」
「え、そう?お腹すいてるだけだよ」
はにかむ彼女を、東堂は思わずじっと見つめ返した。一瞬の間に、ベルは困ったような表情を浮かべた。
「あ、何かドリンク頼んどきます?ええと、メニュー表…」
「いいよ、東堂。ベルさん、早く行ってきたら?」
ベルはそそくさと席を後にした。東堂は静かに反省し始める。もう少し上手く話せた、もう彼女の顔を見られない、あまりにあからさますぎた。
しばらくして、ベルが皿を両手に席に戻ってきた。
「ただいまぁ」
「お帰りなさい……」
小さく返事をしても、彼女は東堂を少しも見ようとしない。東堂は彼女の顔の代わりに、彼女の盛りつけた皿に目をやった。
随分盛ったな、と声に出そうになる。慌てて息を吸って誤魔化す。ひゅっと音が漏れた。自分が知りえない部分を知ったことへの嬉しさより、若干冷めたような気持ちの方が強く出た。彼女は人一倍食欲旺盛だった。
皿に料理を盛ったのはこれで何度目だろうか。彼女は周りの目も構わず口に食事を吸い込んでいく。彼女の良さである「自分を飾らない行動」、他人が行き過ぎていると感じても、それは評価されるべきことなのだろうか。東堂はジョッキを煽って考えないことにした。
夜九時をまわると、飲み会もお開きの空気が自然と感じられるものである。
へべれけになったベルを羽丹が介抱している横で、東堂はちびちびと酒を嗜んでいた。
「たっくさん食べても、スタイル維持できるなんて、さっすがモデルですねぇ」
無遠慮にベルに話しかける。ニコニコ顔に緩急のついた口調は「酔っ払い」そのものだ。
「食べるのが好きだからいっぱい食べてもいいじゃない」
「ずっと聞きたかったんですけど、その美ボディに、秘密、あったりするんですか」
「知りたい?私の秘密。」
彼女は両手に収まるほど小さなショルダーバッグから、錠剤の入った小瓶を覗かせる。
「これを飲めば太らないの。このお薬のおかげで今の自分がある。粘着系ファンとか、ちょっとヤバいストーカーくんとかはもれなく増えちゃったけどね。あ、噂を広めたらダメよ」
「なるほど……」
「ふふ…冴えない相槌ね」
周りで他のスタッフが飲んでいるにも関わらず、二人だけで会話していることがより一層彼の心中をしどろもどろにさせた。
「二人だけの秘密よ」
彼女が耳元で囁いた。東堂の顔が林檎のように赤くなる。彼女のいたずらな笑みに、もう返事の一つも返せなくなってしまった。
「あーお腹空いちゃった。さぁ、デザートは残ってるかしら」
何事もなかったかのように、彼女は席を離れてゆく。会話から急に置き去りにされた東堂は、手持ち無沙汰に飲みかけのビール瓶を目で探した。
すると、空いた席のその隣、羽丹と目が合った。
「なぁ…ベルさん、何か言ってなかった?」
羽丹は遠慮がちに微笑む。
「会話に入りたかったんだけどよく聞こえなくて」
東堂のジョッキにビールを注ぎ足した。
「あぁありがとうございます…。別に大したことは話してませんよ。ただ……」
「ただ?」
「羽丹さんの言っていたことは、当たってました」
羽丹は一瞬きょとんとした顔になったが、やがて黙ってビュッフェ会場を眺めた。
その直後だった。
「お客様!おやめください!」
ヒステリックな声が響き渡ると、すぐさま会場の奥がざわめき始めた。
「なんだろう…」
「もしかして…ベルの過激なファンとか?」
その言葉で東堂は駆け出していた。ベルさんが危ないかもしれない、僕が行かなければ。半ば興奮気味で、ざわめいたホールを早歩きする。
騒ぎの中心は、スイーツの大皿が並ぶ広間だった。そこで、東堂は信じられない光景が目にした。
「ベルさん…何してるんですか」
ベルは床に座り、大皿を抱えてミニケーキを大量に食べていた。長い髪が垂れ、クリームがついても気にする様子は全くない。頬いっぱいにケーキを詰め込んでいるが、リスのような愛らしさはなく、目は半開きでもはや狂気じみていた。
「マナーを守りましょう?ねぇ」
腰が引けるも、彼女にそっと近づき、その場にしゃがんだ。
「○△&×%#」
「無理して喋らないで、喉に詰まらせますよ!」
口の中のものをゴクリと飲み込むと、彼女ははっきりと言った。
「食べ足りない」
ベルは左腕に皿を抱えたまま、皿の中に右手を伸ばす。東堂はとっさにその手首を掴んだ。
「おなかが!すいたの!」
「落ち着いてください…」
ベルが強い力で抵抗する。陶器の大皿が小刻みに震えた。どうしてこんなことになったのか。悪酔いにも程がある。東堂が考えを巡らせても、今の状況を打開する方法など見当もつかなかった。
「ベルさん!」
鋭い声で羽丹が叫んだ。東堂はベルの背後に羽丹がいることに初めて気がつく。それほど、彼女を押さえるのに夢中だった。
羽丹がベルをはがいじめにする。ベルは皿から左手を離さないまま、羽丹の右腕に噛み付いた。
「い゛ぁっ…」
掠れた声で唸る羽丹。ベルの唇から血液が垂れ、顎の先に溜まった。羽丹は苦痛に顔を歪ませながら、彼女を皿から引き剥がす。その勢いで、彼女を斜め左前に突き飛ばした。テーブルの脚に叩きつけられると、そのまま彼女は動かなくなった。
ベルが伸びているのを確認すると、羽丹は体の力が一気に抜けたのか、立膝になって身をかがめた。
東堂はベルと羽丹を交互に見やる。騒ぎを聞きつけた他の撮影スタッフたちが、すでに自分の周りに集まっていた。
「誰か彼女を運んでください。羽丹さん!大丈夫ですか……」
肩で息をしながら、羽丹に近づく。
「深く噛まれたけど、心配しないで……。今は彼女の方が心配だ」
女性スタッフを中心に、彼女は慎重に広間の隅に運ばれていった。
「女性に本能的な恐怖を感じたのは、初めてかもしれません」
「どうしてこんなことになったかな……」
東堂とは対照的に、羽丹は落ち着いていた。東堂は躊躇いながらも、信頼のおける羽丹なら、と小さく決心する。
「…薬を、飲んでるって、言ってました」
「薬?」
「はい。美容用だと思いますけど」
「……大方、服薬量を誤ったんだろうね。慢性的に飲みすぎてるとしたら、精神不安定にもつながるだろうし。そういえば、最近スタジオでも情緒が安定してないようなことがあった。撮影で忙しい日が続いて、辛くなっちゃったんだろう」
「なるほど……」
冴えない相槌ね。彼女の艶っぽい声が脳で再生される。それ以上の返事ができないくらいに一杯一杯なのは、あの時も今も変わらなかった。
「東堂、後始末を頼む。俺は救急に、ちょっとかかってくる。」
「はい」
羽丹の周りにできた血溜まりを見ながら、東堂は素直に返事をした。これ以上余計なことは言いたくない。東堂は心底そう思った。
この騒動は公には報道されなかったものの、ベルとの仕事はこの日を境にパタリと無くなった。
「ああ、例の件だけど、今月分の薬はもう渡さない方がいい。独断だが、振り込まれたお金は返金して、これからの取引も彼女とは一切やめよう。薬漬けで頭のおかしくなったやつと関わるのはリスキーだからね」
電話の相手は、静かに男の話を聞いている。ダンボールの積み上がった狭い部屋に、鼻をじんわりと刺激するような薬品の匂いが漂っていた。
水の入ったペットボトルを片手に、男は話を続ける。
「あの薬は、『食べても太らない』なんて言うけど、脂肪吸収防止と胃液増幅の役割を果たしているだけだ。仕事上たくさん食べにくい人とか、拒食症の人とかが飲む薬だけど、飲み過ぎれば逆に急激に空腹状態に陥る。薬の効果に味を占めて、薬に心まで預けるなんてもってのほか。お前たちも、くすねたり、勝手にダイエットに使ったりしないでね。処方量を守らないと、暴食の悪魔みたいになる薬だから」
蛍光灯が薄暗く点滅した。男は天井を見上げ、瞬きをすると思い出したように話し出す。
「俺の右腕の噛み傷の治療費、滅多に使わない労災で落とすんだ。今度上層部に会うときに俺の武勇伝でも伝えといて」
肘から下の包帯を優しく撫でる。彼女の本能的な恐怖を受け止めた腕には、歯形が鋭く残っていた。
男の声が狭い部屋に響いた。打ちっぱなしのコンクリート壁は冷たく蛍光灯を反射している。積み上げられたダンボールが、男に影を落としていた。
「明日、また業者がお宅に伺いますので、いつも通り受け取ってください。え?多めに?だめですよ…」
電話の向こう側で、安堵のため息が漏れた。
東堂は、芸能界でそれなりに活躍するカメラマンだ。縁あって、現在メディアで引っ張りだこの人気モデル「BEEL」ことベルの写真集のカメラマンを担当していた。
四月某日、撮影も順調に進み、最終日となった。休憩時間になると、各々差し入れの弁当をとっていき、スタジオのパイプ椅子や楽屋でくつろぎ始める。
「ベルさんって、何を食べたらあんなに細くなるんでしょうね」
連日の疲れが表面に出たのか、東堂はそんなことを口走った。
「それが仕事だからだろうよ」
今回の撮影で仲良くなったスタッフの一人、羽丹がそう返す。彼の目線の先では、薄手の青い浴衣を着たベルが女性スタッフと楽しそうに会話をしていた。
「でも、あのスタイルの良さは中々ないと思うんですよね。何か、秘訣とかあるのかな…」
詳細に語れば、セクハラ発言とも取られてしまう。東堂は言葉を選びながら呟いた。
「ううん…やっぱり、自分の力だけじゃ無理だろうな」
「え?どういうことです」
「きっと何かに頼ってるよ。整形ほどじゃないけどさ」
「あぁ……」
同意とも否定とも取れるような曖昧な相槌で、東堂は話を流した。彼女の人当たりの良さや、自分を飾らない行動は彼女を業界の中でも人気にさせる一つの理由だった。それを否定するような印象を与えられたことは、東堂にはまだない。
「わにさん、わにさん」
ベルが羽丹を呼んだ。イントネーションは爬虫類のワニだ。その愛らしい声に、東堂も思わず声のする先を見た。
「今日の打ち上げのことなんだけど…」
羽丹は彼女の方へ駆け寄り、二人で話し込んでいた。
(なんだかんだ言って、二人とも仲良いよな…周りから付き合い長いって聞くし…)
東堂は二人の様子を窺いながら、羽丹が置き去りにした弁当の容器をゴミ袋に捨て入れた。羽丹たちはそのことに気づく様子もない。
「ベル、打ち上げ来るって!みんなも撮影のラストスパート、頑張ろう!」
羽丹の気張った声が、スタッフたちの背筋を伸ばさせた。
飲み会の会場に一行がついたのは十八時ごろだった。広いホールで、一般客も会話や食事を楽しんでいる。華美なシャンデリアが、店の高級感を引き立たせていた。
スタッフや東堂たちが自席に向かう。しかし、ベルが店には入って間も無く向かった先は化粧室だった。彼女の手は小刻みに震え、息が上がっている。個室に入り、肩から下げた小さな鞄から、ミネラルウォーターの入ったペットボトルと錠剤を二つ取り出すと、勢いよく喉に押し込んだ。水を飲んだ頭を下げると、口に髪の毛が二、三本まとわりついていた。視線をペットボトルに移すと、水面が小さく波打っている。震えは止まっていない。もう二つ、錠剤を取り出し、今度は歯で噛み砕きながら水で喉の奥まで流した。
「ショホウリョウヲ、コエテハイケマセンヨ」
電話口で聞いた声を反芻する。大丈夫、口で細かくしたから……。それは、彼女が考えられる精一杯の言い訳だった。
化粧室から出てきたのは、いつもと何も変わらない、人気モデル「ベル」だった。
「今日まで本当にお疲れ様でした!かんぱーい!!」
ベルの左隣に座っていた東堂は、彼女の音頭を聞いて、既に疲れを癒やされていた。中年の監督がやるよりずっといい。
「ビュッフェ形式の居酒屋って、おしゃれですね」
「居酒屋じゃない、ビアホールと呼ぶんだよ。ここは日本でも数少ない、本格イタリアンの高級チェーンだ」
ベルの右側に座る羽丹が代わりに答えた。まだまだ庶民肌です、と苦笑する東堂。
「このローストビーフ、おかわりしてこよっ」
ベルが腰を上げた。
「ベルさん、ペース早いですね」
「え、そう?お腹すいてるだけだよ」
はにかむ彼女を、東堂は思わずじっと見つめ返した。一瞬の間に、ベルは困ったような表情を浮かべた。
「あ、何かドリンク頼んどきます?ええと、メニュー表…」
「いいよ、東堂。ベルさん、早く行ってきたら?」
ベルはそそくさと席を後にした。東堂は静かに反省し始める。もう少し上手く話せた、もう彼女の顔を見られない、あまりにあからさますぎた。
しばらくして、ベルが皿を両手に席に戻ってきた。
「ただいまぁ」
「お帰りなさい……」
小さく返事をしても、彼女は東堂を少しも見ようとしない。東堂は彼女の顔の代わりに、彼女の盛りつけた皿に目をやった。
随分盛ったな、と声に出そうになる。慌てて息を吸って誤魔化す。ひゅっと音が漏れた。自分が知りえない部分を知ったことへの嬉しさより、若干冷めたような気持ちの方が強く出た。彼女は人一倍食欲旺盛だった。
皿に料理を盛ったのはこれで何度目だろうか。彼女は周りの目も構わず口に食事を吸い込んでいく。彼女の良さである「自分を飾らない行動」、他人が行き過ぎていると感じても、それは評価されるべきことなのだろうか。東堂はジョッキを煽って考えないことにした。
夜九時をまわると、飲み会もお開きの空気が自然と感じられるものである。
へべれけになったベルを羽丹が介抱している横で、東堂はちびちびと酒を嗜んでいた。
「たっくさん食べても、スタイル維持できるなんて、さっすがモデルですねぇ」
無遠慮にベルに話しかける。ニコニコ顔に緩急のついた口調は「酔っ払い」そのものだ。
「食べるのが好きだからいっぱい食べてもいいじゃない」
「ずっと聞きたかったんですけど、その美ボディに、秘密、あったりするんですか」
「知りたい?私の秘密。」
彼女は両手に収まるほど小さなショルダーバッグから、錠剤の入った小瓶を覗かせる。
「これを飲めば太らないの。このお薬のおかげで今の自分がある。粘着系ファンとか、ちょっとヤバいストーカーくんとかはもれなく増えちゃったけどね。あ、噂を広めたらダメよ」
「なるほど……」
「ふふ…冴えない相槌ね」
周りで他のスタッフが飲んでいるにも関わらず、二人だけで会話していることがより一層彼の心中をしどろもどろにさせた。
「二人だけの秘密よ」
彼女が耳元で囁いた。東堂の顔が林檎のように赤くなる。彼女のいたずらな笑みに、もう返事の一つも返せなくなってしまった。
「あーお腹空いちゃった。さぁ、デザートは残ってるかしら」
何事もなかったかのように、彼女は席を離れてゆく。会話から急に置き去りにされた東堂は、手持ち無沙汰に飲みかけのビール瓶を目で探した。
すると、空いた席のその隣、羽丹と目が合った。
「なぁ…ベルさん、何か言ってなかった?」
羽丹は遠慮がちに微笑む。
「会話に入りたかったんだけどよく聞こえなくて」
東堂のジョッキにビールを注ぎ足した。
「あぁありがとうございます…。別に大したことは話してませんよ。ただ……」
「ただ?」
「羽丹さんの言っていたことは、当たってました」
羽丹は一瞬きょとんとした顔になったが、やがて黙ってビュッフェ会場を眺めた。
その直後だった。
「お客様!おやめください!」
ヒステリックな声が響き渡ると、すぐさま会場の奥がざわめき始めた。
「なんだろう…」
「もしかして…ベルの過激なファンとか?」
その言葉で東堂は駆け出していた。ベルさんが危ないかもしれない、僕が行かなければ。半ば興奮気味で、ざわめいたホールを早歩きする。
騒ぎの中心は、スイーツの大皿が並ぶ広間だった。そこで、東堂は信じられない光景が目にした。
「ベルさん…何してるんですか」
ベルは床に座り、大皿を抱えてミニケーキを大量に食べていた。長い髪が垂れ、クリームがついても気にする様子は全くない。頬いっぱいにケーキを詰め込んでいるが、リスのような愛らしさはなく、目は半開きでもはや狂気じみていた。
「マナーを守りましょう?ねぇ」
腰が引けるも、彼女にそっと近づき、その場にしゃがんだ。
「○△&×%#」
「無理して喋らないで、喉に詰まらせますよ!」
口の中のものをゴクリと飲み込むと、彼女ははっきりと言った。
「食べ足りない」
ベルは左腕に皿を抱えたまま、皿の中に右手を伸ばす。東堂はとっさにその手首を掴んだ。
「おなかが!すいたの!」
「落ち着いてください…」
ベルが強い力で抵抗する。陶器の大皿が小刻みに震えた。どうしてこんなことになったのか。悪酔いにも程がある。東堂が考えを巡らせても、今の状況を打開する方法など見当もつかなかった。
「ベルさん!」
鋭い声で羽丹が叫んだ。東堂はベルの背後に羽丹がいることに初めて気がつく。それほど、彼女を押さえるのに夢中だった。
羽丹がベルをはがいじめにする。ベルは皿から左手を離さないまま、羽丹の右腕に噛み付いた。
「い゛ぁっ…」
掠れた声で唸る羽丹。ベルの唇から血液が垂れ、顎の先に溜まった。羽丹は苦痛に顔を歪ませながら、彼女を皿から引き剥がす。その勢いで、彼女を斜め左前に突き飛ばした。テーブルの脚に叩きつけられると、そのまま彼女は動かなくなった。
ベルが伸びているのを確認すると、羽丹は体の力が一気に抜けたのか、立膝になって身をかがめた。
東堂はベルと羽丹を交互に見やる。騒ぎを聞きつけた他の撮影スタッフたちが、すでに自分の周りに集まっていた。
「誰か彼女を運んでください。羽丹さん!大丈夫ですか……」
肩で息をしながら、羽丹に近づく。
「深く噛まれたけど、心配しないで……。今は彼女の方が心配だ」
女性スタッフを中心に、彼女は慎重に広間の隅に運ばれていった。
「女性に本能的な恐怖を感じたのは、初めてかもしれません」
「どうしてこんなことになったかな……」
東堂とは対照的に、羽丹は落ち着いていた。東堂は躊躇いながらも、信頼のおける羽丹なら、と小さく決心する。
「…薬を、飲んでるって、言ってました」
「薬?」
「はい。美容用だと思いますけど」
「……大方、服薬量を誤ったんだろうね。慢性的に飲みすぎてるとしたら、精神不安定にもつながるだろうし。そういえば、最近スタジオでも情緒が安定してないようなことがあった。撮影で忙しい日が続いて、辛くなっちゃったんだろう」
「なるほど……」
冴えない相槌ね。彼女の艶っぽい声が脳で再生される。それ以上の返事ができないくらいに一杯一杯なのは、あの時も今も変わらなかった。
「東堂、後始末を頼む。俺は救急に、ちょっとかかってくる。」
「はい」
羽丹の周りにできた血溜まりを見ながら、東堂は素直に返事をした。これ以上余計なことは言いたくない。東堂は心底そう思った。
この騒動は公には報道されなかったものの、ベルとの仕事はこの日を境にパタリと無くなった。
「ああ、例の件だけど、今月分の薬はもう渡さない方がいい。独断だが、振り込まれたお金は返金して、これからの取引も彼女とは一切やめよう。薬漬けで頭のおかしくなったやつと関わるのはリスキーだからね」
電話の相手は、静かに男の話を聞いている。ダンボールの積み上がった狭い部屋に、鼻をじんわりと刺激するような薬品の匂いが漂っていた。
水の入ったペットボトルを片手に、男は話を続ける。
「あの薬は、『食べても太らない』なんて言うけど、脂肪吸収防止と胃液増幅の役割を果たしているだけだ。仕事上たくさん食べにくい人とか、拒食症の人とかが飲む薬だけど、飲み過ぎれば逆に急激に空腹状態に陥る。薬の効果に味を占めて、薬に心まで預けるなんてもってのほか。お前たちも、くすねたり、勝手にダイエットに使ったりしないでね。処方量を守らないと、暴食の悪魔みたいになる薬だから」
蛍光灯が薄暗く点滅した。男は天井を見上げ、瞬きをすると思い出したように話し出す。
「俺の右腕の噛み傷の治療費、滅多に使わない労災で落とすんだ。今度上層部に会うときに俺の武勇伝でも伝えといて」
肘から下の包帯を優しく撫でる。彼女の本能的な恐怖を受け止めた腕には、歯形が鋭く残っていた。