先生は私の習字の先生であった。私は高校生の頃から公民館で毎週土曜の午前中に行われる習字教室に通っていた。早くに奥さんを亡くしてから、家と公民館の往復をしているだけの先生を外に連れ出すために私は上野にある動物園に誘ったのである。
「ところで、なぜ動物園にしたのですか? 」
美術館を過ぎたあたりで最初に口を開いたのは先生だった。先生は真っすぐと動物園のほうを見たまま問い始める。
「動物が好きだからです。何もしてなくてもかわいいと言ってもらえるのが羨ましくて。」
「ユミさんも何もしなくても綺麗だと思いますよ。」
最近、数年付き合っていた彼氏に浮気されていた話をしたからか、先生はそう優しく言ってくれた。その瞬間、先生が私の歩幅とスピードに合わせて歩いていることに気付く。先生はどこまでも優しい。私の少しひねくれた考えを深いやさしさで正してくれていた。先生はいつも朱液のようであった。そのやさしさが心地よく、少しずれた答えを出し反応を楽しむことが何年も変わらない先生との小さな遊びとなっていた。
「先生、それは口説き文句ですか。」
「二十個も下の子に口説いたりはしないですよ。自信を持てということです。」
先生とやっと目が合う。でもその目は落ち着いていて、口説き文句という挑発に全く動じていない。やはり先生は先生であった。
「それにしても今日は暑いですね。」
先生の目じりに深く刻まれた皺に汗が流れ落ちる。帽子を浮かせ、綺麗にたたまれたハンカチで額ににじみ出た汗を拭う。私がじっと見ていたのがばれて目が合った。
「恥ずかしいところを見せてしまいましたね。」
笑った先生の目じりから汗が流れ落ち、そのまま首に落ちた。年中タートルネックを着ている先生の首を初めて見たかもしれない。思った以上にしわくちゃで先生の年齢を感じた。少しだけ、ほんの少しだけ触れてみたくて手を伸ばした。私の知らない先生の人生を感じてみたかったのだ。
「ダメですよ、ユミさん。」
先生は笑いながら私を見ていた。「ダメ」という先生の声が頭の中で響き渡る。途端に先生の首にのびた手が行き場を失ってしまった。
「大丈夫です。人は誰でも失敗します。早く動物園に行きましょう。」
先生はゆっくりと歩き始めた。急いでついていけば、また先生は私の歩幅とスピードに戻る。先生は「たまには散歩も悪くないですね」といい、空を見上げていた。先生の奥さんのことを考えているのかもしれない。私は何も言わず、先生の隣をひっそりと歩いた。
「ところで、なぜ動物園にしたのですか? 」
美術館を過ぎたあたりで最初に口を開いたのは先生だった。先生は真っすぐと動物園のほうを見たまま問い始める。
「動物が好きだからです。何もしてなくてもかわいいと言ってもらえるのが羨ましくて。」
「ユミさんも何もしなくても綺麗だと思いますよ。」
最近、数年付き合っていた彼氏に浮気されていた話をしたからか、先生はそう優しく言ってくれた。その瞬間、先生が私の歩幅とスピードに合わせて歩いていることに気付く。先生はどこまでも優しい。私の少しひねくれた考えを深いやさしさで正してくれていた。先生はいつも朱液のようであった。そのやさしさが心地よく、少しずれた答えを出し反応を楽しむことが何年も変わらない先生との小さな遊びとなっていた。
「先生、それは口説き文句ですか。」
「二十個も下の子に口説いたりはしないですよ。自信を持てということです。」
先生とやっと目が合う。でもその目は落ち着いていて、口説き文句という挑発に全く動じていない。やはり先生は先生であった。
「それにしても今日は暑いですね。」
先生の目じりに深く刻まれた皺に汗が流れ落ちる。帽子を浮かせ、綺麗にたたまれたハンカチで額ににじみ出た汗を拭う。私がじっと見ていたのがばれて目が合った。
「恥ずかしいところを見せてしまいましたね。」
笑った先生の目じりから汗が流れ落ち、そのまま首に落ちた。年中タートルネックを着ている先生の首を初めて見たかもしれない。思った以上にしわくちゃで先生の年齢を感じた。少しだけ、ほんの少しだけ触れてみたくて手を伸ばした。私の知らない先生の人生を感じてみたかったのだ。
「ダメですよ、ユミさん。」
先生は笑いながら私を見ていた。「ダメ」という先生の声が頭の中で響き渡る。途端に先生の首にのびた手が行き場を失ってしまった。
「大丈夫です。人は誰でも失敗します。早く動物園に行きましょう。」
先生はゆっくりと歩き始めた。急いでついていけば、また先生は私の歩幅とスピードに戻る。先生は「たまには散歩も悪くないですね」といい、空を見上げていた。先生の奥さんのことを考えているのかもしれない。私は何も言わず、先生の隣をひっそりと歩いた。
もう少し長いのが読みたいぜ。待ってます。