雨の冬の匂いは、夏の匂いと似てDm6の香りがする。窓の外には雨をよけるようにツバメが低く飛んでいる。僕はその飛翔の線をメロディーにしようと思いDAWソフトに向かってMIDIキーボードを叩いた。再生する。しかしそれは限りなく凡作で、僕はすぐに作った部分を削除しゆっくりとDENONのヘッドホンを外す。午後はいつも、憂鬱だ。
1.冬
僕は裸の胸の上に眠る君の顔をそっと離して上体を起こした。窓には静かに瞬く渋谷の街並みが見えている。安いゆえに都市部から少し離れたこのラブホテルから見える景色は、宝石箱をひっくり返したというには白と黄色ばかりで散り方も乱雑だったけれど、綺麗だった。
しかしもうこの景色も、とうにこのぬるく続く日常の一片に過ぎなくなっていた。
春が来る、というのは絶望と同じだと思う。もうこのまま二度と春が来ないとしたら、僕らはどれだけ輝けるだろう。この夜景すらももっと大切で、美しく、愛おしいものに思えるに違いない。でも、望まなくても春はやがて訪れる。僕の作る音楽と同じように、だらだらと脈略のない日常の中で。一体、春を憎むようになったのはいつからだろうか。
君はその長いまつげの上に夢に浮かべ、すやすやと安らかに眠っている。僕は思わず、その柔らかで清らかな長い髪を撫でる。つややかな黒色が、夜闇の中で質感を放っている。
僕のこの気持ちは、いったい何なのだろうか。愛と呼ぶにはまだ未熟すぎて、恋というには激しさの足りないこの君への気持ちは。執着が、足りない。たぶん。君に対しても、この冬に対しても、きっと、音楽に対しても。僕は人生という五線譜の上に同じコード進行を書き続けている。それは単調で、ある意味グルーヴで、しかし、それだけだ。それだけの日常が、未来に続いている。Dm6が、ゆっくり頭のなかで鳴いている。
2.春
つないだ君の手の温度は、何℃なのだろうか。その温度と質感を再現した機械の手があれば、僕はそこに愛を感じるのだろうか。そう考えれば、愛なんてものはまやかしで、この手のひらから伝わる熱は、到底愛なんて呼べやしない。
代々木公園沿いを歩くと、桜が東風に乗って頭上から降り注いでくる。柔らかな小さな花弁は夕陽の光に一瞬透けては、ひらりと身を翻して地面に落ちてゆく。それは限りなく普遍的な僕の日常への唐突な差し色のようで、僕の人生までもが一瞬透けて君に覗かれるようだった。
「綺麗ね。」
君があまりにも簡単に言うから、僕は少し、うろたえてしまう。君の髪がさらっと風に靡いて、甘い香りが鼻腔をくすぐる。太陽が西のビルの陰に姿をふわりと消してしまう。僕は、冬から変わったものと、いつまでも変わらないものを考えてみる。僕は、君は、何が変わったのだろうか。
人はときどき、変わらないものとして愛を数えたりする。僕はその事実を憎んだ。そして僕は、僕と君だけは、この世界で何も変わらなければいいと考える。それだけで、報われるような、そんな気がする。君が変わってしまったら、僕は一体何をどうすればいいだろうか。今後をどうやって生きていけばいいだろうか。
だから、僕は彼女の足取りを横目に見遣る。いつもと変わらない、ホテルへの道。軽快なワルツのステップのように、美しく儚げでか弱い足取り。
僕はその足取りを愛していると思う。君のその部分に関しては確かに、確かに愛している。それが僕らの日常と言うなら、僕は日常を愛していることになるのだろうか。
3.夏
暗闇のなかで君の汗がその小さな額に光る。純白のシーツの上に君の髪が無造作に散らばり、君の熱い身体が快感に静かにうねる。君のこらえた静かな吐息が、妖しげに唇から漏れ出る。僕は動かしていた腰の勢いを少しだけ激しくする。君の髪が揺れ、やわらかなその皮膚が汗ばむ。僕はどうしようもなくなって、上から覆いかぶさるように君を強く抱きしめた。君の吐息が耳たぶに震えては暗闇へ吸い込まれていく。僕は脳内で何かの快感物質が強く放出されるのを感じる。
僕らは言葉もなしに、強く結びつき合っていた。そのことが何よりの幸福感だった。
君の中の柔らかな場所と僕の中の硬い部分が強く合わさる。精神的な充足感と肉体的な快感が渦になって僕の脳を刺激する。やがて君の感じていた快感が頂点に達し、君が強く身体ごとふるえる。それと同時に僕が首元まで感じていた快感も一気に脳天から立ちのぼり、白い矢となって発射される。
僕がさらに強く抱きしめると君は「痛いよ」と小さな声で呟いてから笑った。
そして僕は、君の変わっていないことを知る。僕と君が、変わっていなかったことを。そして、変わっていたことを数えてみる。それは、僕らが変わっていないことを、とても大切で、美しく、愛すべきことと思い始めたこの心だろうか。
「愛してる」
君の声が鼓膜に響いた。僕は少し驚いて上体を起こし、君の目を見つめる。君の目はどこか遠くを見つめるようにして、僕を見ていた。二重がちな切れ目の目の奥に黒い瞳が玉のように淡く光る。僕もその瞳を愛していた。君を、君の生を、愛していた。それは雨にふるえるツバメのかすかな羽ばたきほど、あるいは夕陽に透かされて落ちてゆく桜の花びらのひとひらほどの気持ちで、僕の胸を締め付ける。
「愛してる」
僕も君を見つめてそう呟く。
昨日と今日と明日は同じで、でも確かにどこか違っていた。それはこの世のありとあらゆる音の中でF#m9とF#m11の違いくらいだったけれど、確かに違っていた。
僕は振り向いて窓の外を眺める。雨の降る渋谷の夏は相変わらずDm6のような香りがするけれど、僕はその香りすらきっと愛していたのだ。
雨に煙った渋谷の街明かりが、眼下に瞬いている。
宝石箱をひっくり返したというには白と黄色ばかりで散り方も乱雑だったけれど、綺麗だった。たったいま、僕はそれを、少しだけ、愛おしいと思った。
気づけば君の寝息が静かに聞こえている。僕はその柔らかで清らかな長い髪を撫でる。僕はこの日々に、変わらぬ日常に、生きていた。
ただ同じような音楽を聴いて、同じような時間に起きて、同じように過ごす明日が、もう、すぐそこまで来ている。
1.冬
僕は裸の胸の上に眠る君の顔をそっと離して上体を起こした。窓には静かに瞬く渋谷の街並みが見えている。安いゆえに都市部から少し離れたこのラブホテルから見える景色は、宝石箱をひっくり返したというには白と黄色ばかりで散り方も乱雑だったけれど、綺麗だった。
しかしもうこの景色も、とうにこのぬるく続く日常の一片に過ぎなくなっていた。
春が来る、というのは絶望と同じだと思う。もうこのまま二度と春が来ないとしたら、僕らはどれだけ輝けるだろう。この夜景すらももっと大切で、美しく、愛おしいものに思えるに違いない。でも、望まなくても春はやがて訪れる。僕の作る音楽と同じように、だらだらと脈略のない日常の中で。一体、春を憎むようになったのはいつからだろうか。
君はその長いまつげの上に夢に浮かべ、すやすやと安らかに眠っている。僕は思わず、その柔らかで清らかな長い髪を撫でる。つややかな黒色が、夜闇の中で質感を放っている。
僕のこの気持ちは、いったい何なのだろうか。愛と呼ぶにはまだ未熟すぎて、恋というには激しさの足りないこの君への気持ちは。執着が、足りない。たぶん。君に対しても、この冬に対しても、きっと、音楽に対しても。僕は人生という五線譜の上に同じコード進行を書き続けている。それは単調で、ある意味グルーヴで、しかし、それだけだ。それだけの日常が、未来に続いている。Dm6が、ゆっくり頭のなかで鳴いている。
2.春
つないだ君の手の温度は、何℃なのだろうか。その温度と質感を再現した機械の手があれば、僕はそこに愛を感じるのだろうか。そう考えれば、愛なんてものはまやかしで、この手のひらから伝わる熱は、到底愛なんて呼べやしない。
代々木公園沿いを歩くと、桜が東風に乗って頭上から降り注いでくる。柔らかな小さな花弁は夕陽の光に一瞬透けては、ひらりと身を翻して地面に落ちてゆく。それは限りなく普遍的な僕の日常への唐突な差し色のようで、僕の人生までもが一瞬透けて君に覗かれるようだった。
「綺麗ね。」
君があまりにも簡単に言うから、僕は少し、うろたえてしまう。君の髪がさらっと風に靡いて、甘い香りが鼻腔をくすぐる。太陽が西のビルの陰に姿をふわりと消してしまう。僕は、冬から変わったものと、いつまでも変わらないものを考えてみる。僕は、君は、何が変わったのだろうか。
人はときどき、変わらないものとして愛を数えたりする。僕はその事実を憎んだ。そして僕は、僕と君だけは、この世界で何も変わらなければいいと考える。それだけで、報われるような、そんな気がする。君が変わってしまったら、僕は一体何をどうすればいいだろうか。今後をどうやって生きていけばいいだろうか。
だから、僕は彼女の足取りを横目に見遣る。いつもと変わらない、ホテルへの道。軽快なワルツのステップのように、美しく儚げでか弱い足取り。
僕はその足取りを愛していると思う。君のその部分に関しては確かに、確かに愛している。それが僕らの日常と言うなら、僕は日常を愛していることになるのだろうか。
3.夏
暗闇のなかで君の汗がその小さな額に光る。純白のシーツの上に君の髪が無造作に散らばり、君の熱い身体が快感に静かにうねる。君のこらえた静かな吐息が、妖しげに唇から漏れ出る。僕は動かしていた腰の勢いを少しだけ激しくする。君の髪が揺れ、やわらかなその皮膚が汗ばむ。僕はどうしようもなくなって、上から覆いかぶさるように君を強く抱きしめた。君の吐息が耳たぶに震えては暗闇へ吸い込まれていく。僕は脳内で何かの快感物質が強く放出されるのを感じる。
僕らは言葉もなしに、強く結びつき合っていた。そのことが何よりの幸福感だった。
君の中の柔らかな場所と僕の中の硬い部分が強く合わさる。精神的な充足感と肉体的な快感が渦になって僕の脳を刺激する。やがて君の感じていた快感が頂点に達し、君が強く身体ごとふるえる。それと同時に僕が首元まで感じていた快感も一気に脳天から立ちのぼり、白い矢となって発射される。
僕がさらに強く抱きしめると君は「痛いよ」と小さな声で呟いてから笑った。
そして僕は、君の変わっていないことを知る。僕と君が、変わっていなかったことを。そして、変わっていたことを数えてみる。それは、僕らが変わっていないことを、とても大切で、美しく、愛すべきことと思い始めたこの心だろうか。
「愛してる」
君の声が鼓膜に響いた。僕は少し驚いて上体を起こし、君の目を見つめる。君の目はどこか遠くを見つめるようにして、僕を見ていた。二重がちな切れ目の目の奥に黒い瞳が玉のように淡く光る。僕もその瞳を愛していた。君を、君の生を、愛していた。それは雨にふるえるツバメのかすかな羽ばたきほど、あるいは夕陽に透かされて落ちてゆく桜の花びらのひとひらほどの気持ちで、僕の胸を締め付ける。
「愛してる」
僕も君を見つめてそう呟く。
昨日と今日と明日は同じで、でも確かにどこか違っていた。それはこの世のありとあらゆる音の中でF#m9とF#m11の違いくらいだったけれど、確かに違っていた。
僕は振り向いて窓の外を眺める。雨の降る渋谷の夏は相変わらずDm6のような香りがするけれど、僕はその香りすらきっと愛していたのだ。
雨に煙った渋谷の街明かりが、眼下に瞬いている。
宝石箱をひっくり返したというには白と黄色ばかりで散り方も乱雑だったけれど、綺麗だった。たったいま、僕はそれを、少しだけ、愛おしいと思った。
気づけば君の寝息が静かに聞こえている。僕はその柔らかで清らかな長い髪を撫でる。僕はこの日々に、変わらぬ日常に、生きていた。
ただ同じような音楽を聴いて、同じような時間に起きて、同じように過ごす明日が、もう、すぐそこまで来ている。