「みなさん、『文学実践演習』の授業へようこそ。
この授業では『実際に小説を書くこと』を中心とした講義です。作品の研究をするにも、まずは実践から。あなたの中の『文学』を掘り下げていきましょう。
初回では、皆さんにとって身近であろう『小説』から触れていきます。今週の課題は、『あなたにとっての小説を書いてくること』とします。字数、内容などは一切問いません。ただし、必ず小説の形で持ってきてください。授業が始まる時点で私に提出してもらいます。
『小説』、それは私たちに最も身近なものですが、ジャンル、時代、内容、などは多彩で、自分が嗜好とする類の小説は知っていても、それを跨ぐととんと知らないということが往々にあります。まずはあなたの中の『小説』を洗い出してみましょう。
きっとそこには、あなたが無意識に囚われているものが洗い出されるはずです。
まずは、書いてみてください。
それでは、お待ちしています。
大人真智」
小説。
それはかつての三年間で嫌というほど書いてきたはずだ。ある時は苦しんで、ある時は希望を胸に。そのかつては、まだ一月ほど前の話だ。
一人暮らし、深夜一時、パソコン以外からの光源が存在しない七畳の部屋。画面には紙を模した白い光が照らされている。
「半年で下っ手くそになったなぁ……」
大学に受かってからというもの、受験期に溜まっていた本を読んだり、会い損ねていた人にあったり、何かと言い訳をして書くことから逃げてきた。これはどうしようもないことだったんだ……。いや、そんな言葉が出てくることすら言い訳だろう。
小説を書かないとは、つまり話を作る行為の放棄を意味する。話の種をつなぎ合わせる、脳をスクリーンとして情景を浮かべる、人間をホムンクルスの小瓶で創造する、その二つを適切なアングルから思い描く、それを繰り返す……。
小説を書くとは、その場で泊まってにドラマを撮ることに近しい。しかもドラマと違って、ロケーションまで自分で用意する必要がある。
この調和が崩れたものを、世は駄文と評する。
先ほどまで自分が書いていた小説のことだ。
コンビニで印刷した原稿に入った大量の赤字は、もう一度見る気にもならない。
自分の小説を客観的に述べるなら次の通りだ。
■文が不必要に冗長である。
■それでいて意外性に欠けた展開である。
■人の行動が、文字の外に出ていかず、生き生きとしていない。つまり、読者が書かれていないことを想像する余地がない。
自分は、このように現状を客観的に分析することを得意とするが、それを実際に創造するのはどうも苦手だ。
「あーくそっ!」
ガタンっ。机の上に置かれた、片づけてない食器が音を立てて揺れる。
床に落ちる、赤い線が連なった、提出課題になりそこねたもの。
どうして、自分は。どうして、いつから。
食堂でパソコンを開いているやつの半分は、未来の作家となるべく小説を書いている。編集者になりたいやつは自ら出版社のアルバイトに応募して、業界の人と共に働いている。
そんな人間に比べて、俺は何をしているのだろう。
大学の最寄りで連夜カラオケに行って、中庭で益のない話を繰り返して、惰性でSNSを開いて、それで課題を書くために追い詰められて、こんな、夜遅くまで……。
高校のときに思い描いていた大学生は、こんなものだったのだろうか?
「大学入ってひと月も経たないというのに、随分お疲れのようですね先輩」
俺の首には白く輝く刃紋が突きつけられていた。
切っ先は首に当たって、熱が微かに逃げていく感覚がある。首から、熱を発散していくかのような気配が。
周りはあたり一面真っ白だ。地平線も見えない。煌々と輝く空間は、俺と彼女以外の存在を許していない。
「ヨハンナか」
「えぇ。お久しぶりです」
ヨハンナ、こと吉田華は文芸部の後輩である。
彼女をよく知っている人間からすれば、随分と皮肉な名前だと思うことだろう。
「とりあえず、その日本刀しまってくれないか?」
「やだなぁ、これ、先輩が持たせたんでしょ? だって、ここは夢の中なんですから」
確かにこの状況は夢としか言いようがない。
彼女の恰好もちぐはぐだ。日本刀を持ちながら、着ているのはタキシード、しかも鞘がどこにもない。
「あら、この姿はお気に召さないんですか?」
そう言いながら、彼女の装束はドレスへと変化した。混じりけのなき黒一色だ。腕ほどもある黒い羽根が、ドレスのあちこちに突き刺さっている。
細く引き締まった目元の雰囲気が、また妖艶な雰囲気を加速させる。
いつの間にか、日本刀も消えている。
「……いつの黒魔女だよ」
「知りませんよ。これはあなたの中のボク。あなた本当にボクのことなんだと思ってるんですか」
少なくとも、人外の類だ。後輩として可愛げがなすぎる。
年上であろうと臆することなく核心を突く内容を述べ、自らを卑下しながら、己ができることをできない他者と分かり合う余地を見せない。
能力は極めて優秀、毎日のように五千字は書いている。多いときは徹夜で二万字だ。一度伝えたことを十まで理解して動き、その作業はとても素早く正確であり、他に比肩する人間はいない。
文章は細かく精緻で、しかも無駄がない。宝飾品を画材としたフラスコ画。あの文体を形容するならそれが近しい。
「あら、そんなにお褒めいただいて光栄ですけど、人外というのは納得できませんね。」
「実際そうだろ。後にも先にも、長編小説を一か月で書きあげて部誌に載せたのは君だけだ。」
あの時は大変だった。彼女が書いた分だけでページ数は百を超えた。ほかの部員は多くても二十ページくらいだったというのに。そのままだと、学校では製本できないページ数になってしまった。
仕方なく彼女に、「もし、その作品を部誌に載せたいなら、製本業者に回してくれ」と告げた。もし業者に出すなら自腹で払うこと、回収したければ有料で売れと付け加えて。
「なぁに、一日で売り捌いて見せますよ」
結局、自分の引退作品が載った部誌の頒布よりも早く品切れたのだ。なんという女だ、まったく。
あのときは本当に信じられない光景だった。廊下に立って在校生に自分の描いた表紙を見せる。あらすじを異国の御伽草子のように神秘的で、魅力のあるものとして語る。人は見知らぬもの、そして面白いと信じ込まされたものには、財布のひもをひねるわけだ。
ちゃりん。段ボールの箱に、桜が刻まれた硬貨が三枚投げ込まれる。
最終的に、それは三百枚ほど集まった。
大量の紙の束が積まれた横で。
「あの時は大変でしたねー。私の分以外の部誌も徹夜で製本して……」
「学校に無断で泊まってよく何も言われなかったよな」
その時にはどちらも、かつての姿に戻っていた。濃紺のブレザー、その左胸に縫い付けられている校章、青・赤・金のトリコロールになっているぺらっぺらのネクタイ。
「さぁどうぞこちらに。私はあなたと話したいことがたくさんあるんです」
部室にあった白い机だ。白いと言っても、印刷のインクや鉛筆でくすんでいたが。机の上にはナイフの刺さったパンと、割れたグラス。そして小さな麻の袋。
「悪趣味」
「えぇ本当に」
「違う、君が用意したんだろ」
俺が手を払うと、机の上にはお猪口(ちょこ)と笊(ざる)に入った枝豆が置かれた。そもそも食事をする空間を部室に拘る必要はない。
空間は畳の敷かれた個室となった。
「ほかに何かほしいのある?」
「焼き魚ください。できれば辛めの味付けで」
橙の照り輝く焼き鮭が、間髪入れずに用意される。
「で、なんで小説が書けなくなったんです?」
「わかってたら、君ここにいないでしょ」
「えぇそうですね」
そう言いながら、ヨハンナは少しずつ身をほぐしていく。
ぺりぺりと魚の骨がはがれていく光景を見るのが、なぜだか昔から好きだった。きれいにそろった背骨の並びは箸をおいて眺めたくなる。
なんとなく、ヨハンナは魚の小骨をとるのが得意なイメージがある。紙を取るときのめくり方、手首の滑らかな動き、つま先から降ろすような歩き方。行動の端々に品の良さが見える。
「ちなみにヨハンナって、小説書けなくなったことある?」
「いえ、まったく。だってあなた、息できなくなったことありますか?」
なるほど。
「そしたら俺はもう死んでいる」
「どこのケンシロウですか。そういうことです」
彼女の言っていることはある種の真理だろう。
小説を書く人間にとって、小説を書くこと自体に疑問を抱かなければ、創作が休まることはない。文章を書き続けることと巧拙の間に絶対的な相関はないが、当然それだけ確率はあがる。
「書いてないの三か月くらいなんだけどね」
「三か月も書いてなかったらそりゃ腕落ちるでしょ。文芸部のときは常に締め切りがあって、その緊迫感の中で作品を作ってたわけですから。」
鮭を箸でつかんで、息を吹きかけるヨハンナ。
魚の身が赤から白へと変化していく。どうやら鮭はお気に召さなかったご様子だ。
「そういうもんか」
「そういうもんでしょうよ」
そういえば、日本酒はどういう味がするのだろう。じいちゃんはいつも宴席でおいしそうに飲んでいるわけだが、当然自分は飲んだことがない。
ここで飲んでも、味は当然ただの甘酒だ。
「まぁウダウダ言わずに書いてみることをおすすめしますよ。物書きであれば、文字に物事を命じることは容易いことですから」
語尾の後ろに音符でもつきそうな口調で軽々と言ってこられても、それを実際にやるのは自分なわけだから困る。ヨハンナは言うだけだから気楽なものだが、こっちは実際に書かなければいけないのだから。
「物書きは文字だけで生きるんじゃなくて、小説から出る一つ一つの言葉で生きるものだから」
「殊勝ですね。でも、難しく考えることはないんですよ。既に、あなたは種を蒔き終わったんですから」
「『駄文が生えてくる前に、毒芽を摘んでおくか?』」
「『いや、それではいい文も刈り取ってしまうかもしれない。すべて揃ってから駄文のみを刈りなさい。ただし私の畑からは毒麦が生えることがないから上手くいくかは』」
さすがだ。よくわかっている。
「当たり前でしょう。あなたの脳内で話してるんだから」
そうだ、そう。すべて俺の幻だ。幻想と言ってもいい。
今のやり取りも、本物の彼女は知らない。すべてが存在しない記憶。それでも自分の考えをまとめる助けとなっていると考えれば、それは大事な行為だと思う。
すでに脳内で新しい小説の構想は着実に積みあがりつつあった。
「そういえば面白い人いました?」
「面白いやつぅ?」
そういわれても、大学には変な人間がたくさんいる。高校の頃とは比べ物にならない。その中でもずば抜けた人と言えば……。
「ゴヨハゼってわかる? スマクリに出てくる水色の……」
スマクリこと、スマートクリーチャーは日本発の世界に名だたるゲームだ。
「それがどうしたんですか」
「ゴヨハゼがめっちゃ好きな先輩いてさ。全身水色、アイコンもパソコンのステッカーも全部ゴヨハゼ。スマホは自分で作ったゴヨハゼケース」
「はぁーなかなかにぶっ飛んだオタクですね」
「でもすごい人だ。後輩のために、履修の取り方まとめてくれたり、小説家になりたい人が切磋琢磨できるようなサークル立ち上げたり……」
先輩が立ち上げた「九日会」は上級生から下級生問わず多くの人が入っている。今や五十人を超えるんじゃなかろうか。
「さて、そろそろ時間です。考えはまとまりましたか?」
「とっても」
壁はひびが入って光がこぼれてくる。深夜二時の東京の月明りが、目の隙間から差してくるように。
「また、御用でしたらお呼びください」
ところで、彼女が最後に身に着けていた服は何だっただろうか。
この授業では『実際に小説を書くこと』を中心とした講義です。作品の研究をするにも、まずは実践から。あなたの中の『文学』を掘り下げていきましょう。
初回では、皆さんにとって身近であろう『小説』から触れていきます。今週の課題は、『あなたにとっての小説を書いてくること』とします。字数、内容などは一切問いません。ただし、必ず小説の形で持ってきてください。授業が始まる時点で私に提出してもらいます。
『小説』、それは私たちに最も身近なものですが、ジャンル、時代、内容、などは多彩で、自分が嗜好とする類の小説は知っていても、それを跨ぐととんと知らないということが往々にあります。まずはあなたの中の『小説』を洗い出してみましょう。
きっとそこには、あなたが無意識に囚われているものが洗い出されるはずです。
まずは、書いてみてください。
それでは、お待ちしています。
大人真智」
小説。
それはかつての三年間で嫌というほど書いてきたはずだ。ある時は苦しんで、ある時は希望を胸に。そのかつては、まだ一月ほど前の話だ。
一人暮らし、深夜一時、パソコン以外からの光源が存在しない七畳の部屋。画面には紙を模した白い光が照らされている。
「半年で下っ手くそになったなぁ……」
大学に受かってからというもの、受験期に溜まっていた本を読んだり、会い損ねていた人にあったり、何かと言い訳をして書くことから逃げてきた。これはどうしようもないことだったんだ……。いや、そんな言葉が出てくることすら言い訳だろう。
小説を書かないとは、つまり話を作る行為の放棄を意味する。話の種をつなぎ合わせる、脳をスクリーンとして情景を浮かべる、人間をホムンクルスの小瓶で創造する、その二つを適切なアングルから思い描く、それを繰り返す……。
小説を書くとは、その場で泊まってにドラマを撮ることに近しい。しかもドラマと違って、ロケーションまで自分で用意する必要がある。
この調和が崩れたものを、世は駄文と評する。
先ほどまで自分が書いていた小説のことだ。
コンビニで印刷した原稿に入った大量の赤字は、もう一度見る気にもならない。
自分の小説を客観的に述べるなら次の通りだ。
■文が不必要に冗長である。
■それでいて意外性に欠けた展開である。
■人の行動が、文字の外に出ていかず、生き生きとしていない。つまり、読者が書かれていないことを想像する余地がない。
自分は、このように現状を客観的に分析することを得意とするが、それを実際に創造するのはどうも苦手だ。
「あーくそっ!」
ガタンっ。机の上に置かれた、片づけてない食器が音を立てて揺れる。
床に落ちる、赤い線が連なった、提出課題になりそこねたもの。
どうして、自分は。どうして、いつから。
食堂でパソコンを開いているやつの半分は、未来の作家となるべく小説を書いている。編集者になりたいやつは自ら出版社のアルバイトに応募して、業界の人と共に働いている。
そんな人間に比べて、俺は何をしているのだろう。
大学の最寄りで連夜カラオケに行って、中庭で益のない話を繰り返して、惰性でSNSを開いて、それで課題を書くために追い詰められて、こんな、夜遅くまで……。
高校のときに思い描いていた大学生は、こんなものだったのだろうか?
「大学入ってひと月も経たないというのに、随分お疲れのようですね先輩」
俺の首には白く輝く刃紋が突きつけられていた。
切っ先は首に当たって、熱が微かに逃げていく感覚がある。首から、熱を発散していくかのような気配が。
周りはあたり一面真っ白だ。地平線も見えない。煌々と輝く空間は、俺と彼女以外の存在を許していない。
「ヨハンナか」
「えぇ。お久しぶりです」
ヨハンナ、こと吉田華は文芸部の後輩である。
彼女をよく知っている人間からすれば、随分と皮肉な名前だと思うことだろう。
「とりあえず、その日本刀しまってくれないか?」
「やだなぁ、これ、先輩が持たせたんでしょ? だって、ここは夢の中なんですから」
確かにこの状況は夢としか言いようがない。
彼女の恰好もちぐはぐだ。日本刀を持ちながら、着ているのはタキシード、しかも鞘がどこにもない。
「あら、この姿はお気に召さないんですか?」
そう言いながら、彼女の装束はドレスへと変化した。混じりけのなき黒一色だ。腕ほどもある黒い羽根が、ドレスのあちこちに突き刺さっている。
細く引き締まった目元の雰囲気が、また妖艶な雰囲気を加速させる。
いつの間にか、日本刀も消えている。
「……いつの黒魔女だよ」
「知りませんよ。これはあなたの中のボク。あなた本当にボクのことなんだと思ってるんですか」
少なくとも、人外の類だ。後輩として可愛げがなすぎる。
年上であろうと臆することなく核心を突く内容を述べ、自らを卑下しながら、己ができることをできない他者と分かり合う余地を見せない。
能力は極めて優秀、毎日のように五千字は書いている。多いときは徹夜で二万字だ。一度伝えたことを十まで理解して動き、その作業はとても素早く正確であり、他に比肩する人間はいない。
文章は細かく精緻で、しかも無駄がない。宝飾品を画材としたフラスコ画。あの文体を形容するならそれが近しい。
「あら、そんなにお褒めいただいて光栄ですけど、人外というのは納得できませんね。」
「実際そうだろ。後にも先にも、長編小説を一か月で書きあげて部誌に載せたのは君だけだ。」
あの時は大変だった。彼女が書いた分だけでページ数は百を超えた。ほかの部員は多くても二十ページくらいだったというのに。そのままだと、学校では製本できないページ数になってしまった。
仕方なく彼女に、「もし、その作品を部誌に載せたいなら、製本業者に回してくれ」と告げた。もし業者に出すなら自腹で払うこと、回収したければ有料で売れと付け加えて。
「なぁに、一日で売り捌いて見せますよ」
結局、自分の引退作品が載った部誌の頒布よりも早く品切れたのだ。なんという女だ、まったく。
あのときは本当に信じられない光景だった。廊下に立って在校生に自分の描いた表紙を見せる。あらすじを異国の御伽草子のように神秘的で、魅力のあるものとして語る。人は見知らぬもの、そして面白いと信じ込まされたものには、財布のひもをひねるわけだ。
ちゃりん。段ボールの箱に、桜が刻まれた硬貨が三枚投げ込まれる。
最終的に、それは三百枚ほど集まった。
大量の紙の束が積まれた横で。
「あの時は大変でしたねー。私の分以外の部誌も徹夜で製本して……」
「学校に無断で泊まってよく何も言われなかったよな」
その時にはどちらも、かつての姿に戻っていた。濃紺のブレザー、その左胸に縫い付けられている校章、青・赤・金のトリコロールになっているぺらっぺらのネクタイ。
「さぁどうぞこちらに。私はあなたと話したいことがたくさんあるんです」
部室にあった白い机だ。白いと言っても、印刷のインクや鉛筆でくすんでいたが。机の上にはナイフの刺さったパンと、割れたグラス。そして小さな麻の袋。
「悪趣味」
「えぇ本当に」
「違う、君が用意したんだろ」
俺が手を払うと、机の上にはお猪口(ちょこ)と笊(ざる)に入った枝豆が置かれた。そもそも食事をする空間を部室に拘る必要はない。
空間は畳の敷かれた個室となった。
「ほかに何かほしいのある?」
「焼き魚ください。できれば辛めの味付けで」
橙の照り輝く焼き鮭が、間髪入れずに用意される。
「で、なんで小説が書けなくなったんです?」
「わかってたら、君ここにいないでしょ」
「えぇそうですね」
そう言いながら、ヨハンナは少しずつ身をほぐしていく。
ぺりぺりと魚の骨がはがれていく光景を見るのが、なぜだか昔から好きだった。きれいにそろった背骨の並びは箸をおいて眺めたくなる。
なんとなく、ヨハンナは魚の小骨をとるのが得意なイメージがある。紙を取るときのめくり方、手首の滑らかな動き、つま先から降ろすような歩き方。行動の端々に品の良さが見える。
「ちなみにヨハンナって、小説書けなくなったことある?」
「いえ、まったく。だってあなた、息できなくなったことありますか?」
なるほど。
「そしたら俺はもう死んでいる」
「どこのケンシロウですか。そういうことです」
彼女の言っていることはある種の真理だろう。
小説を書く人間にとって、小説を書くこと自体に疑問を抱かなければ、創作が休まることはない。文章を書き続けることと巧拙の間に絶対的な相関はないが、当然それだけ確率はあがる。
「書いてないの三か月くらいなんだけどね」
「三か月も書いてなかったらそりゃ腕落ちるでしょ。文芸部のときは常に締め切りがあって、その緊迫感の中で作品を作ってたわけですから。」
鮭を箸でつかんで、息を吹きかけるヨハンナ。
魚の身が赤から白へと変化していく。どうやら鮭はお気に召さなかったご様子だ。
「そういうもんか」
「そういうもんでしょうよ」
そういえば、日本酒はどういう味がするのだろう。じいちゃんはいつも宴席でおいしそうに飲んでいるわけだが、当然自分は飲んだことがない。
ここで飲んでも、味は当然ただの甘酒だ。
「まぁウダウダ言わずに書いてみることをおすすめしますよ。物書きであれば、文字に物事を命じることは容易いことですから」
語尾の後ろに音符でもつきそうな口調で軽々と言ってこられても、それを実際にやるのは自分なわけだから困る。ヨハンナは言うだけだから気楽なものだが、こっちは実際に書かなければいけないのだから。
「物書きは文字だけで生きるんじゃなくて、小説から出る一つ一つの言葉で生きるものだから」
「殊勝ですね。でも、難しく考えることはないんですよ。既に、あなたは種を蒔き終わったんですから」
「『駄文が生えてくる前に、毒芽を摘んでおくか?』」
「『いや、それではいい文も刈り取ってしまうかもしれない。すべて揃ってから駄文のみを刈りなさい。ただし私の畑からは毒麦が生えることがないから上手くいくかは』」
さすがだ。よくわかっている。
「当たり前でしょう。あなたの脳内で話してるんだから」
そうだ、そう。すべて俺の幻だ。幻想と言ってもいい。
今のやり取りも、本物の彼女は知らない。すべてが存在しない記憶。それでも自分の考えをまとめる助けとなっていると考えれば、それは大事な行為だと思う。
すでに脳内で新しい小説の構想は着実に積みあがりつつあった。
「そういえば面白い人いました?」
「面白いやつぅ?」
そういわれても、大学には変な人間がたくさんいる。高校の頃とは比べ物にならない。その中でもずば抜けた人と言えば……。
「ゴヨハゼってわかる? スマクリに出てくる水色の……」
スマクリこと、スマートクリーチャーは日本発の世界に名だたるゲームだ。
「それがどうしたんですか」
「ゴヨハゼがめっちゃ好きな先輩いてさ。全身水色、アイコンもパソコンのステッカーも全部ゴヨハゼ。スマホは自分で作ったゴヨハゼケース」
「はぁーなかなかにぶっ飛んだオタクですね」
「でもすごい人だ。後輩のために、履修の取り方まとめてくれたり、小説家になりたい人が切磋琢磨できるようなサークル立ち上げたり……」
先輩が立ち上げた「九日会」は上級生から下級生問わず多くの人が入っている。今や五十人を超えるんじゃなかろうか。
「さて、そろそろ時間です。考えはまとまりましたか?」
「とっても」
壁はひびが入って光がこぼれてくる。深夜二時の東京の月明りが、目の隙間から差してくるように。
「また、御用でしたらお呼びください」
ところで、彼女が最後に身に着けていた服は何だっただろうか。
会話がおしゃれで、好きです。その会話を活かすように間を埋めることが出来たらいいなとおもいました。