現場には、僧侶さんに依頼者らしき中年の男が昔ながらの民家の門前で立っている。車を止め、僕と高野さんは道具を持ち二人の元に向かった。心霊は信じないが、高野さんの桜の下に死体を埋めると魂が宿るという話を聞いた後に、平常を保てるほど僕の心臓は強くなかった。
「こんにちは、山下です。どうかよろしくお願いします」
山下さんはお辞儀をし、僧侶さんも軽く会釈をした。挨拶を済ませ早速現場に向かう。堀と繋がる門を通ってすぐ左手に、五メートル程の高さの満開の桜が目に入った。
「今は穏やかにしていますね。やはり満開の時は心地がいいのでしょう。何より、大変優しい心の持ち主なのがわかります。苦しさは感じているというのに、それを他人にぶつけることは全くしてない。凄い方です。常人でしたら、他人を祟ろうと思うでしょうに」
僧侶さんが言った。心を落ち着かせる優しい声である。
「両親が亡くなってからここにずっと住んでいますが。桜が咲いている時は大変静かなんです。ただ咲いていない時に、木の手入れを怠ったたりすると、夢の中で怒った様子の母が出てくるんですよ。ああ、怒ってるとは言っても、子供を叱る時のような優しい怒り方です。母が隣にいるようで、最初は嬉しかったんですが…五年、六年と経つうちに夢に出てくる母の顔がだんだんと苦しそうになっていまして。これ以上ここに留まらせてはいけないって、思ったんです」
母の話をする山下さんの顔は綻んでいたが、話が進むにつれ彼は唇を噛み始めていた。すると、優しい風と共に、桜の花弁が舞い、懐かしいような甘い香りがした。
「それではやっていきましょうか。どんな優しい人でも、ずっと同じ場所にいたら嫌にもなるでしょう」
高野さんの通った声が、場を切り替えた。普段は杜撰な性格だが、こうゆう時は頼りになるところが憎めない。
「ええ、そうですね」
まだぎこちないとはいえ、山下さんも笑顔になった。僧侶さんも優しく頷く。
まずは、僧侶さんがお香を焚き、お経を唱え始めた。横で山下さんは両手を握り祈っている。空気が少しばかり、張り詰めるような感覚がした。
「では、伐採の開始お願いします」
僧侶さんの合図で、僕は心の中で申し訳ないと念じながら、高枝チェーンソーのエンジンを掛けた。轟くエンジン音と共に、刃が回り始める。
幹を伐採する前に、まずは手前の枝から切り落としていく。一本の枝が地面に落ちては、遅れて数百、数千という花弁の雪が降る。落ちている花弁たちの一つ一つはもう少しだけ今にしがみ付こうと、進む時に抵抗しているようであった。
桜の木の伐採は幾度もやったが、満開の時にやるのはこれが初めてである。人の思いが詰まった作品をこの手で壊すような、罪悪感が湧いた。しかし、個人的な感傷でやっぱり無理でしたなんて言えたものではない。仕事をこなさなければ高野さんに顔が立たない上、会社もさらに苦しくなるだろう。僕は深呼吸をし、覚悟を決めた。
涙を堪え、何とか全ての枝を切り終わった。雪は全て積もり切ったのだ、もう降ることはない。
桜の木には不恰好な暗褐色色の幹だけが残った。かつて美しい花を咲かせていたのが、嘘のようである。
今度はチェーンソーで、幹を切り取る作業を始めた。血飛沫のように、木の粉末を飛び散らせながら切れ目が大きくなっていく。もう前ほどの抵抗は感じなかった。
刃が切り込み始めると同時に、老婆の声が聞こえた。全身に鳥肌が立ったが、手を止めるわけにはいかない。びっくりしたとはいえ、覚悟の決まった我慢する声にも聞こえた。
切り込みが深くなるにつれ、老婆の苦しむ声はだんだんと怨念のこもった物に変化しているような気がする
背後ではエンジンの音に負けないほどの声で、僧侶さんがお経を再び唱えている。高野さんの心配する掛け声も聞こえたような気がするが、よく聞き取れない。途端、腕が強く掴まれるような感覚がした。背筋が凍る。だが、ここで止めてはきっと彼女もずっと苦しいままだ。手を止める訳にはいかない。
手元の抵抗感が無くなり、腕が横に少しブレる。僕はすぐにエンジンを止め、ゆったりと、庭の空いた場所に幹が倒れるのを眺めた。
「ありがとう」
なんの雑念も感じられない、純粋な感情が体の芯を通った。体は鳥肌を立てることでしか、それを受け取ることができなかったが、不快感はまるで無い。
・
帰り道、高野さんは僕に言った。
「正直な。桜の木の下に遺体を埋めたい気持ち、俺にも分かる。こ満開の桜を咲かせて、華やかな終わりを迎えられるって考えたら、そりゃ魅力的だろ。ただ、永遠に同じ場所に囚われるって考えると大分怖いな。家族が近くにいたらいいが、もし誰もいなくなったりしたらなんて…考えたくもないな」
僕は月をただ無言で眺め、孤独になる自分を想像した。きっと自分が自分でなくなり、ただ憎しみだけが残るのだろう。
「そろそろ、実家に顔出さないとな」
「こんにちは、山下です。どうかよろしくお願いします」
山下さんはお辞儀をし、僧侶さんも軽く会釈をした。挨拶を済ませ早速現場に向かう。堀と繋がる門を通ってすぐ左手に、五メートル程の高さの満開の桜が目に入った。
「今は穏やかにしていますね。やはり満開の時は心地がいいのでしょう。何より、大変優しい心の持ち主なのがわかります。苦しさは感じているというのに、それを他人にぶつけることは全くしてない。凄い方です。常人でしたら、他人を祟ろうと思うでしょうに」
僧侶さんが言った。心を落ち着かせる優しい声である。
「両親が亡くなってからここにずっと住んでいますが。桜が咲いている時は大変静かなんです。ただ咲いていない時に、木の手入れを怠ったたりすると、夢の中で怒った様子の母が出てくるんですよ。ああ、怒ってるとは言っても、子供を叱る時のような優しい怒り方です。母が隣にいるようで、最初は嬉しかったんですが…五年、六年と経つうちに夢に出てくる母の顔がだんだんと苦しそうになっていまして。これ以上ここに留まらせてはいけないって、思ったんです」
母の話をする山下さんの顔は綻んでいたが、話が進むにつれ彼は唇を噛み始めていた。すると、優しい風と共に、桜の花弁が舞い、懐かしいような甘い香りがした。
「それではやっていきましょうか。どんな優しい人でも、ずっと同じ場所にいたら嫌にもなるでしょう」
高野さんの通った声が、場を切り替えた。普段は杜撰な性格だが、こうゆう時は頼りになるところが憎めない。
「ええ、そうですね」
まだぎこちないとはいえ、山下さんも笑顔になった。僧侶さんも優しく頷く。
まずは、僧侶さんがお香を焚き、お経を唱え始めた。横で山下さんは両手を握り祈っている。空気が少しばかり、張り詰めるような感覚がした。
「では、伐採の開始お願いします」
僧侶さんの合図で、僕は心の中で申し訳ないと念じながら、高枝チェーンソーのエンジンを掛けた。轟くエンジン音と共に、刃が回り始める。
幹を伐採する前に、まずは手前の枝から切り落としていく。一本の枝が地面に落ちては、遅れて数百、数千という花弁の雪が降る。落ちている花弁たちの一つ一つはもう少しだけ今にしがみ付こうと、進む時に抵抗しているようであった。
桜の木の伐採は幾度もやったが、満開の時にやるのはこれが初めてである。人の思いが詰まった作品をこの手で壊すような、罪悪感が湧いた。しかし、個人的な感傷でやっぱり無理でしたなんて言えたものではない。仕事をこなさなければ高野さんに顔が立たない上、会社もさらに苦しくなるだろう。僕は深呼吸をし、覚悟を決めた。
涙を堪え、何とか全ての枝を切り終わった。雪は全て積もり切ったのだ、もう降ることはない。
桜の木には不恰好な暗褐色色の幹だけが残った。かつて美しい花を咲かせていたのが、嘘のようである。
今度はチェーンソーで、幹を切り取る作業を始めた。血飛沫のように、木の粉末を飛び散らせながら切れ目が大きくなっていく。もう前ほどの抵抗は感じなかった。
刃が切り込み始めると同時に、老婆の声が聞こえた。全身に鳥肌が立ったが、手を止めるわけにはいかない。びっくりしたとはいえ、覚悟の決まった我慢する声にも聞こえた。
切り込みが深くなるにつれ、老婆の苦しむ声はだんだんと怨念のこもった物に変化しているような気がする
背後ではエンジンの音に負けないほどの声で、僧侶さんがお経を再び唱えている。高野さんの心配する掛け声も聞こえたような気がするが、よく聞き取れない。途端、腕が強く掴まれるような感覚がした。背筋が凍る。だが、ここで止めてはきっと彼女もずっと苦しいままだ。手を止める訳にはいかない。
手元の抵抗感が無くなり、腕が横に少しブレる。僕はすぐにエンジンを止め、ゆったりと、庭の空いた場所に幹が倒れるのを眺めた。
「ありがとう」
なんの雑念も感じられない、純粋な感情が体の芯を通った。体は鳥肌を立てることでしか、それを受け取ることができなかったが、不快感はまるで無い。
・
帰り道、高野さんは僕に言った。
「正直な。桜の木の下に遺体を埋めたい気持ち、俺にも分かる。こ満開の桜を咲かせて、華やかな終わりを迎えられるって考えたら、そりゃ魅力的だろ。ただ、永遠に同じ場所に囚われるって考えると大分怖いな。家族が近くにいたらいいが、もし誰もいなくなったりしたらなんて…考えたくもないな」
僕は月をただ無言で眺め、孤独になる自分を想像した。きっと自分が自分でなくなり、ただ憎しみだけが残るのだろう。
「そろそろ、実家に顔出さないとな」
桜を散らすのではなく、切り倒して供養するというのは斬新に思いました。