zorozoro - 文芸寄港

レモンいっぱいのアイスティー

2024/04/21 01:08:41
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 フィービーがカップの底の見慣れない袋に気づいたのは、アイスティーを飲み干したあとでのことだった。とあるハンバーガーショップのカウンター席の隅に彼女は座っていた。
 持ち上げて透かしてみると、中身は溶け出したのかほとんど空っぽだが、わずかに白い粉が残っている。ティーパックではなさそうだ。滴る雫を指に乗せて舐めてみた。なんとも言えない味がした。
 レモンを多めに頼んだからかな、と思ったが、彼女の脳がこれ以上考えを巡らせることはなく、袋はカップと一緒にダストボックスに押し込まれた。彼女には他にもっと気にするべき問題があったのだ。
 10分後のサミュエルとのデートがそれだった。ただしフィービーはできることなら、待ち合わせ場所に行きたくなかった。彼が浮気しているのを知っていたからである。
 サミュエルはがっしりした体格と整ったルックスに評判のある男で、交友も広い。口説き落とされて付き合い始めた頃は、人生最初の彼氏がこれほど魅力的な男性であることに浮かれていた。しかし1ヶ月もしないうちにすっかり変わってしまった彼の態度を見て、大して愛されていないこと、むしろいいように使われているだけであることに流石のフィービーも気づき始めた。
 そしてある日、別の女とピッタリくっつきながら歩く彼の姿をついに目撃してしまった。しかもそのチャラついた動きからは、人目を避けようとする気配すら微塵も感じられなかった。フィービーは三日三晩、真剣に悩んでは涙を流したがそれでも、内気な彼女にそのことを聞き出せる勇気はなかったのだった。
 そんなことがあった後の最初のデートに向かう彼女の胸は、激しい動悸を打ち始めていた。腹痛もするし耳鳴りもひどい。どうして楽しいはずのデートでこんな目に遭うんだろう、と彼女は思った。
 すると「別れなよ、そんな奴」と遠くで誰かの笑う声がした。
 振り返っても、誰もいない。気のせいかと思った次の瞬間、「キッパリ言ってやりな」と今度は低い唸りが囁く。それはフィービーの頭の中で心地よく響いた。
 「案外簡単だよ」「大声を出したことくらい今までもあるでしょ?」
 次は小鳥のさえずりのような声。彼女は、そうなのかな、と思った。
 「それかあんな奴、一発喰らわしちまうのも手だ」
 キツネの声が言った。いいね、そうだよ、と他の動物たちが賛成する。
 「喰らわしちまうってどういうこと?」
 「君のパワーを見せつけてやるんだよ」
 彼女が問うとサイが答えた。すると途端、胸を抑えていた両腕に尋常でない力が行き渡るのを感じた。
 「ほらフィービー。あそこにサミュエルの奴が立ってるだろ」
 チワワが鼻で指した先に、電信柱に寄りかかって誰かと電話している彼氏が見える。
 「うん、いるね」
 「あの顔をパンチングマシーンだと思ってさ」
 フィービーはだんだん愉快になってきた。さっきまでとは段違いの歩調で彼にぐんぐん近づいていく。3メートルくらいの距離になってサミュエルはようやく彼女に気づいた。
 「やっと来たか……待たせんなよな」
 よく見たら面白い顔してるな、と彼女は思った。「いけ!」「油断してるぞ!」といった動物たちの声援が背中から飛んでくる。
 フィービーは笑みを浮かべながら右の拳を肩の高さまで持っていくと、まるで熟練のボクサーのように、サミュエルの顔面目掛けて鋭いパンチを放った。
 弾けるような音がしたかと思うと、彼の体は大きくのけぞり、後ろの階段に背中から崩れ落ちた。
 そして何回転もしながら次々と段を下っていく。
 フィービーはそれを見ながら小さな子供のように大笑いした。動物たちも一緒に笑った。その勢いのまま、降りていって追い打ちを仕掛けた。

 翌日の朝、全身でアクセサリーをジャラジャラ鳴らしながらブロンドの女が学校の廊下を大股で通っていったかと思えば、ロッカーにいたフィービーの肩を後ろから掴んで乱暴に引き寄せた。
 「説明しなさい!」
 ブロンドはリズという名の、先日サミュエルとくっついていた女であり、また彼が待ち合わせ中に電話していた相手であった。その時彼がたまたまスマホを切らなかったことで事態を知りフィービーに怒りをぶつけるつもりでいたのだが、こう叫んで彼女の顔を覗き込むなりギョッとしてしまった。ここまで怯えている人間を初めて見たからである。単なるいじめへの恐怖ではなく、何か人智を超えた尋常ならざるものに脅かされている表情。そこからか細い息を漏らしながら、彼女は答えた。
 「ご、ごめんなさい。私にもよくわからなくて」
 はあ? と本気の呆れ声を上げるリズ。
 「あんたのせいでサムがあんな大怪我したんじゃないの!?」
 その言葉も、怒りで放ったつもりが質問のような響きを帯びてしまっていた。
 「あの笑い声、あんたなんでしょ? サムはまだ意識が戻ってないのよ……!?」
 するとずっと青かったフィービーの顔が、さらに青ざめる。リズもまた、そんな彼女の様子を見てはっきりと当惑の色を顔に浮かべていた。スマホ越しに聞いた狂ったような笑い声と今の彼女が、どうしても頭の中で繋がらない。おかげで最初の勢いは完全に失われてしまった。
 しかし、だからと言ってリズの中の怒りと八つ当たりの精神が無事に抑えられた訳ではなかった。後で覚悟しておくようにと、彼女はフィービーに言い渡して去っていった。それが時間の猶予を与えるという意味ではなく、仲間を集めて標的を徹底的に袋叩きにするためでしかないということは、フィービーにもしっかりわかっていた。
 いよいよ地獄に落とされた気分だ。サミュエルは無事だろうか、なんと言えばリズの怒りから逃れられるだろうか。いやそれよりも、昨日のことが全て夢などではなく紛れもない事実であり、その上なぜ自分があんなことをしたのか微塵も理解できないことこそが、一番の絶望だった。彼女は文字通り頭を抱えた。
 ところで彼女には、ストレスを抱えると酸っぱいものに頼る癖があったのだが、今回もその例に漏れはなかった。
 昨日と同じ店の、レモンを多めに入れるよう注文したアイスティー。しかし彼女の舌と脳は全く満たされなかった。
 それはあまりに事が大きかったのもあるが何より、実際にはアイスティーにレモンは1つしか入っていなかったのだ。
 ストローがカップの底の空気を吸い始めると同時に、また動悸がフィービーの胸を襲った。
 その時、7人の女のグループが店になだれ込み、注文カウンターを通り過ぎて彼女の席を囲んだ。逃げんな、だのこっち来い、だのといった罵声が次々と浴びせられたかと思えば、気づいた時には彼女は店の裏の駐車場の端に立たされていた。そこに待っていたリズも合わせて8人がフィービーを取り囲み、あることないこと、といってもほとんどはないことだったが、とにかく好き勝手言い始めた。
 しかしフィービーには、もっと大勢の観客が暗闇の中に見えていた。大小様々な動物たちが座席の上でじれったく体を揺らしながら、ステージ上の彼女が動き出すのを今か今かと待ち望んでいる。
 そしてショーは幕を開けた。彼女が、口に出すのも恥ずかしいような侮辱の言葉を女の一人にぽいっと投げかけてやると、あまりに急な出来事に女たちの時間が停止する。そうなればもう流れは彼女のものだ。矢継ぎ早に雑言を紡いでいく。多人数を相手にするときの「一人を集中して狙う」というセオリーも徹底している。ただフィービーは女たちのことを知らないので、こき下ろすのは主にそのルックスや喋り方のことだけだ。それでも確実に相手のコンプレックスを刺激する言葉選びには目を見張るものがあったし、たまに相手からアクセサリーなどを奪い取って、散々貶してから目の前で壊してやると、観客席からは大きな歓声が上がった。
 こうしてすっかり出来上がった相手がいよいよ飛びかかってきた瞬間、フィービーは華麗にカウンターを当て、相手は痛々しく地面に突っ伏すことになる。あるいはその度胸すらなく泣き出す者も1人。
 無論、これはほんの序章に過ぎない。そのようにして3人を倒した後、残りの全員が激昂して物理的な取っ組み合いに発展してからが本番だ。今回は非常にスリリングな戦いだった。5人を相手にしながらフィービーは、目潰し、服剥ぎ、噛みつきや喉への手刀など普通の競技なら間違いなく反則になる攻撃をいくつも行ったが、それでもこの人数差には苦戦を強いられていた。観客の熱量は最高潮に達し、その声援はホールを揺らす。歴史に残る名勝負だと誰もが確信していた。
 しかし、リズの肘がたまたまフィービーのみぞおちにめり込むと、空気は一変した。驚きの声が一斉に上がる。急に腹を抱えて丸まってしまった彼女に、ここぞとばかりに女たちが蹴りを入れる。バランスを崩して寝転ぶ姿勢になっても攻撃は止まない。悲痛な面持ちで彼女を見守る観客の動物たち。それは4分ほど続いた。
 小さな痛みが盛大な吐き気に変わり始め、いよいよ彼女自身も負けを悟ったその時、唐突に男の怒号が響いた。
 攻撃がぴたりと止んだ。くそ、店員かよ、と吐き捨てるような呟きが頭上から聞こえ、女の影たちがフィービーから離れていく。赤く腫れた鼻頭を抑えながらゆっくり顔を上げると、1人の男が手を差し伸べて微笑んでいた。
 「お前、アイスティー頼んでた子だろ。レモンいっぱいの」
 頷いてその手を取りながらも、彼女の目は男の爽やかな笑顔に釘付けになっていた。
 「ナイトの登場だ!」
 「大逆転だ!」
 嵐のような拍手喝采。ステージはいつの間にか表彰台に形を変え、猫の楽器隊が2人を取り囲んでファンファーレを演奏し始める。
 「歩けるか? ゆっくりでいい。ほら、俺の車で休もう」
 促されるまま助手席に座ると、男は穏やかに車を発進させた。動物たちも賛美の言葉を口にしながら追従する。シートはベッドみたいに柔らかくて、エンジン音はまるで父親の子守唄のようで、窓の景色は昔大好きだった絵本の挿絵のようで、それでも一番輝いているのは隣のこの男だった。フィービーはこのまま世界を一周したいと思った。

 「なあ、バラゴって知ってる?」
 しばらく走って車が森に入った頃、男がふと口を開いた。フィービーは、いえ、と答えた。

 「じゃブラザーズは?」
 また、いえ、と答えた。そういえばこの人の名前はなんだろう。早く聞かなきゃ。横顔を見つめながらそんなことを考えていた。

 「そっか、可哀想にな。ヤクのことなんか何も知りませんでしたってわけだ」
 男は銃を取り出すとフィービーの頭を綺麗に撃ち抜いた。
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コメント



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1.100v狐々削除
面白く良かったです。一発目のパンチを決めるまでの展開と、その後のオチまでが綺麗だった。「よく見たら面白い顔してるな、と彼女は思った。」ここロックで好き。薬物ダメゼッタイ