「大人は、誰もはじめは子どもだったという一節を聞いたことはありませんか。」
日曜の昼下がり。珈琲の匂いが壁に染みついた喫茶店で先生は唐突に話し始めた。私はたった今運ばれてきた紅茶が入ったマグカップに手を添わせる。冷たい指先から陶器を通して伝わる熱は私の心臓まで届き、一気に温度を上げてくれた。尖らせた唇を縁につけ、陶器を傾かせる。瞬間、舌に感じる痛み。舌を火傷してしまったことに気がついた。何事もなかったかのように陶器を置き、まっすぐ目の前にいた先生を一目見る。先生は私のことなど興味のないように、珈琲に角砂糖を三つ入れ、スプーンでかき混ぜた。
「先生、砂糖は控えるんじゃないですか。」
先生は聞こえていないふりをして、小指を立てながら珈琲を口に含んだ。きっと先生の問いに答えるまで無視されるのだろう。
「聞いたことないです。なんですか、それ。」
「星の王子さまの一節ですよ。」
「星の王子さま、」
先生は子どもに聞かせるようにゆっくりと話し始めた。
「あれこれ考えるのではなく、子どものように純粋に物事を感じなさいと言うことです。」
先生はまた一口、珈琲飲むと私を見た。私も先生の真似をするように急いで紅茶に手をつける。
「ユミさんは最近、純粋に何かを感じたことはありますか。」
先生の低すぎない声が珈琲と紅茶の湯気の間を通って私の元へ飛んでくる。私はその質問の意図が全くわからなかった。純粋ってなんだろう。
「わかりません。純粋ってなんですか。」
先生は少しだけ微笑み、窓の外を見た。視線を追うと子どもが長靴を履いて、水たまりの上を跳ねていた。近くに母親らしき人はいない。
「ああやって、服が汚れることを忘れ、夢中になることです。」
先生の声は静かに響いた。子どもは笑顔を浮かべながら水たまりを何度も何度も飛び跳ねている。あたりに散らばる水飛沫は光に照らされ、きらきらと光っている。私はその光景を見て、美しいと思った。
「夢中になること、」
口に出してみると、まだ小学生だった夏休み、誰よりも朝早く起きて水をやり続けた庭の花を思い出した。今考えてみるとあの花は雑草だったので私が手を加えようが何もせずとも元気に育っていたと思う。
「でもあの頃は、ただ美しく咲いて欲しいと願って水をやっていました。」
「それが純粋さですよ。」
先生は私の呟いた一言を掬い上げるように答える。その声はジョウロから出る優しい水の流れのように心地よいものであった。
「純粋に理由は要りません。ただ感じること、ただ夢中になること、それが人にとって何より大事なことなんです。」
先生の言葉に少し考えた。何をするにも理由づけをしてしまっていた気がする。結果を出して、周囲の人間に認めてもらうことばかり、気にしていた。本当に私がやりたいこと、夢中になれること、それを大事にしなければいけないのに。
遠くから子どもの泣き声がする。窓の外をみるとさっきの子どもが転んでいた。隣には母親が頭を撫でている。撫でているうちに涙は引っ込み、笑い始めた。私はその光景を見て口元が緩んだ。
「ユミさんもそうやって夢中になれる何かを探してみてください。」
先生が視線を戻し、私に話しかける。すでに湯気の立たなっていた珈琲を一口飲み込んだ。
「先生、ありがとうございます。」
そういうと先生は「私は何もしていませんよ」と微笑んだ。
日曜の昼下がり。珈琲の匂いが壁に染みついた喫茶店で先生は唐突に話し始めた。私はたった今運ばれてきた紅茶が入ったマグカップに手を添わせる。冷たい指先から陶器を通して伝わる熱は私の心臓まで届き、一気に温度を上げてくれた。尖らせた唇を縁につけ、陶器を傾かせる。瞬間、舌に感じる痛み。舌を火傷してしまったことに気がついた。何事もなかったかのように陶器を置き、まっすぐ目の前にいた先生を一目見る。先生は私のことなど興味のないように、珈琲に角砂糖を三つ入れ、スプーンでかき混ぜた。
「先生、砂糖は控えるんじゃないですか。」
先生は聞こえていないふりをして、小指を立てながら珈琲を口に含んだ。きっと先生の問いに答えるまで無視されるのだろう。
「聞いたことないです。なんですか、それ。」
「星の王子さまの一節ですよ。」
「星の王子さま、」
先生は子どもに聞かせるようにゆっくりと話し始めた。
「あれこれ考えるのではなく、子どものように純粋に物事を感じなさいと言うことです。」
先生はまた一口、珈琲飲むと私を見た。私も先生の真似をするように急いで紅茶に手をつける。
「ユミさんは最近、純粋に何かを感じたことはありますか。」
先生の低すぎない声が珈琲と紅茶の湯気の間を通って私の元へ飛んでくる。私はその質問の意図が全くわからなかった。純粋ってなんだろう。
「わかりません。純粋ってなんですか。」
先生は少しだけ微笑み、窓の外を見た。視線を追うと子どもが長靴を履いて、水たまりの上を跳ねていた。近くに母親らしき人はいない。
「ああやって、服が汚れることを忘れ、夢中になることです。」
先生の声は静かに響いた。子どもは笑顔を浮かべながら水たまりを何度も何度も飛び跳ねている。あたりに散らばる水飛沫は光に照らされ、きらきらと光っている。私はその光景を見て、美しいと思った。
「夢中になること、」
口に出してみると、まだ小学生だった夏休み、誰よりも朝早く起きて水をやり続けた庭の花を思い出した。今考えてみるとあの花は雑草だったので私が手を加えようが何もせずとも元気に育っていたと思う。
「でもあの頃は、ただ美しく咲いて欲しいと願って水をやっていました。」
「それが純粋さですよ。」
先生は私の呟いた一言を掬い上げるように答える。その声はジョウロから出る優しい水の流れのように心地よいものであった。
「純粋に理由は要りません。ただ感じること、ただ夢中になること、それが人にとって何より大事なことなんです。」
先生の言葉に少し考えた。何をするにも理由づけをしてしまっていた気がする。結果を出して、周囲の人間に認めてもらうことばかり、気にしていた。本当に私がやりたいこと、夢中になれること、それを大事にしなければいけないのに。
遠くから子どもの泣き声がする。窓の外をみるとさっきの子どもが転んでいた。隣には母親が頭を撫でている。撫でているうちに涙は引っ込み、笑い始めた。私はその光景を見て口元が緩んだ。
「ユミさんもそうやって夢中になれる何かを探してみてください。」
先生が視線を戻し、私に話しかける。すでに湯気の立たなっていた珈琲を一口飲み込んだ。
「先生、ありがとうございます。」
そういうと先生は「私は何もしていませんよ」と微笑んだ。