僕が生まれた時はすでに、テレフォンカードは使うものではなくコレクションするものとして存在していた。芸能人や観光地が描かれたそれを一つづつゴミ袋に詰めていく。最後の顔を見ても大して何も思わなかったはずが、こうやって遺品整理をしていると全て捨てづらく思えてしまうから不思議だ。それにきっとこれらを売れば残金以上の価値があるのだろう――けれど別居した母からこんなことを言われてしまった。
「捨てるか使うかして処分しなさい」
父は母からひどく嫌われていた――会社の役員をやっているほどだったが、その分家族に対しては不寛容で頑固だった。晩年癌に侵され、ベッドと溶け合うように60手前で亡くなった父のことを母は半ば見捨てるような形で看取った後に、葬式で涙ひとつ流さずさっさと帰ってしまった。父の生きた証を意地でもこの世に残したくないのか、誰かの手に渡って形が残り続けることすら母は嫌がった。看取っただけそこには愛があったのかもしれないが、とはいえ遺品整理を僕に押し付けて帰るのはいかがなものか。
昼の十二時を告げる時計が鳴る。単純作業にも飽きて、父の部屋をあらかた片付けた後まだ使えそうなものを数枚持って散歩がてら消費することにした。磁気が消えてしまっていないか心配だったが、近所の公衆電話にカードを入れると難なく吸い込まれていった。川沿いにあるこの場所は、正直あまり得意ではない。平日の昼間、もう電話の置いていない電話ボックスにはヌートリアが住み着いている。電話の当ては、一つだけあった。
片付けのため父の部屋に初めて足を踏み入れた時、パソコンに付箋が貼ってあった。11桁の090から始まるその数字は、父の引き出しからも同じメモが何枚も出てきた。とうとうスマホを持たなかった父だ、毎回家の電話を使っていたのか、それとも――。いくつかのテレフォンカードは、全く同じ場所に穴が空いていた。
「もしもし……宗太郎さんですか」
突然、男性とも女性とも取れないような若い声が鼓膜を揺らした。宗太郎さん、と親しげに呼ぶその人はどこか嬉しそうで、戸惑っているのが電話越しでもわかった。
「宗太郎は、僕の父です」
「えっ……と、息子さん?」
「父はこの間、癌で亡くなりました。父の部屋に大量のテレフォンカードと電話番号があって、その人に父が亡くなったことを伝えられれば、と」
父が死んだことさえ伝えられたら、特に話すことはない。返事だけ聞いたら切ってしまおう、そう思ったが、返ってきた言葉は当たり障りのない挨拶などではなかった。
「……宗太郎さんの部屋は、もう片付けてしまいましたか」
「いえ、まだ少ししか」
なんでも渡しますよ、と言いかけたところで、今度は食い気味にその人は言った。
「クローゼットは?」
「まだ開けてませんけど……何か持っていきたいものでも?」
そう聞くと、ほっとしたような小さな息遣いが聞こえた。服には頓着のなかった父だ、大したものはないだろうと後回しにする予定だった。
「あの中に、ワンピースがあるんです。私が着る予定だった、シャツワンピースが」
私が着る予定、と彼女は言った。家族に冷たい理由はこういうことか、と軽く眩暈がしたところで、彼女は悲しそうに笑った。
「宗太郎さんは不倫なんてしてませんよ。私は男ですから」
絞り出すような声で彼は言った。じゃあどうして、そう尋ねてもいいものか逡巡しているうちに、沈黙を破ったのは彼だった。
「君の母に、宗太郎さんと私が会うことを反対されていて、ここ数年連絡をとっていなかったんです。病気のことも、知らなかった」
淡々と説明するように彼はそう僕に伝えた。彼にとって父はただの友人なのか、それとも――。答えが出ないと分かっていても、父に思いを馳せずにはいられなかった。
「その服だけでも取りに行こうかと思ったんですけど、やめておきます。今更、この歳で着たって見苦しいだけですし」
その切ない響きに、何かが抉られるような感覚を覚えた。何か言おうとしても喉奥に空気が詰まっているようで言葉が出てこない。異物のような喉仏をそっと撫でる――もし彼にこれがなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。
「ごめんなさい、わざわざお手間をかけさせてしまって。ワンピースは捨ててください、初めからなかったみたいに」
――電話は切られてしまった。冷たい受話器が耳に張り付いて離れない。とうとう彼は名乗らなかった。何か思うことはあるけれど、それを明白にしてしまいたくない欲求が脳にもやをかける。年齢なんて、と口にしてみる。子供から男性に成長していった自分のことを思う。成長の証である首の凸が、彼から彼らしさを奪ってしまったのだろうか。そんなもの、体のパーツの一つでしかないのに。
ふと足元に目をやると、なんの警戒心もなくヌートリアが横たわって、ガリガリと意味もなく鉄の柱を齧っていた。ギョッとしたのも一瞬、その様子は滑稽でカピバラのような愛らしさを感じてしまった。「害獣」なんておどろおどろしい看板が立っているとは思えないほど。
ああ、と小さなため息が出る。ただカピバラより一回り小さく柵の外にいるだけで迫害される、ヌートリアのような彼らに何もしてやれないまま、僕は他人事のように大切なものを捨てていく。川から追いやられたヌートリアのように、狭い部屋に入ってはあったはずのものを削って砕いて捨ててしまって、そこで一つの生活をしては出ていくことを繰り返す。それはきっと誰でも、誰かが亡くなればそうする。けれど僕はカピバラで、父と彼はヌートリアだ。父はカピバラにはなれなかった。あんなに愛らしく人懐っこく、普通の人に迎合することはできなかった。
オレンジ色の歯が僕に気づいて逃げていく。吐き出されたカードを踏みつけて、また遺品整理に戻ろうと思った。クローゼットの中のワンピースを、どうしようか考えながら。
「捨てるか使うかして処分しなさい」
父は母からひどく嫌われていた――会社の役員をやっているほどだったが、その分家族に対しては不寛容で頑固だった。晩年癌に侵され、ベッドと溶け合うように60手前で亡くなった父のことを母は半ば見捨てるような形で看取った後に、葬式で涙ひとつ流さずさっさと帰ってしまった。父の生きた証を意地でもこの世に残したくないのか、誰かの手に渡って形が残り続けることすら母は嫌がった。看取っただけそこには愛があったのかもしれないが、とはいえ遺品整理を僕に押し付けて帰るのはいかがなものか。
昼の十二時を告げる時計が鳴る。単純作業にも飽きて、父の部屋をあらかた片付けた後まだ使えそうなものを数枚持って散歩がてら消費することにした。磁気が消えてしまっていないか心配だったが、近所の公衆電話にカードを入れると難なく吸い込まれていった。川沿いにあるこの場所は、正直あまり得意ではない。平日の昼間、もう電話の置いていない電話ボックスにはヌートリアが住み着いている。電話の当ては、一つだけあった。
片付けのため父の部屋に初めて足を踏み入れた時、パソコンに付箋が貼ってあった。11桁の090から始まるその数字は、父の引き出しからも同じメモが何枚も出てきた。とうとうスマホを持たなかった父だ、毎回家の電話を使っていたのか、それとも――。いくつかのテレフォンカードは、全く同じ場所に穴が空いていた。
「もしもし……宗太郎さんですか」
突然、男性とも女性とも取れないような若い声が鼓膜を揺らした。宗太郎さん、と親しげに呼ぶその人はどこか嬉しそうで、戸惑っているのが電話越しでもわかった。
「宗太郎は、僕の父です」
「えっ……と、息子さん?」
「父はこの間、癌で亡くなりました。父の部屋に大量のテレフォンカードと電話番号があって、その人に父が亡くなったことを伝えられれば、と」
父が死んだことさえ伝えられたら、特に話すことはない。返事だけ聞いたら切ってしまおう、そう思ったが、返ってきた言葉は当たり障りのない挨拶などではなかった。
「……宗太郎さんの部屋は、もう片付けてしまいましたか」
「いえ、まだ少ししか」
なんでも渡しますよ、と言いかけたところで、今度は食い気味にその人は言った。
「クローゼットは?」
「まだ開けてませんけど……何か持っていきたいものでも?」
そう聞くと、ほっとしたような小さな息遣いが聞こえた。服には頓着のなかった父だ、大したものはないだろうと後回しにする予定だった。
「あの中に、ワンピースがあるんです。私が着る予定だった、シャツワンピースが」
私が着る予定、と彼女は言った。家族に冷たい理由はこういうことか、と軽く眩暈がしたところで、彼女は悲しそうに笑った。
「宗太郎さんは不倫なんてしてませんよ。私は男ですから」
絞り出すような声で彼は言った。じゃあどうして、そう尋ねてもいいものか逡巡しているうちに、沈黙を破ったのは彼だった。
「君の母に、宗太郎さんと私が会うことを反対されていて、ここ数年連絡をとっていなかったんです。病気のことも、知らなかった」
淡々と説明するように彼はそう僕に伝えた。彼にとって父はただの友人なのか、それとも――。答えが出ないと分かっていても、父に思いを馳せずにはいられなかった。
「その服だけでも取りに行こうかと思ったんですけど、やめておきます。今更、この歳で着たって見苦しいだけですし」
その切ない響きに、何かが抉られるような感覚を覚えた。何か言おうとしても喉奥に空気が詰まっているようで言葉が出てこない。異物のような喉仏をそっと撫でる――もし彼にこれがなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。
「ごめんなさい、わざわざお手間をかけさせてしまって。ワンピースは捨ててください、初めからなかったみたいに」
――電話は切られてしまった。冷たい受話器が耳に張り付いて離れない。とうとう彼は名乗らなかった。何か思うことはあるけれど、それを明白にしてしまいたくない欲求が脳にもやをかける。年齢なんて、と口にしてみる。子供から男性に成長していった自分のことを思う。成長の証である首の凸が、彼から彼らしさを奪ってしまったのだろうか。そんなもの、体のパーツの一つでしかないのに。
ふと足元に目をやると、なんの警戒心もなくヌートリアが横たわって、ガリガリと意味もなく鉄の柱を齧っていた。ギョッとしたのも一瞬、その様子は滑稽でカピバラのような愛らしさを感じてしまった。「害獣」なんておどろおどろしい看板が立っているとは思えないほど。
ああ、と小さなため息が出る。ただカピバラより一回り小さく柵の外にいるだけで迫害される、ヌートリアのような彼らに何もしてやれないまま、僕は他人事のように大切なものを捨てていく。川から追いやられたヌートリアのように、狭い部屋に入ってはあったはずのものを削って砕いて捨ててしまって、そこで一つの生活をしては出ていくことを繰り返す。それはきっと誰でも、誰かが亡くなればそうする。けれど僕はカピバラで、父と彼はヌートリアだ。父はカピバラにはなれなかった。あんなに愛らしく人懐っこく、普通の人に迎合することはできなかった。
オレンジ色の歯が僕に気づいて逃げていく。吐き出されたカードを踏みつけて、また遺品整理に戻ろうと思った。クローゼットの中のワンピースを、どうしようか考えながら。