zorozoro - 文芸寄港

ホエールマイニング

2025/04/03 00:01:42
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 やけに外が騒がしく、窓を開けると一匹の大きな鯨がこちらに腹を向けて打ちあがっていた。
 私の家の目の前には、道路を挟んで向こう側に小さな入り江があった。港として利用できるほどの大きさもなく、管理を見放され、漂流物は溜まり放題、草木は伸び放題といった様子であった。時折、暇を持て余した老人が釣りをしに訪れるが、およそその他に利用価値もないものと見えた。
 流れ着いた巨体の周りには、騒ぎを聞きつけた野次馬が群がっていて、今しがた駆けつけてきたとみられる警官が「危険だから近づかないように」と注意を促していた。
「おお、蓬橋君じゃないか、久しいなあ」
 アパートを出、人の群がる方へと近づくと、聞き覚えのある声が耳に飛び込んだ。顔を向けると、同僚の江田氏が物珍しげな表情でこちらへと近づいてきていた。
「あれ、今日はお仕事お休みですか」
「ああ、週に一度の休日だよ」
「今日は日曜日でしたか。もう曖昧で」
「どうだ、体調の方は」
「僕の方はまだ何とか」
「やっぱり、その年で親の介護は手に余るか」
「ですね。何より、金が足りません」
「金か。その、親御さんの病気っていうのに関係しているのか」
「そうですね。どうも、聞いた話相当な難病らしくて。治療に結構かかるんです」
「なるほどな。まったく、もう少しでも休職手当が出ないものかね」
「当事者なら手当が出るみたいですけど、身内の分は無理みたいで」
「世知辛いよ。うん、世知辛い」
 大層、他人事であった。
 二年前、私はこの小さな港町に教員として配属された。教員になってまだ一年と少しの頃である。慣れない街での慣れない生活に日々ストレスは積り、数か月前、母の病の悪化をきっかけに精神に追い打ちを決められた私は、まるで運命決まっていたかのように自然な流れで病休に入った。
 我々は、しばらく無言で巨大な漂着物の方を眺めていた。ふと上を見上げると、数匹の鳶が手の届きそうな低空を回遊していて、獲物を食らう期を今か今かと待ちわびているようだった。
 少し経つと、自治体の者がやってきた。役所で何度か見た顔だったので、目が合うと軽く会釈をした。向こうはというとさっさと目を逸らしたので、あまりピンと来ていない様子であった。後ろには、手に二尺ほどの大きな鋏を持った老人が、真っ白な斎服を重そうにして付いてきていた。
「あの人は」
 何の用であろうと思った私は、江田氏に向かってそう言った。
「ああ、あの人。山上の神社の神主だ。この辺では鯨は神の使いとされていてな、浜に打ちあがったものは神からの授かりものとして扱われるのだ。僕も赴任当時は変わった風習だなあと思っていたよ。もうすっかり慣れてしまったが」
 人里遠く離れた僻地であることから、何かしらの因習やら掟やらがあろうかなとは思っていたため、それほど驚きはしなかった。知らぬ間に禁足の地へと足を踏み入れ、呪われた挙句村から追い出されてようやく気付くなどといったようなことにならずに、今このことを知れたのは、薄らと引き摺っていた不安が幾分か解消される心地さえあった。
 聞いた話、鯨は死後、膨張の末破裂してしまうことがあるらしい。体内で細菌が大量繁殖を起こし、その細菌とやらがなんでも、メタンガスを出すらしく、鯨の腹をそれで満たし、しまいには軽い衝撃かはたまた肉体の腐敗かで腹の皮もろとも大爆発を起こすのだそうだ。
 その防止も兼ねてだろうか、役所の者が警戒色の縄を鯨の周りにぐるりと張ったかと思えば、神主が両の腕を大きく広げて鋏を持ち、まだだらしなくたるんだ鯨の腹をじゃくじゃくと切り始めた。同時に、立ち込めていた腐敗臭も増して強くなり、私と江田氏はそろって顔をしかめた。
 人一人分くらいの大きさには腹が裂かれた。鋏を置いた神主は鯨に向かって何やらぶつぶつと唱え始め、鯨の近く前の方にいた人々もちらほらと指を組んでそろって祈り(小さな声だったもので何を言っていたのかは定かではないが概ねそのあたりであろう)を唱え始めた。
 野次の口数も減り静けさがあたりを包んだ頃、少し離れたところでその様子を見ていた村のオヤジ共三人衆の声が聞こえてきた。
「クジラの腹の中には宝石があるらしいぞ」
「なんだって? おいそりゃ迷信じゃあないのか」
「いやあな、こりゃ村も長い老人から聞いた話なんだが、どうやらあの切り裂いた腹からそれは貴重な宝石が採れるみたいでな。そんで、それをしばらくは社殿に祀るそうなんだが、あんまり長くそうしてっと神様に失礼だっつうんで処分しなきゃならねえんだと」
「ほんならそりゃ売りに出したらいいじゃあねえか」
「そうだ、そうすりゃ村も少しは豊かになるんじゃないのか」
「馬鹿言えお前、そんな罰当たりなことがあるか。ただでさえ借金作って人様に迷惑かけてるっつうのに」
「おいそれは俺の話だろうが。引き合いに出すのはなしだろう」
「そんで、処分つうのはどうするんだい」
「海にお返しするんだと。全く勿体ない話だ」
「でも、売ったらいくらになんのかねえ。その宝石とやらはよお」
「いっぺん拝んでみてえもんだぜ」
「はあ、お前みたいなやつも宝石とやらに興味があるもんなんだな」
「阿呆、売って得た大金をだよ」
「カー! かなわねえよこいつには!」
 そう言って彼らは、初老の皺が寄った顔を真っ赤にして大声出で笑っていた。静寂に、笑い声が目立って響く。
「まあ、鯨が打ちあがるというのは初めてではあるまいからな、そこまで珍しがることでもなかろう。僕はこれで失礼するよ。達者でな、早う戻って来いよ」
 江田氏は、いつまで見ていたって仕方がないとでもいうように、私にそう言い残して去って行った。
 見上げると、最初の二羽が仲間を呼んだか、十数羽の鳶が頭の上を飛んでいた。すると、群れから一羽がはぐれたように降りてきて、のっそりと横たわる鯨のヒレにはたと舞い降りた。潮風に揺れる茶褐色のその翼が、ずっしりと重い曇天に妙に映えていた。



 この場所は夜になるとめっきり人気がなくなる。闇夜が村全体を包み込むように、都会とは比べ物にならぬその暗さは、いまだ私に若干の恐怖心を垣間見させるものであった。
 私はその夜、一人身支度を進めていた。懐中電灯を腰に携え、一升瓶がすっぽり二本入るほどの大きさの麻袋とそれを縛る縄をベルトに挟んだ。
 私は今朝浜を見渡した窓から再度、鯨を眼前に構えた。無論人気はない。そしてそれを確認すると直ぐに、私はなるべく音をたてぬよう慎重に玄関の扉を引いた。
 依然として浜には米噛みを絞るような凄まじい異臭が立ち込めていた。警戒の意を怠らず、誰か見てはいまいかと我が家含め数件の家々が建ち並ぶ方へと振り返ると、丁度唯一灯っていた明かりがふっと消えるところであった。
 鯨に近づく。警戒色の縄をくぐり、昼間神主が祈り賜っていたところを通り過ぎる。ちらと一瞬、懐中電灯をつけその辺りを照らすと、両足綺麗に揃った足跡が確認できた。まあ誰に強いられることも無く律儀でまじめなものだなと思った。同時に、少々狂信じみたおどろおどろしさというものを感じざるを得なかった。
 とうとう、大きく裂かれた腹の前へと到着した。ぱっくりと割れた肉体から流れ出た血潮は、未だ乾ききっていなかった。肉の間は深い谷の如き深淵に落ちており、今に吸い込まれてしまうかと思われた。鼻が慣れたかはたまた逝かれたか、不思議と強臭は感じず、寧ろさわやかな海風の心地さえ覚えた。私は心を決めて隙間へと手を突っ込んだ。
 思えば、それは強烈な異臭に脳をやられた私が見た一種の幻だったのかもしれぬ。しかし、後に起こった事象の繋がりによってそれは認めざるを得ない事実となる。
 私の手によって両側に開かれたそこは、まるで未開の洞窟のように奥へ続く大きな空洞となっていた。頬をかすめる気流は何に導かれるのか傷口から中へと通っていき、内側に面した肉の壁は、岩石の如くギラギラと懐中電灯の明かりを反射した。
 私は魅入られたように鯨の体内へと入っていった。穴は奥へ奥へと続いている。それは次第に狭くなっていき、数十メートルか歩いた頃合いでとうとう私一人通るのがやっとという具合になった。視界にちらつく光が何かと思えば、両側面の岩肌に、エメラルドやらクロムやらルビーのような色彩豊かな半透明の石がちらほらと埋まっていた。私はそれをコリコリと爪ではがし、袋に入れていった。これが噂の宝石ではあるまいなと踏み、迷いない素直な足取りで歩みを進めていった。
 しばらく歩いた頃、グネグネと曲がるトンネルの向こうからほっそりと白い霧のような光が射してきているのが見えた。抜けると、突然に大きく開けた空洞があった。背筋を伸ばしても十分に余裕のある高さがあり、久しぶりに腰を伸ばすと骨が鳴った。
 目の前には人一人収まるほどの大きな水たまりがあった。その向こうは、どうやら行き止まりであるらしい。水は膝上までの深さがあり、光源も確認できないくせに眩しいほど青白く光り輝いていて壁面を白く飛ばしていた。
水たまりの中央に、岩の小島があった。私はそれがやけに気になった。足を突っ込みざぶざぶと近づいていくと、波紋が小島を揺らした。手でもって動かしてやると、確かに地に根が付いていない様子であった。私はそれを力いっぱいに持ち上げてみた。
 時間とは連続性のあるもので、当然にして不思議な事象とやらも連続して起こる。途端、壁面に反射する光が急激に強まったと思えば、刹那にその光は私の持つ岩に収束されていった。光の強いあまりに閉じた目を開ければ、もう前後も不確かなほどに辺り一帯は暗くなっていて、手元の岩だけが今度は眩く発光していた。
 これが噂の宝石だろうと確信した私は、麻袋に半端に入った雑品を逆さにして放り捨て、溶け込んでいくかの如く若干に光が弱り始めたその岩を、空になった袋にすっぽりと納めて持って帰った。



 興奮さめやらず、自宅の畳に腰を落ち着かせたその後も、ちゃぶ台に乗せた淡く光るそれを眼前に構えてはそわそわと挙動を迷わせていた。試しにお茶を入れてみたり酒を傾けてみたりしたけれども、とうとう心は浮かれたまま時間は溶けていった。
そのまま、朝になった。窓を開けてみれば、まだ低い太陽が浜に横たわる鯨の巨体から長く影を伸ばしていた。
まだ人気のないうちに、私は東京へと出発した。都会でも目立たぬよう、この村には少々そぐわぬようなフォーマルな服に身を包み、例の岩には麻袋の上からしっかりと分厚い革の鞄を被せ、それは肩にかけた。姿見に移る私は、一見して早朝からご苦労な労働者と見受けられた。
 東京には住んでいた時分もあったから、眼のいい質屋がいくらかあるのを知っていた。某所にある質屋は数年前、地元の友人に紹介されたことがあった。まだ私が学生だった頃である。当時の私も、例に漏れず金に困り、身の回りの物品を売って生計を立てようなどと思っていた。しかしそんな矢先、長い間病床に伏していた祖父が死んだもので、その遺産が親の手元へと渡り、ふるいにかけられたが如くその幾分かが私の手元へと落ちてきたのである。元の額から比べればまあなんとも甘く見られたものだと思われるほどであったが、学生が数か月暮らすには文句もない額ではあった。そんなことで、その質屋には一度の世話もかかることなく、先の折の不純味極まれり案件をもって、初の厄介ととさせていただいたのであった。
 早くに出たものだから、当然店もまだ開いていないであろうと踏み、早朝からやっている駅の売店でフィルムに包まれたシベリアとコーヒーを買って駅前の公園で休んでいた。とはいえ、前を行き過ぐは眠そうな会社員とヒッピーじみた酔っぱらいばかりで、私は早々に退屈になってさっさと街を歩き回っていった。
 そろそろ頃合いであろうと質屋の方へと向かった。シャッターは半開きになっていたが、中からガサゴソと音がした。腕の時計を見ると、ちょうど九時を指していた。もうすぐ開くかなと、開いた半分を覗き見ようとしたとき、カツカツと軽快な足音が向こうから近づいてきて咄嗟に頭を上げた。
「……ウチかい?」
 顔を出した主人はふいに佇む私を見て一度戸惑った。しかしながら都会の人間は理解が速いもので、すぐに状況を把握し私にそう問いかけた。
「ええ、まだですかね」
「いやいや、いいよ。今開けるとこだから。中入って待っててくれ」
 促されて中へ足を踏み入れると、骨董品のような、何とも言えぬ埃臭さが鼻をつついた。奥の壁際には、虚ろな目をした狸の置物が座っていた。
「どれどれ、今日は何を見るかな」
「これです。値が付くかは……わからないんですが」
 準備を終えた主人は、私の座るカウンターの向かいに腰を下ろした。こうも前触れなく鑑定が始まるものなのかと、少々の戸惑いを宿しつつ、私は大きくたゆんだ革の鞄から例の岩を取り出した。
 途端に、主人は表情曇らせたに見えたが、岩の全容を見る否や一種の可能性を案じたかの如くその眼光は職人のそれとなった。
「おい、よこしてくれ」
「ああ、はいどうぞ」
「……こりゃ龍涎香だね。滅多に出回っていない代物だよ。一体どこで」
「いやあ、知り合いから譲り受けたものなんでよくわからんのですが」
 主人の呼吸は荒くなっていた。二人の間の温度の差が、古臭い静かな店内によく目立った。
「これほどの純度と大きさそして……香り。間違いないよ。これは本物だ。こんなもの相当お目にかかれやしないよ。僕もこの仕事は長いがね、これほどのものは初めてだ」
「いくらで売れますかね」
 そう言うと主人は黙って後ろの棚から何やら分厚い書を取り出し、ペラペラとめくり始めた。そしてしばらくして、決心ついたかのように大きく息を吐き、わたしに電卓の数字を突き付けた。
「これでどうだね。一世一代だよ、こんなことは」
 目線を落とすと、電卓が見えた。そこには、千二百万という数字が確かに映し出されていたのだった。
 


 質屋を出た後は、久方ぶりの大都会を回り廻った。喫茶で贅沢なモーニングをいただき、数年ぶりに銀座三越へと赴いた。値札など見ずに買い散らかした後は、夜景の壮観なレストランでディナーとし、ワインで火照った頬を冷やしながら歩いていたら奇遇にも以前世話になった宿に行きついたものだから、日のうちに帰るのはよしてそこへ泊った。もっとも、酔いで頭が十分に働かず、とうに電車などないことには気が付いてもいなかった私は、相当に浮かれていたものであったと言えよう。それも、「とりあえず今渡せる分だ。追って口座に振り込んでおく」と手渡された数百万の金に魅せられた、自分の落ち度であったかもしれない。しかしながら、東京という甚だハイカラな街であれほどの大金を手にすれば、誰でも彼でも溜まりに溜まった三者三葉の鬱憤が、まるで自我芽生えたかのように暴れまわるであろうとも、自堕落な自己を受け入れさえすれば考えられるのである。言い訳とすれば、そのとおりである。



 村に戻ったのは、翌日の朝であった。早朝ではない。だから、人が出歩いていた。
 我が家が見えてきたところで、向かいの例の浜に人だかりができているのに気が付いた。また奇妙な儀式の続きでもしているのだろうかと思って近づいていくと、どっしりと横たえていたあの巨体は、忽然と姿を消していた。あんな大きなものを、一体どうしたのであろうと小首を傾げていると、人だかりから声が上がった。
「我々は神を怒らせた! 禁忌を犯したのだ! もはや犯人捜しは辞めだ! 同じ人間の犯した罪として、一丸となってそれを償うのだ!」
 そういう人は、大体四、五十代の婦人であった。白い服を着て頭にはぐるりと茶ばんだねじり鉢巻きをしていた。そしてそれを鼓舞するかのように、一生懸命な顔をした大人達がそれぞれの妄信から沸き立つ声を上げていた。
 そうしたものを見ていたとき、ふいに人だかりに知った顔を発見した。
「江田さん。あの鯨はいったいどこへ行ったのですか」
「おお、いきなり驚かせるなよ。お前こそどこ行ってたんだ? 昨日は大変だったんだぞ。なんでも、『授かりものが荒らされた』とかなんとか言って神社の者が大騒ぎしてたんだ」
 「荒らされた」などというその言葉の端々が、自分にとってはひどく鋭利に感ぜられた。無論、犯人はまごうことなき私なのであろうが、今になってあの不可思議な出来事が外界との相対性を孕んで向かってきたことに、また新鮮味を覚えていた。
「へえ、大変なものですね。それで、鯨も処分したってことですか」
「いや、それは違う。消えちまったんだ、一夜にして。大きなシミと異臭だけを残して、綺麗さっぱりな。まるで神様が取り上げたみたいに。海に流されたって話もあるようだが、そこまでの水位があるとも思えん。なにより、あんな大きいもんを動かせるほどの大波が来てみろ、あそこに見えるちんけなボロ屋やごと丸呑みだろうさ」
 そう言って江田氏は、私が住む家の方を顎でつついた。
 私は「不思議なこともあるもんですね」と答えた。「不思議なことだらけさ、この村は全く」と江田氏は大層呆れた様子で言った。
 家に戻ってから、「神を怒らせた」という言葉が脳裏を反芻した。仮にも私は祀られものの岩を早くに横取りした盗人なのだ。悪い気がしないはずはない。それでいて、鯨が消滅するなどといった神の御業としか思えぬ摩訶不思議なことが起きては流石に気にせずにはいられない。とはいえ、もう売ってしまったものをいまさら取り返せるとも思えなかった。第一、取り返したところでどうするのだ。素直に頭を下げて、自らが行った無礼極まれり行いを自白するとでもいうのか。それこそ村の連中に何をされるか考えられたものではなかった。
 そうして、薄明るい部屋の中で悶々と歩きまわりながらあれやこれやと考えているうちに、とある恐れを案じた。仮に鯨が神に消されたとするならば(当時の私は気が動転していて神の存在の有無など考慮する暇もなく、神秘的志向に傾いた考えをするほかなかった)、あの岩はどうなるのであろうか。宿主の死んだ寄生虫は息絶えるように、教祖が失踪した宗教が解体されていくように、母体の消えたあの岩は、果たして今この世界に存在せしめるのであろうか。まさか、まさか!
 その時、電話が鳴った。出ると、あの質屋の主人であった。必然の糸が繋がった心地がして、「噂をすれば」とも思えなかった。
「おい! なんてものを売ってくれたんだ!」
 その声はこの上ない憤怒と困惑に満ちていた。
「あの岩が、どうにかしましたか」
「どうもなにも、見る見るうちに溶けてなくなっちまうんだ! いったい何なんだこれは! こんなもの一銭にもなりやしねえよ!」
 私の心は、電話が鳴った時から既に決まっていた。私は一切の迷いもなく、一種の闇に堕落した自分をも受け入れていた。
「まさか、成立した取引を破棄したいなどと仰りますか」
「なんだって? クソおお前やってくれたな! 返せッ! ついさっき貴様の口座には一千万振り込んだんだ! 最悪あの手渡した金は良い、だが一千万は! 一千万は――」
 私は耳から受話器を離した。手の先で何やら小さな怒号が鳴いていたようであったが、聞いてもいられず手に持ったそれをそのまま受け口へと振り下ろした。大きな音が鳴った。それからは、誠に静かに時が流れた。
 数日は電話が鳴りやまなかったが、どうせ他に誰からも連絡はなかろうと、配線を引き抜いて対策とした。



 いくらか月日が過ぎた。
 あの岩を売った金から、薬品と入院治療の費用を捻出し、母親の病は徐々にだが回復へと向かっていった。私はそれが何よりも嬉しかった。罪悪にかられた私への、やっとの報いであった。感謝の半面、金銭に関して多少の疑念を抱かれてはいたが、「特例で手当が下りた」と説明し母親からそれ以上の詮索はなかった。そして数か月の治療の末、母親は退院を許された。
 それからは、私も仕事に復帰した。江田氏にも金の出所を問われたがこちらは、親戚が出してくれたのだと、知る由もない領域を利用して受け流すに至った。久方ぶりの勤務は、想像していたより困難が大きかった。その度に手を貸してくれた江田氏の寛大な心には、感謝するほかない。
 またあの一件から、これは杞憂かはたまた神の祟りの類か、幾度となく体が不調を起こし数週間の休養を取ることがあった。あまり深くは考えず、私ももう年なのかもしれんと割り切った。
 そんな日々が続いた。その間私はずっと、あの摩訶不思議な出来事を妄想と片づけることはできないだろうかと考えたりしていたが、終いにはそんなことも馬鹿々々しくなって止めにした。
 そして数年後の夏、母親が急逝した。もうそろそろであろうと思っていたから、それほどの深い哀傷はなかった。近い親戚から、通夜のために東京に戻ってこいとの通達を受けた。私はそれに合わせて教員の職を辞め、あの村を出た。
自己満!!
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