「あ。ねぇ、スプーン洗ってって言ったじゃん」
キッチンから彼女が僕を咎める声が聞こえる。
食洗機に入れておけばいいじゃん、と言いかけたところで、彼女が指し示したそれが普通のスプーンとは少し違うことを思い出した。
今日の晩ご飯はシチューだった。わざわざKALDIで普段買っているものより五百円高いルーを買って作ったシチュー。彼女の好きなブロッコリーと、僕の好きなもも肉を入れて今年の夏に買ったまま戸棚の奥底で眠っていた圧力鍋を使って作った、ちょっと特別なもの。
無駄に重い蓋を慎重に開けると、小さなキッチンに湯気が広がる。その様を見届けて、恐る恐る二人で、鍋の中を覗くと、その中でシチューが白く輝いていた。
目を輝かせた彼女は、年季の入った戸棚に手にかけて、
「せっかくのシチューだしこのお皿使っちゃお」
なんて言いながら、彼女はお気に入りの花柄の深皿を鼻歌まじりに出した。
ちょっと特別なメニューには、ちょっと特別な食器を。なるほど、その理論は理解できる。だから僕も彼女と同じようにお気に入りのスプーンを手に取った。
浮き足立つ気持ちを抑えながら食卓に向かうと、ひと足さきに椅子に座っていた彼女は僕の手に握られたそれを一目見るなり、わかりやすく顔を顰める。
「えー、木のスプーン使うの?」
先程まで今にも踊り出しそうなほどご機嫌だったのに、木のスプーン如きでここまで態度が豹変するのか。
関心にも似た気持ちを抱きながら椅子に座ると、目の前の彼女は銀色の鉄製のスプーンの先をこちらに向けた。
「それ、食洗機に入れたらダメになっちゃうから、自分で洗ってね」
そう言い終わるや否や、彼女は軽快にパチンと手を鳴らして小さく礼をする。
「いただきます」
それに続けるように僕も同じ言葉を口にして、じっと彼女の方を見た。ふー、ふー、と何度もスプーンで掬ったシチューに息を吹きかけてようやく口にしたかと思えば、あついあついと涙目になる。猫舌なのにせっかちな彼女らしい行動だった。その一部始終を見届けて、僕もシチューに手を伸ばす。木のスプーンを浅く沈めて、もも肉を掬う。二、三回息を吹きかけて口に運べば、まろやかでコクがあるシチューとよく煮込まれてほろほろと柔らかくなったもも肉の旨みが口一杯に広がった。
そして何より、シチューのおいしさを際立たせているもの、それが木のスプーンなのだ。
鉄に比べて圧倒的に熱伝導率の低い木でできたこのスプーンならば、どんな熱々の料理だって優しく包み込んでくれる。柔らかい肌触りのそれは、掬ったものを口の中に運んでから、役目を終えて離れるその時まで、こちらに一切刺激を与えない、素晴らしいスプーンだ。
それなのに、彼女はこの素晴らしさに気づかない。
「普通にスプーンより高くてすぐダメになるんだから」
なんて怒りながら、僕が用意した彼女の分の木のスプーンをしまったこともあった。大学生の頃から同居を始めて、今まで生活を共にする中で。彼女が木のスプーンを使ったことは一度もない。
「早くこれ洗って、洗い物終わらせちゃおうよ」
少し頬を膨らませた彼女にそう急かされて、僕はようやく腰を上げた。
リビングのソファから十歩程度のところにあるシンクにポツンとお気に入りのスプーンは放置されている。マメな彼女が週に一回掃除しているおかげでピカピカと光を反射している小さな世界に取り残されたそれを見て、なんともいえない寂しさによく似た感情が胸から込み上げてくる。このスプーンにこんな寂しい思いをさせてしまうぐらいなら、もっと早くこの子を綺麗にしてあげればよかった、なんて、そんな意味のないことを考える。
すぐ横にある食洗機がゴウンゴウンと大きな音を立てて、早く洗えと急かしてきた。さかなの形をしたスポンジに少量の洗剤を含ませてよく泡立てる。優しく口に含む部分を特に念入りに擦ってやれば、あっという間にシチューの汚れは落ちて、スプーンは生まれ変わったように綺麗になった。
キッチンペーパーで水気を拭き取って引き出しにスプーンをしまう。今日のシチューはまだ少し残っている。明日の朝ごはんはシチューと食パンにしよう。トースターで焼いたパンと一晩寝かせて味わい深くなったシチューはきっとよく合うはずだ。
しばしの別れを告げてスプーンを戸棚に寝かせると、一部始終を見ていた彼女が満足そうに笑った。こういう感情がすぐ顔に出るところは昔から変わっていない。
「よくできました」
彼女はそう笑って、僕より低い身長を一生懸命に爪先立ちで伸ばして、子どもにするように僕の頭を撫でた。
「じゃあ、お風呂入ってきちゃうね」
僕の頭から手を離して、元の身長に戻った彼女は扉の奥へと消えていった。
彼女の温度逃さないように自分の頭をそっと撫でたけれど、なんだかひどく照れ臭くて、ソファに身を沈める。
明日の晩ご飯は何にしようか。
シャワーの音とかすかに聞こえる彼女の鼻歌を聞きながら、僕はそんなことを考えていた。
キッチンから彼女が僕を咎める声が聞こえる。
食洗機に入れておけばいいじゃん、と言いかけたところで、彼女が指し示したそれが普通のスプーンとは少し違うことを思い出した。
今日の晩ご飯はシチューだった。わざわざKALDIで普段買っているものより五百円高いルーを買って作ったシチュー。彼女の好きなブロッコリーと、僕の好きなもも肉を入れて今年の夏に買ったまま戸棚の奥底で眠っていた圧力鍋を使って作った、ちょっと特別なもの。
無駄に重い蓋を慎重に開けると、小さなキッチンに湯気が広がる。その様を見届けて、恐る恐る二人で、鍋の中を覗くと、その中でシチューが白く輝いていた。
目を輝かせた彼女は、年季の入った戸棚に手にかけて、
「せっかくのシチューだしこのお皿使っちゃお」
なんて言いながら、彼女はお気に入りの花柄の深皿を鼻歌まじりに出した。
ちょっと特別なメニューには、ちょっと特別な食器を。なるほど、その理論は理解できる。だから僕も彼女と同じようにお気に入りのスプーンを手に取った。
浮き足立つ気持ちを抑えながら食卓に向かうと、ひと足さきに椅子に座っていた彼女は僕の手に握られたそれを一目見るなり、わかりやすく顔を顰める。
「えー、木のスプーン使うの?」
先程まで今にも踊り出しそうなほどご機嫌だったのに、木のスプーン如きでここまで態度が豹変するのか。
関心にも似た気持ちを抱きながら椅子に座ると、目の前の彼女は銀色の鉄製のスプーンの先をこちらに向けた。
「それ、食洗機に入れたらダメになっちゃうから、自分で洗ってね」
そう言い終わるや否や、彼女は軽快にパチンと手を鳴らして小さく礼をする。
「いただきます」
それに続けるように僕も同じ言葉を口にして、じっと彼女の方を見た。ふー、ふー、と何度もスプーンで掬ったシチューに息を吹きかけてようやく口にしたかと思えば、あついあついと涙目になる。猫舌なのにせっかちな彼女らしい行動だった。その一部始終を見届けて、僕もシチューに手を伸ばす。木のスプーンを浅く沈めて、もも肉を掬う。二、三回息を吹きかけて口に運べば、まろやかでコクがあるシチューとよく煮込まれてほろほろと柔らかくなったもも肉の旨みが口一杯に広がった。
そして何より、シチューのおいしさを際立たせているもの、それが木のスプーンなのだ。
鉄に比べて圧倒的に熱伝導率の低い木でできたこのスプーンならば、どんな熱々の料理だって優しく包み込んでくれる。柔らかい肌触りのそれは、掬ったものを口の中に運んでから、役目を終えて離れるその時まで、こちらに一切刺激を与えない、素晴らしいスプーンだ。
それなのに、彼女はこの素晴らしさに気づかない。
「普通にスプーンより高くてすぐダメになるんだから」
なんて怒りながら、僕が用意した彼女の分の木のスプーンをしまったこともあった。大学生の頃から同居を始めて、今まで生活を共にする中で。彼女が木のスプーンを使ったことは一度もない。
「早くこれ洗って、洗い物終わらせちゃおうよ」
少し頬を膨らませた彼女にそう急かされて、僕はようやく腰を上げた。
リビングのソファから十歩程度のところにあるシンクにポツンとお気に入りのスプーンは放置されている。マメな彼女が週に一回掃除しているおかげでピカピカと光を反射している小さな世界に取り残されたそれを見て、なんともいえない寂しさによく似た感情が胸から込み上げてくる。このスプーンにこんな寂しい思いをさせてしまうぐらいなら、もっと早くこの子を綺麗にしてあげればよかった、なんて、そんな意味のないことを考える。
すぐ横にある食洗機がゴウンゴウンと大きな音を立てて、早く洗えと急かしてきた。さかなの形をしたスポンジに少量の洗剤を含ませてよく泡立てる。優しく口に含む部分を特に念入りに擦ってやれば、あっという間にシチューの汚れは落ちて、スプーンは生まれ変わったように綺麗になった。
キッチンペーパーで水気を拭き取って引き出しにスプーンをしまう。今日のシチューはまだ少し残っている。明日の朝ごはんはシチューと食パンにしよう。トースターで焼いたパンと一晩寝かせて味わい深くなったシチューはきっとよく合うはずだ。
しばしの別れを告げてスプーンを戸棚に寝かせると、一部始終を見ていた彼女が満足そうに笑った。こういう感情がすぐ顔に出るところは昔から変わっていない。
「よくできました」
彼女はそう笑って、僕より低い身長を一生懸命に爪先立ちで伸ばして、子どもにするように僕の頭を撫でた。
「じゃあ、お風呂入ってきちゃうね」
僕の頭から手を離して、元の身長に戻った彼女は扉の奥へと消えていった。
彼女の温度逃さないように自分の頭をそっと撫でたけれど、なんだかひどく照れ臭くて、ソファに身を沈める。
明日の晩ご飯は何にしようか。
シャワーの音とかすかに聞こえる彼女の鼻歌を聞きながら、僕はそんなことを考えていた。