息を吸って目を瞑って、ゆっくり息を吐きながら目を開けると、わたしは森の中にいた。ただじっとして、自然の音を存分に聞き入れる。どこも動かさないで、すべてが時間と風に乗せられていく。それだけでよかった。それがわたしの役なのだ。
わたしは、多分クラスでいじめられているんだと思う。
数週間前のある日。学芸会でやる劇の役決めの時間、授業を抜け出して保健室に行っていたわたしが帰ってきたら、わたしの役は勝手に決まっていた。木の役だった。そう、樹木の。最初は冗談かと思ったけれど、台本を見て納得した。
内容は、とある冴えない少年が、大きな木の下で女の子と出会い恋に落ちて、魔女やら悪魔やらに邪魔をされつつ困難を乗り越え幸せになるというようなものであった。クラスのお話し好きな子が書いたらしい。実にチープでとんちんかんなストーリーだ。それで、その木は状況に応じて揺れたり移動したりするみたいで、わたしは気の着ぐるみを着てそれになりきらなければならないのだ。
クラスのみんなは、わたしを良いように思っていない。けれどそれはこちらも同じことで、寄ってたかって一人に危害を加えるような弱虫連中に同情もくそもない。ある日は机がひっくり返されていたし、ある日は給食の全部のお皿に髪の毛が入っていた。そのいずれも、わたしは何の気ない素振りで振舞ってきた。でも、腹が立たないわけじゃない。わたしだって、仕返しの一つや二つ、いや三つくらいはしてやりたいのだ。でも、多勢に無勢は目に見えていて、どうせ無力にもわたしの反抗なんてかき消されるだけなのだ。
だから今回も、わたしに押し付けられた何のとりえもないよな木の役を、精一杯全うしようと思っている。ただやるだけじゃだめだ。皆の想像もつかないくらいに立派な木になってやるのだ。やんちゃな一軍男子から、主役の座を奪い取ってやるのだ。
そうして、わたしの木になるための特訓の日々は、役が決まってから学芸会までの約一か月、みっちり続いた。家に帰っては自室でイメージを膨らませ、時にはわざわざ森と出向いて本物の木に弟子入りさせてもらったりもした。
今やわたしは誰にも負けない木だ。
そう思って、半ば投げつけられるようにして渡された木の着ぐるみを被った。待ちに待った本番である。今日までの間、度重なる合同練習ではまるでやる気がないように振舞ってきた。本番になって、驚かせてやるのだ。見ろ、わたしの木を。なめるな。わたしは今まで我慢してきたんじゃない。準備をしてきたのだ。お前らが押し付けたこの役で、お前たちを殺してやるんだ。お前らの半端な練習とは比べ物にならぬわが身を投げうった練習の産物、わたしの渾身の演技で。
舞台の照明が点灯する。舞台中央に、わたしは立っている。スポットライトに身を収めて、徐々に周囲の音を取り込んでいく。
微動だにせず、木になる。舞台の床を豪快に突き破り根を生やし、照明のうんと近くまで枝木は伸びていく。幾千にも連なる葉が、ちらちらと照明を反射する。客席には新緑の風が吹きつけ、どこからか小鳥がさえずる。客席の奥からは小川が流れはじめ、時の流れを体現する。伸びきった枝先には果実が実る。赤いのから青いのから黄色いのから、多種多様な色と形をしている。
観客が息をのむ。目の前にそびえたつ一本の巨木に、圧倒される。持っていたビデオカメラは手から滑り落ち、自然の風を全身で感じるべくみんな揃ってその両手を広げだす。目を閉じる。
わたしの演技に、会場の全員が釘付けになった。舞台袖のクラスのみんなも、担任の先生も。すべての目線はわたしに集中し、瞬間、わたしは木となった。
わたし達の組は、最優秀賞に選ばれた。皆揃って喜んでいて、ヒロイン役の女の子は泣いて喜んでいた。そんな現場を横目に、わたしはその場を後にした。呼び止める声が聞こえた気がしなくもなかったけれど、それに応じるまでもなく、わたしはわたしの中で崇高な存在だった。
わたしに対するクラスの扱いは少し変わった。前までは向こうから危害を加えてくることが多かったけれど、今はなんというか、ほったらかし。あんまり関わりたくなくなったみたい。それもそうだ。あんなに完璧な木を見せつけてしまったのだから。
窓際の席で、校庭からこちらに向かって伸びている枝木と戯れる。教室まで伸びてきてしまっているから、この枝はきっともうすぐ切られてしまう。そう思うと、ちゃんと痛かった。
わたしは切られたくない。揺れる枝木の先に触れながら、そう思った。
わたしは、多分クラスでいじめられているんだと思う。
数週間前のある日。学芸会でやる劇の役決めの時間、授業を抜け出して保健室に行っていたわたしが帰ってきたら、わたしの役は勝手に決まっていた。木の役だった。そう、樹木の。最初は冗談かと思ったけれど、台本を見て納得した。
内容は、とある冴えない少年が、大きな木の下で女の子と出会い恋に落ちて、魔女やら悪魔やらに邪魔をされつつ困難を乗り越え幸せになるというようなものであった。クラスのお話し好きな子が書いたらしい。実にチープでとんちんかんなストーリーだ。それで、その木は状況に応じて揺れたり移動したりするみたいで、わたしは気の着ぐるみを着てそれになりきらなければならないのだ。
クラスのみんなは、わたしを良いように思っていない。けれどそれはこちらも同じことで、寄ってたかって一人に危害を加えるような弱虫連中に同情もくそもない。ある日は机がひっくり返されていたし、ある日は給食の全部のお皿に髪の毛が入っていた。そのいずれも、わたしは何の気ない素振りで振舞ってきた。でも、腹が立たないわけじゃない。わたしだって、仕返しの一つや二つ、いや三つくらいはしてやりたいのだ。でも、多勢に無勢は目に見えていて、どうせ無力にもわたしの反抗なんてかき消されるだけなのだ。
だから今回も、わたしに押し付けられた何のとりえもないよな木の役を、精一杯全うしようと思っている。ただやるだけじゃだめだ。皆の想像もつかないくらいに立派な木になってやるのだ。やんちゃな一軍男子から、主役の座を奪い取ってやるのだ。
そうして、わたしの木になるための特訓の日々は、役が決まってから学芸会までの約一か月、みっちり続いた。家に帰っては自室でイメージを膨らませ、時にはわざわざ森と出向いて本物の木に弟子入りさせてもらったりもした。
今やわたしは誰にも負けない木だ。
そう思って、半ば投げつけられるようにして渡された木の着ぐるみを被った。待ちに待った本番である。今日までの間、度重なる合同練習ではまるでやる気がないように振舞ってきた。本番になって、驚かせてやるのだ。見ろ、わたしの木を。なめるな。わたしは今まで我慢してきたんじゃない。準備をしてきたのだ。お前らが押し付けたこの役で、お前たちを殺してやるんだ。お前らの半端な練習とは比べ物にならぬわが身を投げうった練習の産物、わたしの渾身の演技で。
舞台の照明が点灯する。舞台中央に、わたしは立っている。スポットライトに身を収めて、徐々に周囲の音を取り込んでいく。
微動だにせず、木になる。舞台の床を豪快に突き破り根を生やし、照明のうんと近くまで枝木は伸びていく。幾千にも連なる葉が、ちらちらと照明を反射する。客席には新緑の風が吹きつけ、どこからか小鳥がさえずる。客席の奥からは小川が流れはじめ、時の流れを体現する。伸びきった枝先には果実が実る。赤いのから青いのから黄色いのから、多種多様な色と形をしている。
観客が息をのむ。目の前にそびえたつ一本の巨木に、圧倒される。持っていたビデオカメラは手から滑り落ち、自然の風を全身で感じるべくみんな揃ってその両手を広げだす。目を閉じる。
わたしの演技に、会場の全員が釘付けになった。舞台袖のクラスのみんなも、担任の先生も。すべての目線はわたしに集中し、瞬間、わたしは木となった。
わたし達の組は、最優秀賞に選ばれた。皆揃って喜んでいて、ヒロイン役の女の子は泣いて喜んでいた。そんな現場を横目に、わたしはその場を後にした。呼び止める声が聞こえた気がしなくもなかったけれど、それに応じるまでもなく、わたしはわたしの中で崇高な存在だった。
わたしに対するクラスの扱いは少し変わった。前までは向こうから危害を加えてくることが多かったけれど、今はなんというか、ほったらかし。あんまり関わりたくなくなったみたい。それもそうだ。あんなに完璧な木を見せつけてしまったのだから。
窓際の席で、校庭からこちらに向かって伸びている枝木と戯れる。教室まで伸びてきてしまっているから、この枝はきっともうすぐ切られてしまう。そう思うと、ちゃんと痛かった。
わたしは切られたくない。揺れる枝木の先に触れながら、そう思った。