このままだと、死ぬ!
そう思った直後、俺は映画館の前にいた。何を言っているのかまるで理解できないであろう。大丈夫だ、俺も理解できていない。
俺は夜の飲み屋街を愛しの彼女、美香と歩いていた。結婚も視野に、非常に順調な関係であった。その日、仕事で長めの出張に出ていた彼女と会ったのは実に一か月ぶりで、気分も高揚して自分のキャパシティーを超えてがぶがぶと酒を浴びていた。
店を出て、終電の時間が迫っていたため、細く暗い路地を近道として利用したのが間違いであった。その道の中腹、ほの暗い街灯の下にたむろしていた柄の悪い連中に見事、吐しゃ物を浴びせてしまったのである。まあ、あんなところで道をふさいでいた彼らにも負がないとは言い切れない。避けようとしたら、不意に目が眩んだのだ。
そんなこんなで、激怒した丸刈りタトゥーゴリマッチョにスムーズに顔面パンチとボディブローを食らわせられた挙句、ご自慢であろう太く鍛え上げられた剛腕によって首を絞められた。それが俺の最後の記憶である。
俺の眼前には、映画館と思しきカーペットの敷かれた廊下と、等間隔にそびえる巨大なドアが果ての見えないほど続いていた。
「ようこそお越しくださいました」
突如、困惑する俺の耳に落ち着いた女性の声が飛び込んできた。手前に目をやると、ラグジュアリーな受付台と、その向こうにホテルのコンシェルジュのような風貌の女性が立っている。
「須藤翔様でお間違いありませんか?」
「あ、はい」
なぜ俺の名前を。一体ここは。
「こちら、走馬灯シネマでございます。こちらでは、死に瀕した皆様に各々の人生をお好きに見返していただきまして、死の回避を手助けする機関となっております。須藤様の場合、この先をまっすぐ進んでいただきまして十五番目の扉に入っていただきます。他の扉には入ることができませんのでお気を付けくださいませ。中に入りましたら再度、わたくしが操作パネルの使い方をアナウンスいたしますので、そちらの方を参考にご覧になってください」
「あ、えっと僕は死ぬんですか?」
「そうですね、このままだと……まあ残念な結果におなりになるといいますか」
「死ぬんですね」
「そうですね」
走馬灯シネマ? 何かの冗談であろうか。はたまた夢でも見ているのだろうか。
「それを回避していただくために、我々の機関が存在しているという形になります」
「それが、走馬灯という……」
「左様でございます。走馬灯というのは、人間が死に瀕した場合にその人生の記憶から、死から助かる方法を模索するというものでございます。ですが、人間の記憶力には限界がありますゆえ、こちらで記録した走馬灯を見ていただいているというのが本来の形になります」
「てことは、走馬灯なんて元から存在しないということですか」
「そういうことになりますね」
なんということだ。あまりに現実離れした話である。しかし今実際にこの目の前にそれが存在しているのだ。何も文句は言えない。
「それって、助かった場合ここのことを口外してしまったりしないんですか。こんな場所があるなんて聞いたことがないんですけど」
「はい、そちらに関しましては中でもご説明させていただくのですが、ここにいた記憶は消去されますので口外は不可能でございます。こちらで死への打開策を見つけていただきまして、シート横の記入用紙に現世に戻った直後の行動について書いていただきます。そしてそちらをこの受付に提出していただければ、記憶はないままに無意識に体が動きますので、ご安心ください」
よくできた仕組みである。
俺は早速、言われた扉に向かって歩みを進めた。一つ一つの扉の横には名前が書いてあった。そしてその下には緑や赤のランプがついており、俺の扉の横のそれは緑色に光っていた。おそらく、使用中か否か、ということであろう。
中に入ると、よくある映画館の大きなスクリーンとその前に一席だけ、座り心地のよさそうなシートが設置されていた。
「そちらのシートにお座りください」
どこからか、アナウンスが流れる。部屋に響いているようにも、脳内に直接聞こえているようにも思える。
「お座りになりましたら、シートのひじ掛けにございます操作パネルの赤いボタンを押してください。そうしますと、プロジェクターが作動しますので、お好きな年月をお選びいただいて、ご自由にご覧下さいませ」
言われた通りボタンを押すと、スクリーンにDVDのメニュー画面のようなものが映し出された。なるほどこれは操作がしやすい。ご親切にワードで記録を検索できる機能までついている。
「何かご不明な点ございましたらお気軽にお申し付けください」
そう言って、アナウンスは切れた。しかしこのシート、相当な座り心地である。今にも寝てしまいそうなほどふかふかと気持ちがいい。
「須藤様、そのまま寝てしまわれますと走馬灯は終了しまして、現世に引き戻されますのでご注意ください」
危ない危ない。早く言ってくれそういうのは。危うく死にかけた。気は抜けないということだな。
それから俺は、必死になって生きる術を探した。
「護身術」
「ヤンキー」
「喧嘩 勝つ方法」
散々に調べたが、俺の人生の記録はまるで役に立たない。まだ、動画サイトやインターネットの方が役に立つであろう。まったく、平和な人生を送ってきてしまったものだ。
少し経つと、誕生日や運動会、ドライブに会社の飲み会、甘酸っぱい恋の思い出……と、気づけば俺は思い出に浸ってしまっていた。
入室から四時間ほど経った頃、俺は高校の同級生である和真の結婚式の記録を閲覧していた。
ビシッと髪形を決め、慣れないタキシードに身を包む和真は、長い付き合いであるのに新鮮な印象を受けた。懐かしいな。もうあれから五年か……。そういえば最近子供が生まれたって言ってたっけな。
俺は結婚式を追体験するかのように、その記録に夢中になっていた。久しぶりに会う高校の面々は、変わっていたり変わっていなかったり、海外に移住した奴なんかもいて、大いに話が盛り上がっていた。
結婚式も終盤に差し掛かってきたころ、俺はテーブル席にて取ってきたビュッフェを食べながら、昔懐かしい青春の思い出話に花を咲かせていた。
このへんは、いいや。最後の挨拶までとばすか……。
そう思い、操作パネルに手をかけた時だった。スクリーンに映る結婚式の映像、大柄な男がテーブルまで来て、正面に座る和真と話し始めた。
途端、俺は手を止めた。あいつだ。あのヤンキーだ。
友人と話し始めたのは、現在絶賛首絞め中のあの丸刈りタトゥーゴリマッチョであった。途端、俺は本来の目的を思い出した。
これだ。
四時間の間に随分と使いこなせるようになった操作パネルに指を滑らせ、映像を巻き戻す。そして彼が視界に現れたところで、再生を押す。
「おう、久しぶり!」
「おー! ゴリポンじゃん! おひさ! 何、お前もあいつの友達なの?」
ゴリポン……あだ名だろうか。なんて安直かつダサいのであろう。しかし、これで死が回避できる。見ず知らずのゲロかけ野郎にあだ名なんて言われようものなら、流石に首絞めはやめるだろう。目的を忘れていたとはいえ、何という収穫だ。ありがとう、和真。
俺は急いで記入用紙を取り出し、「行動内容」と書かれた欄に、「『ゴリポン』と叫ぶ」と記入した。どうあがいてもあの筋肉隆々からは抜け出せないであろうし、どう命を乞うても助けてはくれないだろうから、これが最善策だと思ったのだ。
受付に行くと、先ほどの女性が他の人の対応を終えた頃であった。そりゃあ俺だけではないのだろうな、と思いつつ用紙を彼女に預けた。
「行動内容、『ゴリポンと叫ぶ』でお間違いないですか。現世に戻った後での変更はできかねます。もし仮にこれで助からない場合も、再度こちらで走馬灯をご覧になることはできませんがよろしいですか」
「はい、大丈夫です。それで、お願いします」
「かしこまりました。それでは、あちらのゲートから、現世にお戻りください。須藤様のご無事を心から祈っております」
俺はゲートの方へと足を進めた。
俺は首を絞められて数秒後、薄れゆく意識の中咄嗟に「ゴリポン」と叫んだ。不意に思い出したのだ。高校の同級生である、和真の結婚式、あれは確か五年ほど前。そこでテーブル席に座る俺と和真の間に割って入ってきたコワモテ男が居たのだ。その男に、今俺の首を絞めている男が瓜二つなのだ。
叫んだ直後、俺の首に巻き付いた剛腕はほどかれた。先ほどまで泣き叫び、必死に俺を助け出そうとしていた彼女も、バタつかせていた手足を止め、きょとんとした表情でこちらを見ている。
「おい、なんだ知り合いか?」
連中の一人が言った。
「いや、わかんねえ。見たことねえよこんな奴。しかもゴリポンて、中学の頃のあだ名だぜ?」
「じゃあ中学の同級生なんじゃねえの?」
「いやあこんな奴いたかなあ……っておい! 待てゴラ!」
今しかない。俺は緩んだ腕をすり抜け、彼女の手を引いて、酔いで歪む視界の中全力で走った。追いつかれないよう、道をまっすぐは進まず、あちらこちらへと交差点を曲がり、やっとのことで駅の前へと到着した。追手は来ていないようであった。
「何……知り合い……なの?」
「いや……まあ、一回……和真の結婚式で」
息を切らしながらそう質問する彼女に、息を切らしながらくらくらとよろめきつつ、先ほどの体験に困惑しながらも俺はそう返した。
一体何だったのであろう。薄れゆく意識の中、俺は俺の人生を見た。誕生日や運動会、ドライブに会社の飲み会、甘酸っぱい恋の思い出など、あらゆる忘れていた記憶が蘇ったのだ。きっとあれが、俗にいう走馬灯というやつなのであろう。我ながら、何とも稀有な体験をしてしまった。
「よく覚えてたね、そんなこと」
息を整えた彼女がそう言った。
「いやあなんか、走馬灯? みたいなのが見えたんだよ。いろんな記憶とか。あ、美香に初めて会った日のことも思い出したよ」
「ホントにー? 前まで覚えてないって言ってたじゃーん。じゃあ何、あのゴリポンて人に感謝ってこと?」
「そうかもな」
「なにそれ、冗談ばっかり」
俺を小馬鹿にするように、彼女はそう言って笑った。内心、信じてはいないだろう。走馬灯なんて、単なる都市伝説やら思い込みやらに過ぎないのだから。人間の記憶力にも、限界というものがあるだろう。そこまで全てを覚えておけるはずがない。
しかし、本当に助かってよかった。あんなところで野垂れ死んでしまっては、夢も希望もありゃしない。
「あ! 今何時?」
我に返った様子の彼女は、携帯電話を取り出しながら叫んだ。時計は、午後十一時半過ぎを指している。終電の時間は、十一時半だ。逃した。
「あーもう、間に合わなかったじゃん」
「まあ、どっか泊っていけばいいよ」
「もしかして、ヤンキーに向かって吐いたのってそれが目的ぃ?」
「まさか。死にかけたんだぞ」
「ふふ。まあいいや、行こ」
俺は彼女と手を繋ぎ、ホテル街へと歩き出した。我々が向かう先とは逆方向に、乗るはずだった最後の電車は走り去っていった。
そう思った直後、俺は映画館の前にいた。何を言っているのかまるで理解できないであろう。大丈夫だ、俺も理解できていない。
俺は夜の飲み屋街を愛しの彼女、美香と歩いていた。結婚も視野に、非常に順調な関係であった。その日、仕事で長めの出張に出ていた彼女と会ったのは実に一か月ぶりで、気分も高揚して自分のキャパシティーを超えてがぶがぶと酒を浴びていた。
店を出て、終電の時間が迫っていたため、細く暗い路地を近道として利用したのが間違いであった。その道の中腹、ほの暗い街灯の下にたむろしていた柄の悪い連中に見事、吐しゃ物を浴びせてしまったのである。まあ、あんなところで道をふさいでいた彼らにも負がないとは言い切れない。避けようとしたら、不意に目が眩んだのだ。
そんなこんなで、激怒した丸刈りタトゥーゴリマッチョにスムーズに顔面パンチとボディブローを食らわせられた挙句、ご自慢であろう太く鍛え上げられた剛腕によって首を絞められた。それが俺の最後の記憶である。
俺の眼前には、映画館と思しきカーペットの敷かれた廊下と、等間隔にそびえる巨大なドアが果ての見えないほど続いていた。
「ようこそお越しくださいました」
突如、困惑する俺の耳に落ち着いた女性の声が飛び込んできた。手前に目をやると、ラグジュアリーな受付台と、その向こうにホテルのコンシェルジュのような風貌の女性が立っている。
「須藤翔様でお間違いありませんか?」
「あ、はい」
なぜ俺の名前を。一体ここは。
「こちら、走馬灯シネマでございます。こちらでは、死に瀕した皆様に各々の人生をお好きに見返していただきまして、死の回避を手助けする機関となっております。須藤様の場合、この先をまっすぐ進んでいただきまして十五番目の扉に入っていただきます。他の扉には入ることができませんのでお気を付けくださいませ。中に入りましたら再度、わたくしが操作パネルの使い方をアナウンスいたしますので、そちらの方を参考にご覧になってください」
「あ、えっと僕は死ぬんですか?」
「そうですね、このままだと……まあ残念な結果におなりになるといいますか」
「死ぬんですね」
「そうですね」
走馬灯シネマ? 何かの冗談であろうか。はたまた夢でも見ているのだろうか。
「それを回避していただくために、我々の機関が存在しているという形になります」
「それが、走馬灯という……」
「左様でございます。走馬灯というのは、人間が死に瀕した場合にその人生の記憶から、死から助かる方法を模索するというものでございます。ですが、人間の記憶力には限界がありますゆえ、こちらで記録した走馬灯を見ていただいているというのが本来の形になります」
「てことは、走馬灯なんて元から存在しないということですか」
「そういうことになりますね」
なんということだ。あまりに現実離れした話である。しかし今実際にこの目の前にそれが存在しているのだ。何も文句は言えない。
「それって、助かった場合ここのことを口外してしまったりしないんですか。こんな場所があるなんて聞いたことがないんですけど」
「はい、そちらに関しましては中でもご説明させていただくのですが、ここにいた記憶は消去されますので口外は不可能でございます。こちらで死への打開策を見つけていただきまして、シート横の記入用紙に現世に戻った直後の行動について書いていただきます。そしてそちらをこの受付に提出していただければ、記憶はないままに無意識に体が動きますので、ご安心ください」
よくできた仕組みである。
俺は早速、言われた扉に向かって歩みを進めた。一つ一つの扉の横には名前が書いてあった。そしてその下には緑や赤のランプがついており、俺の扉の横のそれは緑色に光っていた。おそらく、使用中か否か、ということであろう。
中に入ると、よくある映画館の大きなスクリーンとその前に一席だけ、座り心地のよさそうなシートが設置されていた。
「そちらのシートにお座りください」
どこからか、アナウンスが流れる。部屋に響いているようにも、脳内に直接聞こえているようにも思える。
「お座りになりましたら、シートのひじ掛けにございます操作パネルの赤いボタンを押してください。そうしますと、プロジェクターが作動しますので、お好きな年月をお選びいただいて、ご自由にご覧下さいませ」
言われた通りボタンを押すと、スクリーンにDVDのメニュー画面のようなものが映し出された。なるほどこれは操作がしやすい。ご親切にワードで記録を検索できる機能までついている。
「何かご不明な点ございましたらお気軽にお申し付けください」
そう言って、アナウンスは切れた。しかしこのシート、相当な座り心地である。今にも寝てしまいそうなほどふかふかと気持ちがいい。
「須藤様、そのまま寝てしまわれますと走馬灯は終了しまして、現世に引き戻されますのでご注意ください」
危ない危ない。早く言ってくれそういうのは。危うく死にかけた。気は抜けないということだな。
それから俺は、必死になって生きる術を探した。
「護身術」
「ヤンキー」
「喧嘩 勝つ方法」
散々に調べたが、俺の人生の記録はまるで役に立たない。まだ、動画サイトやインターネットの方が役に立つであろう。まったく、平和な人生を送ってきてしまったものだ。
少し経つと、誕生日や運動会、ドライブに会社の飲み会、甘酸っぱい恋の思い出……と、気づけば俺は思い出に浸ってしまっていた。
入室から四時間ほど経った頃、俺は高校の同級生である和真の結婚式の記録を閲覧していた。
ビシッと髪形を決め、慣れないタキシードに身を包む和真は、長い付き合いであるのに新鮮な印象を受けた。懐かしいな。もうあれから五年か……。そういえば最近子供が生まれたって言ってたっけな。
俺は結婚式を追体験するかのように、その記録に夢中になっていた。久しぶりに会う高校の面々は、変わっていたり変わっていなかったり、海外に移住した奴なんかもいて、大いに話が盛り上がっていた。
結婚式も終盤に差し掛かってきたころ、俺はテーブル席にて取ってきたビュッフェを食べながら、昔懐かしい青春の思い出話に花を咲かせていた。
このへんは、いいや。最後の挨拶までとばすか……。
そう思い、操作パネルに手をかけた時だった。スクリーンに映る結婚式の映像、大柄な男がテーブルまで来て、正面に座る和真と話し始めた。
途端、俺は手を止めた。あいつだ。あのヤンキーだ。
友人と話し始めたのは、現在絶賛首絞め中のあの丸刈りタトゥーゴリマッチョであった。途端、俺は本来の目的を思い出した。
これだ。
四時間の間に随分と使いこなせるようになった操作パネルに指を滑らせ、映像を巻き戻す。そして彼が視界に現れたところで、再生を押す。
「おう、久しぶり!」
「おー! ゴリポンじゃん! おひさ! 何、お前もあいつの友達なの?」
ゴリポン……あだ名だろうか。なんて安直かつダサいのであろう。しかし、これで死が回避できる。見ず知らずのゲロかけ野郎にあだ名なんて言われようものなら、流石に首絞めはやめるだろう。目的を忘れていたとはいえ、何という収穫だ。ありがとう、和真。
俺は急いで記入用紙を取り出し、「行動内容」と書かれた欄に、「『ゴリポン』と叫ぶ」と記入した。どうあがいてもあの筋肉隆々からは抜け出せないであろうし、どう命を乞うても助けてはくれないだろうから、これが最善策だと思ったのだ。
受付に行くと、先ほどの女性が他の人の対応を終えた頃であった。そりゃあ俺だけではないのだろうな、と思いつつ用紙を彼女に預けた。
「行動内容、『ゴリポンと叫ぶ』でお間違いないですか。現世に戻った後での変更はできかねます。もし仮にこれで助からない場合も、再度こちらで走馬灯をご覧になることはできませんがよろしいですか」
「はい、大丈夫です。それで、お願いします」
「かしこまりました。それでは、あちらのゲートから、現世にお戻りください。須藤様のご無事を心から祈っております」
俺はゲートの方へと足を進めた。
俺は首を絞められて数秒後、薄れゆく意識の中咄嗟に「ゴリポン」と叫んだ。不意に思い出したのだ。高校の同級生である、和真の結婚式、あれは確か五年ほど前。そこでテーブル席に座る俺と和真の間に割って入ってきたコワモテ男が居たのだ。その男に、今俺の首を絞めている男が瓜二つなのだ。
叫んだ直後、俺の首に巻き付いた剛腕はほどかれた。先ほどまで泣き叫び、必死に俺を助け出そうとしていた彼女も、バタつかせていた手足を止め、きょとんとした表情でこちらを見ている。
「おい、なんだ知り合いか?」
連中の一人が言った。
「いや、わかんねえ。見たことねえよこんな奴。しかもゴリポンて、中学の頃のあだ名だぜ?」
「じゃあ中学の同級生なんじゃねえの?」
「いやあこんな奴いたかなあ……っておい! 待てゴラ!」
今しかない。俺は緩んだ腕をすり抜け、彼女の手を引いて、酔いで歪む視界の中全力で走った。追いつかれないよう、道をまっすぐは進まず、あちらこちらへと交差点を曲がり、やっとのことで駅の前へと到着した。追手は来ていないようであった。
「何……知り合い……なの?」
「いや……まあ、一回……和真の結婚式で」
息を切らしながらそう質問する彼女に、息を切らしながらくらくらとよろめきつつ、先ほどの体験に困惑しながらも俺はそう返した。
一体何だったのであろう。薄れゆく意識の中、俺は俺の人生を見た。誕生日や運動会、ドライブに会社の飲み会、甘酸っぱい恋の思い出など、あらゆる忘れていた記憶が蘇ったのだ。きっとあれが、俗にいう走馬灯というやつなのであろう。我ながら、何とも稀有な体験をしてしまった。
「よく覚えてたね、そんなこと」
息を整えた彼女がそう言った。
「いやあなんか、走馬灯? みたいなのが見えたんだよ。いろんな記憶とか。あ、美香に初めて会った日のことも思い出したよ」
「ホントにー? 前まで覚えてないって言ってたじゃーん。じゃあ何、あのゴリポンて人に感謝ってこと?」
「そうかもな」
「なにそれ、冗談ばっかり」
俺を小馬鹿にするように、彼女はそう言って笑った。内心、信じてはいないだろう。走馬灯なんて、単なる都市伝説やら思い込みやらに過ぎないのだから。人間の記憶力にも、限界というものがあるだろう。そこまで全てを覚えておけるはずがない。
しかし、本当に助かってよかった。あんなところで野垂れ死んでしまっては、夢も希望もありゃしない。
「あ! 今何時?」
我に返った様子の彼女は、携帯電話を取り出しながら叫んだ。時計は、午後十一時半過ぎを指している。終電の時間は、十一時半だ。逃した。
「あーもう、間に合わなかったじゃん」
「まあ、どっか泊っていけばいいよ」
「もしかして、ヤンキーに向かって吐いたのってそれが目的ぃ?」
「まさか。死にかけたんだぞ」
「ふふ。まあいいや、行こ」
俺は彼女と手を繋ぎ、ホテル街へと歩き出した。我々が向かう先とは逆方向に、乗るはずだった最後の電車は走り去っていった。