妹の沙代と荒鷲大爆撃双六で遊んでいましたら、突然、沙代が、
「あ」
と小さく声をあげましたので、自分はコマを進める手を止めて、
「どうした」
と尋ねました。
「お母さまに、今日、門松を飾ってと頼まれていたのをすっかり忘れていました」
そう言って沙代は立ち上がって、すたた、と小走りで庭へ出て行きました。後から自分も追って行きますと、庭の松の木のそばに佇んでいる妹の姿がありました。
「沙代は、まだ小さいから、届かないだろう。どれ、僕が切ってあげよう」
そう言って自分は居間に戻って棚からはさみを取ってくると、松の枝をぷつりと切って彼女に手渡してやりました。沙代はそれを両手で受け取って、ありがとう、と小さく微笑みました。
どうやら、大東亜戦争のうちに第二回目の正月を迎えるようです。来年は、特にいろいろなものを節約しなくてはならないので、門松もうちの庭の松を切って立てました。
「なに、日本が勝って戦争が終われば、また立派な門松が飾れるよ」
何も言わずただ即席門松を見つめている沙代の横顔に自分はそう言って、さあ、双六のつづきをしようと居間に戻ろうとしました。そのとき、ふと、はす向かいのうちには松の木がないことを思い出して、その足を止めました。自分は、沙代の方を振り返って言いました。
「はす向かいのうちは、たしか、沙代の同級生が住んでいるだろう。あちらのお宅には、木が立っていないから、うちの松を渡しに行こうか。こんな門松でも、ないより良いでしょう」
ですが、沙代は、俯きながらかしらを左右に振って、「いや」と答えました。
「あの人とは、気が合わないから、そんな真似はしたくありません」
沙代は頑固な女でした。一度これと言ったら、そこからは、こちらが何と言おうと、もう梃子でも動かないのです。自分は、そんな彼女に心底辟易し、閉口してしまって、彼女がそういう態度を見せればすぐに諦め、何も言わずに立ち去るという日々を送っていましたが、今回ばかりは、向こうのお宅に、戦時中ではありますが少しでも正月気分を、というおせっかいが働いてしまって、それに何より、沙代に対する不満の蓄積がいよいよ限界を迎えたのだと思います、こちらも意固地を通そうとしました。
「そんなことを言ってはいけない。仲良くしなさい。今この瞬間にも、お国のために尽力されている方々がいらっしゃるのだから、僕たちも、協力し合わなければならない。ほら、持って行ってあげなさい」
自分はもうひとつ、松の木の枝をぷつりと切って、沙代に少々強引に手に持たせました。いやいや枝を握っていた彼女でしたが、自分がいつものように諦めてくれないと察したのでしょう。やがて、家を出て行きました。観念したのかしら。そうも思いましたが、何やら心に暗雲垂れ込めるような思いがしましたので、結局、自分は彼女の後ろをこそこそと痴れ者のようについて行くことにしました。
どうやら、自分の勘は当たったようでした。はす向かいの家ですので、自分の家の外構からでも十分に覗けました。相手の家の前で、沙代はいつまでも動かずにいました。ただ、ぼうっと、モネの芸術作品でも鑑賞するかのように住まいを見つめているのです。自分は、おい、何をもたもたしているのか、と背後から急かしたくなる心地でしたが、己の勇気を振り絞る拍子を他人に操縦されることの憤懣はよく知っていましたので、ここはこらえて、黙って待っていることにしました。
自分が三回目の欠伸をしたころ、沙代は松の枝を握りしめたまま、結局訪問することなくどこかへ行ってしまいました。慌てて、自分も後を追いました。沙代は、しばらくはあてもなくふらふらと歩いていましたが、やがて、ある空き地へと入っていきました。そうすると、自分は少し遠くから塀に隠れて、また、こそこそと覗きを再開します。沙代は、空き地にまばらに生えている草などを適当に踏みつぶしていました。自分は、そろそろこの尾行が馬鹿らしくなってきて、飽きが来ていました。さっきまでの説教の炎も下火になってきましたので、今から沙代に声をかけて、一緒に松を渡しに行こうと提案するのがよろしいと思いました。
沙代──。
呼びかけた自分の声は、情けなく中空に浮かびました。自分は、目の当たりにしたのです。沙代は、握った松を地面に放り投げて、そのまま空き地を出て走り去って行きました。空き地には、踏まれてしょげた草少々と、今この瞬間にごみと化した松だけがありました。自分も、突然の出来事に唖然としてしまって、尾行のことなど忘れてそのまましばらく塀に張り付いていました。
沙代が帰宅したのは薄明の頃でした。自分は玄関の戸が開く音を聞くなり、あの後拾って持って帰った松の枝を背中に隠して玄関へ行き、彼女が靴も脱ぎ終わらぬうちに早速問い質しました。
「門松は、渡したか」
声色で、察したのでしょうか。沙代は自身の靴を脱がす手を止めて、体をこちらに向けました。そうしてしばらく黙って目を泳がせていましたが、やがて、はい、と小さく答えました。自分は、今度こそ憤怒しました。沙代は、松を捨てたのがばれたことを想像したに違いないのです。それなのに、渡しましたなどと良い子のお返事をして、賭けの応答をしたのです。
「では、これは何だ」
そう言って彼女の眼前に突き出した松の枝を、彼女は大して驚いた素振りも見せず黙って見つめていましたので、自分は彼女の賭けを確信しました。その賭けの応答は、じっとりと自分の神経を逆撫でしました。
「何度言ったら分かるのか。今、日本は戦争をしているのだ。外の国と、戦っている。今の日本には余裕がない。だから、支え合って、協力しなければいけない。それなのに、今お前たちが、お前たち同士でくだらない戦争をしていてどうする!」
糸をぴんと張ったような沈黙が鎮座しました。沙代は俯いていて、彼女の長い睫毛が瞳に暗い影を落としました。
「戦争」
ぽつり。と沙代はつぶやき自分の言葉を反芻します。そして、彼女はじいっと薄気味悪く自分を上目で見て、精一杯に口角を上げて、続けて言いました。
「戦争ならば、では、何としてでも勝たなくてはなりませんね」
自分は、その時初めて、妹を撲ちました。一瞬の出来事に沙代は呆然と、両手で左頬を押さえて涙を浮かべます。なぜ、門松ひとつでこんなことになってしまうのか。自分は、ひどく疲れてしまって、撲ったことに対する罪の意識が無かったわけではないのですが、謝罪も自己批判もする気になれず、そのままずるずると寝間着の裾を引きずるようにして自室に戻りました。
結局、あの日から自分たちはろくに会話も交わさず、とうとう一月一日を迎えました。
自分は、外套を羽織りました。毎年、初詣は妹と二人で近所の神社へお参りに行くのですが、前述したとおり、沙代はかなりの頑固者ですから、初詣に行こうなどと彼女から声をかけてくることは天地がひっくり返ってもありえません。それどころか、自分が動かなければ、この仲違いは一体いつまで続くのでしょうか。協力しなさい、仲良くしなさいなどと、過去の自分が説教してきます。たしかに、自分としても家が居心地の悪い場所となってしまうのは勘弁してほしい事態でしたので、ここは少し勇気を出して、居間の畳にぺたりと座る沙代に話しかけました。
「初詣に行こうか。あたたかい格好をしなさい」
気にしていない。あのことは、忘れた。そういう設定にして、演技をして、話しかけました。沙代は、一瞬驚いたような顔をしましたが、すんと立ち上がって大人しく襟巻きを用意しました。二人で家を出て、歩いて神社へと向かいます。道中、二言三言、雑談をしました。僅かな雪解けの会話、そういうふうに、自分には思えました。
「大東亜戦争。さあ、二年目も勝ちぬくぞ」
そう神様にお伝えします、と沙代は両手に小さい拳をつくって言っていました。
神社はいつもよりは賑わっていましたが、それでも控えめで謙虚なものでした。自分たちも大して並ばずさらりと参拝を済ませ、その他には特にすることもなかったので、家路につこうと踵を返しました。そのとき、自分は石段のそばにひとりの少女の姿を見ました。
「沙代、あの子ははす向かいの家の子だろう」
石段の少女を見ながらそう言うと、こくり、と沙代が隣で頷いたのが目の端に映りました。どうやら、はす向かいの家の少女も、妹の存在に気付いているようでした。長いこと無言で目を合わせて、お互い牽制し合っているようでした。自分は、今度はそっと、沙代の背中を押してやりました。
「話してくるといい。僕は、邪魔だろうから、先に帰るから」
こちらを見上げる沙代の硬い瞳を溶かすように、自分は柔和な眼差しを注ぎました。妹だって、仲直りを望んでいないわけがないのです。きっかけさえ作ってやれば、きっと素直になれるでしょう。沙代は、またこくりと頷いて、一歩、一歩と石段の方へと進んで行きました。その後ろ姿を見送ると、自分はさっさと神社をあとにしました。冷たい風が頬を鋭く刺しましたが、からりとした青空が広がっていました。
薄明も終わっていよいよ空が暗くなっても、まだ沙代は帰ってきませんでした。最初は自分も、きっと仲直りをして遊びやお喋りに夢中になっているのだろうと思っていましたが、妹がこんなにも遅くまで帰ってこなかったことはこれまで一度もなかったので、いよいよ心配でたまらなくなりました。そして居ても立っても居られなくなって、外套を掴んで家を飛び出しました。家を出てすぐ、はす向かいの家の戸を叩くと、昼間の少女が出てきました。
「沙代は」
と聞くと
「知りません」
と少女は不機嫌を隠す気など全く無い様子で答えました。「何があった」と聞いても、ただ黙って、片足を退屈そうに、振り子のように振っているだけで、それ以上答える気は無いようです。
「言わないと──」
そう言って、自分は右手をゆっくりとあげました。この自分の脅しの効果は、抜群でした。自分の眼光に、少女は射すくめられたようで、体を硬直させたまま、辿々しく事情を話し出しました。
「お正月ですけど、あなたの家は門松は飾ったのかしら、などと、イヤミなことを言われましたので、あなたの家には木があるから、空襲のときによく燃えそうね、とあたし、言いました。そしたら、撲たれました。あたしは、仕返しに、引っ掻きました。そうしたら、走って、どこかへ行きました」
彼女の話を聞きながら、自分は眩暈がして倒れてしまいたくなるほどでした。なに、自分は、まさかそんな結果に導くために、あのとき背中を押したわけではないのです。なぜ、こうなってしまうのか。自分は怯える少女に礼のひとつも言わずに、また、心当たりのある場所まで走りました。
空き地のまばらに生えた草の地面に、沙代はひとりしゃがみ込んでいました。自分が彼女の近くまで来ると、顔を上げて、兄だと分かると、途端に泣きじゃくりました。唇からは、大したものではありませんが、流血していました。泣きながら、沙代は、自分に必死にこう訴えるのです。
「私、負けません。負けません」
戦争が始まる前までは、沙代はこんな子ではありませんでした。なに、頑固で感情任せで負けず嫌いなところはあるものの、ここまでではありませんでした。これはきっと、血と兵器の戦争色に染まってしまった、戦争によって生み出された化け物である、と自分は彼女を見て悟りました。自分には、目の前で泣きじゃくる妹が、争いと勝利を渇望する獣獣に見えて仕方ありません。口から滴り落ちる血に、ただただ恐怖し、慄き、発狂しそうになりました。
「あ」
と小さく声をあげましたので、自分はコマを進める手を止めて、
「どうした」
と尋ねました。
「お母さまに、今日、門松を飾ってと頼まれていたのをすっかり忘れていました」
そう言って沙代は立ち上がって、すたた、と小走りで庭へ出て行きました。後から自分も追って行きますと、庭の松の木のそばに佇んでいる妹の姿がありました。
「沙代は、まだ小さいから、届かないだろう。どれ、僕が切ってあげよう」
そう言って自分は居間に戻って棚からはさみを取ってくると、松の枝をぷつりと切って彼女に手渡してやりました。沙代はそれを両手で受け取って、ありがとう、と小さく微笑みました。
どうやら、大東亜戦争のうちに第二回目の正月を迎えるようです。来年は、特にいろいろなものを節約しなくてはならないので、門松もうちの庭の松を切って立てました。
「なに、日本が勝って戦争が終われば、また立派な門松が飾れるよ」
何も言わずただ即席門松を見つめている沙代の横顔に自分はそう言って、さあ、双六のつづきをしようと居間に戻ろうとしました。そのとき、ふと、はす向かいのうちには松の木がないことを思い出して、その足を止めました。自分は、沙代の方を振り返って言いました。
「はす向かいのうちは、たしか、沙代の同級生が住んでいるだろう。あちらのお宅には、木が立っていないから、うちの松を渡しに行こうか。こんな門松でも、ないより良いでしょう」
ですが、沙代は、俯きながらかしらを左右に振って、「いや」と答えました。
「あの人とは、気が合わないから、そんな真似はしたくありません」
沙代は頑固な女でした。一度これと言ったら、そこからは、こちらが何と言おうと、もう梃子でも動かないのです。自分は、そんな彼女に心底辟易し、閉口してしまって、彼女がそういう態度を見せればすぐに諦め、何も言わずに立ち去るという日々を送っていましたが、今回ばかりは、向こうのお宅に、戦時中ではありますが少しでも正月気分を、というおせっかいが働いてしまって、それに何より、沙代に対する不満の蓄積がいよいよ限界を迎えたのだと思います、こちらも意固地を通そうとしました。
「そんなことを言ってはいけない。仲良くしなさい。今この瞬間にも、お国のために尽力されている方々がいらっしゃるのだから、僕たちも、協力し合わなければならない。ほら、持って行ってあげなさい」
自分はもうひとつ、松の木の枝をぷつりと切って、沙代に少々強引に手に持たせました。いやいや枝を握っていた彼女でしたが、自分がいつものように諦めてくれないと察したのでしょう。やがて、家を出て行きました。観念したのかしら。そうも思いましたが、何やら心に暗雲垂れ込めるような思いがしましたので、結局、自分は彼女の後ろをこそこそと痴れ者のようについて行くことにしました。
どうやら、自分の勘は当たったようでした。はす向かいの家ですので、自分の家の外構からでも十分に覗けました。相手の家の前で、沙代はいつまでも動かずにいました。ただ、ぼうっと、モネの芸術作品でも鑑賞するかのように住まいを見つめているのです。自分は、おい、何をもたもたしているのか、と背後から急かしたくなる心地でしたが、己の勇気を振り絞る拍子を他人に操縦されることの憤懣はよく知っていましたので、ここはこらえて、黙って待っていることにしました。
自分が三回目の欠伸をしたころ、沙代は松の枝を握りしめたまま、結局訪問することなくどこかへ行ってしまいました。慌てて、自分も後を追いました。沙代は、しばらくはあてもなくふらふらと歩いていましたが、やがて、ある空き地へと入っていきました。そうすると、自分は少し遠くから塀に隠れて、また、こそこそと覗きを再開します。沙代は、空き地にまばらに生えている草などを適当に踏みつぶしていました。自分は、そろそろこの尾行が馬鹿らしくなってきて、飽きが来ていました。さっきまでの説教の炎も下火になってきましたので、今から沙代に声をかけて、一緒に松を渡しに行こうと提案するのがよろしいと思いました。
沙代──。
呼びかけた自分の声は、情けなく中空に浮かびました。自分は、目の当たりにしたのです。沙代は、握った松を地面に放り投げて、そのまま空き地を出て走り去って行きました。空き地には、踏まれてしょげた草少々と、今この瞬間にごみと化した松だけがありました。自分も、突然の出来事に唖然としてしまって、尾行のことなど忘れてそのまましばらく塀に張り付いていました。
沙代が帰宅したのは薄明の頃でした。自分は玄関の戸が開く音を聞くなり、あの後拾って持って帰った松の枝を背中に隠して玄関へ行き、彼女が靴も脱ぎ終わらぬうちに早速問い質しました。
「門松は、渡したか」
声色で、察したのでしょうか。沙代は自身の靴を脱がす手を止めて、体をこちらに向けました。そうしてしばらく黙って目を泳がせていましたが、やがて、はい、と小さく答えました。自分は、今度こそ憤怒しました。沙代は、松を捨てたのがばれたことを想像したに違いないのです。それなのに、渡しましたなどと良い子のお返事をして、賭けの応答をしたのです。
「では、これは何だ」
そう言って彼女の眼前に突き出した松の枝を、彼女は大して驚いた素振りも見せず黙って見つめていましたので、自分は彼女の賭けを確信しました。その賭けの応答は、じっとりと自分の神経を逆撫でしました。
「何度言ったら分かるのか。今、日本は戦争をしているのだ。外の国と、戦っている。今の日本には余裕がない。だから、支え合って、協力しなければいけない。それなのに、今お前たちが、お前たち同士でくだらない戦争をしていてどうする!」
糸をぴんと張ったような沈黙が鎮座しました。沙代は俯いていて、彼女の長い睫毛が瞳に暗い影を落としました。
「戦争」
ぽつり。と沙代はつぶやき自分の言葉を反芻します。そして、彼女はじいっと薄気味悪く自分を上目で見て、精一杯に口角を上げて、続けて言いました。
「戦争ならば、では、何としてでも勝たなくてはなりませんね」
自分は、その時初めて、妹を撲ちました。一瞬の出来事に沙代は呆然と、両手で左頬を押さえて涙を浮かべます。なぜ、門松ひとつでこんなことになってしまうのか。自分は、ひどく疲れてしまって、撲ったことに対する罪の意識が無かったわけではないのですが、謝罪も自己批判もする気になれず、そのままずるずると寝間着の裾を引きずるようにして自室に戻りました。
結局、あの日から自分たちはろくに会話も交わさず、とうとう一月一日を迎えました。
自分は、外套を羽織りました。毎年、初詣は妹と二人で近所の神社へお参りに行くのですが、前述したとおり、沙代はかなりの頑固者ですから、初詣に行こうなどと彼女から声をかけてくることは天地がひっくり返ってもありえません。それどころか、自分が動かなければ、この仲違いは一体いつまで続くのでしょうか。協力しなさい、仲良くしなさいなどと、過去の自分が説教してきます。たしかに、自分としても家が居心地の悪い場所となってしまうのは勘弁してほしい事態でしたので、ここは少し勇気を出して、居間の畳にぺたりと座る沙代に話しかけました。
「初詣に行こうか。あたたかい格好をしなさい」
気にしていない。あのことは、忘れた。そういう設定にして、演技をして、話しかけました。沙代は、一瞬驚いたような顔をしましたが、すんと立ち上がって大人しく襟巻きを用意しました。二人で家を出て、歩いて神社へと向かいます。道中、二言三言、雑談をしました。僅かな雪解けの会話、そういうふうに、自分には思えました。
「大東亜戦争。さあ、二年目も勝ちぬくぞ」
そう神様にお伝えします、と沙代は両手に小さい拳をつくって言っていました。
神社はいつもよりは賑わっていましたが、それでも控えめで謙虚なものでした。自分たちも大して並ばずさらりと参拝を済ませ、その他には特にすることもなかったので、家路につこうと踵を返しました。そのとき、自分は石段のそばにひとりの少女の姿を見ました。
「沙代、あの子ははす向かいの家の子だろう」
石段の少女を見ながらそう言うと、こくり、と沙代が隣で頷いたのが目の端に映りました。どうやら、はす向かいの家の少女も、妹の存在に気付いているようでした。長いこと無言で目を合わせて、お互い牽制し合っているようでした。自分は、今度はそっと、沙代の背中を押してやりました。
「話してくるといい。僕は、邪魔だろうから、先に帰るから」
こちらを見上げる沙代の硬い瞳を溶かすように、自分は柔和な眼差しを注ぎました。妹だって、仲直りを望んでいないわけがないのです。きっかけさえ作ってやれば、きっと素直になれるでしょう。沙代は、またこくりと頷いて、一歩、一歩と石段の方へと進んで行きました。その後ろ姿を見送ると、自分はさっさと神社をあとにしました。冷たい風が頬を鋭く刺しましたが、からりとした青空が広がっていました。
薄明も終わっていよいよ空が暗くなっても、まだ沙代は帰ってきませんでした。最初は自分も、きっと仲直りをして遊びやお喋りに夢中になっているのだろうと思っていましたが、妹がこんなにも遅くまで帰ってこなかったことはこれまで一度もなかったので、いよいよ心配でたまらなくなりました。そして居ても立っても居られなくなって、外套を掴んで家を飛び出しました。家を出てすぐ、はす向かいの家の戸を叩くと、昼間の少女が出てきました。
「沙代は」
と聞くと
「知りません」
と少女は不機嫌を隠す気など全く無い様子で答えました。「何があった」と聞いても、ただ黙って、片足を退屈そうに、振り子のように振っているだけで、それ以上答える気は無いようです。
「言わないと──」
そう言って、自分は右手をゆっくりとあげました。この自分の脅しの効果は、抜群でした。自分の眼光に、少女は射すくめられたようで、体を硬直させたまま、辿々しく事情を話し出しました。
「お正月ですけど、あなたの家は門松は飾ったのかしら、などと、イヤミなことを言われましたので、あなたの家には木があるから、空襲のときによく燃えそうね、とあたし、言いました。そしたら、撲たれました。あたしは、仕返しに、引っ掻きました。そうしたら、走って、どこかへ行きました」
彼女の話を聞きながら、自分は眩暈がして倒れてしまいたくなるほどでした。なに、自分は、まさかそんな結果に導くために、あのとき背中を押したわけではないのです。なぜ、こうなってしまうのか。自分は怯える少女に礼のひとつも言わずに、また、心当たりのある場所まで走りました。
空き地のまばらに生えた草の地面に、沙代はひとりしゃがみ込んでいました。自分が彼女の近くまで来ると、顔を上げて、兄だと分かると、途端に泣きじゃくりました。唇からは、大したものではありませんが、流血していました。泣きながら、沙代は、自分に必死にこう訴えるのです。
「私、負けません。負けません」
戦争が始まる前までは、沙代はこんな子ではありませんでした。なに、頑固で感情任せで負けず嫌いなところはあるものの、ここまでではありませんでした。これはきっと、血と兵器の戦争色に染まってしまった、戦争によって生み出された化け物である、と自分は彼女を見て悟りました。自分には、目の前で泣きじゃくる妹が、争いと勝利を渇望する獣獣に見えて仕方ありません。口から滴り落ちる血に、ただただ恐怖し、慄き、発狂しそうになりました。