日が落ちるころ、子ども部屋から娘を呼ぶ声が聞こえてくると、タッパーに詰めてある小松菜を冷蔵庫から取り出して二階に向かうようにしている。アーチャン、アーチャン、切羽詰まってきこえる金切り声が途切れとぎれに響き、娘の身に何かあったのではないかと親心をよぎらせながら、暖房を付けっぱなしにした部屋のなかに人間はだれもいない。勉強机に置かれた鳥かごはいつもと変わらずデスクマットを下敷きにし、かごの隙間からはセキセイインコが、丸っこい嘴を覗かせている。アーチャン、アーチャン。はいはいアーチャンよ。娘を名乗りながらタッパーを傾け、小松菜を餌置き場にうつした。切り刻まれた緑色の葉がはらはらと積もり、インコは細い止まり木を危うそうに跳ねて移動すると餌を突っつく。アーチャン、アーチャン。呼びかけるたびに娘の気配が色濃くなりそうな部屋で、今日も私の声が呼んでいる。
「おーい」
一階から私を呼ぶ、インコではないみどりさんの裏返った声が聞こえてきた。私の手が皺ひとつないシーツに触れないようぎりぎりまで伸び、枕元のすぐ上にあるカーテンをつまんで閉めて、ベッドにぬくもりを垂らしていた夕焼けを遮る。部屋は途端に生活感をなくし、といっても最初からインコと私しかいないくせに、娘がそこから消えてしまったような不安が帷といっしょにおりてくるのは、部屋のなかをくるくると踊っているはずのほこりすら見えなくなってしまうからだろうか。勉強机の片隅にある写真立てが倒れていると気づき、私の手が忙しそうに起きあがらせると、ミニーマウスの被り物をしながら友だちとピースサインを掲げている、娘のほうれい線ひとつない潤った肌が目に留まった。高校の修学旅行で撮った写真らしく、卒業アルバムを除けば私の記憶が知る最後の娘のすがただ。いまはどうなっているだろう。想像して、思い浮かんだのはまだ十歳にも満たない娘が運動会の50メートル走で正面から転んでしまったとき、顔じゅう白い砂まみれになりながらも頬に一筋の道をつくっていた、あのかわいらしい泣き顔だった。たくましくなっていてほしい、成長していればいい、期待は予感になって、現実まで飛び出さんとばかりに膨らんでいく。娘は明日、十年ぶりに帰ってくる。
暖房はそのままに部屋の灯りをつけ、光が漏れ出るよう、戸はわずかに開けておく。階段をおりると光は先回りしたみたいに目の前にあらわれて、迷わないよう、家の中心を教えてくれる。リビングとひとつながりのキッチンでは、エプロンを身につけたみどりさんが底の深い鍋を覗き込み、お玉をそろそろとかき混ぜていた。私の足がリビングの入り口に立ったままでいるとお玉を持ち上げてきて、「これ、味見してくれないかな?」カレーのルーがぼたぼたと垂れている。「味見ね、わかった」すぐさまキッチンに向かえたからよかった。みどりさんが差し出してきたスプーンをぱくりと咥えた私の口は、舌先を這わせるように動かして、こびりついたルーを余すことなく舐め取っている。
「うん。おいしい」
咥えていたスプーンから口が外れる。スプーンの表面は染みもなく艶めいていて、新品のように綺麗だった。みどりさんは結婚する前から実家でよく両親の手伝いをしていたらしく、彼のつくる料理はなんでもおいしい。
「おいしいならよかったよ。明日、喜んでくれるといいよなあ」
「きっと喜んでくれると思う」
「とりあえずまだ時間かかるから、それまでソファーでスマホとか触りながら、ゆっくりしてて。今日も一日、家事頑張ってもらったんだからさ」
「わかった。ゆっくりしてる」
リビングのソファーにもたれかかると、腰のあたりから皮膚の感覚がとろけていって、どこまでもだらしなく沈んでいきそうな気がする。以前にみどりさんがそう口にしていて、だらしなく沈んでいってしまいそうだった私の背筋が伸びていた。みどりさんが言っていた通りだ、と鍋をかき混ぜて鼻歌をうたっている彼を両目が追う。手元は尻のあたりをまさぐり、知らないあいだに沈み込んでいたスマートホンを引っ張り出してインターネットのツイッターを開いている。みどりさんがつくってくれた、専業主婦の呟きがいつも表示されているアカウントはいつ開いても、子育てや家事に協力してくれない夫への怒り、不満、愚痴で占められていた。カサンドラとかミサンドリーとか、フェミニズムとか、難しいカタカナもよく流れてくるけれど、その意味も以前にインターネットで覚えたはずだ。はたしてなんだっけか、と記憶を手繰りながら指を動かしているうちに、誤って広告をクリックしてしまう。勝手に開かれていたページに表示されていたのはゼリービーンズを消していくパズルのゲームで、せっかくだからとダウンロードしてみた。最初の説明を終えると数回遊んでみて、三十秒のあいだ消せない広告にクッキーを消していくパズルのゲームが表示されて、せっかくだからとクリックし、ダウンロードしてみた。最初の説明を終えると数回遊んでみて、「ごはんできたよー」みどりさんの声がした。「わかったー」スマートホンをその場に置いて食器の準備をはじめる。どうして遊びはじめてしまったのかわからないけれど、ビーンズやクッキーを消していくパズルのゲームはルールが難しくないから楽しくて、つい触ってしまう。
娘が帰ってくる前日の食事は、みどりさんが言葉を蓄えようとしているのか、いつもよりも言葉少なに終わった。皿洗いもみどりさんがしてくれて、そのあいだ浴槽にお湯を入れるようにしているから、私の手がお湯張りボタンを押す。お湯張りをします、とあたたかい声がして、了解、私の身体はぽかぽかと湯船に浸かるための準備をはじめた。湯船に浸かる順番は公平になるよう、毎日交代で先に入るようにしている。今日は私の身体が先に浸かる日だから、タオルもパジャマも二人ぶんタンスから引き出し、洗面所に揃えて置く。
湯船には二十分ほど浸かるのがいいとみどりさんが言っていた。だからそれぐらいを目安にあがり、ドライヤーで髪を乾かしてからソファーに腰掛けていると、プロボクサーのようにタオルを被っているパジャマ姿のみどりさんが頬を上気させていた。廊下からリビングにかけてぽつぽつと、ひとりぶんの濡れた足跡が残っている。「あがったよー」みどりさんの声に合わせて上半身が起きる。「おかえりー」みどりさんは髪を乱暴に拭きながらテレビの電源をつけ、任天堂のスイッチを起動した。一年ほど前にみどりさんが買ってきたスマッシュブラザーズだ。「一緒にやる?」「うん、やりたい」やりたかったからうれしかった。「じゃあこれ」コントローラーを渡される。「これね」ピカチュウを選ぶ。「よしやろう」みどりさんがコンピューターの敵を二人追加して、計四人で対戦は始まった。十字ボタンを押せばキャラクターが動くのは知っているから、十字ボタンをがちゃがちゃ弄りながらときどき別のボタンで攻撃を試みる。しかしみどりさんは鼻息を荒くしながら次第に前のめりになり、中腰になったあたりで、おそらくピカチュウは敵キャラといっしょくたに吹き飛ばされてしまった。画面が忙しすぎて、目が泳ぐばかりで操作しているキャラクターをとうに見失ってしまっているらしい。ピカチュウの命がひとつ減り、画面に戻ってきてくれたおかげで再会したはいいものの、すぐにまた敵と混同してしまい、繰り返しているうちに復活もしなくなる。
「どうキャラクターを動かしたいか、自分の頭で考えて操作すればいいんだよ」
と、みどりさんは迷わずキャラクターを選択しながら、テレビに語りかけるようにいつも口にする。けれど、どのキャラクターが強いのかわからないから、初心者向けだと教えてもらったピカチュウを選んでいる。訊こうとしても、瞳を少年のようにぎらつかせてテレビ画面を凝視しているみどりさんは面白くて好きで、邪魔をしたくなかった。何度か対戦を繰り返しても私のライフはすぐゼロになってしまい、おそらくテレビ画面を眺めていると、四角い人間のキャラクターを分身のように難なく動かすみどりさんが短く息を吸って、「そろそろ映画観たくなってきたんじゃない? 一緒にどう?」一息に吐いた。「うん、映画観たいな」確かに、ちょうど映画もみたくなってきたところだった。みどりさんは敵キャラをまとめて薙ぎ倒してから、私のいる側を向く。「そうだよね、ごめんね、ぼくのゲームに付き合わせちゃって」あわててかぶりを振る。「ううん、付き合わせちゃってなんていないよ。私も楽しいから気にしないで」私の目がしきりに重たい瞬きを繰り返す。膝元に置いていたコントローラーから手が離れてしまい、開かれていた太腿の合間をすり抜けるように落ちた、からすぐに拾うと持ち手が汗でぬかるんでいる。楽しいあまり、つい熱中してしまっていたのだろう。
映画を観るのはもともと私の唯一の趣味で、いつもみどりさんがそれに合わせてくれていた。みどりさんとは高校を卒業して父親の会社で働いていたころ、両親の伝手によるお見合いで出会った。みどりさんは交際してまもないころから「インドア派の女性と付き合えて幸せだよ」と事あるごとに私を褒めてくれた。そして「実は昔、映画にちょっとしたトラウマがあったんだよ。いまもときどき怖くて」と教えてくれたのは娘がまだ夜九時には床についていたころで、彼のトラウマが刺激されないよう、それ以来観る映画はみどりさんに選んでもらうようにしている。みどりさんが特に好んでいるのは国内で製作されている心霊映画で、何作か観ているうちに同じく好きなジャンルになった。今日再生された作品もタイトルを初めて聞く、新しくネットフリックスに追加された心霊映画だった。目元と皺を同化させた霊媒師が長髪のありきたりな幽霊をおろし、まだ若い主人公たちはお経に似た呪文をすばやく唱え、結界が張られた檻のなかで幽霊は救いを求めるように叫び続け、その怨恨が煙となって画面に充満して不気味な笑い声が朧な影をつくりだし、少しずつ視界が晴れてきたと思いきや暗転して、また画面が切り替わって、幽霊がいるのかいないのかわからなくなって、きて、私の瞼がゆるやかに降りてきた。から、みどりさんの身体にしなだれかかった。みどりさんの硬い肩はびくともせず、全体重を預けても微動だにしない。たくましい、あたたかい、と思う。ゆるやかな眠気が流れていき、インターネットにうつる泡のような言葉たちをぱちぱちと、浮かばせては消す。昔からみどりさんは私に女性としての役割を押し付けない。インターネットにたくさんいる〈夫〉と違って家事もしてくれるし子育てにも理解があるし当然暴力もなく、性行為を強要することもなかった。いつもやさしくて家族想いで、だから幸せだった。あとは娘に少しでもこの気持ちが伝わればいい、と思う。口のなかから美味しかったカレーの甘い匂いがほのかに漂ってきて、涎が頬に溜まっていきながらそういえば歯は磨いたっけ、まあ、歯を磨くのは寝る直前だから、いまは大丈夫か、意識を手放そうとすると身体はどこまでも軽くなっていく。夫のすぐ隣で眠ろうとする瞬間は、たまらなく心地いい。
毎朝、洗面所から小鳥の囀る声が聞こえてくると、かごを用意しながら急いで洗面所に向かうようにしている。ピィピィ、ピィピィ、助けを求めるようなか細い声を頼りに蓋を開けると鳥たちは一斉に押し黙り、洗濯機の側面にこびりついているのは皺だらけの衣類だった。両腕が大きく広がりながら巣穴を探り、まとめて引き揚げた洗濯物たちは赤子と変わらない重たさで、赤子どころか私より重たいんじゃないの、と思いながら、でもきっと私の身体のほうが重たいはずだ。どさっと地団駄を踏むような音が響き、かごの持ち手を両手が掴みながらベランダまで向かう。二足歩行なのに四つん這いで前進しているような、よちよち拙い歩き方に私の足がなってしまっていたみたいで、「ああごめん、ぼくが手伝ってあげればよかったね」みどりさんが廊下の奥から駆け寄ってきて代わりに運んでくれた。「ごめんね、ありがとう」私の足が冷えた廊下を踏みながら、二階に上がっていくみどりさんの背中を向いている。と、リビングのインターホンから軽やかな合図が送られてきた。きっと娘だ、と直感してしかし来訪者の確認が先だから迷わず両足はリビングに向く。気配のある玄関から遠ざかっているのに、心臓が高鳴りと収縮をせわしく繰り返している。
モニターに映る娘は画質が悪いうえに全体が青ばんでいて、心霊写真に見えて少し驚いた。でも、玄関に向かい鍵を開けると、目の前に立っていたのは幽霊ではなく人間、いまここに立っているのだから幽霊ではないはずだ、とまじまじ見つめてしまう。茶色いトレンチコートを羽織っている娘はなぜかマスクを着けていたけれど、目元の吊り上がり方が変わっていないから面影があって、涙袋を光らせている化粧や目尻に走っている小さな皺には面影がなく、似ているし似ていない。いや、似ていないとおかしい。だから娘は十年前の娘と変わっていなくて、しかし成長しているはずなのに却ってこじんまりと萎んでしまったようにも思えた? 娘とどう接すればいいのかわからなかった。子ども部屋の埃っぽく懐かしい匂いが色褪せていって、柑橘系の香水の臭いばかりが鼻にまとわりつく。
「あーちゃん、おかえり」とりあえず、名前を呼んでいた。
「うん。ただいま」
あーちゃん、と娘は繰り返さなかった。まるで高校から慌てて帰ってきたときのように素っ気ない返事をして、ヒールを脱ぎ、目線を合わせないまま二階まで上がっていってしまう。もしかしたら萎んでしまったのではなく、年を重ねていなかったのだろうか。でも、懸命に持ち上げていたのは学生鞄ではなく真っ黒なキャリーケースだったし、ヒールは踵を揃えて置かれていたから、きっと二十八歳の娘だった。このあとどうすればいいのだろう。自転車の持ち手を強く握りしめるあまり手のひらを煤っぽくし、遠慮なく汗水を垂らしながら娘が高校から帰ってきたときの風景を思い出そうとして、遠慮なく居間に上がり込んでくるのはみどりさんが勤める会社の上司や部下たちで、娘はどこにも住んでいない。ただ、娘が学生のころは家に帰ってくると冷えた麦茶をすぐ出すようにしていた。きっとそれがいいと、私の足がリビングを通り抜けてキッチンに向かう。
「ねえ、あのインコまだいたの? 暖房で部屋あっついし、すごい獣臭いんだけど」
氷をみっつ入れたコップに麦茶を注いでいると、戻ってきた娘がリビングのドアを開け放つや否や、ぶっきらぼうに言った。身体が前のめりになって娘を覗き込むと、クリーム色のセーターを露わにした娘はカーペットの手前に立ったまま蝶番に片手をついている。マスクが外れており、先ほど目にした二十八歳の娘に似た十八歳の娘に似た二十八歳の娘、と比べると、より老けて見えた。
「インコはまだ飼ってるわよ。あの子も長生きしてくれて、もうすっかりおばあちゃんなのに、まだまだ元気に鳴いてる。大きさも変わらないし、ずっと子どものままみたい」
「臭くてあたし眠れないんだけど。ほかの部屋に移してよ」
「臭くて眠れないの? でも、みどりさんが動物アレルギーだから……」
ペットを飼いたいと最初に言い出したのは娘だった。当時中学三年生だった娘は夕飯どき、買ってあげたばかりの携帯電話を握りしめ、クラスメイトが自宅で飼っているらしいイグアナの写真を自慢げに見せてきた。ハートマークや星模様が小さい画面いっぱいにデコレーションされていてイグアナの顔面は埋もれていたけれど、娘がイグアナだと言っていたからそれはきっとイグアナだった。「あたしも飼いたい。ペット」急にどうしたのよ。「ペットってさぁー、かわいいじゃん?」散らばったハートマークは確かにかわいかった。「あたし絶対に飼うから!」とりあえず食事中は携帯、しまいなさい。「ねえお父さんいい?」みどりさんは悲しげに箸を置く。「……実はぼく、動物アレルギーなんだよ」それは初耳だったはずだ。みどりさんとは結婚前に動物園や牧場にデートをしにいったこともあって、こぶたやポニーがのどかに寝ているふれあいコーナーの柵に掴まりながら、「豚は空を見上げることができないんだよ。だからこうやって外にいるのに、空の青さも知らないで生きているのかもしれない」などと、よく蘊蓄を語ってくれていた。みどりさんはずっと無理をしていた? 「でもそれを理由にあーちゃんの気持ちを無碍にはできないから。あーちゃんが自分ひとりで、責任を持って育てられるなら……誕生日まで我慢できる?」我慢していたのだろうか。
「我慢できる!」そして娘も我慢しようとしていた。だから開きっぱなしの携帯電話を諌めるのをやめて、「あーちゃんはえらいわね」と口は言った。そのとき娘が垣間見せたあどけない破顔を、いまでも簡単に思い出せるはずだ。そして一か月後、誕生日の当日を迎えると娘は誰とも遊ぶ約束をせず、いつもより十五分ほど早く帰ってきた。通学鞄を玄関マットのうえに放り捨て一目散に着替えてきて、みどりさんは仕事だったから、二人でイオンに行った。後部座席の真ん中でシートベルトを身につけた娘は、ずっと前から座席のポケットに挟まっている「なかよし」を膝下に広げていた。バックミラー越しに覗き込むとたまたま目が合って、娘はえくぼをつくりながら必死に笑みを殺している。不思議と楽しそうで、なにが面白いのかわからないまま、自然と私の口角まで上がってしまう。
イオンに内設されているペットショップは犬や猫に留まらず、ハムスターやカブトムシのような小動物まで売られていた。特にぶ厚いガラスに守られ、広い通路にも面しているチワワやトイプードルの周りは平日にもかかわらず、店内からあふれるほどの人だかりができている。娘は顎をわずかに上げながら背伸びをし、人だかりから遠ざかると逆に前のめりになって生き物を一匹ずつ観察していた。どの生き物もケージやガラスに守られながら、狭いスペースのなかを幸せそうに動き回っていた。
「あたし、あの子がいい」
でも、娘が指さしたのはすばしっこく動き回る犬や猫ではなく、止まり木に足爪をひっかけ、背筋を伸ばしながら微動だにしていない一匹のセキセイインコだった。熟していない梅の実のような淡い緑色には幼さを抱いたけれど、瞬きをしないつぶらな瞳には、なにを考えているのかわからない気味の悪さがある。無表情なその瞳を覗き込むと、私の鼻先がでかでかと映っている気がした。
「インコって名前呼んでくれるんでしょ? あたしも呼んでほしいから」
店員さんによると、インコによっては言葉を覚えるのが苦手な個体もいるらしい。それでも娘の意志は変わらなかった。娘はインコに名前をつけず、いつも「あの子」と呼んでいた。「もし名前つけてさー、自分の名前ばっかり呼ぶようになったらつまんないじゃん?」そうだろうか。「せっかく飼うんだったらあたしの名前ばっかり呼んでてほしいもん」勉強机に鳥かごを置くと、娘は椅子に腰掛けながら両肘をつき、甲高い鼻歌をうたってインコと見つめ合っていた。初恋をしているかのようにだらしなく目尻を下げ、他のなにも目に入れていないすがたがかわいかった、安心したのをいまでも覚えている。
みどりさんがアレルギーなのを思い出したのか、妙に大人に似ている娘が眉間に皺を寄せた。「まあ一日だけだし、我慢するわ」鼻をつまんだような低い声。
「そうだ、あーちゃん」実際、大人の娘らしかった。「あの子がアーチャン、アーチャン、ってあなたの名前を呼びはじめたら教えてね。私が餌をあげにいかないといけないから」
「別にあたしの名前呼んでるわけじゃないんだけど。てか餌を与えるぐらい、あたしにもできるから」
「ああ……そうよね。だって、あーちゃんも大人になったんだものね」
確かに娘がいなくなるまでは、インコに餌を与えるのは娘の役割だった。中学生のころ、娘は小松菜を包丁で細かく切ってはタッパーに保管していて、制服を着る前と脱いだあとに必ず餌を与えていた。まるで制服を身に纏う一連の動作のなかに含まれているかのような、課された宿題を淡々とこなすときに近い律儀さだった。しかし高校に入って少しした頃から、部活やアルバイトに追われていたからなのか、餌をあげるタイミングが不定期になった。刻んだ小松菜ではなく市販のフードをあげるようになり、目に見えて愛情を注ぐ時間は減っていった。娘から部屋に立ち入るなと口酸っぱく言われていたから、そのころのインコがどのように生きていたのかまるで知らない。娘との日々に空白がうまれたように、インコとの日々にも過去と現在を隔てている空白が、ある。
そして娘が家をでていくと、インコに餌を与える役割を自然と引き継いだ。みどりさんが動物アレルギーなのだから当然だった。身近で接してみて初めて気づくのは、鳥かごのこまめな掃除や室温変化に気を配らなければいけない繊細さよりも、鳥かごのなかにいるインコが、たった一匹で生きている事実だ。娘と違ってインコは食事の催促もしないし、わがままも言わないし、反抗期も訪れない。アーチャン、アーチャンと窓の外を見つめながら時折さみしそうに呟くくせに、友だちが欲しいとは言い出さない。ひとりぼっちのようにみえて、ひとりで生きていけると言わんばかりの強がりな振る舞いを、狭苦しいはずの鳥かごのなかで徹底している。だからどう接すればいいかわからず、娘が日々こなしていたルールを参考にしていた。朝と夕方、娘が学校に行く、あるいは帰ってくる時間を思い出して、私の手がタッパーを冷蔵庫から取り出している。そのうちインコが決まった時間に鳴くようになってくれて、私の足は娘を呼ぶ声に合わせて、自然と動くようになった。
思えば大人になる前から、娘はインコに餌をあげていた。だから餌をあげられるところで成長しているわけでもないのに、娘が「餌を与えるぐらいできる」と当たり前のように宣言するだけで、大人になった娘を垣間見た気がして感慨深くなってしまう。と同時に、感慨深くなるのは娘のことを思い出したからで、目の前にいるはずなのに娘のことを思い出していく不可思議さ、目の前にただよう蜃気楼を遠くから掴もうとしているような乖離した手応えが、遠近感を狂わせる。娘は十歩進むだけで気軽に触れられる距離に、生きた人間として立っているはずだ。
でも、お盆にコップを載せて両手がそれを持っていると、気軽に触れることもできない。
「ああ、帰ってきたんだ?」
洗濯物を代わりに干してくれていたみどりさんがそのあいだに戻ってきて、娘の背後にすっと立ちながら言った。並んで立つとみどりさんのほうが娘より背が高く、やたら新鮮な気持ちになったけれど、昔からそうだったのになぜ? 二人の身長を窺いながら身を屈め、お盆に載せたコップをテーブルにそっと置いた。氷は水に浮いたまま穏やかに揺れて、どこにもぶつからない。
「ああ、うん、ただいま」
せっつかれるようにリビングに入ってきた娘はスリッパを履いていない。と思うと足が玄関まで走っていきそうになったけれど、目の前にいるのは娘だから、玄関までスリッパをとりにいく必要も履いてもらう必要もなかった。それなのにいま手が持っているお盆は来客用のものだと気づき、なにも後ろめたくないのに両手が咄嗟の判断をして後ろにまわっている。来訪してきた娘と昔から住んでいる娘、何人もの娘が揃って家までやってきているような違和感が、部屋をぎゅうぎゅう詰めにしようとする。
「とりあえずみんな座ろうか」みどりさんが椅子を引きながら提案する。
「そうね、あーちゃんも座って」私の尻が座面を撫でている。
「ん」私の尻が座面を撫でている?
裏向きのお盆がテーブルに置かれていて、いつのまにか椅子に座っていたのは私の身体だった。でも、座ろうと思っていたから、気にすることではなかった。娘も驚くほど素直に応じており、みどりさんの真正面に腰掛けている。三人揃ってテーブルを囲むのはいつ以来だろう。娘はコップを大きく傾けて口元につける。「さむっ」顔をしかめながらも一気に飲み干していた。つんとした唇が滑り落ちてきた氷を食い止めていてその仕草は中学生の頃とそっくりで、乱暴にコップをテーブルに振りかざすのは高校生の頃とそっくりだった。こくりと生きている音を鳴らしたら「あのね」娘の喉が声を幼く震わせている。
「溜めるようなことでもないから先に言っておく。あたしいま一緒に住んでるひとがいて、もう五年ぐらい経つだけど。で、そのひとが海外に転勤することになって、あたしもついてくって決めた」
一息に言い切るさまはむしろ溜め込んだものを吐き出しているようで、物怖じしない言い様が掴みそこねていた距離感をぐいっと遠ざけ、一人しかいなかった娘に焦点をあてる。――イギリス。転勤。そんな突飛なことをいきなり言われても、鼻立ちが高くて金髪で碧眼の、教科書に載っているような絵しか出てこない。そんな男に娘がついていく? そうなると、おそらく結婚もするのだろう。宇宙人と結婚する、と告げられた感覚でむしろその方がまだ現実味がないから、却って身近に感じられたかもしれなかった。
とりあえず、訊きたいことはたくさんあった。
「えっと」結婚するの?「お相手は外国のひとなの?」
「違う。日本人」
「日本人なんだ。彼氏さんはどんなお仕事をしているの?」
「いや、女性だし、そもそも恋人じゃないし」
女性? 付き合ってない? 一拍遅れて子どものころの娘が眼裏で笑顔を浮かべ、ううん、ちがう。きっと娘ではない娘、ですらない赤の他人が我が物顔で立っている。腑に落ちる感覚と、腑に落ちないもどかしさが同居する。ただ、世の中には、いわゆる、同性愛者もいるのだと、インターネットのツイッターにもよく書かれていたのを思い出した。
「それじゃあ、お相手は同性愛者のひとなの?」
「別にレズビアンってわけじゃないけど、そもそも付き合ってないっていってんじゃん」
「えっと……それじゃあ、というか、そもそもえっと、女のひとが好きなの? あーちゃん」
「あたしはシスジェンダーでヘテロセクシャル。そのひととは一緒に住んでるってだけ。なんで同居相手についてくってだけでさ、異性との結婚を前提に考えてるわけ? もうさお母さんはなんにもわかってないんだから黙っててよ」
娘はいまにも舌打ちしそうな勢いで足を組む。視線が咄嗟に、娘から逸れようとする。コップのなかの氷はいつのまにかほとんど溶けてしまって、極限まで薄めた茶色はほとんど透明と変わらない。娘が言っている言葉は昔から理解しているつもりだったのに、知らない言葉も矢継ぎ早に出てきて、なぜ怒られるのかもわからなかった。
「……ありがとう、報告しにきてくれて」みどりさんがはじめて口を開いた。「きみの人生なんだから、きみが考えて決めたことを何よりも尊重するべきだ。ぼくの立場からあれこれ口出しはできないよ。でも……ぼくたちも連絡がないと心配なんだ。だから住んでいる場所は教えてほしい。それに一年に一回は帰ってきてくれないかな、こうして」テーブルの上で両手を組む。「それぐらいならきっと、してくれるよね?」娘をじいっと見ていた。
「したくなったら、ね」
このとき、常にみどりさんを向いていた娘の視線が初めて私の瞳とかちあった気がした。けれど、旧友と会う予定を入れているからとわざとらしく壁時計を向き、昔話に花を咲かせる暇すら与えず、すぐに家を出ていった。夜には帰ってくるから、と言伝を残し、当たり前でしょ、と思いながらも懐かしくなるのは、玄関先で娘を見送るのが十年ぶりだったからかもしれない。扉の向こうにいったんかくれんぼする娘をいつでも手招きできるよう、閉ざされる瞬間まで片手が振られ、振り続けていると「あの子らしいな」と声がする。だから腕が下りる。「うん、あの子らしい」娘に違いないのだから、娘らしいに違いなかった。
翌日、娘が出し抜けに「お母さん、イオン行こ」と口にしたのは、みどりさんの出社を見送ってすぐだった。昨日、日付が変わる寸前に帰ってきた娘は化粧が厚くなり顔面は真っ白、にもかかわらず耳たぶは真っ赤に染まり、すれ違いざまには苦味の混ざった炭酸の臭いがした。いまは髪をみだらに跳ねさせ、食卓につきながら当たり前のようにトーストを齧っている。今日の娘は昨晩よりも若い娘だった。「あーちゃんイオン行きたいの?」「行きたいから誘ったんじゃないの?」娘本人に娘の気持ちを訊かれても、わからないから、どう答えればいいかわからない。行きたいんじゃないの? と訊こうとして、また怒られてしまいそうだから、やめておいた。
トレンチコートを羽織った娘はなんの躊躇いもなく助手席に乗り、イオンに着くまでのあいだずっと、口を閉ざしたままスマートホンをクリックしていた。イオンに着き、駐車場を歩いているあいだも手放そうとせず、歩きながら携帯さわるのはやめなさい、と口が言おうとして、やっぱり寸前で思いとどまってしまう? 娘が手にしているのは携帯電話なのにすでに携帯電話ではなくて、それならどうして携帯電話と呼ばなくなったのだろうと、戸惑いが口元を掠めていく。娘を形取ろうとするやわらかな言葉たちは、まだやわらかいままでいるだろうか。背伸びしたヒールをこつこつと鳴らしながら娘が一直線に向かったのは、かつてインコを購入したペットショップだった。
鳥類用のおもちゃや餌が並んでいるスペースの前で、二歩先を進んでいた娘は不意に立ち止まる。
「インコの餌、買いたくて」私の足も止まっていた。
「あの子の餌なら冷蔵庫にあるのに」右手が餌の入った袋を取ろうとする。
「あたしがあげたかったの」小松菜はここになかった。
「そう、あーちゃんが……」右手は宙を掴む。
餌にはいくつか種類があったけれど、特段こだわりはないようで、娘はいちばん安いものを悩まず選んでいた。レジに向かう途中、かつてインコがいたはずのスペースは犬と猫ばかりになっており、ガラスに隔たれた向こう側にいるトイプードルが濡れた鼻先をガラスに押し当てていた。口をしきりに動かしてだらしなく舌を出しているけれど、音は一切聞こえない。つぶらな瞳をせわしく左右に向け、喜んでいるようにも悲しんでいるようにも見えた。
娘は膝を曲げると、トイプードルに視線を合わせる。
「……昔は、インコがいつもあたしの名前を呼んでくれてるんだと思ってた」
「いまも毎日呼んでるわよ」小松菜を用意するときの声。「アーチャン、アーチャンって」
「人間にはそう聞こえるだけ。あのインコからすればただの音の羅列で、中身はからっぽ。高校生のとき、それに気づいたらすごく馬鹿らしくなって。で、それに気づいてすらいなかったバカなあたしを思い出すから、見るのもいやになった」
ただ、と娘はゆっくり区切る。
「あのインコも何か意味があって鳴いてるんだって、昨日の夜、思ったの。だから、無視はできないなって」
どんな動物だって、意味もなく鳴いたりしないはずだ。あーちゃんが赤ん坊だったころだって、そうでしょう? 娘が一字一句、繊細に摘み取っている言葉は私の耳からすれば当たり前の話で、だから、どうやっても娘とは同一人物のはずなのに、どうやっても別人のように遠く感じてしまう。ただ、インコに餌をあげたい気持ちになったのなら、きっといい結果をもたらしている、成長している。そして成長しているのだとしたら、娘がいまも娘のままでいる証でもあるはずだ。だから変化ではなく成長を実感したかったし、信じたかった。
帰りも娘は助手席に乗ったけれど、スマートホンを触るのはやめて、ドアにもたれかかりながら車窓の外を眺めていた。バイパスの交差点を直進していると、目の前の信号機が黄色に変わった。から減速して、今度は赤になった。から止まった。身体が前後に小さく揺れ、しがみつくように両手がハンドルを握る。
「お母さんも、早く家を出たほうがいいよ」
助手席から静かに声がした。娘はいつのまにか、背筋を伸ばしながら正面を向き、膝のうえで握り拳をつくっていた。卒業式のときみたいだ、と思い、いや、爪を見せないルールだったのは男の子のほうだったか。
「別に、仕事始めるのでもいいから、お母さんも外に出てみてよ。うちの家、やっぱりおかしいと思う」
でも、娘の横顔は紛れもなく女性で、大人の女性で、それは眩しすぎるほどにたくましかった。きっとこの十年間――あずかり知らない空白期間、想像が及ばないほどの成長を重ねてきたのだろう。かけっこで転んで泣いていた、イグアナを見せながら興奮していた、帰宅するなり通学鞄を放り出していた娘はもう、どこにもいない。成長を目の当たりにできなかった空白期間のあいだで、きっと娘は別人になってしまった。ただ、成長するにつれ脱ぎ捨てていったであろう幼い娘が幽霊のように私の周りにまとわりついているから、ふとした瞬間に思い出して、いま目の前にいる知らない娘と混在する。別人になってしまった娘がいま何を考えているのか、なにをおかしいと思っているのか、もうわからない。
ただ、わからないなりに、知っている言葉たちはあった。
「あーちゃんの言うとおりだと思う。専業主婦はよくないとか、女性も自立したほうがいいって、インターネットで見たことあるもの」
そして――たとえ娘がわかってくれないとしても、知ってほしかった。
「でも、私はいまの生活で幸せだから。みどりさんもきっと、幸せのはずだから」
みどりさんとの生活に何ひとつ不自由はなかった。不自由さを抱いたこともなかった。みどりさんは毎週働いてお金を稼いできてくれる。家事も手伝ってくれる。趣味も共有してくれて、いやがることは一切しない。ずっと家のなかにいろ、と強制されているわけでもないし、外に出ないのは元々インドア派だからだ。誰もおかしいはずがない。
私たちは、幸福な夫婦だった。
……あお、と娘はぽつり漏らした。あお? 肩がびくりと跳ねて足が咄嗟にアクセルを踏み、前を向くと、信号機が青になっていた。だから足はさらに強くアクセルを踏んで、車が前に進んでいった。娘はそれっきり黙りこくる。うまく伝わっただろうか、前を走る車の速度に合わせて走行しながら考えるうち、車だけが勝手にぐいぐい進んでいって置き去りにされているような感覚がふと、ハンドルを握る手をいやに湿らせる。けれど、足元を一瞬だけ窺ってアクセルペダルが踏まれているのを両目が確認すると、ハンドルを握っている手元はほっと一息ついてわずかに緩んだ。大丈夫、しっかりコントロールできている。交差点で信号機が赤色だったから再びブレーキを踏む。いまこの車を運転しているのは、私、に違いなかった。
本来なら今日の夕食は寝かせておいたカレーで、みどりさんが帰ってきたら娘と三人で食べるつもりだった。でも夕方になると娘は急用ができたから帰ると口にし、「帰るってどこに?」「家だけど」ぞんざいに言いながら荷物をてきぱきまとめていく。帰る家ならここにあるのに、と引き留めたくなったけれど、ヒールを履いて、私より背の高い娘を前にしたらもうなにも言えなかった。キャリーケースを転がしていった玄関先から漂う柑橘系の香水は、初対面のセールスマンが家を出ていったあとの過剰なファブリーズくささにも似た、他人行儀な臭いだった。仕事から帰ってきたみどりさんはしゃがんで背中を向け、革靴を脱ぎながら「帰ったのか、あいつ」。吐き出された言葉とともに、曲がった背骨の輪郭が皺ひとつないスーツにみにくく浮き出ている。立ち上がって振り向いたときには落胆も悲壮も浮かべておらず、年季が入った革靴を表情なく見下げながら「あの子らしいな」とこぼした。ほんとうにあの子らしかった? そう声をかけたかったけれど、私よりもみどりさんのほうが娘の性格をわかっているだろうとも思った。だから、みどりさんがあの子らしいと感じたのなら、あの娘は幼いころと変わりのない、あーちゃん本人だったのかもしれない。きっと? そうに違いない。
日付が変わっても娘から連絡はなく、朝になって私の耳が真っ先に捉えたのは、じりじりと詰め寄ってくる目覚まし時計のアラームだった。手が頭上をまさぐってすぐにボタンを押すとアラームは止み、隣で寝ていたみどりさんのいびきが遠ざかるように小さくなっていく。起きなければ、寝室に満ちている静寂にも気付けない。起き上がってリビングに向かい、お椀に白米をよそっていると、寝癖をつけたみどりさんが起きてきて「おはよお」と立ち鏡に向かって喋っていた。「おはよう」と私が台所から返しても聞こえていないみたいで、「おはよう」繰り返しても一切反応はない。寝ぼけているらしいみどりさんのすがたを見ていると、なぜか娘がこの場所にいない事実を突きつけられた気がして、残っていたカレーをむしゃくしゃ食べたくなった。でも、カレーのルーは昨晩にみどりさんがすべて平らげてしまっていて、娘と食べるはずだったものはもうどこにも残っていない。みどりさんが出社の準備をしているあいだに洗濯機を回し、水切りかごの乾いた食器を片付けると娘の痕跡はまたひとつ失われる。そのかわり、お米が一粒たりともこびりついていないみどりさんのお椀を両手がゆすいでいる。と、玄関先で物音がしたから足は玄関に向かった。そこにいたのは娘ではなかった。「わざわざ見送りありがとう」踵のあたりを見下げながらみどりさんが腰をねじらせ、縦に持った靴べらを上下に擦っている。
靴をはいてつま先を二度ゆるく叩くと、私の身体を向いた。
「今日はおかずを買ってくるよ。なにか食べたいものはある?」
「うーん」うーん。「考えたけど、特にはないかな」
「わかった。それじゃあ唐揚げを買ってくるよ」
「わかった。それじゃあ唐揚げを買ってくるのね」
「あと、今日はポケモンの新作が発売される日なんだ。ポケモン好きだったよね? いつもピカチュウ使ってるし」
「ポケモンの新作が発売される日なんだ。うん、ポケモンは好き。ピカチュウも好き」
「帰ってきたら一緒にやろう」
「一緒にやろう」
「それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
なにが面白いのだろうと気になってしまうぐらい、にこにことうれしそうに笑いながらみどりさんは家を出ていった。スーツで引き締まった背中を右手がふらふら揺れながら見送る。ドアが閉ざされる。いつまで振り続けていればいいのかわからなかったけれど、アーチャン、アーチャン、あどけない声がして足がリビングを向いた。娘を呼ぶ声が聞こえてきたから、インコに餌をあげなければ。みどりさんを見送っていた右手は冷蔵庫からタッパーを取り出し、そのまま両足と一緒に二階に向かう。段差を一段あがるたびに腿の付け根が軋んで、わずかな痛みが走るたびに生きていると実感しながら踏面を踏む。生きている。間違いなく、生きている。息が乱れていないから、まだ老いてもいないはずだ。
子ども部屋のドアを開けると、柑橘類の強い臭いが勢いよく鼻先を掠めていった。獣の生きた臭いが上書きされてしまったかのように消え失せていて、いくつもの臭いをかき混ぜた酸っぱさに顔をしかめながら鳥かごに近づいていくと、アーチャン、アーチャン、娘を呼ぶ声はなぜか部屋の外から聞こえてくる。娘の気配がしない? それに部屋の中が薄ら寒い。知らない部屋に迷い込んでしまったような不安を掻き立てられながら、おそるおそる鳥かごを覗き込む。
――インコが、鳥かごからいなくなっていた。間違いなくカーテンは閉じられている。鳥かごには鍵がかけられている。声も聞こえた。聞こえてきた。それなのに、娘の名前を呼んでいたはずのインコだけが忽然と姿を消していた。空耳だったのだろうか? 部屋を見回すと昨日買っていた餌入りの袋が勉強机の上で倒れている。すぐ隣の写真立てに飾られている写真には、『茜』とマジックペンで乱暴に書かれていた。「ぼくがみどりで、きみがえっと、葵だから、娘の名前は茜にしようか」遥か昔に交わしたはずの言葉が不意に蘇り、いちど思い出すと、ずっと忘れていたのが不思議でたまらない。あかね、……あかね。名前を飴玉のように舌のうえで転がすうち、甘い予感はかたちをおびて強くなっていく。皺を寄せている掛け布団の小さな窪みも娘がいた証拠で、だから気配は強くなっているはず。なのに、子ども部屋は依然、もぬけのからだ。両手がもたつきながら鳥かごの鍵を開けようとして、がーちゃがーちゃ、金属のぶつかる音が虚しく響く。扉を開くと娘の汗に似たしょっぱい臭いがもわりと漂ってきた、気がしたものの、すぐに逃げていった。両手が空気を循環させて残り香を嗅ごうとしても、そもそもケージフェンスは隙間だらけで、匂いが閉じこもっているはずもない。
部屋の四隅を見上げ、クローゼットを開き、膝をついてベッドの下を覗き込むと、いよいよ探すあてがなくなって足が棒立ちになってしまう。空っぽになった鳥かごを見つめていると、なぜかひどく呼吸が浅くなる。ぴちぴちと暴れようとする肺がいまにも身体を突き破ってきそうで、押し留めようと服を握りしめると、心臓が荒波のように激しく拍動している。インコはどこにいってしまったのだろうか? 鍵の開けられた空っぽの鳥かごは、やわらかい皮膚の奥に沈んだ私の肉を鉤爪で鷲掴みにし、引っ張り上げ、息をつく暇も与えずそのまま連れ去ってしまうような痛みを刻んでくる。これはなんだろう。安心? 不安? うれしい? かなしい? この鳥かごを見て、私はなにを感じた?
胸の奥側でばたばたともがいている痛みの正体を知りたかった。ただ、探ろうとするとどうしてか制服を着ている娘の、外見に合わない大人びた声がこだまする。「お母さんも、早く家を出たほうがいいよ」。娘のあの忠告は、私が理解できず、途方に暮れることも見透かしていたのだろうか。「おかしいよ」と断じていたときの横顔に、眩しさやたくましさを感じたのを覚えている。もしかしたら私は娘がうらやましかったのかもしれない? ただ、どうしてうらやましいのかわからない。こういうとき、どうすればいいのだろう。インターネットになら書いてあるだろうか? しかし手元にスマートホンはなかった。調べ方もわからなかった。八方塞がりでこわくて、そのうち立っていられなくなって、手のひらの肉に爪を食い込ませながら、腹を抱えるようにくずおれる。あーちゃん、あーちゃん。喉が私が震える。私、あーちゃんがなにを考えてるのかもうわからない。でも、わからなくても、あーちゃんを知りたいの。教えてほしいの。助けてほしいの。たぶんはじめて、あーちゃんを知りたいと思ったの。
――ピィピィ、ピィピィ。返ってきたのは、娘を呼ぶ声ではなかった。成長した娘の声でもなかった。一階の洗面所から聞こえてくる小鳥のか細い鳴き声が、ピィピィ、ピィピィ、娘がうまれたときの泣き声のように何度も頭に響いてくる。その頼りなさに、張り詰めていた肩の力が一気に抜けた。大きな息を吐くと、嵐のようだった痛みが嘘みたいに引いていく。一体、なんだったのだろう。痛みから解き放たれて安心すると頭がぽかぽかしだして、どうして苦しんでいたのだろうか? 確かめようとして、そうだ! 知ろうとするよりも先にやらなければいけないことがあったのを思い出した。幸せでいるためには欠かせない家事分担だ。救いを求める幼い囀りに耳を澄ませながら、四つん這いになると、両足が床から浮くようにすくっと立ち上がる。
タッパーの小松菜を餌置き場にまぶすと、私の身体は慌てて部屋を出ていった。毎朝、洗面所から小鳥の囀る声が聞こえてくると、かごを用意しながら急いで洗面所に向かうようにしている。
「おーい」
一階から私を呼ぶ、インコではないみどりさんの裏返った声が聞こえてきた。私の手が皺ひとつないシーツに触れないようぎりぎりまで伸び、枕元のすぐ上にあるカーテンをつまんで閉めて、ベッドにぬくもりを垂らしていた夕焼けを遮る。部屋は途端に生活感をなくし、といっても最初からインコと私しかいないくせに、娘がそこから消えてしまったような不安が帷といっしょにおりてくるのは、部屋のなかをくるくると踊っているはずのほこりすら見えなくなってしまうからだろうか。勉強机の片隅にある写真立てが倒れていると気づき、私の手が忙しそうに起きあがらせると、ミニーマウスの被り物をしながら友だちとピースサインを掲げている、娘のほうれい線ひとつない潤った肌が目に留まった。高校の修学旅行で撮った写真らしく、卒業アルバムを除けば私の記憶が知る最後の娘のすがただ。いまはどうなっているだろう。想像して、思い浮かんだのはまだ十歳にも満たない娘が運動会の50メートル走で正面から転んでしまったとき、顔じゅう白い砂まみれになりながらも頬に一筋の道をつくっていた、あのかわいらしい泣き顔だった。たくましくなっていてほしい、成長していればいい、期待は予感になって、現実まで飛び出さんとばかりに膨らんでいく。娘は明日、十年ぶりに帰ってくる。
暖房はそのままに部屋の灯りをつけ、光が漏れ出るよう、戸はわずかに開けておく。階段をおりると光は先回りしたみたいに目の前にあらわれて、迷わないよう、家の中心を教えてくれる。リビングとひとつながりのキッチンでは、エプロンを身につけたみどりさんが底の深い鍋を覗き込み、お玉をそろそろとかき混ぜていた。私の足がリビングの入り口に立ったままでいるとお玉を持ち上げてきて、「これ、味見してくれないかな?」カレーのルーがぼたぼたと垂れている。「味見ね、わかった」すぐさまキッチンに向かえたからよかった。みどりさんが差し出してきたスプーンをぱくりと咥えた私の口は、舌先を這わせるように動かして、こびりついたルーを余すことなく舐め取っている。
「うん。おいしい」
咥えていたスプーンから口が外れる。スプーンの表面は染みもなく艶めいていて、新品のように綺麗だった。みどりさんは結婚する前から実家でよく両親の手伝いをしていたらしく、彼のつくる料理はなんでもおいしい。
「おいしいならよかったよ。明日、喜んでくれるといいよなあ」
「きっと喜んでくれると思う」
「とりあえずまだ時間かかるから、それまでソファーでスマホとか触りながら、ゆっくりしてて。今日も一日、家事頑張ってもらったんだからさ」
「わかった。ゆっくりしてる」
リビングのソファーにもたれかかると、腰のあたりから皮膚の感覚がとろけていって、どこまでもだらしなく沈んでいきそうな気がする。以前にみどりさんがそう口にしていて、だらしなく沈んでいってしまいそうだった私の背筋が伸びていた。みどりさんが言っていた通りだ、と鍋をかき混ぜて鼻歌をうたっている彼を両目が追う。手元は尻のあたりをまさぐり、知らないあいだに沈み込んでいたスマートホンを引っ張り出してインターネットのツイッターを開いている。みどりさんがつくってくれた、専業主婦の呟きがいつも表示されているアカウントはいつ開いても、子育てや家事に協力してくれない夫への怒り、不満、愚痴で占められていた。カサンドラとかミサンドリーとか、フェミニズムとか、難しいカタカナもよく流れてくるけれど、その意味も以前にインターネットで覚えたはずだ。はたしてなんだっけか、と記憶を手繰りながら指を動かしているうちに、誤って広告をクリックしてしまう。勝手に開かれていたページに表示されていたのはゼリービーンズを消していくパズルのゲームで、せっかくだからとダウンロードしてみた。最初の説明を終えると数回遊んでみて、三十秒のあいだ消せない広告にクッキーを消していくパズルのゲームが表示されて、せっかくだからとクリックし、ダウンロードしてみた。最初の説明を終えると数回遊んでみて、「ごはんできたよー」みどりさんの声がした。「わかったー」スマートホンをその場に置いて食器の準備をはじめる。どうして遊びはじめてしまったのかわからないけれど、ビーンズやクッキーを消していくパズルのゲームはルールが難しくないから楽しくて、つい触ってしまう。
娘が帰ってくる前日の食事は、みどりさんが言葉を蓄えようとしているのか、いつもよりも言葉少なに終わった。皿洗いもみどりさんがしてくれて、そのあいだ浴槽にお湯を入れるようにしているから、私の手がお湯張りボタンを押す。お湯張りをします、とあたたかい声がして、了解、私の身体はぽかぽかと湯船に浸かるための準備をはじめた。湯船に浸かる順番は公平になるよう、毎日交代で先に入るようにしている。今日は私の身体が先に浸かる日だから、タオルもパジャマも二人ぶんタンスから引き出し、洗面所に揃えて置く。
湯船には二十分ほど浸かるのがいいとみどりさんが言っていた。だからそれぐらいを目安にあがり、ドライヤーで髪を乾かしてからソファーに腰掛けていると、プロボクサーのようにタオルを被っているパジャマ姿のみどりさんが頬を上気させていた。廊下からリビングにかけてぽつぽつと、ひとりぶんの濡れた足跡が残っている。「あがったよー」みどりさんの声に合わせて上半身が起きる。「おかえりー」みどりさんは髪を乱暴に拭きながらテレビの電源をつけ、任天堂のスイッチを起動した。一年ほど前にみどりさんが買ってきたスマッシュブラザーズだ。「一緒にやる?」「うん、やりたい」やりたかったからうれしかった。「じゃあこれ」コントローラーを渡される。「これね」ピカチュウを選ぶ。「よしやろう」みどりさんがコンピューターの敵を二人追加して、計四人で対戦は始まった。十字ボタンを押せばキャラクターが動くのは知っているから、十字ボタンをがちゃがちゃ弄りながらときどき別のボタンで攻撃を試みる。しかしみどりさんは鼻息を荒くしながら次第に前のめりになり、中腰になったあたりで、おそらくピカチュウは敵キャラといっしょくたに吹き飛ばされてしまった。画面が忙しすぎて、目が泳ぐばかりで操作しているキャラクターをとうに見失ってしまっているらしい。ピカチュウの命がひとつ減り、画面に戻ってきてくれたおかげで再会したはいいものの、すぐにまた敵と混同してしまい、繰り返しているうちに復活もしなくなる。
「どうキャラクターを動かしたいか、自分の頭で考えて操作すればいいんだよ」
と、みどりさんは迷わずキャラクターを選択しながら、テレビに語りかけるようにいつも口にする。けれど、どのキャラクターが強いのかわからないから、初心者向けだと教えてもらったピカチュウを選んでいる。訊こうとしても、瞳を少年のようにぎらつかせてテレビ画面を凝視しているみどりさんは面白くて好きで、邪魔をしたくなかった。何度か対戦を繰り返しても私のライフはすぐゼロになってしまい、おそらくテレビ画面を眺めていると、四角い人間のキャラクターを分身のように難なく動かすみどりさんが短く息を吸って、「そろそろ映画観たくなってきたんじゃない? 一緒にどう?」一息に吐いた。「うん、映画観たいな」確かに、ちょうど映画もみたくなってきたところだった。みどりさんは敵キャラをまとめて薙ぎ倒してから、私のいる側を向く。「そうだよね、ごめんね、ぼくのゲームに付き合わせちゃって」あわててかぶりを振る。「ううん、付き合わせちゃってなんていないよ。私も楽しいから気にしないで」私の目がしきりに重たい瞬きを繰り返す。膝元に置いていたコントローラーから手が離れてしまい、開かれていた太腿の合間をすり抜けるように落ちた、からすぐに拾うと持ち手が汗でぬかるんでいる。楽しいあまり、つい熱中してしまっていたのだろう。
映画を観るのはもともと私の唯一の趣味で、いつもみどりさんがそれに合わせてくれていた。みどりさんとは高校を卒業して父親の会社で働いていたころ、両親の伝手によるお見合いで出会った。みどりさんは交際してまもないころから「インドア派の女性と付き合えて幸せだよ」と事あるごとに私を褒めてくれた。そして「実は昔、映画にちょっとしたトラウマがあったんだよ。いまもときどき怖くて」と教えてくれたのは娘がまだ夜九時には床についていたころで、彼のトラウマが刺激されないよう、それ以来観る映画はみどりさんに選んでもらうようにしている。みどりさんが特に好んでいるのは国内で製作されている心霊映画で、何作か観ているうちに同じく好きなジャンルになった。今日再生された作品もタイトルを初めて聞く、新しくネットフリックスに追加された心霊映画だった。目元と皺を同化させた霊媒師が長髪のありきたりな幽霊をおろし、まだ若い主人公たちはお経に似た呪文をすばやく唱え、結界が張られた檻のなかで幽霊は救いを求めるように叫び続け、その怨恨が煙となって画面に充満して不気味な笑い声が朧な影をつくりだし、少しずつ視界が晴れてきたと思いきや暗転して、また画面が切り替わって、幽霊がいるのかいないのかわからなくなって、きて、私の瞼がゆるやかに降りてきた。から、みどりさんの身体にしなだれかかった。みどりさんの硬い肩はびくともせず、全体重を預けても微動だにしない。たくましい、あたたかい、と思う。ゆるやかな眠気が流れていき、インターネットにうつる泡のような言葉たちをぱちぱちと、浮かばせては消す。昔からみどりさんは私に女性としての役割を押し付けない。インターネットにたくさんいる〈夫〉と違って家事もしてくれるし子育てにも理解があるし当然暴力もなく、性行為を強要することもなかった。いつもやさしくて家族想いで、だから幸せだった。あとは娘に少しでもこの気持ちが伝わればいい、と思う。口のなかから美味しかったカレーの甘い匂いがほのかに漂ってきて、涎が頬に溜まっていきながらそういえば歯は磨いたっけ、まあ、歯を磨くのは寝る直前だから、いまは大丈夫か、意識を手放そうとすると身体はどこまでも軽くなっていく。夫のすぐ隣で眠ろうとする瞬間は、たまらなく心地いい。
毎朝、洗面所から小鳥の囀る声が聞こえてくると、かごを用意しながら急いで洗面所に向かうようにしている。ピィピィ、ピィピィ、助けを求めるようなか細い声を頼りに蓋を開けると鳥たちは一斉に押し黙り、洗濯機の側面にこびりついているのは皺だらけの衣類だった。両腕が大きく広がりながら巣穴を探り、まとめて引き揚げた洗濯物たちは赤子と変わらない重たさで、赤子どころか私より重たいんじゃないの、と思いながら、でもきっと私の身体のほうが重たいはずだ。どさっと地団駄を踏むような音が響き、かごの持ち手を両手が掴みながらベランダまで向かう。二足歩行なのに四つん這いで前進しているような、よちよち拙い歩き方に私の足がなってしまっていたみたいで、「ああごめん、ぼくが手伝ってあげればよかったね」みどりさんが廊下の奥から駆け寄ってきて代わりに運んでくれた。「ごめんね、ありがとう」私の足が冷えた廊下を踏みながら、二階に上がっていくみどりさんの背中を向いている。と、リビングのインターホンから軽やかな合図が送られてきた。きっと娘だ、と直感してしかし来訪者の確認が先だから迷わず両足はリビングに向く。気配のある玄関から遠ざかっているのに、心臓が高鳴りと収縮をせわしく繰り返している。
モニターに映る娘は画質が悪いうえに全体が青ばんでいて、心霊写真に見えて少し驚いた。でも、玄関に向かい鍵を開けると、目の前に立っていたのは幽霊ではなく人間、いまここに立っているのだから幽霊ではないはずだ、とまじまじ見つめてしまう。茶色いトレンチコートを羽織っている娘はなぜかマスクを着けていたけれど、目元の吊り上がり方が変わっていないから面影があって、涙袋を光らせている化粧や目尻に走っている小さな皺には面影がなく、似ているし似ていない。いや、似ていないとおかしい。だから娘は十年前の娘と変わっていなくて、しかし成長しているはずなのに却ってこじんまりと萎んでしまったようにも思えた? 娘とどう接すればいいのかわからなかった。子ども部屋の埃っぽく懐かしい匂いが色褪せていって、柑橘系の香水の臭いばかりが鼻にまとわりつく。
「あーちゃん、おかえり」とりあえず、名前を呼んでいた。
「うん。ただいま」
あーちゃん、と娘は繰り返さなかった。まるで高校から慌てて帰ってきたときのように素っ気ない返事をして、ヒールを脱ぎ、目線を合わせないまま二階まで上がっていってしまう。もしかしたら萎んでしまったのではなく、年を重ねていなかったのだろうか。でも、懸命に持ち上げていたのは学生鞄ではなく真っ黒なキャリーケースだったし、ヒールは踵を揃えて置かれていたから、きっと二十八歳の娘だった。このあとどうすればいいのだろう。自転車の持ち手を強く握りしめるあまり手のひらを煤っぽくし、遠慮なく汗水を垂らしながら娘が高校から帰ってきたときの風景を思い出そうとして、遠慮なく居間に上がり込んでくるのはみどりさんが勤める会社の上司や部下たちで、娘はどこにも住んでいない。ただ、娘が学生のころは家に帰ってくると冷えた麦茶をすぐ出すようにしていた。きっとそれがいいと、私の足がリビングを通り抜けてキッチンに向かう。
「ねえ、あのインコまだいたの? 暖房で部屋あっついし、すごい獣臭いんだけど」
氷をみっつ入れたコップに麦茶を注いでいると、戻ってきた娘がリビングのドアを開け放つや否や、ぶっきらぼうに言った。身体が前のめりになって娘を覗き込むと、クリーム色のセーターを露わにした娘はカーペットの手前に立ったまま蝶番に片手をついている。マスクが外れており、先ほど目にした二十八歳の娘に似た十八歳の娘に似た二十八歳の娘、と比べると、より老けて見えた。
「インコはまだ飼ってるわよ。あの子も長生きしてくれて、もうすっかりおばあちゃんなのに、まだまだ元気に鳴いてる。大きさも変わらないし、ずっと子どものままみたい」
「臭くてあたし眠れないんだけど。ほかの部屋に移してよ」
「臭くて眠れないの? でも、みどりさんが動物アレルギーだから……」
ペットを飼いたいと最初に言い出したのは娘だった。当時中学三年生だった娘は夕飯どき、買ってあげたばかりの携帯電話を握りしめ、クラスメイトが自宅で飼っているらしいイグアナの写真を自慢げに見せてきた。ハートマークや星模様が小さい画面いっぱいにデコレーションされていてイグアナの顔面は埋もれていたけれど、娘がイグアナだと言っていたからそれはきっとイグアナだった。「あたしも飼いたい。ペット」急にどうしたのよ。「ペットってさぁー、かわいいじゃん?」散らばったハートマークは確かにかわいかった。「あたし絶対に飼うから!」とりあえず食事中は携帯、しまいなさい。「ねえお父さんいい?」みどりさんは悲しげに箸を置く。「……実はぼく、動物アレルギーなんだよ」それは初耳だったはずだ。みどりさんとは結婚前に動物園や牧場にデートをしにいったこともあって、こぶたやポニーがのどかに寝ているふれあいコーナーの柵に掴まりながら、「豚は空を見上げることができないんだよ。だからこうやって外にいるのに、空の青さも知らないで生きているのかもしれない」などと、よく蘊蓄を語ってくれていた。みどりさんはずっと無理をしていた? 「でもそれを理由にあーちゃんの気持ちを無碍にはできないから。あーちゃんが自分ひとりで、責任を持って育てられるなら……誕生日まで我慢できる?」我慢していたのだろうか。
「我慢できる!」そして娘も我慢しようとしていた。だから開きっぱなしの携帯電話を諌めるのをやめて、「あーちゃんはえらいわね」と口は言った。そのとき娘が垣間見せたあどけない破顔を、いまでも簡単に思い出せるはずだ。そして一か月後、誕生日の当日を迎えると娘は誰とも遊ぶ約束をせず、いつもより十五分ほど早く帰ってきた。通学鞄を玄関マットのうえに放り捨て一目散に着替えてきて、みどりさんは仕事だったから、二人でイオンに行った。後部座席の真ん中でシートベルトを身につけた娘は、ずっと前から座席のポケットに挟まっている「なかよし」を膝下に広げていた。バックミラー越しに覗き込むとたまたま目が合って、娘はえくぼをつくりながら必死に笑みを殺している。不思議と楽しそうで、なにが面白いのかわからないまま、自然と私の口角まで上がってしまう。
イオンに内設されているペットショップは犬や猫に留まらず、ハムスターやカブトムシのような小動物まで売られていた。特にぶ厚いガラスに守られ、広い通路にも面しているチワワやトイプードルの周りは平日にもかかわらず、店内からあふれるほどの人だかりができている。娘は顎をわずかに上げながら背伸びをし、人だかりから遠ざかると逆に前のめりになって生き物を一匹ずつ観察していた。どの生き物もケージやガラスに守られながら、狭いスペースのなかを幸せそうに動き回っていた。
「あたし、あの子がいい」
でも、娘が指さしたのはすばしっこく動き回る犬や猫ではなく、止まり木に足爪をひっかけ、背筋を伸ばしながら微動だにしていない一匹のセキセイインコだった。熟していない梅の実のような淡い緑色には幼さを抱いたけれど、瞬きをしないつぶらな瞳には、なにを考えているのかわからない気味の悪さがある。無表情なその瞳を覗き込むと、私の鼻先がでかでかと映っている気がした。
「インコって名前呼んでくれるんでしょ? あたしも呼んでほしいから」
店員さんによると、インコによっては言葉を覚えるのが苦手な個体もいるらしい。それでも娘の意志は変わらなかった。娘はインコに名前をつけず、いつも「あの子」と呼んでいた。「もし名前つけてさー、自分の名前ばっかり呼ぶようになったらつまんないじゃん?」そうだろうか。「せっかく飼うんだったらあたしの名前ばっかり呼んでてほしいもん」勉強机に鳥かごを置くと、娘は椅子に腰掛けながら両肘をつき、甲高い鼻歌をうたってインコと見つめ合っていた。初恋をしているかのようにだらしなく目尻を下げ、他のなにも目に入れていないすがたがかわいかった、安心したのをいまでも覚えている。
みどりさんがアレルギーなのを思い出したのか、妙に大人に似ている娘が眉間に皺を寄せた。「まあ一日だけだし、我慢するわ」鼻をつまんだような低い声。
「そうだ、あーちゃん」実際、大人の娘らしかった。「あの子がアーチャン、アーチャン、ってあなたの名前を呼びはじめたら教えてね。私が餌をあげにいかないといけないから」
「別にあたしの名前呼んでるわけじゃないんだけど。てか餌を与えるぐらい、あたしにもできるから」
「ああ……そうよね。だって、あーちゃんも大人になったんだものね」
確かに娘がいなくなるまでは、インコに餌を与えるのは娘の役割だった。中学生のころ、娘は小松菜を包丁で細かく切ってはタッパーに保管していて、制服を着る前と脱いだあとに必ず餌を与えていた。まるで制服を身に纏う一連の動作のなかに含まれているかのような、課された宿題を淡々とこなすときに近い律儀さだった。しかし高校に入って少しした頃から、部活やアルバイトに追われていたからなのか、餌をあげるタイミングが不定期になった。刻んだ小松菜ではなく市販のフードをあげるようになり、目に見えて愛情を注ぐ時間は減っていった。娘から部屋に立ち入るなと口酸っぱく言われていたから、そのころのインコがどのように生きていたのかまるで知らない。娘との日々に空白がうまれたように、インコとの日々にも過去と現在を隔てている空白が、ある。
そして娘が家をでていくと、インコに餌を与える役割を自然と引き継いだ。みどりさんが動物アレルギーなのだから当然だった。身近で接してみて初めて気づくのは、鳥かごのこまめな掃除や室温変化に気を配らなければいけない繊細さよりも、鳥かごのなかにいるインコが、たった一匹で生きている事実だ。娘と違ってインコは食事の催促もしないし、わがままも言わないし、反抗期も訪れない。アーチャン、アーチャンと窓の外を見つめながら時折さみしそうに呟くくせに、友だちが欲しいとは言い出さない。ひとりぼっちのようにみえて、ひとりで生きていけると言わんばかりの強がりな振る舞いを、狭苦しいはずの鳥かごのなかで徹底している。だからどう接すればいいかわからず、娘が日々こなしていたルールを参考にしていた。朝と夕方、娘が学校に行く、あるいは帰ってくる時間を思い出して、私の手がタッパーを冷蔵庫から取り出している。そのうちインコが決まった時間に鳴くようになってくれて、私の足は娘を呼ぶ声に合わせて、自然と動くようになった。
思えば大人になる前から、娘はインコに餌をあげていた。だから餌をあげられるところで成長しているわけでもないのに、娘が「餌を与えるぐらいできる」と当たり前のように宣言するだけで、大人になった娘を垣間見た気がして感慨深くなってしまう。と同時に、感慨深くなるのは娘のことを思い出したからで、目の前にいるはずなのに娘のことを思い出していく不可思議さ、目の前にただよう蜃気楼を遠くから掴もうとしているような乖離した手応えが、遠近感を狂わせる。娘は十歩進むだけで気軽に触れられる距離に、生きた人間として立っているはずだ。
でも、お盆にコップを載せて両手がそれを持っていると、気軽に触れることもできない。
「ああ、帰ってきたんだ?」
洗濯物を代わりに干してくれていたみどりさんがそのあいだに戻ってきて、娘の背後にすっと立ちながら言った。並んで立つとみどりさんのほうが娘より背が高く、やたら新鮮な気持ちになったけれど、昔からそうだったのになぜ? 二人の身長を窺いながら身を屈め、お盆に載せたコップをテーブルにそっと置いた。氷は水に浮いたまま穏やかに揺れて、どこにもぶつからない。
「ああ、うん、ただいま」
せっつかれるようにリビングに入ってきた娘はスリッパを履いていない。と思うと足が玄関まで走っていきそうになったけれど、目の前にいるのは娘だから、玄関までスリッパをとりにいく必要も履いてもらう必要もなかった。それなのにいま手が持っているお盆は来客用のものだと気づき、なにも後ろめたくないのに両手が咄嗟の判断をして後ろにまわっている。来訪してきた娘と昔から住んでいる娘、何人もの娘が揃って家までやってきているような違和感が、部屋をぎゅうぎゅう詰めにしようとする。
「とりあえずみんな座ろうか」みどりさんが椅子を引きながら提案する。
「そうね、あーちゃんも座って」私の尻が座面を撫でている。
「ん」私の尻が座面を撫でている?
裏向きのお盆がテーブルに置かれていて、いつのまにか椅子に座っていたのは私の身体だった。でも、座ろうと思っていたから、気にすることではなかった。娘も驚くほど素直に応じており、みどりさんの真正面に腰掛けている。三人揃ってテーブルを囲むのはいつ以来だろう。娘はコップを大きく傾けて口元につける。「さむっ」顔をしかめながらも一気に飲み干していた。つんとした唇が滑り落ちてきた氷を食い止めていてその仕草は中学生の頃とそっくりで、乱暴にコップをテーブルに振りかざすのは高校生の頃とそっくりだった。こくりと生きている音を鳴らしたら「あのね」娘の喉が声を幼く震わせている。
「溜めるようなことでもないから先に言っておく。あたしいま一緒に住んでるひとがいて、もう五年ぐらい経つだけど。で、そのひとが海外に転勤することになって、あたしもついてくって決めた」
一息に言い切るさまはむしろ溜め込んだものを吐き出しているようで、物怖じしない言い様が掴みそこねていた距離感をぐいっと遠ざけ、一人しかいなかった娘に焦点をあてる。――イギリス。転勤。そんな突飛なことをいきなり言われても、鼻立ちが高くて金髪で碧眼の、教科書に載っているような絵しか出てこない。そんな男に娘がついていく? そうなると、おそらく結婚もするのだろう。宇宙人と結婚する、と告げられた感覚でむしろその方がまだ現実味がないから、却って身近に感じられたかもしれなかった。
とりあえず、訊きたいことはたくさんあった。
「えっと」結婚するの?「お相手は外国のひとなの?」
「違う。日本人」
「日本人なんだ。彼氏さんはどんなお仕事をしているの?」
「いや、女性だし、そもそも恋人じゃないし」
女性? 付き合ってない? 一拍遅れて子どものころの娘が眼裏で笑顔を浮かべ、ううん、ちがう。きっと娘ではない娘、ですらない赤の他人が我が物顔で立っている。腑に落ちる感覚と、腑に落ちないもどかしさが同居する。ただ、世の中には、いわゆる、同性愛者もいるのだと、インターネットのツイッターにもよく書かれていたのを思い出した。
「それじゃあ、お相手は同性愛者のひとなの?」
「別にレズビアンってわけじゃないけど、そもそも付き合ってないっていってんじゃん」
「えっと……それじゃあ、というか、そもそもえっと、女のひとが好きなの? あーちゃん」
「あたしはシスジェンダーでヘテロセクシャル。そのひととは一緒に住んでるってだけ。なんで同居相手についてくってだけでさ、異性との結婚を前提に考えてるわけ? もうさお母さんはなんにもわかってないんだから黙っててよ」
娘はいまにも舌打ちしそうな勢いで足を組む。視線が咄嗟に、娘から逸れようとする。コップのなかの氷はいつのまにかほとんど溶けてしまって、極限まで薄めた茶色はほとんど透明と変わらない。娘が言っている言葉は昔から理解しているつもりだったのに、知らない言葉も矢継ぎ早に出てきて、なぜ怒られるのかもわからなかった。
「……ありがとう、報告しにきてくれて」みどりさんがはじめて口を開いた。「きみの人生なんだから、きみが考えて決めたことを何よりも尊重するべきだ。ぼくの立場からあれこれ口出しはできないよ。でも……ぼくたちも連絡がないと心配なんだ。だから住んでいる場所は教えてほしい。それに一年に一回は帰ってきてくれないかな、こうして」テーブルの上で両手を組む。「それぐらいならきっと、してくれるよね?」娘をじいっと見ていた。
「したくなったら、ね」
このとき、常にみどりさんを向いていた娘の視線が初めて私の瞳とかちあった気がした。けれど、旧友と会う予定を入れているからとわざとらしく壁時計を向き、昔話に花を咲かせる暇すら与えず、すぐに家を出ていった。夜には帰ってくるから、と言伝を残し、当たり前でしょ、と思いながらも懐かしくなるのは、玄関先で娘を見送るのが十年ぶりだったからかもしれない。扉の向こうにいったんかくれんぼする娘をいつでも手招きできるよう、閉ざされる瞬間まで片手が振られ、振り続けていると「あの子らしいな」と声がする。だから腕が下りる。「うん、あの子らしい」娘に違いないのだから、娘らしいに違いなかった。
翌日、娘が出し抜けに「お母さん、イオン行こ」と口にしたのは、みどりさんの出社を見送ってすぐだった。昨日、日付が変わる寸前に帰ってきた娘は化粧が厚くなり顔面は真っ白、にもかかわらず耳たぶは真っ赤に染まり、すれ違いざまには苦味の混ざった炭酸の臭いがした。いまは髪をみだらに跳ねさせ、食卓につきながら当たり前のようにトーストを齧っている。今日の娘は昨晩よりも若い娘だった。「あーちゃんイオン行きたいの?」「行きたいから誘ったんじゃないの?」娘本人に娘の気持ちを訊かれても、わからないから、どう答えればいいかわからない。行きたいんじゃないの? と訊こうとして、また怒られてしまいそうだから、やめておいた。
トレンチコートを羽織った娘はなんの躊躇いもなく助手席に乗り、イオンに着くまでのあいだずっと、口を閉ざしたままスマートホンをクリックしていた。イオンに着き、駐車場を歩いているあいだも手放そうとせず、歩きながら携帯さわるのはやめなさい、と口が言おうとして、やっぱり寸前で思いとどまってしまう? 娘が手にしているのは携帯電話なのにすでに携帯電話ではなくて、それならどうして携帯電話と呼ばなくなったのだろうと、戸惑いが口元を掠めていく。娘を形取ろうとするやわらかな言葉たちは、まだやわらかいままでいるだろうか。背伸びしたヒールをこつこつと鳴らしながら娘が一直線に向かったのは、かつてインコを購入したペットショップだった。
鳥類用のおもちゃや餌が並んでいるスペースの前で、二歩先を進んでいた娘は不意に立ち止まる。
「インコの餌、買いたくて」私の足も止まっていた。
「あの子の餌なら冷蔵庫にあるのに」右手が餌の入った袋を取ろうとする。
「あたしがあげたかったの」小松菜はここになかった。
「そう、あーちゃんが……」右手は宙を掴む。
餌にはいくつか種類があったけれど、特段こだわりはないようで、娘はいちばん安いものを悩まず選んでいた。レジに向かう途中、かつてインコがいたはずのスペースは犬と猫ばかりになっており、ガラスに隔たれた向こう側にいるトイプードルが濡れた鼻先をガラスに押し当てていた。口をしきりに動かしてだらしなく舌を出しているけれど、音は一切聞こえない。つぶらな瞳をせわしく左右に向け、喜んでいるようにも悲しんでいるようにも見えた。
娘は膝を曲げると、トイプードルに視線を合わせる。
「……昔は、インコがいつもあたしの名前を呼んでくれてるんだと思ってた」
「いまも毎日呼んでるわよ」小松菜を用意するときの声。「アーチャン、アーチャンって」
「人間にはそう聞こえるだけ。あのインコからすればただの音の羅列で、中身はからっぽ。高校生のとき、それに気づいたらすごく馬鹿らしくなって。で、それに気づいてすらいなかったバカなあたしを思い出すから、見るのもいやになった」
ただ、と娘はゆっくり区切る。
「あのインコも何か意味があって鳴いてるんだって、昨日の夜、思ったの。だから、無視はできないなって」
どんな動物だって、意味もなく鳴いたりしないはずだ。あーちゃんが赤ん坊だったころだって、そうでしょう? 娘が一字一句、繊細に摘み取っている言葉は私の耳からすれば当たり前の話で、だから、どうやっても娘とは同一人物のはずなのに、どうやっても別人のように遠く感じてしまう。ただ、インコに餌をあげたい気持ちになったのなら、きっといい結果をもたらしている、成長している。そして成長しているのだとしたら、娘がいまも娘のままでいる証でもあるはずだ。だから変化ではなく成長を実感したかったし、信じたかった。
帰りも娘は助手席に乗ったけれど、スマートホンを触るのはやめて、ドアにもたれかかりながら車窓の外を眺めていた。バイパスの交差点を直進していると、目の前の信号機が黄色に変わった。から減速して、今度は赤になった。から止まった。身体が前後に小さく揺れ、しがみつくように両手がハンドルを握る。
「お母さんも、早く家を出たほうがいいよ」
助手席から静かに声がした。娘はいつのまにか、背筋を伸ばしながら正面を向き、膝のうえで握り拳をつくっていた。卒業式のときみたいだ、と思い、いや、爪を見せないルールだったのは男の子のほうだったか。
「別に、仕事始めるのでもいいから、お母さんも外に出てみてよ。うちの家、やっぱりおかしいと思う」
でも、娘の横顔は紛れもなく女性で、大人の女性で、それは眩しすぎるほどにたくましかった。きっとこの十年間――あずかり知らない空白期間、想像が及ばないほどの成長を重ねてきたのだろう。かけっこで転んで泣いていた、イグアナを見せながら興奮していた、帰宅するなり通学鞄を放り出していた娘はもう、どこにもいない。成長を目の当たりにできなかった空白期間のあいだで、きっと娘は別人になってしまった。ただ、成長するにつれ脱ぎ捨てていったであろう幼い娘が幽霊のように私の周りにまとわりついているから、ふとした瞬間に思い出して、いま目の前にいる知らない娘と混在する。別人になってしまった娘がいま何を考えているのか、なにをおかしいと思っているのか、もうわからない。
ただ、わからないなりに、知っている言葉たちはあった。
「あーちゃんの言うとおりだと思う。専業主婦はよくないとか、女性も自立したほうがいいって、インターネットで見たことあるもの」
そして――たとえ娘がわかってくれないとしても、知ってほしかった。
「でも、私はいまの生活で幸せだから。みどりさんもきっと、幸せのはずだから」
みどりさんとの生活に何ひとつ不自由はなかった。不自由さを抱いたこともなかった。みどりさんは毎週働いてお金を稼いできてくれる。家事も手伝ってくれる。趣味も共有してくれて、いやがることは一切しない。ずっと家のなかにいろ、と強制されているわけでもないし、外に出ないのは元々インドア派だからだ。誰もおかしいはずがない。
私たちは、幸福な夫婦だった。
……あお、と娘はぽつり漏らした。あお? 肩がびくりと跳ねて足が咄嗟にアクセルを踏み、前を向くと、信号機が青になっていた。だから足はさらに強くアクセルを踏んで、車が前に進んでいった。娘はそれっきり黙りこくる。うまく伝わっただろうか、前を走る車の速度に合わせて走行しながら考えるうち、車だけが勝手にぐいぐい進んでいって置き去りにされているような感覚がふと、ハンドルを握る手をいやに湿らせる。けれど、足元を一瞬だけ窺ってアクセルペダルが踏まれているのを両目が確認すると、ハンドルを握っている手元はほっと一息ついてわずかに緩んだ。大丈夫、しっかりコントロールできている。交差点で信号機が赤色だったから再びブレーキを踏む。いまこの車を運転しているのは、私、に違いなかった。
本来なら今日の夕食は寝かせておいたカレーで、みどりさんが帰ってきたら娘と三人で食べるつもりだった。でも夕方になると娘は急用ができたから帰ると口にし、「帰るってどこに?」「家だけど」ぞんざいに言いながら荷物をてきぱきまとめていく。帰る家ならここにあるのに、と引き留めたくなったけれど、ヒールを履いて、私より背の高い娘を前にしたらもうなにも言えなかった。キャリーケースを転がしていった玄関先から漂う柑橘系の香水は、初対面のセールスマンが家を出ていったあとの過剰なファブリーズくささにも似た、他人行儀な臭いだった。仕事から帰ってきたみどりさんはしゃがんで背中を向け、革靴を脱ぎながら「帰ったのか、あいつ」。吐き出された言葉とともに、曲がった背骨の輪郭が皺ひとつないスーツにみにくく浮き出ている。立ち上がって振り向いたときには落胆も悲壮も浮かべておらず、年季が入った革靴を表情なく見下げながら「あの子らしいな」とこぼした。ほんとうにあの子らしかった? そう声をかけたかったけれど、私よりもみどりさんのほうが娘の性格をわかっているだろうとも思った。だから、みどりさんがあの子らしいと感じたのなら、あの娘は幼いころと変わりのない、あーちゃん本人だったのかもしれない。きっと? そうに違いない。
日付が変わっても娘から連絡はなく、朝になって私の耳が真っ先に捉えたのは、じりじりと詰め寄ってくる目覚まし時計のアラームだった。手が頭上をまさぐってすぐにボタンを押すとアラームは止み、隣で寝ていたみどりさんのいびきが遠ざかるように小さくなっていく。起きなければ、寝室に満ちている静寂にも気付けない。起き上がってリビングに向かい、お椀に白米をよそっていると、寝癖をつけたみどりさんが起きてきて「おはよお」と立ち鏡に向かって喋っていた。「おはよう」と私が台所から返しても聞こえていないみたいで、「おはよう」繰り返しても一切反応はない。寝ぼけているらしいみどりさんのすがたを見ていると、なぜか娘がこの場所にいない事実を突きつけられた気がして、残っていたカレーをむしゃくしゃ食べたくなった。でも、カレーのルーは昨晩にみどりさんがすべて平らげてしまっていて、娘と食べるはずだったものはもうどこにも残っていない。みどりさんが出社の準備をしているあいだに洗濯機を回し、水切りかごの乾いた食器を片付けると娘の痕跡はまたひとつ失われる。そのかわり、お米が一粒たりともこびりついていないみどりさんのお椀を両手がゆすいでいる。と、玄関先で物音がしたから足は玄関に向かった。そこにいたのは娘ではなかった。「わざわざ見送りありがとう」踵のあたりを見下げながらみどりさんが腰をねじらせ、縦に持った靴べらを上下に擦っている。
靴をはいてつま先を二度ゆるく叩くと、私の身体を向いた。
「今日はおかずを買ってくるよ。なにか食べたいものはある?」
「うーん」うーん。「考えたけど、特にはないかな」
「わかった。それじゃあ唐揚げを買ってくるよ」
「わかった。それじゃあ唐揚げを買ってくるのね」
「あと、今日はポケモンの新作が発売される日なんだ。ポケモン好きだったよね? いつもピカチュウ使ってるし」
「ポケモンの新作が発売される日なんだ。うん、ポケモンは好き。ピカチュウも好き」
「帰ってきたら一緒にやろう」
「一緒にやろう」
「それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
なにが面白いのだろうと気になってしまうぐらい、にこにことうれしそうに笑いながらみどりさんは家を出ていった。スーツで引き締まった背中を右手がふらふら揺れながら見送る。ドアが閉ざされる。いつまで振り続けていればいいのかわからなかったけれど、アーチャン、アーチャン、あどけない声がして足がリビングを向いた。娘を呼ぶ声が聞こえてきたから、インコに餌をあげなければ。みどりさんを見送っていた右手は冷蔵庫からタッパーを取り出し、そのまま両足と一緒に二階に向かう。段差を一段あがるたびに腿の付け根が軋んで、わずかな痛みが走るたびに生きていると実感しながら踏面を踏む。生きている。間違いなく、生きている。息が乱れていないから、まだ老いてもいないはずだ。
子ども部屋のドアを開けると、柑橘類の強い臭いが勢いよく鼻先を掠めていった。獣の生きた臭いが上書きされてしまったかのように消え失せていて、いくつもの臭いをかき混ぜた酸っぱさに顔をしかめながら鳥かごに近づいていくと、アーチャン、アーチャン、娘を呼ぶ声はなぜか部屋の外から聞こえてくる。娘の気配がしない? それに部屋の中が薄ら寒い。知らない部屋に迷い込んでしまったような不安を掻き立てられながら、おそるおそる鳥かごを覗き込む。
――インコが、鳥かごからいなくなっていた。間違いなくカーテンは閉じられている。鳥かごには鍵がかけられている。声も聞こえた。聞こえてきた。それなのに、娘の名前を呼んでいたはずのインコだけが忽然と姿を消していた。空耳だったのだろうか? 部屋を見回すと昨日買っていた餌入りの袋が勉強机の上で倒れている。すぐ隣の写真立てに飾られている写真には、『茜』とマジックペンで乱暴に書かれていた。「ぼくがみどりで、きみがえっと、葵だから、娘の名前は茜にしようか」遥か昔に交わしたはずの言葉が不意に蘇り、いちど思い出すと、ずっと忘れていたのが不思議でたまらない。あかね、……あかね。名前を飴玉のように舌のうえで転がすうち、甘い予感はかたちをおびて強くなっていく。皺を寄せている掛け布団の小さな窪みも娘がいた証拠で、だから気配は強くなっているはず。なのに、子ども部屋は依然、もぬけのからだ。両手がもたつきながら鳥かごの鍵を開けようとして、がーちゃがーちゃ、金属のぶつかる音が虚しく響く。扉を開くと娘の汗に似たしょっぱい臭いがもわりと漂ってきた、気がしたものの、すぐに逃げていった。両手が空気を循環させて残り香を嗅ごうとしても、そもそもケージフェンスは隙間だらけで、匂いが閉じこもっているはずもない。
部屋の四隅を見上げ、クローゼットを開き、膝をついてベッドの下を覗き込むと、いよいよ探すあてがなくなって足が棒立ちになってしまう。空っぽになった鳥かごを見つめていると、なぜかひどく呼吸が浅くなる。ぴちぴちと暴れようとする肺がいまにも身体を突き破ってきそうで、押し留めようと服を握りしめると、心臓が荒波のように激しく拍動している。インコはどこにいってしまったのだろうか? 鍵の開けられた空っぽの鳥かごは、やわらかい皮膚の奥に沈んだ私の肉を鉤爪で鷲掴みにし、引っ張り上げ、息をつく暇も与えずそのまま連れ去ってしまうような痛みを刻んでくる。これはなんだろう。安心? 不安? うれしい? かなしい? この鳥かごを見て、私はなにを感じた?
胸の奥側でばたばたともがいている痛みの正体を知りたかった。ただ、探ろうとするとどうしてか制服を着ている娘の、外見に合わない大人びた声がこだまする。「お母さんも、早く家を出たほうがいいよ」。娘のあの忠告は、私が理解できず、途方に暮れることも見透かしていたのだろうか。「おかしいよ」と断じていたときの横顔に、眩しさやたくましさを感じたのを覚えている。もしかしたら私は娘がうらやましかったのかもしれない? ただ、どうしてうらやましいのかわからない。こういうとき、どうすればいいのだろう。インターネットになら書いてあるだろうか? しかし手元にスマートホンはなかった。調べ方もわからなかった。八方塞がりでこわくて、そのうち立っていられなくなって、手のひらの肉に爪を食い込ませながら、腹を抱えるようにくずおれる。あーちゃん、あーちゃん。喉が私が震える。私、あーちゃんがなにを考えてるのかもうわからない。でも、わからなくても、あーちゃんを知りたいの。教えてほしいの。助けてほしいの。たぶんはじめて、あーちゃんを知りたいと思ったの。
――ピィピィ、ピィピィ。返ってきたのは、娘を呼ぶ声ではなかった。成長した娘の声でもなかった。一階の洗面所から聞こえてくる小鳥のか細い鳴き声が、ピィピィ、ピィピィ、娘がうまれたときの泣き声のように何度も頭に響いてくる。その頼りなさに、張り詰めていた肩の力が一気に抜けた。大きな息を吐くと、嵐のようだった痛みが嘘みたいに引いていく。一体、なんだったのだろう。痛みから解き放たれて安心すると頭がぽかぽかしだして、どうして苦しんでいたのだろうか? 確かめようとして、そうだ! 知ろうとするよりも先にやらなければいけないことがあったのを思い出した。幸せでいるためには欠かせない家事分担だ。救いを求める幼い囀りに耳を澄ませながら、四つん這いになると、両足が床から浮くようにすくっと立ち上がる。
タッパーの小松菜を餌置き場にまぶすと、私の身体は慌てて部屋を出ていった。毎朝、洗面所から小鳥の囀る声が聞こえてくると、かごを用意しながら急いで洗面所に向かうようにしている。