透明ガールは夏のはじめに現れた。
僕が彼女を初めて目にしたのは七月に入ったばかりの新宿駅だった。彼女は十四番線のホームから線路を二本挟んだ先となる十五番線のホームの上、ちょうど僕の視線の先端にいた。その日は日曜日でホームはどこも接触を伴わず人とすれ違うことが不可能な程に混雑していた。
そんな中に彼女は静かに立っていた。よく見ると急流が岩に当たって砕けるように彼女の直前で人波は分かれ、そして彼女を超えた先でまた一つになる。まるで誰もがそこにある何かを避けるようにして暗黙のうちに進路を変えていく。彼女自体はありふれた存在に見えた。タイトな夏らしいTシャツにシースルーのロングスカート、少し長い髪。五月頃から大学の構内で掃いて捨てる程見てきたスタイルだった。それでも彼女は世界から浮いていた。浮いている、というよりもそこに何も無いように透過されている。ゲームのキャラクターが見えない壁にぶつかって進路を変えていくさまに似ていた。僕がそうして彼女を眺めていた時間は十秒にも満たない。次の瞬間には彼女と目が合った。そしてけたたましい警笛と共に山手線がホームに滑り込んできた。
「目を閉じるよりも簡単だよ」
次に僕が彼女に会ったのは二週間と少し後の上野でのことだった。彼女は空になったグラスの縁を撫でながら言った。
「それか呼吸を止めるより」
冷房の当たりすぎるタリーズの席に向かい合うようにして僕達は座っていた。その日、僕は恋人と会う約束をしていた。ただ恋人が色々あって待ち合わせに遅れるというので僕はあてもなく上野公園を歩こうと思った。しかし公園は危険なほど暑く、五分も歩かないうちに滝のように汗が噴き出、平衡感覚がおかしくなった。僕はどこか涼しい場所に移動しようと思った。そんな時に彼女が視界の端に現れた。彼女はあの日と同じようにただ静かに国立西洋美術館の前庭にある彫刻を見上げていた。相変わらず人々の波から浮いていて、直射日光さえ彼女を熱することなく通り抜けているように見えた。
僕は引き寄せられるようにして彼女に近付いていった。彼女がいたのは弓を引くヘラクレスのブロンズ像の前だった。怪鳥ステュムファリデスを射んとして大きく引かれた弓。ただその先には怪鳥の姿などなく、吸い込まれそうな青い虚空が広がっている。起伏に富み、緊張するヘラクレスの肉体。ただ立ってそれを見上げる彼女。生物感のない空間がそこにはあった。一歩一歩、近づいているはずの彼女はその度に遠ざかっていくようにその希薄性を増していった。やがて僕は彼女の隣に立った。
「目を閉じるよりも簡単だよ」
目を閉じる。僕はそう繰り返した。ただそれが何の話か理解できたのは随分先の事だった。その日、彼女は第一ボタンまでキチンと留めたシャツで髪を後ろで一纏めに束ねていた。
彼女を目の前にすると改めて、彼女が透明でもなければ浮遊しているわけでもないことが実感できた。考えるまでもなく当たり前のことだった。でも、もし彼女に「私は空の上から来た」と言われれば僕はその言葉を信じざるを得なくなるような気がした。逆光になる照明の中にいる彼女はレンブラントの絵画のように陰影が対立し鮮明でありながらどこか希薄で曖昧だった。
「具合はどう?」
僕は軽い熱中症になっていて、それに気が付いたのは倒れる寸前になってからだった。
「まあ大丈夫にはなりました」
タリーズでグラスのアイスティーを一気に飲み干して、僕は彼女の眼をみた。加工された写真のような瞳だった。光ばかりが入っていて、なにも捉えることのないような瞳だった。グラスの中の氷がカランと音を立てた。
「ありがとう」僕は言った。「とにかく助かった」
「別に」
彼女はそう言って頬杖をついた。僕のスマホに勢いよくメッセージが入ったのはその時だった。軽い頭痛を引きずりながら画面を見ると、メッセージは恋人からのものだった。
「もういきなよ」彼女は僕の表情から何かを察したように言った。「待ち合わせでしょ」
「最後に名前を聞いても?」僕は席を立ちながら言った。
「透明ガール」
僕は黙って彼女を見た。
「変だと思う?」
「イメージ通りだなと」
「どんなイメージ?」
「クリアで、遠い」
一瞬、ほんの一瞬だけ透明ガールの表情が揺れた。僕がそこから何かを読み取る前にそれは消えてしまっていた。そうして僕は店を出た。自動ドアをくぐりその日の最盛を誇る陽の光を浴びながら店内を振り返った時、僕の居た席はすでに空になっていた。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
日傘を揺らしながら駆け寄ってくる恋人を僕はヘラクレスのブロンズ像の前で出迎えた。夏らしい色のワンピースにはまだ微かに冷房の空気が残っているようだった。
「涼しいところにいてくれてよかったのに」
「さっきまでそこのタリーズにいたよ」
僕はヘラクレスの弓の先を見た。空には何もない。
「怒ってる?」
恋人は不意にそう聞いた。
「いいや」僕は首を振った。「どうして?」
「待たせちゃったから」
「そんなことないよ」
僕は恋人に向かって微笑んで見せた。恋人はそれで一応は納得したようだった。その表情から不安げな影がすっと晴れた。僕らは連れ立ってチケットカウンターに並んだ。ほんの短い時間だったが平日に企画展のチケットを手に入れるにしては長い時間だった。そしてその間中、僕は恋人のする話を聞きながらぼんやりと彫刻の並ぶ前庭を眺めていた。
「ねえ今何考えてるの?」
僕の手を握りながら、恋人がふとそんなことを聞いた。握られたことに時間がかかるような握り方だった。
「二次方程式のこと」
「なんで? 文系なのに」
「なんでだろう」
僕はそう言ってもう一度ヘラクレスが見据える先に視線をやった。青い空に放たれる矢の放物線がはっきり見える。側頭部にはまだ鈍い痛みが残っていた。
八月になってから僕は明日というものを失っていた。そして時刻表のないバス停でバスを待ち続けているような日々を送っていた。しばらくの間はその原因を特定しようと躍起なっていた。ただ結局、それは解く事の出来ない様々な事象の絡み合いでとても説明に耐えうるものでは無かった。だから僕は原因を尋ねられた時決まって「空が青かった」と言っていた。多くの人間は僕がそう言うと怪訝な顔をした。僕とて理解されることを求めてはいなかったのでそこで話を辞めた。八月というのが健康的に過ごすには青すぎたということだった。
またその頃、僕は何かというとそうして断捨離まがいのことをしていた。きっかけは多分同窓会だった。特に目立ったトラブルも、センセーショナルなイベントもない。行っても行かなくてもいいようなタイプの同窓会だった。基本的には滞りなく、楽しい時間を過ごしていたと思う。ただ、自分がひどく間違ったところにいるような感じがして、ただ多くの時間を漠然と帰りたいという思いが纏わりついていた。それは疎外感のようでいて少し違っていた。割り算の答えで一だけ余りが出てしまうような状況に似ていた。
それで僕はその余りを排しようと考えた。一の余りを無くすためには、結局割られる数を変えていくしかなく、最初に思いついたのが断捨離だった。一定の成果はあったと思う。とりあえず部屋はすっきりとした。
そのうち日が傾いたので僕は外に出た。空の青さが随分落ち着いた頃だった。とても多くの人とすれ違いながら僕は足の向くままに歩いた。様々な表情がそこにあった。楽しそうなものから絶望的なものまで文字通りなんでもあった。そして皆共通してどこか疲れているようだった。
僕の足は駅の方へと向いていた。まるで僕だけが駅に向かっているようだった。頭上の雲さえも僕と逆の方へと流れて行った。駅前は朝の早い時間と同じくらい活発になっていた。賑やかで、楽し気だった。しかし何故だか僕はその中へ入っていけなかった。進めなくなった。溢れかえるスーツや制服の中に自分を溶かすことがはばかられた。漠然とした「帰りたい」という思いが僕の足を止めていた。ただ部屋にも戻りたくなかった。それで仕方なく僕は本屋に入った。本を捨てたばかりなのに本屋に入るのは気が進まなかった。
雑誌の棚を抜け、コミックの棚、新書の棚を抜け僕はようやく壁と一体化した店の最奥の棚の前に辿り着いた。そこは入り口に比べて、というかほかのどの場所以上にシンとしていてまるで博物館や美術館のようだった。本たちは忘れ去られ、もう何百年もそこに在るように見えた。僕はその本の背表紙を人差し指でなぞった。冷たく滑らかな触感がした。そうしていると酸欠が解消されるように呼吸が楽になった。真っ白な背表紙の本は氷河や雪原のようにも見えた。
それだけに、本棚の真ん中にある隙間が鮮烈に目に留まった。それはたった本一冊分の隙間だった。整然とした文庫の並びに現れるそれはクレバスを思わせた。
僕はそのゴシック体の氷河の中に現れたクレバスにそっと手を入れてみた。冷たく、重かった。そこには平行線から無尽蔵に伝わってくる紙の圧力とどこまでも手を引き込んで行ってしまいそうな重力があった。僕はさらに、クレバスに指の付け根までの手を入れた。本棚の奥行などたかが知れているはずなのに、とても自分の手が奥の壁に近付いているとは思えなかった。
そのうちに手先以外のすべてが虚脱するように曖昧になった。僕はこの手は今、どこでもない所に行ってしまったのではないかという思いに襲われた。それは無限遠点に向かうようなものだった。明確にあるのに、とても遠い。本棚の壁はある直線を無限に行った先に現れる座標のように思えた。そしてこの感覚は僕が透明ガールに抱いたものと似ていた。
「何か探してるの?」
恋人が何冊かの本を抱えて僕の隣に立っていた。
「ううん」僕は本棚から手を抜いた。「みてただけ」
右手には何の変化も無かった。二十年ほど連れ添った僕の右手そのものだった。
「今日さ、泊っていってもいいかな?」
本の入ったビニール袋をしきりに持ち直しながら恋人は僕と腕を組んだ。重みと暖かさが伝わった。
「いいよ」僕は頷いた。「少し散らかってるけど」
「私よりましだよ。最近片づけしてるって言ってたじゃん」
「そうだけど」
空はすっかり暗くなっていた。辛うじてオレンジ色を保っていた西の空も今は夜の色になっており僕らの影はガス灯のようなデザインの街灯のLEDと色んな店の電飾につくられるものになっていた。
「付き合い始めた頃を思い出すね」
僕の腕にゆるく体重を掛けながら恋人はそう言った。
「あのときって十七——じゃない十八だ」[]
「そうだね」
「制服でさーこの道をよく一緒に帰ったよね」
僕は同意して見せた。
「その時にさ」恋人は軽く天を仰いだ。「君はよく空の話をしてたんだよ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「あんまり覚えてないや」
僕は殆ど覚えていなかった。その時の記憶も、そのもっと前の記憶も処分したばかりだった。ただそれでも、そう言われるならそうなんだろうという気がした。
「ねえ。今は何考えてるの?」
少しの間の沈黙の後、恋人は僕にそう聞いた。
「映画の事だよ」
「どんな映画?」
「つまらない映画」
僕は恋人に向かって微笑んだ。
「どのくらいつまらないの?」
「頭のおかしい男が頭のおかしくなりそうな目に遭う。劇場で見た観客は僕を入れて三人で一人は途中で退出したっきり帰ってこなくなったし、もう一人はずっと寝ていた。僕も見返した時には眠ってしまう」
「見てみたいかも」恋人はスマホで僕の言った映画のタイトルを調べながら言った。
「本当につまらないよ」
「それでもいいの」
そうして僕らは二人で、僕の部屋で映画をみた。半分もしないうちに僕も彼女も身を寄せ合って眠ってしまった。
「それが私にとってなんだと言うの?」
僕の話を聞き終えた透明ガールは、コインランドリーのパイプ椅子に座って足を組んでそう言った。僕は答えなかった。言葉を探していたからだった。外からは激しい雨の音がする。局所的な豪雨だった。沈黙が流れた。ランドリーは回転する洗濯機の大きな音と、それらが発する機械的で生物味のない熱で満ちていた。どの洗濯機にもビニールのバッグが掛けてあった。洗濯機のいくつかは回り続けていて、いくつかは止まっていた。だが誰かが洗濯物を取りに来る気配は無かった。
「あなたは今、何を考えているの?」透明ガールは言った。
「絵画のこと」僕は答えた。
「絵画?」
「夢みたいな世界を描く画家がいて、とても立体を平面的にとらえた絵を描く。その画家の描いた肖像画がとても不思議な感じのするものなんだ」
僕はそこで言葉を切った。
「そういうワンセンテンスを考えている」
彼女は何も言わなかった。
「なにも考えてない。でも『なにも考えてない』とは答えられないからこうして何か言うし、そのために、映画を見て、絵を見て、本を読んでる」
「質問を変える」
透明ガールは言った。
「どうなりたいの?」
「空に落ちていきたい」
「飛びたい、じゃなくて」
「ここからいなくなりたいんだよ」僕は言った。
「私みたいに?」
「そう」
透明ガールは組んでいた足を解いた。ジャージのような短パンに何かのバンドのTシャツを着ていた。コインランドリーらしい格好だった。
八月になって僕は入り組んだところに行ってしまっていた。後にして思えばいろんなものを抱えすぎて、その選択を誤った。そのために僕は積んできた過去に耐え切れず断捨離を続け、バス停に立っていることもできなくなった。そしてもうここにいることさえできなくなりそうだった。頭にはずっと「ここにいてはいけない」「ここはふさわしくない」という声がしていて、帰りたいという思いが終始僕を支配していた。短いアラームが鳴ってまた一つ洗濯機が止まった。
「もう一回聞くけど」透明ガールは僕を見た。「あなたは今、何を考えているの?」
「君のようになる方法」
「そう」
彼女はゆっくり立ち上がった。
「目を閉じるより簡単だよ」
目を閉じる。僕はそう繰り返した。或いは呼吸を止めるより、そしてつま先から歩くより。それは僕にとって自分を微分することであり、今を放棄することだった。
そうすると明確に世界と自分の境界が出現した。そして少しづつ僕は世界から剥離されていき、と同時に世界は緩やかに減速した。
体には感覚が残っていた。意識も残っていた。それでいながら自分はそこにいなかった。世界とその境界に拒絶されながら、その拒絶に逆らわらない。目覚めたまま眠りに落ちるような、四次元の立体を三次元に投射するような歪なところに行きついた。そんな四元数の掛け算のような中で秩序と脈絡は喪失し僕はヘラクレスの弓の射線に立っていた。
青かった。眩しいほどに青かった。そうして空に落ちていながら僕はブロンズ像の隣にあり、恋人と会話をし、ヘラクレスを見、ヘラクロスに見られていた。
殆どが青く塗りつぶされていった。そんなすべてを喪失した真っ青な虚空の中の生活を僕は夏の間中続けた。そして僕は何度か、橋の上で透明ガールとすれ違った。ただお互いに目を合わせることは無かった。
「ねえ、何を考えているの?」
恋人が僕の手を握りながらそう言った。
「君のことだよ」
そう言いながら僕は自分が青く塗られていくのが分かった。僕らは性交していた。夜だった。つけたままのテレビからタイトルもわからない映画が流れ続けている。輪郭の世界の中でシーツがはだけ、仰向けの恋人の正中線が露わになっている。
体には接触の感触があった。恋人の手が僕の背中に回った。
「何を考えているの?」
恋人はもう一度聞いた。
「昔読んだ本の事」僕は答えた。
「どんな?」
「同じようなことの繰り返しだった。主人公も同じように誰かを抱いていた」
そう言い終わらないうちに恋人は僕を抱き寄せた。
目を覚ますと恋人はもういなかった。きっと置いてあった着替えや下着や歯磨き、メイク道具なんかも消えているんだろうと思った。整然としてしまった僕の部屋からはそういう離別の匂いがしていた。
僕は起き上がって服を着た。まだ朝の早い時間だった。もう三十分もすれば駅前が活発になる頃だった。僕はとりあえず顔を洗ってそれから冷やして置いた水を飲んだ。
ベッドルームに戻るとそこには透明ガールがいた。
「おはよう」
僕は床に落ちたブランケットをベッドの上に投げながら言った。
「驚かないんだ」
「驚かないよ」
そして僕はベッドに腰掛けて枕を抱きかかえた。
「君はどこにだっているんだろ?」
「そうね」
彼女はそう言ってカーテンを開いた。薄く溶いた絵の具のような太陽の光が音も無く入り込んできた。
「行ってみたんだ」窓の外の遠くを見ながら彼女は言った。
「でも、帰って来た」僕は頷いてそう言った。「夏も終わるしね」
透明ガールは何も言わなかった。代わりに窓を大きく開いた。冷たく、心地のいい風がスレた部屋の空気を入れ替えるようにかき混ぜた。
「君はどうするんだ?」
「私は帰らないよ」彼女は僕を見た。「帰るところは君がなくしちゃったから」
「そっか」
「そうだよ」
そう言って透明ガールは初めて微笑んだ。夢のような微笑みだった。そうして彼女はそこから消えた。というか初めからそこには誰もいなかった。この夏、僕は色んなものを切り離した。どうやらその過程で透明ガールの帰る場所も何処かへやってしまったらしい。その挙句僕は、向こう側にもいられなかった。今更になって目覚ましが鳴った。人を不快にさせる音だった。
「ああ」
揺れるカーテンの向こうから電車の警笛の音がした。
「帰りたいな」
ほとんどの物がなくなった部屋で僕の声は溶け切らずに漂い続けた。
僕が彼女を初めて目にしたのは七月に入ったばかりの新宿駅だった。彼女は十四番線のホームから線路を二本挟んだ先となる十五番線のホームの上、ちょうど僕の視線の先端にいた。その日は日曜日でホームはどこも接触を伴わず人とすれ違うことが不可能な程に混雑していた。
そんな中に彼女は静かに立っていた。よく見ると急流が岩に当たって砕けるように彼女の直前で人波は分かれ、そして彼女を超えた先でまた一つになる。まるで誰もがそこにある何かを避けるようにして暗黙のうちに進路を変えていく。彼女自体はありふれた存在に見えた。タイトな夏らしいTシャツにシースルーのロングスカート、少し長い髪。五月頃から大学の構内で掃いて捨てる程見てきたスタイルだった。それでも彼女は世界から浮いていた。浮いている、というよりもそこに何も無いように透過されている。ゲームのキャラクターが見えない壁にぶつかって進路を変えていくさまに似ていた。僕がそうして彼女を眺めていた時間は十秒にも満たない。次の瞬間には彼女と目が合った。そしてけたたましい警笛と共に山手線がホームに滑り込んできた。
「目を閉じるよりも簡単だよ」
次に僕が彼女に会ったのは二週間と少し後の上野でのことだった。彼女は空になったグラスの縁を撫でながら言った。
「それか呼吸を止めるより」
冷房の当たりすぎるタリーズの席に向かい合うようにして僕達は座っていた。その日、僕は恋人と会う約束をしていた。ただ恋人が色々あって待ち合わせに遅れるというので僕はあてもなく上野公園を歩こうと思った。しかし公園は危険なほど暑く、五分も歩かないうちに滝のように汗が噴き出、平衡感覚がおかしくなった。僕はどこか涼しい場所に移動しようと思った。そんな時に彼女が視界の端に現れた。彼女はあの日と同じようにただ静かに国立西洋美術館の前庭にある彫刻を見上げていた。相変わらず人々の波から浮いていて、直射日光さえ彼女を熱することなく通り抜けているように見えた。
僕は引き寄せられるようにして彼女に近付いていった。彼女がいたのは弓を引くヘラクレスのブロンズ像の前だった。怪鳥ステュムファリデスを射んとして大きく引かれた弓。ただその先には怪鳥の姿などなく、吸い込まれそうな青い虚空が広がっている。起伏に富み、緊張するヘラクレスの肉体。ただ立ってそれを見上げる彼女。生物感のない空間がそこにはあった。一歩一歩、近づいているはずの彼女はその度に遠ざかっていくようにその希薄性を増していった。やがて僕は彼女の隣に立った。
「目を閉じるよりも簡単だよ」
目を閉じる。僕はそう繰り返した。ただそれが何の話か理解できたのは随分先の事だった。その日、彼女は第一ボタンまでキチンと留めたシャツで髪を後ろで一纏めに束ねていた。
彼女を目の前にすると改めて、彼女が透明でもなければ浮遊しているわけでもないことが実感できた。考えるまでもなく当たり前のことだった。でも、もし彼女に「私は空の上から来た」と言われれば僕はその言葉を信じざるを得なくなるような気がした。逆光になる照明の中にいる彼女はレンブラントの絵画のように陰影が対立し鮮明でありながらどこか希薄で曖昧だった。
「具合はどう?」
僕は軽い熱中症になっていて、それに気が付いたのは倒れる寸前になってからだった。
「まあ大丈夫にはなりました」
タリーズでグラスのアイスティーを一気に飲み干して、僕は彼女の眼をみた。加工された写真のような瞳だった。光ばかりが入っていて、なにも捉えることのないような瞳だった。グラスの中の氷がカランと音を立てた。
「ありがとう」僕は言った。「とにかく助かった」
「別に」
彼女はそう言って頬杖をついた。僕のスマホに勢いよくメッセージが入ったのはその時だった。軽い頭痛を引きずりながら画面を見ると、メッセージは恋人からのものだった。
「もういきなよ」彼女は僕の表情から何かを察したように言った。「待ち合わせでしょ」
「最後に名前を聞いても?」僕は席を立ちながら言った。
「透明ガール」
僕は黙って彼女を見た。
「変だと思う?」
「イメージ通りだなと」
「どんなイメージ?」
「クリアで、遠い」
一瞬、ほんの一瞬だけ透明ガールの表情が揺れた。僕がそこから何かを読み取る前にそれは消えてしまっていた。そうして僕は店を出た。自動ドアをくぐりその日の最盛を誇る陽の光を浴びながら店内を振り返った時、僕の居た席はすでに空になっていた。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
日傘を揺らしながら駆け寄ってくる恋人を僕はヘラクレスのブロンズ像の前で出迎えた。夏らしい色のワンピースにはまだ微かに冷房の空気が残っているようだった。
「涼しいところにいてくれてよかったのに」
「さっきまでそこのタリーズにいたよ」
僕はヘラクレスの弓の先を見た。空には何もない。
「怒ってる?」
恋人は不意にそう聞いた。
「いいや」僕は首を振った。「どうして?」
「待たせちゃったから」
「そんなことないよ」
僕は恋人に向かって微笑んで見せた。恋人はそれで一応は納得したようだった。その表情から不安げな影がすっと晴れた。僕らは連れ立ってチケットカウンターに並んだ。ほんの短い時間だったが平日に企画展のチケットを手に入れるにしては長い時間だった。そしてその間中、僕は恋人のする話を聞きながらぼんやりと彫刻の並ぶ前庭を眺めていた。
「ねえ今何考えてるの?」
僕の手を握りながら、恋人がふとそんなことを聞いた。握られたことに時間がかかるような握り方だった。
「二次方程式のこと」
「なんで? 文系なのに」
「なんでだろう」
僕はそう言ってもう一度ヘラクレスが見据える先に視線をやった。青い空に放たれる矢の放物線がはっきり見える。側頭部にはまだ鈍い痛みが残っていた。
八月になってから僕は明日というものを失っていた。そして時刻表のないバス停でバスを待ち続けているような日々を送っていた。しばらくの間はその原因を特定しようと躍起なっていた。ただ結局、それは解く事の出来ない様々な事象の絡み合いでとても説明に耐えうるものでは無かった。だから僕は原因を尋ねられた時決まって「空が青かった」と言っていた。多くの人間は僕がそう言うと怪訝な顔をした。僕とて理解されることを求めてはいなかったのでそこで話を辞めた。八月というのが健康的に過ごすには青すぎたということだった。
またその頃、僕は何かというとそうして断捨離まがいのことをしていた。きっかけは多分同窓会だった。特に目立ったトラブルも、センセーショナルなイベントもない。行っても行かなくてもいいようなタイプの同窓会だった。基本的には滞りなく、楽しい時間を過ごしていたと思う。ただ、自分がひどく間違ったところにいるような感じがして、ただ多くの時間を漠然と帰りたいという思いが纏わりついていた。それは疎外感のようでいて少し違っていた。割り算の答えで一だけ余りが出てしまうような状況に似ていた。
それで僕はその余りを排しようと考えた。一の余りを無くすためには、結局割られる数を変えていくしかなく、最初に思いついたのが断捨離だった。一定の成果はあったと思う。とりあえず部屋はすっきりとした。
そのうち日が傾いたので僕は外に出た。空の青さが随分落ち着いた頃だった。とても多くの人とすれ違いながら僕は足の向くままに歩いた。様々な表情がそこにあった。楽しそうなものから絶望的なものまで文字通りなんでもあった。そして皆共通してどこか疲れているようだった。
僕の足は駅の方へと向いていた。まるで僕だけが駅に向かっているようだった。頭上の雲さえも僕と逆の方へと流れて行った。駅前は朝の早い時間と同じくらい活発になっていた。賑やかで、楽し気だった。しかし何故だか僕はその中へ入っていけなかった。進めなくなった。溢れかえるスーツや制服の中に自分を溶かすことがはばかられた。漠然とした「帰りたい」という思いが僕の足を止めていた。ただ部屋にも戻りたくなかった。それで仕方なく僕は本屋に入った。本を捨てたばかりなのに本屋に入るのは気が進まなかった。
雑誌の棚を抜け、コミックの棚、新書の棚を抜け僕はようやく壁と一体化した店の最奥の棚の前に辿り着いた。そこは入り口に比べて、というかほかのどの場所以上にシンとしていてまるで博物館や美術館のようだった。本たちは忘れ去られ、もう何百年もそこに在るように見えた。僕はその本の背表紙を人差し指でなぞった。冷たく滑らかな触感がした。そうしていると酸欠が解消されるように呼吸が楽になった。真っ白な背表紙の本は氷河や雪原のようにも見えた。
それだけに、本棚の真ん中にある隙間が鮮烈に目に留まった。それはたった本一冊分の隙間だった。整然とした文庫の並びに現れるそれはクレバスを思わせた。
僕はそのゴシック体の氷河の中に現れたクレバスにそっと手を入れてみた。冷たく、重かった。そこには平行線から無尽蔵に伝わってくる紙の圧力とどこまでも手を引き込んで行ってしまいそうな重力があった。僕はさらに、クレバスに指の付け根までの手を入れた。本棚の奥行などたかが知れているはずなのに、とても自分の手が奥の壁に近付いているとは思えなかった。
そのうちに手先以外のすべてが虚脱するように曖昧になった。僕はこの手は今、どこでもない所に行ってしまったのではないかという思いに襲われた。それは無限遠点に向かうようなものだった。明確にあるのに、とても遠い。本棚の壁はある直線を無限に行った先に現れる座標のように思えた。そしてこの感覚は僕が透明ガールに抱いたものと似ていた。
「何か探してるの?」
恋人が何冊かの本を抱えて僕の隣に立っていた。
「ううん」僕は本棚から手を抜いた。「みてただけ」
右手には何の変化も無かった。二十年ほど連れ添った僕の右手そのものだった。
「今日さ、泊っていってもいいかな?」
本の入ったビニール袋をしきりに持ち直しながら恋人は僕と腕を組んだ。重みと暖かさが伝わった。
「いいよ」僕は頷いた。「少し散らかってるけど」
「私よりましだよ。最近片づけしてるって言ってたじゃん」
「そうだけど」
空はすっかり暗くなっていた。辛うじてオレンジ色を保っていた西の空も今は夜の色になっており僕らの影はガス灯のようなデザインの街灯のLEDと色んな店の電飾につくられるものになっていた。
「付き合い始めた頃を思い出すね」
僕の腕にゆるく体重を掛けながら恋人はそう言った。
「あのときって十七——じゃない十八だ」[]
「そうだね」
「制服でさーこの道をよく一緒に帰ったよね」
僕は同意して見せた。
「その時にさ」恋人は軽く天を仰いだ。「君はよく空の話をしてたんだよ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「あんまり覚えてないや」
僕は殆ど覚えていなかった。その時の記憶も、そのもっと前の記憶も処分したばかりだった。ただそれでも、そう言われるならそうなんだろうという気がした。
「ねえ。今は何考えてるの?」
少しの間の沈黙の後、恋人は僕にそう聞いた。
「映画の事だよ」
「どんな映画?」
「つまらない映画」
僕は恋人に向かって微笑んだ。
「どのくらいつまらないの?」
「頭のおかしい男が頭のおかしくなりそうな目に遭う。劇場で見た観客は僕を入れて三人で一人は途中で退出したっきり帰ってこなくなったし、もう一人はずっと寝ていた。僕も見返した時には眠ってしまう」
「見てみたいかも」恋人はスマホで僕の言った映画のタイトルを調べながら言った。
「本当につまらないよ」
「それでもいいの」
そうして僕らは二人で、僕の部屋で映画をみた。半分もしないうちに僕も彼女も身を寄せ合って眠ってしまった。
「それが私にとってなんだと言うの?」
僕の話を聞き終えた透明ガールは、コインランドリーのパイプ椅子に座って足を組んでそう言った。僕は答えなかった。言葉を探していたからだった。外からは激しい雨の音がする。局所的な豪雨だった。沈黙が流れた。ランドリーは回転する洗濯機の大きな音と、それらが発する機械的で生物味のない熱で満ちていた。どの洗濯機にもビニールのバッグが掛けてあった。洗濯機のいくつかは回り続けていて、いくつかは止まっていた。だが誰かが洗濯物を取りに来る気配は無かった。
「あなたは今、何を考えているの?」透明ガールは言った。
「絵画のこと」僕は答えた。
「絵画?」
「夢みたいな世界を描く画家がいて、とても立体を平面的にとらえた絵を描く。その画家の描いた肖像画がとても不思議な感じのするものなんだ」
僕はそこで言葉を切った。
「そういうワンセンテンスを考えている」
彼女は何も言わなかった。
「なにも考えてない。でも『なにも考えてない』とは答えられないからこうして何か言うし、そのために、映画を見て、絵を見て、本を読んでる」
「質問を変える」
透明ガールは言った。
「どうなりたいの?」
「空に落ちていきたい」
「飛びたい、じゃなくて」
「ここからいなくなりたいんだよ」僕は言った。
「私みたいに?」
「そう」
透明ガールは組んでいた足を解いた。ジャージのような短パンに何かのバンドのTシャツを着ていた。コインランドリーらしい格好だった。
八月になって僕は入り組んだところに行ってしまっていた。後にして思えばいろんなものを抱えすぎて、その選択を誤った。そのために僕は積んできた過去に耐え切れず断捨離を続け、バス停に立っていることもできなくなった。そしてもうここにいることさえできなくなりそうだった。頭にはずっと「ここにいてはいけない」「ここはふさわしくない」という声がしていて、帰りたいという思いが終始僕を支配していた。短いアラームが鳴ってまた一つ洗濯機が止まった。
「もう一回聞くけど」透明ガールは僕を見た。「あなたは今、何を考えているの?」
「君のようになる方法」
「そう」
彼女はゆっくり立ち上がった。
「目を閉じるより簡単だよ」
目を閉じる。僕はそう繰り返した。或いは呼吸を止めるより、そしてつま先から歩くより。それは僕にとって自分を微分することであり、今を放棄することだった。
そうすると明確に世界と自分の境界が出現した。そして少しづつ僕は世界から剥離されていき、と同時に世界は緩やかに減速した。
体には感覚が残っていた。意識も残っていた。それでいながら自分はそこにいなかった。世界とその境界に拒絶されながら、その拒絶に逆らわらない。目覚めたまま眠りに落ちるような、四次元の立体を三次元に投射するような歪なところに行きついた。そんな四元数の掛け算のような中で秩序と脈絡は喪失し僕はヘラクレスの弓の射線に立っていた。
青かった。眩しいほどに青かった。そうして空に落ちていながら僕はブロンズ像の隣にあり、恋人と会話をし、ヘラクレスを見、ヘラクロスに見られていた。
殆どが青く塗りつぶされていった。そんなすべてを喪失した真っ青な虚空の中の生活を僕は夏の間中続けた。そして僕は何度か、橋の上で透明ガールとすれ違った。ただお互いに目を合わせることは無かった。
「ねえ、何を考えているの?」
恋人が僕の手を握りながらそう言った。
「君のことだよ」
そう言いながら僕は自分が青く塗られていくのが分かった。僕らは性交していた。夜だった。つけたままのテレビからタイトルもわからない映画が流れ続けている。輪郭の世界の中でシーツがはだけ、仰向けの恋人の正中線が露わになっている。
体には接触の感触があった。恋人の手が僕の背中に回った。
「何を考えているの?」
恋人はもう一度聞いた。
「昔読んだ本の事」僕は答えた。
「どんな?」
「同じようなことの繰り返しだった。主人公も同じように誰かを抱いていた」
そう言い終わらないうちに恋人は僕を抱き寄せた。
目を覚ますと恋人はもういなかった。きっと置いてあった着替えや下着や歯磨き、メイク道具なんかも消えているんだろうと思った。整然としてしまった僕の部屋からはそういう離別の匂いがしていた。
僕は起き上がって服を着た。まだ朝の早い時間だった。もう三十分もすれば駅前が活発になる頃だった。僕はとりあえず顔を洗ってそれから冷やして置いた水を飲んだ。
ベッドルームに戻るとそこには透明ガールがいた。
「おはよう」
僕は床に落ちたブランケットをベッドの上に投げながら言った。
「驚かないんだ」
「驚かないよ」
そして僕はベッドに腰掛けて枕を抱きかかえた。
「君はどこにだっているんだろ?」
「そうね」
彼女はそう言ってカーテンを開いた。薄く溶いた絵の具のような太陽の光が音も無く入り込んできた。
「行ってみたんだ」窓の外の遠くを見ながら彼女は言った。
「でも、帰って来た」僕は頷いてそう言った。「夏も終わるしね」
透明ガールは何も言わなかった。代わりに窓を大きく開いた。冷たく、心地のいい風がスレた部屋の空気を入れ替えるようにかき混ぜた。
「君はどうするんだ?」
「私は帰らないよ」彼女は僕を見た。「帰るところは君がなくしちゃったから」
「そっか」
「そうだよ」
そう言って透明ガールは初めて微笑んだ。夢のような微笑みだった。そうして彼女はそこから消えた。というか初めからそこには誰もいなかった。この夏、僕は色んなものを切り離した。どうやらその過程で透明ガールの帰る場所も何処かへやってしまったらしい。その挙句僕は、向こう側にもいられなかった。今更になって目覚ましが鳴った。人を不快にさせる音だった。
「ああ」
揺れるカーテンの向こうから電車の警笛の音がした。
「帰りたいな」
ほとんどの物がなくなった部屋で僕の声は溶け切らずに漂い続けた。