電光掲示板に幼なじみだったアイツの名前を見た。
それは「芥川賞」と言う言葉で煌びやかに脚色されていたアイツの名前が、本の装丁にピントが合わないほど私の目にはよく映った。
私が今どんな顔をしているのか、自分でもわからなかった。
笑っていたかもしれないし、その逆だったかもしれない。
手に持ったスーパーの袋は、落としたかもしれない。ああくそ、今日は卵、安かったのに。
眩暈がしていた。立ち眩みかもしれなかった。あ、いや、目から涙が出ていたんだ。何故だか前が霞んで見えなくなろうとしているから、きっとそうに違いない。いや、やっぱり違うかもしれない。網膜か水晶体か、それとも錐体細胞か。とにかく私の中の何かが目の前の事実を受け入れないように視界に霧をかけているのかもしれなかった。
……。
なんでだろう、足が動こうとしている。肩が家の方角を向こうとしている。手は落とした袋を拾おうとしている。頭が前を向こうとしている。
私の身体は『それ』を見ることを拒否しようとしている。身体が私に嘘をつこうとしている。見なかったことにしようとしている。まるで今見ているのがなんの面白味もない、取るに足らない広告であるかのように。
それでも、私は目だけは逸らさずに、ただただその名前を見続けていた。目を凝らすでもなく、睨むでもなく、楽しむでもなく、驚くでもない。普段の私にとってはこんなの、流行り物やニュースを表示するだけの機械なはずなのに。
眼球だけが何度も何度も同じところ、一人の名前を反復していた。
多分『私』だけはちゃんと向き合おうと抗っていたんじゃないだろうか。或いは目の前の事実が受け入れられないだけなのか。きっと後者なんだろうな。
……小説を書いていた。
私も小説を書いていたんだ。
人一倍に劣等感の強い私に、もう顔も名前も見ることはないだろうと思っていたアイツは、本当に一方的に、本当に最悪な形で私に再会を強要した。
「……帰ろう」
ようやく絞り出した朽ちたような声は、棺を求めて夜の何処かへ歩き出した。
仕事は休もうと一瞬考えたがなんとか行く決心をした。とてもじゃないが知っている人が賞を獲ってしまったので休みますとは、冗談だとしても言えない。
床から引き剥がすようになんとか躯体を持ち上げる。泥が纏わり付いたみたいに重かった。骨が軋む音が粘着質なガムテープを剥がした時みたいに鳴って、それが若さを否定しているみたいで少しだけ気分が沈んだ。やけに目がしばしばとしたので泣いてしまったんじゃないかと思ったが、ただの気のせいだった。
認めたくなかったものを一度でも認めてしまうとその後は嫌でも目につくようになる。昨日は街の電光掲示板だけのものだったのが、今日になると朝のテレビ、電車の広告、そしてコンビニの雑誌コーナー。まるで街全体があいつを祝福して、凱旋を今か今かと待っているようだった。
「五百三十円になります」
私は財布からお金を取り出して店員の目の前に差し出そうとすると、店員はまたか、と言いたそうな顔で「会計はこちらでお願いします」と言って手でレジの横の精算機を指した。家の近くのコンビニではまだ手渡しで会計しているので、いつの間にか変わっていたことに「あっ」と声が出る。時代に取り残された感覚を覚えながら、そそくさと慣れない手つきで機械に六百円を突っ込む。すると機械は無機質な音を伴って、レシートと七十円と乾いた口調の「ありがとうございました」を吐き出した。
コンビニを出ようとして、もう一度「あっ」と声が出る。
ワゴンというか、小さめのテーブルの上には「芥川賞受賞作家はココ、仙台市出身です!!!」と大層な手書きのポップを背に、アイツの本が目一杯に平積みされていた。
これは店長の趣味だろうか。なんとなく想像していたことではあったが、いざ見るとどうしても身体が硬直してしまった。
傍目から見ると、まるで私がその本に目を惹かれているように見えてるかもしれない。よくモニタリング調査のCMとかで見るシチュエーションだ。でも私の心境はむしろその逆。だけど私は気づかないふりをして、その奥のホットスナックを一瞥してからコンビニを出た。景気の良いメロディを振り撒く自動ドアの音すら不快だった。
少し街を歩いただけでもこれだ。職場ではさぞ騒々しい感じになっているんだろうという私の予想は当たらずとも遠からずという結果で、主にその原因は、私の同僚の松本にあった。
「そうなんですよ! 賞の発表のときもすぐに連絡くれて」
松本は意気揚々と他の同僚たちに自慢話を披露していた。内容も大方想像通りだった。
彼女は私やアイツと同じ高校に通っていた。松本は当時からアイツと親しくしており、教室でもよく一緒のグループで談笑していた。当時の私は、二人が同じ進路に進むものだと思っていたが、アイツは東京の私大、松本は地元の公立へ進学した。すべて私が隣の席から盗み聞きした情報である。正確には、松本たちが私の隣で勝手に喋っていただけだが。
私といえば、そういったグループには所属することなく、一人でひっそりと本を読んだりしていた。もうこいつらと会うことはないんだろうなと思っていたが、私と松本は今の職場で奇しくも偶然の再会を果たした。最初、私は松本の顔を忘れていたが、向こうから話しかけられて気付くに至った。彼女のような分け隔てない雰囲気の人はあまり出会ったことがなかったからだ。
松本は、仕事はもちろん話を回す力に長けていて、昼休みでも談笑の中心にいることが多かったのだが、今回はさらに輪をかけて話の中心にいた。自分の友人が、誰でも知っている程の有名な賞をとったのだ。話を聞きたいやつだっているだろうし、今自慢しないでいつ自慢するって言うんだ。
「でも本当に良かったですよ」
そう言って松本は心底嬉しそうな表情をつくった。
「昔から勉強もできたしスポーツにも強くて、だからこそいわゆる『ちゃんとした大学』に行くと思ってたので。作家になるって言った時はだいぶ周囲と揉めてて、だから昨日連絡貰った時は……ほんとに、友達冥利に尽きるってもんですよね……」
そう話す松本の目には薄く涙が浮かんでいる。彼女の話を、周りの同僚たちは自分のことのように聞き入っていた。やや湿っぽい職場の空気を尻目に、私は私の仕事に取り掛かることにした。松本が騒がしくなるのはいつものことだ。少しうるさくなる分には構わないし、私から彼女に対して何かアクションを起こしに行くこともないが、今日は少々話題が悪い。唯一の懸念は、彼女が、高校が一緒という共通点しかない私にその話題を振ってくるということだった。悪意のない善意は、劣等感はより浮き彫りしていく。今の私にアイツの話題を捌ける自信はあまりなかった。
しかしそういったこともなく、私の懸念は杞憂となった。そういう良識が彼女にもあって良かったと心から思う。職場はお祝いムードの中で朝礼を迎えようとしていた。
「あ、そういえば、浅井さんも同じ高校なんだよね」
職場の誰かがそんなことを口走った。井戸端会議の住人たちが一斉にこちらへ視線を向けて来る。
まあ、こうなるか。なんで知ってるんだとか、同じ高校だからってなんだって言うんだとか、いろんな考えが頭を走り回った結果、私は久しぶりに意図的な無視を決行した。そういう奇怪な視線。それにこの身を突き刺されたまま私はやり返すこともせずに沈黙していた。
「そうだけど、浅井さんはあんまり知らないと思うよ? クラスも違かったから」
ここで、意外にも松本が少し困った顔をして二の句を継いだ。
「ね? 浅井さん」
思わず手が止まってしまう。
なぜ、私にしか分からない嘘をついたんだろうと考えて、助け舟を出してくれたことに気づいた。
黙ったまま首肯する。言外に「話しかけるな」と念を込めて。
視線たちはあるべきところへ帰って行き、職場は再び騒々しくなったが、すぐに部長が入ってきて話し声は止み、そのまま朝礼が始まり、そしてまた今日も慌ただしく業務が始まった。
今日の仕事は打ち込み。会社の社報のレイアウトに、渡された原稿の文字を入れるだけの簡単なもの。課されていたタスクが他よりも一足先に終わっていたので、暇なら、と部長から頼まれていたものだ。暇じゃないし、正直、機械にやらせろよだとか本当にゴミみたいな仕事だとか感じていたけど、逆にそれがいい仕事をしてくれた。感情を無くして機械になれれば、心も小説も忘れられると思った。
仕事終わり、松本に飲みに誘われた。
最初はその意図がわからず、いつものように断ろうと思ったが、朝礼で恩を売られていたこともあり、止むに止まれずついて行くことにした。
着いたのは私たちの会社が飲み会なんかでよく使っているお店だった。店に入った私は上着を脱ぎながらカウンターに座り、カルピスサワーを注文する。松本は酎ハイだった。お酒が運ばれて来るまでの間、松本が話を切り出した。
「読んだ? 小説」
なんだ、結局したいのはその話か。まあおおよそ予想していたことではあるが。
「いえ、まだ。そっちは……まあ、読んでますよね」
朝の時の熱にまだ浮かされているのか、松本は朗らかに「うんっ」と弾んだ声で答えた。
作品が刊行されてから賞が発表されるまでにはやや期間の空きがある。発表前の時期になると、書店は賞の候補作が出揃って色めき立つ。そんなものを見ても焦燥感と劣等感を覚えるだけなので、基本的にその時期は私が書店に寄り付くことはない。アイツの作品が本になっていたことすら、私は知らなかった。だからこそ、昨日の電光掲示板は、数段重い衝撃を与えたのだ。
「どうでしたか」
気の進まない話題だけど、彼女に話して貰うためにあえて掘り下げるような返事をした。
「それがさあ、すごい面白いの」
「……そうですか」
「最初はアイツが書いたって信じられなかったよ。アイツっぽくないというか、アイツからああいう言葉が出てくるんだなあって、びっくりしちゃった。でも最後はすっごく考えさせられて、私も主人公のその後みたいなのをまるで自分のことみたいに考えちゃったんだよね。あ、あんまり喋っちゃうとネタバレか」
松本はお酒が運ばれてきたのにも関わらず、意気揚々とアイツの話をしている。
「浅井も読んでみたらいいよ」
そんな無責任なことを言って松本は酎ハイをぐいっと呷る。倣って私もグラスに口をつけた。カルピスらしい控えめな甘さが口の中に広がって、すぐ後からアルコール特有の昂揚をもたらした。私はこのなりで酔いやすいのだけれども、今日は体温が少しも上がらない。
「私は、いいです」
松本は一瞬眉をひそめたが、なにかを諦めたように「そっか」とだけ言って追加で唐揚げを注文した。
「あの」
口を開いたのは私だ。松本は不思議そうに首をかしげている。
「今日はありがとうございました。その、朝礼前の」
私は言い辛そうに告げると、彼女は数秒宙を見上げてはたと気付いたような仕草をした。
「ああ、あれね。うん、気にしないで」
「あの、今日はなんで誘ってくれたんですか?」
思いのほか反応が淡泊だったので、もう一つ、疑問に思っていたことをぶつけてみた。すると彼女は照れくさそうに頬を掻きながら答えてくれた。
「あはは、急にごめんね。さっきはそらしたけどさ、私も少し聞きたかったんだ」
聞きたかった、というのは、私の知っているアイツについて、ということだろうか。
「アイツが高校に入るまでは浅井と仲良かったって言ってたからさ。教えてよ。昔のアイツの話」
「特に面白い話なんて、何もないですよ」
「またまたぁ、なんでもいいから話してみなよぉ」
松本はお酒に弱いのか、早くも頬がすっかり赤く上気していた。
「……あんまり飲むと明日に響きますよ」
「いいのいいの、今日はおめでたい日なんだからぁ」
合点がいく部分もある。朝の話を聞く限り、松本はいまだにアイツと連絡をとっているようだった。もしかしたら昨日の発表に至るまで、松本はアイツに何かしら精神的なサポートをしていたんじゃないだろうか。松本は松本で、相談に乗っていた友人が無事に賞を獲れたということで緊張から解放されたのかもしれない。確かに乾杯の一つでもしたくなる。
それなら、どうして一緒に飲むのがアイツではなく、私なんだろうか。祝杯は本人と挙げるべきなんじゃないだろうか。まあ、アイツは今頃式典だなんだで忙しいんだろうから、きっと松本は手頃な私を飲みに誘って嬉しさを発散させたいのかもしれない、なんて無粋なことを考えた。
「昔は、アイツ、小説なんて書くような人じゃなかったんです」
「え、そうなの?」
「中学の、二年生くらいでしょうか。私が見よう見まねで書いてるのを、アイツが偶然見て同じくハマって」
「へぇ、え? ってことは浅井も小説書いてたの?」
「……はい。もう昔の話ですが」
一つ嘘をついた。
「じゃあ浅井はアイツの先生だったわけだ」
「そんな大層なものじゃないです」
言い切ったタイミングで唐揚げが到着する。松本が「あ、それわたしでーす」と言ったので店員さんは「おまちどおさまでーす!」と景気の良い掛け声とともに皿を置いた。私も何か食べようかなと思案していると「食べる?」と松本が皿を差し出しながら聞いてきた。唐揚げにはすでにレモンの汁がかけられている。「じゃあ、貰います」と言って一つを箸でつまみ上げ、施しを受けてばかりなのは気が引けたので私もチジミを注文して、サワーの入ったグラスを呷った。
「それで?」
「……いつの間にか私よりもたくさんの短編を書くようになってて、内容もだんだん面白くなっていったんです。それに反比例してというか、私は書かなくなっていきましたね」
「そっかあ」
息を吐くようにそう言って、松本は両手でグラスを持ちながら空を見つめた。きっと酔った頭で当時の幼いアイツのことを思い描いてるのだろう。
「アイツは、どんな話を書いてたの?」
「それは、直接聞いたらいいのでは」
「それがさあ、聞いても教えてくれないんだー。いっつも恥ずかしいからやだって言ってかわしてくるんだもん」
アイツの話。随分前に思い出すことすら何となく嫌になったところで記憶を断捨離してしまったからもう覚えていない。
「あっ」
ここで一つ、変な気が起こった。アイツの書いた話をもうほとんど覚えていないのだったら、わたしの物語を彼女に査定してもらおうという浅はかな企みだ。
「そうですね、もうあまり覚えていませんが」
自分の書いた話は驚くほど簡潔にすらすらと要約することが出来た。
「高校生の女の子が主人公なんですけど、ある日とある少女に出会うんです」
「その少女は心に傷を負っていて、そのせいで手で触れた他人を薔薇みたいに傷つけてしまう特殊な体質だったんです。そして少女と主人公は協力してその体質を直そうとするっていう、そういうお話です」
松本は興味深そうに私の話を聞いていた。
「へぇ」
「ごめんなさい、ありがちな話ですよね」
なんで謝ってるんだ私。
「アイツって、そういうファンタジーみたいな設定のも書けるんだ……」
言った後でドキリとした。私は、今のアイツがどんな話を書くのか知らない。昔は私もアイツも、似たり寄ったりなものばかり書いていたことしか覚えていなかったから、今のはとても迂闊で浅はかだったと反省する。別段、松本に怪しまれていなかったのが幸いだった。
「それで、最後はどうなるの?」
「それは、えっと」
思わず言葉に詰まる。
「すみません、忘れてしまいました」
「そっかー、残念」
実を言うと、私はこの小説を最後まで書き切ることが出来なかった。人物の決断を一本筋の通ったものに定めることが出来なかったのだ。この物語で、主人公とその少女は二つの選択を強いられる。一つは彼女の体質を完全に克服させ、普通の生活を送る結末。もう一つは少女がこの体質を受け入れ、これからも同じ生活を続けていくという結末。第三案を考え付くとか、そういうことをする前にこの物語の続きを考えるのはやめた。
私の書く話はいつもそんなものばかりで、自分でも笑えてしまうほど面白くなかった。
「でも、いつか読めるといいな」
純粋な彼女の言葉に、私は目を伏してしまった。
それは私の話す力が足りなかったのかもしれない。
ただ、いまの会話で「面白そう」という言葉を引き出せなかったことが少しだけ悔しくて、心の中ですら私は何も言えなかった。
「私も書いてみようかな、小説」
松本はぽつりと呟いた。
「それは、どうして」
「なーんか触発されちゃった。高校の時はあんまり惹かれなかったのに、なんでだろうね」
気持ちはわかる。誰かがその道で成功してると、自分にも出来てしまいそうな気がするものだ。その裏の事情や葛藤や積み重ねは見ないふりをして。もしくは、松本の場合は、単にアイツのこれまでを見てきた上での変化かもしれないが、到底、私には推し量ることが出来なかった。
「そうですか、頑張ってください」
「あれ、なんか冷たくない?」
「だって実際に書くか書かないかは、松本さんが決めることですので」
その時、携帯が鳴った。自分のかと思ったがどうやら違うらしい。私が気づくより先に松本は懐から携帯と取り出して操作しだした。
「よかった。もうすぐ着くみたい」
松本は嬉しそうに声を弾ませている。
「他に誰か来るんですか?」
携帯をしまった松本は、ジョッキを持って口をつけるところだった。
「ん? あ、そうそう。アイツ、今ちょうど近くにいるらしくて、来るか聞いたら来るって」
「……えっ」
珍しく素っ頓狂な声が鼓膜を打った。もちろん私の声だ。
「来るんですか? ここに?」
松本は何の気もなさそうに「うん」と返事をしてジョッキを煽った。
いや。いやいやいや。
聞いてない、そんなこと。
どうしてアイツがここに? まあ松本が呼んだのだろう。もしかしたらアイツの方から来ると言ったのかもしれない。私が来ることは伝えてあるのだろうか。いやそういうことじゃない。
「でも忙しいんじゃ」
「インタビューが今さっき終わったんだって。私のこと大好きかっての」
自分でもわかるくらいに鼓動がどんどん早くなって、私の頭は急激にアルコールを受け付けなくなっていく。かといって思考が冴えているわけでもなく、寧ろ私の顔は血の気が引いていた。
「浅井? 大丈夫?」
ああ、だめだ。
いま会ったら、きっといっぱいになってしまう。
「ごめんなさい、帰ります」
努めて平静を装いながら、そんな言葉をまるで呼吸する時と変わらないテンポで吐き出していた。
「え、待ってよ。もう帰っちゃうの?」
自然な口調で言えば咎めてこないだろうかなどと思ったがそんなわけがなかった。でもこちらとしても引き下がるわけにはいかない。アイツに会うことだけはどうしても避けたかった。
「いえ、私は特に話すことがないので」
「いや、そう言わずにさ。アイツと話していかないの?」
「ほんとに大丈夫です」
松本がこういう人物なのは分かっていた。
「えー、あいつも浅井がいるって伝えたら会いたいって喜んでたのに」
それを聞いて、なんというか、もういっぱいになってしまった。
「せっかくだから会ってあげなよ」
「だからいいって言ってるじゃないですかっ」
語気を強めて吐いた言葉が、一瞬にして場を静かにしてしまったのがわかった。
慌てて口を噤む。店員を含め、店内に居た他の人たちは私をちらちらと見ながら少しづつやかましさを取り戻していった。
軽く嗜めるつもりが、思ったよりも大きな声が出てしまったことを反省する。松本も驚いた顔をして固まってしまっていた。
「あ、その……。すみません。いきなり怒鳴ってしまって」
やらかした。私は椅子の下の籠から自分のバッグを取り出して財布からおおよその代金を出して、カウンターの上に置いた。
「今日はもう帰ります」
席を立つ。松本は面食らったような顔のままだったが、ハッとして私を止めにかかった。
「待って待って、悪かったって。だからもう少しだけ一緒に、ね?」
「いえ、今日は疲れてますし、やっぱり明日も早いので」
松本はきっと、アイツが賞を獲った喜びを少しでも誰かと共有したかったのだろう。その為に、少しだけアイツと関係値のある私を飲みに誘ったのか。けれどどのみち、このほとぼりも明日か明後日には冷めるんだろう。松本がアイツと友達をやっていくのも大いに結構だ。しかしそのような友情劇にあまり私を巻き込まないでほしい。
居酒屋の扉を半ば強引に開いた。
現れた人影に、危うくぶつかりそうになる。
「あっ、すみません」
それでも謝罪の言葉が口をついて出るのが、なんとも自分らしくて情けなかった。
「浅井?」
なぜ、私の名前を呼んだのか。疑念が確信に変わるのに時間は必要なかった。
驚いて振り向いてはみたものの、やはり容姿だけでは目の前の女性が誰だかわからなかったが、声質と発声の仕方だけは昔から変わらない。しかし明らかに服の雰囲気も違うし、髪も伸びてるし、背も少し高い。ああ、ヒールか。それに化粧だって覚えてる。
「とくっ……しま」
声が跳ね返ったのは驚いてしまったからに他ならない。だって、私の想像の中の「小説家」っていうのは、もっと身だしなみに疎いものだと思っていたから。
この時、私の記憶の中に巣食うアイツ、徳島 愛衣は一瞬にして死んだ。そしてまさに今、目の前にいる一人の可憐な女性によって更新され、新生した。
「ひさしぶりだね、元気してた?」
心配そうな徳島の声にはっとする。
そうだ、店を出ないと。私は今、彼女と会話してはいけない。彼女と目が合ってしまいそうになっても、決して合わせてはいけない。もしもそんなことがあったら、私は泣いてしまうか、自分の両目を抉りながら発狂してしまうから。だから下を向いたまま、声に調子を付けないで小さくつぶやく。
「ごめん、私もう帰るから」
言うのとほぼ同じタイミングで徳島のことをやや強引に押しのけながら店を出た。酔いはとっくに醒めていたので、外の空気の冷たさにはただ不快を覚えるだけだった。
今にも雨が降りそうな夜道を出来るだけ早く歩いている。
夜で空模様なんて何一つわからないけど、湿気が空気に靄をかけているのが肌の具合でなんとなくわかった。だから雨が降り始める前に早く帰らないといけないと思った。
……他にも、今日はいつもより交通量が多いとか、そういえば今日は水曜日で、見たいテレビがあったなだとか、明日は家庭ごみ出さないといけないとか、いろいろ思い出して思考を紛らわせようとするが、その裏で、ずっと先ほどまでのことが頭の中を走り回っていた。
「……。」
私は何も言えなかった。ちゃんと話すのは中学生ぶりだったというのに、お互いもうしっかりとした大人だというのに。
高架橋のわき道を抜けた先、小さな公園の前の横断歩道に足を止められて舌打ちをしていると携帯が鳴った。開くとそこには松本の名前がある。
忘れ物でもしただろうか、と思って緑の受話器をタップすると、不機嫌そうな松本の声が聞こえてきた。店内の音が聞こえなかったので、恐らくトイレで話しているんだろう。
『ねえ、なんで帰っちゃったの?』
「すみません」
『いや、すみませんじゃなくてさ。理由を聞いてるんだけど』
『ほんとうに、話すことがなかったんです。すみませんでした』
少しも申し訳なさそうに謝罪をすると、電話の奥から長いため息が聞こえた。
『あのさ、なんで素直に喜べないワケ?』
そう聞く声には微かな熱が込められていた。
「そういう人間なんですよ、私」
『だからそうじゃなくてさあ』
電話口の声には明らかな苛立ちも加わってきた。まあ、苛つかせるようなことを言っているのだから当然だろう。
『確かに、無理に浅井のことを誘ったのは私だし、愛衣のことをっ、呼んだのも私だけどさ』
酒が回って息を継ぐタイミングを見失ってるが、それでも明らかに怒っているご様子の松本は続けた。
『あたしは愛衣の友達として、出来るだけたくさんの人に祝福されてほしいと思ってる。浅井も愛衣の友達だったんでしょ? あんたのそれは何? 嫉妬?』
そうかもしれない、というかそうだ。その嫉妬に呑まれないように、私は逃げたんだから。でもそうだと認めてしまうのはなんだか負けた気がして、私は捻くれたことしか言わなかった。もしかしたら考えたくないことに無理やり突っかかってくる松本に、もしかしたら苛立っていたのかもしれない。
「あなただって、アイツの成功をどこかで自分の手柄のように、自分の成果のようにしようとしてるように、私には見えます」
電話の向こうで声色が変わる。
『は? どういうこと?』
「おっしゃってましたよね? 私も小説書いてみようかなって。私も思ってましたよ。けどできなかったんです。満足のいくものを書くことが出来ないって、私が一番わかってましたから。その世界に飛び込みたくても、飛び込めない人だっているんですよ。だから見切りをつけてここにいるんじゃないですか。松本さんだって同じですよ。書けないから、書ける人を祝福して酔っ払ってるんですよ。私だってそう。酔っ払っていたいから、アイツには会いません」
文章は書けないのに、中身のない言葉だけはすらすらと話せた。
「これはそういう、私だけの問題なんです。だからアイツには会わないし、私はアイツを称賛したりしません」
「アイツとあんたに、なにがあったの?」
「ないですよ、なにも」
その声音は極めて冷静で、自分でも驚くほどにはっきりと言った。
「私が勝手に離れて、それっきり何も話さなくなっただけです」
「どうして」
「あなたには、わからないと思います」
そう言って電話を切った。
気付けば小雨が降っていた。コンビニで傘を買ってもよかったけど、立ち止まらずに家路を急いだ。
アイツにはもう会わなくていい。
アイツの小説も読まなくていい。
何故ならあれは、一度読んだことがあるから。
私が小説を書けなくなったあのときに読まされた話と、同じ題名だったんだから。
中学校の時の小説のネタを文学賞に持っていくのもアイツらしいと思ったが、同時にそれが私の心を鈍く、深く抉った。
先ほどの会話で松本には嘘をついた。きっと彼女は、心の底からアイツのことを祝福していたのだと思う。そしてつくづく自分が嫌になった。
松本のように、何の衒いもなく他人を祝福出来たらどれだけ良かっただろうか。一緒に小説を書いて、何の劣等感も持たず相手の物語を褒められたらどれだけ良かっただろうか。
そういうのが、私にはなぜか昔から受け入れられなかった。
アイツの話を読んだとき、幼心に妬ましさを覚えた。
勝てないと思ったし、それに怖くて、争う気も起きなくなった。
だから離れた。自分の創作の歩幅を見失わないようにって言い訳をして。
あれ以来、何度も書こうとした。
けれども浮かんだ言葉や物語はぐるぐると宙を廻って。アイツの書いた小説のように上手く纏まることはなかった。
ぐるぐる、ぐるぐる。ほんとうに、そればかりだ。
浮かんだものが文字になった試しがない。十数年間、堆積した鬱屈も、たまに来る苛立ちに似た激情も、私の力不足が故に、時間が経って溜飲を下げるのと一緒に体内へ戻っていく。
こんなのただの逆恨みだって思われるに違いない。
ビルの雑踏で薄暗い裏路地を抜けて、昨日の電光掲示板の前に差し掛かった。
何故こんなにタイミングが良いのか、そこにはアイツが、テレビで見たことあるアナウンサーにインタビューを受けている様子が映し出されていた。
「えー、今回の小説がデビュー作で芥川賞まで受賞したわけですが、徳島さんはいつ頃から小説をお書きになっていたんですか?」
画面の中のアイツはやや不慣れな佇まいで緊張した笑みを湛えていた。
「はじめて書いたのは、中学生の時ですね」
「なるほど、それはなにか小説をお書きになろうと思ったきっかけがあったんですか?」
「はい、幼い頃に友達が小説を書いていて、彼女に触発されて書き始めたんです。その子がいなかったら、今日までの私は書き続けていくことが出来なかったって思ってます」
「今回の小説も、以前お書きになったものを原案にしたとお聞きしたのですが」
「そうですね、あの時書いたものが今になってもう一度作り直そうと思えるお話だったので…その友達にも読んでもらったことがあって、だから彼女だけネタバレされてますね」
知ってる。私だって何回も読み返した。というかなに笑ってるんだ、アイツ。
「今回のそのお友達には、何か伝えたいことはありますか?」
「はい。ただ、ありがとうって、伝えたいです」
画面の奥のアイツは少しだけ照れ臭そうにはにかんでいた。
「というわけで今を生きる新人作家の徳島 愛衣さんでした。ありがとうございました」
「……」
何も言わずに歩き出した。
視界に入る看板の文字が全部アイツの名前に見えた。
少し歩いて、アパートの階段を上って、部屋の鍵を閉めた時、雨がようやく本降りになった音がした。靴を脱ぐや否や、私は部屋の中を暴れるように徘徊し、紙と何か書くものを探し求めた。そして、机の上に置いてあったシャーペンと消しゴムと、回覧板のチラシの裏を乱暴に掴んで、形容しがたい頭の中の言葉を、思いついたままに、久しぶりに使う掌の筋肉で、ひたすら紙にぶつけた。
おおよそ筆跡なんてものはない。
書いては消し書いては消し書いては消し、進んでは戻り、戻っては進み、それらを繰り返していると、いつの間にか漏れ出ていた喘鳴は絶叫に変わっていた。感情は堰を切ったように溢れ出した。または薄氷を叩いたみたいにヒビが入ったのちに砕け散った。或るいは、限界まで張り詰めた風船に一本、長く鋭い針を落とした時のように、爆発した。
その後は……あんまり書きたくない。
気づけば真っ暗になって、雨もいつの間にか止んでいる。不思議とお腹は空いてなかった。
部屋の明かりは一つとして点いてないが、窓の外から差す街頭のぼんやりとした微かな光のおかげで目は夜闇によく馴染んでいた。
暗いワンルームの中央。無造作に散らばった紙たちの中心で私は倒れていた。瞬きは出来るが、身体はもう動かない。両目は机の方へ焦点を合わせていた。
あれだけ一心不乱に机と紙に向かったのに、ようやく書けたのは。
『私も』
それだけだった。続きは書きたくなかった。
枯れた喉が頑張って震えると、水の結晶が目の奥から溢れた。
やがてそれが頬を伝うと、いっぱいだった心の中が空っぽになっていくのがわかった。
数十年越しにようやく流すことが出来た純粋な嫉妬の涙は、輝きを持たないまま暗い部屋の闇にゆっくりと溶けていった。
それは「芥川賞」と言う言葉で煌びやかに脚色されていたアイツの名前が、本の装丁にピントが合わないほど私の目にはよく映った。
私が今どんな顔をしているのか、自分でもわからなかった。
笑っていたかもしれないし、その逆だったかもしれない。
手に持ったスーパーの袋は、落としたかもしれない。ああくそ、今日は卵、安かったのに。
眩暈がしていた。立ち眩みかもしれなかった。あ、いや、目から涙が出ていたんだ。何故だか前が霞んで見えなくなろうとしているから、きっとそうに違いない。いや、やっぱり違うかもしれない。網膜か水晶体か、それとも錐体細胞か。とにかく私の中の何かが目の前の事実を受け入れないように視界に霧をかけているのかもしれなかった。
……。
なんでだろう、足が動こうとしている。肩が家の方角を向こうとしている。手は落とした袋を拾おうとしている。頭が前を向こうとしている。
私の身体は『それ』を見ることを拒否しようとしている。身体が私に嘘をつこうとしている。見なかったことにしようとしている。まるで今見ているのがなんの面白味もない、取るに足らない広告であるかのように。
それでも、私は目だけは逸らさずに、ただただその名前を見続けていた。目を凝らすでもなく、睨むでもなく、楽しむでもなく、驚くでもない。普段の私にとってはこんなの、流行り物やニュースを表示するだけの機械なはずなのに。
眼球だけが何度も何度も同じところ、一人の名前を反復していた。
多分『私』だけはちゃんと向き合おうと抗っていたんじゃないだろうか。或いは目の前の事実が受け入れられないだけなのか。きっと後者なんだろうな。
……小説を書いていた。
私も小説を書いていたんだ。
人一倍に劣等感の強い私に、もう顔も名前も見ることはないだろうと思っていたアイツは、本当に一方的に、本当に最悪な形で私に再会を強要した。
「……帰ろう」
ようやく絞り出した朽ちたような声は、棺を求めて夜の何処かへ歩き出した。
仕事は休もうと一瞬考えたがなんとか行く決心をした。とてもじゃないが知っている人が賞を獲ってしまったので休みますとは、冗談だとしても言えない。
床から引き剥がすようになんとか躯体を持ち上げる。泥が纏わり付いたみたいに重かった。骨が軋む音が粘着質なガムテープを剥がした時みたいに鳴って、それが若さを否定しているみたいで少しだけ気分が沈んだ。やけに目がしばしばとしたので泣いてしまったんじゃないかと思ったが、ただの気のせいだった。
認めたくなかったものを一度でも認めてしまうとその後は嫌でも目につくようになる。昨日は街の電光掲示板だけのものだったのが、今日になると朝のテレビ、電車の広告、そしてコンビニの雑誌コーナー。まるで街全体があいつを祝福して、凱旋を今か今かと待っているようだった。
「五百三十円になります」
私は財布からお金を取り出して店員の目の前に差し出そうとすると、店員はまたか、と言いたそうな顔で「会計はこちらでお願いします」と言って手でレジの横の精算機を指した。家の近くのコンビニではまだ手渡しで会計しているので、いつの間にか変わっていたことに「あっ」と声が出る。時代に取り残された感覚を覚えながら、そそくさと慣れない手つきで機械に六百円を突っ込む。すると機械は無機質な音を伴って、レシートと七十円と乾いた口調の「ありがとうございました」を吐き出した。
コンビニを出ようとして、もう一度「あっ」と声が出る。
ワゴンというか、小さめのテーブルの上には「芥川賞受賞作家はココ、仙台市出身です!!!」と大層な手書きのポップを背に、アイツの本が目一杯に平積みされていた。
これは店長の趣味だろうか。なんとなく想像していたことではあったが、いざ見るとどうしても身体が硬直してしまった。
傍目から見ると、まるで私がその本に目を惹かれているように見えてるかもしれない。よくモニタリング調査のCMとかで見るシチュエーションだ。でも私の心境はむしろその逆。だけど私は気づかないふりをして、その奥のホットスナックを一瞥してからコンビニを出た。景気の良いメロディを振り撒く自動ドアの音すら不快だった。
少し街を歩いただけでもこれだ。職場ではさぞ騒々しい感じになっているんだろうという私の予想は当たらずとも遠からずという結果で、主にその原因は、私の同僚の松本にあった。
「そうなんですよ! 賞の発表のときもすぐに連絡くれて」
松本は意気揚々と他の同僚たちに自慢話を披露していた。内容も大方想像通りだった。
彼女は私やアイツと同じ高校に通っていた。松本は当時からアイツと親しくしており、教室でもよく一緒のグループで談笑していた。当時の私は、二人が同じ進路に進むものだと思っていたが、アイツは東京の私大、松本は地元の公立へ進学した。すべて私が隣の席から盗み聞きした情報である。正確には、松本たちが私の隣で勝手に喋っていただけだが。
私といえば、そういったグループには所属することなく、一人でひっそりと本を読んだりしていた。もうこいつらと会うことはないんだろうなと思っていたが、私と松本は今の職場で奇しくも偶然の再会を果たした。最初、私は松本の顔を忘れていたが、向こうから話しかけられて気付くに至った。彼女のような分け隔てない雰囲気の人はあまり出会ったことがなかったからだ。
松本は、仕事はもちろん話を回す力に長けていて、昼休みでも談笑の中心にいることが多かったのだが、今回はさらに輪をかけて話の中心にいた。自分の友人が、誰でも知っている程の有名な賞をとったのだ。話を聞きたいやつだっているだろうし、今自慢しないでいつ自慢するって言うんだ。
「でも本当に良かったですよ」
そう言って松本は心底嬉しそうな表情をつくった。
「昔から勉強もできたしスポーツにも強くて、だからこそいわゆる『ちゃんとした大学』に行くと思ってたので。作家になるって言った時はだいぶ周囲と揉めてて、だから昨日連絡貰った時は……ほんとに、友達冥利に尽きるってもんですよね……」
そう話す松本の目には薄く涙が浮かんでいる。彼女の話を、周りの同僚たちは自分のことのように聞き入っていた。やや湿っぽい職場の空気を尻目に、私は私の仕事に取り掛かることにした。松本が騒がしくなるのはいつものことだ。少しうるさくなる分には構わないし、私から彼女に対して何かアクションを起こしに行くこともないが、今日は少々話題が悪い。唯一の懸念は、彼女が、高校が一緒という共通点しかない私にその話題を振ってくるということだった。悪意のない善意は、劣等感はより浮き彫りしていく。今の私にアイツの話題を捌ける自信はあまりなかった。
しかしそういったこともなく、私の懸念は杞憂となった。そういう良識が彼女にもあって良かったと心から思う。職場はお祝いムードの中で朝礼を迎えようとしていた。
「あ、そういえば、浅井さんも同じ高校なんだよね」
職場の誰かがそんなことを口走った。井戸端会議の住人たちが一斉にこちらへ視線を向けて来る。
まあ、こうなるか。なんで知ってるんだとか、同じ高校だからってなんだって言うんだとか、いろんな考えが頭を走り回った結果、私は久しぶりに意図的な無視を決行した。そういう奇怪な視線。それにこの身を突き刺されたまま私はやり返すこともせずに沈黙していた。
「そうだけど、浅井さんはあんまり知らないと思うよ? クラスも違かったから」
ここで、意外にも松本が少し困った顔をして二の句を継いだ。
「ね? 浅井さん」
思わず手が止まってしまう。
なぜ、私にしか分からない嘘をついたんだろうと考えて、助け舟を出してくれたことに気づいた。
黙ったまま首肯する。言外に「話しかけるな」と念を込めて。
視線たちはあるべきところへ帰って行き、職場は再び騒々しくなったが、すぐに部長が入ってきて話し声は止み、そのまま朝礼が始まり、そしてまた今日も慌ただしく業務が始まった。
今日の仕事は打ち込み。会社の社報のレイアウトに、渡された原稿の文字を入れるだけの簡単なもの。課されていたタスクが他よりも一足先に終わっていたので、暇なら、と部長から頼まれていたものだ。暇じゃないし、正直、機械にやらせろよだとか本当にゴミみたいな仕事だとか感じていたけど、逆にそれがいい仕事をしてくれた。感情を無くして機械になれれば、心も小説も忘れられると思った。
仕事終わり、松本に飲みに誘われた。
最初はその意図がわからず、いつものように断ろうと思ったが、朝礼で恩を売られていたこともあり、止むに止まれずついて行くことにした。
着いたのは私たちの会社が飲み会なんかでよく使っているお店だった。店に入った私は上着を脱ぎながらカウンターに座り、カルピスサワーを注文する。松本は酎ハイだった。お酒が運ばれて来るまでの間、松本が話を切り出した。
「読んだ? 小説」
なんだ、結局したいのはその話か。まあおおよそ予想していたことではあるが。
「いえ、まだ。そっちは……まあ、読んでますよね」
朝の時の熱にまだ浮かされているのか、松本は朗らかに「うんっ」と弾んだ声で答えた。
作品が刊行されてから賞が発表されるまでにはやや期間の空きがある。発表前の時期になると、書店は賞の候補作が出揃って色めき立つ。そんなものを見ても焦燥感と劣等感を覚えるだけなので、基本的にその時期は私が書店に寄り付くことはない。アイツの作品が本になっていたことすら、私は知らなかった。だからこそ、昨日の電光掲示板は、数段重い衝撃を与えたのだ。
「どうでしたか」
気の進まない話題だけど、彼女に話して貰うためにあえて掘り下げるような返事をした。
「それがさあ、すごい面白いの」
「……そうですか」
「最初はアイツが書いたって信じられなかったよ。アイツっぽくないというか、アイツからああいう言葉が出てくるんだなあって、びっくりしちゃった。でも最後はすっごく考えさせられて、私も主人公のその後みたいなのをまるで自分のことみたいに考えちゃったんだよね。あ、あんまり喋っちゃうとネタバレか」
松本はお酒が運ばれてきたのにも関わらず、意気揚々とアイツの話をしている。
「浅井も読んでみたらいいよ」
そんな無責任なことを言って松本は酎ハイをぐいっと呷る。倣って私もグラスに口をつけた。カルピスらしい控えめな甘さが口の中に広がって、すぐ後からアルコール特有の昂揚をもたらした。私はこのなりで酔いやすいのだけれども、今日は体温が少しも上がらない。
「私は、いいです」
松本は一瞬眉をひそめたが、なにかを諦めたように「そっか」とだけ言って追加で唐揚げを注文した。
「あの」
口を開いたのは私だ。松本は不思議そうに首をかしげている。
「今日はありがとうございました。その、朝礼前の」
私は言い辛そうに告げると、彼女は数秒宙を見上げてはたと気付いたような仕草をした。
「ああ、あれね。うん、気にしないで」
「あの、今日はなんで誘ってくれたんですか?」
思いのほか反応が淡泊だったので、もう一つ、疑問に思っていたことをぶつけてみた。すると彼女は照れくさそうに頬を掻きながら答えてくれた。
「あはは、急にごめんね。さっきはそらしたけどさ、私も少し聞きたかったんだ」
聞きたかった、というのは、私の知っているアイツについて、ということだろうか。
「アイツが高校に入るまでは浅井と仲良かったって言ってたからさ。教えてよ。昔のアイツの話」
「特に面白い話なんて、何もないですよ」
「またまたぁ、なんでもいいから話してみなよぉ」
松本はお酒に弱いのか、早くも頬がすっかり赤く上気していた。
「……あんまり飲むと明日に響きますよ」
「いいのいいの、今日はおめでたい日なんだからぁ」
合点がいく部分もある。朝の話を聞く限り、松本はいまだにアイツと連絡をとっているようだった。もしかしたら昨日の発表に至るまで、松本はアイツに何かしら精神的なサポートをしていたんじゃないだろうか。松本は松本で、相談に乗っていた友人が無事に賞を獲れたということで緊張から解放されたのかもしれない。確かに乾杯の一つでもしたくなる。
それなら、どうして一緒に飲むのがアイツではなく、私なんだろうか。祝杯は本人と挙げるべきなんじゃないだろうか。まあ、アイツは今頃式典だなんだで忙しいんだろうから、きっと松本は手頃な私を飲みに誘って嬉しさを発散させたいのかもしれない、なんて無粋なことを考えた。
「昔は、アイツ、小説なんて書くような人じゃなかったんです」
「え、そうなの?」
「中学の、二年生くらいでしょうか。私が見よう見まねで書いてるのを、アイツが偶然見て同じくハマって」
「へぇ、え? ってことは浅井も小説書いてたの?」
「……はい。もう昔の話ですが」
一つ嘘をついた。
「じゃあ浅井はアイツの先生だったわけだ」
「そんな大層なものじゃないです」
言い切ったタイミングで唐揚げが到着する。松本が「あ、それわたしでーす」と言ったので店員さんは「おまちどおさまでーす!」と景気の良い掛け声とともに皿を置いた。私も何か食べようかなと思案していると「食べる?」と松本が皿を差し出しながら聞いてきた。唐揚げにはすでにレモンの汁がかけられている。「じゃあ、貰います」と言って一つを箸でつまみ上げ、施しを受けてばかりなのは気が引けたので私もチジミを注文して、サワーの入ったグラスを呷った。
「それで?」
「……いつの間にか私よりもたくさんの短編を書くようになってて、内容もだんだん面白くなっていったんです。それに反比例してというか、私は書かなくなっていきましたね」
「そっかあ」
息を吐くようにそう言って、松本は両手でグラスを持ちながら空を見つめた。きっと酔った頭で当時の幼いアイツのことを思い描いてるのだろう。
「アイツは、どんな話を書いてたの?」
「それは、直接聞いたらいいのでは」
「それがさあ、聞いても教えてくれないんだー。いっつも恥ずかしいからやだって言ってかわしてくるんだもん」
アイツの話。随分前に思い出すことすら何となく嫌になったところで記憶を断捨離してしまったからもう覚えていない。
「あっ」
ここで一つ、変な気が起こった。アイツの書いた話をもうほとんど覚えていないのだったら、わたしの物語を彼女に査定してもらおうという浅はかな企みだ。
「そうですね、もうあまり覚えていませんが」
自分の書いた話は驚くほど簡潔にすらすらと要約することが出来た。
「高校生の女の子が主人公なんですけど、ある日とある少女に出会うんです」
「その少女は心に傷を負っていて、そのせいで手で触れた他人を薔薇みたいに傷つけてしまう特殊な体質だったんです。そして少女と主人公は協力してその体質を直そうとするっていう、そういうお話です」
松本は興味深そうに私の話を聞いていた。
「へぇ」
「ごめんなさい、ありがちな話ですよね」
なんで謝ってるんだ私。
「アイツって、そういうファンタジーみたいな設定のも書けるんだ……」
言った後でドキリとした。私は、今のアイツがどんな話を書くのか知らない。昔は私もアイツも、似たり寄ったりなものばかり書いていたことしか覚えていなかったから、今のはとても迂闊で浅はかだったと反省する。別段、松本に怪しまれていなかったのが幸いだった。
「それで、最後はどうなるの?」
「それは、えっと」
思わず言葉に詰まる。
「すみません、忘れてしまいました」
「そっかー、残念」
実を言うと、私はこの小説を最後まで書き切ることが出来なかった。人物の決断を一本筋の通ったものに定めることが出来なかったのだ。この物語で、主人公とその少女は二つの選択を強いられる。一つは彼女の体質を完全に克服させ、普通の生活を送る結末。もう一つは少女がこの体質を受け入れ、これからも同じ生活を続けていくという結末。第三案を考え付くとか、そういうことをする前にこの物語の続きを考えるのはやめた。
私の書く話はいつもそんなものばかりで、自分でも笑えてしまうほど面白くなかった。
「でも、いつか読めるといいな」
純粋な彼女の言葉に、私は目を伏してしまった。
それは私の話す力が足りなかったのかもしれない。
ただ、いまの会話で「面白そう」という言葉を引き出せなかったことが少しだけ悔しくて、心の中ですら私は何も言えなかった。
「私も書いてみようかな、小説」
松本はぽつりと呟いた。
「それは、どうして」
「なーんか触発されちゃった。高校の時はあんまり惹かれなかったのに、なんでだろうね」
気持ちはわかる。誰かがその道で成功してると、自分にも出来てしまいそうな気がするものだ。その裏の事情や葛藤や積み重ねは見ないふりをして。もしくは、松本の場合は、単にアイツのこれまでを見てきた上での変化かもしれないが、到底、私には推し量ることが出来なかった。
「そうですか、頑張ってください」
「あれ、なんか冷たくない?」
「だって実際に書くか書かないかは、松本さんが決めることですので」
その時、携帯が鳴った。自分のかと思ったがどうやら違うらしい。私が気づくより先に松本は懐から携帯と取り出して操作しだした。
「よかった。もうすぐ着くみたい」
松本は嬉しそうに声を弾ませている。
「他に誰か来るんですか?」
携帯をしまった松本は、ジョッキを持って口をつけるところだった。
「ん? あ、そうそう。アイツ、今ちょうど近くにいるらしくて、来るか聞いたら来るって」
「……えっ」
珍しく素っ頓狂な声が鼓膜を打った。もちろん私の声だ。
「来るんですか? ここに?」
松本は何の気もなさそうに「うん」と返事をしてジョッキを煽った。
いや。いやいやいや。
聞いてない、そんなこと。
どうしてアイツがここに? まあ松本が呼んだのだろう。もしかしたらアイツの方から来ると言ったのかもしれない。私が来ることは伝えてあるのだろうか。いやそういうことじゃない。
「でも忙しいんじゃ」
「インタビューが今さっき終わったんだって。私のこと大好きかっての」
自分でもわかるくらいに鼓動がどんどん早くなって、私の頭は急激にアルコールを受け付けなくなっていく。かといって思考が冴えているわけでもなく、寧ろ私の顔は血の気が引いていた。
「浅井? 大丈夫?」
ああ、だめだ。
いま会ったら、きっといっぱいになってしまう。
「ごめんなさい、帰ります」
努めて平静を装いながら、そんな言葉をまるで呼吸する時と変わらないテンポで吐き出していた。
「え、待ってよ。もう帰っちゃうの?」
自然な口調で言えば咎めてこないだろうかなどと思ったがそんなわけがなかった。でもこちらとしても引き下がるわけにはいかない。アイツに会うことだけはどうしても避けたかった。
「いえ、私は特に話すことがないので」
「いや、そう言わずにさ。アイツと話していかないの?」
「ほんとに大丈夫です」
松本がこういう人物なのは分かっていた。
「えー、あいつも浅井がいるって伝えたら会いたいって喜んでたのに」
それを聞いて、なんというか、もういっぱいになってしまった。
「せっかくだから会ってあげなよ」
「だからいいって言ってるじゃないですかっ」
語気を強めて吐いた言葉が、一瞬にして場を静かにしてしまったのがわかった。
慌てて口を噤む。店員を含め、店内に居た他の人たちは私をちらちらと見ながら少しづつやかましさを取り戻していった。
軽く嗜めるつもりが、思ったよりも大きな声が出てしまったことを反省する。松本も驚いた顔をして固まってしまっていた。
「あ、その……。すみません。いきなり怒鳴ってしまって」
やらかした。私は椅子の下の籠から自分のバッグを取り出して財布からおおよその代金を出して、カウンターの上に置いた。
「今日はもう帰ります」
席を立つ。松本は面食らったような顔のままだったが、ハッとして私を止めにかかった。
「待って待って、悪かったって。だからもう少しだけ一緒に、ね?」
「いえ、今日は疲れてますし、やっぱり明日も早いので」
松本はきっと、アイツが賞を獲った喜びを少しでも誰かと共有したかったのだろう。その為に、少しだけアイツと関係値のある私を飲みに誘ったのか。けれどどのみち、このほとぼりも明日か明後日には冷めるんだろう。松本がアイツと友達をやっていくのも大いに結構だ。しかしそのような友情劇にあまり私を巻き込まないでほしい。
居酒屋の扉を半ば強引に開いた。
現れた人影に、危うくぶつかりそうになる。
「あっ、すみません」
それでも謝罪の言葉が口をついて出るのが、なんとも自分らしくて情けなかった。
「浅井?」
なぜ、私の名前を呼んだのか。疑念が確信に変わるのに時間は必要なかった。
驚いて振り向いてはみたものの、やはり容姿だけでは目の前の女性が誰だかわからなかったが、声質と発声の仕方だけは昔から変わらない。しかし明らかに服の雰囲気も違うし、髪も伸びてるし、背も少し高い。ああ、ヒールか。それに化粧だって覚えてる。
「とくっ……しま」
声が跳ね返ったのは驚いてしまったからに他ならない。だって、私の想像の中の「小説家」っていうのは、もっと身だしなみに疎いものだと思っていたから。
この時、私の記憶の中に巣食うアイツ、徳島 愛衣は一瞬にして死んだ。そしてまさに今、目の前にいる一人の可憐な女性によって更新され、新生した。
「ひさしぶりだね、元気してた?」
心配そうな徳島の声にはっとする。
そうだ、店を出ないと。私は今、彼女と会話してはいけない。彼女と目が合ってしまいそうになっても、決して合わせてはいけない。もしもそんなことがあったら、私は泣いてしまうか、自分の両目を抉りながら発狂してしまうから。だから下を向いたまま、声に調子を付けないで小さくつぶやく。
「ごめん、私もう帰るから」
言うのとほぼ同じタイミングで徳島のことをやや強引に押しのけながら店を出た。酔いはとっくに醒めていたので、外の空気の冷たさにはただ不快を覚えるだけだった。
今にも雨が降りそうな夜道を出来るだけ早く歩いている。
夜で空模様なんて何一つわからないけど、湿気が空気に靄をかけているのが肌の具合でなんとなくわかった。だから雨が降り始める前に早く帰らないといけないと思った。
……他にも、今日はいつもより交通量が多いとか、そういえば今日は水曜日で、見たいテレビがあったなだとか、明日は家庭ごみ出さないといけないとか、いろいろ思い出して思考を紛らわせようとするが、その裏で、ずっと先ほどまでのことが頭の中を走り回っていた。
「……。」
私は何も言えなかった。ちゃんと話すのは中学生ぶりだったというのに、お互いもうしっかりとした大人だというのに。
高架橋のわき道を抜けた先、小さな公園の前の横断歩道に足を止められて舌打ちをしていると携帯が鳴った。開くとそこには松本の名前がある。
忘れ物でもしただろうか、と思って緑の受話器をタップすると、不機嫌そうな松本の声が聞こえてきた。店内の音が聞こえなかったので、恐らくトイレで話しているんだろう。
『ねえ、なんで帰っちゃったの?』
「すみません」
『いや、すみませんじゃなくてさ。理由を聞いてるんだけど』
『ほんとうに、話すことがなかったんです。すみませんでした』
少しも申し訳なさそうに謝罪をすると、電話の奥から長いため息が聞こえた。
『あのさ、なんで素直に喜べないワケ?』
そう聞く声には微かな熱が込められていた。
「そういう人間なんですよ、私」
『だからそうじゃなくてさあ』
電話口の声には明らかな苛立ちも加わってきた。まあ、苛つかせるようなことを言っているのだから当然だろう。
『確かに、無理に浅井のことを誘ったのは私だし、愛衣のことをっ、呼んだのも私だけどさ』
酒が回って息を継ぐタイミングを見失ってるが、それでも明らかに怒っているご様子の松本は続けた。
『あたしは愛衣の友達として、出来るだけたくさんの人に祝福されてほしいと思ってる。浅井も愛衣の友達だったんでしょ? あんたのそれは何? 嫉妬?』
そうかもしれない、というかそうだ。その嫉妬に呑まれないように、私は逃げたんだから。でもそうだと認めてしまうのはなんだか負けた気がして、私は捻くれたことしか言わなかった。もしかしたら考えたくないことに無理やり突っかかってくる松本に、もしかしたら苛立っていたのかもしれない。
「あなただって、アイツの成功をどこかで自分の手柄のように、自分の成果のようにしようとしてるように、私には見えます」
電話の向こうで声色が変わる。
『は? どういうこと?』
「おっしゃってましたよね? 私も小説書いてみようかなって。私も思ってましたよ。けどできなかったんです。満足のいくものを書くことが出来ないって、私が一番わかってましたから。その世界に飛び込みたくても、飛び込めない人だっているんですよ。だから見切りをつけてここにいるんじゃないですか。松本さんだって同じですよ。書けないから、書ける人を祝福して酔っ払ってるんですよ。私だってそう。酔っ払っていたいから、アイツには会いません」
文章は書けないのに、中身のない言葉だけはすらすらと話せた。
「これはそういう、私だけの問題なんです。だからアイツには会わないし、私はアイツを称賛したりしません」
「アイツとあんたに、なにがあったの?」
「ないですよ、なにも」
その声音は極めて冷静で、自分でも驚くほどにはっきりと言った。
「私が勝手に離れて、それっきり何も話さなくなっただけです」
「どうして」
「あなたには、わからないと思います」
そう言って電話を切った。
気付けば小雨が降っていた。コンビニで傘を買ってもよかったけど、立ち止まらずに家路を急いだ。
アイツにはもう会わなくていい。
アイツの小説も読まなくていい。
何故ならあれは、一度読んだことがあるから。
私が小説を書けなくなったあのときに読まされた話と、同じ題名だったんだから。
中学校の時の小説のネタを文学賞に持っていくのもアイツらしいと思ったが、同時にそれが私の心を鈍く、深く抉った。
先ほどの会話で松本には嘘をついた。きっと彼女は、心の底からアイツのことを祝福していたのだと思う。そしてつくづく自分が嫌になった。
松本のように、何の衒いもなく他人を祝福出来たらどれだけ良かっただろうか。一緒に小説を書いて、何の劣等感も持たず相手の物語を褒められたらどれだけ良かっただろうか。
そういうのが、私にはなぜか昔から受け入れられなかった。
アイツの話を読んだとき、幼心に妬ましさを覚えた。
勝てないと思ったし、それに怖くて、争う気も起きなくなった。
だから離れた。自分の創作の歩幅を見失わないようにって言い訳をして。
あれ以来、何度も書こうとした。
けれども浮かんだ言葉や物語はぐるぐると宙を廻って。アイツの書いた小説のように上手く纏まることはなかった。
ぐるぐる、ぐるぐる。ほんとうに、そればかりだ。
浮かんだものが文字になった試しがない。十数年間、堆積した鬱屈も、たまに来る苛立ちに似た激情も、私の力不足が故に、時間が経って溜飲を下げるのと一緒に体内へ戻っていく。
こんなのただの逆恨みだって思われるに違いない。
ビルの雑踏で薄暗い裏路地を抜けて、昨日の電光掲示板の前に差し掛かった。
何故こんなにタイミングが良いのか、そこにはアイツが、テレビで見たことあるアナウンサーにインタビューを受けている様子が映し出されていた。
「えー、今回の小説がデビュー作で芥川賞まで受賞したわけですが、徳島さんはいつ頃から小説をお書きになっていたんですか?」
画面の中のアイツはやや不慣れな佇まいで緊張した笑みを湛えていた。
「はじめて書いたのは、中学生の時ですね」
「なるほど、それはなにか小説をお書きになろうと思ったきっかけがあったんですか?」
「はい、幼い頃に友達が小説を書いていて、彼女に触発されて書き始めたんです。その子がいなかったら、今日までの私は書き続けていくことが出来なかったって思ってます」
「今回の小説も、以前お書きになったものを原案にしたとお聞きしたのですが」
「そうですね、あの時書いたものが今になってもう一度作り直そうと思えるお話だったので…その友達にも読んでもらったことがあって、だから彼女だけネタバレされてますね」
知ってる。私だって何回も読み返した。というかなに笑ってるんだ、アイツ。
「今回のそのお友達には、何か伝えたいことはありますか?」
「はい。ただ、ありがとうって、伝えたいです」
画面の奥のアイツは少しだけ照れ臭そうにはにかんでいた。
「というわけで今を生きる新人作家の徳島 愛衣さんでした。ありがとうございました」
「……」
何も言わずに歩き出した。
視界に入る看板の文字が全部アイツの名前に見えた。
少し歩いて、アパートの階段を上って、部屋の鍵を閉めた時、雨がようやく本降りになった音がした。靴を脱ぐや否や、私は部屋の中を暴れるように徘徊し、紙と何か書くものを探し求めた。そして、机の上に置いてあったシャーペンと消しゴムと、回覧板のチラシの裏を乱暴に掴んで、形容しがたい頭の中の言葉を、思いついたままに、久しぶりに使う掌の筋肉で、ひたすら紙にぶつけた。
おおよそ筆跡なんてものはない。
書いては消し書いては消し書いては消し、進んでは戻り、戻っては進み、それらを繰り返していると、いつの間にか漏れ出ていた喘鳴は絶叫に変わっていた。感情は堰を切ったように溢れ出した。または薄氷を叩いたみたいにヒビが入ったのちに砕け散った。或るいは、限界まで張り詰めた風船に一本、長く鋭い針を落とした時のように、爆発した。
その後は……あんまり書きたくない。
気づけば真っ暗になって、雨もいつの間にか止んでいる。不思議とお腹は空いてなかった。
部屋の明かりは一つとして点いてないが、窓の外から差す街頭のぼんやりとした微かな光のおかげで目は夜闇によく馴染んでいた。
暗いワンルームの中央。無造作に散らばった紙たちの中心で私は倒れていた。瞬きは出来るが、身体はもう動かない。両目は机の方へ焦点を合わせていた。
あれだけ一心不乱に机と紙に向かったのに、ようやく書けたのは。
『私も』
それだけだった。続きは書きたくなかった。
枯れた喉が頑張って震えると、水の結晶が目の奥から溢れた。
やがてそれが頬を伝うと、いっぱいだった心の中が空っぽになっていくのがわかった。
数十年越しにようやく流すことが出来た純粋な嫉妬の涙は、輝きを持たないまま暗い部屋の闇にゆっくりと溶けていった。