天職だと思っていた。
「あなたの肉球は素晴らしい。私はまさに、あなたのような人材を探していた」
僕は丁度、家電量販店でガラス窓拭きのバイトをしていた。視線は窓の外だったが、焦点は右と左に動く僕のふかふかの手だったもので、そう声をかけられ頭の毛が逆立った。とんがった耳に入ってくるラジオでは、顔を洗うだけで高給を得ている気象予報士と、額の大きさだけで経済を動かす測量士の番組をやっていて、僕はそれに耳を傾けていたから急な声掛けに追い付けなかった。僕は半分だけ頷いて、回すように首を傾げ、失礼を誤魔化すために喉をゴロゴロと鳴らした。
万が一にでも小さな雑巾から指先が飛び出てしまい、ガラスを引っ掻いてしまわないように、手首側の肉球をはみ出させて窓を拭いていた。左右にガラスが擦れる。ガラスの端で雑巾が曲がる。右左に肉球が擦れる。その音が気に入られたらしい。肉球の弾力性と、肉球の周りの毛のがいかに音を引き立たせているかを彼は褒め「あなたは唯一無二だ」「あなたこそ弊社に必要だ」と、のぼせ上がってしまいそうなことを、真っ白な毛で覆われた口で真っ直ぐに言っていた。「唯一無二」僕はあの気象予報士や測量士みたいになれるのではないかと期待した。代えの利かないもの。疎まれ望まれる存在。
「ぜひ、我が社への入社をご一考願いたい。あなたしかいないんだ」
これから先の生活を考えると、頭がくらくらした。
渡された名刺にはCEOと書かれていた。青みがかった黒スーツと買ったばかりのようにツヤツヤしている革靴。緑色の蛇模様のネクタイは、一切鳥を寄せ付けないだろうなと感じた。閑古鳥を寄せ付けないネクタイ。ああ、このキャッチコピーは売れそう。そうやって地方の大学の経営学の上っ面の知識だけはあって、資格も技術もコネも無い怠け者の僕を、拾ってくれた唯一の会社だった。
社長に案内されたのは、海亀工場だった。
僕は、海亀の甲羅と海亀の中身を、針金みたいな背骨でスッと繋げてから溶接し、耐水加工をしている見学用のラインを見た。手渡された小学生用のパンフレットには「海亀は首を引っ込めない。しかし、引っ込める海亀がいても良いじゃないか!」との一文が書かれていた。首元にシワを作り、ゆっくりと首を引っ込めてから、勢いをつけ餌を食む海亀の姿は獲物を捕ろうとする僕らの姿に少し似ていて、僕はここなら「野生っぽい」だとか「野良猫」だとか言われなさそうだとホッとした。海亀を溶接する僕の姿も、海亀の甲羅を磨く僕の姿も、何故だか自然と想像がついた。
耐水加工を施された海亀が、ラインの最後に置かれている水槽の中に積まれていた。それこそ、首を引っ込めないと潰されてしまうんじゃないかと思うくらいにギュウギュウと、甲羅と甲羅の隙間からまた甲羅が見える。これから大海原へ放たれるはずなのに、海亀たちはひどく窮屈そうだった。そんな僕の視線に気がついた社長は、にっこりと笑って僕に言った。
「最終作業の従業員が、里帰りをしてしまったもので。適任者が現れれば、すぐ仕上げをして解放しますよ」
社長は甲羅を一つ持ち上げて、その左下に肉球を添えた。そのときに少し爪が出た。工場の見学中、僕は都会生まれ都会育ちなんだと自慢していた社長が、そんな簡単に爪が出てしまってはコンクリートの地面はさぞ歩きづらいだろうなと感じた。拇印を押す度に嫌な顔をされてきたバイト生活初年の自分を思い出して、社長もきっと肩身の狭い思いをしてきたのだろうと同情した。甲羅に爪の跡だけがついた気がした。
「里帰りですか」
「なので、あなたにはこうやって最後に海亀の甲羅へ印を入れる仕事をして欲しいのです」
「印を入れる、拇印ですか」
「いえ、そんな大層なものじゃございませんが、我が社のシンボルを入れて欲しいのです」社長は、甲羅を撫で、僕の右手をとった。そのときには爪が出なかった。「我が社では、自然を尊重しております。海亀は近年、希少生物に指定されたでしょう」僕の左手にあるパンフレットを指さした。そんなことが載っていた気がする。「人工海亀ではありますが、一つ一つが違う個体であることを世間にアピールし、シンボルだけは私たちの肉球を。生命の宿りを、海亀に込めるのです」パンフレットの文章を切って貼って繋ぎ合わせたようなことを言った。
社長は僕の目を見て、笑みを浮かべながら手を強く握った。僕には刺激が強すぎる社長の緑色の目から逃げると、海亀の水槽があった。ギュウギュウに積まれた海亀。僕の家よりも狭そうだった。線路沿いの、古く、家賃が安い僕のワンルームよりも狭い部屋に詰め込まれた海亀。僕は海亀が気の毒だった。
海亀を、助けてやりたいと思った。僕の爪なら海亀の甲羅にだって、くっきりハッキリ跡が付くだろう。社長も跡は付けられるだろうが、社長にはこの海亀達の気持ちは分かりっこないだろう。きっとこの工場みたいに広い家に住んでいるんだろう。きっとこの海亀達を見て、にっこりと笑えるくらい恵まれた環境にいるのだろう。海亀だって僕が良いに違いない。僕に適任の仕事。僕が唯一無二になれる仕事。
「僕だけ、ですか」「あなただけだ」
「僕にしか出来ない?」「あなただけ。この仕事はあなたにしか出来ない」
僕にスポットライトが当たった気がした。逆転人生はここから始まる。僕は海亀の水槽をのぞき込んだ。海亀が助けてくれと僕を見ていた。全身から力が湧いてきた。「はい」僕は呟き、肯定を噛みしめ、海亀の甲羅を撫でる。硬かった。僕の柔らかい肉球を押し付ける。海亀は身じろぎした。
社長の目を見る。鳥でも狩りそうな目をしていた。鳥を寄せ付けないネクタイが、社長の首に巻かれている。「入社を希望します」僕は社長へくっきりハッキリとそう言った。契約書の拇印では、僕の爪の跡が付いた。
その次の日から、近所の小学校の子ども達が、校外学習だといって大勢で工場見学にやってきて、僕の拇印と同じマークの付いた海亀を大都会の海に放った。タイムリーな環境問題を地域ぐるみで扱って、見学料を取る算段だと社長から教えてもらった。大きなあくびをして、社長の説明を聞く子ども達。コンベアーと通路の間のガラスを肉球で擦り、音を鳴らす。チラリとも見ないパンフレットをそこらに置いて、走り回る。社長の静かな視線に立ち止まって、立ち止まるのに飽きると、また走り出す。その繰り返しだった。
「俺知ってる、この辺の人工海亀って、ほとんどがビニール袋を食べて死んじゃうんだ!」
一人の子どもが叫んだ。空気を読む子どもがしんとなり、空気を読めない子どもがこんなの無駄だと騒ぎ立てた。そんな馬鹿なと僕は鼻で笑っていたのに、社長は険しい顔をしていた。鼻を掻き、咳払いをして「君、パンフレットにも載っていないのによく知っているじゃないか」とすまし顔を作って言った。そして続けて「だから、続ける必要がある。環境汚染が無くなって、ビニール袋でも何でも私達の海亀が食べて死んでしまうのが、無くなるまで」と、たいして聞いてもいない小学生達に大きな声で言っていた。
その後に「これは秘密なんだが」と前置きをし「海亀は生まれた場所へ帰ってきて産卵をするが、我が社の海亀は、どこでも産卵が出来る。なのでこの海亀は、世界中に希望を届けることになる」そう、パンフレットにも書かれている秘密でもない秘密を、堂々と言っていた。小学生達は感心したように唸り、耳を立て、社長の話を熱心に聞くようになった。僕は胸の奥が熱くなった。社長の人心掌握の上手さに舌を巻く。この工場で、この社長の下で働けることを誇りに感じた。社長は蛇のネクタイを得意げになぞった。
僕はあくせく働いた。僕の作業は決して欠かせない最後の仕上げのため、残業が誰よりも多かった。終電を逃して泊まり込み、ヒゲについた寝グセは同僚に笑われた。工場の近くの定食屋は常連になった。尻尾の先にオイルがよく染みついて、とうとう色が落ちなくなった。焦げ茶の毛の僕の尻尾の先は、ほんのり黒くて、オイルの臭いがする。あくびばかりの小学生も相手した。練習だと言われ給料は出なかったが、パンフレットを読み上げるだけだったので、家電量販店より楽にできた。まさにこれこそ幸せだと思っていたが、僕は、蛇の狡猾さを知らない鴨だった。
最初こそは、僕が何匹目に作った海亀か数えていたが、それも数え切れなくなっていた。何匹か目の海亀に印を入れていると、あくびは出ておらず、悲しみも嬉しさも無いのに涙が出てきた。目が乾燥しているらしい。目を強くつむった。二、三度、目をつむる。海水の塩が空気中に溶けているので、塩が目に染みた。染みた塩が涙で流れ、目を開けた。コンベアーから流れてきた海亀が、水槽に四匹もたまっていた。僕は窮屈そうな海亀を思い出す。水槽の中で、甲羅に隠れてうごめく海亀。たまに足の先が出て、他の海亀の甲羅に足の爪が引っかかり、光沢のある甲羅に傷がつく。おぞましさから尻尾を振った。急いで海亀を取り出して、肉球を押し付ける。尖っていた爪の先は削れ、手入れもしていないのに平たくなっていた。平たい端はさらに削れ、いびつに反れる。爪も一緒に押し付けると、爪の付け根から血が出た。僕の爪が小さく動く。左右に動く。印が確実に付くように、僕は爪先まで甲羅に押し付けた。左右に擦れる。ガラス窓拭きのバイトとは正反対だなと思った。唯一無二になれているのがどうにも嬉しく、汗をぬぐった肉球の先は固い。おぞましかった。疲れているんだと思う。おぞましいだなんて、どうかしている。印の色が赤色で助かった。僕の血が目立たない。僕は血を舐めた。塩と鉄の味がした。血の味なのか工場の味なのか、インクの味なのかよく分からなかったが、懐かしい味がした。
これは例えば、小さなころに捕ったネズミ。虫の音と汽笛の音と、波の音しかしない地元を思い出した。道を歩けばネズミがいた。あそこのネズミは唸るほど美味かった。そうすると、腹が鳴った。コンベアーの音でなにも聞こえやしなかった。よかった。貧乏猫だと笑われない。僕は胸をなでおろす。ここがコンベアーの音がうるさい工場で良かった。僕への悪口は耳を澄ましたって聞こえやしない。胸をなでおろすついでに、深いため息が出た。工場の塩の中に僕の息が混ざった。口の中は塩の味だったから、僕がため息をついたところでこの空気は何も変わらないだろうと思った。塩の空気を吸い込めば、また瞬きをしたくなる。目を開ければ海亀は七匹か、八匹になっていた。僕は海亀を拾い上げる。
海亀の下に、ネズミがいた。ネズミが隠れていた。甲羅と甲羅の隙間に潜り込んだネズミ。しなやかな体を持ち、茶色だか、灰色だかよく分からない毛のネズミ。くすんだ色が海亀の甲羅とよく似ていた。毛並みは多分だが僕より良い。最近はめっきり見なくなった気がする。僕が働きに実家を離れ、一人暮らしを始めてから。そう、生活の水準が上がったからだろう。地元にたくさんいたな、と思い出す。美味かったな。腹が鳴った。唾を飲み込んだ。塩の味がする。口の中の塩の味を消してしまいたかった。海亀を拾うふりをしてネズミに触れた。何を食べているんだろうかと思った。ブクブクと太っている。まるで健康体だ。僕なんかより、よっぽど。
ネズミは、猫の爪を知らないようだった。ネズミが掌の乗る。肉球の上に座る。まだら模様で汚い僕の肉球の上に乗る。固くなった肉球の上のネズミ。
「そうだろう、こんな都会で僕のように、お前に爪を立て、牙をむく田舎者はいないだろう」僕の、ネズミへの脅しも工場の騒音に消えた。
僕はネズミを食った。固い安い干し肉じゃなく、軟らかい生きたネズミの味がした。鉄の味がした。血かと思った。血の味じゃなかった。工場の味がした。ほのかにインクの味がした。何より美味しい気も、今までに食べたことがないくらい不味い気もした。
ガリッ
僕の口からネジが出てきた。海亀には使われていないネジで、初めて見るネジだった。僕は、ジャリジャリする口の中身を吐き出した。ネズミだったものから、マイクロチップが出てくる。海亀に使われているものと似ているチップだった。希少生物にしか使ってはいけないチップで、小さく「ネズミ」と書いてあった。海亀だったら「海亀」と書かれている箇所に「ネズミ」と彫られてあった。軟らかかった。
「おい!」
コンベアーより大きい声がして、僕の頭が叩かれる。海亀の甲羅のプレス機を思い出した。僕の耳は潰れ、立ち、恐ろしさからまた潰れる。口の中を切って、塩が染みた。プレス機は社長だった。今にも僕を引き裂いてしまいそうな目で僕を見ていた。先ほどのネズミはこんな気持ちだったのだろうか。今なら、海亀だけでなくネズミにも印を入れられるだろうと思った。
「おい、なにしてる」社長の声は、コンベアーなんて知らないらしく、僕の耳に届く。呼吸が浅くなった。尻尾の先まで毛が逆立ち、オイルの臭いが広がる。「仕事をしてます」
声が出ているか分からなかったが、聞こえないぞと怒鳴られたから、声が出ているらしかった。
「取引先のネズミがここに逃げた。試作品で、あれ一つしかない」
口の中が痛かったが、顎を動かすことも、つばを飲み込むことも出来ず、僕はジッとする。ジッとしているはずなのに、手は震えた。膨らんだ毛先が僕の肉球をくすぐる。
社長は、僕を見る。僕の目を見て、口を見て、手を見て、また、目を見る。
「食ったのか」
社長は、僕の手を取った。契約するときみたいに。そのまま、僕の手首に手を添えて、強く強く握りしめる。赤い爪が出る。僕の、唯一無二が出る。
「明日から来るな」
僕は、聞こえないふりをした。くっきりハッキリと聞こえた。聞こえないで欲しかった。海亀が積まれる。じゃあ、この海亀はどうなるんだろう。このまま水槽の中で、動けないで、そのまま、広い世界も見ずに? この海亀達には僕しかいないのに。社長は、僕の手を捨てるように払った。このまま海亀に食べてもらえればどんなによいかと思った。僕は、海亀に謝った。生まれた場所に居続けるのが、どんなに惨めなことかを僕は知っていた。狭い水槽の中で過ごすのがどんなに窮屈かも、大海原で揉まれるのがどんなに幸せかも僕は知っていた。
「代わりならいくらでもいる」なのに、社長はそう言った。
やっぱり、コンベアーの音が大きくて、社長の声が聞こえていないんだ。僕はそう理解して、でも説教の最中に聞き返すのは失礼だよな。と、僕は聞こえなかったのを誤魔化して、ゴロゴロと喉を鳴らした。社長は僕を見る。やけに長い沈黙だった。社長は尻尾をゆっくり振り、革靴を床に何度も擦りつけていた。床を磨いているわけではなさそうだった。
「僕しかいないって、言ったじゃないですか」
僕はたくさんの勇気を出して訴えた。社長は、眉を上げ、僕から顔を背けた。工場の天井を見上げ、腕時計を見やり、耳を触る。社長はため息を付いた。そのまま小さく息を吸い、小さく笑った。「そんなこと、言ったか」そう言って僕の肩をポンポン触る。そして声高らかに笑った。
「来るなよ、いいな」社長はいなくなった。水槽の中でうごめく海亀と僕だけが残った。
僕は、辞表に拇印を押した。僕がこの海亀工場で押した最後の拇印だった。ネズミの破片がまだ手に残っていたらしく、拇印にまで、汚く不揃いなぶち模様が出来た。これから先の生活を考えると、気が狂ってしまいそうなほど頭がくらくらした。
三日ぶりの僕の大海原ワンルームは窮屈だった。シリコン人工ネズミがこびり付いた口をゆすごうと蛇口をひねったが、水が出ない。ポストには家賃滞納の通知書が入っていた。明日には大家が直接、催促に来るらしい。
布団に倒れ込んだ。電車の音がうるさい。となりの部屋のテレビの音がうるさい。
「大海原って、うるさいなあ」
僕は枕に言う。耳を塞いで布団の上で丸まった。硬い肉球からは心臓の音がした。海亀からも、今日のネズミからも聞こえなかった心音がする。僕は生きていた。大海原で、一人で、寂しくか弱く生きていた。カーテンの閉め切った部屋に灯る蛍光灯はさながらスポットライトだったが、この僕はとうてい電波には流せなかった。
頭はボーッとしていたが、求人だけは探す気力があった。格安スマホでハローワークを開く。オススメ広告に出てくる海亀の生態記事が、今日からは辛い。「ビッグになってきます」とだけ伝えて辞めた家電量販店の店長に、クビになったと報告を入れる。爪が潰れたおかげで、スマホの操作がやりやすい。
『てかみとといていますか』
一件、通知が来た。母さんからだった。「手紙届いていますか」
『しんはいてす、おくれていますか』
三分経って、また来た。「心配です、送れていますか」
家賃滞納と一緒に不在届も投函されていた。それのことだろうと推測して、返信する。
『送れてるよ。今日、工場クビになった』また、三分経った。『しんはいてす』
この人は、爪が潰れていないんだろうなと思った。とがった鋭い爪で、アスファルトのせいで潰れていない健康な爪を、一切配慮しない端末を操って、もどかしい思いをしているんだろうなと思った。目の下にクマが出来て、新しい模様みたいになっていないんだろうな。尻尾がオイルに染まっていないんだろうな。ベンチで寝て、猫背が変な方向に曲がっていないんだろうな。水槽の中にいるはずの母さんが、水槽の中の海亀のはずの母さんが、どうにも羨ましくなった。
『いつても、帰ってきてくたさい』
郵便局の不在届を提出して、ひどく変形した拇印を役員に心配された後に、郵便局の手洗い場で手と顔を洗い、口をゆすぐ。拇印を今のものに変更して、大きな段ボールを開ける。食べきれない量の米と、野菜と、レトルト食品と、詰め替え洗剤。地元の近況報告と一緒に、夕日が沈む海の写真。「夕日が綺麗だったので撮ったよ!」との一言が添えられているが、「夕日」と言うには海の割合が多すぎる写真だった。それくらい、海が身近なんだ。青い海。都会とは違う、青い海。砂浜。白い砂浜。沈む太陽。小学生と行った海はこんな色じゃなかった。ふと、あの小学生達は、あの色の海の絵を描くのだろうかと思った。あの海しか知らず、大海原はあの色なんだと思うのだろうか。と。それはなんとも、狭い狭い水槽の中で、人工の餌を食べているみたいだった。あの生意気な小学生達が、少しばかり気の毒になる。でも、海にビニール袋を流して、それを食わせるのはやっぱり、あいつらなんだろう。
『帰るよ、近いうちに。仕事が中々、見つからなかったら。海の写真、綺麗だった』
そう母さんに送って、仕送りの礼を付け加える。家電量販店から返信はこなかった。
電車のドアが開くと、蝉の声がした。風が涼しい。ヒゲを伸ばせる。空気が軽い。こんなホームに人が居ないのかと驚いた。視界に緑がある。看板広告でも、切りそろえられて不気味でもない緑。ヒゲがなびく。塩の香りがする。工場とは違う塩の香り。そのまま、しばらくは駅のホームから海を見た。
砂浜に、小学生くらいの男の子がいた。長い木の棒を持って砂浜に何か描いている。全身を使って、右に左に、前へ後ろへ。ある程度描いたと思うと、木の棒を置き、頭を掻きながら遠くからそれを見て、軽く揺れ、また木の棒を持つ。円をいくつか描いて、木の棒を海に投げ捨てた。
男の子は、海に流れていく木の棒を見て佇み、砂浜から出ていった。裸足だった。そうだよな、靴なんていらないんだ。太陽に照りつけられていた裸足から、社長の革靴を思い出す。爪が出てしまってはコンクリートの地面はさぞ歩きづらいだろう。との心配は要らなかった。靴を履くんだろう。社長はきっと、幼い頃から靴を履き、拇印ではなく印鑑を使ったんだろう。爪を気にしなくていい猫だったんだ。爪の痛みを知らなくて、僕のコンプレックスなんて一ミリも理解していなかったんだ。僕は腹の底から納得して、大海原に出たって僕はまだまだ田舎者だなあと、今までの陰口に同意した。
その日の夕飯はネズミだった。母さんが僕の好物を覚えてくれていたようで、豪勢なネズミ料理が出た。口角を上げた笑顔を作って「好物、覚えててくれたんだ」と頑張って言った。大きな声でいただきますを唱えて、箸を持ち、置いて、麦茶を飲み、箸を持ち、副菜を食べて、副菜にドレッシングをかけて、副菜を食べて、箸を置いて、麦茶を飲み、トイレに立って、鏡に映った自分を見て、何もせずに食卓に戻る。
「ドレッシング、変わったね」
以前のドレッシングの味なんて覚えていなかったけど、トイレから戻ってすぐにそう言った。
「ドレッシングの味なんてこだわってた?」
「いやあ、まあ」
「違う種類あるけど、それ使う?」
「うん、ああ、ぜひ」
母さんが席を立つ。冷蔵庫からドレッシングを取り出して、食卓に置こうとして、スペースを作るため皿を持ち上げる。重そうな皿でも、上にたくさん物が載っている皿でもなかった。
「スカート、ほつれてる」ネズミ料理の話をされたくなくて、そう言った。
ガシャン
プレス機みたいな音がした。スカートの裾が少しほつれていただけで、それを踏んでよろけたわけでもなかった。母さんの手から皿が落ち、床で散らばった。僕はプレス機を前に動けなくなる。尻尾の先まで毛が逆立ち、瞬きが出来なくなる。息を短く三回吸って、吐くのを忘れた。
「あちゃー、やらかした」
母さんは、慌てるわけでもなく、静かに悲しそうにそう言った。
「最近、多いのよねえ」皿を拾うより前に、箒を持ってくるより前に、後ずさるより前に言い訳みたいにそう言って、固まっている僕を恥ずかしそうに見て、指を触った。強張って、動かない指。母さんは、ゆっくりゆっくり皿を拾う。動かない指で皿を拾う。慣れた手つきで拾っていて、割れ物入れの中には今回の皿以外にも、他に皿の残骸が入っていた。母さんは、皿の破片を拾うのを手伝えない僕を見て、辛そうに微笑む。僕は、微笑みに笑い返した。笑えているかは分からなかった。
「母さん」
小さく声をかける。続ける言葉は考えていなかった。「んー、何か言った?」丸まった背中から、声が聞こえる。僕は、目の前のネズミ料理を見る。箸を持つ。ネズミを割く。ネズミつかむ。ネズミを口に入れる。ネズミを噛む。醤油の味がした。塩の味はしなかった。ネジは出てこなかった。マイクチップも出てこなかった。ネズミを飲み込む。
「ネズミ、やっぱり母さんの味が一番だよ」
ネズミが食卓にいた。僕の家の食卓にはネズミがいて、プレス機があって、僕より早くクビになってしまいそうな母さんがいた。このままじゃいけない。僕はネズミを食べる。僕はネズミを食べる。僕は、ネズミを食べた。ネズミを食べた。ネズミの味がした。都会にはいないネズミ。ここにはわんさかいるネズミ。ネズミを食べて、たくさんネズミを食べた。美味しいのがやるせなくて、食べた分だけ母さんが笑顔になるのが悲しくて、ネズミを食べた。もう食べなくてもいいように、一生分のネズミを食べた。その日の夜は腹が苦しくて、うなされながら寝たが、久しぶりに、クビになる夢を見ずに済んだ。夢見が悪くないのは、なんと幸せなのかと、布団の中でしみじみ思った。
ふかふかの布団から出て、冷たい水で顔を洗って、朝日を浴びる。テレビでは天気予報をやっていた。気象予報士が顔を洗わなかったらしい。だから今日は、晴れ。
「あらー、今日の子は可愛い子だねえ。私にもこんな可愛い娘が出来るかしら」母さんは、気象予報士見ながら、嬉しそうに言う。「孫でも良いわよ。可愛い可愛い女の子」
「ああ」僕はチャンネルを変える。変えた先には測量士がいて、また変えた。「うん、そうだね」
母さんは、スカートのほつれを直していた。裁縫中の指には、絆創膏が三枚ほど貼られている。針仕事でだか昨日の皿でだか分からなかったので聞いてみると、「お揃いね」とだけ言われた。母さんは針仕事が得意だった。僕は、母さんより多く貼られた自分の手の絆創膏を撫でた。
「今日は天気が良いみたいだから、外に行きましょう? 海とか。いいじゃない、あんたの作った海亀が見られるかもよ」
「昨日、海に男の子がいたよ」
「夏休みだものね、男の子ぐらいいるでしょう」
夏休みかあ。と、初めて知って、下りの電車がやけに混んでいたのを思い出す。男の子が何を書いていたのか見たくなった僕は、寝グセを解いてから、母さんと海に行った。母さんの小さな歩幅がもどかしく、靴を脱いだ。懐かしかった。全部が全部、懐かしかった。
懐かしさを踏みしめた砂浜に、懐かしいものが描かれていた。海亀の絵。その海亀の甲羅には肉球が乗っかっていた。僕が勤めていた会社の肉球。僕の肉球。真ん中の爪が少し長くて、肉球の手首側が摩耗している。紛れもない僕の肉球だった。海亀の絵の、甲羅に僕の肉球をかざす。ほとんど一緒で、ピッタリはまる。
「あの」工場でたくさん聞いた幼い声がして振り返ると、昨日の男の子がいた。砂浜に残った僕の肉球と母さんの肉球の後ろに、小さな肉球があった。
「もしかして、海亀を作った人ですか」
やけに興奮した様子で、しきりに足踏みをし、小さな手を開いたり閉じたりしていた。
「作ったけど、本当に最後の、最後にちょっと手を加えるだけだよ」
消えそうな声で僕がそう言うと、男の子は大きく手を振り、飛び跳ねて、僕の手を取った。そして絆創膏だらけなのを見て痛くなかったかと謝り「おれ、海亀大好きなんです」と教えてくれた。
「最後の最後って、仕上げってことですか」
「海亀作りというか、ロゴマーク作り、みたいな」
「めっちゃカッコイイじゃないですか」
「この肉球は、僕の」
「へええ、そうなんですね! やっぱり海亀の甲羅って硬いですか」
「うん。そうだね、とっても硬い」
「海亀のこと、おれに教えてください! 一回しか見たことないんです、海亀」
なんて答えようかと迷って、母を見た。母は海亀を見て、僕を見て、口元に弧を描く。パンフレットの文章を思い出し、切って貼って繋ぎ合わせて説明した。男の子は屈託のない笑顔で、僕の話を聞いた。相槌が多く、僕の話を逐一に尊敬し、大きなリアクションで、誰にでも出来る説明を聞いてた。僕は男の子の透き通った瞳が眩しくて、砂浜の海亀を指さしながら説明した。海亀の絵を、上手だねと褒めれば、嬉しそうにしていた。
「お兄さんも、説明上手です」
家電量販店で、電子レンジの説明もろくに出来なかったのを思い出した。誰もそこまで聞いていないと怒られるほど説明したら、ガラス拭きを任された。電子レンジは、結局は僕以外の店員を呼ばれていた。
「上手かあ」
誰でも出来るよ。と、この男の子にぶつけてしまうのは心ない気がして、それだけ言った。海亀の話をたくさんして、裸足なのを褒めて、海はこの色だけじゃないんだよと教えてあげた。あくびはしなかったし、目の前でビニール袋も捨てなかった。それだけで、ただそれだけで救われた気がした。ここにいる子どもが全部こんなに熱心に話を聞いてくれやしないと、僕の子どもの頃から知っていた。でも、救われた。ただ一人、こうやって聞いてくれるだけで。ただ一匹、こうやって、海亀が生きているだけで。
「またいつか」を言うか迷って言わないで、男の子とさよならをした。
「楽しそうだったねえ」母さんが言った。僕のことか男の子のことが分からなかったけど、頷いた。
「誰でも出来るよ」僕は母さんに言った。母さんの顔を見ることが出来ずに言った。
「そうだね、あの子も海亀の話が出来るようになっただろうから。お友達に言うか、自分の子どもに言うかもしれないし、家に帰ってお母さんに言うのかもしれないね」
「誰でも出来るって、本当に難しいよ」母さんが呟いた。
僕は静かに頷いた。男の子に「またいつか」を言わなくてよかったと思った。
「あなたの肉球は素晴らしい。私はまさに、あなたのような人材を探していた」
僕は丁度、家電量販店でガラス窓拭きのバイトをしていた。視線は窓の外だったが、焦点は右と左に動く僕のふかふかの手だったもので、そう声をかけられ頭の毛が逆立った。とんがった耳に入ってくるラジオでは、顔を洗うだけで高給を得ている気象予報士と、額の大きさだけで経済を動かす測量士の番組をやっていて、僕はそれに耳を傾けていたから急な声掛けに追い付けなかった。僕は半分だけ頷いて、回すように首を傾げ、失礼を誤魔化すために喉をゴロゴロと鳴らした。
万が一にでも小さな雑巾から指先が飛び出てしまい、ガラスを引っ掻いてしまわないように、手首側の肉球をはみ出させて窓を拭いていた。左右にガラスが擦れる。ガラスの端で雑巾が曲がる。右左に肉球が擦れる。その音が気に入られたらしい。肉球の弾力性と、肉球の周りの毛のがいかに音を引き立たせているかを彼は褒め「あなたは唯一無二だ」「あなたこそ弊社に必要だ」と、のぼせ上がってしまいそうなことを、真っ白な毛で覆われた口で真っ直ぐに言っていた。「唯一無二」僕はあの気象予報士や測量士みたいになれるのではないかと期待した。代えの利かないもの。疎まれ望まれる存在。
「ぜひ、我が社への入社をご一考願いたい。あなたしかいないんだ」
これから先の生活を考えると、頭がくらくらした。
渡された名刺にはCEOと書かれていた。青みがかった黒スーツと買ったばかりのようにツヤツヤしている革靴。緑色の蛇模様のネクタイは、一切鳥を寄せ付けないだろうなと感じた。閑古鳥を寄せ付けないネクタイ。ああ、このキャッチコピーは売れそう。そうやって地方の大学の経営学の上っ面の知識だけはあって、資格も技術もコネも無い怠け者の僕を、拾ってくれた唯一の会社だった。
社長に案内されたのは、海亀工場だった。
僕は、海亀の甲羅と海亀の中身を、針金みたいな背骨でスッと繋げてから溶接し、耐水加工をしている見学用のラインを見た。手渡された小学生用のパンフレットには「海亀は首を引っ込めない。しかし、引っ込める海亀がいても良いじゃないか!」との一文が書かれていた。首元にシワを作り、ゆっくりと首を引っ込めてから、勢いをつけ餌を食む海亀の姿は獲物を捕ろうとする僕らの姿に少し似ていて、僕はここなら「野生っぽい」だとか「野良猫」だとか言われなさそうだとホッとした。海亀を溶接する僕の姿も、海亀の甲羅を磨く僕の姿も、何故だか自然と想像がついた。
耐水加工を施された海亀が、ラインの最後に置かれている水槽の中に積まれていた。それこそ、首を引っ込めないと潰されてしまうんじゃないかと思うくらいにギュウギュウと、甲羅と甲羅の隙間からまた甲羅が見える。これから大海原へ放たれるはずなのに、海亀たちはひどく窮屈そうだった。そんな僕の視線に気がついた社長は、にっこりと笑って僕に言った。
「最終作業の従業員が、里帰りをしてしまったもので。適任者が現れれば、すぐ仕上げをして解放しますよ」
社長は甲羅を一つ持ち上げて、その左下に肉球を添えた。そのときに少し爪が出た。工場の見学中、僕は都会生まれ都会育ちなんだと自慢していた社長が、そんな簡単に爪が出てしまってはコンクリートの地面はさぞ歩きづらいだろうなと感じた。拇印を押す度に嫌な顔をされてきたバイト生活初年の自分を思い出して、社長もきっと肩身の狭い思いをしてきたのだろうと同情した。甲羅に爪の跡だけがついた気がした。
「里帰りですか」
「なので、あなたにはこうやって最後に海亀の甲羅へ印を入れる仕事をして欲しいのです」
「印を入れる、拇印ですか」
「いえ、そんな大層なものじゃございませんが、我が社のシンボルを入れて欲しいのです」社長は、甲羅を撫で、僕の右手をとった。そのときには爪が出なかった。「我が社では、自然を尊重しております。海亀は近年、希少生物に指定されたでしょう」僕の左手にあるパンフレットを指さした。そんなことが載っていた気がする。「人工海亀ではありますが、一つ一つが違う個体であることを世間にアピールし、シンボルだけは私たちの肉球を。生命の宿りを、海亀に込めるのです」パンフレットの文章を切って貼って繋ぎ合わせたようなことを言った。
社長は僕の目を見て、笑みを浮かべながら手を強く握った。僕には刺激が強すぎる社長の緑色の目から逃げると、海亀の水槽があった。ギュウギュウに積まれた海亀。僕の家よりも狭そうだった。線路沿いの、古く、家賃が安い僕のワンルームよりも狭い部屋に詰め込まれた海亀。僕は海亀が気の毒だった。
海亀を、助けてやりたいと思った。僕の爪なら海亀の甲羅にだって、くっきりハッキリ跡が付くだろう。社長も跡は付けられるだろうが、社長にはこの海亀達の気持ちは分かりっこないだろう。きっとこの工場みたいに広い家に住んでいるんだろう。きっとこの海亀達を見て、にっこりと笑えるくらい恵まれた環境にいるのだろう。海亀だって僕が良いに違いない。僕に適任の仕事。僕が唯一無二になれる仕事。
「僕だけ、ですか」「あなただけだ」
「僕にしか出来ない?」「あなただけ。この仕事はあなたにしか出来ない」
僕にスポットライトが当たった気がした。逆転人生はここから始まる。僕は海亀の水槽をのぞき込んだ。海亀が助けてくれと僕を見ていた。全身から力が湧いてきた。「はい」僕は呟き、肯定を噛みしめ、海亀の甲羅を撫でる。硬かった。僕の柔らかい肉球を押し付ける。海亀は身じろぎした。
社長の目を見る。鳥でも狩りそうな目をしていた。鳥を寄せ付けないネクタイが、社長の首に巻かれている。「入社を希望します」僕は社長へくっきりハッキリとそう言った。契約書の拇印では、僕の爪の跡が付いた。
その次の日から、近所の小学校の子ども達が、校外学習だといって大勢で工場見学にやってきて、僕の拇印と同じマークの付いた海亀を大都会の海に放った。タイムリーな環境問題を地域ぐるみで扱って、見学料を取る算段だと社長から教えてもらった。大きなあくびをして、社長の説明を聞く子ども達。コンベアーと通路の間のガラスを肉球で擦り、音を鳴らす。チラリとも見ないパンフレットをそこらに置いて、走り回る。社長の静かな視線に立ち止まって、立ち止まるのに飽きると、また走り出す。その繰り返しだった。
「俺知ってる、この辺の人工海亀って、ほとんどがビニール袋を食べて死んじゃうんだ!」
一人の子どもが叫んだ。空気を読む子どもがしんとなり、空気を読めない子どもがこんなの無駄だと騒ぎ立てた。そんな馬鹿なと僕は鼻で笑っていたのに、社長は険しい顔をしていた。鼻を掻き、咳払いをして「君、パンフレットにも載っていないのによく知っているじゃないか」とすまし顔を作って言った。そして続けて「だから、続ける必要がある。環境汚染が無くなって、ビニール袋でも何でも私達の海亀が食べて死んでしまうのが、無くなるまで」と、たいして聞いてもいない小学生達に大きな声で言っていた。
その後に「これは秘密なんだが」と前置きをし「海亀は生まれた場所へ帰ってきて産卵をするが、我が社の海亀は、どこでも産卵が出来る。なのでこの海亀は、世界中に希望を届けることになる」そう、パンフレットにも書かれている秘密でもない秘密を、堂々と言っていた。小学生達は感心したように唸り、耳を立て、社長の話を熱心に聞くようになった。僕は胸の奥が熱くなった。社長の人心掌握の上手さに舌を巻く。この工場で、この社長の下で働けることを誇りに感じた。社長は蛇のネクタイを得意げになぞった。
僕はあくせく働いた。僕の作業は決して欠かせない最後の仕上げのため、残業が誰よりも多かった。終電を逃して泊まり込み、ヒゲについた寝グセは同僚に笑われた。工場の近くの定食屋は常連になった。尻尾の先にオイルがよく染みついて、とうとう色が落ちなくなった。焦げ茶の毛の僕の尻尾の先は、ほんのり黒くて、オイルの臭いがする。あくびばかりの小学生も相手した。練習だと言われ給料は出なかったが、パンフレットを読み上げるだけだったので、家電量販店より楽にできた。まさにこれこそ幸せだと思っていたが、僕は、蛇の狡猾さを知らない鴨だった。
最初こそは、僕が何匹目に作った海亀か数えていたが、それも数え切れなくなっていた。何匹か目の海亀に印を入れていると、あくびは出ておらず、悲しみも嬉しさも無いのに涙が出てきた。目が乾燥しているらしい。目を強くつむった。二、三度、目をつむる。海水の塩が空気中に溶けているので、塩が目に染みた。染みた塩が涙で流れ、目を開けた。コンベアーから流れてきた海亀が、水槽に四匹もたまっていた。僕は窮屈そうな海亀を思い出す。水槽の中で、甲羅に隠れてうごめく海亀。たまに足の先が出て、他の海亀の甲羅に足の爪が引っかかり、光沢のある甲羅に傷がつく。おぞましさから尻尾を振った。急いで海亀を取り出して、肉球を押し付ける。尖っていた爪の先は削れ、手入れもしていないのに平たくなっていた。平たい端はさらに削れ、いびつに反れる。爪も一緒に押し付けると、爪の付け根から血が出た。僕の爪が小さく動く。左右に動く。印が確実に付くように、僕は爪先まで甲羅に押し付けた。左右に擦れる。ガラス窓拭きのバイトとは正反対だなと思った。唯一無二になれているのがどうにも嬉しく、汗をぬぐった肉球の先は固い。おぞましかった。疲れているんだと思う。おぞましいだなんて、どうかしている。印の色が赤色で助かった。僕の血が目立たない。僕は血を舐めた。塩と鉄の味がした。血の味なのか工場の味なのか、インクの味なのかよく分からなかったが、懐かしい味がした。
これは例えば、小さなころに捕ったネズミ。虫の音と汽笛の音と、波の音しかしない地元を思い出した。道を歩けばネズミがいた。あそこのネズミは唸るほど美味かった。そうすると、腹が鳴った。コンベアーの音でなにも聞こえやしなかった。よかった。貧乏猫だと笑われない。僕は胸をなでおろす。ここがコンベアーの音がうるさい工場で良かった。僕への悪口は耳を澄ましたって聞こえやしない。胸をなでおろすついでに、深いため息が出た。工場の塩の中に僕の息が混ざった。口の中は塩の味だったから、僕がため息をついたところでこの空気は何も変わらないだろうと思った。塩の空気を吸い込めば、また瞬きをしたくなる。目を開ければ海亀は七匹か、八匹になっていた。僕は海亀を拾い上げる。
海亀の下に、ネズミがいた。ネズミが隠れていた。甲羅と甲羅の隙間に潜り込んだネズミ。しなやかな体を持ち、茶色だか、灰色だかよく分からない毛のネズミ。くすんだ色が海亀の甲羅とよく似ていた。毛並みは多分だが僕より良い。最近はめっきり見なくなった気がする。僕が働きに実家を離れ、一人暮らしを始めてから。そう、生活の水準が上がったからだろう。地元にたくさんいたな、と思い出す。美味かったな。腹が鳴った。唾を飲み込んだ。塩の味がする。口の中の塩の味を消してしまいたかった。海亀を拾うふりをしてネズミに触れた。何を食べているんだろうかと思った。ブクブクと太っている。まるで健康体だ。僕なんかより、よっぽど。
ネズミは、猫の爪を知らないようだった。ネズミが掌の乗る。肉球の上に座る。まだら模様で汚い僕の肉球の上に乗る。固くなった肉球の上のネズミ。
「そうだろう、こんな都会で僕のように、お前に爪を立て、牙をむく田舎者はいないだろう」僕の、ネズミへの脅しも工場の騒音に消えた。
僕はネズミを食った。固い安い干し肉じゃなく、軟らかい生きたネズミの味がした。鉄の味がした。血かと思った。血の味じゃなかった。工場の味がした。ほのかにインクの味がした。何より美味しい気も、今までに食べたことがないくらい不味い気もした。
ガリッ
僕の口からネジが出てきた。海亀には使われていないネジで、初めて見るネジだった。僕は、ジャリジャリする口の中身を吐き出した。ネズミだったものから、マイクロチップが出てくる。海亀に使われているものと似ているチップだった。希少生物にしか使ってはいけないチップで、小さく「ネズミ」と書いてあった。海亀だったら「海亀」と書かれている箇所に「ネズミ」と彫られてあった。軟らかかった。
「おい!」
コンベアーより大きい声がして、僕の頭が叩かれる。海亀の甲羅のプレス機を思い出した。僕の耳は潰れ、立ち、恐ろしさからまた潰れる。口の中を切って、塩が染みた。プレス機は社長だった。今にも僕を引き裂いてしまいそうな目で僕を見ていた。先ほどのネズミはこんな気持ちだったのだろうか。今なら、海亀だけでなくネズミにも印を入れられるだろうと思った。
「おい、なにしてる」社長の声は、コンベアーなんて知らないらしく、僕の耳に届く。呼吸が浅くなった。尻尾の先まで毛が逆立ち、オイルの臭いが広がる。「仕事をしてます」
声が出ているか分からなかったが、聞こえないぞと怒鳴られたから、声が出ているらしかった。
「取引先のネズミがここに逃げた。試作品で、あれ一つしかない」
口の中が痛かったが、顎を動かすことも、つばを飲み込むことも出来ず、僕はジッとする。ジッとしているはずなのに、手は震えた。膨らんだ毛先が僕の肉球をくすぐる。
社長は、僕を見る。僕の目を見て、口を見て、手を見て、また、目を見る。
「食ったのか」
社長は、僕の手を取った。契約するときみたいに。そのまま、僕の手首に手を添えて、強く強く握りしめる。赤い爪が出る。僕の、唯一無二が出る。
「明日から来るな」
僕は、聞こえないふりをした。くっきりハッキリと聞こえた。聞こえないで欲しかった。海亀が積まれる。じゃあ、この海亀はどうなるんだろう。このまま水槽の中で、動けないで、そのまま、広い世界も見ずに? この海亀達には僕しかいないのに。社長は、僕の手を捨てるように払った。このまま海亀に食べてもらえればどんなによいかと思った。僕は、海亀に謝った。生まれた場所に居続けるのが、どんなに惨めなことかを僕は知っていた。狭い水槽の中で過ごすのがどんなに窮屈かも、大海原で揉まれるのがどんなに幸せかも僕は知っていた。
「代わりならいくらでもいる」なのに、社長はそう言った。
やっぱり、コンベアーの音が大きくて、社長の声が聞こえていないんだ。僕はそう理解して、でも説教の最中に聞き返すのは失礼だよな。と、僕は聞こえなかったのを誤魔化して、ゴロゴロと喉を鳴らした。社長は僕を見る。やけに長い沈黙だった。社長は尻尾をゆっくり振り、革靴を床に何度も擦りつけていた。床を磨いているわけではなさそうだった。
「僕しかいないって、言ったじゃないですか」
僕はたくさんの勇気を出して訴えた。社長は、眉を上げ、僕から顔を背けた。工場の天井を見上げ、腕時計を見やり、耳を触る。社長はため息を付いた。そのまま小さく息を吸い、小さく笑った。「そんなこと、言ったか」そう言って僕の肩をポンポン触る。そして声高らかに笑った。
「来るなよ、いいな」社長はいなくなった。水槽の中でうごめく海亀と僕だけが残った。
僕は、辞表に拇印を押した。僕がこの海亀工場で押した最後の拇印だった。ネズミの破片がまだ手に残っていたらしく、拇印にまで、汚く不揃いなぶち模様が出来た。これから先の生活を考えると、気が狂ってしまいそうなほど頭がくらくらした。
三日ぶりの僕の大海原ワンルームは窮屈だった。シリコン人工ネズミがこびり付いた口をゆすごうと蛇口をひねったが、水が出ない。ポストには家賃滞納の通知書が入っていた。明日には大家が直接、催促に来るらしい。
布団に倒れ込んだ。電車の音がうるさい。となりの部屋のテレビの音がうるさい。
「大海原って、うるさいなあ」
僕は枕に言う。耳を塞いで布団の上で丸まった。硬い肉球からは心臓の音がした。海亀からも、今日のネズミからも聞こえなかった心音がする。僕は生きていた。大海原で、一人で、寂しくか弱く生きていた。カーテンの閉め切った部屋に灯る蛍光灯はさながらスポットライトだったが、この僕はとうてい電波には流せなかった。
頭はボーッとしていたが、求人だけは探す気力があった。格安スマホでハローワークを開く。オススメ広告に出てくる海亀の生態記事が、今日からは辛い。「ビッグになってきます」とだけ伝えて辞めた家電量販店の店長に、クビになったと報告を入れる。爪が潰れたおかげで、スマホの操作がやりやすい。
『てかみとといていますか』
一件、通知が来た。母さんからだった。「手紙届いていますか」
『しんはいてす、おくれていますか』
三分経って、また来た。「心配です、送れていますか」
家賃滞納と一緒に不在届も投函されていた。それのことだろうと推測して、返信する。
『送れてるよ。今日、工場クビになった』また、三分経った。『しんはいてす』
この人は、爪が潰れていないんだろうなと思った。とがった鋭い爪で、アスファルトのせいで潰れていない健康な爪を、一切配慮しない端末を操って、もどかしい思いをしているんだろうなと思った。目の下にクマが出来て、新しい模様みたいになっていないんだろうな。尻尾がオイルに染まっていないんだろうな。ベンチで寝て、猫背が変な方向に曲がっていないんだろうな。水槽の中にいるはずの母さんが、水槽の中の海亀のはずの母さんが、どうにも羨ましくなった。
『いつても、帰ってきてくたさい』
郵便局の不在届を提出して、ひどく変形した拇印を役員に心配された後に、郵便局の手洗い場で手と顔を洗い、口をゆすぐ。拇印を今のものに変更して、大きな段ボールを開ける。食べきれない量の米と、野菜と、レトルト食品と、詰め替え洗剤。地元の近況報告と一緒に、夕日が沈む海の写真。「夕日が綺麗だったので撮ったよ!」との一言が添えられているが、「夕日」と言うには海の割合が多すぎる写真だった。それくらい、海が身近なんだ。青い海。都会とは違う、青い海。砂浜。白い砂浜。沈む太陽。小学生と行った海はこんな色じゃなかった。ふと、あの小学生達は、あの色の海の絵を描くのだろうかと思った。あの海しか知らず、大海原はあの色なんだと思うのだろうか。と。それはなんとも、狭い狭い水槽の中で、人工の餌を食べているみたいだった。あの生意気な小学生達が、少しばかり気の毒になる。でも、海にビニール袋を流して、それを食わせるのはやっぱり、あいつらなんだろう。
『帰るよ、近いうちに。仕事が中々、見つからなかったら。海の写真、綺麗だった』
そう母さんに送って、仕送りの礼を付け加える。家電量販店から返信はこなかった。
電車のドアが開くと、蝉の声がした。風が涼しい。ヒゲを伸ばせる。空気が軽い。こんなホームに人が居ないのかと驚いた。視界に緑がある。看板広告でも、切りそろえられて不気味でもない緑。ヒゲがなびく。塩の香りがする。工場とは違う塩の香り。そのまま、しばらくは駅のホームから海を見た。
砂浜に、小学生くらいの男の子がいた。長い木の棒を持って砂浜に何か描いている。全身を使って、右に左に、前へ後ろへ。ある程度描いたと思うと、木の棒を置き、頭を掻きながら遠くからそれを見て、軽く揺れ、また木の棒を持つ。円をいくつか描いて、木の棒を海に投げ捨てた。
男の子は、海に流れていく木の棒を見て佇み、砂浜から出ていった。裸足だった。そうだよな、靴なんていらないんだ。太陽に照りつけられていた裸足から、社長の革靴を思い出す。爪が出てしまってはコンクリートの地面はさぞ歩きづらいだろう。との心配は要らなかった。靴を履くんだろう。社長はきっと、幼い頃から靴を履き、拇印ではなく印鑑を使ったんだろう。爪を気にしなくていい猫だったんだ。爪の痛みを知らなくて、僕のコンプレックスなんて一ミリも理解していなかったんだ。僕は腹の底から納得して、大海原に出たって僕はまだまだ田舎者だなあと、今までの陰口に同意した。
その日の夕飯はネズミだった。母さんが僕の好物を覚えてくれていたようで、豪勢なネズミ料理が出た。口角を上げた笑顔を作って「好物、覚えててくれたんだ」と頑張って言った。大きな声でいただきますを唱えて、箸を持ち、置いて、麦茶を飲み、箸を持ち、副菜を食べて、副菜にドレッシングをかけて、副菜を食べて、箸を置いて、麦茶を飲み、トイレに立って、鏡に映った自分を見て、何もせずに食卓に戻る。
「ドレッシング、変わったね」
以前のドレッシングの味なんて覚えていなかったけど、トイレから戻ってすぐにそう言った。
「ドレッシングの味なんてこだわってた?」
「いやあ、まあ」
「違う種類あるけど、それ使う?」
「うん、ああ、ぜひ」
母さんが席を立つ。冷蔵庫からドレッシングを取り出して、食卓に置こうとして、スペースを作るため皿を持ち上げる。重そうな皿でも、上にたくさん物が載っている皿でもなかった。
「スカート、ほつれてる」ネズミ料理の話をされたくなくて、そう言った。
ガシャン
プレス機みたいな音がした。スカートの裾が少しほつれていただけで、それを踏んでよろけたわけでもなかった。母さんの手から皿が落ち、床で散らばった。僕はプレス機を前に動けなくなる。尻尾の先まで毛が逆立ち、瞬きが出来なくなる。息を短く三回吸って、吐くのを忘れた。
「あちゃー、やらかした」
母さんは、慌てるわけでもなく、静かに悲しそうにそう言った。
「最近、多いのよねえ」皿を拾うより前に、箒を持ってくるより前に、後ずさるより前に言い訳みたいにそう言って、固まっている僕を恥ずかしそうに見て、指を触った。強張って、動かない指。母さんは、ゆっくりゆっくり皿を拾う。動かない指で皿を拾う。慣れた手つきで拾っていて、割れ物入れの中には今回の皿以外にも、他に皿の残骸が入っていた。母さんは、皿の破片を拾うのを手伝えない僕を見て、辛そうに微笑む。僕は、微笑みに笑い返した。笑えているかは分からなかった。
「母さん」
小さく声をかける。続ける言葉は考えていなかった。「んー、何か言った?」丸まった背中から、声が聞こえる。僕は、目の前のネズミ料理を見る。箸を持つ。ネズミを割く。ネズミつかむ。ネズミを口に入れる。ネズミを噛む。醤油の味がした。塩の味はしなかった。ネジは出てこなかった。マイクチップも出てこなかった。ネズミを飲み込む。
「ネズミ、やっぱり母さんの味が一番だよ」
ネズミが食卓にいた。僕の家の食卓にはネズミがいて、プレス機があって、僕より早くクビになってしまいそうな母さんがいた。このままじゃいけない。僕はネズミを食べる。僕はネズミを食べる。僕は、ネズミを食べた。ネズミを食べた。ネズミの味がした。都会にはいないネズミ。ここにはわんさかいるネズミ。ネズミを食べて、たくさんネズミを食べた。美味しいのがやるせなくて、食べた分だけ母さんが笑顔になるのが悲しくて、ネズミを食べた。もう食べなくてもいいように、一生分のネズミを食べた。その日の夜は腹が苦しくて、うなされながら寝たが、久しぶりに、クビになる夢を見ずに済んだ。夢見が悪くないのは、なんと幸せなのかと、布団の中でしみじみ思った。
ふかふかの布団から出て、冷たい水で顔を洗って、朝日を浴びる。テレビでは天気予報をやっていた。気象予報士が顔を洗わなかったらしい。だから今日は、晴れ。
「あらー、今日の子は可愛い子だねえ。私にもこんな可愛い娘が出来るかしら」母さんは、気象予報士見ながら、嬉しそうに言う。「孫でも良いわよ。可愛い可愛い女の子」
「ああ」僕はチャンネルを変える。変えた先には測量士がいて、また変えた。「うん、そうだね」
母さんは、スカートのほつれを直していた。裁縫中の指には、絆創膏が三枚ほど貼られている。針仕事でだか昨日の皿でだか分からなかったので聞いてみると、「お揃いね」とだけ言われた。母さんは針仕事が得意だった。僕は、母さんより多く貼られた自分の手の絆創膏を撫でた。
「今日は天気が良いみたいだから、外に行きましょう? 海とか。いいじゃない、あんたの作った海亀が見られるかもよ」
「昨日、海に男の子がいたよ」
「夏休みだものね、男の子ぐらいいるでしょう」
夏休みかあ。と、初めて知って、下りの電車がやけに混んでいたのを思い出す。男の子が何を書いていたのか見たくなった僕は、寝グセを解いてから、母さんと海に行った。母さんの小さな歩幅がもどかしく、靴を脱いだ。懐かしかった。全部が全部、懐かしかった。
懐かしさを踏みしめた砂浜に、懐かしいものが描かれていた。海亀の絵。その海亀の甲羅には肉球が乗っかっていた。僕が勤めていた会社の肉球。僕の肉球。真ん中の爪が少し長くて、肉球の手首側が摩耗している。紛れもない僕の肉球だった。海亀の絵の、甲羅に僕の肉球をかざす。ほとんど一緒で、ピッタリはまる。
「あの」工場でたくさん聞いた幼い声がして振り返ると、昨日の男の子がいた。砂浜に残った僕の肉球と母さんの肉球の後ろに、小さな肉球があった。
「もしかして、海亀を作った人ですか」
やけに興奮した様子で、しきりに足踏みをし、小さな手を開いたり閉じたりしていた。
「作ったけど、本当に最後の、最後にちょっと手を加えるだけだよ」
消えそうな声で僕がそう言うと、男の子は大きく手を振り、飛び跳ねて、僕の手を取った。そして絆創膏だらけなのを見て痛くなかったかと謝り「おれ、海亀大好きなんです」と教えてくれた。
「最後の最後って、仕上げってことですか」
「海亀作りというか、ロゴマーク作り、みたいな」
「めっちゃカッコイイじゃないですか」
「この肉球は、僕の」
「へええ、そうなんですね! やっぱり海亀の甲羅って硬いですか」
「うん。そうだね、とっても硬い」
「海亀のこと、おれに教えてください! 一回しか見たことないんです、海亀」
なんて答えようかと迷って、母を見た。母は海亀を見て、僕を見て、口元に弧を描く。パンフレットの文章を思い出し、切って貼って繋ぎ合わせて説明した。男の子は屈託のない笑顔で、僕の話を聞いた。相槌が多く、僕の話を逐一に尊敬し、大きなリアクションで、誰にでも出来る説明を聞いてた。僕は男の子の透き通った瞳が眩しくて、砂浜の海亀を指さしながら説明した。海亀の絵を、上手だねと褒めれば、嬉しそうにしていた。
「お兄さんも、説明上手です」
家電量販店で、電子レンジの説明もろくに出来なかったのを思い出した。誰もそこまで聞いていないと怒られるほど説明したら、ガラス拭きを任された。電子レンジは、結局は僕以外の店員を呼ばれていた。
「上手かあ」
誰でも出来るよ。と、この男の子にぶつけてしまうのは心ない気がして、それだけ言った。海亀の話をたくさんして、裸足なのを褒めて、海はこの色だけじゃないんだよと教えてあげた。あくびはしなかったし、目の前でビニール袋も捨てなかった。それだけで、ただそれだけで救われた気がした。ここにいる子どもが全部こんなに熱心に話を聞いてくれやしないと、僕の子どもの頃から知っていた。でも、救われた。ただ一人、こうやって聞いてくれるだけで。ただ一匹、こうやって、海亀が生きているだけで。
「またいつか」を言うか迷って言わないで、男の子とさよならをした。
「楽しそうだったねえ」母さんが言った。僕のことか男の子のことが分からなかったけど、頷いた。
「誰でも出来るよ」僕は母さんに言った。母さんの顔を見ることが出来ずに言った。
「そうだね、あの子も海亀の話が出来るようになっただろうから。お友達に言うか、自分の子どもに言うかもしれないし、家に帰ってお母さんに言うのかもしれないね」
「誰でも出来るって、本当に難しいよ」母さんが呟いた。
僕は静かに頷いた。男の子に「またいつか」を言わなくてよかったと思った。