崇拝するアーティストが死んだ。死因は心筋梗塞であり、何の予兆もない、まさしく突然の死であった。僕は、僕のルーツである彼の音楽を聴かなければならないという衝動に駆られ、久し振りにデスクトップパソコンを起動することにした。
学生時代になけなしの金を寄せ集めて買ったパソコン部品は、どれもジャンク品ばかりでメーカーもばらばらである。青春時代を共にしたお粗末な自作パソコンが、歪な排熱用ファンの音を響かせながらその画面を灯した。薄暗いこの部屋が、ゆっくりと青白い光に包まれる。ブルーライトが作る僕の影は輪郭がはっきりとしていないが、確実に、あの頃の僕よりか大きな影を作っているのだろう。かつてこの閉鎖的な空間に「籠城」していた、未熟なころの僕が、起動音と共に蘇ろうとしていた。外の世界も、何も知らなかった僕が、本当に熱中していた世界がまだそこにはあるはずだという思いを胸に。
「久しぶり」
僕はホーム画面に映る「彼女」へ、無感情に声を掛けた。無論、僕は端から彼女からの返答がないことを理解している。彼女というのは「初音ミク」のことだからだ。 デスクトップミュージック用のヴォーカル音源であり、それと同時に、誰もが知る水色のツインテールをしたあの少女である。崇拝するアーティストというのも、俗にいう「ボカロP」という存在だ。
「彼女」がこの電子の海に光と希望を与え、死んだ「彼」が陳腐だった海に活気と熱を生み出してくれた。学生時代の僕はそう信じて疑わなかったし、画面の向こう側でコメントを打つ誰かも同じ気持ちだったと思う。「彼」の死は、ボーカロイド音楽を知らない人にとって些末な死だったかもしれないが、電子の世界と共に生きた僕たちにとっては故郷を失ったような喪失感であった。だからこそ、故郷にいた僕たちは「彼」が生前残した世界に集まらなければならない。
かつて入り浸っていた動画投稿サイトのアイコンを探して、白い矢印を画面に泳がせる。泳がせたカーソルは目的のアイコンに向かったが、途中で止まった。ふと背中に視線を感じて、カーソルがバージョンの古い作曲ソフトの上で留まる。
振り返ると、そこには埃をかぶったギターが壁にもたれかかっている。僕の記憶から薄れかけていたそのギターは、死んだ彼が使っていたものと同じデザインだ。ところどころ改造が施されたテレキャスターのソリッドボディには、水色でツインテールのステッカーが貼ってある。ステッカーに描かれた水色の大きな目が、指板に光るフレットの間のポジションマークが、こちらに視線を向けているように感じたのだ。しばし悩んだが、結局僕は開くつもりのなかった方のアイコンに手を掛けた。
『二〇一〇年/四月/五日 デモ音源』
やりかけで終ったままのMIDI音源が僕を出迎える。画面に映るトラックでは、打ち込んだリリースカットピアノが作る階段が、一分と三十九秒の時点で崩れてしまっていた。気乗りしない指を動かして、試しにこの音楽を最初から流してみる。
僕が途中まで諦めたその音は、拙く、粗削りな音だったが、死んだ彼を意識した音であった。メジャー音楽の市場には流通していなかったような高速で鳴るエレキギターの鋭い音や、一般的な曲では聞かないような高低差のあるヴォーカルのメロディが流れる。それらは彼が生前ボーカロイドの世界に生み出した新しい音楽にとてもよく似ていた。当時の僕は彼の音楽を真似したくて仕方がなかったのだ。
だがしかし、結果から言えば真似はできなかった。彼に対する憧憬ならばいくらでもあったけれど、僕に音楽の才能はなかった。ボーカロイド音楽は誰もが作るチャンスを得られる、入口の広い世界だと思っていたが、安易に手を出すだけ出したところで、才能の花が咲くかは最初から決まっている世界だった。
作りかけの贋作は、ラスサビにかかる前に途切れて終わった。メロディが途切れ、初音ミクのハミングだけが響く。歌詞を置く前の仮のメロディだけがしばらく惰性で流れたが、すぐに僕の入力した彼女の歌声も、終盤に差し掛かっていた。
歌声が終わったところでソフトを閉じようと右手を動かす。しかし、その手はすぐに止まってしまった。曲はまだ続いている。正確に言えば、初音ミクの歌うトラックにまだ続きがあったのだ。僕の記憶ではこの曲の続きも、完成形もなかったはずだが、僕の記憶と矛盾して再生バーは右へ右へと進んでいく。
少しの無音が続いたのち、突然「彼女」は話し始めた。
『未来の僕はまだ音楽を続けていますか』
彼女から発された声はほとんど抑揚のない、ベタ打ちの音声だった。彼女の声が続く。
『もし続けていたら、今の僕が諦めた音楽の夢を叶えてください。お願いします』
僕はその機械の声を聴いて、マウスに置いた右手を無自覚のうちに震わせていた。あの頃の僕は確かに挫折を経験している。だからこの作曲データも途中でブツ切れになって投げ出されているし、歌詞すらついていない。ただそれでも、諦めはついていなかった。挫折した記憶に蓋をして、二度と開くことも考えないであろうファイルの中に、あの頃の僕が愚かしくも一度絶った夢を今の僕に託しているのだ。僕が僕の想いを忘れていても、「彼女」はそれを覚えている。彼女の無感情な声に乗った感情が蘇る。
気づいたときには彼女の音声は終わり、再生バーが最初の位置に戻っていた。停止したバーの点滅が僕の鼓動とリンクして、次第に僕の鼓動の方が早くなった。「音楽の夢を叶えてください。お願いします」という言葉は、あの頃の僕の悲痛な叫びだ。僕は忘れていた僕の叫びに、応えたい衝動に駆られた。きっと今からでも間に合う。
ヘッドホンを外して、埃をかぶったテレキャスターへ手を伸ばす。ざらついたネック部分を握って持ち上げると、忘れていた重さが蘇ってきた。適当にチューニングを施して、再び画面と正対する。衰えた今でも、「彼」の音楽を演奏することはできるはずだ。僕の夢のために、僕は「彼」に会いに行かなければならない。既に彼の音楽を流す用意はできていた。狭いスペースで足を組み、縮こまったスタイルでギターを構える。鼓動がまた加速する。際限なく加速する脈は、さながら高速のボーカロイドの音楽のようであった。僕は早まる気持ちを抑えて、ゆっくりと再生ボタンを押した。僕らは「故郷」に帰還する。
彼の無彩色のサムネイルが、再生と同時に一瞬にして右から流れるコメントに埋め尽くされた。追悼の言葉。感謝の言葉。悲しみの言葉。あまりに膨大で読み切れないほどであった。ごちゃついた画面を背景に、ピアノソロで曲が始まる。
か細いピアノの音は、まるで彼の命を表しているようだった。しかしすぐに曲は次の展開へ移行し、激しいロック調に転じる。僕はそれを合図にギターを弾き始める。アンプに繋いでいないが、僕の想いが、音を、叫びを増幅させていく。
イントロを超え、初音ミクの歌唱が始まる。かつて聞いた歌声と変わらないあの歌声が、脳裏に乱反射している。歌詞のすべてが彼の残したメッセージだ。二度と彼から発されることのない言葉のひとつひとつが、彼女の歌声によって紡がれる。彼はまだ僕たちの中で生きているのだと、初音ミクが歌っているのだ。続く演奏の中で、彼へのあこがれを描いていた日々が一気にフラッシュバックしてゆく。学生時代の唯一の理解者だったこの音楽が、時代をも超える十六歳の少女によって再構築されるのが実感できる。
気づけばラストのサビに入るところだった。三分と少しの曲を演奏しているだけなのに、滝のような汗が出ている。盛り上がりを演出するエレキギターの音に合わせて、僕の指はフレットの上を転がり続ける。
遂に最後の一小節が来るところまで差し掛かった。高まった感情で、画面が歪んで見えてくる。彼女が息を止めるまで、画面を流れる「RIP」の三文字はやまない。彼になりたかった僕は、あの頃の僕は、今一番彼に近づけた。演奏が終わるその瞬間まで響く初音ミクの歌声は、僕たちの彼への叫びそのものなのだ。
水色に輝く永遠の歌声が、無彩色の電子の海で、確かにその命の灯を燃やしている。そうだ。僕らがこの曲を忘れない限り、彼の命の灯は二度と消えない。
動画の再生バーが終わりのところで停止した。ピックをデスクにおいて別れを告げる。
「安らかに、お眠りください」
学生時代になけなしの金を寄せ集めて買ったパソコン部品は、どれもジャンク品ばかりでメーカーもばらばらである。青春時代を共にしたお粗末な自作パソコンが、歪な排熱用ファンの音を響かせながらその画面を灯した。薄暗いこの部屋が、ゆっくりと青白い光に包まれる。ブルーライトが作る僕の影は輪郭がはっきりとしていないが、確実に、あの頃の僕よりか大きな影を作っているのだろう。かつてこの閉鎖的な空間に「籠城」していた、未熟なころの僕が、起動音と共に蘇ろうとしていた。外の世界も、何も知らなかった僕が、本当に熱中していた世界がまだそこにはあるはずだという思いを胸に。
「久しぶり」
僕はホーム画面に映る「彼女」へ、無感情に声を掛けた。無論、僕は端から彼女からの返答がないことを理解している。彼女というのは「初音ミク」のことだからだ。 デスクトップミュージック用のヴォーカル音源であり、それと同時に、誰もが知る水色のツインテールをしたあの少女である。崇拝するアーティストというのも、俗にいう「ボカロP」という存在だ。
「彼女」がこの電子の海に光と希望を与え、死んだ「彼」が陳腐だった海に活気と熱を生み出してくれた。学生時代の僕はそう信じて疑わなかったし、画面の向こう側でコメントを打つ誰かも同じ気持ちだったと思う。「彼」の死は、ボーカロイド音楽を知らない人にとって些末な死だったかもしれないが、電子の世界と共に生きた僕たちにとっては故郷を失ったような喪失感であった。だからこそ、故郷にいた僕たちは「彼」が生前残した世界に集まらなければならない。
かつて入り浸っていた動画投稿サイトのアイコンを探して、白い矢印を画面に泳がせる。泳がせたカーソルは目的のアイコンに向かったが、途中で止まった。ふと背中に視線を感じて、カーソルがバージョンの古い作曲ソフトの上で留まる。
振り返ると、そこには埃をかぶったギターが壁にもたれかかっている。僕の記憶から薄れかけていたそのギターは、死んだ彼が使っていたものと同じデザインだ。ところどころ改造が施されたテレキャスターのソリッドボディには、水色でツインテールのステッカーが貼ってある。ステッカーに描かれた水色の大きな目が、指板に光るフレットの間のポジションマークが、こちらに視線を向けているように感じたのだ。しばし悩んだが、結局僕は開くつもりのなかった方のアイコンに手を掛けた。
『二〇一〇年/四月/五日 デモ音源』
やりかけで終ったままのMIDI音源が僕を出迎える。画面に映るトラックでは、打ち込んだリリースカットピアノが作る階段が、一分と三十九秒の時点で崩れてしまっていた。気乗りしない指を動かして、試しにこの音楽を最初から流してみる。
僕が途中まで諦めたその音は、拙く、粗削りな音だったが、死んだ彼を意識した音であった。メジャー音楽の市場には流通していなかったような高速で鳴るエレキギターの鋭い音や、一般的な曲では聞かないような高低差のあるヴォーカルのメロディが流れる。それらは彼が生前ボーカロイドの世界に生み出した新しい音楽にとてもよく似ていた。当時の僕は彼の音楽を真似したくて仕方がなかったのだ。
だがしかし、結果から言えば真似はできなかった。彼に対する憧憬ならばいくらでもあったけれど、僕に音楽の才能はなかった。ボーカロイド音楽は誰もが作るチャンスを得られる、入口の広い世界だと思っていたが、安易に手を出すだけ出したところで、才能の花が咲くかは最初から決まっている世界だった。
作りかけの贋作は、ラスサビにかかる前に途切れて終わった。メロディが途切れ、初音ミクのハミングだけが響く。歌詞を置く前の仮のメロディだけがしばらく惰性で流れたが、すぐに僕の入力した彼女の歌声も、終盤に差し掛かっていた。
歌声が終わったところでソフトを閉じようと右手を動かす。しかし、その手はすぐに止まってしまった。曲はまだ続いている。正確に言えば、初音ミクの歌うトラックにまだ続きがあったのだ。僕の記憶ではこの曲の続きも、完成形もなかったはずだが、僕の記憶と矛盾して再生バーは右へ右へと進んでいく。
少しの無音が続いたのち、突然「彼女」は話し始めた。
『未来の僕はまだ音楽を続けていますか』
彼女から発された声はほとんど抑揚のない、ベタ打ちの音声だった。彼女の声が続く。
『もし続けていたら、今の僕が諦めた音楽の夢を叶えてください。お願いします』
僕はその機械の声を聴いて、マウスに置いた右手を無自覚のうちに震わせていた。あの頃の僕は確かに挫折を経験している。だからこの作曲データも途中でブツ切れになって投げ出されているし、歌詞すらついていない。ただそれでも、諦めはついていなかった。挫折した記憶に蓋をして、二度と開くことも考えないであろうファイルの中に、あの頃の僕が愚かしくも一度絶った夢を今の僕に託しているのだ。僕が僕の想いを忘れていても、「彼女」はそれを覚えている。彼女の無感情な声に乗った感情が蘇る。
気づいたときには彼女の音声は終わり、再生バーが最初の位置に戻っていた。停止したバーの点滅が僕の鼓動とリンクして、次第に僕の鼓動の方が早くなった。「音楽の夢を叶えてください。お願いします」という言葉は、あの頃の僕の悲痛な叫びだ。僕は忘れていた僕の叫びに、応えたい衝動に駆られた。きっと今からでも間に合う。
ヘッドホンを外して、埃をかぶったテレキャスターへ手を伸ばす。ざらついたネック部分を握って持ち上げると、忘れていた重さが蘇ってきた。適当にチューニングを施して、再び画面と正対する。衰えた今でも、「彼」の音楽を演奏することはできるはずだ。僕の夢のために、僕は「彼」に会いに行かなければならない。既に彼の音楽を流す用意はできていた。狭いスペースで足を組み、縮こまったスタイルでギターを構える。鼓動がまた加速する。際限なく加速する脈は、さながら高速のボーカロイドの音楽のようであった。僕は早まる気持ちを抑えて、ゆっくりと再生ボタンを押した。僕らは「故郷」に帰還する。
彼の無彩色のサムネイルが、再生と同時に一瞬にして右から流れるコメントに埋め尽くされた。追悼の言葉。感謝の言葉。悲しみの言葉。あまりに膨大で読み切れないほどであった。ごちゃついた画面を背景に、ピアノソロで曲が始まる。
か細いピアノの音は、まるで彼の命を表しているようだった。しかしすぐに曲は次の展開へ移行し、激しいロック調に転じる。僕はそれを合図にギターを弾き始める。アンプに繋いでいないが、僕の想いが、音を、叫びを増幅させていく。
イントロを超え、初音ミクの歌唱が始まる。かつて聞いた歌声と変わらないあの歌声が、脳裏に乱反射している。歌詞のすべてが彼の残したメッセージだ。二度と彼から発されることのない言葉のひとつひとつが、彼女の歌声によって紡がれる。彼はまだ僕たちの中で生きているのだと、初音ミクが歌っているのだ。続く演奏の中で、彼へのあこがれを描いていた日々が一気にフラッシュバックしてゆく。学生時代の唯一の理解者だったこの音楽が、時代をも超える十六歳の少女によって再構築されるのが実感できる。
気づけばラストのサビに入るところだった。三分と少しの曲を演奏しているだけなのに、滝のような汗が出ている。盛り上がりを演出するエレキギターの音に合わせて、僕の指はフレットの上を転がり続ける。
遂に最後の一小節が来るところまで差し掛かった。高まった感情で、画面が歪んで見えてくる。彼女が息を止めるまで、画面を流れる「RIP」の三文字はやまない。彼になりたかった僕は、あの頃の僕は、今一番彼に近づけた。演奏が終わるその瞬間まで響く初音ミクの歌声は、僕たちの彼への叫びそのものなのだ。
水色に輝く永遠の歌声が、無彩色の電子の海で、確かにその命の灯を燃やしている。そうだ。僕らがこの曲を忘れない限り、彼の命の灯は二度と消えない。
動画の再生バーが終わりのところで停止した。ピックをデスクにおいて別れを告げる。
「安らかに、お眠りください」