水溜りが乾いていく様なんて気にも留めない。小さな池が湿った地面になって、アスファルトが白くなるまでに、どれくらいの時間がたったかなんて知らない。コンビニで売っているエビのサンドウィッチが、いつの間にか三百円台後半へと踏み込んでしまったのも、それと同じようなことだったんだろうと思う。髪の毛が伸びるように、スカートが短くなるみたいに、少しずつ少しずつ水分を失って、ほんの少しだけ乾いた白パンに、どこの国かもわからない細切れの海老と、レタスを挟んでいた。それだけで一食とするには少々心許なかったが、私は毎日の昼休みにそれを食べていた。飯代の余りすらも貴重な財源としている零細高校生の私にとっては、たまごサンドに比べると、エビのサンドは高かった。カツサンドと値段が変わらないことを考えると尚更割高に感じた。そんなにエビが好きなんですねと言われると、そんなこともなかった。味の薄いエビを味の薄い麦茶で流すのに刺戟は無かった。私の好みはソース系の、味の濃い食べ物だった。ときたま隣の席の朝倉が「たまには良いかなってさあ」とか言いながらカップ焼きそばを買ってくるのに「太りそー」なんて口を叩きながらも、実は羨ましく思っている。あんまり美味しそうに食べるので、一言で絶交になるような、酷い言葉を思いついたりして、内心をドキドキさせたこともある。しかし、お湯の入った容器をコンビニから教室まで慎重に運ぶ様を想像すると、不格好すぎて出来なかった。トイレで湯切りだなんて以ての外だった。私は、もしサーカスで働くのなら、チケット売りをしたい。
今日は特につまらない日だった。時間割に数学が二時間もあった。普段なら本を読んでいてもバレない歴史は小テストがあった。窓の外を眺めながら呆けているしかなかった。四限が終わりのチャイムを聞きながら、廊下のベンチに教材を置いて、移動教室から直接コンビニへと向かう。ときおり、背の高い男子が走って私を追い越していく。自動ドア越しに店員を見る、今日は「声優」と「カチューシャ」だった。「声優」はやたらと声の綺麗な大学生らしき女アルバイトのことで、「カチューシャ」は黒いカチューシャで長髪を纏めている男の店員だ。どちらも私が名付けた。どうせ私は「エビサンド」だとか呼ばれているのだろうから、私が店員をあだ名で呼ぶのも許されるはずだ。菓子パンを物色する学生の間をすり抜け、いつものエビサンドを手に取る。三人分並んで辿り着いたのは「声優」のレジだった。レジ袋の有無を聞かない上、おしぼりを付けてくれるから良い店員だ。きっと将来、良い企業に勤めたりするんだろうなとか勝手に思っている。
コンビニから戻ると、私の机には消しゴムのカスが残っていた。四限にここを使っていたのは、物理選択のやつら……はあ、これだから理系の唐変木は。偏見は私の苛立ちを和らげる。ほんの少し残ったもやもやを手のひらでパッパッとやって床を少し汚した。こんなところを見られていたら、中等部までなら嫌われ者の誰かが告げ口したかもしれない、昔の私のような人間が。しかし、この場合は誰が悪いのだろうか。私は一対三対六だと考える。私が一で、カスを残して行ったやつが三で、床に捨ててはいけないと言い出したやつが六だ。どうせ教室は掃除をするのだから良いじゃないか、埃が消しカスに絡んで掃くのが楽になるかもしれない。だれも上履きの汚れなんて気にしないだろう。教師というのは見て見ぬフリが得意なくせに、変なところを良く見ている。私は綺麗になった机の上でエビのサンドを袋から出した。
私は自分の行動に疑問を持っていた。私は将来、エビのサンドになりたいのだろうか。好物でもないのに同じものを食べ続ける理由はない。つまるところ私は、エビのサンドを食べ続けることによって、エビのサンドのあるところに我ありといった風にして、徐々に一体化することで、エビのサンドになろうとしているのだろうか。エビのサンドになったとしたら、どこからがエビでどこからがパンなのだろうか。私の先祖はエビなのだろうか、パンなのだろうか、サンドイッチ伯爵なのだろうか。エビのサンドが好きなのではなく、変わったものを食べる自分に酔っているのだ……という簡単な回答は用意されてはいるのだけれど、それが正解だとはなんとなく思えない。どうなんだどうなんだ。毎日の昼休みは、同じエビのサンドを食べながら、同じことを考えて終わっている。
ある朝のニュース番組であった。テレビの液晶から「エビを食べるとアトピーになる」なんて話が飛び出した。私は味噌汁を啜りながら固まった。喉の奥で酸っぱい味がした
午前中はずっと気が気じゃなかった。クラスの皆は、高校の皆はニュースを見ているだろうか。また、テレビの言っていることは本当の事なのだろうか。頬を触ると、普段なら気にも付かない凹凸が気にかかった。変にひっかいてしまったせいか、顔が少し赤くなってしまった。それをトイレの鏡で見て、更に焦った。あっという間に四限が終わってしまった。コンビニへと向かう足取りは重かった。自動ドアが開くころには、すでに七人ほどがレジ前に列を作っていた。飲み物を選んでいる学生と肩がぶつかった。謝らなかった。いつもより大きく見えた冷蔵棚は私を拒むようにごうごうと稼働音を鳴らしていた。冷気が肌に沁みる気がした。エビサンドは青白い照明に照らされて、黒っぽく不味そうに見えた。私はそれを見て、世界の真実に気が付いたような気がした。私は今まで、こいつに騙されていたんだ。そんな気がしてきた。そもそもエビなんて、なんだよ、虫じゃんか! いっつも水の中だから気が付かなかったけど、きっと地上じゃビービー鳴くんだ。やかましく。私は少し指先を迷わせて、カツサンドを手に取った。長い列の尻尾に並んだ。私は人と人との間に揃った。
ぼーっとしたまま行進して、レジへカツサンドを置くと、「袋いりますか」と聞かれた。高く美しい声色だった。私は不意をつかれて「えっ」と発音した後、「ください」と言った。おしぼりも付いてきた。
教室まで戻ってきた。消しゴムのカスは無かったけど、机の上をパッパッと払った。なんか良くわからない砂とかが飛んだ気がする。レジ袋からカツサンドを出すと、隣の席の朝倉が「あれ、エビじゃないの?」と言ってきた。朝倉の机の上ではカップ焼きそばが汗をかいていた。今月で三回目だった。朝倉はいつも幸せそうで、ニュースなんて見ていなさそうだ。ウクライナのことを思えば私にはカップ焼きそばなぞ食べられない。私はなんと答えようか、と逸れる目が一往復する間だけ考えて、「売り切れてたんだよね」と返した。何も知らない朝倉は「そうなんだ、健康そうだよねー、エビ」だなんて抜かした。私だってそう思ってたさ。なんとなくエビというのは体に好さそうな味がしていたから。カツサンドを食べる。消極的にかじる。カツは思っていたより味が薄かった。そんなに好きな味じゃなかったので、たまごサンドにすれば良かったと後悔した。
翌朝、ニュース番組ではスーツを着た人たちが頭を下げていた。事実無根の風評被害をバラまいてしまい申し訳ございません、エビを食べるとアトピーになるという言に科学的根拠はありません。ということであった。お母さんが「良かったわねー、あんた、エビ好きじゃない」と言った。そんなことないよ、エビなんてー……と答えたが、実は好物なのかもしれない。
昨日はエビに申し訳のないことをした。罪悪感に気まずくなりながら、コンビニの自動ドアをくぐる。そこで私の目に飛び込んできたのは、衝撃の文言だった。黄色と赤のギザギザしたPOPには「新商品・エビカツサンド」と書かれていた。エビが、エビが寄ってきた。今謝ったら、許してくれるんだ。情報なんかに流された私が悪いのに。虫みたいで五月蠅そうだとか、謂れのないことを言ってしまったのに、カツになってまで。とっても熱かっただろうに! 私は猛烈に感動しながらエビカツサンドに手を伸ばした。しかし、直前で気が付いてしまった。エビカツサンドは、なんと四百七十円もしたのだ。私は昼飯を買いに来るときは、いつも百円玉を四枚しか持ってこない。財布をポケットに入れるとスカートが歪んで不格好だからだ。これじゃあ足りないじゃないか! 良く見ると、エビサンドも値上がりしており、四百二十円もした。いつの間にそんなことになっていたんだ。こんなのってないじゃないか。私は渋々三百円のたまごサンドを取ってレジへ行くと、美しい声で「袋いりますか」と聞かれた。昨日、一度袋を受け取ったからだろう。私は「いりません」と答えたが、明日からも聞かれ続けるかもしれない。おしぼりは付いてきた。
教室へ戻るまでの間も、私は後悔に苛まれ続けた。財布を持っていけば良かった。そう思うと同時に、ワクワクが胸を占めていった。エビカツサンド、一体どんな味なのだろう。味は濃いのだろうか、意外と素朴かもしれない。でも、それはそれで悪くない。もともと、私はエビサンドを食べ続けていたのだから。とはいえ、たまごサンドも食べたことが無かったので、楽しみには違いなかった。一年半の間エビサンドしか食べていなかったし、他の商品を買ったことは無い。エビサンドに不満はないが、新しい出会いに憧れる時期でもある。私がたまごサンドを机に置くと、朝倉が「あれ、今日も売り切れてたの?」と聞いてきたので、「いいや、たまにはいいかなって」と返した。たまごサンドには輪切りにされたゆで卵がいくつも挟まっていた。一口食べる。つなぎにマヨネーズが使われているようで、思ったよりも味が濃かった。もぐもぐと咀嚼すると、やたらとゆで卵のキュッキュッとした、卵白の感じが気にかかった。もじゃもじゃと、異物感を感じてくる。歯茎とキュッキュッと卵白が擦れた。私はじれったくなって無理やりゴクンと飲み込んだ。
やたらと気になる、キュッキュッとした、ぐにぐにとした食感が気になる。なんだこれは、なんなんだこれは。私は訝しみつつもサンドを頬張る。
「ちょっと」
朝倉は怪訝な表情をしていた。飯中に話しかけてくるなんて珍しい。私は飲み込んでから目線だけで何だと言った。
「顔、赤くない? 大丈夫?」
初めて聞く、心配そうな声色だった。手鏡を取ろうと思って手を伸ばすと、私の指先は、腕は、茹であがったエビのように真っ赤だった。毛を刈られた羊のようだった。
次の瞬間には、私はばったりと倒れていた。全身が震えて動けない。呼吸が苦しい。ああ、しまった、忘れてたけど、私、卵白ダメなんだっけ。エビサンド生活が長すぎてうっかりしていた。
「え、高野、高野! 大丈夫!? ちょっと、誰か、先生呼んで! 誰か……」
朝倉の怒声を遠くに聞きながら、私は間近に床を見つめていた。寝転がってみると思ったより汚くって、消しゴムのカスだとか、髪の毛だとかが沢山落ちていた。こんなことならもっと掃除してくれたらよかったのに。視界の明るいところから暗くなっていった。私の口元から、よだれが零れて、水溜りが出来ていた。
気が付くと、真っ暗な中に、陰影のない、やたらと明るいエビがいた。体を伸ばしたエビは大きく、タンクローリーのようだった。私はエビがご先祖様なのだと直感した。エビはひげをピクピクと動かした。それが笑顔なのか、怒っているのか分からなかった。私の口から出たのは「ごめんなさい」だった。申し訳ない気がした。エビは私の事を守ってくれていたのに、私が勝手に死んでしまったのだと思った。上手くやれなかったことを悔しく思った。
よく見ると、エビは腹部から血を流していた。きっと自らの肉を少しずつ削って、エビサンドにすることによって、私の事を守ってくれていたんだ。私は理解した。
「ありがとうございました、私にはもうエビのサンドウィッチはいりません」
私が頭を下げると、エビが微笑んだのが分かった。私はなんだか許された気がして、落ち着いて眠ることが出来た。
退院はすぐだった。私の命は結構危なかったらしい。お医者さんに今後は気を付けてくださいと言われ、クレヨンの形をした注射器を貰った。
朝、鏡を見ると頬から一本だけやたらと長い毛が伸びていた。こう、実際に長くなるまで気が付けないものだなと思う。切ったりするのも面倒だったので、爪で摘まんでぴっと抜き取った。テレビは急な雨に注意、雨に注意と言っていた。嘘かもしれないが、念のため折り畳み傘を持った。母親が「たまごはダメよ、たまごはダメ」としつこく言うのにいってきますを返して、四日ぶりに登校した。廊下で先生とすれ違うと、「おお高野、たまごには気を付けろよ」と言われた。教室に入ると、小声で「エビ来た、エビ来た」とクスクス笑うのが聞こえた。全身を真っ赤にして痙攣していたからだろうか。滑稽というより、グロテスクに見えたかもしれない。そんなところを笑うなんて最低がすぎるけど、不思議と腹は立たなかった。もしかしたら感覚がエビ側になったのかもしれない。
「おかえり、大丈夫?」課題をやっていた朝倉がペンを置きながら言った。
「無事」
メッセージでのやり取りはあったのだが、直に朝倉の顔を見るとそれはそれで少し安心した。夢に出てきた大きなエビは確かでスピリチュアルな救いと映ったが、私が生きていられているのは、朝倉が意外にもテキパキと動いてくれたからな気がしている。朝倉はまだ終わっていない課題テキストをパタンと閉じて私に向き直った。
「高野、たまごサンドには気を付けなよ」
「わかってるって」
なんだか今日は注意喚起が多いな。カバンを下ろすと、朝倉の見た目に少し違和感を覚えた。さては、こいつ、少しふくよかになっているな。少し時間を空けたから分かったのだろうか。果たして、これを伝えるのが優しさか、伝えないのが厳しさか。私はたまごを克服したわけじゃないけれど、よだれで作った水溜りはとっくに乾いていた。エビの身は白く、後ろ向きだった私は伸び伸びと尾を伸ばした。ぐーんと回る血液の中に、ふと喜ばれそうな言葉を思いついたので、内心をドキドキさせながら思い切ったのだ。
「今日、カップ焼きそば一緒に買いに行かない? 実は食べてみたかったんだよね」
今日は特につまらない日だった。時間割に数学が二時間もあった。普段なら本を読んでいてもバレない歴史は小テストがあった。窓の外を眺めながら呆けているしかなかった。四限が終わりのチャイムを聞きながら、廊下のベンチに教材を置いて、移動教室から直接コンビニへと向かう。ときおり、背の高い男子が走って私を追い越していく。自動ドア越しに店員を見る、今日は「声優」と「カチューシャ」だった。「声優」はやたらと声の綺麗な大学生らしき女アルバイトのことで、「カチューシャ」は黒いカチューシャで長髪を纏めている男の店員だ。どちらも私が名付けた。どうせ私は「エビサンド」だとか呼ばれているのだろうから、私が店員をあだ名で呼ぶのも許されるはずだ。菓子パンを物色する学生の間をすり抜け、いつものエビサンドを手に取る。三人分並んで辿り着いたのは「声優」のレジだった。レジ袋の有無を聞かない上、おしぼりを付けてくれるから良い店員だ。きっと将来、良い企業に勤めたりするんだろうなとか勝手に思っている。
コンビニから戻ると、私の机には消しゴムのカスが残っていた。四限にここを使っていたのは、物理選択のやつら……はあ、これだから理系の唐変木は。偏見は私の苛立ちを和らげる。ほんの少し残ったもやもやを手のひらでパッパッとやって床を少し汚した。こんなところを見られていたら、中等部までなら嫌われ者の誰かが告げ口したかもしれない、昔の私のような人間が。しかし、この場合は誰が悪いのだろうか。私は一対三対六だと考える。私が一で、カスを残して行ったやつが三で、床に捨ててはいけないと言い出したやつが六だ。どうせ教室は掃除をするのだから良いじゃないか、埃が消しカスに絡んで掃くのが楽になるかもしれない。だれも上履きの汚れなんて気にしないだろう。教師というのは見て見ぬフリが得意なくせに、変なところを良く見ている。私は綺麗になった机の上でエビのサンドを袋から出した。
私は自分の行動に疑問を持っていた。私は将来、エビのサンドになりたいのだろうか。好物でもないのに同じものを食べ続ける理由はない。つまるところ私は、エビのサンドを食べ続けることによって、エビのサンドのあるところに我ありといった風にして、徐々に一体化することで、エビのサンドになろうとしているのだろうか。エビのサンドになったとしたら、どこからがエビでどこからがパンなのだろうか。私の先祖はエビなのだろうか、パンなのだろうか、サンドイッチ伯爵なのだろうか。エビのサンドが好きなのではなく、変わったものを食べる自分に酔っているのだ……という簡単な回答は用意されてはいるのだけれど、それが正解だとはなんとなく思えない。どうなんだどうなんだ。毎日の昼休みは、同じエビのサンドを食べながら、同じことを考えて終わっている。
ある朝のニュース番組であった。テレビの液晶から「エビを食べるとアトピーになる」なんて話が飛び出した。私は味噌汁を啜りながら固まった。喉の奥で酸っぱい味がした
午前中はずっと気が気じゃなかった。クラスの皆は、高校の皆はニュースを見ているだろうか。また、テレビの言っていることは本当の事なのだろうか。頬を触ると、普段なら気にも付かない凹凸が気にかかった。変にひっかいてしまったせいか、顔が少し赤くなってしまった。それをトイレの鏡で見て、更に焦った。あっという間に四限が終わってしまった。コンビニへと向かう足取りは重かった。自動ドアが開くころには、すでに七人ほどがレジ前に列を作っていた。飲み物を選んでいる学生と肩がぶつかった。謝らなかった。いつもより大きく見えた冷蔵棚は私を拒むようにごうごうと稼働音を鳴らしていた。冷気が肌に沁みる気がした。エビサンドは青白い照明に照らされて、黒っぽく不味そうに見えた。私はそれを見て、世界の真実に気が付いたような気がした。私は今まで、こいつに騙されていたんだ。そんな気がしてきた。そもそもエビなんて、なんだよ、虫じゃんか! いっつも水の中だから気が付かなかったけど、きっと地上じゃビービー鳴くんだ。やかましく。私は少し指先を迷わせて、カツサンドを手に取った。長い列の尻尾に並んだ。私は人と人との間に揃った。
ぼーっとしたまま行進して、レジへカツサンドを置くと、「袋いりますか」と聞かれた。高く美しい声色だった。私は不意をつかれて「えっ」と発音した後、「ください」と言った。おしぼりも付いてきた。
教室まで戻ってきた。消しゴムのカスは無かったけど、机の上をパッパッと払った。なんか良くわからない砂とかが飛んだ気がする。レジ袋からカツサンドを出すと、隣の席の朝倉が「あれ、エビじゃないの?」と言ってきた。朝倉の机の上ではカップ焼きそばが汗をかいていた。今月で三回目だった。朝倉はいつも幸せそうで、ニュースなんて見ていなさそうだ。ウクライナのことを思えば私にはカップ焼きそばなぞ食べられない。私はなんと答えようか、と逸れる目が一往復する間だけ考えて、「売り切れてたんだよね」と返した。何も知らない朝倉は「そうなんだ、健康そうだよねー、エビ」だなんて抜かした。私だってそう思ってたさ。なんとなくエビというのは体に好さそうな味がしていたから。カツサンドを食べる。消極的にかじる。カツは思っていたより味が薄かった。そんなに好きな味じゃなかったので、たまごサンドにすれば良かったと後悔した。
翌朝、ニュース番組ではスーツを着た人たちが頭を下げていた。事実無根の風評被害をバラまいてしまい申し訳ございません、エビを食べるとアトピーになるという言に科学的根拠はありません。ということであった。お母さんが「良かったわねー、あんた、エビ好きじゃない」と言った。そんなことないよ、エビなんてー……と答えたが、実は好物なのかもしれない。
昨日はエビに申し訳のないことをした。罪悪感に気まずくなりながら、コンビニの自動ドアをくぐる。そこで私の目に飛び込んできたのは、衝撃の文言だった。黄色と赤のギザギザしたPOPには「新商品・エビカツサンド」と書かれていた。エビが、エビが寄ってきた。今謝ったら、許してくれるんだ。情報なんかに流された私が悪いのに。虫みたいで五月蠅そうだとか、謂れのないことを言ってしまったのに、カツになってまで。とっても熱かっただろうに! 私は猛烈に感動しながらエビカツサンドに手を伸ばした。しかし、直前で気が付いてしまった。エビカツサンドは、なんと四百七十円もしたのだ。私は昼飯を買いに来るときは、いつも百円玉を四枚しか持ってこない。財布をポケットに入れるとスカートが歪んで不格好だからだ。これじゃあ足りないじゃないか! 良く見ると、エビサンドも値上がりしており、四百二十円もした。いつの間にそんなことになっていたんだ。こんなのってないじゃないか。私は渋々三百円のたまごサンドを取ってレジへ行くと、美しい声で「袋いりますか」と聞かれた。昨日、一度袋を受け取ったからだろう。私は「いりません」と答えたが、明日からも聞かれ続けるかもしれない。おしぼりは付いてきた。
教室へ戻るまでの間も、私は後悔に苛まれ続けた。財布を持っていけば良かった。そう思うと同時に、ワクワクが胸を占めていった。エビカツサンド、一体どんな味なのだろう。味は濃いのだろうか、意外と素朴かもしれない。でも、それはそれで悪くない。もともと、私はエビサンドを食べ続けていたのだから。とはいえ、たまごサンドも食べたことが無かったので、楽しみには違いなかった。一年半の間エビサンドしか食べていなかったし、他の商品を買ったことは無い。エビサンドに不満はないが、新しい出会いに憧れる時期でもある。私がたまごサンドを机に置くと、朝倉が「あれ、今日も売り切れてたの?」と聞いてきたので、「いいや、たまにはいいかなって」と返した。たまごサンドには輪切りにされたゆで卵がいくつも挟まっていた。一口食べる。つなぎにマヨネーズが使われているようで、思ったよりも味が濃かった。もぐもぐと咀嚼すると、やたらとゆで卵のキュッキュッとした、卵白の感じが気にかかった。もじゃもじゃと、異物感を感じてくる。歯茎とキュッキュッと卵白が擦れた。私はじれったくなって無理やりゴクンと飲み込んだ。
やたらと気になる、キュッキュッとした、ぐにぐにとした食感が気になる。なんだこれは、なんなんだこれは。私は訝しみつつもサンドを頬張る。
「ちょっと」
朝倉は怪訝な表情をしていた。飯中に話しかけてくるなんて珍しい。私は飲み込んでから目線だけで何だと言った。
「顔、赤くない? 大丈夫?」
初めて聞く、心配そうな声色だった。手鏡を取ろうと思って手を伸ばすと、私の指先は、腕は、茹であがったエビのように真っ赤だった。毛を刈られた羊のようだった。
次の瞬間には、私はばったりと倒れていた。全身が震えて動けない。呼吸が苦しい。ああ、しまった、忘れてたけど、私、卵白ダメなんだっけ。エビサンド生活が長すぎてうっかりしていた。
「え、高野、高野! 大丈夫!? ちょっと、誰か、先生呼んで! 誰か……」
朝倉の怒声を遠くに聞きながら、私は間近に床を見つめていた。寝転がってみると思ったより汚くって、消しゴムのカスだとか、髪の毛だとかが沢山落ちていた。こんなことならもっと掃除してくれたらよかったのに。視界の明るいところから暗くなっていった。私の口元から、よだれが零れて、水溜りが出来ていた。
気が付くと、真っ暗な中に、陰影のない、やたらと明るいエビがいた。体を伸ばしたエビは大きく、タンクローリーのようだった。私はエビがご先祖様なのだと直感した。エビはひげをピクピクと動かした。それが笑顔なのか、怒っているのか分からなかった。私の口から出たのは「ごめんなさい」だった。申し訳ない気がした。エビは私の事を守ってくれていたのに、私が勝手に死んでしまったのだと思った。上手くやれなかったことを悔しく思った。
よく見ると、エビは腹部から血を流していた。きっと自らの肉を少しずつ削って、エビサンドにすることによって、私の事を守ってくれていたんだ。私は理解した。
「ありがとうございました、私にはもうエビのサンドウィッチはいりません」
私が頭を下げると、エビが微笑んだのが分かった。私はなんだか許された気がして、落ち着いて眠ることが出来た。
退院はすぐだった。私の命は結構危なかったらしい。お医者さんに今後は気を付けてくださいと言われ、クレヨンの形をした注射器を貰った。
朝、鏡を見ると頬から一本だけやたらと長い毛が伸びていた。こう、実際に長くなるまで気が付けないものだなと思う。切ったりするのも面倒だったので、爪で摘まんでぴっと抜き取った。テレビは急な雨に注意、雨に注意と言っていた。嘘かもしれないが、念のため折り畳み傘を持った。母親が「たまごはダメよ、たまごはダメ」としつこく言うのにいってきますを返して、四日ぶりに登校した。廊下で先生とすれ違うと、「おお高野、たまごには気を付けろよ」と言われた。教室に入ると、小声で「エビ来た、エビ来た」とクスクス笑うのが聞こえた。全身を真っ赤にして痙攣していたからだろうか。滑稽というより、グロテスクに見えたかもしれない。そんなところを笑うなんて最低がすぎるけど、不思議と腹は立たなかった。もしかしたら感覚がエビ側になったのかもしれない。
「おかえり、大丈夫?」課題をやっていた朝倉がペンを置きながら言った。
「無事」
メッセージでのやり取りはあったのだが、直に朝倉の顔を見るとそれはそれで少し安心した。夢に出てきた大きなエビは確かでスピリチュアルな救いと映ったが、私が生きていられているのは、朝倉が意外にもテキパキと動いてくれたからな気がしている。朝倉はまだ終わっていない課題テキストをパタンと閉じて私に向き直った。
「高野、たまごサンドには気を付けなよ」
「わかってるって」
なんだか今日は注意喚起が多いな。カバンを下ろすと、朝倉の見た目に少し違和感を覚えた。さては、こいつ、少しふくよかになっているな。少し時間を空けたから分かったのだろうか。果たして、これを伝えるのが優しさか、伝えないのが厳しさか。私はたまごを克服したわけじゃないけれど、よだれで作った水溜りはとっくに乾いていた。エビの身は白く、後ろ向きだった私は伸び伸びと尾を伸ばした。ぐーんと回る血液の中に、ふと喜ばれそうな言葉を思いついたので、内心をドキドキさせながら思い切ったのだ。
「今日、カップ焼きそば一緒に買いに行かない? 実は食べてみたかったんだよね」
🦐になって欲しいです。