七月十二日
午後八時。私が偉大なる大先生、江戸川乱歩氏の『人間椅子』を読んでいると、どたどたという階段を登る音と共に浴衣姿の妹が私の部屋に入ってきた。
本日は我が家から歩いて五百メートルほどにある安雲神社で、小規模な夏祭りが開催されていた。小規模とは言ってもそれはあくまで面積の話であり、私と限りなく年齢の近い、大学二~三年を除いた大小様々な学生で安雲祭りは例年ごった返しになっている。おそらく妹が浴衣を着て部屋に入ってきたのも、安雲祭りの帰りだからであろう。
私は机に置いてあったお気に入りの栞を手に取り、なるべく本を傷つけない様に開かれたページにそっと栞を挟んだ。本棚に『人間椅子』を入れ、改めてドアの前に堂々と佇む妹に目を向けると、右手に水風船。左手には小さな金魚が入った透明な袋を手からぶら下げており、妹が如何に安雲祭りをエンジョイしてきたかが伺えてきた。
「おねぇちゃん。なんで今日安雲祭りに行かなかったの?」
妹はそう言って私に敵意にも似た鋭い視線を向けた。つい先日小学五年生になった我が妹はどうやら早めの反抗期らしく、やれあれをやれ、これはするななど、それはまあ口うるさく私の一挙手一投足に文句を言う様になっていた。
「すまんな妹よ。私は小説家になるという夢を叶えるが為、絶え間なくインプットをしなくてはならないのだ」
「おねぇちゃん、文字読むの嫌いって前に言ってたじゃん。それに四日前は漫画家になるって沢山絵を描いてたのに」
そう言って妹は私の部屋の奥に置いてある大量のキャンパスを指差した。私はそれに、少し小馬鹿にしたように答える
「だからいつも言ってるだろ。私の場合、後から言った事の方が真なのだ」
妹は私の言葉にムッと頬を膨らませた。
「まあそんな顔をするな、小説はいいぞ。特にこの『人間椅子』は最高だ。手紙という文字媒体というていで書かれているからこそ、あのおぞましき物語を『実は創作の内容だった』という叙述トリックに落とせるわけだ。私はもうすっかりこの作品に心奪われてしまって、今こうして二週目を読み進めているというわけだ。どうだ? 読んでみないか?」
「いやだよ。小説ってなんか疲れるし、アニメの方が見てて疲れないし、内容もほとんど変わらないから」
「いやいや、そうとも言えない。例えば2011年に作られた、約五年前に死んだ幼馴染《めんま》を軸に話が進められる『あの日見た花の名前を僕たちはまだしらない』通称『あの花』は五年後にノベライズ化されたが、アニメでは後半まで主人公の妄想として信じられていなかっためんまの存在が、ノベライズ版では早い段階で全員にめんまの幽霊の存在が受け入れらている。これはノベライズ化するに当たっての様々な『アニメ的要素』を文章化する際の工夫ではあるのだろうが、結果的に一度アニメを見たファン達も楽しめる、一味違う物語になっているのだ。しかし思い出すと『あの花』も最高の物語だった。かつての幼馴染の“お願い”を叶えるために、疎遠になりつつあった幼馴染達が段々と一つになっていき、だけれどもお願いを叶えてしまったらめんまは消えてしまうというこのジレンマが……」
ふと我に帰り妹の方を見ると、妹は水風船をポンポンと手で弾きながら、つまらなそうに輪ゴムの伸縮現象を眺めていた。どうやら妹にとって、私の話はゴムに入った水以下の様だ。
「して、なぜ私が安雲祭りに行かなかった事をそこまで怒る? 別に私と行かなくても、友達と行ったのだから問題はないだろう」
私が話を元の場所まで戻すと、妹も怒りを巻き戻ってしまったようで、再びあの鋭い視線を私に向けた。
「大アリだよ! おねぇちゃんも一緒に行ってくれたら、桃太郎二世の彼氏も家に持って帰れたのに」
「桃太郎二世?」
妹の話をまとめると、どうやら桃太郎二世というのは左手にもっている袋の中の金魚の名前の様だ。なぜ桃太郎なのか。そもそも桃太郎一世氏はどこに行ってしまったのか。桃太郎のパートナーなのになぜ《彼氏》なのか。聞きたい事は山ほどあったが、とにかく私が安雲祭りに行かなかった事によって、金銭的な問題で金魚が一匹しか獲得できなかった事に妹は腹を立てている様だ。
「話はわかった。が、妹よ。そういってお前が母におねだりして買ってもらったハム助と、ハム二郎、三郎は今どうなっている」
私がそう切り出すと、妹は少しフリーズした後、「毎日遊んであげてるもん」と言い訳がましい言葉を吐き捨てた。
ハム助とハム二郎、そして三郎は我が家に住まうハムスター三姉妹だ。妹のおねだり攻撃に根負けした父によって買われた三姉妹だったが、買って一週間経った今日。妹は三姉妹の世話を段々と億劫がり、結局私、母、父の交代交代に三姉妹の世話をする羽目になっている。
「妹よ、数が多ければ良いというわけではない。ひとりぼっちは可哀想だと思う気持ちはわからないでもないが、責任を持って世話ができない人間に生き物を飼う資格はない。第一、金魚一匹でも怪しいものだ」
私がそうきっぱりと言うと、妹もムキになり、「できるもん!」といった言葉を何度も何度も連呼し始めた。呆れて妹と私を隔てるドアを閉めようとすると、妹はさながら創作に出てくる悪質なセールスの様に、ドアに自分の足を当ててドアが閉じられるのを阻止してきた。
「できる……けど、おねぇちゃん。明日から二日間だけ、桃太郎二世の世話して」
ここまでくると呆れを通り越して尊敬の念すら湧いて来る。流石は我が妹、その精神の図太さだけは見習っていきたい。
私に桃太郎二世の世話を頼んできたのは、おそらく翌日に控えている「仲良し三人旅行」の為であろう。もはや家族ぐるみの付き合いになりつつある妹の友人の美咲ちゃん、香織ちゃんとの母親同伴旅行は、百円で手に入れた桃太郎二世の世話なんかよりも余程大事な事なのだろう。
既にハムスター三姉妹の世話も頼まれていた私はそのお願いを断ろうとしたが、その旨を伝えると妹は半泣きで大暴れし始め、「誰も世話しないならどうせ死ぬ! なら私が今殺してやる!」などと物騒な事を言いながら金魚の袋を投げつけようとしたので、やむなく私はそのお願いを受けることとなった。
仕方ない、桃太郎二世にはなんの罪もないのだから。
七月十三日
かくして、私と四匹との生活が始まった。父は妹達の運搬係として駆り出されたため、いよいよもってこの家に住むのは私達だけとなった。
やることはいくつも思いついたが、何はともあれ、まずは桃太郎二世が住む家を作らなくてはならない。そう決心した私は、バックに熱中症対策のポカリと財布を詰め込んで、長くなった髪を後ろで結び、自転車で家から大体十分ほどの場所にあるビバホームへと向かった。
「ビバホームに無ければ諦めろ」がこの地区に代々伝わる暗黙の教えである。
小柄な私にはとても乗りこなす事が出来ないであろう自転車やスポーツウェア、サイゼリアや書店など、これでもかと並ぶ店々を見ると、その言葉が眉唾物ではないことが嫌というほど伝わってくる。そんな様々な誘惑に心動かされながらも、私は『ペットショップ』と書かれた看板の奥にある、全体的に暗めの装飾がされた、いわゆる『お魚コーナー』へと足を踏み入れた。
『お魚コーナー』はハムスター三姉妹の餌が売っている棚のすぐ近くにあるため、その存在は昔から知ってはいた。まるで深海かのように薄暗いその空間を見る度に、私は「もっと装飾があっても良いのでは?」などと無粋な事を思っていたのだが、実際こう足を踏み入れてみると、それは全くの余計なおせっかいであった事がわかった。
私が『お魚コーナー』に入って最初に目にしたのは、ショーベタ・マルチカラープラガット Sグレードという熱帯魚だった。金魚と似た赤色を基調とした見た目をしているのだが、せびれからおびれ、人間で言うところの下半身に当たる部位が綺麗なエメラルド色をしていて、昔動物園で見た孔雀のような煌びやかさがあった。
それだけではない。緑、赤、ピンク、などの大小様々な魚があちらこちらと動き回っている姿は、まるで本場ブラジルのサンバを見ているかの様だった。
なるほど、確かにこれで装飾まで派手にされてしまっては胸焼けしてしまう。いや、そもそもこの飾らない店の雰囲気こそが、魚達の魅力を最大限引き出しているのだろう。
そうやって私が目的も忘れ、物珍しい魚達をじっくりと観察していると、「何かお探しですか?」とエプロンをつけた若い男性が私に話しかけてきた。私が我に帰り、「金魚を飼うために必要なものを一通り見繕って欲しい」と男性に頼むと、大きめの豆腐ぐらいのサイズ水槽の中に、水草、濾過フィルター、砂利などの必要なものが既に付いている、いわゆる『金魚飼育セット』なるものをどこからか持ってきてくれた。
本当はもう少し大きいサイズのものを買ってあげたかったのだが、これ以上のものとなると、豆腐サイズのものに比べて値段もサイズも三倍以上になってしまう。サイズはともかく三倍の値段というのは、万年金欠の貧乏大学生には少々厳しいお値段である。結局、私は最初の豆腐サイズの飼育セットを買い、『お魚コーナー』を後にした。
その後、本屋で数冊本を買い、多少の寄り道を何度かした後にビバホームから出ると、辺りは既に夕焼け色に染まり始めていた。
私は急に家にいる四匹の家族達が心配になった。ハムスター三姉妹はともかく、桃太郎二世はまだその飼育方法が確立されていない。ネットと本の知識をフル活用し、一日二日では死なない環境を作れてはいるとは思うが、所詮は素人の浅知恵。家に帰って腹を天に向けていないという保証はない。
そう思うとどんどんと不安になってきて、私は急いで入口を出てすぐ左に止めてあった自転車へと跨った。
自転車のギアを五から六に切り替え、自動車を追い越さんとする勢いで家へと帰宅すると、ハムスター三姉妹はコロコロと回し車を回して遊んでおり、桃太郎二世は汗だくで帰宅した私を馬鹿にするかの様なアホ顔でこちらを見つめていた。
安堵した一方、ズンとした疲れが私の体を蝕んだ。幸いな事に『金魚飼育セット』の組み立てはそこまで難しくはなく、数分で組み立てを終えた私は、風呂、歯磨きなど人間としての最低限度の身支度を終わらせ、四匹に餌を与えた後に床へとついた。
七月十四日
事件が起きたのは、ちょうど床へとついて十時間ほど経った午前七時の事であった。
私がレム睡眠によって夢と現実の間をうつらうつらとしていると、私のちょうど後頭部の辺りから「おい」「おい」という声が聞こえてきた。
私は寝ぼけた頭は、その声を「父」と認識した。我が家では必ず家族全員で食卓を囲むというルールがあるため、ベットで爆睡をしている私を起こしにきたのだろうと、そう考えた。まだ眠かった私はその声をシカト。再びあの夢と現実の間を彷徨い始めた。
そんな私の頭が「父。今いない」と正常に動作し始めたのは、大体そのお経の様な声を聞き続けて五分ほど経過した辺りであった。父は今いない。では、私を呼ぶこの声は一体誰なのだ?
そう私の脳内コンピューターが問いを投げかけた途端、私の周囲一メートルは緊張感に包まれた。
変質者だろうか? しかしそうであれば、わざわざ私に「おい」「おい」などと声をかける必要なんて、果たしてあるのだろうか。
流石の私でも変質者と対峙したことはない。少なくとも呼びかける以上、話し合いの余地はあるだろうが。最悪の状況を考え、いつでも渾身の右ストレートを放てるよう拳を握り締め、恐る恐る声の聞こえる方に体をのけぞらせた。
声のする方に顔を向けた私は、思わず我が目を疑った。振り返っても、人っ子一人としてそこにはいなかったのだ。にも関わらず、奇怪な「おい」という声は、未だ私の正面から聞こえ続けている。
「おい娘、こっちだ」
一際大きな声だった。私が声が聞こえる場所から発信源を割り出しそちらを覗くと、そこには声の大きさに見合わない、小さな金魚がいた。
「儂は桃太郎二世だ。言葉ぐらい喋っても不思議じゃなかろう」
なぜ桃太郎二世=喋れるという結論になるのだろう。そんな疑問を抱きながらも、桃太郎二世の重鎮のような喋り方に私は思わず畏ってしまった。
「で、何のようでしょうか?」
「うむ、実はな。一つ『お願い』を聞いてほしいのだ」
桃太郎二世は、昨日見たアホ面のまま私を見つめている。その癖しっかりと抑揚のある喋り方なので、言葉だけを真似たロボットを見ているかのようだった。
「娘よ、夏祭りの金魚掬いで余った金魚達が、後にどのような末路を辿るか知っておるか?」
「確か近所にお裾分けをしたり、海に返したりすると聞いたことがありますが……」
「うむ、確かにそれも正しいのじゃが、それはごく一部の恵まれた者達だけだ。基本売れ残った儂達は、殺処分されるか、あるいは大型魚の餌として使われる運命が待っている」
そういえば以前釣りに行った時、釣れた小さな魚を針にくくりつけ、より大きな魚を釣ろうとする、いわゆる「ノマセ釣り」を友人がしているのを見たことがあった。同じ個体すらも餌になり得るのならば、単純に殺すよりも、これから金になる魚の糧として使う方が確かに合理的なのだろう。
私は人間の残虐さに怒りが込み上げてきたが、そもそも私もその人間の一人であった事を思い出し、気まずさで眼前で私を見つめてくる桃太郎二世から視線を逸らした。
「儂とあやつらは、金魚掬いとして市場に立たされたせいぜい二日かそこらの関係じゃ。だかこうして平和に儂だけ暮らしておると、どうにもあやつらのことが頭から離れなくてな。だから娘よ。どうかあいつらの事を助けてやってはくれぬか。なあに、あいつら全員を飼えと言いたいわけじゃあない。どこか遠い、適当な川にでも放り投げてくれさせすれば、それだけでいいのじゃ」
「救うって……具体的にどうするのですか?」
「儂が娘の妹に掬われた時、大体他の者達が百二十匹ほど残っておったから、残りの時間を考慮しても余ったのはせいぜい百匹程じゃろう。儂ら一匹大体十円ほどじゃから、娘の財力を持ってしても十二分に買い占める事が出来るはずじゃ」
大体一万ほどだろうか。確かに財布の中身を合算すればそれぐらいにはなるだろう。つまり桃太郎二世は、餌にされる前に金魚全匹を買収し、その後に海に放流してほしいと、そう言いたい訳である。
しかし、日本銀行券歴代最高額の称号は伊達ではない。一万円札があれば本は十冊買えるし、大学に二十五回も行く事ができ、おまけに金魚掬いが百回遊べてしまう。
前述の通り私は金欠であり、今の私にとって、一万円というのは、私の持つ資産の半分を意味する。それを金魚を買うため、ましてはその金魚を海に返すために使うというのは、資産の半分をドブに捨てるのと指して変わらない行為である。だが。
「なるほど、わかりました。金魚救出、手伝わせてもらいます」
だからどうした。本や大学など、百匹の命の前には大したものではないだろう。
かくして、私と一匹は金魚達を救うためにビバホームへと向かった。
ビバホームにあたりをつけたのは、安雲神社周辺にある『お魚コーナー』の名を冠する場所がビバホームしかないからである。わざわざ遠くまで金魚を運ぶ事はないであろうというのが、私達の予想であった。桃太郎二世を連れて行く必要は全くなかったのだが、何度言っても「頼む、儂も連れってくれ」と言って聞かなかった為、やむなく妹が家に桃太郎二世を持って帰る為に使ったお持ち帰り用の袋を使わせてもらった。我ながら、このようなものを残しておく性格でよかったと思う。
ビバホームへの道のりは普段よりも長く感じられた。普段気にも止めない信号の待ち時間や、歩道を横並びしている学生達が妙に腹立たしく、登り慣れたはずの坂道が、まるで伸びているかのように長く、大きく見えた。こうしている間にも、罪なき百匹の命は無惨にも食い潰されてしまっているかのしれないのだ。焦りだけが先行する中、私は一心不乱にペダルを漕ぎ続けた。
「店員さん。ちょっと待ってくれ!」
私はお魚コーナに到着するや否や、今まさにバケツに入った大量の金魚を掬い上げ、淡水魚の水槽の中に入れようとしている店員さんに向かって待ったをかけた。店員さんは私の大声に体を一瞬ビクッとさせたが、すぐに「どうしましたお客様?」といかにも営業スマイルといった感じの笑顔を私に向けてきた。
「その金魚、全部私に買わせてくれ」
そう言って私は日本銀行券歴代最高額の、合計一万円を机に叩きつけた。突然の出来事だった為、店員さんは顔に「どうしたものか」と書いているかのようにあからさまにウロウロとし、それでも私が黙っているものだから、ふと諦めたように胸のあたりにある内線のボタンを押して誰かに連絡をとり始めた。
しばらくして、中学校の頃にいた体育教師のような風貌の男性が、店の奥からポリポリと頭を掻きながら出てきた。
「すいまへんお客様、この金魚、全部売るわけにはいかないんですわ」
「何故だ! 金ならあるぞ」
「こちらも金魚を餌にする前提で予定を組んでまして、もしお客様に全て売ってまうと、大型魚にあげる餌がなくなってまうんですわ」
そう言って男性は後ろに展示されている大型魚をチラリと見る。
「うちも備蓄がないわけとちゃうんやけど……。そやけど奴ら、すっかり金魚の口みたいで。備蓄を合わしても、最低五匹はここに残ってもらわへんとなぁ」
私は思わず黙ってしまった。男性の言っている事はもっともである。彼らとて商売。確実に無理を言っているのはこちら側であって、むしろこちらにだいぶ歩み寄ってくれた結果であろう。
しかしこの百匹の中から私に生贄を決めろというのはあまりにも酷な話であった。私は神ではないし、命の価値を自分の中で決めれるほど出来た人間ではないのだ。
男性の奥にあるバケツに目をやると、赤や黒、様々な金魚が出口のない小さな牢獄の中を右往左往している。
もし、彼らが人間だったら、私はどのように犠牲者を決めるだろうか。若いか否か、前科があるか否か、それとも、見た目か。
人間には色々判断材料があった。いっそのこと、人間だった方が簡単に決められたかもしれない。そうやって現実逃避をしながら決定を先送りにし、ついには私は黙り込んでしまった。
関西弁の男性、店員さん。誰もが私の言葉を待っていた。そんな中、私よりも先に、隣にいた桃太郎二世が囁くように言った。
「それでいいのじゃよ、娘よ。命を選定するなんて、人間にも、金魚にもできることじゃないんじゃよ」
親が子に諭すような、優しい口調だった。
「おいお前たち、そろそろ何か言ったらどうじゃ」
桃太郎二世がそう指示を出すと、突如バケツの中から、「俺を犠牲にしろ」やら「私を選べ」、などと言った言葉が幾つか聞こえてきた。聞こえてきた言葉に満足したようなそんな声色で、桃太郎二世は再度口を開いた。
「うむ。後一匹、儂を犠牲にすれば、ちょうど五匹になるじゃろう」
「何故だ! 何もあなたが犠牲になる事は」
突然の発言に、私は声を荒げる。
「儂はもう十分に幸せじゃ。夏祭りで掬われた金魚など、せいぜい適当に遊ばれて死ぬのがオチ。そんな中、考え、儂のためを思って新たな住処まで買ってくれる人間がいたのじゃ。むしろ声をあげてくれたあやつらの方にこそ、悪いことをした」
桃太郎二世はそう言ってゆっくりと目を閉じる。その姿はもはや金魚ということを忘れるような、一つの人間のような立ち振る舞いで、私はそれ以上何も言えなかった。
「娘よ、気に病む事はない。儂も含め、皆元々は死ぬ定め。とっくに死ぬ覚悟は出来ていたのじゃ。それを仲間を救うために使えるのじゃから、悪い気分じゃない」
一連のやり取りを見届けた関西弁の男性は「ほんまにいいんでっか」と桃太郎二世に確認をとった後、最初に応対した店員に指示をし、声を出した金魚と、桃太郎二世を新しいバケツに入れた。私は何とも言えない感情から、ただ茫然とその光景を見つめる他なかった。
「こうして偉大なる金魚、桃太郎二世はあの世へと旅立ったのだ」
私が日記に書かれた最後の文章を読み上げ妹の方へ目を向けると、妹は瞳からポロポロと涙をこぼしながら、「桃太郎二世。桃太郎二世っ」と金魚の名前を何度も口にしていた。
「惜しいやつを無くしたよ。あんなにかっこいい金魚とは、この先会えないと思う」と私は妹の肩に手を当て言った。
号泣する妹を気まずく眺めながら、私は内心こう思っていた。
まさか……ここまで上手くいくとは。
私がこの計画を思いついたのは、妹がヒステリックを起こし、やむを得ず桃太郎二世の世話を承諾した後であった。
ここ最近の妹の傍若無人っぷりは目に余る。特に、あっさりと生き物を殺そうとしたのは見過ごすことができなかった。このままでは妹は、生き物を殺すことに心を痛ませる事のない悲しき化け物へと成長してしまうだろう。そんな時に思いついたのが、桃太郎二世の殺害であった。
もちろん本当に殺すわけではない。今のまま殺したとしても妹は特に心を傷ませることはないだろうし、何より罪なき金魚を殺すことなど、とても私には出来なかった。
妹の心を動かすには物語が必要だった。そしてその方法は、偉大なる《大先生》が示してくれていた。
『人間椅子』が女性を騙したように、文字媒体であれば、物語を“でっちあげる”ことができるのではないか。そうして私が目をつけたのが、夏休みの宿題で出された日記であった。
初めて一人で行う創作活動には苦労した。少しでも良い物語を作ろうとインプットを重ねた結果、『あの花』のお願いなど様々な作品の要素を詰め合わせたキメラのような作品になってしまった。しかし、これはこれで様々なことに影響されやすい私らしい作品なのではないか、と今では少し満足している。
子供が生まれたら犬を飼いなさい。
子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。
子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。
子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。
そして子供が青年になった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。
私は、小学生の頃飼っていたカエル、「ピョコ吉」が死んだ時に母が呟いていた詩を思い出していた。後に調べると、これは有名なイギリスのことわざらしい。
私が「ピョコ吉」の死を経験し命を尊ぶようになったように、妹が「桃太郎二世」の死によって尊さを知れたとなれば、案外「偉大なる金魚」の名は間違いではないのかも知れない。
今日は少し多めに餌をあげようかな。私は自分の部屋にひっそりと隠されている、「偉大なる金魚」の事を考えながら、そう思った。
午後八時。私が偉大なる大先生、江戸川乱歩氏の『人間椅子』を読んでいると、どたどたという階段を登る音と共に浴衣姿の妹が私の部屋に入ってきた。
本日は我が家から歩いて五百メートルほどにある安雲神社で、小規模な夏祭りが開催されていた。小規模とは言ってもそれはあくまで面積の話であり、私と限りなく年齢の近い、大学二~三年を除いた大小様々な学生で安雲祭りは例年ごった返しになっている。おそらく妹が浴衣を着て部屋に入ってきたのも、安雲祭りの帰りだからであろう。
私は机に置いてあったお気に入りの栞を手に取り、なるべく本を傷つけない様に開かれたページにそっと栞を挟んだ。本棚に『人間椅子』を入れ、改めてドアの前に堂々と佇む妹に目を向けると、右手に水風船。左手には小さな金魚が入った透明な袋を手からぶら下げており、妹が如何に安雲祭りをエンジョイしてきたかが伺えてきた。
「おねぇちゃん。なんで今日安雲祭りに行かなかったの?」
妹はそう言って私に敵意にも似た鋭い視線を向けた。つい先日小学五年生になった我が妹はどうやら早めの反抗期らしく、やれあれをやれ、これはするななど、それはまあ口うるさく私の一挙手一投足に文句を言う様になっていた。
「すまんな妹よ。私は小説家になるという夢を叶えるが為、絶え間なくインプットをしなくてはならないのだ」
「おねぇちゃん、文字読むの嫌いって前に言ってたじゃん。それに四日前は漫画家になるって沢山絵を描いてたのに」
そう言って妹は私の部屋の奥に置いてある大量のキャンパスを指差した。私はそれに、少し小馬鹿にしたように答える
「だからいつも言ってるだろ。私の場合、後から言った事の方が真なのだ」
妹は私の言葉にムッと頬を膨らませた。
「まあそんな顔をするな、小説はいいぞ。特にこの『人間椅子』は最高だ。手紙という文字媒体というていで書かれているからこそ、あのおぞましき物語を『実は創作の内容だった』という叙述トリックに落とせるわけだ。私はもうすっかりこの作品に心奪われてしまって、今こうして二週目を読み進めているというわけだ。どうだ? 読んでみないか?」
「いやだよ。小説ってなんか疲れるし、アニメの方が見てて疲れないし、内容もほとんど変わらないから」
「いやいや、そうとも言えない。例えば2011年に作られた、約五年前に死んだ幼馴染《めんま》を軸に話が進められる『あの日見た花の名前を僕たちはまだしらない』通称『あの花』は五年後にノベライズ化されたが、アニメでは後半まで主人公の妄想として信じられていなかっためんまの存在が、ノベライズ版では早い段階で全員にめんまの幽霊の存在が受け入れらている。これはノベライズ化するに当たっての様々な『アニメ的要素』を文章化する際の工夫ではあるのだろうが、結果的に一度アニメを見たファン達も楽しめる、一味違う物語になっているのだ。しかし思い出すと『あの花』も最高の物語だった。かつての幼馴染の“お願い”を叶えるために、疎遠になりつつあった幼馴染達が段々と一つになっていき、だけれどもお願いを叶えてしまったらめんまは消えてしまうというこのジレンマが……」
ふと我に帰り妹の方を見ると、妹は水風船をポンポンと手で弾きながら、つまらなそうに輪ゴムの伸縮現象を眺めていた。どうやら妹にとって、私の話はゴムに入った水以下の様だ。
「して、なぜ私が安雲祭りに行かなかった事をそこまで怒る? 別に私と行かなくても、友達と行ったのだから問題はないだろう」
私が話を元の場所まで戻すと、妹も怒りを巻き戻ってしまったようで、再びあの鋭い視線を私に向けた。
「大アリだよ! おねぇちゃんも一緒に行ってくれたら、桃太郎二世の彼氏も家に持って帰れたのに」
「桃太郎二世?」
妹の話をまとめると、どうやら桃太郎二世というのは左手にもっている袋の中の金魚の名前の様だ。なぜ桃太郎なのか。そもそも桃太郎一世氏はどこに行ってしまったのか。桃太郎のパートナーなのになぜ《彼氏》なのか。聞きたい事は山ほどあったが、とにかく私が安雲祭りに行かなかった事によって、金銭的な問題で金魚が一匹しか獲得できなかった事に妹は腹を立てている様だ。
「話はわかった。が、妹よ。そういってお前が母におねだりして買ってもらったハム助と、ハム二郎、三郎は今どうなっている」
私がそう切り出すと、妹は少しフリーズした後、「毎日遊んであげてるもん」と言い訳がましい言葉を吐き捨てた。
ハム助とハム二郎、そして三郎は我が家に住まうハムスター三姉妹だ。妹のおねだり攻撃に根負けした父によって買われた三姉妹だったが、買って一週間経った今日。妹は三姉妹の世話を段々と億劫がり、結局私、母、父の交代交代に三姉妹の世話をする羽目になっている。
「妹よ、数が多ければ良いというわけではない。ひとりぼっちは可哀想だと思う気持ちはわからないでもないが、責任を持って世話ができない人間に生き物を飼う資格はない。第一、金魚一匹でも怪しいものだ」
私がそうきっぱりと言うと、妹もムキになり、「できるもん!」といった言葉を何度も何度も連呼し始めた。呆れて妹と私を隔てるドアを閉めようとすると、妹はさながら創作に出てくる悪質なセールスの様に、ドアに自分の足を当ててドアが閉じられるのを阻止してきた。
「できる……けど、おねぇちゃん。明日から二日間だけ、桃太郎二世の世話して」
ここまでくると呆れを通り越して尊敬の念すら湧いて来る。流石は我が妹、その精神の図太さだけは見習っていきたい。
私に桃太郎二世の世話を頼んできたのは、おそらく翌日に控えている「仲良し三人旅行」の為であろう。もはや家族ぐるみの付き合いになりつつある妹の友人の美咲ちゃん、香織ちゃんとの母親同伴旅行は、百円で手に入れた桃太郎二世の世話なんかよりも余程大事な事なのだろう。
既にハムスター三姉妹の世話も頼まれていた私はそのお願いを断ろうとしたが、その旨を伝えると妹は半泣きで大暴れし始め、「誰も世話しないならどうせ死ぬ! なら私が今殺してやる!」などと物騒な事を言いながら金魚の袋を投げつけようとしたので、やむなく私はそのお願いを受けることとなった。
仕方ない、桃太郎二世にはなんの罪もないのだから。
七月十三日
かくして、私と四匹との生活が始まった。父は妹達の運搬係として駆り出されたため、いよいよもってこの家に住むのは私達だけとなった。
やることはいくつも思いついたが、何はともあれ、まずは桃太郎二世が住む家を作らなくてはならない。そう決心した私は、バックに熱中症対策のポカリと財布を詰め込んで、長くなった髪を後ろで結び、自転車で家から大体十分ほどの場所にあるビバホームへと向かった。
「ビバホームに無ければ諦めろ」がこの地区に代々伝わる暗黙の教えである。
小柄な私にはとても乗りこなす事が出来ないであろう自転車やスポーツウェア、サイゼリアや書店など、これでもかと並ぶ店々を見ると、その言葉が眉唾物ではないことが嫌というほど伝わってくる。そんな様々な誘惑に心動かされながらも、私は『ペットショップ』と書かれた看板の奥にある、全体的に暗めの装飾がされた、いわゆる『お魚コーナー』へと足を踏み入れた。
『お魚コーナー』はハムスター三姉妹の餌が売っている棚のすぐ近くにあるため、その存在は昔から知ってはいた。まるで深海かのように薄暗いその空間を見る度に、私は「もっと装飾があっても良いのでは?」などと無粋な事を思っていたのだが、実際こう足を踏み入れてみると、それは全くの余計なおせっかいであった事がわかった。
私が『お魚コーナー』に入って最初に目にしたのは、ショーベタ・マルチカラープラガット Sグレードという熱帯魚だった。金魚と似た赤色を基調とした見た目をしているのだが、せびれからおびれ、人間で言うところの下半身に当たる部位が綺麗なエメラルド色をしていて、昔動物園で見た孔雀のような煌びやかさがあった。
それだけではない。緑、赤、ピンク、などの大小様々な魚があちらこちらと動き回っている姿は、まるで本場ブラジルのサンバを見ているかの様だった。
なるほど、確かにこれで装飾まで派手にされてしまっては胸焼けしてしまう。いや、そもそもこの飾らない店の雰囲気こそが、魚達の魅力を最大限引き出しているのだろう。
そうやって私が目的も忘れ、物珍しい魚達をじっくりと観察していると、「何かお探しですか?」とエプロンをつけた若い男性が私に話しかけてきた。私が我に帰り、「金魚を飼うために必要なものを一通り見繕って欲しい」と男性に頼むと、大きめの豆腐ぐらいのサイズ水槽の中に、水草、濾過フィルター、砂利などの必要なものが既に付いている、いわゆる『金魚飼育セット』なるものをどこからか持ってきてくれた。
本当はもう少し大きいサイズのものを買ってあげたかったのだが、これ以上のものとなると、豆腐サイズのものに比べて値段もサイズも三倍以上になってしまう。サイズはともかく三倍の値段というのは、万年金欠の貧乏大学生には少々厳しいお値段である。結局、私は最初の豆腐サイズの飼育セットを買い、『お魚コーナー』を後にした。
その後、本屋で数冊本を買い、多少の寄り道を何度かした後にビバホームから出ると、辺りは既に夕焼け色に染まり始めていた。
私は急に家にいる四匹の家族達が心配になった。ハムスター三姉妹はともかく、桃太郎二世はまだその飼育方法が確立されていない。ネットと本の知識をフル活用し、一日二日では死なない環境を作れてはいるとは思うが、所詮は素人の浅知恵。家に帰って腹を天に向けていないという保証はない。
そう思うとどんどんと不安になってきて、私は急いで入口を出てすぐ左に止めてあった自転車へと跨った。
自転車のギアを五から六に切り替え、自動車を追い越さんとする勢いで家へと帰宅すると、ハムスター三姉妹はコロコロと回し車を回して遊んでおり、桃太郎二世は汗だくで帰宅した私を馬鹿にするかの様なアホ顔でこちらを見つめていた。
安堵した一方、ズンとした疲れが私の体を蝕んだ。幸いな事に『金魚飼育セット』の組み立てはそこまで難しくはなく、数分で組み立てを終えた私は、風呂、歯磨きなど人間としての最低限度の身支度を終わらせ、四匹に餌を与えた後に床へとついた。
七月十四日
事件が起きたのは、ちょうど床へとついて十時間ほど経った午前七時の事であった。
私がレム睡眠によって夢と現実の間をうつらうつらとしていると、私のちょうど後頭部の辺りから「おい」「おい」という声が聞こえてきた。
私は寝ぼけた頭は、その声を「父」と認識した。我が家では必ず家族全員で食卓を囲むというルールがあるため、ベットで爆睡をしている私を起こしにきたのだろうと、そう考えた。まだ眠かった私はその声をシカト。再びあの夢と現実の間を彷徨い始めた。
そんな私の頭が「父。今いない」と正常に動作し始めたのは、大体そのお経の様な声を聞き続けて五分ほど経過した辺りであった。父は今いない。では、私を呼ぶこの声は一体誰なのだ?
そう私の脳内コンピューターが問いを投げかけた途端、私の周囲一メートルは緊張感に包まれた。
変質者だろうか? しかしそうであれば、わざわざ私に「おい」「おい」などと声をかける必要なんて、果たしてあるのだろうか。
流石の私でも変質者と対峙したことはない。少なくとも呼びかける以上、話し合いの余地はあるだろうが。最悪の状況を考え、いつでも渾身の右ストレートを放てるよう拳を握り締め、恐る恐る声の聞こえる方に体をのけぞらせた。
声のする方に顔を向けた私は、思わず我が目を疑った。振り返っても、人っ子一人としてそこにはいなかったのだ。にも関わらず、奇怪な「おい」という声は、未だ私の正面から聞こえ続けている。
「おい娘、こっちだ」
一際大きな声だった。私が声が聞こえる場所から発信源を割り出しそちらを覗くと、そこには声の大きさに見合わない、小さな金魚がいた。
「儂は桃太郎二世だ。言葉ぐらい喋っても不思議じゃなかろう」
なぜ桃太郎二世=喋れるという結論になるのだろう。そんな疑問を抱きながらも、桃太郎二世の重鎮のような喋り方に私は思わず畏ってしまった。
「で、何のようでしょうか?」
「うむ、実はな。一つ『お願い』を聞いてほしいのだ」
桃太郎二世は、昨日見たアホ面のまま私を見つめている。その癖しっかりと抑揚のある喋り方なので、言葉だけを真似たロボットを見ているかのようだった。
「娘よ、夏祭りの金魚掬いで余った金魚達が、後にどのような末路を辿るか知っておるか?」
「確か近所にお裾分けをしたり、海に返したりすると聞いたことがありますが……」
「うむ、確かにそれも正しいのじゃが、それはごく一部の恵まれた者達だけだ。基本売れ残った儂達は、殺処分されるか、あるいは大型魚の餌として使われる運命が待っている」
そういえば以前釣りに行った時、釣れた小さな魚を針にくくりつけ、より大きな魚を釣ろうとする、いわゆる「ノマセ釣り」を友人がしているのを見たことがあった。同じ個体すらも餌になり得るのならば、単純に殺すよりも、これから金になる魚の糧として使う方が確かに合理的なのだろう。
私は人間の残虐さに怒りが込み上げてきたが、そもそも私もその人間の一人であった事を思い出し、気まずさで眼前で私を見つめてくる桃太郎二世から視線を逸らした。
「儂とあやつらは、金魚掬いとして市場に立たされたせいぜい二日かそこらの関係じゃ。だかこうして平和に儂だけ暮らしておると、どうにもあやつらのことが頭から離れなくてな。だから娘よ。どうかあいつらの事を助けてやってはくれぬか。なあに、あいつら全員を飼えと言いたいわけじゃあない。どこか遠い、適当な川にでも放り投げてくれさせすれば、それだけでいいのじゃ」
「救うって……具体的にどうするのですか?」
「儂が娘の妹に掬われた時、大体他の者達が百二十匹ほど残っておったから、残りの時間を考慮しても余ったのはせいぜい百匹程じゃろう。儂ら一匹大体十円ほどじゃから、娘の財力を持ってしても十二分に買い占める事が出来るはずじゃ」
大体一万ほどだろうか。確かに財布の中身を合算すればそれぐらいにはなるだろう。つまり桃太郎二世は、餌にされる前に金魚全匹を買収し、その後に海に放流してほしいと、そう言いたい訳である。
しかし、日本銀行券歴代最高額の称号は伊達ではない。一万円札があれば本は十冊買えるし、大学に二十五回も行く事ができ、おまけに金魚掬いが百回遊べてしまう。
前述の通り私は金欠であり、今の私にとって、一万円というのは、私の持つ資産の半分を意味する。それを金魚を買うため、ましてはその金魚を海に返すために使うというのは、資産の半分をドブに捨てるのと指して変わらない行為である。だが。
「なるほど、わかりました。金魚救出、手伝わせてもらいます」
だからどうした。本や大学など、百匹の命の前には大したものではないだろう。
かくして、私と一匹は金魚達を救うためにビバホームへと向かった。
ビバホームにあたりをつけたのは、安雲神社周辺にある『お魚コーナー』の名を冠する場所がビバホームしかないからである。わざわざ遠くまで金魚を運ぶ事はないであろうというのが、私達の予想であった。桃太郎二世を連れて行く必要は全くなかったのだが、何度言っても「頼む、儂も連れってくれ」と言って聞かなかった為、やむなく妹が家に桃太郎二世を持って帰る為に使ったお持ち帰り用の袋を使わせてもらった。我ながら、このようなものを残しておく性格でよかったと思う。
ビバホームへの道のりは普段よりも長く感じられた。普段気にも止めない信号の待ち時間や、歩道を横並びしている学生達が妙に腹立たしく、登り慣れたはずの坂道が、まるで伸びているかのように長く、大きく見えた。こうしている間にも、罪なき百匹の命は無惨にも食い潰されてしまっているかのしれないのだ。焦りだけが先行する中、私は一心不乱にペダルを漕ぎ続けた。
「店員さん。ちょっと待ってくれ!」
私はお魚コーナに到着するや否や、今まさにバケツに入った大量の金魚を掬い上げ、淡水魚の水槽の中に入れようとしている店員さんに向かって待ったをかけた。店員さんは私の大声に体を一瞬ビクッとさせたが、すぐに「どうしましたお客様?」といかにも営業スマイルといった感じの笑顔を私に向けてきた。
「その金魚、全部私に買わせてくれ」
そう言って私は日本銀行券歴代最高額の、合計一万円を机に叩きつけた。突然の出来事だった為、店員さんは顔に「どうしたものか」と書いているかのようにあからさまにウロウロとし、それでも私が黙っているものだから、ふと諦めたように胸のあたりにある内線のボタンを押して誰かに連絡をとり始めた。
しばらくして、中学校の頃にいた体育教師のような風貌の男性が、店の奥からポリポリと頭を掻きながら出てきた。
「すいまへんお客様、この金魚、全部売るわけにはいかないんですわ」
「何故だ! 金ならあるぞ」
「こちらも金魚を餌にする前提で予定を組んでまして、もしお客様に全て売ってまうと、大型魚にあげる餌がなくなってまうんですわ」
そう言って男性は後ろに展示されている大型魚をチラリと見る。
「うちも備蓄がないわけとちゃうんやけど……。そやけど奴ら、すっかり金魚の口みたいで。備蓄を合わしても、最低五匹はここに残ってもらわへんとなぁ」
私は思わず黙ってしまった。男性の言っている事はもっともである。彼らとて商売。確実に無理を言っているのはこちら側であって、むしろこちらにだいぶ歩み寄ってくれた結果であろう。
しかしこの百匹の中から私に生贄を決めろというのはあまりにも酷な話であった。私は神ではないし、命の価値を自分の中で決めれるほど出来た人間ではないのだ。
男性の奥にあるバケツに目をやると、赤や黒、様々な金魚が出口のない小さな牢獄の中を右往左往している。
もし、彼らが人間だったら、私はどのように犠牲者を決めるだろうか。若いか否か、前科があるか否か、それとも、見た目か。
人間には色々判断材料があった。いっそのこと、人間だった方が簡単に決められたかもしれない。そうやって現実逃避をしながら決定を先送りにし、ついには私は黙り込んでしまった。
関西弁の男性、店員さん。誰もが私の言葉を待っていた。そんな中、私よりも先に、隣にいた桃太郎二世が囁くように言った。
「それでいいのじゃよ、娘よ。命を選定するなんて、人間にも、金魚にもできることじゃないんじゃよ」
親が子に諭すような、優しい口調だった。
「おいお前たち、そろそろ何か言ったらどうじゃ」
桃太郎二世がそう指示を出すと、突如バケツの中から、「俺を犠牲にしろ」やら「私を選べ」、などと言った言葉が幾つか聞こえてきた。聞こえてきた言葉に満足したようなそんな声色で、桃太郎二世は再度口を開いた。
「うむ。後一匹、儂を犠牲にすれば、ちょうど五匹になるじゃろう」
「何故だ! 何もあなたが犠牲になる事は」
突然の発言に、私は声を荒げる。
「儂はもう十分に幸せじゃ。夏祭りで掬われた金魚など、せいぜい適当に遊ばれて死ぬのがオチ。そんな中、考え、儂のためを思って新たな住処まで買ってくれる人間がいたのじゃ。むしろ声をあげてくれたあやつらの方にこそ、悪いことをした」
桃太郎二世はそう言ってゆっくりと目を閉じる。その姿はもはや金魚ということを忘れるような、一つの人間のような立ち振る舞いで、私はそれ以上何も言えなかった。
「娘よ、気に病む事はない。儂も含め、皆元々は死ぬ定め。とっくに死ぬ覚悟は出来ていたのじゃ。それを仲間を救うために使えるのじゃから、悪い気分じゃない」
一連のやり取りを見届けた関西弁の男性は「ほんまにいいんでっか」と桃太郎二世に確認をとった後、最初に応対した店員に指示をし、声を出した金魚と、桃太郎二世を新しいバケツに入れた。私は何とも言えない感情から、ただ茫然とその光景を見つめる他なかった。
「こうして偉大なる金魚、桃太郎二世はあの世へと旅立ったのだ」
私が日記に書かれた最後の文章を読み上げ妹の方へ目を向けると、妹は瞳からポロポロと涙をこぼしながら、「桃太郎二世。桃太郎二世っ」と金魚の名前を何度も口にしていた。
「惜しいやつを無くしたよ。あんなにかっこいい金魚とは、この先会えないと思う」と私は妹の肩に手を当て言った。
号泣する妹を気まずく眺めながら、私は内心こう思っていた。
まさか……ここまで上手くいくとは。
私がこの計画を思いついたのは、妹がヒステリックを起こし、やむを得ず桃太郎二世の世話を承諾した後であった。
ここ最近の妹の傍若無人っぷりは目に余る。特に、あっさりと生き物を殺そうとしたのは見過ごすことができなかった。このままでは妹は、生き物を殺すことに心を痛ませる事のない悲しき化け物へと成長してしまうだろう。そんな時に思いついたのが、桃太郎二世の殺害であった。
もちろん本当に殺すわけではない。今のまま殺したとしても妹は特に心を傷ませることはないだろうし、何より罪なき金魚を殺すことなど、とても私には出来なかった。
妹の心を動かすには物語が必要だった。そしてその方法は、偉大なる《大先生》が示してくれていた。
『人間椅子』が女性を騙したように、文字媒体であれば、物語を“でっちあげる”ことができるのではないか。そうして私が目をつけたのが、夏休みの宿題で出された日記であった。
初めて一人で行う創作活動には苦労した。少しでも良い物語を作ろうとインプットを重ねた結果、『あの花』のお願いなど様々な作品の要素を詰め合わせたキメラのような作品になってしまった。しかし、これはこれで様々なことに影響されやすい私らしい作品なのではないか、と今では少し満足している。
子供が生まれたら犬を飼いなさい。
子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。
子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。
子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。
そして子供が青年になった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。
私は、小学生の頃飼っていたカエル、「ピョコ吉」が死んだ時に母が呟いていた詩を思い出していた。後に調べると、これは有名なイギリスのことわざらしい。
私が「ピョコ吉」の死を経験し命を尊ぶようになったように、妹が「桃太郎二世」の死によって尊さを知れたとなれば、案外「偉大なる金魚」の名は間違いではないのかも知れない。
今日は少し多めに餌をあげようかな。私は自分の部屋にひっそりと隠されている、「偉大なる金魚」の事を考えながら、そう思った。