「あ、」
静かな部屋に彼女の無感情な声が小さく響いた。何かあったのだろうか。
冷蔵庫にあった炭酸飲料を手に取ってから、何気なく彼女がいる方に視線を向けて、思わずギョッとする。
先程までソファにだらしなく足を投げ出して、ギャグ漫画を読んでいた彼女の目から、大粒の涙がボロボロ溢れていた。あの漫画に泣くほど感動的なシーンはなかったはずだ。数ヶ月前に自分で読んだときの記憶を思い起こしながら、彼女の元へ駆け寄り、どこか痛むのか急いで問いただすと彼女はちがうの、と首を振って言葉を続ける。
「最近ね、なんだか涙が出るの。痛くも悲しくもないのにね、変だよね」
口元をふにゃりと歪ませ、彼女は小さな笑みを浮かべた。そんな優しい表情の上を、栗色の瞳から溢れる水滴は未だ絶え間なく滑っていく。
「この前なんてね、電車の中でこうなっちゃって。私の隣にいたおばあちゃんがびっくりして、大丈夫? 大丈夫? って、心配ですーって顔で何度も繰り返し聞いてくれてね。何かがあったわけでもないのに出てきちゃったものだから、ちょっと申し訳なくて」
突然のことで困惑している私をよそ目に彼女はそう言う。
ふと視線を下に向けると、彼女が以前気に入っていると話していた水色のロングスカートに大きな水玉が何個もできていることに気がついた。彼女の小さな顎をなぞってゆっくり落ちていく涙はその水玉をより濃く大きなものにしていく。
慌てて彼女にティッシュを差し出すと彼女はそっと私の手を押し返した。
「自然に流れてくるものだから、そのままにしとくのがいいの。だから、大丈夫。ありがとう」
その理屈はいまいち理解できなかったが、泣いている本人にそう言われてしまったら引き下がるしかない。
渋々ティッシュを元の場所に戻し、彼女の横に腰を下ろす。フカフカのソファが私を優しく迎え入れてくれたが、どうにも居心地は悪かった。
理由もなく涙が溢れ出す人に対してかける言葉なんてものを私が持ち合わせているはずもなくて、何をするわけでもなくただしばらく時間が過ぎるのを待ってみても、彼女の涙が止まることはなかった。レースカーテン越しの光に照らされてキラキラと反射するその水滴はなんだか神秘的なものにまで見えたが、五分もの間息が乱れる事もなくただ静かに涙が流れていく様はやはり異様なもので、私はそのうち彼女の体内にある水分全てが瞳からこぼれていってしまうのではないかと不安になってしまった。
一度そういう考えを持ってしまったからにはいてもたってもいられず、急いでソファから立ち上がって、台所へと向かう。
彼女にもらったガラスのコップに氷を二つだけ入れて、少しぬるくなった炭酸飲料を注いで渡すと、彼女は小さく礼をいったかと思えば、口をつけるでもなく、日の光にグラスをかざしてシュワシュワと泡が消えては弾けていく様子を黙って見つめていた。もちろんその間も涙が止まってはおらず、ぼやけた視界の先で彼女は何を魅入っているのだろうと、横から彼女の真似をしてグラスをのぞいてみたけれど、私の目にはそれがただのジュースにしか見えなかった。やがてポツリと彼女が呟く。
「人の身体にはね、海があるの」
そんな突拍子もないことを言い出す彼女を、普段の私なら笑い飛ばしていただろう。けれど、涙の奥で少しだけ、でも確かに輝く彼女の瞳を見てしまったからだろうか。この瞬間、私は真剣に彼女の不思議な言葉に耳を傾けていた。
ようやくグラスに口をつけた彼女は、氷が溶けて味が薄くなったそれを静かに飲み干してぽつりぽつりと話を続ける。
「海水ってしょっぱいでしょ? それでいて魚だとか貝だとか海藻だとか、色んな命を包み込んでるの」
彼女は大粒の水滴を指先で拭って、先のグラスと同じようにうっとりとした表情でそれを眺める。
それは炭酸飲料とは違い、まるでカラカラの砂漠にポツンとあるオアシスのように、ひどく尊いもののように感じられた。
「私たちの汗や涙も、同じようにしょっぱい。きっとその中にはその人の小さな命のかけらが含まれてるんだよ」
指先の涙は、彼女の白い肌を滑ってどこかへ消えてしまった。彼女の言う、その中にあったはずの命のかけらは体内に再び帰っていったのだろうか、それとも涙と共に消えてしまったのか。
「あなたはこのことを、おかしな話だって笑う?」
少し苦しそうな表情で彼女は私に問いかけた。
本来、涙を流す人間はこのような顔をするのが相応しいはずだけれども、私にはそれらが不釣り合いなものだとしか思えなかった。小さく首を振って否定の意を示すと彼女は安堵の笑みを浮かべる。
「私、死んだら本当の海に還りたい。私の中の海と、この星の海が混ざり合って、それは本当に完璧なものになるはずだから」
一拍置いて、彼女は息を吸った。気がつけば涙は止まっていた。
「それをあなたにお願いしたいの」
そっと手を伸ばして、私の手に優しく触れた彼女は、また優しく笑う。
「私が死んだら、私の肉体全部を海に還してね。ぜったい、約束よ」
言われるがまま、頷いた私を見て、今度は満足そうな顔をした彼女は踊るように立ち上がって、何事もなかったように
「ねぇ、今日の晩ご飯は何がいい?」
そう言った。
そのあと私たちは先程の出来事はなんてなかったかのように、いつもと変わらない一日を過ごした。幸福な時間は歩幅を変えることなく静かに流れていく。
その夜、私は夢を見た。
眠ったままの彼女が海の中で泡になって弾けて消えていく夢を。
まるで悪夢のようなその夢は彼女にとっての理想の未来なのだろう。幸せそうな彼女を見て、朧げな頭の中でそんなことを思った。
静かな部屋に彼女の無感情な声が小さく響いた。何かあったのだろうか。
冷蔵庫にあった炭酸飲料を手に取ってから、何気なく彼女がいる方に視線を向けて、思わずギョッとする。
先程までソファにだらしなく足を投げ出して、ギャグ漫画を読んでいた彼女の目から、大粒の涙がボロボロ溢れていた。あの漫画に泣くほど感動的なシーンはなかったはずだ。数ヶ月前に自分で読んだときの記憶を思い起こしながら、彼女の元へ駆け寄り、どこか痛むのか急いで問いただすと彼女はちがうの、と首を振って言葉を続ける。
「最近ね、なんだか涙が出るの。痛くも悲しくもないのにね、変だよね」
口元をふにゃりと歪ませ、彼女は小さな笑みを浮かべた。そんな優しい表情の上を、栗色の瞳から溢れる水滴は未だ絶え間なく滑っていく。
「この前なんてね、電車の中でこうなっちゃって。私の隣にいたおばあちゃんがびっくりして、大丈夫? 大丈夫? って、心配ですーって顔で何度も繰り返し聞いてくれてね。何かがあったわけでもないのに出てきちゃったものだから、ちょっと申し訳なくて」
突然のことで困惑している私をよそ目に彼女はそう言う。
ふと視線を下に向けると、彼女が以前気に入っていると話していた水色のロングスカートに大きな水玉が何個もできていることに気がついた。彼女の小さな顎をなぞってゆっくり落ちていく涙はその水玉をより濃く大きなものにしていく。
慌てて彼女にティッシュを差し出すと彼女はそっと私の手を押し返した。
「自然に流れてくるものだから、そのままにしとくのがいいの。だから、大丈夫。ありがとう」
その理屈はいまいち理解できなかったが、泣いている本人にそう言われてしまったら引き下がるしかない。
渋々ティッシュを元の場所に戻し、彼女の横に腰を下ろす。フカフカのソファが私を優しく迎え入れてくれたが、どうにも居心地は悪かった。
理由もなく涙が溢れ出す人に対してかける言葉なんてものを私が持ち合わせているはずもなくて、何をするわけでもなくただしばらく時間が過ぎるのを待ってみても、彼女の涙が止まることはなかった。レースカーテン越しの光に照らされてキラキラと反射するその水滴はなんだか神秘的なものにまで見えたが、五分もの間息が乱れる事もなくただ静かに涙が流れていく様はやはり異様なもので、私はそのうち彼女の体内にある水分全てが瞳からこぼれていってしまうのではないかと不安になってしまった。
一度そういう考えを持ってしまったからにはいてもたってもいられず、急いでソファから立ち上がって、台所へと向かう。
彼女にもらったガラスのコップに氷を二つだけ入れて、少しぬるくなった炭酸飲料を注いで渡すと、彼女は小さく礼をいったかと思えば、口をつけるでもなく、日の光にグラスをかざしてシュワシュワと泡が消えては弾けていく様子を黙って見つめていた。もちろんその間も涙が止まってはおらず、ぼやけた視界の先で彼女は何を魅入っているのだろうと、横から彼女の真似をしてグラスをのぞいてみたけれど、私の目にはそれがただのジュースにしか見えなかった。やがてポツリと彼女が呟く。
「人の身体にはね、海があるの」
そんな突拍子もないことを言い出す彼女を、普段の私なら笑い飛ばしていただろう。けれど、涙の奥で少しだけ、でも確かに輝く彼女の瞳を見てしまったからだろうか。この瞬間、私は真剣に彼女の不思議な言葉に耳を傾けていた。
ようやくグラスに口をつけた彼女は、氷が溶けて味が薄くなったそれを静かに飲み干してぽつりぽつりと話を続ける。
「海水ってしょっぱいでしょ? それでいて魚だとか貝だとか海藻だとか、色んな命を包み込んでるの」
彼女は大粒の水滴を指先で拭って、先のグラスと同じようにうっとりとした表情でそれを眺める。
それは炭酸飲料とは違い、まるでカラカラの砂漠にポツンとあるオアシスのように、ひどく尊いもののように感じられた。
「私たちの汗や涙も、同じようにしょっぱい。きっとその中にはその人の小さな命のかけらが含まれてるんだよ」
指先の涙は、彼女の白い肌を滑ってどこかへ消えてしまった。彼女の言う、その中にあったはずの命のかけらは体内に再び帰っていったのだろうか、それとも涙と共に消えてしまったのか。
「あなたはこのことを、おかしな話だって笑う?」
少し苦しそうな表情で彼女は私に問いかけた。
本来、涙を流す人間はこのような顔をするのが相応しいはずだけれども、私にはそれらが不釣り合いなものだとしか思えなかった。小さく首を振って否定の意を示すと彼女は安堵の笑みを浮かべる。
「私、死んだら本当の海に還りたい。私の中の海と、この星の海が混ざり合って、それは本当に完璧なものになるはずだから」
一拍置いて、彼女は息を吸った。気がつけば涙は止まっていた。
「それをあなたにお願いしたいの」
そっと手を伸ばして、私の手に優しく触れた彼女は、また優しく笑う。
「私が死んだら、私の肉体全部を海に還してね。ぜったい、約束よ」
言われるがまま、頷いた私を見て、今度は満足そうな顔をした彼女は踊るように立ち上がって、何事もなかったように
「ねぇ、今日の晩ご飯は何がいい?」
そう言った。
そのあと私たちは先程の出来事はなんてなかったかのように、いつもと変わらない一日を過ごした。幸福な時間は歩幅を変えることなく静かに流れていく。
その夜、私は夢を見た。
眠ったままの彼女が海の中で泡になって弾けて消えていく夢を。
まるで悪夢のようなその夢は彼女にとっての理想の未来なのだろう。幸せそうな彼女を見て、朧げな頭の中でそんなことを思った。