zorozoro - 文芸寄港

「さよなら。」

2024/07/06 12:27:06
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 東京ステーションギャラリーを出ると、ステンドグラスから差し込まれる明るい陽光が眩しかった。タイル調の床を白く照らす光は健康的で、ルネサンス様式の絢爛な内装はチェコのヴァレンシュタイン宮殿のように美しい。僕は静かに息を吸い込む。金曜の午後三時の東京駅丸の内口はスーツ姿で行き交う人々の影さえも少なく、静かに時が流れていた。
 右手に伝わる真美の手のひらの小ささが初々しくて、僕は思わず握った手に少し力を込める。三月の東京の午後はほどよく暖かな気温で過ごしやすい。
「佐伯祐三、すごい画家だったな。」
 僕は真美の顔を見つめて言った。
「うん、風景画なのに死への恐怖、美への憧れみたいな彼の心情がありありと浮かんでくるんだもん。」
 真美は思考が明晰で美術への造詣も深い。会話のテンポも心地よく、言葉の表現一つ一つも正鵠を射ている。僕は真美のそういうところが好きだ。慎ましく、美しい。知的で利発で、十九歳にしては妙に大人びている。それでも時々見せる、まだ十代らしいあどけなさも、また良いのだが。
 真美は僕の趣味や将来の夢に、ちゃんと関心を持って接してくれる。僕はそのことが限りなく嬉しい。美術鑑賞も国内旅行も、もともとは全て僕の趣味だった。でも真美は僕に合わせて一緒になって美術を勉強してくれている。美術雑誌を買ったり旅行雑誌を買ったりして、僕と一緒に楽しめるように。僕の小説家という夢にも、誰より理解を示してくれている。それが何よりも嬉しかった。真美のおかげで僕は、胸を張って夢を目指せている。
「どうしたの?」
 あまりに僕が真美の顔をじっと見つめていたので、神妙な顔付きで尋ねられた。
「いや、かわいい顔してるなって思ってさ。」
 真美はもぉ〜と笑いながら僕に体を寄せてくる。丸の内の改札は午後のやわらかな光に溢れて僕ら二人を祝福しているようだった。
 東京駅一番線ホームで中央線を待ちつつ、僕はそっと繋いでいた真手を離してみた。すると真美は少しムッとした顔をして、すぐに手を繋ぎ直してくる。僕はふふふっと笑って顔を見つめる。ホームの屋根の隙間から差し込む春の日差しが真美のカールを描いた長いまつ毛の上をなぞって、その瞳に影を作っている。通った鼻筋と白い肌が、端正な輪郭を強調している。薄く口紅を塗った唇の横、右の頬の小さな茶色いほくろがチャーミングだ。
「……ねえ、今日はこのまま帰っちゃうの?まだ三時だよ?」
 真美はその瞳をうるうるさせながら僕を見つめて責めるように聞いた。心なしか僕の右の手を握る力も強くなっている。僕は常々、ずるい女だなぁと思う。
「ん〜どうしよっかなあ。」
 僕は少しいたずらっぽい口調で独り言のように呟いてみた。別に、いいよ、と言ってもよかったあるいは逆に、無理だ、と言ったら真美はきっと諦めてしまう。真美は僕なんかよりもはるかに賢い。ちゃんと自分の引き際をわかっている。
「私は、まだ、春弥と一緒にいたいなぁ。」
 真美は少し自信なさげに、繋いだ手と手を見つめながら言った。手はパズルのピース同士のようにぴったりと合わさっていた。
「いいよ。もう少し一緒にいよう。真美といちゃいちゃしたい。真美のかわいい顔をもう少し眺めていたいな。」
 僕がそう頭を撫でながら言うと、真美は嬉しそうに満面の笑みで頷いた。
 中央線を降り新宿駅の東口から出て、歌舞伎町の方へと手を繋いで歩く。平日の午後の歌舞伎町は人が少なく、店舗の多数もグラフティやステッカーだらけのシャッターで閉められている。
 真美の手のひらは、握れば潰れてしまいそうなほど小さく、少し冷たい。歩くたびに静かに右左に揺れる長い黒髪がつやつやとしている。さびれた歌舞伎町の午後も、二人で歩けば素敵な街に思えた。
「春弥、髪伸びたね。切らないの?」
「そうだなぁ。まあ俺は長い方が好きだからなぁ。邪魔になったら切るよ。短い方がいい?」
「う〜ん。まぁ、私はね。」
 真美は少し口を尖らせて僕を見上げた。その表情がかわいらしく、僕は思わずニヤついてしまう。
 そのとき、スマホが何度か立て続けに振動した。ちらりと真美の方を見ると、真美は興味なさそうに通りの右側のラーメン店のメニューを眺めている。僕は急いでラインを軽く片手で返し、なんの気もない素振りでスマホを左の尻ポケットにしまった。
 僕らはいつも通りホテルLaPiaに入り、パネルの四〇三号室をタップした。内装はこざっぱりとして、かすかにアロマの香りがする。受付に座っている笑顔のない二十代くらいの若い女性に、パネルから吐き出された403と書かれた紙と、真美の財布に入っていたLaPiaの会員カードを渡す。割り勘で前払いを済ませると、横にあるサービスのコーナーから無料のチョコのショートケーキとお菓子とジュースを取っていく。僕らはほとんど会話を交わすこともないまま、一連の習慣的な動作でそれを行なった。


 チョコのショートケーキは甘さ控えめで、少しだけビターなカカオの香りが効いていて美味しかった。美術館で何時間も立ちっぱなしで疲労していた体に、ほんのりとした甘さは沁みた。
「これやっぱ美味しいね。」
 僕の言葉に真美は大きくうなづいた。真美は僕の右側に腰掛けて食器を左手で持ち上げ、丁寧な所作でケーキを食べている。フォークを動かす小さな手は器用で、少しずつ静かに口へと運んでいる。
「そういえば、ラブホのテーブルってどこもかしこも、どうしてこんなに椅子と比べて高さが低いんだろう。食べづらいし飲みづらいし、膝に当たるし。」
「んー、大きいテーブルがあっても邪魔だからじゃない?」
「まあそうか。」
 僕が納得してぶっきらぼうに言うと、真美は口に手を当ててふふふっと笑った。最近、笑い方が僕に似てきた気がする。食べ終わった僕は、真美の頭をよしよしと撫でた。
「こっちおいで。」
 真美が食べ終わると僕は、ベッドに腰掛けて手を広げて呼んだ。真美はにこっと笑って抱きついてくる。僕はぎゅっとその体を抱きしめる。体温の低い小さな体は、まるでなにか小動物のようにも思える。
 真美の両手足を拘束具で留めて、僕は裸になったその身体を優しく舌で撫でた。その度に声を漏らすのがちょっとかわいく思えて、僕はもう少し派手に舌を動かしてみる。太ももから腰へ腹部へ。ゆっくりと乳首舐め首を撫でて、唇にたどり着く。次第になんだか僕は、自分が整骨師のような、あるいは歯科医のような気持ちになった。それはこの人をどうしたらもう少し気持ち良くできるだろうか、という感情で、僕はどちらかというと性欲ではなく好奇心に身を任せていた。それはコンドームを装着し陰部を挿入してからも同じで、快感に惑う真美の表情の妖艶さを僕はもっと見たいと腰を振った。
 ベッドの上に備えられた七色に変化するLEDが、天井と真美の横顔を淡く照らしている。額には少しの汗が光って、その頬は静かに火照っていた。僕は両手足から拘束具を外すと、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。真美の細い腕がゆっくりと体に巻き付く。僕は愛おしくなって頭を撫でる。
「ねえ、いつまでこうしていられるのかな。」
 ふと悲しげな声が胸に響いた。僕は思わずぎゅっと強くその身体を抱きしめる。
「ずっとこうしていられるといいね。」
「そうだけど、でも、そうじゃなくて。」
 真美は今にも泣き出しそうだった。
「おれ、真美といると、めっちゃ幸せだよ。今日だって、今だって。」
 僕はなだめるように優しく言う。頭をさらさらと撫でながら。
「うん、私も。だけど……だけど、やっぱりさびしい。」
「そうだよね、ごめん。ほらこっち向いて。」
 僕がそう言うと真美は顔を上げた。僕を見つめる真美の眼差しはうるうると光っている。
「大好きだよ。」
 僕は目を見つめたまま静かに呟いた。私も、と言って真美も大きく頷く。小さなその唇に、僕は短く口づける。僕は真美のことが、心の底から大好きだ。本当に。これ以上なく。


 真美を中野駅で見送り、僕はそのまま中央線に乗って吉祥寺駅を目指した。スマホを取り出しラインを開いて『もうすぐ駅着く!』とメッセージを打つ。しばらくしてかわいらしいOKのスタンプが送られてきたのを見て、今度は真美とのチャットを開く。『今日はどうもありがとう!一緒に美術館周れて楽しかったよ!今日もかわいかった♡』僕は心を込めてラインを打った。
 吉祥寺駅の北口で降り、西に向かう。駅からもう少し近かったらいいのになあ、といつも思う。吉祥寺本町の二丁目のアパートまでは、歩いていつも十分くらいかかる。
 人を愛するということは一体なんなのであろうか。僕は真美の考え方や会話の一つ一つやその性格が好きだ。でもそれは、言ってしまえば真美に限った話ではない。男女問わず友人あだってみな、面白い考えや魅力的な性格だ。彼らと真美の差異はなんなのだろうか。恋心や愛情というのは、一体どこから湧き上がってくるものなのだろうか。真美ならきっと分かるかもしれない。けれど僕にはいまいち分からない。それで、結局はそこに大した違いはないのだと結論づけてしまう。僕は真美のことが大好きだ。それは紛れもない。だけれど、それが恋心や愛情か、と聞かれると、僕は途端に困ってしまう。
 築三十年を過ぎた古びれたアパートの外階段を登る。鉄製の階段は足を置くたび大袈裟な音を立てて建物に反響して響く。その音に、僕の心はどきどきとときめいていく。
 二〇五号室の呼び鈴を押すとすぐに扉が開いた。中からひょこっと顔が出てくる。茶色に染めた肩までの髪、二重の大きな丸い澄んだ瞳、やわらかくあたたかな唇。整った顔立ちとそこから醸し出される温和な雰囲気は、見つめられればたちまち僕の体も心も溶かされてしまいそうなほどに甘い。
「今日は早かったじゃない。」
 にこっとと笑って僕を出迎えてくれる。
「優子さんただいま〜!」
「おかえり〜。」
 僕は思わず優子さんに抱きついた。明るく晴れたアルプスの高原に咲く一輪の小さな白い花のような、ささやかな華やかさと甘さを持った香りがかすかに鼻腔に伝う。
「いい香りする。優子さんの匂い好き。」
「えぇ、昨日の夜以降お風呂入ってないけどね。」
 おいで、と言って優子さんは僕を部屋の中へと招き入れる。歩けば少しだけ軋む床。生活感そのままの散らかったキッチン。薄いピンクのパジャマが脱ぎ捨てられたままのベッドの上。そして整えられたテーブルの、真ん中に置かれているペンタブ。僕はここにくるたび、帰ってきた、という気になる。部屋の匂いも、少し暗いLEDの明るさも、床の焦茶の木目も、すべてが落ち着く要因となって僕を囲んでいる。
 優子さんはテーブルの前の椅子に腰掛け、ペンタブに向かって作業を続けている。僕はごろんとベッドに横向きで転がって優子さんを眺めた。ベッドや毛布からはかすかな良い香りがして心地よく、今にも眠れそうだった。
 少しだけ暗い天井からのLEDの灯りが、優子さんの美しい横顔に麗しい印象を描いている。茶色がかった髪は自然と綺麗な曲線を描いて内側にウェーブし、さらさらした髪の毛がつやつやと光を反射している。机に向かう優子さんの、真剣な表情が僕はとても好きだ。いつも通りの柔らかなオーラを身に纏い、だけれどその瞳には澄んだ懸命な光が静かに宿っている。プロの絵描きとしての覚悟や責任感が、ほんのりと、そしてひしひしと、感ぜられる。
「もうちょっと待ってね〜。」
 温かな声が耳にやさしい。優子さんは、声も見た目も二十七歳とは思えないほど柔らかくかわいらしい。僕はしばらく見惚れて、思わずうっとりして瞼を閉じた。目を瞑ればそこには、凪いだ夜の浜辺の波音のような、液タブをタッチペンでタップする静かな音が部屋に響いている。
「よし!ごめんお待たせ〜!」
 作業が一区切りついたのか、優子さんはベッドに寝転ぶ僕の隣に横たわり、僕の頭を胸へと引き寄せた。よしよし〜と言って撫でてくれる温かな手のひらがあまりにも心地良い。
「美術館どうだった?」
 優子さんは相変わらず柔らかで耳にやさしい声で話しかける。
「楽しかったよ。」
「よく一人で何時間も見てられるわね。」
「色々思い馳せられて楽しいよ。よかったら優子さんも今度一緒に行く?」
「いや、いい。」
「イラストレーターなのに?」
「うん、イラストレーターなのに。」
 その間も優子さんは絶え間なく僕の頭を撫でつけてくれている。女性にしては細く長いその指は、さらさらと髪の間を縫ってやさしい。二回、三回、と撫でられるたび、僕の体はたちまち有頂天の幸福感に浸されていく。もうこれ以上何も望まない、もうこれ以上何も望めない。僕の肉体は今、優子さんの前に完全にひれ伏している。
「気持ちいい?」
 優子さんは、姉が年の離れた弟に問いかけるようにやさしく澄んだ声色で聞いた。
「うん、めっちゃ幸せ。」
 僕は目を瞑ったまま答える。優子さんの匂いがする。上品な甘い香り。行ったこともないから分からないが、たとえばパリの高級ホテルのフロントにはこんな香りが漂っているのだろう。
「ほんと春弥くんは犬みたいね。かわいい。」
 優子さんはそう言ってよしよしと撫でる手を止めない。優子さんは僕のことをすぐ犬だという。なんでもチワワに似ているんだと。この前もインスタグラムでこんぶ君というチワワを見つけてきて、春弥くんにそっくり〜と言ってずっと眺めていた。でも僕も自身を確かにチワワに似ていると思う。目はぱっちりしているし、顔は小さいし、何より優子さんに完全に懐いている。従順な、癒しのペットとして。僕はそのことを自覚しながらも、この与えられた楽園から抜け出せずにいる。
「なんか、見えないはずの尻尾までふりふりしてるのが見えるわよ。」
 僕はそのやさしい声につられて、優子さんをぎゅっと抱きしめた。思ったより細いそのウエストも、あたたかな感触で心地よかった。僕はここに生まれてここに死にたいとすら思った。僕にとってはここだけが居場所で、ここだけが僕で、他はすべて他所にすら思えた。
「ねぇ、そのままでいて。」
 優子さんはリモコンで天井のLEDを常夜灯の黄色い灯りにに変えると、僕の頭にあった手を僕の頬に添えた。鼓動が一気に高まっていく。優子さんと出会って何年経っても、僕の心臓は出会ったばかりの時みたいにばくばくと拍動している。そして優子さんはやさしくやさしく、まるで深い谷に咲く白百合の花弁に着いた一滴の透明な露にするかのように丁寧に、僕の唇に長い口づけをした。
 僕は腕を優子さんの腰に絡ませたまま、離れた優子さんの唇にもう一度自分の唇をあてがった。なにか大切な栄養を摂取するように、僕は何度も何度も繰り返し優子さんの唇を本能的に求めた。僕は舌を優子さんの唇に沿わせ、それからゆっくりと口の中へと入れ込んだ。優子さんもそれに合わせて舌を僕の舌に絡みつける。粘ついた唾液と唾液が混ざり、舌の全細胞がお互いに、快感に、共鳴する。
 僕は優子さんの履いていたズボンを右手だけで脱がせ、さらに下着のなかに手を入れる。優子さんも同じように僕のジーンズを下ろして下着のなかの硬くなったものを手でやさしく愛撫する。僕は優子さんのさらに深い部分を探って、その奥へと指を這わせる。舌と唇で密着するほど塞がれた口から、それでも静かな吐息が零れ落ちる。優子さんの吐息は麗しく妖艶で、僕はそれが唇から漏れ出るたびに自分の心拍が上がるのを感じる。僕の硬直したそれをやさしく撫でる優子さんの指は、細く長く温かくて、あまりの刺激的さに下半身から上半身へ快感が何度も立ち昇る。
 優子さんはもう一方の手で、膝下に掛かったままだったズボンと下着を足から抜いてベッドの外へと放り投げた。僕も左手で下に履いていたものを全部取り払う。その間も舌と舌は二匹の蛇のように執拗に絡み合い、その隙間からは吐息がとめどなく漏れ出た。優子さんの奥の奥は指が溶けてしまいそうなほどとろとろと熱く火照り、僕の隆起した部分は張り裂けんばかりに大きく育っている。優子さんは手と足を僕に絡ませながら、ゆっくりと体勢を変え、僕の上に乗るようにして起き上がった。常夜灯の暗い光が、優子さんの顔に淡くエロティシズムな陰影を落としている。目の上で切り揃えられた茶色の髪がその瞳に翳りをつくり、その表情も快感のなかで恍惚としている。僕は全身を襲う快感の渦に身をよじらせながら、優子さんの表情をただ茫然と眺めていた。
「脱いで。」
 そう優子さんは静かな声で発した。僕は言う通りに上も全部脱ぎ捨てる。優子さんもその細い身体から服をするすると脱いでいく。二人の肌はかすかに汗ばんでいる。僕はその柳腰な腰つきから形のいい乳房、白い首筋へとゆっくり視線を沿わせる。つやつやとした肌は常夜灯に艶美に光り、バランスの整った肉体美が煽情的に僕の本能を刺激する。
 ゆっくりと優子さんが僕の長く太く硬直したそれを、自分の中へと導いていく。敏感になった僕の細胞の一つ一つに、その凝縮された熱が、その溢れ出る粘液が、絡みついていくのを感じる。僕の形とぴったりの形になっている優子さんの中はきつく、僕を奥の奥までしっかりと締めつける。優子さんが腰を動かすと、深くまで突き刺さったまましっかりと擦れ合うのを感じた。その刺激は強烈な感覚信号となって僕の脳を駆け巡る。僕は自分の身体が快感に咽び喚くのを感じる。全身が、全霊が、優子さんの前に快感を求めてのたうち回っていた。優子さんもまた、快感に思わず声を漏らしている。腰の動きは少しずつ早まって、奥の奥から粘液が漏れ出るのが細胞越しに感じられる。優子さんの身体はいよいよ全身熱を帯びて、快感に向けて一直線に向かっていった。全身の筋肉という筋肉に熱と力とがこもり、呼吸が浅くなって乱れ、心拍は強く速くなっていく。刺激と快感が渦のようになって僕の全身を支配する。ただ恍惚として、ただ呆然として、僕はその渦に身を委ねる。どんどんと高まってゆく快感に、僕の肉体は飲み込まれてゆく。
 やがて、優子さんの全身が力強く痙攣して僕の方へと倒れこむ。それと同時に優子さんの奥の奥がぎゅっと収縮して締めつける。僕はついに襲いかかる洪水のような快感に耐えられなくなって、頑強な堤防が決壊するように優子さんの中へと快感を一気に放出する。肩までに切り揃えた優子さんの茶色の髪が大きく揺れた。身体が痙攣するたびに何度も何度も白い矢は優子さんの奥へと放たれていく。壁の薄いアパートの一室に、二人の叫びがこだまする。
 すべてが終わった後、優子さんはまた僕の隣に寝っ転がって僕の頭を撫でる。僕は優子さんの腕枕に頭を預けながら少しの睡気に身を委ねた。裸のまま抱き合えば、肌と肌は汗で密着し、僕らはもう二度と離れることのできない一つの肉の塊のように思えた。僕は自分の身体がそのあたたかな体温に溶けていくのを感じる。僕らはずっとずっと深い場所で、溶け合い、繋がり合い、重なり合っていた。その感触は快感のるつぼに脳を丸々浸しているようなほど甘美な、恍惚としたものだった。僕はもう何も考えられなくなって、強く優子さんの身体を抱きしめる。
「愛してるよ。」
 僕は声にならない想いが自分の口から漏れ出るのを感じた。それは優子さんの胸の中にくぐもって響いて、あたたかな肌へと吸い込まれていった。
「私も愛してるよ。」
 僕の額に乗せられた優子さんの顎から直接声が聞こえる。それは骨を伝って少し響いて届いた。優子さんの柔らかな声は心地よくて、僕はしばらくその骨の振動の余韻を噛み締めた。圧倒的にただ、幸福だった。この胸に溢れ出る幸福感をもし、人は恋心や愛情と言うのであれば、僕は喜んでそれを受け入れようと思う。心の底から、受け入れようと思う。


「今日久しぶりに外食しない?」
 優子さんはベッドに腰掛け、裸のままカップに入った冷めた麦茶を啜って言った。横顔は美しく、相変わらず常夜灯は優子さんの少し紅潮した頬と大きな瞳を暗く照らしている。
「いいよ!なんかいいことあったの?」
 僕は優子さんにすり寄りながら言う。優子さんはあと全部飲んでいいよ、と言ってカップを差し出してくれた。僕は水分を取り戻すかのように一気に喉を鳴らして麦茶を飲んだ。
「ちょっと大きな案件が一件決まったの。」
「お!よかったじゃん!」
 こちらに振り向いてやさしい笑顔で語りかける優子さんは嬉しそうで、僕も思わず笑顔になってしまう。優子さんが嬉しいと僕も嬉しい。それは脊髄反射のように僕の骨髄に染み付いている。
「なに食べたい?」
「優子さんの好きなものならなんでも!」
 僕は優子さんの肩に頭を預けて言った。優子さんはじゃあ、焼肉にしよっか!と言って僕の頭を撫でまわした。

「春弥くん私になんか隠し事してるでしょ。」
 黒毛和牛特製牛タンをひっくり返しながら優子さんが言う。僕はえ?と言って優子さんの顔を見上げた。
「春弥くんはなんでも顔に出るからすぐわかるよ。」
 優子さんは少しニヤついた目線で僕を試すように言った。大きな丸く透き通った黒目がちな瞳で顔を覗かれると、なんだか心の奥底の方まで見透かされているようで妙に鼓動が速くなった。うなじを冷たい汗が伝うのを感じる。背筋がぞわっとして、嫌な予感が少しずつ心を占拠していく。
 優子さんと別れてしまったらどうしよう。もう僕には心の拠り所はここしかないというのに。なにをしても誰といても満たされない何かが、ここでしか摂取できない心の栄養が、優子さんにだけあるというのに。僕はなにがあっても優子さんを手放すわけにはいかないのだ。なにがあっても。
「まあ言いたくないなら別いいいけど。」
 優子さんはそう言うと、焼けたタンを持ち上げてレモンだれのところに入れた。僕もさっき優子さんがしていたように焼けてきたタンをひっくり返す。
「優子さんもうすぐ誕生日じゃん?だからまあ、そういうこと……。」
 僕は優子さんの目をチラリと見ていった。優子さんはまだニヤニヤと笑っている。
「なんか春弥くん最近ずっと顔がにやけてたんだよね。そういうことか。」
 僕は誕生日の日の優子さんを想像する。僕は優子さんに薄ピンクの小さなバッグをプレゼントする予定だ。ブランドはよくわからないので吉祥寺のパルコで今度物色しようかと思っている。喜んでくれるといい。優子さんが嬉しければ、僕も嬉しいのだ。
「春弥くん、やっぱかわいいね。」
 優子さんはニコニコと笑ってテーブル越しに僕の髪をよしよしと撫でる。その感触はいつも通りほんのりと温かくて、僕の心は、それだけですっかり落ち着いてしまう。


 ホテルLaPiaを出て新宿駅の十二番線ホームに並んで待つ。真美の白いコートがホームを渡る少し強い風にふわふわと揺れ、黒く長い髪がひらひらと靡く。僕はその髪を撫でようと手を伸ばそうとした。
「私、もうこれで終わりにしようって、毎回思ってるの。」
 真美は前を見据えたままはっきりした口調でそう言った。僕は思わず伸ばしかけた手を引っ込める。真美の見つめる二つ先のホームに山手線外回りの電車が到着する。緑のラインの入った銀色の車体は、午後の陽を眩しく照り返している。
「だけどいつも終われない。流されちゃう。」
 僕は真美の声を静かに聞いている。普段は思慮深くおとなしい真美の声に、少し感情の波が出ている。
「でも、終わりにしないといけないの。」
 真美はそう言って僕の顔をじっと見つめる。真美は泣いていた。静かに、その目を赤らませて静かに泣いていた。冷たく清純な雫のひとつぶひとつぶが、ゆっくりと頬を伝って流れ落ちていった。
 僕はただ、困ったような表情を浮かべて笑うことしかできない。真美を守りたい、と思った。それで僕は困っていた。僕には真美は守れないから。真美はあまりにも賢すぎて、きっと僕の腕の中だけで何もかも満足はできないから。
「ねえ、かわいそうだよ?」
 真美は滅入ってしまいそうな小さな小さな声で言った。
「彼女さんが、かわいそうだよ。」
 真美は変わらず何度も瞬きをしながら僕の目をじっと見つめていた。下から見上げる真美の瞳はうるうると揺れて、美しかった。真美は出会ったときからずっと、綺麗な目をしていた。
 僕は、どうしようもなくなって下を向いた。うん。と小さな声が唇から漏れ出る。先ほどまで真美の身体の上を跋扈していた唇から、小さな声が。真美の履いている水色の小さなスニーカーが気になった。少し大きな同じ色のリボンのついたその靴はすごくかわいらしく、真美によく似合っている。
 僕は紛れもなく真美のことが好きだった。真美との会話の言葉の一つ一つや、沈黙の空気感や、真美の丁寧な仕草の一つ一つがすごく好きだった。僕は水色のスニーカーを見つめながら、どこはかとなくそれらについて思い出していた。
「もう、だから、今日で、終わりにしよう?」
 僕はもう一度真美の顔を見つめる。真美はその美しい色をした瞳からぽろぽろと涙をこぼしていた。それは透かし彫りの美しいガラス細工のように透き通っていた。そこにはなんの愛憎も含まれてなかった。ただ純粋な感情が、流れていた。僕は思わず真美を抱きしめる。冷たい身体が服越しに伝わる。そのすべてを温めてあげたかった。胸に湿った感触が伝わる。僕はそのことを感じるたび、さらに腕に力を込めた。
 真美との関係はこれで終わってしまうのだろうか。なんだかんだ寂しくなって、きっとまたそのうちすぐに連絡が来るかもしれない。けれど、もしかしたら、もしかしたら、終わってしまうのかもしれない。そんな予感が心のどこかに静かに湧く。
 そうしたら、もう二度と真美とは会えないのだろうか。この先ずっと、今日という日を境に二度と会えないのだろうか。胸の中で真美は少し声を立てて泣いていた。僕の目にも静かに涙が浮かぶ。寂しい、と思った。真美がいなくなったら寂しい、と。僕はただ、寂しくて泣いていた。
 真美が顔を上げて僕を見つめる。まつ毛に小さな雫が結晶のように光っている。ずっとこのまま、真美を守れたらよかった。できることなら、僕は真美を守っていたかった。


「さよなら。」
 中野駅で電車の扉が開くと真美は繋いでいた手を離し、僕の耳元で一言そう呟いてホームへと駆けていった。真美は振り向かず、階段の方へとただ淡々と走っていく。その白い背中が、しかしやがて人混みに飲まれて見えなくなる。何もかも、静かなままだった。僕だけが世界に取り残されているみたいだった。
 吉祥寺駅の北口を出て、吉祥寺本町二丁目を目指して歩く。夕方の少し冷たい風がダイヤ街のタイルの路面を掠めてゆく。優子さんの家に着く頃にはきっと、このシャツについた真美の涙の滲みも乾いてしまっているだろうか。
 僕は自分の鼻頭が熱くなるのを感じながら静かに息を吸い込んだ。そして、小さく呟く。
「さよなら。」
ゼミ課題でむかーし書いたやつです。供養。へたっぴなあの頃の俺に合掌。
かぱぴー
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1.90v狐々削除
男ってどうしてこうなの!