zorozoro - 文芸寄港

溝を流れる秋鮭

2024/06/27 15:42:37
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 中秋の雨が、吹き付ける冷気と共に次々と道路を黒く染め、すさまじい早さで坂道を下ってくる。私はその様を見て、いつもは平坦な住宅街に奥行きを感じた。凄い、今しかない。一目惚れみたいにしてスクールバッグをその場に落とし、目を瞑った。深く吸った息を止めた。両腕を目一杯に広げて待つと、指先に熱が満ちていく。やがて、大気の方から抱かれに来た。
 ざざざざざ、どどどどど。ぱたぱたぱた……
 薄く張った皮脂に無数の雨が突き刺さる。雨粒は平たくなって、瞼の上から眼球を打ち、小鼻から順に私の凹凸をなぞる。高鳴る心音はすぐさま冷やされ、脈は浮き出た血管をドクドクと強引に通り抜ける。モノもヒトも、紺色の一部になる。
 こんなに素敵なスコールは初めて。ああ、雨よ、もっと、もっとくれ。
 上体を更に反るとワイシャツが縮こまり、胸の下着が窮屈そうに持ち上がった。スカートが大腿部を押さえ込むのに背徳を覚えた。私の形が水分を通して空との境界を浮かべ、惨めな様を暴かれていく。肺からゆっくりと酸素を吐き出し、再び大気を求める。鼻腔をまさぐる風と併せて、呼吸が苦しくなってくる。生命がやりづらくなっていく。ああ、ごめんなさい、ごめんなさい。
 これだ、これだけは誰もくれない。優しさからも、悪意からも生まれない。
 あの時のような「自由な死」だけは頷いても逆らっても誰だってくれやしないんだ!
 鼻の奥がじんと熱くなった。楽しいのに、気持ちが良いのに、切なくて、留処なく涙が溢れてくる。優しく無感情な自然の流れに拭き取られていく。私はそれがどうにも嬉しい。雨よ、私を連れて行ってくれ。差し伸べられた手を握ろうとすると、それはただの水になり、手のひらを滑り落ちる。えらの無い指では雨と交わることは出来ない。私は泣き続けた。
 雨の中には音が無い。私がどんなに叫んでも、全てを奪い去ってしまう。
 この略奪を通して私は一つの価値になったような気がするのだ。
 曇天が唇を塞ぐ。私は全身を濡らす。
 ああ、ごめんなさい、ごめんなさい。


 過ぎてみれば一瞬の出来事、俄雨は足早に去っていく。しかし、依然として音は戻らない。奪われたものは返らない。灰色の残党が流れとなって落ち葉を運び、溝に溜まっている。抜け殻、燃え滓、全ての価値を失った湿り落ち葉を見て、羨ましいと思う。私も願わくは……
 だらだらと垂れ続ける思考にストップを掛けるようにして、唇の脇を滑り落ちる雫を舌で舐めとった。少しだけ甘い味がした。同時に世界へ色が訪れる。太陽は先程までの豪雨が嘘だったとでも言わんばかりの、白々しい顔をしていた。
 ずっしりとしたナイロンの持ち手を引き寄せると、バッグの底から水が漏れだした……あーあ、教科書もプリントも全滅。紙類はいつも通り冷凍庫に入れて、筆入れも開いて乾かさないといけない。さっきまでは楽しかったのに、嫌と言うほど、現実! と言っても、問題が起こるのは別に嫌いじゃない。それはそれで愉快ではないか。破滅的で尚、生きることは楽しいのだ。現に、私の心は踊っているじゃないか?
 いつもなら通り道は通る道以上の何物でもなく、視線は常に近くの電柱へと注がれていた筈だった。しかし、今日に限っては、私は一番遠くの建造物を眺めるようにした。こんな時まで足元だとか、歩いて棒に当たるのを気にするなんて狭量だ。
 コツ、と地面の歪みに躓く。びしょ濡れでバランスを取る私は滑稽な恰好だろう。何から何までまるごと可笑しく思いながら、額に張り付く前髪を指先で払った。睫の先に実った水玉が、私専用の小さな虹を作った。

 気が付けば空に茜が差している。日が没するのも早くなってきたようだ。石畳を三つ数え、茶色い光沢を放つ玄関ドアに鍵を突き刺す。私が濡れ鼠であること以外は一般的な家庭の一般的な帰宅風景だろう。後は身体を拭いたら風呂に入って、夕飯にありつける……味噌の香りを想像してお腹が萎んだ。くぅ、待て待て焦るな、こういう時はコツがあるんだ。一呼吸おいてからドアを開ける。

「た、ただいまぁー」

 しくしく、ふられちゃいましたぁ。といった風な情けない声を出す。意図してやっているわけだけど、偽っているわけじゃあない。家に帰れば私だって女子高生なのだ。居間からトツトツと軽い足音が近づいてくる。

「おかえりなさい……あら、あら! そんなに濡れて、大丈夫なの、息、苦しくない?」

 お母さんは目を丸くして近寄ってきた。お母さん……といっても血は繋がっていない。私は養子だ。役所の人が言うところの、問題のある家庭環境から引き取られてきた。可哀想な女の子だ。

「うん、全然。でもびっくりした、いきなりさ、どどどーってさあ!」

 私がわざとらしくスカートを持ち上げて握ると、指の隙間から逃げ出すように水が溢れた。玄関に黒い染みが広がっていく。お母さんは優しいから、娘のこんなところを見たら焦ってしまう。そうでしょ?

「ああ、あらら……大変、本当に大丈夫なの? お母さん、また琴ちゃんが倒れちゃわないか心配で心配で。身体を冷やしちゃダメよ、お医者さんにも言わ
れたでしょう。シャツも脱いじゃいなさい。お母さんタオル取ってくるからね。すぐにお風呂、いれるからね」

 私は「はーい」と返事をしてシャツを脱いだ。髪の毛が持ち上がってしっとりとした背中に張り付く。全身から体温が逃げる感じがして身震いした。そりゃあ夏もとっくに終わったってのに下着までいかれたんだ、風邪の一つや二つは覚悟しなくちゃあいけない。ぐちゃぐちゃに丸まったシャツは、こんなに濡れていたら仕方ないかもしれないけれど、一応畳んで置いといた。


 ややピンクがかった白色の浴室の壁に手をついて、身体も流さずに湯船に片足を入れると、熱いお湯の感覚に指先からピリピリと痺れた。そこまで気にしなかったけれど、外は本当に寒かったみたいだ。ゆっくりとふくらはぎを漬けて浴槽の縁に腰かける。
「着替え、用意したからね」脱衣所からお母さんの声がする。そこまでやってくれなくてもいいのに、とか思いながら「ありがとう」と返す。なんだか気恥ずかしいし、申し訳ない。だって自業自得なんだものなあ。絶対に、内緒だけれど。
 お母さんがあそこまで心配するのは理由がある。中学生の頃の……養子として迎えられてから一年程の出来事のせいだ。私といえば最初の方はツンツンしていたのだけれど、一年も経つ頃にはお母さんに心を開ききっていた。仲良くリビングでテレビを見ていると、夕立が降り出したのだ。大変だといって、庭に干してあった洗濯物を取り込むのに、私は雨の中から洗濯物を取ってきて、家の中にいるお母さんに渡していた。あの時も、今と同じような秋の中頃だった。
 その時も雨は冷たくて……その、急に体が冷えるのが良くなかったらしい。ぐっと喉が詰まるような感覚があったかと思えば、私は突然呼吸が出来なくなって、ばったりと倒れてしまった。詳しくは知ろうとも思わなかったけど、気管が刺激を受けると収縮して、呼吸が出来なくなる病気らしい。苦しくて、でも逃げようがなかった。私は苦しみ喘ぎながら「お母さん、お母さん」と繰り返していたそうで、それが大層、ショッキングであったそうな。
 あれ以来、お母さんは私の健康にひどく気を遣うようになった。それはなんだか、私の境遇から考えると凄く不思議な感じで、結構嬉しいんだけど、辛い物を食べるのすら心配するのはやり過ぎだと思う。他でも何というか、過保護でさー……
 これは贅沢な悩みだけど。私とお母さんの関係はふわふわで脆い気がしてならない。戸籍はお母さんの所に入っているし、私が勝手にそう感じているだけなのだけれど。養子、養母。何かがちょっと違うだけで、全く違う空気だったような。そんな感じ。
 だって、仮に私が、こんな身体じゃなかったら。或いは、別の子だったらさあー。
 そんなのって、なんかガキっぽいかなあ。
 湿気を振り払うようにして、私がひょいと湯船に飛び込むと飛沫が上がったが、嵩が減るようなことは無かった。身体が乱暴に火照っていく。揺れる湯が私の全身を少しだけ持ち上げる。空っぽな私、水に浮く私……流れ者の私。

 体を温めるだけのつもりが、折角だからと結局トリートメントからスキンケアまでしてしまった。一度染みついた習慣を変えるのは難しい。学生の分際で外見なんてと思っていた私も今や可愛い着せ替え人形。先端にブラシの付いたドライヤーを使って髪をくるくると乾かした後、お母さんが用意してくれた暖かい部屋着に着替えた。
 リビングに行くと、焼き魚特有の絹のように軽い脂の香りがした。奥歯の脇から唾液が滲む。食卓には既に夕飯が並んでいた。鮭の塩焼き……温かいうちに食べたい。いつもよりは少し早い時間だったが、今すぐにでも白米と共にかっ込みたい衝動に襲われた。ソファで寛いでいたお母さんは私に気が付くと

「琴ちゃん、体調は? 大丈夫?」と心配げな声色で発した。
「うん、平気だよ」出来るだけ元気そうに返す。目論見通り、お母さんはほっとした顔をした。
「良かった。お腹空いてる? 夕飯用意しちゃったんだけど……」
「食べる!」

 お母さんは頷いて、やおら立ち上がって食卓へと向かった。
 私は食べるのが好きだ。変かもしれないけど、食べた後の体温が上がる感じが好きなのだ。何かを食べたというのが現象として顕れるのが面白く心地いい。
 秋鮭の身には良く火が通されていて、箸の先でつつくと簡単にほぐれた。口に入れると、しっとりとしていて……まだ生きていると感じる。咀嚼する前に、私は急ぐみたいにして下ろした大根を箸で摘まんで食べた。唾液腺がじわっと沁みた。私はそれに追い打ちをかけるようにして味噌汁を頬に含んだ。白味噌に混じって細ネギが流れ込むのを舌で捕まえて奥歯で噛むと、きめの細かい風味が鼻に抜けた。
 ふと、お母さんが私の顔をみて微笑んでいるのに気が付いた。少しだけ皺の入った、優しい顔だった。

「あれ、何か顔に付いてる?」
「いや、美味しそうに食べてくれるのが嬉しくって」
「あはは、だって美味しいんだもの」

 私も中々どうして、薄味の良さを分かるようになったものだ。最初の頃は残したりしていたなあ。お母さんの「おいしい?」という一言に対して自信をもって「おいしい!」と表明出来るようになったのが、なんだか大人になれた気がして嬉しかった。
 コップに注がれた水を一口飲むと、温まった体に心地良く流れた。その穏やかな快感から、私の身体が温かくなっていることに気が付いた。


 私が食事を終え、二階にある自室に帰ってくる頃には、適度な眠気が頭を占めていた。お腹いっぱい、卵を産めそう、このまま寝てしまいたい……ベッドに飛び込むようにして横たわると、荷を下ろしたような疲労感が滲んだ。沈む、体が治る。三年目のマットレスからは、未だに他人の香りがする気がした。元々、交通事故で亡くなったらしい……お母さんの娘さんが使っていた部屋なのだとか。写真を見たことがある。私より少し可愛くない子……なんて思った子。幸せへの違和感、罪悪感が湧き上がる。それこそ、考えてはいけないのだろう。環境の享受こそが私のやるべき事だ。
 でも、こんなにも満たされているのに、目を瞑ると雨音がする。
 私の呼吸を奪った雨。冷たくて愛のない雨。雨。
 私の実母と同じように、私の首を絞める雨。
「お母さん、お母さん……」私は呟いた。「ごめんなさい」
 両手を首に添えて、グッと圧迫してみる。苦しい、けどあの時はもっと強くて……力を入れると想像以上に痛く、つい手を離してしまった。ダメだ、こんなんじゃ確かじゃない。自分が嘘をついているみたい。私が私であるという現実は、もっと抵抗できなくて、苦しくて、いくら謝ったって止まらなくって、自由な形で近づいてくる。私が実母の元から離れるまで、私自身は絶対に動かない価値だった筈だった。そうだった筈だ。どんなに自由に過ごしても、あの人の娘であるという一点は保証されていた筈……
 悲しくもないのに、切なくて、涙が溢れ出てきた。豊かな寝室、拭き取ってくれる雨は降っていない。ああ、雨、雨……私を……

 あ、
──いけない。歯を磨くのを忘れている。私は寝ようとしていた体を叩いて、のっそりと起き上がった。歯の裏を舌でなぞると、味のしなくなった鮭の身が残っていた。
週二のペースで「金が欲しいのならパチンコを打ちなさい……」とお告げが来る。電波攻撃!
v狐々
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コメント



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1.90東ゆうとうせい削除
しゃけのホイル焼き食べるとき、玉ねぎと骨がわからなくなりがち。
これだ、これだけは誰もくれない。優しさからも、悪意からも生まれない。
あの時のような「自由な死」だけは頷いても逆らっても誰だってくれやしないんだ!

心の声が聞こえてきていいかんじだと思いました