平楼明日菜は落ち着かない様子で信号を待っていた。
予備校での自習を終えた明日菜は、最寄り駅まで帰って来たものの未だ家には帰れずにいた。医者になるために難関私立大学の医学部を目指してから二年も浪人しているので、普段ならば真っ直ぐ家に帰っているところである。寄り道している暇などはない。しかしこの日は家路への足取りが重たく、ただ人の流れに流されるように歩くしかなかった。
家に帰れば、まだベランダの縁にあの「天使」がいるかもしれないからだ。
明日菜は今朝、アパートのベランダに「天使」が座っているのを見てしまった。寝苦しい布団から這い出て、朝日を浴びるために寝ぼけ眼のままカーテンを開く、毎日のルーティンの中に突如として「それ」は現れた。カーテンを開き、初めてその存在を見た瞬間はそれが何なのか分からなかった。しかし乳白色のその背中には少し薄桃のかかった羽が生えており、頭上には青白い光の輪が浮いているのを見て、それが「天使」であると分かった。
最初こそ自分が寝ぼけているだけだと思ったが、だんだんと意識が覚醒していく中でも依然「それ」はベランダの外を向いて座っているのだ。明日菜は恐怖とも好奇心とも違う妙な感情に襲われて、天使と接触すべきか戸惑った。分からないものに対する不安感は否めないが、どことなく天使の後ろ姿に懐かしさも感じていた。悩んだ末、明日菜はベランダの天使に声を掛けてみることにした。
ベランダに近づき、ロックされていた鍵を開く。金具がガチッと不器用な音を立て、明日菜はその音に肩をびくりと震わせた。突然の音に驚いたのか、天使は羽を広げて飛び去ろうとした。飛び立つ瞬間に、明日菜は天使の横顔が見えた。その横顔で、明日菜の思考は停止した。
見切れた天使のその顔は、三年前に病気でこの世を去った明日菜の同級生である「天詩 今日香」と瓜二つであったのだ。明日菜は天使と目が合ったような気がして、家を飛び出し天使の姿を探したが、見失ってしまった。
歓声とともに、花火の打ち上げが始まった。それを合図に、人の流れは勢いを増して川のある方へと向かっていた。丁度今日は地域の花火大会が開催される日であり、川辺では縁日などが行われているのだ。明日菜はもともと人混みが苦手だし、何より部屋着同然の姿で知人に会うことが恐ろしかったので川沿いに行くつもりなどなかった。本当はすぐそこに見えている自宅に戻りたかったが、今日香の顔をした天使のことを思い出してしまい、家の前を通過してやり過ごすしかなかった。
ぼんやりと喧騒の中を歩く明日菜は、生前の今日香のことを考えていた。
もともと今日香は病弱だったが明朗な性格であり、明日菜にとって数少ない親友の一人であった。良き理解者で、高校時代の記憶は今日香との思い出ばかりである。
好きな人ができたこと。部活の先輩との折り合いが悪いこと。難関大の医学部を目指すことを決めたこと。何を相談するにも、悩んだときはまず今日香を頼ってきた。明日菜が医者を目指す決心がついたのも、今日香に背中を押されたからである。
今日香が導いてくれた。今日香が照らしてくれた。そして明日菜は、今日香との何気なく尊い日常がいつまでも続くと思っていた。
しかし、今日香は高校二年の夏に病気で亡くなってしまった。死の前兆も、別れの言葉もなく、まるで読んでいた本を閉じてしまったように今日香との日々に終わりが来た。明日菜は記憶に蓋をするように受験勉強のことだけを考えようとしたが、時が経つにつれて明日菜は勉強を続ける意味さえ見失ってしまった。
大衆が花火へ目を向ける中、明日菜だけは自分の住むアパートの方を向いていた。もしもまだあのベランダに天使が座っているのなら、なんと声を掛ければよいだろう。もしあれが本当に今日香ならば、咄嗟に逃げてしまったことに悲しんではいないだろうか。
川沿いでくすぶっていると突然、カバンの中から着信音が鳴った。画面を確認すると、それは明日菜の母からの電話であった。母から電話がかかってくることは滅多にないので、明日菜はすぐに電話に出た。
「もしもしお母さん」
「もしもし明日菜、久しぶり。元気にしてる?」
端末の向こう側から、優しい声が響く。明日菜は少し、心が和らいだ。
「まあまあ元気かな。受験勉強の方は大変だけど。ところで急にどうしたの?」
「元気ならよかったわ。今年はこっちに帰省しなくて会えないから声だけでも聴こうと思って電話しただけよ」
心配性だなと、明日菜は母のことを可愛らしく思う一方で、気にかけてくれていたことを少しだけ嬉しくも感じた。
「心配しなくても私は毎日勉強してるから大丈夫だよ」
毎日勉強している。明日菜は自分の言ったその言葉に少し嫌気を感じた。叶えたいような夢や希望も、今の明日菜には見えず、本音を言えば受験勉強が苦痛でしかなかった。
「無理しないでね、辛いときはすぐ連絡してくれていいから」
母の優しい言葉が、かえって明日菜の心を絞めつける。
「うん」
本心とは裏腹に、釈然としない肯定を返す。不意に少しの沈黙が生まれたが、直後明日菜の母は話題を変えるように口を開いた。
「そういえば明日菜、今日香ちゃんのこと覚えてる?」
明日菜は不意打ちで母の口から今日香の名前を聞いて、携帯を持つ手が震えた。母も「天使」を見たのかもしれない。天使のことを母にも話そうか迷ったが、信じてくれるか分からないので一度母の話を聞くことにした。
「覚えてるよ……。今日香ちゃんがどうかしたの?」
「それが昨日ね、信じられるか分からないけど、私今日香ちゃんを見たのよ。たまたま用事があって今日香ちゃんが入院してた病院の前を通ったんだけど、病室の窓辺に今日香ちゃんが座ってたのが見えたのよ」
明日菜は花火の音が聞こえなくなるほど、心臓を打つ音が大きくなるのを感じた。
「お母さんそれ本当⁈ 本当に今日香ちゃんだった? 声かけたりした?」
矢継ぎ早に質問する明日菜の勢いに少し驚いたように、母は答える。
「遠くの窓に見えただけだからはっきりとなんて分からないわよ。……でも、もう今日香ちゃんが亡くなってから三年だし、もしかしたら、明日菜に会いたくなって探しに来たのかもね」
母の言葉で、今朝出会った天使の瞳を思い出した。優しくて、懐かしくて、何よりも大好きだったその瞳は確かにそこにあった。突然の出来事で逃げ出してしまったが、やはりあれは今日香に違いないはずである。
「今日香……!」
明日菜は母との電話を切って、自分の住むアパートの四階へと走り出した。
息も絶え絶えになりながら、明日菜は自分の住む「メゾン・イストワール」の四階にたどり着いた。汗で濡れた手でドアノブを握ったとき、指の先まで強く脈を打っているのを感じる。走ってきたから心臓が激しく打っているのか、それとも扉の向こうで待つ存在に緊張しているのか、その判別は今の明日菜にできなかった。
覚悟を決めて、扉を開く。
白い靄のようなカーテンの向こう側に、花火の光でかたどられた人影がそこにはあった。朝見た時と同じように、窓辺に天使は座っていたのだ。
冷たい指でゆっくりとなぞるように、汗が明日菜の熱を持った背中を走る。
明日菜は窓の鍵をそっと開けて、かつて語り合ったときのような声で天使の名前を呼んだ。
「今日香……?」
振り返った天使は、懐かしい微笑みを返す。
「やっぱりあすちゃんだったんだ。久しぶりだね、あすちゃん」
吸い込まれてしまいそうなほどに透き通った瞳を見ていると、明日菜は胸が張り裂けるような思いだった。もう二度と見ることができないと思っていたその姿を、今目の前にしている。
あの時話したかったことも、今伝えたいことも山ほどあって、だけど、何を話そうとしてもそれじゃない気がしてしまって、うまく言葉が出てこなかった。明日菜が立ち尽くしていると、「天使」はおどけたように見せて、明日菜に話しかけた。
「泣かないでよあすちゃん。やっと会えたんだから笑ってよ!」
天使の姿をした今日香に言われて、初めて頬に伝っているものが涙であると気づく。涙につられるように、明日菜から言葉がこぼれだした。
「今日香……。私、今日香にずっと会いたかった。今日香がいなくなってから、ずっと寂しかった」
「私も、あすちゃんに会いたくて会いに来たんだよ」
花火に照らされて薄桃に輝いた羽を大きく広げ、天使は明日菜を優しく抱きしめた。空気に包まれているような感覚だったが、微かに懐かしい匂いが残っていた。
「私ね、今、旅してるの。ずっとずっと、はるか遠くの空に。これからはもう、あすちゃんに会えなくなっちゃうかもしれなくて、だから会いに来たんだ」
「……なんで? まだ一緒にいようよ今日香」
再会を果たしたばかりなのに突如別れを切り出され、動揺する明日菜は天使に縋り付こうとしたが、天使は首を横に振った。
「実は私ね、本当は、病気で死ぬ前に窓から飛び降りて死んだの。病気が治らないって知っちゃって、それで、あすちゃんとも、家族とも一緒に居られないって知っちゃったとき、私、耐えられなくて……。だから私、きっと天国には行けないの。きっともうあすちゃんには会えなくる」
明日菜は当然、その事実を受け入れられなかった。
「嫌だよ! もう今日香と離れたくない。天国じゃなくてもいいから、私も連れて行って!」
飛び立とうとする天使から離れないように、ベランダの外へ手を伸ばした。
明日菜の体の半分が宙に浮く。もう少し。あと少し手を伸ばせば届きそうなほどだった。
「あすちゃん聞いて! 私、さよならを言いに来ただけじゃないの!」
飛び立とうとしていた天使は最後にもう一度明日菜を抱きしめ直し、目を合わせて言った。
「あすちゃんはこれから夢を叶えて、たくさんの人を救ってあげて欲しいの。きっと辛いこともあるし、逃げたくなる時もあると思う。でも私が生きられなかった分、私と同じように病気の悩みを抱えてる人をたくさん救って。私、あすちゃんのこと、ずっとずっと応援してるから! 大好きだよ! あすちゃん! 言えなかったこと、今伝えられてよかった。……またね」
天使と触れていた手がそっと離れる。
「今日香!」
明日菜の叫び声と同時に、最後の花火が上がった。屈託のない笑顔で手を振る天使は、花火よりもはるか向こうの、暗い空へと飛び去ってしまった。
窓から差し込む光と湿度の低いそよ風で明日菜は目を覚ました。気づいたときには、既に新しい朝が来ていた。すぐさま明日菜はベランダを見に行ったが、そこには何も見当たらず、コンクリートの冷たさだけが残っている。明日菜はベランダから遠くの朝焼けを見つめると、たまらなく寂しく感じた。
少しして、部屋の中に戻る。山積みの参考書と文字で埋め尽くされたノートがそこら中に散らかっていた。部屋の中は普段と何も変わらない。明日菜はまたいつものように受験勉強を始めようとしたが、開きかけのノートを見てその手が止まった。
薄桃のかかった羽が一枚、ノートの脇に落ちている。その羽をそっと拾うと、ノートの一番角には小さく文字が書いてあった。その文字はいつか見た癖のある丸文字で、「ファイト!」と書かれてあった。
「うん、がんばるよ。今日香」
明日菜はノートの新しいページを開き、昨日の勉強の続きを再開した。はるか遠くの空で、羽音が鳴ったような気がした。
予備校での自習を終えた明日菜は、最寄り駅まで帰って来たものの未だ家には帰れずにいた。医者になるために難関私立大学の医学部を目指してから二年も浪人しているので、普段ならば真っ直ぐ家に帰っているところである。寄り道している暇などはない。しかしこの日は家路への足取りが重たく、ただ人の流れに流されるように歩くしかなかった。
家に帰れば、まだベランダの縁にあの「天使」がいるかもしれないからだ。
明日菜は今朝、アパートのベランダに「天使」が座っているのを見てしまった。寝苦しい布団から這い出て、朝日を浴びるために寝ぼけ眼のままカーテンを開く、毎日のルーティンの中に突如として「それ」は現れた。カーテンを開き、初めてその存在を見た瞬間はそれが何なのか分からなかった。しかし乳白色のその背中には少し薄桃のかかった羽が生えており、頭上には青白い光の輪が浮いているのを見て、それが「天使」であると分かった。
最初こそ自分が寝ぼけているだけだと思ったが、だんだんと意識が覚醒していく中でも依然「それ」はベランダの外を向いて座っているのだ。明日菜は恐怖とも好奇心とも違う妙な感情に襲われて、天使と接触すべきか戸惑った。分からないものに対する不安感は否めないが、どことなく天使の後ろ姿に懐かしさも感じていた。悩んだ末、明日菜はベランダの天使に声を掛けてみることにした。
ベランダに近づき、ロックされていた鍵を開く。金具がガチッと不器用な音を立て、明日菜はその音に肩をびくりと震わせた。突然の音に驚いたのか、天使は羽を広げて飛び去ろうとした。飛び立つ瞬間に、明日菜は天使の横顔が見えた。その横顔で、明日菜の思考は停止した。
見切れた天使のその顔は、三年前に病気でこの世を去った明日菜の同級生である「天詩 今日香」と瓜二つであったのだ。明日菜は天使と目が合ったような気がして、家を飛び出し天使の姿を探したが、見失ってしまった。
歓声とともに、花火の打ち上げが始まった。それを合図に、人の流れは勢いを増して川のある方へと向かっていた。丁度今日は地域の花火大会が開催される日であり、川辺では縁日などが行われているのだ。明日菜はもともと人混みが苦手だし、何より部屋着同然の姿で知人に会うことが恐ろしかったので川沿いに行くつもりなどなかった。本当はすぐそこに見えている自宅に戻りたかったが、今日香の顔をした天使のことを思い出してしまい、家の前を通過してやり過ごすしかなかった。
ぼんやりと喧騒の中を歩く明日菜は、生前の今日香のことを考えていた。
もともと今日香は病弱だったが明朗な性格であり、明日菜にとって数少ない親友の一人であった。良き理解者で、高校時代の記憶は今日香との思い出ばかりである。
好きな人ができたこと。部活の先輩との折り合いが悪いこと。難関大の医学部を目指すことを決めたこと。何を相談するにも、悩んだときはまず今日香を頼ってきた。明日菜が医者を目指す決心がついたのも、今日香に背中を押されたからである。
今日香が導いてくれた。今日香が照らしてくれた。そして明日菜は、今日香との何気なく尊い日常がいつまでも続くと思っていた。
しかし、今日香は高校二年の夏に病気で亡くなってしまった。死の前兆も、別れの言葉もなく、まるで読んでいた本を閉じてしまったように今日香との日々に終わりが来た。明日菜は記憶に蓋をするように受験勉強のことだけを考えようとしたが、時が経つにつれて明日菜は勉強を続ける意味さえ見失ってしまった。
大衆が花火へ目を向ける中、明日菜だけは自分の住むアパートの方を向いていた。もしもまだあのベランダに天使が座っているのなら、なんと声を掛ければよいだろう。もしあれが本当に今日香ならば、咄嗟に逃げてしまったことに悲しんではいないだろうか。
川沿いでくすぶっていると突然、カバンの中から着信音が鳴った。画面を確認すると、それは明日菜の母からの電話であった。母から電話がかかってくることは滅多にないので、明日菜はすぐに電話に出た。
「もしもしお母さん」
「もしもし明日菜、久しぶり。元気にしてる?」
端末の向こう側から、優しい声が響く。明日菜は少し、心が和らいだ。
「まあまあ元気かな。受験勉強の方は大変だけど。ところで急にどうしたの?」
「元気ならよかったわ。今年はこっちに帰省しなくて会えないから声だけでも聴こうと思って電話しただけよ」
心配性だなと、明日菜は母のことを可愛らしく思う一方で、気にかけてくれていたことを少しだけ嬉しくも感じた。
「心配しなくても私は毎日勉強してるから大丈夫だよ」
毎日勉強している。明日菜は自分の言ったその言葉に少し嫌気を感じた。叶えたいような夢や希望も、今の明日菜には見えず、本音を言えば受験勉強が苦痛でしかなかった。
「無理しないでね、辛いときはすぐ連絡してくれていいから」
母の優しい言葉が、かえって明日菜の心を絞めつける。
「うん」
本心とは裏腹に、釈然としない肯定を返す。不意に少しの沈黙が生まれたが、直後明日菜の母は話題を変えるように口を開いた。
「そういえば明日菜、今日香ちゃんのこと覚えてる?」
明日菜は不意打ちで母の口から今日香の名前を聞いて、携帯を持つ手が震えた。母も「天使」を見たのかもしれない。天使のことを母にも話そうか迷ったが、信じてくれるか分からないので一度母の話を聞くことにした。
「覚えてるよ……。今日香ちゃんがどうかしたの?」
「それが昨日ね、信じられるか分からないけど、私今日香ちゃんを見たのよ。たまたま用事があって今日香ちゃんが入院してた病院の前を通ったんだけど、病室の窓辺に今日香ちゃんが座ってたのが見えたのよ」
明日菜は花火の音が聞こえなくなるほど、心臓を打つ音が大きくなるのを感じた。
「お母さんそれ本当⁈ 本当に今日香ちゃんだった? 声かけたりした?」
矢継ぎ早に質問する明日菜の勢いに少し驚いたように、母は答える。
「遠くの窓に見えただけだからはっきりとなんて分からないわよ。……でも、もう今日香ちゃんが亡くなってから三年だし、もしかしたら、明日菜に会いたくなって探しに来たのかもね」
母の言葉で、今朝出会った天使の瞳を思い出した。優しくて、懐かしくて、何よりも大好きだったその瞳は確かにそこにあった。突然の出来事で逃げ出してしまったが、やはりあれは今日香に違いないはずである。
「今日香……!」
明日菜は母との電話を切って、自分の住むアパートの四階へと走り出した。
息も絶え絶えになりながら、明日菜は自分の住む「メゾン・イストワール」の四階にたどり着いた。汗で濡れた手でドアノブを握ったとき、指の先まで強く脈を打っているのを感じる。走ってきたから心臓が激しく打っているのか、それとも扉の向こうで待つ存在に緊張しているのか、その判別は今の明日菜にできなかった。
覚悟を決めて、扉を開く。
白い靄のようなカーテンの向こう側に、花火の光でかたどられた人影がそこにはあった。朝見た時と同じように、窓辺に天使は座っていたのだ。
冷たい指でゆっくりとなぞるように、汗が明日菜の熱を持った背中を走る。
明日菜は窓の鍵をそっと開けて、かつて語り合ったときのような声で天使の名前を呼んだ。
「今日香……?」
振り返った天使は、懐かしい微笑みを返す。
「やっぱりあすちゃんだったんだ。久しぶりだね、あすちゃん」
吸い込まれてしまいそうなほどに透き通った瞳を見ていると、明日菜は胸が張り裂けるような思いだった。もう二度と見ることができないと思っていたその姿を、今目の前にしている。
あの時話したかったことも、今伝えたいことも山ほどあって、だけど、何を話そうとしてもそれじゃない気がしてしまって、うまく言葉が出てこなかった。明日菜が立ち尽くしていると、「天使」はおどけたように見せて、明日菜に話しかけた。
「泣かないでよあすちゃん。やっと会えたんだから笑ってよ!」
天使の姿をした今日香に言われて、初めて頬に伝っているものが涙であると気づく。涙につられるように、明日菜から言葉がこぼれだした。
「今日香……。私、今日香にずっと会いたかった。今日香がいなくなってから、ずっと寂しかった」
「私も、あすちゃんに会いたくて会いに来たんだよ」
花火に照らされて薄桃に輝いた羽を大きく広げ、天使は明日菜を優しく抱きしめた。空気に包まれているような感覚だったが、微かに懐かしい匂いが残っていた。
「私ね、今、旅してるの。ずっとずっと、はるか遠くの空に。これからはもう、あすちゃんに会えなくなっちゃうかもしれなくて、だから会いに来たんだ」
「……なんで? まだ一緒にいようよ今日香」
再会を果たしたばかりなのに突如別れを切り出され、動揺する明日菜は天使に縋り付こうとしたが、天使は首を横に振った。
「実は私ね、本当は、病気で死ぬ前に窓から飛び降りて死んだの。病気が治らないって知っちゃって、それで、あすちゃんとも、家族とも一緒に居られないって知っちゃったとき、私、耐えられなくて……。だから私、きっと天国には行けないの。きっともうあすちゃんには会えなくる」
明日菜は当然、その事実を受け入れられなかった。
「嫌だよ! もう今日香と離れたくない。天国じゃなくてもいいから、私も連れて行って!」
飛び立とうとする天使から離れないように、ベランダの外へ手を伸ばした。
明日菜の体の半分が宙に浮く。もう少し。あと少し手を伸ばせば届きそうなほどだった。
「あすちゃん聞いて! 私、さよならを言いに来ただけじゃないの!」
飛び立とうとしていた天使は最後にもう一度明日菜を抱きしめ直し、目を合わせて言った。
「あすちゃんはこれから夢を叶えて、たくさんの人を救ってあげて欲しいの。きっと辛いこともあるし、逃げたくなる時もあると思う。でも私が生きられなかった分、私と同じように病気の悩みを抱えてる人をたくさん救って。私、あすちゃんのこと、ずっとずっと応援してるから! 大好きだよ! あすちゃん! 言えなかったこと、今伝えられてよかった。……またね」
天使と触れていた手がそっと離れる。
「今日香!」
明日菜の叫び声と同時に、最後の花火が上がった。屈託のない笑顔で手を振る天使は、花火よりもはるか向こうの、暗い空へと飛び去ってしまった。
窓から差し込む光と湿度の低いそよ風で明日菜は目を覚ました。気づいたときには、既に新しい朝が来ていた。すぐさま明日菜はベランダを見に行ったが、そこには何も見当たらず、コンクリートの冷たさだけが残っている。明日菜はベランダから遠くの朝焼けを見つめると、たまらなく寂しく感じた。
少しして、部屋の中に戻る。山積みの参考書と文字で埋め尽くされたノートがそこら中に散らかっていた。部屋の中は普段と何も変わらない。明日菜はまたいつものように受験勉強を始めようとしたが、開きかけのノートを見てその手が止まった。
薄桃のかかった羽が一枚、ノートの脇に落ちている。その羽をそっと拾うと、ノートの一番角には小さく文字が書いてあった。その文字はいつか見た癖のある丸文字で、「ファイト!」と書かれてあった。
「うん、がんばるよ。今日香」
明日菜はノートの新しいページを開き、昨日の勉強の続きを再開した。はるか遠くの空で、羽音が鳴ったような気がした。