zorozoro - 文芸寄港

輝く時間へ

2024/06/26 14:10:42
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 フロントガラス越しに濃紺の秋の夜空が広がっている。
 秋の星模様は明るい恒星が少なくすこし寂しいが、それはそれで風流がある、と秀は思った。
 燦々と輝く星よりも、たとえば、あの電線の上で遠慮がちに光っている、少し息を吹きかければ暗い夜空にふっと消えてしまいそうなくらいの小さな星の方が品が良い。
 平凡なものを望むようになったのはいつからだろうか。助手席で同じように前を見ている麻美の方をちらりと見る。
 カーオーディオから流れ出しているFMラジオの音声が、心地よく車内に響いている。アスファルトをタイヤがなでる音が静かに二人を包んでいる。透き通った匂いのする秋の風が、少し開けた窓から入ってきて涼しい。
 この沈黙にも、慣れてしまったといえば慣れてしまったのだろう。元々口数が多い方じゃない僕らの、二十数年の付き合いのなかで沈黙は、特別な二人の空気感ではなく、普遍的な深い意味を持たないものとなってしまったようだ。ただ話すことがないから黙っているだけ。もはや沈黙がそこにあるだけのように、僕らは二人で居続けているのかもしれない、なんて、悲しいけど、きっとそうなのだ。
 先ほどから麻美は、前を向いたまま口を一文字にして前の車ではないなにかをぼんやりと見つめている。少し窓を開ける。ここのところ、麻美が何を考えているのかはまったくわからない。いや、いつからだろう、もしかしたらそれは、もうずっとずっと前からなのかもしれない。
 土曜日とはいえ日暮れの国道17号線の下りは車が多く、左車線は三十キロほどでのろのろと進んでいる。僕はハンドルを掴んでいた握力をすっと緩める。
「フォーマルハウトって知ってる?」
 麻美がゆっくりな、しかしはっきりとした声で尋ねた。僕は少し怖気づいた。
「……なんだっけそれ、星だっけか?」
「ええ。秋の夜空で唯一の一等星。」
 少し可笑しいと思った。
「なんだ、麻美も空見てたのか。」
 それらしきものが見えないか、と少し下がっていた眼鏡を片手で押し上げ、フロントガラス越しの空に視線を遣った。
「見えないわよ。南の地平線ギリギリにちょっとだけ出てきて、すぐに沈んじゃうもの。」
 バックミラーに目を移すが、そこには地平線はおろか空さえ見えず、大宮のビル群を背景に後ろの車の眩しいヘッドライトだけが映っていた。
「フォーマルハウトがどうしたの。」
 諦めて話の先を促した。FMラジオはオートバックスのCM音声を流している。
「フォーマルハウトは、ペルシャとか中国ではありがたい星らしいんだけど、」
 地面の小さな段差にシートが揺れる。カタン、とタイヤが音を鳴らす。
「私、ありがたい星というよりも、悲しい星だと思うんだよね。」
 いきなり話し出したかと思えばなんの話だ。僕は静かに心の中で溜息を吐く。
「どうして?」
 麻美は軽く首を振って、落ちてきて目にかかりかけていた髪を払った。胸元までの長い黒髪がさらっと揺れる。
「だって、切ないじゃない。明るいから目立つし仲間がいない。もっと暗かったらいいのに、なんて、そんなの悲しいわ。」
 孤独で、目立って、悲しい。そうなのかもしれない。麻美によればたしかに、フォーマルハウトは悲しい星なのかもしれない。しかし。僕にとってそんなことは、どうでもいい。本当に。腹減った。悪いが家に帰るのが遅れてしまう方が大問題だ。
 FMは延々懐メロを流している。今どきの若者はラジオなど聞かないからだろうか。もしかしたらラジオの番組は今や僕たち上の年齢層に向けたものばかりなのかもしれない。
 左側に一定の間隔に設置された街灯のあかりが、ひとつ、またひとつ、一定の間隔で前から後ろへフロントガラスを撫でていく。道路わきに根づいている雑草がアスファルトと同じように闇に溶けている。
 見覚えのある、左側の歩道の上の黄色の大きな看板が車のヘッドライトをほのかに反射している。ここを通るたび、あの事故のことを思い出す。
 あの日もこんな星の日だった。ちょうどここで逆走してきた居眠り運転の車と正面衝突になったのだ。
 もうはるかに昔、二十一歳のときのことだ。骨折だけで済んだのはたしかに運が良かった。そのとき助手席に乗っていた友里という同級生の女は、知り合ったばかりだった。
 二人は交通事故というあまりの非日常的な緊急事態に激しく動揺し、悪びれずに自分の車の傷を見回していた相手の運転手に憤慨していた。
 そうしてまた、二人は軽傷で済んだことを喜びあい、それもあってやがて恋仲になった。その経験は若い僕らには強烈で、鮮烈だった。
 事故に遭いながら無事生き残ったことも、二人が出会ったことも、食べ物の好みや好きな色が似通っていることさえも、すべてが運命と、そう強く信じて疑わなかった。
 全ての出来事に意味があり、全ての物事がきらきらと光り輝いているような気がしていた。夜空に輝く一番星を眺め、その輝きに心酔していた。根拠もなく前途が開けていた。あれは若さだったのだろうか。それは午前中の太陽が明るさを増すのと同じような、そういった類の。
 恋愛など、たまたまタイミングよくそのとき出会った人の中でなんとなくいいなと思った人にするもので、運命などは存在しない、ほんの偶然が重なりたまたま出会った男女に過ぎない、そんな風に思うことのない、それはきっと若さなのだ。
 どこかから小さくパトカーのサイレンが聞こえている。サイドミラーを一瞥しても赤い明滅は見えない。姿の見えないサイレンの音は、ここと離れた街に降る雨みたいだ。
 道を走る車は少しずつ混雑してきて、このままだともうすぐ動かなくなってしまうように思えた。
「今日、道すごい混んでないか?」
 隣の麻美はシートに背中を埋めたままこちらをちらりと見た。シートに完全に体をあずけていて、まるでどこからがシートでどこからが体なのか判別し難いほどだった。
「今日鴻巣花火大会よ。」
「あ、そうなのか、全然知らなかった。……もうそんな時期なのか。」
 鴻巣花火大会は二人の暮らす鴻巣市の、唯一といってもいいほどの人が集まる機会だった。毎年多くの見物客が押し寄せる。道は混み、電車は遅延し、街中に人が溢れかえる。道端にたくさんのゴミが散らかり、信じられないほどの人々の騒音が家の中まで轟いてくる。
「秀は、花火とか興味なさそうだもんね」
 そう言う麻美もさして興味はなさそうに見えた。最後に二人で花火を見に行ったのなどいつなのだろうか。少し考え巡らしたけれど、まったく思い浮かばない。これから先も永久に、わざわざどこかに二人で花火を見に行くことはないのだろうか。
 隣の車線が少しだけ速い速度で流れている。けれどもどちらもほぼ変わらずゆっくりで、あえて車線変更するほどでもないようだった。
 こんな時は焦らずゆっくり帰ることをより望んだ方がいい、なんて、一体僕たちは大人になっていく中でそういうさびしい処世術ばかり身につけてきたのか。悲観とも楽観ともつかない沈黙が胸を占めていく。
 右側をゆっくりと追い越していく水色の乗用車は、カップルのようだった。若い男が運転していて、助手席には小柄な顔の小さい女がちょこんと乗っている。
 女は男に話しかけていて男はうんうんと首を縦に振りながら楽しそうに聞いている。男の顔が緩み、彼はぶわっと口をあけて笑う、が、すぐに車が前へ行き見えなくなってしまった。
 やんわりと光るテールライトはゆっくりと去っていって、やがて後続の車で隠れた。彼らは花火を見に向かっているのだろう。たとえ渋滞でも彼らはさびしい処世術など必要としない、笑っていられるような仲の良さなわけだ。水色の車は幸せの象徴なのかもしれない。
「花火間に合うかな。」
 思わず気になって呟いた。自分が見たいわけじゃなく、ただ、水色の車の彼らが花火に間に合うといいな、という気持ちだった。
 もちろん、彼らがどういう未来を歩んだところで、 僕の人生になんの関わりもないだろう。しかし、若々しい彼らの姿は僕にささやかなこころよさをもたらした。見ているだけで、嬉しいような、微笑ましいような。それはふわりと心の水面に浮かんだやわらかな気持ちで、心地よい気分だった。
「花火見にいく?」
 麻美は、しかし静かな、さして変わらない声色だった。僕は「ああ……」とだけ軽く口から漏らした。
 ふいに、二人出会ったときのことを思い出す。麻美とは行きつけの店のカウンターで出会った。手にもって熱心に読んでいた小説のカバーが、空色で美しく、思わず声をかけた。麻美が読んでいたのは何かマイナーな海外の作家の翻訳小説だったような気がするが、それが何だったかはよく覚えていない。当然のことながら、僕の知らないものだった。
「そのブックカバー綺麗ですね。」
「ああ、これ? ありがとう。」
 麻美は、最初から温度感のない声色をしていた。二人とも少し気まずそうに早口で喋った。
「どこで買ったんですか?」
「これ自分で作ったんです。」
「ハンドメイドなんですか。」
「実家にあった着物から作ったんです。もう長いこと誰も着ていなくてカビが生えてたものですから。」
「ああ、なるほど。」
 そのあとに話すことはもう何もなく、お互いを意識しながらも二人ともただグラスに口をつけていた。店内に流れる知らないクラッシックだけが気まずい沈黙を少しだけ和らげていた。
 そのころ、沈黙はいつも気まずいものだと感じていた。不意に途切れた会話、そのあとやけに響く周囲の環境音。沈黙は、いきなりぷつりと切れた音楽のように、居心地が悪く、僕をソワソワさせた。何か話さなければ。何か続けなければ。あれは、若さゆえだったのだろうか。若さ特有のエネルギーのありあまり、若さ特有の落ち着きのなさ。
 ラジオが時報を伝える。無味乾燥とした音が耳を打つ。
「間に合うかはわからないけれど、車からは見えるんじゃない? 家についたらベランダから見えるわよ。」
 麻美はどうやら、僕が花火を見たがってると勘違いしたみたいだった。
 花火、長らく見に行ってない。去年の鴻巣花火もたしか車の中から、ただ建物の間と間に小さく見えただけだった気がする。
 間近で見れば、きっと大迫力なのだろう。
 麻美にも、あの水色の車に乗っていた顔の小さい女みたいな時代があったのだろうか。誰かと心をときめかせながら花火を見に行くようなことが。
 シートに座り直して窓の外を見れば、なんとなく浮ついた、ハイテンションのような空気感が国道の二車線に流れているような気がする。誰もがわくわくと、夜空に舞いあがる大輪の花を心の底で期待している、そんな感じの雰囲気が。FMから溢れる笑い声も、空気に透き通って秋の夜空に広がって吸い込まれていくようだった。
「せっかくだから、このまま河原の方にちょっとだけ行ってみないか?」
 歩道の脇に植えてある暗い街路樹も、その葉や枝先を闇と溶かしてこの夜のささやかな興奮をまとっているようにも見える。
「……うーん、まあせっかくだしいいんじゃない。」
 花火を見るのなど、いつぶりなのか。花火を見に行く、という長年抱くことのなかった独特な気持ちが心の小さな部分に芽生えて、なんだかくすぐったいような、感慨深いような、そんな気持ちになる。子供の頃に学校の裏山に作った秘密基地を、大人になってからそっと覗きに行くような、そんな微かな冒険心が心でくすくすと揺れている。
「御成橋の反対側まで行こうか? そこまで行けるかな。」
 荒川に架かる御成橋には、川幅日本一の札が掛けられている。しかし彼岸の堤防は遠くとも、川が流れているのは真ん中だけで、ほとんどが氾濫予防の遊水地や河原になっている。その広大な河原から打ち上げられる一万五千発の花火は関東最大規模だ。
「まあ、間に合うんじゃない。」
 麻美はやはりゆっくりと喋りゆったりとシートに身を預けていた。けれどその言葉尻には、冒険心のような何かが、フォーマルハウトの輝きのようにきらりと光ったような、そんな気がした。
「最後に二人で花火を一緒に見に行ったのっていつだっけね。」
 麻美が柄にもなく感傷的になったので、思わず笑った。
「おれも同じこと考えてた。……けど全然明確に思い出せない。」
 麻美はふふっと笑った。窓から流れてくる心地よい風に、長い黒髪が微かに揺れている。
「長岡花火、行ったよね。」
「ああ。何年前? まだ二人とも二十代後半だったよな。」
 右の車線を白い大型乗用車が通り過ぎていく。FMからは『翼の折れたエンジェル』のイントロが流れている。
「若かったわね。」
「ああ、若かったな。」
 中村あゆみのハスキーな声が車内に心地よく響くと、二人の間に漂う沈黙もどこか優しいように思える。
「たしか、帰りに大げんかしたわよね。」
 麻美がちらりとこちらを見る。深い黒色の、透き通った瞳だった。
「そうだったっけか。全然覚えてない。なんでそんな喧嘩なんかしたんだ?」
「いや、私もそんなことは覚えてないわよ。」
「まあ、そんなもんか。」
 でもきっと、けんかの理由は些細なものだったのだろう。しかし、その頃の喧嘩も、いまとなっては遠い星座のように懐かしく胸の中に漂うのみだ。
「あのときは何に対しても真剣だったもの。何もかもが奇跡で、何もかもに意味があるように思えたし。人との出会いにも、けんかしたことにも、雲の形にさえも。すべてが必然で、すべてが運命だと思ってた……まあ、傷つきやすかったから。」
 たしかに、そうだ。あの頃は、辛いことや悲しい出来事に対して、きっと意味があったんだと思わなければ、居ても立ってもいられなかった。
「麻美も、若いときはそんなこと考えてたんだな。」
 麻美もそうであったことが、そんな風に考えていた麻美を想像するのが、なんだか可笑しい気がした。常に落ち着いていて、ゆっくりな話し方で、何でも知っているような麻美。今となっては、ただ寡黙な妻。
「なに笑ってんのよ。」
「いや、なんか麻美もおれと変わらないんだなって思って。」
 麻美はゆっくりと笑った。
「あたりまえじゃない。若かったんだもの。」
 麻美の言葉の余韻がゆっくりと車の中で反響する。
「……これで、良かったんだよね。」
 麻美の方を見る。麻美は前を向いたまま、ゆっくりうなずく。
「うん、これで良いんだよ。」
 これで良かったのだろうか、あのとき描いた未来は、こんな感じだったのか。
 ときどきふと立ち止まって問うてしまうこの疑問はどちらかと言えば暗い気持ちで、少しの後ろめたさが付きまとっていたりする。
 だけれど、これでいいのだ。今の自分は、過去の自分が選択し続けた、その矢印の延長線上にいるのだから。
 伝えられなかった気持ちも、すれ違った心も、きっとそれも一つの矢印だったのだ。そしてその一つ一つが、今の自分を自分たらしめている。それらに意味などあるにせよ無いにせよ、とにかくそれだけは、間違いないことだ。
 シャッターのしまった店の前の暗がりが、歩道橋が路面に落とす影が、夜が少しずつ深まっていくことを教えている。
 北本駅前を過ぎたあたりからより交通量は増え、車はほとんど動かないようだった。御成橋まではあと5キロくらいといったところだろう。歩道にもだんだん見物客が増え、ところどころ人々の話し声が夜風に乗って車内へ流れてくる。
 一体、どれだけの人間が花火を見に来るのだろうか。途方もない数の人々のそのすべてが、同じものを見上げ、同じ音を聞く。性別も、年齢も、価値観も、何もかも違う、同じ花火を見ているという一点を除けばこの先の人生で一度も交差しないであろう人たちが、今日この夜だけ、まったく同じ目的で集まっている。
 そう考えると、この車の群れも、歩道を歩く浴衣姿の若者の集団も、もうすでに酔いが回っている中年の団体も、すべてが壮大で、すべてがかけがえのないもののような気がしてきた。
 確かにそれは、言ってしまえばただの偶然にすぎない。自分も花火を見に行くなどとついさっきまでは思っていなかった。
 恋愛と同じだ。たまたまタイミングよくそのとき出会っただけにすぎない。けれど、それが壮大なロマンを生み出すこともきっとあるのだ。この花火の夜のように。そして、たとえばきっと、麻美と出会えたことのように。
 FMからは松任谷由実の曲名のわからない曲が流れている。柔らかなメロディーが二人の間を優しく漂っていく。
「あっ」
 川の方をぼんやり眺めていた麻美が、不意になにかを見つけたようだった。と同時に、川の方の上空が閃光を一面に撒き散らしたかと思うほど明るくなった。
 フロントガラスの方に顔を突き出して上を覗き込むと、そこには紺碧の空いっぱいに、心から感服するほど大きな一輪の花火が浮かんでいた。周りの動きのすべてがスローモーションになったかのような錯覚さえ抱く。
 黄金色にしだれ落ちていくその花弁の一つ一つがたくさんの光の粒を宿し、夜空にきらきらと星屑をまぶすようにきらめいては消えていく。
 それは圧巻するほど巨大で、けれど驚くほど繊細だった。ほんの一秒の間に、大きな感激が胸を満たし、思わず大きく息を吸い込んだ。
 直後、火薬の爆発する力強く芯のある大音量が体を揺さぶった。花は夜の太陽で、音は地の轟きだった。僕はただ、あんぐりと口をあけて、呆けて空を見上げるほかなかった。
 はっとして、前を見る。前の車はほとんど進んでいなかった。みんな花火に見惚れているのだろうか。
『夜風が涼しくなる頃は かなしい子供に戻るから つれて行って遊園地』
 FMからユーミンの軽やかな歌声が聞こえてくる。
 花火は続けて三つ四つと空に打ちあがった。そのたびにどこかから、誰かと分からぬ歓声が湧き上がる。
 天神二丁目の交差点を左折し、御成橋の方へ向かっていく。車の列は時速十キロくらいでのろのろと進んでいる。
 フロントガラスの正面に、花火がいくつもの色彩を広げていく。それは赤や緑や白など様々で、それぞれが美しく幻想的に輝きを放ち、そして美しく幻想的に散っていった。
『ネオンも星座も色褪せて バターの香りが流れ来る たそがれの遊園地』
 新しい花火が、前の花火の爆発の煙を照らす。漆黒の夜空に立ちのぼった煙は巨大な古代の龍のようで、けれどすぐに夜空に溶けていく。
 僕はふっと、麻美の方を見る。麻美もこちらを見つめて、その深く黒い瞳と目が合う。微笑む。
 麻美の顔は花火の艶やかな色に照らされて、いつもより幼いように見えた。髪も昔のようにショートカットになっているように思える。その微笑み、顔つきは、どこか少し若い。
 麻美も僕を見て同じように思ったのだろう、ふふっとゆっくり微笑んだ。
『ああこのまま時間を忘れて 世界を舞い跳ぶビームになりたい』
 花火がいくつも夜空に打ちあがっていく。のろのろと進む車のなかで、二人はそれをただ見つめていた。
 麻美の髪はやがて茶色のショートに変わり、僕の鼻からはいつしか眼鏡の重みが消えていた。少しずつ、少しずつ、僕らは若返っていった。
 地球はゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと、逆回転を始めたようだった。空に花火が打ちあがるたび、時間の流れが逆行していく。
 僕らは、若かった。そして、今も。ああ二人は若かったんだなあ、と言えるほどにまだ、僕らは充分に若いのだ。
『大人になったら宿題は なくなるものだと思ってた いかないで 夏休み』
 力強く芽吹く若葉みたいに下から吹き上げるような花火や、繊細にハート形や星形にひろがるもの、ぱっと開いた花弁の一つ一つから再び花がひろがるもの。僕らは恍惚と、その輝きを眼に映し、音を体で感じた。カラフルな光の陰影がフロントガラスに薄く反射していた。
 車は橋の上をゆっくりと進んでいた。火薬のにおいがそよ風に運ばれて柔らかに香る。鳥や虫が花の蜜の匂いに誘われるように、僕はその香りを鼻先で感じた。
『ああしばらく孤独を感じて 都会を見下ろすカイトになりたい』
 僕は、幸せの中にいる。少しずつ若返っていく肌を見つめ、そう思う。
 たとえすべての出逢いや出来事が偶然にすぎないとしても、この麻美との愛すら深い意味を持たないものだとしても、それでいい。きっと、それでいい。
『想い出を駈けぬける 様々なイルミネーション 包んで 今夜だけ』
 この先、人との出会いと別れを重ね、やがて身の回りのすべてが死んだとしても、きっと、それはそれとして受け入れるほかないのだろう。もうきっと、何も臆することはない。僕はどこへだって、矢印の延長線を走っていこう。
『夜空に浮かんだスタジアム カプセルに乗ってのぞいたら 歓声が舞い上がる』
 麻美はフロントガラスに首を伸ばして、花火をただ見上げている、自分が若くなっていくことにも構わずに。深く黒いその瞳で、ただ花火に見入っている。
 麻美は懐かしい服を着ている。このシャツをプレゼントしたのっていつだったっけか。
『ああこのまま時間を忘れて 世界を舞い跳ぶビームになりたい』
 花火の音がしだいに激しくなっていく。僕らはただその音に身を任せた。こうして若返っていくことに身を任せるように、そして普段、地球の自転に身を任せて歳をとっているように。
 花火の見えるところに車を停めて、僕らはその中からいつまでも花火を見ていた。ただ、いつまでも。もはやそうする他ないように。
 二人は夜空に描き出される幻想的な光と音に酩酊して、次々に打ちあがっていく花火をただ恍惚として見上げていた。いつまでも。いつまでも。
『想い出を駈けぬける 様々なイルミネーション 包んで 今夜だけ』
 最後の花火の連発が打ちあがる。夜空に、これまで見たことがないほど大きな花弁がひろがってゆく。
 満を持してつぼみから花がひらくように、大輪の花は視野の端から端まで煌々と輝いてひろがる。
 すぐに、まるで地球の咆哮のような大きな爆発音が車を揺らす。
 光はさらさらと小さな粒子になって、なおも輝きながら少しずつその黄金色を紺碧に溶かしてゆく。
 最後の一粒までが懸命に光る。
 そして、ついに、すべての光が消える。
 まるで全部が、ほんの幻にすぎなかったように思えた。
 金色がすべて紺碧に溶けてしまうと、そこにはただ、秋の夜空が横たわっている。
 助手席に座る麻美は、いつもの麻美に戻っていた。その髪は胸元までの長さで黒くつやつやしている。いつの間にか、僕の鼻にも眼鏡の重みがかえってきている。
 僕らは、互いに見つめ合った。そこには、何の言葉すらいらなかった。
 ただ、ささやかな幸せをはらんだ沈黙が、二人の間を漂っている。
 南の空ではフォーマルハウトはもう沈んでいる。地球はその角度の分だけ、回っている。そしてその回った分だけ、僕らは歳をとっている。
最近、埼玉県民になりました。
かぱぴー
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コメント



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1.90v狐々削除
良かったです。夜の道路なんかで良く感じる、光が滲んで星になるような感覚が伝わってきた。