(大雨特別警報 台風十九号、首都直撃か)
投げ出すように伸ばした両脚の間に広げたのは、ちょうど一週間前の新聞だった。その文字列を頭の中で読み上げている後ろでも、まだ雨音が響いている。東京は今日も雨。台風が去ったかと思えば今度は秋雨前線がどうとかで、毎朝何とはなしに眺めている天気予報にも憂鬱な傘マークが並んだままだ。雨の日は時間の感覚が曖昧になる。今だって例に漏れず間延びした午後で、輪郭がどこかぼやけたような部屋の真ん中に、私は座り込んでいた。ひとりで取り残されていた、といってもいいかもしれない。Tシャツにハーフパンツという部屋着のせいで、フローリングに触れている脚の裏側が冷たい。いい加減衣替えしなくちゃなあ、などとぼんやり考えながら、私は新聞紙の上にどさどさと黒い塊を転がしていった。ひまわりの頭部である。すっかり花の盛りを終えてうなだれているところを刈り取ったもので、湿度の高い日が続いたせいで思いのほか時間がかかってしまったが、ようやく乾燥も済んだようだ。私はこれから、このみすぼらしい黒い塊からひまわりの種を採っていく。
元はと言えばこのひまわりは、八月にこの部屋を出て行った恋人と育てていたものだった。彼は、東京には自然が足りないだの、ベランダが殺風景だと悲しいだの、自分の家でもないくせに好き勝手にものを言い、私たちが大学三年生になった春のとある日、遠慮を知らない大きさの植木鉢とともにこの部屋に転がり込んできた。花に興味なんてない、と文句を言ったところで結局それは戯れ合いにしかならず、そうして二人で種を蒔いたのが五月のはじめ。一週間ほど経った頃に芽を出したひまわりは、それから瞬く間に背を伸ばしていった。その間、何か大きな事件が起こるわけでもなく、私たちは単調な日々を浪費していた。お腹が空けばテキトーなレシピの再現不可能な料理をふるまい合い、片方が眠くなれば二人で眠り、気が向いたときに身体を重ね、時々は大学をさぼり、いくつかの映画や本を共有した。それだけだった。喧嘩は一度もしなかった。この安全な六畳間は二人で身を寄せ合って生きるのに過不足のない、満ち足りた空間だった。
親指を使って無数の凹凸を撫でるようにすると忽ち種はバラバラに解けて、零れて、新聞紙の上で弾けた。しらけたような音が、窓を隔てて鈍くなった雨音に紛れていく。白黒の縞模様の種。
彼の日焼けはもう薄れた頃だろうか。
寝苦しい夜だった。一人分の体温でさえ脱ぎ捨てたいくらいだったが、私は彼の腕の中にいた。それがシングルベッドでの二人の定位置だった。普段衣服に覆われていないせいで日に焼けた、彼の肌の浅黒くなっている部分を、私の眼で、鼻先で、てのひらで撫でる。押し退けられて丸まっていた掛け布団を足で引き寄せながら、私は
「ひまわり、明日には咲きそうだね」
と何気なく言った。彼は私の肩のあたりに埋めていた顔をゆっくりと持ち上げ、
「夕立を待っていたんだけどね」
と的外れな言葉を返してきた。なんのこと、と薄く笑いながら尋ねようとしたのに、私は途端に口を噤んでしまった。至近距離でぶつかった視線は、そのまま私を透過していくようだった。またこの眼だ。堪らなくなって彼の背中に回した腕に力を込めた。彼は私より体温が高い。彼の首元に顔を寄せると、なぜかいつも雨の降りはじめのような匂いがした。
「花は毎年咲くからね」
聞き慣れた声が耳朶をくすぐった。それは種を蒔いた日から彼の口癖となっていた科白だった。水やりをするとき、会話が行き止まったとき、私を腕の中に抱いているとき、彼はどこからともなくその科白を取り出しては、私に宛てるわけでもなく空へ放った。そのたびに私はオウム返しをして、よく彼をからかった。科白が落下するとき、彼は決まって、私を見つめているようでもっとどこか遠くに意識を伸ばしているような眼をしていた。私たちがここにいることが揺らいでしまいそうで、私はいつでも、彼のその眼を真正面から見つめ返すことができなかった。
翌日、彼はこの部屋に帰って来ず、それから二度と、私の前に姿を現すことはなかった。
あたりに散らばった種を新聞紙の上にそれとなくかき集める。再び手にした塊は、種を失った部分が黒く落ち窪んで、ますます醜く見えた。
本当はこの採種作業だって彼と一緒に行うはずだったのだ。当然だ。彼がいなければそもそも咲くこともない花だったのだから。
「花が枯れても、種を採って、春にまた蒔いたらね、来年もちゃんと咲くからね。毎年、毎年。ずうっと。花は人間なんかよりもよっぽど永遠に近いんだよ。人の心は移ろいやすいからね」
種を蒔き終えたときに彼が零していた言葉が、頭の中で反芻される。花が咲くの楽しみだねえ、なんて無邪気そうにはにかんでいた顔も、穏やかな声色も。そんな言葉を吐いておいて、採種はおろか、彼は結局、せっかく咲いたひまわりの花をその眼に映すことさえしなかった。植木鉢は押し付けられたものにすぎず、元々、花への興味が薄かった私は、ひまわりだってひとつの命といえども、それへ向ける情のようなものは特段持ち合わせていなかったように思う。それなら放っておけばいいものを、なぜか私は、こうして律儀に採種作業まで行っている。この行為の意図が自分でもわからない。そんなふうに時々自分に戸惑いながら、記憶の中の彼の姿を心がなぞっている間も、指はそれに構わず勝手に動いた。次々と解放されていく種が、やっぱり好き勝手に散らばった。
ようやく一つ目の塊から種を採り終えたところで、不意に、ベランダへ続く窓に視線が流れた。雨は降り続いている。雨粒の落下速度に眼は追いつけず、手元に視線を戻そうとしたその軌道上で、なにか、ぼやけた黄色のものを捉えた。じょうろだった。幼稚園にあったような、プラスチック製の、ゾウを模したじょうろ。ゾウはベランダの片隅で間抜けな顔をして、大きく開いたその背中から、そして鼻先のいくつもの穴から、雨水を止めどなく溢れさせている。
あ、と思う間に世界は歪んでいた。拒む余地もない速さで、心が記憶を再現していく。ホームセンターでこのじょうろを見つけた私たちは、二人で顔を見合わせて笑い、彼はそのまま、自らが持っていたカゴに愛らしいそれをそっと迎え入れた。カゴは褪せた緑色をしており、その中で、溌剌とした黄色のじょうろはよく映えた。宝物になっていくという確信で輝かされていた。彼は私の隣で暫く笑い続けていた。幸せだった。再現されたあまりにも鮮明な記憶たちを、心の外側へ流してしまおうと促すかのように、涙は次から次へと溢れてくる。喉奥が熱い。嗚咽をこらえようとして体に力が入り、私の手に収まっていたひまわりの亡骸が、くしゃり、と乾いた音を立てて潰れた。涙の止め方がわからない。泣いたって仕方がないのに。彼がこの涙を拭ってくれるわけでもないのに。
と、そこで私は、彼の前ではたったの一度も泣いたことがなかったと思い当たる。
彼が待っていた夕立とは、これのことだったのだろうか。あの透明な眼を見つめ返せなかったのは、はぐらかしてばかりだったのは、その眼が、私も知らないような私を暴いてしまいそうであまりにもおそろしかったのだ。私には私自身の感情をうまく認識できている自信がない。私自身にとってさえ得体のしれない渦のようなそれが、他人の眼に晒されるなんて耐えられない。人前で泣き出すような決壊なんてもってのほかだ。でも、彼はそれを求めていたのかもしれない。渦に巻き込まれて一緒に溺れてくれる人を探していたのかもしれない。そして私だってきっと、本当は助けてほしかった。涙を拭ってほしかった。私たちはどうしようもない臆病者で、似たもの同士だった。何に怯え、何を拒み、何を望んでいたのか。私たちはお互いを見つめ合う前に、きちんとひとりを知るべきだったのかもしれない。
Tシャツの裾がぐっしょりと濡れている。ほかに涙を拭うものを探す余裕などあるはずもなかった。鼻は詰まって時々滑稽な音を漏らし、重たい瞼が視野を普段の半分ほどまで狭めている。だが呼吸はようやく元のリズムを取り戻しつつあった。あまりにも無防備だったが、私は安全な六畳間によってきちんと護られていた。この部屋で、私の隣で、彼は一瞬でも幸福だと感じてくれていただろうか。来年になれば再びそこかしこで咲くだろうひまわりを見たとき、あるいは寂れたホームセンターで黄色いゾウのじょうろを見つけたとき、ほんの少しでもなにか、彼にとって、雲の切れ間から差すひかりのような記憶として、彼はかの日の私たちを思い出してくれるだろうか。私は彼が抱えているものを理解してあげられなかった。傲慢な言い方かもしれない。それでも私たちは、確かにここにあった。
ひまわりの種が一粒、床に転がっていた。はみ出し者のそれを、私はそっとつまんで持ち上げる。白と黒の縞を確かめるように、まじまじと見つめてみる。どんな花でもそんなものかもしれないが、こんなちっぽけな種から、眼を見張るような彩度の高いあの花が咲くなんて嘘みたいに思えてくる。ひとしきり眺めて満足した私は、前歯を使って種の殻を割った。白黒の殻はきれいに真っ二つに割れた。露になった中身を奥歯で噛みしだく。ひまわりの種は、好き嫌いの話に繋がらないほど控えめで、うっすらと土のような味がするだけだった。奥歯の凹みに埋まった欠片を舌先を使って取り出して、口内のものをすっかり飲み込んでしまうと、私はようやく緊張の糸が解けたように脱力した。脚の裏がじっとりと汗ばんで、フローリングが張り付いているような感覚だけが、やけにつよく現実味を放っていた。息を大きく吸って、それから最後まで吐き切る。私は少しずつ、私を取り戻していった。顔を上げると、窓の外の雨脚はもう弱まっているようだった。すっかり枯れ切ったうえに頭部を失って、見る影もない、かつてひまわりだったものが植木鉢に残されていた。小雨にけぶるベランダで、まるで何かを待っているように。
(もうだいじょうぶ。みんな、だいじょうぶ)
私は、まだ怠さの残る身体を立ち上がらせ、ベランダへと続く窓を開いた。雲の薄くなったところから、金色の西日の気配が漂っていた。
投げ出すように伸ばした両脚の間に広げたのは、ちょうど一週間前の新聞だった。その文字列を頭の中で読み上げている後ろでも、まだ雨音が響いている。東京は今日も雨。台風が去ったかと思えば今度は秋雨前線がどうとかで、毎朝何とはなしに眺めている天気予報にも憂鬱な傘マークが並んだままだ。雨の日は時間の感覚が曖昧になる。今だって例に漏れず間延びした午後で、輪郭がどこかぼやけたような部屋の真ん中に、私は座り込んでいた。ひとりで取り残されていた、といってもいいかもしれない。Tシャツにハーフパンツという部屋着のせいで、フローリングに触れている脚の裏側が冷たい。いい加減衣替えしなくちゃなあ、などとぼんやり考えながら、私は新聞紙の上にどさどさと黒い塊を転がしていった。ひまわりの頭部である。すっかり花の盛りを終えてうなだれているところを刈り取ったもので、湿度の高い日が続いたせいで思いのほか時間がかかってしまったが、ようやく乾燥も済んだようだ。私はこれから、このみすぼらしい黒い塊からひまわりの種を採っていく。
元はと言えばこのひまわりは、八月にこの部屋を出て行った恋人と育てていたものだった。彼は、東京には自然が足りないだの、ベランダが殺風景だと悲しいだの、自分の家でもないくせに好き勝手にものを言い、私たちが大学三年生になった春のとある日、遠慮を知らない大きさの植木鉢とともにこの部屋に転がり込んできた。花に興味なんてない、と文句を言ったところで結局それは戯れ合いにしかならず、そうして二人で種を蒔いたのが五月のはじめ。一週間ほど経った頃に芽を出したひまわりは、それから瞬く間に背を伸ばしていった。その間、何か大きな事件が起こるわけでもなく、私たちは単調な日々を浪費していた。お腹が空けばテキトーなレシピの再現不可能な料理をふるまい合い、片方が眠くなれば二人で眠り、気が向いたときに身体を重ね、時々は大学をさぼり、いくつかの映画や本を共有した。それだけだった。喧嘩は一度もしなかった。この安全な六畳間は二人で身を寄せ合って生きるのに過不足のない、満ち足りた空間だった。
親指を使って無数の凹凸を撫でるようにすると忽ち種はバラバラに解けて、零れて、新聞紙の上で弾けた。しらけたような音が、窓を隔てて鈍くなった雨音に紛れていく。白黒の縞模様の種。
彼の日焼けはもう薄れた頃だろうか。
寝苦しい夜だった。一人分の体温でさえ脱ぎ捨てたいくらいだったが、私は彼の腕の中にいた。それがシングルベッドでの二人の定位置だった。普段衣服に覆われていないせいで日に焼けた、彼の肌の浅黒くなっている部分を、私の眼で、鼻先で、てのひらで撫でる。押し退けられて丸まっていた掛け布団を足で引き寄せながら、私は
「ひまわり、明日には咲きそうだね」
と何気なく言った。彼は私の肩のあたりに埋めていた顔をゆっくりと持ち上げ、
「夕立を待っていたんだけどね」
と的外れな言葉を返してきた。なんのこと、と薄く笑いながら尋ねようとしたのに、私は途端に口を噤んでしまった。至近距離でぶつかった視線は、そのまま私を透過していくようだった。またこの眼だ。堪らなくなって彼の背中に回した腕に力を込めた。彼は私より体温が高い。彼の首元に顔を寄せると、なぜかいつも雨の降りはじめのような匂いがした。
「花は毎年咲くからね」
聞き慣れた声が耳朶をくすぐった。それは種を蒔いた日から彼の口癖となっていた科白だった。水やりをするとき、会話が行き止まったとき、私を腕の中に抱いているとき、彼はどこからともなくその科白を取り出しては、私に宛てるわけでもなく空へ放った。そのたびに私はオウム返しをして、よく彼をからかった。科白が落下するとき、彼は決まって、私を見つめているようでもっとどこか遠くに意識を伸ばしているような眼をしていた。私たちがここにいることが揺らいでしまいそうで、私はいつでも、彼のその眼を真正面から見つめ返すことができなかった。
翌日、彼はこの部屋に帰って来ず、それから二度と、私の前に姿を現すことはなかった。
あたりに散らばった種を新聞紙の上にそれとなくかき集める。再び手にした塊は、種を失った部分が黒く落ち窪んで、ますます醜く見えた。
本当はこの採種作業だって彼と一緒に行うはずだったのだ。当然だ。彼がいなければそもそも咲くこともない花だったのだから。
「花が枯れても、種を採って、春にまた蒔いたらね、来年もちゃんと咲くからね。毎年、毎年。ずうっと。花は人間なんかよりもよっぽど永遠に近いんだよ。人の心は移ろいやすいからね」
種を蒔き終えたときに彼が零していた言葉が、頭の中で反芻される。花が咲くの楽しみだねえ、なんて無邪気そうにはにかんでいた顔も、穏やかな声色も。そんな言葉を吐いておいて、採種はおろか、彼は結局、せっかく咲いたひまわりの花をその眼に映すことさえしなかった。植木鉢は押し付けられたものにすぎず、元々、花への興味が薄かった私は、ひまわりだってひとつの命といえども、それへ向ける情のようなものは特段持ち合わせていなかったように思う。それなら放っておけばいいものを、なぜか私は、こうして律儀に採種作業まで行っている。この行為の意図が自分でもわからない。そんなふうに時々自分に戸惑いながら、記憶の中の彼の姿を心がなぞっている間も、指はそれに構わず勝手に動いた。次々と解放されていく種が、やっぱり好き勝手に散らばった。
ようやく一つ目の塊から種を採り終えたところで、不意に、ベランダへ続く窓に視線が流れた。雨は降り続いている。雨粒の落下速度に眼は追いつけず、手元に視線を戻そうとしたその軌道上で、なにか、ぼやけた黄色のものを捉えた。じょうろだった。幼稚園にあったような、プラスチック製の、ゾウを模したじょうろ。ゾウはベランダの片隅で間抜けな顔をして、大きく開いたその背中から、そして鼻先のいくつもの穴から、雨水を止めどなく溢れさせている。
あ、と思う間に世界は歪んでいた。拒む余地もない速さで、心が記憶を再現していく。ホームセンターでこのじょうろを見つけた私たちは、二人で顔を見合わせて笑い、彼はそのまま、自らが持っていたカゴに愛らしいそれをそっと迎え入れた。カゴは褪せた緑色をしており、その中で、溌剌とした黄色のじょうろはよく映えた。宝物になっていくという確信で輝かされていた。彼は私の隣で暫く笑い続けていた。幸せだった。再現されたあまりにも鮮明な記憶たちを、心の外側へ流してしまおうと促すかのように、涙は次から次へと溢れてくる。喉奥が熱い。嗚咽をこらえようとして体に力が入り、私の手に収まっていたひまわりの亡骸が、くしゃり、と乾いた音を立てて潰れた。涙の止め方がわからない。泣いたって仕方がないのに。彼がこの涙を拭ってくれるわけでもないのに。
と、そこで私は、彼の前ではたったの一度も泣いたことがなかったと思い当たる。
彼が待っていた夕立とは、これのことだったのだろうか。あの透明な眼を見つめ返せなかったのは、はぐらかしてばかりだったのは、その眼が、私も知らないような私を暴いてしまいそうであまりにもおそろしかったのだ。私には私自身の感情をうまく認識できている自信がない。私自身にとってさえ得体のしれない渦のようなそれが、他人の眼に晒されるなんて耐えられない。人前で泣き出すような決壊なんてもってのほかだ。でも、彼はそれを求めていたのかもしれない。渦に巻き込まれて一緒に溺れてくれる人を探していたのかもしれない。そして私だってきっと、本当は助けてほしかった。涙を拭ってほしかった。私たちはどうしようもない臆病者で、似たもの同士だった。何に怯え、何を拒み、何を望んでいたのか。私たちはお互いを見つめ合う前に、きちんとひとりを知るべきだったのかもしれない。
Tシャツの裾がぐっしょりと濡れている。ほかに涙を拭うものを探す余裕などあるはずもなかった。鼻は詰まって時々滑稽な音を漏らし、重たい瞼が視野を普段の半分ほどまで狭めている。だが呼吸はようやく元のリズムを取り戻しつつあった。あまりにも無防備だったが、私は安全な六畳間によってきちんと護られていた。この部屋で、私の隣で、彼は一瞬でも幸福だと感じてくれていただろうか。来年になれば再びそこかしこで咲くだろうひまわりを見たとき、あるいは寂れたホームセンターで黄色いゾウのじょうろを見つけたとき、ほんの少しでもなにか、彼にとって、雲の切れ間から差すひかりのような記憶として、彼はかの日の私たちを思い出してくれるだろうか。私は彼が抱えているものを理解してあげられなかった。傲慢な言い方かもしれない。それでも私たちは、確かにここにあった。
ひまわりの種が一粒、床に転がっていた。はみ出し者のそれを、私はそっとつまんで持ち上げる。白と黒の縞を確かめるように、まじまじと見つめてみる。どんな花でもそんなものかもしれないが、こんなちっぽけな種から、眼を見張るような彩度の高いあの花が咲くなんて嘘みたいに思えてくる。ひとしきり眺めて満足した私は、前歯を使って種の殻を割った。白黒の殻はきれいに真っ二つに割れた。露になった中身を奥歯で噛みしだく。ひまわりの種は、好き嫌いの話に繋がらないほど控えめで、うっすらと土のような味がするだけだった。奥歯の凹みに埋まった欠片を舌先を使って取り出して、口内のものをすっかり飲み込んでしまうと、私はようやく緊張の糸が解けたように脱力した。脚の裏がじっとりと汗ばんで、フローリングが張り付いているような感覚だけが、やけにつよく現実味を放っていた。息を大きく吸って、それから最後まで吐き切る。私は少しずつ、私を取り戻していった。顔を上げると、窓の外の雨脚はもう弱まっているようだった。すっかり枯れ切ったうえに頭部を失って、見る影もない、かつてひまわりだったものが植木鉢に残されていた。小雨にけぶるベランダで、まるで何かを待っているように。
(もうだいじょうぶ。みんな、だいじょうぶ)
私は、まだ怠さの残る身体を立ち上がらせ、ベランダへと続く窓を開いた。雲の薄くなったところから、金色の西日の気配が漂っていた。