或る処に街がありました。その街は大きな渓谷の崖にあって、家と家の間はつり橋で繋がれていました。橋の下は果て無く深く、下には何があるのか、底など存在するのか、誰も知りませんでした。立ち並ぶ家々や工場の煙突からは、もくもくと煙が立ち上り、街全体を冷たい色に包んでいました。住む人は多くはありません。親を亡くした青年や、年老いた老夫婦、人生をいっぱいに仕事へと費やした愚かな成功者。場所が谷になっているもので、日の光があまり当たりませんから、常日頃暗い雰囲気のある街でした。
けれど、寂しい人たちばかりではありません。街の工場に勤めるフュードルという青年は、比較的楽しい毎日を送っていました。
彼が務めているのは、加工工場に分類される場所でした。彼はいつもそこで、港町から運ばれてくる鮮度のまばらな魚たちの頭を落とす仕事をしていました。ベルトコンベアから次々と流れてくる魚たちの眼は空虚に満ちていて、いくら死んでいるとはいえ谷の深い暗闇のごときその眼は、働いている人間でないとぞっとして気が気ではいられないほどのものでした。その工場ではそれだけが与えられた仕事でした。大量の魚が工場へと入ってゆき、その頭を失って出てくるのです。
フュードルには楽しい仲間がいました。そのおかげで、彼の仕事は陰鬱な心情を孕んではいませんでした。工場とはいえ、それほどの広さはないので、従業員もそれなりの人数しかおりませんでした。フュードルから見て二つ上の、青い目をした白人のサイモン、それの親友のジェームズ、黒人のデイル、ひょうきん物のボルト、そして工場唯一の女性であるキャサリン。工場はみんなの笑い声で毎日揺れています。彼らのおかげで、フュードルの楽観な生活は息をしていました。加えて、工場長も良い人でしたので、みんなからはたいへん慕われていました。白いひげの生えた、大柄な男でした。工場長は、仕事が終わるとみんなに夕飯を振舞うこともありました。得意料理はツナのパスタでした。みずみずしいツナと、朝どれのトマトをオイルで炒め、魚介のブイヨンと果実から作ったエキスで焦げ付いた鍋底をこそいでうまみを麺と絡めます。フュードル含め、従業員一同、工場長の振舞うこのパスタが大好きでした。
ある日のことでした。フュードルは工場へ働きに出ると、ある違和感を覚えました。そして、すぐにそのわけに気が付きました。工場の前には、木でできた脆い道があり、そこの端にはちょっとした出っ張りがあります。そこに工場長の姿がありません。いつもは従業員が揃うまで、そこに立っているのです。フュードルは不審に思いながらも錆びた鉄のドアをゆっくり開けて、工場の中へと入りました。
「おお、きたかきたか」
声の方を見ると、背の高い短髪の男がいました。切りそろえた頭髪は整髪剤で綺麗に整えてあり、その下には高そうなストライプスーツが見えます。鼻が高く、いかにも意地悪そうな眼付をしていました。男の前には工場の仲間たちが柄にもなく整列していて、何か神妙な雰囲気です。そこでフュードルは、男の傍らで肩身を狭そうに縮こまっている工場長の存在に気が付きました。
「工場長、一体今日は何なのですか。その方は一体どちら様なのでしょう」
「この方はわしらの工場の大本のカンパニーの社長さんだ。今日から——」
「今日から一か月間、彼に代わってここの工場長を務めさせていただくのだよ」
男は、説明をする工場長に横から入って説明を始めました。
「最近、次々にいろんな会社から流れてくる重要な書類にハンコを押しながらふと思ったんだ。私は現場を知らなければならないってね。私が静かで清潔な部屋で社長という職務を全うしている間、現場である工場に何かあったらまずいんだよ。これは会社という大きなくくりの話でね。せっかく僕が頑張っても。君たちがたるんでちゃいけないんだ。まあ、逆も然りなんだけれども。なあに、私は手を抜くなんてことはしないさ。気がかりなのは君たち工場の人間なんだ。そんなわけで、最近私は一か月ごとに各地の工場で指揮を執っているんだ。下から上まで、すべて管轄してこそ、社長といえるものだからね」
あまりにも突然で、みんなあっけにとられてしまいました。
「じゃあそういうことで、さあさあ休んではいられんぞ。作業に取り掛かれ!」
社長はそう言って、工場長を外へ送り出しました。工場長は困ったような顔でみんなを一瞥した後、うつむいて出ていきました。それから帰ってくることはありませんでした。
社長は厳しい人間でした。少しでも失敗をしたら減給すると言い、それでみんなは必死に業務に勤しみました。私語を禁止されたので工場はだんまりとしていて、ただ魚の頭を切る機械の音と、コーヒー片手にそれを眺める社長の発する口笛だけが、キンキンと響いていました。皆、不満を漏らす隙もありませんでした。
業務時間が終わると、社長は「ではまた、ごきげんよう」とだけ言って、大きな町へと繋がるゴンドラに乗って帰っていきました。皆疲れ切ってしまっていて、それはフュードルも同じでした。いつも通りなら、この後は揃って談笑をしたり、夕飯を食べたりするのですが、その日は皆ぐったりとしていてすぐに帰りました。今回の出来事はあまりにも突然のことだったので、思考する時間もありませんでした。
家へ帰る道中、フュードルは少し遠回りをして、行きつけのパン屋へ寄りました。フュードルは毎朝、そこの店のクロワッサンを食べてから家を出るのです。翌日の朝のために、クロワッサンを買いに行きました。パン屋は谷の街の中でも小高いところにあって、そこからは街が良く見渡せます。
中に入り商品棚を見ると、クロワッサンの列がないことに気が付きました。移動したわけではなさそうで、忽然とその姿をなくしていました。フュードルは失望しました。仕方なく、茶褐色のベーグルを二つ買いました。
パン屋を出ると、下の方に工場があるのが見えました。街にはぽつぽつと明かりがともっていて、煙突の煙でそれらはちらちらとしています。フュードルはいつも、景色を眺めることがありません。必要がないからです。それでも十分楽しかったのです。今、自分の目に、脳みそに、眼下の街が絶え間なく流れ込んできて疲れた心に沁みてゆくのを、フュードルはおかしく思いました。何でもないものが、その魅力や価値を常日頃隠しているんだなと思いました。そうして、少し嬉しくなりました。
疲れ切ったフュードルは家に帰ってすぐ、深い眠りに入りました。
次の日もその次の日も、工場での鬱蒼とした業務は続きました。皆は日に日にやつれていって、工場の外でも私語を発さなくなりました。ただただ、社長の言う通りに動いては、無意識に絶望の渦に飲まれて行きます。誰も何も思わなくなりました。そこにあるのは工場と、機械と、魚と、血と、汚れた手袋だけです。もう、慣れてしまったかのようでした。
ある日、サイモンが谷に身を投げました。その日のうちは誰もそのことに気が付きませんでした。ただ、社長だけはそのことを知っていました。そして彼にとってそんなことは至極どうでもよいことでした。数日たった頃、仕事仲間のキャサリンが彼がいないのに気が付きました。誰も他人に気を配る余裕などありませんでしたから、彼女がそうしてサイモンの不在を知覚することができたのも、単なる偶然に過ぎませんでした。キャサリンは業務が終わり次第、サイモンの家を訪ねました。ノックしても何も帰っては来ません。鍵は開いていました。キャサリンは嫌な予感がしました。進んでいくと、ダイニングに置手紙がありました。キャサリンはそれを手に取って読みました。
『僕はもう駄目だ。何か陰鬱な重い岩みたいなのが、ずっと僕に寄りかかってくるんだ。それが何なのか、なぜこうなってしまったのか、もう僕には考えられない。考える余裕はないんだ。僕は逃げる。ただそれだけだ。あとは任せます。』
キャサリンは悲しい、と思いました。しかし、それだけでした。サイモンがいないことに気が付いた時も、それでは家を訪ねてみようと思い立った時も、ノックが帰ってこなかった時も、手紙を見つけた時も、彼女の感情は彼女の表層にのみ浮き出るだけで、そこには何ら深さのある意味はありませんでした。彼女は「ああ、そうか」とだけ思いました。
次の日、一応仲間にもそのことを知らせました。彼ら四人は、ただ相槌だけ打ちました。
「おいこら、何をしている。早く仕事にかかれ。民に腐った魚を食わせる気か」
社長の怒号に、体は勝手に動いて、次々と魚の頭を落としていきます。皆、社長の指示に従うことだけ考え、時間も空間も、それ本来の前後の意識を失っていきました。彼らにはどんよりとした視覚と、自暴自棄な心だけがくっついています。時間が経つにつれ、ベルトコンベアの横には、どっさりと魚の頭だけが積もっていき、その上を巨大なハエがぶんぶんと飛びました。
その晩、親友であるジェームズが谷へと落ちていきました。
翌日の朝、ジェームズの家の谷を挟んだ向かいに住んでいる老夫婦が、彼が落ちてゆくのを見たといって工場に駆け込んできました。社長にとって、それは都合の悪いことでした。工場の人間が自害したことが広まれば、会社の評判が悪くなってしまいます。
「見たのよ、夜中の二時ごろ。旦那の咳がひどかったからあまり寝付けなかったのだけれど、ふと窓の外を見ると彼が崖の際に立っていたのよ。危ない、と思った時にはもう、彼は崖から身を投げていたわ」
「奥さん、きっと気のせいですよ。昨晩は霧が濃かった。何かの見間違いです。彼は今朝、僕に祖国へ帰るので長期的な休みが欲しいと出願してきたのですよ。今日にでも街を出たいというから、僕はその許可を出しました。きっと彼は今頃、祖国へ帰る道中、ロバなんかと気ままに旅をしているに違いありませんよ」
「ほれ、やはりばあさんの勘違いじゃろう。何もあの陽気な青年が自らその……するはずないんじゃよ、そんなことを」
夫は目をしょぼしょぼさせて言います。老婆はどうにも納得がいかない様子でした。しかし、社長と夫の否定に歯向かう術もなければ、なによりジェームズの死を受け入れたくありませんでしたから、胸のしこりまそのままに、首をまっすぐにして工場を後にしました。
フュードルら四人は、手をきびきびと動かしながらその一部始終を聞いていました。けれどもう、三人に反応する余裕と感情はありませんでした。皆、心の中で「そうなんだなあ」とだけ感じて、彼らの話を聞いていました。彼らの額には油分の多い汗が滲んでいて、それが頬に垂れてくるのを知覚するのでやっとでした。
それから三日間、同じ日が続きました。従業員が二人もいなくなったものですから、必要な作業量に対しての人数が足りません。社長はその分多く働けと言いました。フュードル、ボルト、デイル、キャサリンの四人は、その指示に従い、これまでより一時間ほど居残って仕事をしました。その分、家に帰る時間は遅くなりました。
それでも、フュードルは帰り道にパン屋へ寄るのをやめませんでした。これは思考するに至らず、たらだの覚えた習慣でした。むしろ、思考する暇さえあれば、やめていたかもしれません。大好きなクロワッサンはあの日から見ていないし、工場での激務は日に日に劣悪なものになっていきます。
ジェームズが消えてから五日後、今度はボルトが崖を降りました。
彼の死は、さも当たり前かのように霧に紛れていきました。まだ工場長がいた頃、彼はここ一番のおふざけ担当でした。彼の笑いは人の笑いであり、心なしか切られた魚の頭も幾分か愉快そうに見えました。ですから、彼がだんまりとここ一週間を過ごしていたことは、彼の終わりの予告編に他なりませんでした。それは仲間たちも感づいていました。しかし、無意識下にのみ存在する勘と触れ合うことは、今の彼らにとって不可能なことです。彼らは、「谷に落ちていく……人がゆっくりと……」と頭の中で反芻しました。彼らの意識は積み重なる激務とその恐怖で、時間を限り一体化していました。それが何を生むのか、迷わず答えられるはずのこの疑問を、彼らは行動として示すことになります。
次の日、勤務時間の前に、デイルが社長のいる場長室へと入っていきました。彼に残った微かな自我が、彼をそうさせました。誰も抜け出せないと思われた無意識の沼から、一本だけ生気を帯びた指で這いずり出たのです。彼が部屋に入っていくのを、仲間たちはじっと見ていました。その目は少しばかりの疑問を孕んでいましたが、湿っていてとてもじゃないけれどよく見えたものではありませんでした。しかしフュードルにだけは、デイルの持っていた生気を再び掘り起こす可能性が静かにくすぶっていました。
デイルは社長に言いました。
「これでいいと思っているのですか。人が死んでいるのですよ。すべてあなたが来てからだ。あんたのせいでこんなことに——」
彼には大切にしている愛犬がいました。小ぶりなパグでした。家に帰れば小さなしっぽを振って出迎えてくれます。彼の生活基盤にしてはその体はあまりに小さく非力でしたが、かれれの心が落ちてゆくをの減速させることには十分でした。したがって、彼が沼から少しでも出られたのは、愛犬のおかげといってよいのでした。
社長が大きな鞄から出してきたそれは、彼の言葉を遮りました。社長は何でも見据えているようで、今回のデイルの行動も、今日の目次としてメモに書き留めていてかのようでした。
部屋から出てきたデイルは、ただ一点を見つめて、ゆっくりと鉄の階段を下りました。彼の眼は、街を分断するあの谷のように深く黒く、一点の希望も許さないほど絶望に満ちていました。
「ライアン……ライアン……」
それは彼の愛犬の名前でした。
その日中にデイルは身を投げました。
キャサリンはデイルに恋をしていました。なので、デイルの死後間もなく、彼女が谷へ落ちていったことは不自然なことではありませんでした。
フュードルは一人になってしまいました。
次の日、フュードルはベーグルを食べてから工場へと向かいました。道中、少し離れたところから大きな音がしました。彼はびくりとしました。大きな岩が崖を落ちてゆくのが見えます。ごろごろと回りながら、際限なく速度を上げていって、眼下の暗闇に消えていきます。しばらく耳を澄ませましたが、それっきり、風の音だけが通り過ぎてゆくだけでした。彼は仲間たちについて考えました。なんだか忙しいなぁ、と思っていたら次々と少なくなっていった仲間たち。これは本当におかしなことであるのですが、フュードルはその時初めて、自分が工場でたった一人の従業員になっていることに気が付いたのです。
それが、フュードルが沼から手を出した瞬間でした。
今自分が直面した事実が、喪失が、長い間沼に沈んでいたフュードルにとっては抱えきれない大きなものでした。フュードルは谷の方を見ました。底は見えず、ごうごうと深く風を飲み込んでいます。谷は、突然やってきた社長の大口のように見えました。まるで歯に挟まったツナを舌で引きずり取って、不満そうに飲みこんでいるようです。僕は何をしていたんだ。彼は工場に向かって走り出しました。
到着すると、工場の前に社長が立っていました。以前工場長が毎朝立っていた場所です。フュードルは怒りがこみ上げてきました。それは怒りというより使命でした。
「フュードル君だったかな。君はよくやっている」
「僕は何もしていません。ただ前の生活を望んでいるだけです」
「しかしねえ、もう君しか残っていない……これはふるいだ。より良い人間を、この手中に残しておく。駄目な奴はいらないんだよ。それでどうだい、僕と来ないかな」
フュードルは社長の発する言葉の意味を考えることができませんでした。それは沼の中にいた時とは違った意味を持っていました。故に、適当な受け答えをすることを諦めました。
「お前はなぜそんなことをするんだ!」
「いまさら何を言っているんだい? もう彼らは帰らない。君だけなんだよ優秀なのは」
社長は頑固でした。
「貴様!」
フュードルは社長に襲いかかりました。人生で一度として見せたことのない憎しみに満ちた恐い顔でした。肩にしがみつき胴体をよじ登り、勢いよく前へと押し出して社長を後ろへ倒しました。
「おい君! 何をしているんだ、こんなことをして君は今後生きてゆけると思っているのか!」
その声は届かず、谷へと響きます。フュードルは社長の首に掌を覆い被せ、それをぎゅっと絞めました。弱弱しい声が上がり、すぐに工場の前は静かになりました。皆まだ起きていない時間のことです。
動かなくなった社長を、フュードルは谷へと落としました。押し出したばかりに勢いがなく、手前の岩に当たって撥ねました。谷をのぞき込んでいると、いつまでも彼の影がうっすらと見えました。
彼が工場を背に歩き出した時でした。谷の底からどす黒く低い轟音がせりあがってきて、一時として谷全体を包みました。
「うるさいなあ!」
フュードルは叫びました。
帰り道、いつものパン屋に寄りました。
「クロワッサンは……クロワッサンはないのですか。数週間前から見ていないのですが」
「ああ、あれねえ。材料が高くなってしまってあんまりは作れないのよ。買ってくれるっていうんなら、家族に作った分をあげるわよ」
「ええ、ぜひお願いします。あと、これからも毎日食べたいので、自分の分だけは焼いておいてもらえますか。もし、可能ならばですけど」
「すきなのね。わかったわ」
フュードルはクロワッサンを二つ買って帰りました。
家に着いてから、フュードルはパンの包みを持ったまま谷に面したベランダへと出ました。風を感じながら、小さな木の椅子に座ります。遠くから、製鉄工場の機械の音が聞こえ、それが妙にリズミカルで、それに合わせて組んだ足が上下に揺れました。フュードルはクロワッサンを包みから取り出して、口へ運びました。朝にベーグルを食べたのでお腹はあまり空いていませんでしたが、久しぶりのクロワッサンが食べたかったのです。
クロワッサンは今朝焼いたものとみられ、口元へもっていくとその香りが十二分に鼻を通りました。噛むと、程よい硬さの外層を突破して、中のバターがじんわりと歯を伝って口に広がります。小麦とバターと焦げのハーモニーは、揺れる彼の足に合わせて愉快に奏でられました。
彼はただ、喪失感だけを抱いていました。ほか五人の意識に思いを馳せました。誰も悲しくはなかっただろうと思います。しかし、それはもう彼らの心が失われてしまったからにほかなりません。彼らは何を思って、谷へ身を投げたのでしょうか。フュードルにはわかりませんでした。それがわかるとき、自分はまた沼の底で虚構な力を貯めているだろうと思いました。しかしそれはそれとして、彼は役目を果たしたという意識がありました。それだけでよかったのです。他に何も望むものはありません。これでよかったのだと、心の底から思いました。まだ泥が邪魔です。
フュードルは本意では無い、涙を流しました。それは彼についた泥を、少しばかり谷へ流してくれました。
フュードルはもう一つのクロワッサンを包みから出し、それを五つにちぎって一つずつ、谷へと投げ込みました。一つずつ、思いを込めて、一つずつ。
遠くから吹いた風が、崖を抜けて去っていきます。そしてそれと同時に、谷の静寂はぐんと深くなりました。フュードルは部屋に戻りました。
そのあと、フュードルはほとんどを家の中で過ごしました。屋根の下の静かな暮らしは、彼のぐらぐらした心を落ち着かせました。ときどき外に出ては、例のパン屋まで出向いて、数日分のクロワッサンを買いました。しかし、以前のように街を見下ろすことが怖くなっていました。自分の内の、何か、狂気じみた悲しみが消えるまで、彼は谷に目をやらないことにしました。今谷を覗いてしまえば、仲間と同じ運命を辿ることになると、彼は朧気ながらも確実に予感していました。彼は大好きなクロワッサンを食べ、紅茶を煎れ、たくさんの本を読みました。時折、彼の家の立て付けの悪い窓ガラスには、雨がうちつけました。彼はその中で、耳を澄ませてぐっすりと寝ました。
家に籠って数日だったある日のことです。フュードルが、買い貯めた最後のクロワッサンを食べているとき、不意に家のベルが鳴りました。けたたましく甲高い音に、フュードルは怯みました。
ゆっくりと開けたドアの向こうには、大柄で白い髭の生えた男が立っていました。白いツナギには、長年蓄積した汚れがびっしりと染み込んでいます。その男は紛れもなく、あの工場長でした。
「工場長!」
フュードルは歓喜しました。それまでまだうっすらと膜を張っていた泥は弾け飛び、以前のような陽気な精神が蘇ってくるように感じました。
「やあお久しぶりだね。体調は大丈夫かい」
「はい、ありがとうございます。しかし、なぜここに?」
「工場が稼働を再開したんだよ。それで私も工場長に再任して、隣の港街からは新しい従業員が雇われたというわけだ。皆のことは聞いたよ、それで、少々君を訪ねるのが遅くなってしまった。君には時間が必要なんじゃないかと思ってね。それにしても、社長も失踪なんて無責任だよな」
フュードルは自分が社長を谷へ落としてから、工場の関係者が事の処理や再稼働に向けてどのような苦労を経たのかについて思いを馳せました。そして少し、事を放棄して家にこもってしまったのに、悪気を感じました。
「君が嫌でなければ、また工場で働かないか。一応、君のための席は開けてある」
フュードルは少し躊躇ってから、首を縦に振りました。
工場は、着いた時にはもう稼働していて、魚の頭を切る機械の音が外にも漏れていました。空はすっきりと澄んでいて、ちょうど射している日の光に照らされながら白い鳥の群れが谷を飛んでいます。フュードルは工場長の後に続き、中へと入っていきました。彼にとってこの工場の機械の音は、至極日常的で無個性なものとなっていました。故に、彼は中に入って初めて、それが既に動いているのであると気が付きました。
「やあやあ諸君! これが言っていたフュードル君だ。君たちの大先輩なわけだから、ちゃんと敬うんだぞ!」
フュードルは少し恥ずかしそうにして、皆に頭を下げました。皆は大歓迎といった様子で、手をぱちぱちとさせながら、これから始まるフュードルを含めた従業員たちとの楽しい日々を想像して震えていました。
業務が始まると、皆楽しそうに談笑しながらその手を動かしました。皆から普段は耳にすることのない港町の話を聞いたフュードルは、それだけでももう今までの陰鬱な気持ちを忘れ、楽しんでいました。それもまた、無意識のうちに起こったものでした。
機械の音はリズムを刻み、落ちていく魚の頭も切られた途端息を吹き返し、もともとそうだったようにのんきに口笛を吹いています。工場は活気に満ちていました。
業務が終わった後、フュードルの復帰祝いだといって工場長は夕飯を振るまいました。得意のツナのパスタでした。フュードルは久方ぶりに口にしたその味に、故郷のような安心を覚えました。みんなで楽しく囲む食卓は、フュードルにとってあまりに懐かしく、幸せなものでした。フュードルはもう、怖いことは覚えていません。彼にとって、幸せな谷の生活だけが人生だったのです。
フュードルはフォークでパスタをぐるぐると巻いて、口に運びました。トマトの酸味と魚介のうまみが、彼の口のいっぱいにじんわりと広がりました。
けれど、寂しい人たちばかりではありません。街の工場に勤めるフュードルという青年は、比較的楽しい毎日を送っていました。
彼が務めているのは、加工工場に分類される場所でした。彼はいつもそこで、港町から運ばれてくる鮮度のまばらな魚たちの頭を落とす仕事をしていました。ベルトコンベアから次々と流れてくる魚たちの眼は空虚に満ちていて、いくら死んでいるとはいえ谷の深い暗闇のごときその眼は、働いている人間でないとぞっとして気が気ではいられないほどのものでした。その工場ではそれだけが与えられた仕事でした。大量の魚が工場へと入ってゆき、その頭を失って出てくるのです。
フュードルには楽しい仲間がいました。そのおかげで、彼の仕事は陰鬱な心情を孕んではいませんでした。工場とはいえ、それほどの広さはないので、従業員もそれなりの人数しかおりませんでした。フュードルから見て二つ上の、青い目をした白人のサイモン、それの親友のジェームズ、黒人のデイル、ひょうきん物のボルト、そして工場唯一の女性であるキャサリン。工場はみんなの笑い声で毎日揺れています。彼らのおかげで、フュードルの楽観な生活は息をしていました。加えて、工場長も良い人でしたので、みんなからはたいへん慕われていました。白いひげの生えた、大柄な男でした。工場長は、仕事が終わるとみんなに夕飯を振舞うこともありました。得意料理はツナのパスタでした。みずみずしいツナと、朝どれのトマトをオイルで炒め、魚介のブイヨンと果実から作ったエキスで焦げ付いた鍋底をこそいでうまみを麺と絡めます。フュードル含め、従業員一同、工場長の振舞うこのパスタが大好きでした。
ある日のことでした。フュードルは工場へ働きに出ると、ある違和感を覚えました。そして、すぐにそのわけに気が付きました。工場の前には、木でできた脆い道があり、そこの端にはちょっとした出っ張りがあります。そこに工場長の姿がありません。いつもは従業員が揃うまで、そこに立っているのです。フュードルは不審に思いながらも錆びた鉄のドアをゆっくり開けて、工場の中へと入りました。
「おお、きたかきたか」
声の方を見ると、背の高い短髪の男がいました。切りそろえた頭髪は整髪剤で綺麗に整えてあり、その下には高そうなストライプスーツが見えます。鼻が高く、いかにも意地悪そうな眼付をしていました。男の前には工場の仲間たちが柄にもなく整列していて、何か神妙な雰囲気です。そこでフュードルは、男の傍らで肩身を狭そうに縮こまっている工場長の存在に気が付きました。
「工場長、一体今日は何なのですか。その方は一体どちら様なのでしょう」
「この方はわしらの工場の大本のカンパニーの社長さんだ。今日から——」
「今日から一か月間、彼に代わってここの工場長を務めさせていただくのだよ」
男は、説明をする工場長に横から入って説明を始めました。
「最近、次々にいろんな会社から流れてくる重要な書類にハンコを押しながらふと思ったんだ。私は現場を知らなければならないってね。私が静かで清潔な部屋で社長という職務を全うしている間、現場である工場に何かあったらまずいんだよ。これは会社という大きなくくりの話でね。せっかく僕が頑張っても。君たちがたるんでちゃいけないんだ。まあ、逆も然りなんだけれども。なあに、私は手を抜くなんてことはしないさ。気がかりなのは君たち工場の人間なんだ。そんなわけで、最近私は一か月ごとに各地の工場で指揮を執っているんだ。下から上まで、すべて管轄してこそ、社長といえるものだからね」
あまりにも突然で、みんなあっけにとられてしまいました。
「じゃあそういうことで、さあさあ休んではいられんぞ。作業に取り掛かれ!」
社長はそう言って、工場長を外へ送り出しました。工場長は困ったような顔でみんなを一瞥した後、うつむいて出ていきました。それから帰ってくることはありませんでした。
社長は厳しい人間でした。少しでも失敗をしたら減給すると言い、それでみんなは必死に業務に勤しみました。私語を禁止されたので工場はだんまりとしていて、ただ魚の頭を切る機械の音と、コーヒー片手にそれを眺める社長の発する口笛だけが、キンキンと響いていました。皆、不満を漏らす隙もありませんでした。
業務時間が終わると、社長は「ではまた、ごきげんよう」とだけ言って、大きな町へと繋がるゴンドラに乗って帰っていきました。皆疲れ切ってしまっていて、それはフュードルも同じでした。いつも通りなら、この後は揃って談笑をしたり、夕飯を食べたりするのですが、その日は皆ぐったりとしていてすぐに帰りました。今回の出来事はあまりにも突然のことだったので、思考する時間もありませんでした。
家へ帰る道中、フュードルは少し遠回りをして、行きつけのパン屋へ寄りました。フュードルは毎朝、そこの店のクロワッサンを食べてから家を出るのです。翌日の朝のために、クロワッサンを買いに行きました。パン屋は谷の街の中でも小高いところにあって、そこからは街が良く見渡せます。
中に入り商品棚を見ると、クロワッサンの列がないことに気が付きました。移動したわけではなさそうで、忽然とその姿をなくしていました。フュードルは失望しました。仕方なく、茶褐色のベーグルを二つ買いました。
パン屋を出ると、下の方に工場があるのが見えました。街にはぽつぽつと明かりがともっていて、煙突の煙でそれらはちらちらとしています。フュードルはいつも、景色を眺めることがありません。必要がないからです。それでも十分楽しかったのです。今、自分の目に、脳みそに、眼下の街が絶え間なく流れ込んできて疲れた心に沁みてゆくのを、フュードルはおかしく思いました。何でもないものが、その魅力や価値を常日頃隠しているんだなと思いました。そうして、少し嬉しくなりました。
疲れ切ったフュードルは家に帰ってすぐ、深い眠りに入りました。
次の日もその次の日も、工場での鬱蒼とした業務は続きました。皆は日に日にやつれていって、工場の外でも私語を発さなくなりました。ただただ、社長の言う通りに動いては、無意識に絶望の渦に飲まれて行きます。誰も何も思わなくなりました。そこにあるのは工場と、機械と、魚と、血と、汚れた手袋だけです。もう、慣れてしまったかのようでした。
ある日、サイモンが谷に身を投げました。その日のうちは誰もそのことに気が付きませんでした。ただ、社長だけはそのことを知っていました。そして彼にとってそんなことは至極どうでもよいことでした。数日たった頃、仕事仲間のキャサリンが彼がいないのに気が付きました。誰も他人に気を配る余裕などありませんでしたから、彼女がそうしてサイモンの不在を知覚することができたのも、単なる偶然に過ぎませんでした。キャサリンは業務が終わり次第、サイモンの家を訪ねました。ノックしても何も帰っては来ません。鍵は開いていました。キャサリンは嫌な予感がしました。進んでいくと、ダイニングに置手紙がありました。キャサリンはそれを手に取って読みました。
『僕はもう駄目だ。何か陰鬱な重い岩みたいなのが、ずっと僕に寄りかかってくるんだ。それが何なのか、なぜこうなってしまったのか、もう僕には考えられない。考える余裕はないんだ。僕は逃げる。ただそれだけだ。あとは任せます。』
キャサリンは悲しい、と思いました。しかし、それだけでした。サイモンがいないことに気が付いた時も、それでは家を訪ねてみようと思い立った時も、ノックが帰ってこなかった時も、手紙を見つけた時も、彼女の感情は彼女の表層にのみ浮き出るだけで、そこには何ら深さのある意味はありませんでした。彼女は「ああ、そうか」とだけ思いました。
次の日、一応仲間にもそのことを知らせました。彼ら四人は、ただ相槌だけ打ちました。
「おいこら、何をしている。早く仕事にかかれ。民に腐った魚を食わせる気か」
社長の怒号に、体は勝手に動いて、次々と魚の頭を落としていきます。皆、社長の指示に従うことだけ考え、時間も空間も、それ本来の前後の意識を失っていきました。彼らにはどんよりとした視覚と、自暴自棄な心だけがくっついています。時間が経つにつれ、ベルトコンベアの横には、どっさりと魚の頭だけが積もっていき、その上を巨大なハエがぶんぶんと飛びました。
その晩、親友であるジェームズが谷へと落ちていきました。
翌日の朝、ジェームズの家の谷を挟んだ向かいに住んでいる老夫婦が、彼が落ちてゆくのを見たといって工場に駆け込んできました。社長にとって、それは都合の悪いことでした。工場の人間が自害したことが広まれば、会社の評判が悪くなってしまいます。
「見たのよ、夜中の二時ごろ。旦那の咳がひどかったからあまり寝付けなかったのだけれど、ふと窓の外を見ると彼が崖の際に立っていたのよ。危ない、と思った時にはもう、彼は崖から身を投げていたわ」
「奥さん、きっと気のせいですよ。昨晩は霧が濃かった。何かの見間違いです。彼は今朝、僕に祖国へ帰るので長期的な休みが欲しいと出願してきたのですよ。今日にでも街を出たいというから、僕はその許可を出しました。きっと彼は今頃、祖国へ帰る道中、ロバなんかと気ままに旅をしているに違いありませんよ」
「ほれ、やはりばあさんの勘違いじゃろう。何もあの陽気な青年が自らその……するはずないんじゃよ、そんなことを」
夫は目をしょぼしょぼさせて言います。老婆はどうにも納得がいかない様子でした。しかし、社長と夫の否定に歯向かう術もなければ、なによりジェームズの死を受け入れたくありませんでしたから、胸のしこりまそのままに、首をまっすぐにして工場を後にしました。
フュードルら四人は、手をきびきびと動かしながらその一部始終を聞いていました。けれどもう、三人に反応する余裕と感情はありませんでした。皆、心の中で「そうなんだなあ」とだけ感じて、彼らの話を聞いていました。彼らの額には油分の多い汗が滲んでいて、それが頬に垂れてくるのを知覚するのでやっとでした。
それから三日間、同じ日が続きました。従業員が二人もいなくなったものですから、必要な作業量に対しての人数が足りません。社長はその分多く働けと言いました。フュードル、ボルト、デイル、キャサリンの四人は、その指示に従い、これまでより一時間ほど居残って仕事をしました。その分、家に帰る時間は遅くなりました。
それでも、フュードルは帰り道にパン屋へ寄るのをやめませんでした。これは思考するに至らず、たらだの覚えた習慣でした。むしろ、思考する暇さえあれば、やめていたかもしれません。大好きなクロワッサンはあの日から見ていないし、工場での激務は日に日に劣悪なものになっていきます。
ジェームズが消えてから五日後、今度はボルトが崖を降りました。
彼の死は、さも当たり前かのように霧に紛れていきました。まだ工場長がいた頃、彼はここ一番のおふざけ担当でした。彼の笑いは人の笑いであり、心なしか切られた魚の頭も幾分か愉快そうに見えました。ですから、彼がだんまりとここ一週間を過ごしていたことは、彼の終わりの予告編に他なりませんでした。それは仲間たちも感づいていました。しかし、無意識下にのみ存在する勘と触れ合うことは、今の彼らにとって不可能なことです。彼らは、「谷に落ちていく……人がゆっくりと……」と頭の中で反芻しました。彼らの意識は積み重なる激務とその恐怖で、時間を限り一体化していました。それが何を生むのか、迷わず答えられるはずのこの疑問を、彼らは行動として示すことになります。
次の日、勤務時間の前に、デイルが社長のいる場長室へと入っていきました。彼に残った微かな自我が、彼をそうさせました。誰も抜け出せないと思われた無意識の沼から、一本だけ生気を帯びた指で這いずり出たのです。彼が部屋に入っていくのを、仲間たちはじっと見ていました。その目は少しばかりの疑問を孕んでいましたが、湿っていてとてもじゃないけれどよく見えたものではありませんでした。しかしフュードルにだけは、デイルの持っていた生気を再び掘り起こす可能性が静かにくすぶっていました。
デイルは社長に言いました。
「これでいいと思っているのですか。人が死んでいるのですよ。すべてあなたが来てからだ。あんたのせいでこんなことに——」
彼には大切にしている愛犬がいました。小ぶりなパグでした。家に帰れば小さなしっぽを振って出迎えてくれます。彼の生活基盤にしてはその体はあまりに小さく非力でしたが、かれれの心が落ちてゆくをの減速させることには十分でした。したがって、彼が沼から少しでも出られたのは、愛犬のおかげといってよいのでした。
社長が大きな鞄から出してきたそれは、彼の言葉を遮りました。社長は何でも見据えているようで、今回のデイルの行動も、今日の目次としてメモに書き留めていてかのようでした。
部屋から出てきたデイルは、ただ一点を見つめて、ゆっくりと鉄の階段を下りました。彼の眼は、街を分断するあの谷のように深く黒く、一点の希望も許さないほど絶望に満ちていました。
「ライアン……ライアン……」
それは彼の愛犬の名前でした。
その日中にデイルは身を投げました。
キャサリンはデイルに恋をしていました。なので、デイルの死後間もなく、彼女が谷へ落ちていったことは不自然なことではありませんでした。
フュードルは一人になってしまいました。
次の日、フュードルはベーグルを食べてから工場へと向かいました。道中、少し離れたところから大きな音がしました。彼はびくりとしました。大きな岩が崖を落ちてゆくのが見えます。ごろごろと回りながら、際限なく速度を上げていって、眼下の暗闇に消えていきます。しばらく耳を澄ませましたが、それっきり、風の音だけが通り過ぎてゆくだけでした。彼は仲間たちについて考えました。なんだか忙しいなぁ、と思っていたら次々と少なくなっていった仲間たち。これは本当におかしなことであるのですが、フュードルはその時初めて、自分が工場でたった一人の従業員になっていることに気が付いたのです。
それが、フュードルが沼から手を出した瞬間でした。
今自分が直面した事実が、喪失が、長い間沼に沈んでいたフュードルにとっては抱えきれない大きなものでした。フュードルは谷の方を見ました。底は見えず、ごうごうと深く風を飲み込んでいます。谷は、突然やってきた社長の大口のように見えました。まるで歯に挟まったツナを舌で引きずり取って、不満そうに飲みこんでいるようです。僕は何をしていたんだ。彼は工場に向かって走り出しました。
到着すると、工場の前に社長が立っていました。以前工場長が毎朝立っていた場所です。フュードルは怒りがこみ上げてきました。それは怒りというより使命でした。
「フュードル君だったかな。君はよくやっている」
「僕は何もしていません。ただ前の生活を望んでいるだけです」
「しかしねえ、もう君しか残っていない……これはふるいだ。より良い人間を、この手中に残しておく。駄目な奴はいらないんだよ。それでどうだい、僕と来ないかな」
フュードルは社長の発する言葉の意味を考えることができませんでした。それは沼の中にいた時とは違った意味を持っていました。故に、適当な受け答えをすることを諦めました。
「お前はなぜそんなことをするんだ!」
「いまさら何を言っているんだい? もう彼らは帰らない。君だけなんだよ優秀なのは」
社長は頑固でした。
「貴様!」
フュードルは社長に襲いかかりました。人生で一度として見せたことのない憎しみに満ちた恐い顔でした。肩にしがみつき胴体をよじ登り、勢いよく前へと押し出して社長を後ろへ倒しました。
「おい君! 何をしているんだ、こんなことをして君は今後生きてゆけると思っているのか!」
その声は届かず、谷へと響きます。フュードルは社長の首に掌を覆い被せ、それをぎゅっと絞めました。弱弱しい声が上がり、すぐに工場の前は静かになりました。皆まだ起きていない時間のことです。
動かなくなった社長を、フュードルは谷へと落としました。押し出したばかりに勢いがなく、手前の岩に当たって撥ねました。谷をのぞき込んでいると、いつまでも彼の影がうっすらと見えました。
彼が工場を背に歩き出した時でした。谷の底からどす黒く低い轟音がせりあがってきて、一時として谷全体を包みました。
「うるさいなあ!」
フュードルは叫びました。
帰り道、いつものパン屋に寄りました。
「クロワッサンは……クロワッサンはないのですか。数週間前から見ていないのですが」
「ああ、あれねえ。材料が高くなってしまってあんまりは作れないのよ。買ってくれるっていうんなら、家族に作った分をあげるわよ」
「ええ、ぜひお願いします。あと、これからも毎日食べたいので、自分の分だけは焼いておいてもらえますか。もし、可能ならばですけど」
「すきなのね。わかったわ」
フュードルはクロワッサンを二つ買って帰りました。
家に着いてから、フュードルはパンの包みを持ったまま谷に面したベランダへと出ました。風を感じながら、小さな木の椅子に座ります。遠くから、製鉄工場の機械の音が聞こえ、それが妙にリズミカルで、それに合わせて組んだ足が上下に揺れました。フュードルはクロワッサンを包みから取り出して、口へ運びました。朝にベーグルを食べたのでお腹はあまり空いていませんでしたが、久しぶりのクロワッサンが食べたかったのです。
クロワッサンは今朝焼いたものとみられ、口元へもっていくとその香りが十二分に鼻を通りました。噛むと、程よい硬さの外層を突破して、中のバターがじんわりと歯を伝って口に広がります。小麦とバターと焦げのハーモニーは、揺れる彼の足に合わせて愉快に奏でられました。
彼はただ、喪失感だけを抱いていました。ほか五人の意識に思いを馳せました。誰も悲しくはなかっただろうと思います。しかし、それはもう彼らの心が失われてしまったからにほかなりません。彼らは何を思って、谷へ身を投げたのでしょうか。フュードルにはわかりませんでした。それがわかるとき、自分はまた沼の底で虚構な力を貯めているだろうと思いました。しかしそれはそれとして、彼は役目を果たしたという意識がありました。それだけでよかったのです。他に何も望むものはありません。これでよかったのだと、心の底から思いました。まだ泥が邪魔です。
フュードルは本意では無い、涙を流しました。それは彼についた泥を、少しばかり谷へ流してくれました。
フュードルはもう一つのクロワッサンを包みから出し、それを五つにちぎって一つずつ、谷へと投げ込みました。一つずつ、思いを込めて、一つずつ。
遠くから吹いた風が、崖を抜けて去っていきます。そしてそれと同時に、谷の静寂はぐんと深くなりました。フュードルは部屋に戻りました。
そのあと、フュードルはほとんどを家の中で過ごしました。屋根の下の静かな暮らしは、彼のぐらぐらした心を落ち着かせました。ときどき外に出ては、例のパン屋まで出向いて、数日分のクロワッサンを買いました。しかし、以前のように街を見下ろすことが怖くなっていました。自分の内の、何か、狂気じみた悲しみが消えるまで、彼は谷に目をやらないことにしました。今谷を覗いてしまえば、仲間と同じ運命を辿ることになると、彼は朧気ながらも確実に予感していました。彼は大好きなクロワッサンを食べ、紅茶を煎れ、たくさんの本を読みました。時折、彼の家の立て付けの悪い窓ガラスには、雨がうちつけました。彼はその中で、耳を澄ませてぐっすりと寝ました。
家に籠って数日だったある日のことです。フュードルが、買い貯めた最後のクロワッサンを食べているとき、不意に家のベルが鳴りました。けたたましく甲高い音に、フュードルは怯みました。
ゆっくりと開けたドアの向こうには、大柄で白い髭の生えた男が立っていました。白いツナギには、長年蓄積した汚れがびっしりと染み込んでいます。その男は紛れもなく、あの工場長でした。
「工場長!」
フュードルは歓喜しました。それまでまだうっすらと膜を張っていた泥は弾け飛び、以前のような陽気な精神が蘇ってくるように感じました。
「やあお久しぶりだね。体調は大丈夫かい」
「はい、ありがとうございます。しかし、なぜここに?」
「工場が稼働を再開したんだよ。それで私も工場長に再任して、隣の港街からは新しい従業員が雇われたというわけだ。皆のことは聞いたよ、それで、少々君を訪ねるのが遅くなってしまった。君には時間が必要なんじゃないかと思ってね。それにしても、社長も失踪なんて無責任だよな」
フュードルは自分が社長を谷へ落としてから、工場の関係者が事の処理や再稼働に向けてどのような苦労を経たのかについて思いを馳せました。そして少し、事を放棄して家にこもってしまったのに、悪気を感じました。
「君が嫌でなければ、また工場で働かないか。一応、君のための席は開けてある」
フュードルは少し躊躇ってから、首を縦に振りました。
工場は、着いた時にはもう稼働していて、魚の頭を切る機械の音が外にも漏れていました。空はすっきりと澄んでいて、ちょうど射している日の光に照らされながら白い鳥の群れが谷を飛んでいます。フュードルは工場長の後に続き、中へと入っていきました。彼にとってこの工場の機械の音は、至極日常的で無個性なものとなっていました。故に、彼は中に入って初めて、それが既に動いているのであると気が付きました。
「やあやあ諸君! これが言っていたフュードル君だ。君たちの大先輩なわけだから、ちゃんと敬うんだぞ!」
フュードルは少し恥ずかしそうにして、皆に頭を下げました。皆は大歓迎といった様子で、手をぱちぱちとさせながら、これから始まるフュードルを含めた従業員たちとの楽しい日々を想像して震えていました。
業務が始まると、皆楽しそうに談笑しながらその手を動かしました。皆から普段は耳にすることのない港町の話を聞いたフュードルは、それだけでももう今までの陰鬱な気持ちを忘れ、楽しんでいました。それもまた、無意識のうちに起こったものでした。
機械の音はリズムを刻み、落ちていく魚の頭も切られた途端息を吹き返し、もともとそうだったようにのんきに口笛を吹いています。工場は活気に満ちていました。
業務が終わった後、フュードルの復帰祝いだといって工場長は夕飯を振るまいました。得意のツナのパスタでした。フュードルは久方ぶりに口にしたその味に、故郷のような安心を覚えました。みんなで楽しく囲む食卓は、フュードルにとってあまりに懐かしく、幸せなものでした。フュードルはもう、怖いことは覚えていません。彼にとって、幸せな谷の生活だけが人生だったのです。
フュードルはフォークでパスタをぐるぐると巻いて、口に運びました。トマトの酸味と魚介のうまみが、彼の口のいっぱいにじんわりと広がりました。