夫婦から引っ越しを依頼されて、俺はまだ太陽が顔を出す素振りすら見せないほど早朝から出勤を命じられた。アルバイトから正社員として登用されて一年、いくらこの仕事に慣れたとはいえ、流石にここまで早い時間の依頼では、まだ半開きの瞼を無理やり擦らざるを得ない。急いで制服に着替え、まだ力の入りきらない手で、職場に来る途中で買ったコーヒーを身体に流し込んだ。
事務所に着くと、同じように眠そうにしている先輩に挨拶を済ませる。家の荷物をすべて出すとのことなので、二トントラック一台で現場へ向かった。
到着したのは大きな二階建ての古民家だった。瓦屋根と物々しい木造の外装が、推測するに七、八十年ほどの歴史と年季を物語っていた。基本的に我々は、新築の方が内装を傷つけないよう気遣ったりして集中力を削がれるため倦厭しがちだが、今回はそれともまた違って一目たときに骨が折れるなと直感した。それは今時珍しい鬼瓦の古典的な威圧感か、それとも早朝の薄暗さ故か、或いは恐ろしく日当たりの悪い立地の所為か。まだ職に就いて日の浅い俺には到底推し測ることの出来ない重苦しさをその家は纏っていた。しかしそんな杞憂は、家に入るとたちまち霧散することになった。
家に入って今回の依頼主である夫妻に簡単な挨拶を済ませる。旦那の方は所々に白髪が目立つ中年の男性で、声色からも穏やかな印象を受けた。奥さんの方も、言葉遣いとお辞儀の所作から上品さが垣間見えて、物腰も柔らかそうだった。
仕事をする時は毎回、お客さんがどんな人物なのか注意深く観察する癖をつけている。引っ越し業は人様の家に踏み入って、家具や物を運び出す訳で、家主の気質に合わせて接客の仕方は多少なりとも変えねばならないからだ。しかし今回は、先ほど家を見て感じたものとは裏腹に、あくまで第一印象の中での話だが、この二人はとても良い歳の取り方をした、まさしく仲睦まじい夫妻といった感触で、接しやすさすらあった。これならば最低限の接客だけ意識すれば特に問題が起きるということはないだろう。
今回の仕事は一部の家財の搬出と、その運搬だった。聞くところによると、最近まで在宅で介護していた父親が亡くなったそうで、必要な家具だけ持ち出して、残りを家ごと廃屋にするとの事だそうだ。ご夫婦はこれを期に海外へ移住するとの事なので、俺たちがするのは船舶用の貸し倉庫に運ぶまでだ。船舶で家具を運ぶのであれば、こんなに時間が早いというのも納得だ。事前になにか気を付けることはないか聞いたところ、「和室の扉は開けないでくださいね」との事だったので、既に床や壁に青や白の緩衝材を敷いて運び易くする作業を始めている先輩に共有しておく。
仕事に取り掛かる旨と大まかな段取りを説明して、俺も先輩を手伝った。この作業も慣れたもので、入社した当初は随分と時間をかけて、先輩に怒られていたものだ。
緩衝材を敷き終わった後は二階から一階の順番で家具を下ろしていく。ありがたいことに、大きめの家具は出来るだけ部屋の真ん中に予め移動されていたし、衣類や食器類はしっかりと段ボールにまとめられていて、搬出は非常にスムーズだった。そればかりか、休憩の際はお茶や飴玉を差し入れてくれたりもして貰った。最近は立て続けで態度が悪い客に当たっていたこともあり、俺はいつもより気合を入れて仕事に取り掛かることが出来た。
夫婦の手助けもあって作業は特に躓くことなく上手く行き、開始から二時間ほどで仕事も終盤に差し掛かった。一階のリビングの段ボール数箱を残してあらかた片付いた辺りにそれは起きた。リビングに隣接している和室の奥から何か、一定に音を刻んだような振動を感じた。恐る恐る近づいて耳を澄ませてみると、それはブザーかアラームのようにも聞こえたので、どうしたものかと暫し思案した。開けてはいけないと念押しされているので勝手に入って止めるわけにはいかない。夫妻に報告して、どうにかしてもらおうと俺は考えた。
ガレージへ向かうと、奥さんの方が車の前でタバコの箱をじっと見つめて立っていた。彼女は俺に気付いて、礼儀正しく会釈しながら「どうされましたか」と聞いて来たので、「和室の中からアラームみたいなのが鳴ってるんすけど、どうしたら良いすかね」と申し訳なさを微かに匂わせながら聞いてみると、それを聞いた彼女は一瞬だけ固まって、「あ、すみません。止めてきますね」とだけ残して和室の方へ早足で向かって行った。俺も残りの仕事を片付けてしまおうと、貰ったお茶を飲み干してリビングへ戻った。途中でアラームを止めたであろう奥さんとすれ違う。彼女は相変わらずにっこりとした微笑みを湛えながら「失礼しました、止めておきましたよ」と言って、これまた礼儀正しく会釈をしてきたので、俺もつられて「助かります」と会釈を返した。リビングに戻ると、もうあの音は聴こえなかった。しかしその代わりに、さっきまで音がしていた和室の扉の方を見遣って、ある事に気付いた。
和室の襖が、僅かばかり開いたままになっている。
きっと締め忘れなのだろう。最初は気にしないように段ボールを運んでいたが、少し気を抜くとそちらばかりを見てしまう。この仕事では「ここは手を出さないようにして下さい」という指定を入れられることは珍しくない。珍しくない、が。
愚かな好奇心が、俺を襖の前に跪かせていた。俺は音を極力殺して、ゆっくりと覗き見る。
そして、和室の中の光景を見て、思わず息を呑んだ。
そこにはベッドが一つ置かれていて、老人が一人、横たわっていた。死体、かと思ったが、よく見ると老人の胸部はシーツの下からでもわかるようにゆっくり上下に動いていた。片付いた部屋の中に不自然に佇むそれを見て、この状況が、何か酷く歪なものなのではないかという感覚に陥る。それは瞬く間に全身を伝い、関節も筋肉も麻酔でも打ったように動かせなくなる。俺は目を離すことが出来なかった。これまで薄く印象に残っていた違和感が、この目の前の老人によって細く繋がって、嫌な予感が脳を支配した。
なにか、しなければ。でもなにを? これは全て、俺の勘違いかも知れない。下手に通報などをして、万が一にも間違いだったら。きっとうちの信用は揺らいでしまうだろうか。
散々考えた結果、結局俺は、襖をそっと閉じて、そのまま最後の箱を運んだ。作業が全て終わってトラックの後部シャッターを閉める。先輩はその間、夫妻から感謝の言葉とささやかな心付けとしてバームクーヘンを貰っていた。その様子を見て、勝手に穏やかだと思っていた夫妻の目が、最初から少しも笑っていなかったことに気付いた。
やはり耐えられなくて、指定された住所へ荷物を運搬している最中、あのとき見た全てと自分が抱いた疑念を先輩に打ち明けてしまった。すると先輩は溜め息を吐いて、「それは知らないふりして正解だな。元々見るなって釘刺されてたんだし」と短く言った。
「たまにあるんだ、ああいうの。俺たちは金貰ってる以上は人様ん家の事情には極力踏み込めねえし、知らないふりしときゃこっちが責任を問われることはねえよ」
「見殺しに、したことになるんですかね。俺は」
「確証もなしに客との境界線は踏み越えんなよ」
それから貸し倉庫に到着して、俺と先輩は黙々と積荷を無機質なコンテナに詰め直していった。家からトラックに積み込んだときと比べて、そう時間はかからなかった。トラックの中身を移し終えて、再度完了の電話を入れると、旦那さんの方が出た。あのとき見たものについては詳しく聞くことができずにいて、最後にマニュアルで何度も反復練習させられた「またのご利用をお待ちしております」という定型文をなんとか捻り出すのがやっとだった。脇には汗が滲んで、先輩は何も言わずに近くの自販機で缶コーヒーを奢ってくれた。気が付けば外はもうすっかり明るくなっていて、事務所へ帰る頃には出勤するサラリーマンや学生がちらほら見えた。今日も街は、穏やかな春の陽気と朝陽に照らされている。
しかし俺にはこの朝陽が、全ての人を等しく照らし出してくれるとは、微塵も思えなかった。
後日、正確には数週間ほど経ってから、近隣から異臭がするとの通報によって、老人の遺体が古民家から発見されたというニュースが報道された。孤独死だった。
事務所に着くと、同じように眠そうにしている先輩に挨拶を済ませる。家の荷物をすべて出すとのことなので、二トントラック一台で現場へ向かった。
到着したのは大きな二階建ての古民家だった。瓦屋根と物々しい木造の外装が、推測するに七、八十年ほどの歴史と年季を物語っていた。基本的に我々は、新築の方が内装を傷つけないよう気遣ったりして集中力を削がれるため倦厭しがちだが、今回はそれともまた違って一目たときに骨が折れるなと直感した。それは今時珍しい鬼瓦の古典的な威圧感か、それとも早朝の薄暗さ故か、或いは恐ろしく日当たりの悪い立地の所為か。まだ職に就いて日の浅い俺には到底推し測ることの出来ない重苦しさをその家は纏っていた。しかしそんな杞憂は、家に入るとたちまち霧散することになった。
家に入って今回の依頼主である夫妻に簡単な挨拶を済ませる。旦那の方は所々に白髪が目立つ中年の男性で、声色からも穏やかな印象を受けた。奥さんの方も、言葉遣いとお辞儀の所作から上品さが垣間見えて、物腰も柔らかそうだった。
仕事をする時は毎回、お客さんがどんな人物なのか注意深く観察する癖をつけている。引っ越し業は人様の家に踏み入って、家具や物を運び出す訳で、家主の気質に合わせて接客の仕方は多少なりとも変えねばならないからだ。しかし今回は、先ほど家を見て感じたものとは裏腹に、あくまで第一印象の中での話だが、この二人はとても良い歳の取り方をした、まさしく仲睦まじい夫妻といった感触で、接しやすさすらあった。これならば最低限の接客だけ意識すれば特に問題が起きるということはないだろう。
今回の仕事は一部の家財の搬出と、その運搬だった。聞くところによると、最近まで在宅で介護していた父親が亡くなったそうで、必要な家具だけ持ち出して、残りを家ごと廃屋にするとの事だそうだ。ご夫婦はこれを期に海外へ移住するとの事なので、俺たちがするのは船舶用の貸し倉庫に運ぶまでだ。船舶で家具を運ぶのであれば、こんなに時間が早いというのも納得だ。事前になにか気を付けることはないか聞いたところ、「和室の扉は開けないでくださいね」との事だったので、既に床や壁に青や白の緩衝材を敷いて運び易くする作業を始めている先輩に共有しておく。
仕事に取り掛かる旨と大まかな段取りを説明して、俺も先輩を手伝った。この作業も慣れたもので、入社した当初は随分と時間をかけて、先輩に怒られていたものだ。
緩衝材を敷き終わった後は二階から一階の順番で家具を下ろしていく。ありがたいことに、大きめの家具は出来るだけ部屋の真ん中に予め移動されていたし、衣類や食器類はしっかりと段ボールにまとめられていて、搬出は非常にスムーズだった。そればかりか、休憩の際はお茶や飴玉を差し入れてくれたりもして貰った。最近は立て続けで態度が悪い客に当たっていたこともあり、俺はいつもより気合を入れて仕事に取り掛かることが出来た。
夫婦の手助けもあって作業は特に躓くことなく上手く行き、開始から二時間ほどで仕事も終盤に差し掛かった。一階のリビングの段ボール数箱を残してあらかた片付いた辺りにそれは起きた。リビングに隣接している和室の奥から何か、一定に音を刻んだような振動を感じた。恐る恐る近づいて耳を澄ませてみると、それはブザーかアラームのようにも聞こえたので、どうしたものかと暫し思案した。開けてはいけないと念押しされているので勝手に入って止めるわけにはいかない。夫妻に報告して、どうにかしてもらおうと俺は考えた。
ガレージへ向かうと、奥さんの方が車の前でタバコの箱をじっと見つめて立っていた。彼女は俺に気付いて、礼儀正しく会釈しながら「どうされましたか」と聞いて来たので、「和室の中からアラームみたいなのが鳴ってるんすけど、どうしたら良いすかね」と申し訳なさを微かに匂わせながら聞いてみると、それを聞いた彼女は一瞬だけ固まって、「あ、すみません。止めてきますね」とだけ残して和室の方へ早足で向かって行った。俺も残りの仕事を片付けてしまおうと、貰ったお茶を飲み干してリビングへ戻った。途中でアラームを止めたであろう奥さんとすれ違う。彼女は相変わらずにっこりとした微笑みを湛えながら「失礼しました、止めておきましたよ」と言って、これまた礼儀正しく会釈をしてきたので、俺もつられて「助かります」と会釈を返した。リビングに戻ると、もうあの音は聴こえなかった。しかしその代わりに、さっきまで音がしていた和室の扉の方を見遣って、ある事に気付いた。
和室の襖が、僅かばかり開いたままになっている。
きっと締め忘れなのだろう。最初は気にしないように段ボールを運んでいたが、少し気を抜くとそちらばかりを見てしまう。この仕事では「ここは手を出さないようにして下さい」という指定を入れられることは珍しくない。珍しくない、が。
愚かな好奇心が、俺を襖の前に跪かせていた。俺は音を極力殺して、ゆっくりと覗き見る。
そして、和室の中の光景を見て、思わず息を呑んだ。
そこにはベッドが一つ置かれていて、老人が一人、横たわっていた。死体、かと思ったが、よく見ると老人の胸部はシーツの下からでもわかるようにゆっくり上下に動いていた。片付いた部屋の中に不自然に佇むそれを見て、この状況が、何か酷く歪なものなのではないかという感覚に陥る。それは瞬く間に全身を伝い、関節も筋肉も麻酔でも打ったように動かせなくなる。俺は目を離すことが出来なかった。これまで薄く印象に残っていた違和感が、この目の前の老人によって細く繋がって、嫌な予感が脳を支配した。
なにか、しなければ。でもなにを? これは全て、俺の勘違いかも知れない。下手に通報などをして、万が一にも間違いだったら。きっとうちの信用は揺らいでしまうだろうか。
散々考えた結果、結局俺は、襖をそっと閉じて、そのまま最後の箱を運んだ。作業が全て終わってトラックの後部シャッターを閉める。先輩はその間、夫妻から感謝の言葉とささやかな心付けとしてバームクーヘンを貰っていた。その様子を見て、勝手に穏やかだと思っていた夫妻の目が、最初から少しも笑っていなかったことに気付いた。
やはり耐えられなくて、指定された住所へ荷物を運搬している最中、あのとき見た全てと自分が抱いた疑念を先輩に打ち明けてしまった。すると先輩は溜め息を吐いて、「それは知らないふりして正解だな。元々見るなって釘刺されてたんだし」と短く言った。
「たまにあるんだ、ああいうの。俺たちは金貰ってる以上は人様ん家の事情には極力踏み込めねえし、知らないふりしときゃこっちが責任を問われることはねえよ」
「見殺しに、したことになるんですかね。俺は」
「確証もなしに客との境界線は踏み越えんなよ」
それから貸し倉庫に到着して、俺と先輩は黙々と積荷を無機質なコンテナに詰め直していった。家からトラックに積み込んだときと比べて、そう時間はかからなかった。トラックの中身を移し終えて、再度完了の電話を入れると、旦那さんの方が出た。あのとき見たものについては詳しく聞くことができずにいて、最後にマニュアルで何度も反復練習させられた「またのご利用をお待ちしております」という定型文をなんとか捻り出すのがやっとだった。脇には汗が滲んで、先輩は何も言わずに近くの自販機で缶コーヒーを奢ってくれた。気が付けば外はもうすっかり明るくなっていて、事務所へ帰る頃には出勤するサラリーマンや学生がちらほら見えた。今日も街は、穏やかな春の陽気と朝陽に照らされている。
しかし俺にはこの朝陽が、全ての人を等しく照らし出してくれるとは、微塵も思えなかった。
後日、正確には数週間ほど経ってから、近隣から異臭がするとの通報によって、老人の遺体が古民家から発見されたというニュースが報道された。孤独死だった。