一年前までは大人の象徴と映った高校の制服には何の効力もなくって、僕は抗うことさえ出来ずにどす黒い青春の渦潮へと身を投じた。恋は魔力、月に浮かぶ島。僕も学校も海の中。うっかり惚れてしまった日からして、木製のタイルには塩が刺さり、先生も友達もプレッツェルみたいに面白おかしく膨れ上がった。
僕が目を潰してしまったのは、一つ隣のクラスに属する涼森修子と会話をした時からだった。入学したての僕は妙にテンションも高く、「誰もいないから」なんて定番の決まり文句で務めることになった学級委員長の立場。学年集会があるからと言って集まったが、特に何を話し合うわけでもなく「君たちは皆の代表なので」を枕に据えた説教を聞いた。
その集会は特に解散の号令も無かったので、教室に残った水死体どもはなんとなしに駄弁っていたのだ。早いうちに他クラスとの繋がりが欲しいという皆の目的も一致した。僕が二つ隣のクラスであった水死体一号とオタク具合を探りあっていたころ、さりげに混ざってきたのが涼森修子だった。
「私も好きだよ、その漫画」
僕はぎょっとした。話していたのはシビアな世界観が売りの、それなりにエログロのある漫画だった。水死体一号が「涼森さんがアレを好みだなんて意外だなあ」と喘いだ。僕も同意見だった。話の面白さは本物であると思うが、その露悪性からして男子でさえもひっそりと楽しむ、或いは作品のアングラ感を惨めなステータスに設定するような漫画だったのだ。女子が堂々と嗜む漫画ではないのは明らかだったが、水死体の断末魔を聞いた涼森修子はというと、少し恥ずかしそうに。
「好きに嘘なんてつけないよ」
と言って、はにかんだ。
恥ずかしながら、たったそれだけで僕は沈んでしまった。
涼森修子に関して言えることといえば、彼女は結構、変わった人だ。といってもクラスの認識としては、彼女は良く居る手弱女である。変わっているというのはあくまで、近づいて話す代わりに好く観察した僕だからこそわかるような事だった。
彼女のする会話は、ぼんやりとした諦観が混じっている。それは自らの価値を確かめるような手触りだ。時折行う突飛な発言が、その場限りの冗談として聞き流されることを楽しんでいるようで、僕にはそれが、存在自体に許しを乞うているようにも感じられた。彼女がクラスメイトとの会話にそれ以上の意味を持たせないのは謙虚で傲慢だった。仮面のような規範意識は存外に堅く、反対に言動は衝動的で、気まずくなったと思えば、まるで被害者のような格好で空を見上げた。僕はそんな彼女がずぶ濡れで生きているように感じた。
僕が確信したのは、とにかく彼女が複雑で貴重な内面性を秘めているということで、彼女の心がそれを理解出来ないような知性の無い水死体の手の内になってしまうことが怖く感じた。彼女の発露する人間性は竹の花のように貴重かつ限定的であり、僕ならばそれを枯らさずに保持できると頑なに思った。この頑固にロジックは無く、それを僕自身も理解していた為、恋は魔力であると結論付けることで、カナビラほどの言い訳に自身の全体重を委ねた。危うさに酔う、それが彼女に近づくという意味だと信じたからだった。ついぞ、僕は彼女を浮かべて自慰をすることも無かった。僕は生まれて始めて、三大欲求よりも強い独占欲を発揮した。
しかし、それはそれは虚しいことで、月に手を伸ばすような行為だった。例えば海に溺れて助からない時、遥か遠くに島を見つけた時、いっそのこと見つけなければ良かったと思うかもしれない。手の届かない希望こそ苦しいと思うかもしれない。僕にとって、この恋はそういったもので、今後三年間、僕はヒトデに耳を当て過ごすのだと覚悟を決める他なかった。
僕の誤算は二つで、ひとつめは委員長の仕事というのは思いのほか多く、学園祭を前にして僕と涼森修子の関わりは非常に増えたということ。漫画のエログロを通した自己の開示合戦は、僕と彼女の関係性を抑圧された学校生活における共犯者へと仕立て上げた。そうして過ごした半年にも満たない時間は、着衣水泳のごとく生きづらくも背徳的で、これによって僕と彼女の距離は急速に縮まった。それこそ、手を伸ばせば届いてしまうんじゃないかって程に。僕の心はタイやヒラメのように踊った。
ふたつめは、彼女は恐ろしい人間で、例えるならば、チョウチンアンコウ。
「そのプリント、破って?」
涼森修子の声は、鈴と言うよりは鐘といった、水の中でも良く通る声をしている。
ハッとした。僕は今の今まで、一体どういった会話をしていたんだ。いや、内心では理解している。僕はきっと甘えてしまった。油断してしまった。欲望に身を任せて──
「私の事が好き、なら」
反射であった。試験終了マイナス一秒の直感によって僕は手元のプリントを目もくれずに破いた。戸惑いのようなものを感じ取られるのは致命的だと僕の脊椎が囁いた。
彼女はそれをみて、満足気に唇を歪めた。喜んでくれた! と無条件に歓喜する自分の心臓が憎い。手元を見ると、二分されていたのは何のこともない学年通信であった。僕は心を撫で下ろした……ついでに状況も取り戻す。放課後、彼女と机に向かい合って委員会の仕事をしていたのだ。先生の言いつけ通りにプリントを仕分けていたところだ。生徒会室とは名ばかりの、椅子と机の置かれた倉庫。地球儀の上には埃が被さっている。
僕は会話の流れで、自分の思いの丈を話してしまったのだ。想いを秘める苦痛から逃れたくって、承認を求めてしまったのだ。きっと我慢するべきだった。存分に、彼女との会話に緊張が無くなるのを待ってから告白するべきだったのだ。額に後悔が滲む。
「価値って、さ。相対的」
彼女はそう言って窓を見た。何気ない仕草であったが、彼女の恍惚とした表情から、僕は夕空を泳ぐエイの群れを空目した。それを沈没船の中から望む僕、彼らは明るく温かい海を優雅に泳ぎ回る。
「知りたいな、どれくらい好きなの? 私と付き合えるなら、その携帯、壊せる?」
「壊せるよ」
わけないさ。僕は食い気味に言った。積極性が無いと吞まれてしまう気がした。彼女はこともなく「だよね」と返す。傲慢なような気がしたけど、信頼されているようで嬉しくもあった。僕は振り払うように続ける。
「僕だって高校一年生だから……たかが知れているけどさ。持ち物全部捨てたっていい。それくらい好きだ」
「おかしいよね、だって私たち、話したことは何度もあるけど、それだけなのに……どんなものより私が大事なの?」
「じゃあさ」と言って彼女は続けた。「モノじゃなかったらどうかな」
「私と付き合えるなら、木原君を殴れる?」
彼女は笑った、嫉妬の悪魔みたいに、僕の体に纏わりついた。木原とは水死体一号の名前だった。
ふと、恋慕とはなんだろうと馳せた。ちょっと話したくらいで惚れて、彼女のことばっかり。どういうわけか、成就の為なら物くらい幾らでも捨ててやるって思いだ。全部捨てたりしたら人生めちゃくちゃだ。恋だけが人生なわけじゃないはずだ。けれども、どうしてか、些事な気がしてしまう。
ただ、自分自身が好かれたいという思いが恋慕だとして。その自分を曲げるということは、彼女を好きでいられなくなることを意味するのではないだろうか?
僕が僕の気持ちを尊重するとして。彼女に誠実であるとして。
彼女の言った通り「好きに嘘なんてつけない」と言うのなら。
僕の魂は辺獄にある。
「……ごめん、出来ないよ。友達だから」
「そっか」
彼女はそう言って、初めて会った日みたいに、はにかんだ。
こりゃ失恋かもな。そう思うと切ない気もしたけど、不思議と僕の心中はすっきりとしていた。もやもやとして掴みどころの無かった自分の輪郭を見出して、割り切れたような気がする。軽くなった体が上を向き、光芒を見上げる。僕は出来るだけ堂々と彼女に、涼森修子に向き直った。自分自身を見失わないよう、舵を握るように。
僕は、もうこれで終わると思った。この思い出も、青春と名付けたチェストにしまい込んで、後生大事にするものだと。
でも、彼女は、また口を裂いた。
「じゃあ、私は?」
「へ?」僕の口端から素っ頓狂な声が漏れた。
「私を殺すのはどうかな」
彼女は席を立つと、呆気にとられる僕の手を取って彼女自身の首に添えた。
このまま私の首を、絞めて、あなたの手で、殺してしまうの、どうかな──
そんなこと。
だってそうすれば、彼女は永遠に僕のもので。
いやでも。でも。
……出来る。
出来てしまう。
僕のものに?
「ねぇ、いいよ」
喉の震えが、体温が、手のひらに伝わってくる。
「ちょっと待ってよ」
「いいから」
わたしを、おわらせて──
僕が時間を稼ごうと淀むのにも関わらず、彼女は全身を蕩けさせて、存在を僕に委ねた。僕が決める、涼森修子の存在、価値を決定する。その権利が内側にある。終わらせるなんて勿体ない、当然、でも、やってもいい。遠い渇望が目と鼻の先に。僕は一体どんな表情をしているだろうか。自身の事を考えたのはそれまで。恐る恐ると、両手で揉むようにしてゆっくりと指を畳む。細く伸びた首には案外ゆとりがあった。それを指の腹で、手のひらで、第二関節で、柔らかい血管を、しっかりとした気管を、管の一つ一つを一筋に纏めるように、手の内に。
やがて、僕は命を握っていた。
彼女はまだ苦しそうでは無かったが、それでも、ややきゅっと絞まった細い声で喘いだ。
「もっと、強くしても、いいよ、大丈夫」
その声はきっと信頼だった。信じてくれている。僕が、君の事を、殺してしまいたいほど好きだと。
ねだるような視線。指を置き直すと、首の皮膚がしっとりと吸い付いた。緊張、ひとつ深呼吸をすると、胸に酸素が巡る。人間が生きるために必要な空気。これを彼女から奪うことが出来るのだと思うと、疚しさが腹を震わせた。
ぐっと手のひらに力を入れる。痛めつけるのではなく、奪うように。彼女の存在を、尊厳を、名前を、呼吸を、存在を、人生を、未来を、奪うように。略奪するように、凌辱するように。身勝手に押し付ける。二度と肺胞が乾かないように、老いないように、華を絞り出すように。彼女はあまりに柔らかく、手のひらが痛むことは無い。ひたすらに略奪を与える。喉から押し出された呼気が顔にぶつかる香りを一方的に感じる。僕の手首に彼女の指がかかる。震えるそれは細枝のように無力で、苦しそうで、確かな恐怖を含んでいた。徐々に、彼女の存在に絡みつくような錯覚を覚えた。彼女の柔らかさが自身と混ざり合ったように、ぐねぐねと波打った。唇から漏れた唾液が、目元から零れた意味のない涙が、きめ細かな肌を滑り落ちて、弾けるのと同時に、彼女の全身から力が抜けた。
僕は、抱いた彼女の肉を食いちぎってしまいたい情動に駆られた。久方ぶりの性欲だった。
それを発散することはせず、欲求そのものに耽りながら彼女の顔を眺めた。
軟化した腕を、細い体の窪みに充てながら。
沈みゆく。
二十数分ほど経って、彼女はゆっくりと目を覚ました。
はにかむ彼女を見た僕は少し安心した。
噓みたいに砂浜だった。あらゆる香りは、ただただ異常として馴染んでいた。
僕はかける言葉が無くって、黙りこくった。彼女も進んで話そうとはしなかった。荷物をまとめた後に、三つ四つほどの会話で、小さな約束をした。
それはカレンダーに記された丸印、二人で海へと向かうこと。
僕は僕たちになる。
僕たちは──
僕が目を潰してしまったのは、一つ隣のクラスに属する涼森修子と会話をした時からだった。入学したての僕は妙にテンションも高く、「誰もいないから」なんて定番の決まり文句で務めることになった学級委員長の立場。学年集会があるからと言って集まったが、特に何を話し合うわけでもなく「君たちは皆の代表なので」を枕に据えた説教を聞いた。
その集会は特に解散の号令も無かったので、教室に残った水死体どもはなんとなしに駄弁っていたのだ。早いうちに他クラスとの繋がりが欲しいという皆の目的も一致した。僕が二つ隣のクラスであった水死体一号とオタク具合を探りあっていたころ、さりげに混ざってきたのが涼森修子だった。
「私も好きだよ、その漫画」
僕はぎょっとした。話していたのはシビアな世界観が売りの、それなりにエログロのある漫画だった。水死体一号が「涼森さんがアレを好みだなんて意外だなあ」と喘いだ。僕も同意見だった。話の面白さは本物であると思うが、その露悪性からして男子でさえもひっそりと楽しむ、或いは作品のアングラ感を惨めなステータスに設定するような漫画だったのだ。女子が堂々と嗜む漫画ではないのは明らかだったが、水死体の断末魔を聞いた涼森修子はというと、少し恥ずかしそうに。
「好きに嘘なんてつけないよ」
と言って、はにかんだ。
恥ずかしながら、たったそれだけで僕は沈んでしまった。
涼森修子に関して言えることといえば、彼女は結構、変わった人だ。といってもクラスの認識としては、彼女は良く居る手弱女である。変わっているというのはあくまで、近づいて話す代わりに好く観察した僕だからこそわかるような事だった。
彼女のする会話は、ぼんやりとした諦観が混じっている。それは自らの価値を確かめるような手触りだ。時折行う突飛な発言が、その場限りの冗談として聞き流されることを楽しんでいるようで、僕にはそれが、存在自体に許しを乞うているようにも感じられた。彼女がクラスメイトとの会話にそれ以上の意味を持たせないのは謙虚で傲慢だった。仮面のような規範意識は存外に堅く、反対に言動は衝動的で、気まずくなったと思えば、まるで被害者のような格好で空を見上げた。僕はそんな彼女がずぶ濡れで生きているように感じた。
僕が確信したのは、とにかく彼女が複雑で貴重な内面性を秘めているということで、彼女の心がそれを理解出来ないような知性の無い水死体の手の内になってしまうことが怖く感じた。彼女の発露する人間性は竹の花のように貴重かつ限定的であり、僕ならばそれを枯らさずに保持できると頑なに思った。この頑固にロジックは無く、それを僕自身も理解していた為、恋は魔力であると結論付けることで、カナビラほどの言い訳に自身の全体重を委ねた。危うさに酔う、それが彼女に近づくという意味だと信じたからだった。ついぞ、僕は彼女を浮かべて自慰をすることも無かった。僕は生まれて始めて、三大欲求よりも強い独占欲を発揮した。
しかし、それはそれは虚しいことで、月に手を伸ばすような行為だった。例えば海に溺れて助からない時、遥か遠くに島を見つけた時、いっそのこと見つけなければ良かったと思うかもしれない。手の届かない希望こそ苦しいと思うかもしれない。僕にとって、この恋はそういったもので、今後三年間、僕はヒトデに耳を当て過ごすのだと覚悟を決める他なかった。
僕の誤算は二つで、ひとつめは委員長の仕事というのは思いのほか多く、学園祭を前にして僕と涼森修子の関わりは非常に増えたということ。漫画のエログロを通した自己の開示合戦は、僕と彼女の関係性を抑圧された学校生活における共犯者へと仕立て上げた。そうして過ごした半年にも満たない時間は、着衣水泳のごとく生きづらくも背徳的で、これによって僕と彼女の距離は急速に縮まった。それこそ、手を伸ばせば届いてしまうんじゃないかって程に。僕の心はタイやヒラメのように踊った。
ふたつめは、彼女は恐ろしい人間で、例えるならば、チョウチンアンコウ。
「そのプリント、破って?」
涼森修子の声は、鈴と言うよりは鐘といった、水の中でも良く通る声をしている。
ハッとした。僕は今の今まで、一体どういった会話をしていたんだ。いや、内心では理解している。僕はきっと甘えてしまった。油断してしまった。欲望に身を任せて──
「私の事が好き、なら」
反射であった。試験終了マイナス一秒の直感によって僕は手元のプリントを目もくれずに破いた。戸惑いのようなものを感じ取られるのは致命的だと僕の脊椎が囁いた。
彼女はそれをみて、満足気に唇を歪めた。喜んでくれた! と無条件に歓喜する自分の心臓が憎い。手元を見ると、二分されていたのは何のこともない学年通信であった。僕は心を撫で下ろした……ついでに状況も取り戻す。放課後、彼女と机に向かい合って委員会の仕事をしていたのだ。先生の言いつけ通りにプリントを仕分けていたところだ。生徒会室とは名ばかりの、椅子と机の置かれた倉庫。地球儀の上には埃が被さっている。
僕は会話の流れで、自分の思いの丈を話してしまったのだ。想いを秘める苦痛から逃れたくって、承認を求めてしまったのだ。きっと我慢するべきだった。存分に、彼女との会話に緊張が無くなるのを待ってから告白するべきだったのだ。額に後悔が滲む。
「価値って、さ。相対的」
彼女はそう言って窓を見た。何気ない仕草であったが、彼女の恍惚とした表情から、僕は夕空を泳ぐエイの群れを空目した。それを沈没船の中から望む僕、彼らは明るく温かい海を優雅に泳ぎ回る。
「知りたいな、どれくらい好きなの? 私と付き合えるなら、その携帯、壊せる?」
「壊せるよ」
わけないさ。僕は食い気味に言った。積極性が無いと吞まれてしまう気がした。彼女はこともなく「だよね」と返す。傲慢なような気がしたけど、信頼されているようで嬉しくもあった。僕は振り払うように続ける。
「僕だって高校一年生だから……たかが知れているけどさ。持ち物全部捨てたっていい。それくらい好きだ」
「おかしいよね、だって私たち、話したことは何度もあるけど、それだけなのに……どんなものより私が大事なの?」
「じゃあさ」と言って彼女は続けた。「モノじゃなかったらどうかな」
「私と付き合えるなら、木原君を殴れる?」
彼女は笑った、嫉妬の悪魔みたいに、僕の体に纏わりついた。木原とは水死体一号の名前だった。
ふと、恋慕とはなんだろうと馳せた。ちょっと話したくらいで惚れて、彼女のことばっかり。どういうわけか、成就の為なら物くらい幾らでも捨ててやるって思いだ。全部捨てたりしたら人生めちゃくちゃだ。恋だけが人生なわけじゃないはずだ。けれども、どうしてか、些事な気がしてしまう。
ただ、自分自身が好かれたいという思いが恋慕だとして。その自分を曲げるということは、彼女を好きでいられなくなることを意味するのではないだろうか?
僕が僕の気持ちを尊重するとして。彼女に誠実であるとして。
彼女の言った通り「好きに嘘なんてつけない」と言うのなら。
僕の魂は辺獄にある。
「……ごめん、出来ないよ。友達だから」
「そっか」
彼女はそう言って、初めて会った日みたいに、はにかんだ。
こりゃ失恋かもな。そう思うと切ない気もしたけど、不思議と僕の心中はすっきりとしていた。もやもやとして掴みどころの無かった自分の輪郭を見出して、割り切れたような気がする。軽くなった体が上を向き、光芒を見上げる。僕は出来るだけ堂々と彼女に、涼森修子に向き直った。自分自身を見失わないよう、舵を握るように。
僕は、もうこれで終わると思った。この思い出も、青春と名付けたチェストにしまい込んで、後生大事にするものだと。
でも、彼女は、また口を裂いた。
「じゃあ、私は?」
「へ?」僕の口端から素っ頓狂な声が漏れた。
「私を殺すのはどうかな」
彼女は席を立つと、呆気にとられる僕の手を取って彼女自身の首に添えた。
このまま私の首を、絞めて、あなたの手で、殺してしまうの、どうかな──
そんなこと。
だってそうすれば、彼女は永遠に僕のもので。
いやでも。でも。
……出来る。
出来てしまう。
僕のものに?
「ねぇ、いいよ」
喉の震えが、体温が、手のひらに伝わってくる。
「ちょっと待ってよ」
「いいから」
わたしを、おわらせて──
僕が時間を稼ごうと淀むのにも関わらず、彼女は全身を蕩けさせて、存在を僕に委ねた。僕が決める、涼森修子の存在、価値を決定する。その権利が内側にある。終わらせるなんて勿体ない、当然、でも、やってもいい。遠い渇望が目と鼻の先に。僕は一体どんな表情をしているだろうか。自身の事を考えたのはそれまで。恐る恐ると、両手で揉むようにしてゆっくりと指を畳む。細く伸びた首には案外ゆとりがあった。それを指の腹で、手のひらで、第二関節で、柔らかい血管を、しっかりとした気管を、管の一つ一つを一筋に纏めるように、手の内に。
やがて、僕は命を握っていた。
彼女はまだ苦しそうでは無かったが、それでも、ややきゅっと絞まった細い声で喘いだ。
「もっと、強くしても、いいよ、大丈夫」
その声はきっと信頼だった。信じてくれている。僕が、君の事を、殺してしまいたいほど好きだと。
ねだるような視線。指を置き直すと、首の皮膚がしっとりと吸い付いた。緊張、ひとつ深呼吸をすると、胸に酸素が巡る。人間が生きるために必要な空気。これを彼女から奪うことが出来るのだと思うと、疚しさが腹を震わせた。
ぐっと手のひらに力を入れる。痛めつけるのではなく、奪うように。彼女の存在を、尊厳を、名前を、呼吸を、存在を、人生を、未来を、奪うように。略奪するように、凌辱するように。身勝手に押し付ける。二度と肺胞が乾かないように、老いないように、華を絞り出すように。彼女はあまりに柔らかく、手のひらが痛むことは無い。ひたすらに略奪を与える。喉から押し出された呼気が顔にぶつかる香りを一方的に感じる。僕の手首に彼女の指がかかる。震えるそれは細枝のように無力で、苦しそうで、確かな恐怖を含んでいた。徐々に、彼女の存在に絡みつくような錯覚を覚えた。彼女の柔らかさが自身と混ざり合ったように、ぐねぐねと波打った。唇から漏れた唾液が、目元から零れた意味のない涙が、きめ細かな肌を滑り落ちて、弾けるのと同時に、彼女の全身から力が抜けた。
僕は、抱いた彼女の肉を食いちぎってしまいたい情動に駆られた。久方ぶりの性欲だった。
それを発散することはせず、欲求そのものに耽りながら彼女の顔を眺めた。
軟化した腕を、細い体の窪みに充てながら。
沈みゆく。
二十数分ほど経って、彼女はゆっくりと目を覚ました。
はにかむ彼女を見た僕は少し安心した。
噓みたいに砂浜だった。あらゆる香りは、ただただ異常として馴染んでいた。
僕はかける言葉が無くって、黙りこくった。彼女も進んで話そうとはしなかった。荷物をまとめた後に、三つ四つほどの会話で、小さな約束をした。
それはカレンダーに記された丸印、二人で海へと向かうこと。
僕は僕たちになる。
僕たちは──