薄紅色の小さなかけらたちが、強く風が吹くたびにぱらぱらぱらと零れ落ちてゆく。そのうちのいくつかは私の頬や髪をかすめ、ひらひらとはためいて、春の陽光にきらりと光っては地面へとゆっくり落ちてゆく。
川沿いの桜並木はどこまでも続いていて、みな満開だった。遠くまでずっと、桃色のかたまりが連なっている。年老いて衰えた私の視力にそれは均一なトーンとして映ったが、それでも美しいことに変わりはなかった。
車椅子の両側の車輪が、ミシミシと音を立てながらゆっくりと進んでゆく。桜の花びらでできた絨毯の上を、噛み締めるように踏みしめてゆく。
「〜〜〜〜〜〜〜」
後ろからヘルパーさんが何か声をかけるのが聞こえるが、少し風が強いせいもあって聞き取れない。私は右耳に手を当てて補聴器のズレを気にしてみる。補聴器は風にとても弱いのだ。
私の口の中に、甘塩っぱい懐かしい香りが広がるような気がした。微かに残る塩気と、そして上品な日本酒の甘く柔らかな味わい。桜酒。そうだ、桜酒の季節だ。私なにか閃いたようになって首を持ち上げた。頭上からはたくさんの花びらが降ってくる。私はその一つ一つの香りを思い浮かべる。
桜酒は、ばあさんがこの時期になると、昔から気に入ってよく作ってくれるのだった。七分咲きの桜の花をいくつか取ってくると、洗ったあと塩とお酢に漬けて重しをし、二、三日放置したあと天日干しをする。そうしてできた桜の塩漬けを、再び塩抜きして、お湯やお水で割った日本酒に入れる。
私は、ばあさんの作るこの桜酒が大好きだった。春だけ限定の、やわらかな香り。それはばあさんの作る料理もそうだったように、ばあさんらしいあたたかなものだった。
「桜酒、飲みたいなあ。」
私は思わずしゃがれた声で呟いた。そういえば去年は桜酒は飲んだだったろうか。ばあさんは作っていたような気もするし、作っていなかったような気もする。今年こそはお願いしてみよう。
目を凝らしてよくよく一つ一つを見れば、ピンクの強いもの、白の強いものと、桜は思い思いに枝を伸ばして、青空にその美しい花を咲かせている。全国にあるソメイヨシノはみな接木で広がっているから、確かにDNAがみな同じクローンなのだけれど、それでも私の目には、それぞれの木がそれぞれの個性を放っている輝いているように見えた。
私とばあさんは、川べりに綺麗な桜並木のある静かな村で育った。すぐ隣の家に住んでいた私たちは、小さな頃からよく一緒に遊んだっけ。そういえば今は、あの他の連中たちはどうしているのだろうか。
その頃から、ばあさんと私は仲が良かった。いつも一緒にいて似ていたのか、よく兄妹に見間違われた。同じ学校を卒業して、同じように東京に出てきた。お金のなかった私たちは、本当の兄妹のように一緒に東京で暮らした。激動の、人や経済、何もかもが渦巻いて、すべての出来事が古いものから新しいものへと新陳代謝されていった時代。私たちはその中で、寄り添うようにして生き、そして寄り添うように桜を見ていた。
ばあさんが最初に桜酒を作ったときのことを、私はいまだに覚えている。当時新聞記者だった私が、なんの収穫も得られず悪戦苦闘していたとき。上司に殴られ、取材相手に土下座をして過ごしていたあの日々。深夜に帰ると、常夜灯だけが灯る狭い和室の机の上に、桜酒が置いてあった。あの時飲んだやわらかな味わいを、今もまだ覚えている。微かに残る塩気と、そして上品な日本酒の甘く柔らかな味わい。全身の緊張が優しくがほぐれ、私は軽い酩酊とともに、故郷のあの桜並木を思い出したのだった。
私たちはよく似ていたが、それでもやはりいろんなところが違っていた。その同じところや違いの気づきの一つ一つが、どうしようもなく楽しかった。そうして私たちは結婚した。
ばあさんは、桜のような女だった。しっかりとした芯のある幹を持ち、そして美しい表情をした。たまに機嫌を損ねても、また時期がくれば優しくぱっと微笑んだ。そうして私たちは、たくさんの春を過ごし、たくさんの桜を見、たくさんの桜酒を飲んだ。
桜吹雪は、風が強まるごとにその勢いを増して行く。激しく吹き付ける東風に、桜の木からはもう一枚の花びらもなくなってしまうのではないか、というくらい薄紅色のかけらが舞ってゆく。私はそのあまりの強さに目をぎゅっと閉じた。
そして目を開いたそのとき、私は薄紅色の空間のなかにいた。前後左右上下のすべてが桜色に囲まれ、私はまるで浮いているようで、遠近感すらわからないほどだった。
老眼になった目をよくよく凝らしてみると、周りを囲むそれらは、たくさんの桜の花びらだった。黒い地面も、青い空も、道の景色も覆うほどの桜の花びらが、静かに私の周りを覆っていた。あたりには鳥の声も虫の音も、風の音さえ聞こえない。ただ桜の花びらが重力にしたがって地面に触れるときの、しとしととした音だけがかすかに聞こえている。
私は、思わず周りを見回した。これは一体、なんなのだろうか。しかし不思議なことに、私はとても落ち着いていた。それどころか、とても優しい心持ちだった。あたたかな、やわらかな、なにか懐かしい気配が自分の心の中に糸を引いているような感覚だった。
そうして私は車椅子から立ち上がり、振り返った。誰か人がいるのが見える。私はよく目を凝らした。もう、私の眼は老眼などではなかった。はっきりと、その表情が見てとれた。
「ばあさん……」
反射的に私の口から思わず呟きが溢れる。私はしっかりとした足取りで、ばあさんのいる方へと駆け出していった。
「ばあさん……」
しかし、ばあさんは虚像のようで、歩いても歩いても、決して近づけはしなかった。ただ薄紅色に覆われた先に、ぽつんと一人浮いている。
「〜〜〜〜〜〜〜」
ばあさんが何か言うのがわかった。しかし、うまく聞き取れなかった。私は耳の補聴器を投げ捨てる。もはや補聴器など今の私には要らなかった。声が聞きたかった。私は走るようにして手を伸ばした。
「あの、ばあさん、今年の、桜酒は……」
そう言った瞬間、私の体は急速に現実に引き戻された。私は、車椅子から手を伸ばした格好で落ちかけていた。目の前の地面は黒々としていて、桜の花びらが何枚か落ちている。
「おじいさん、何をおっしゃってるんですか。奥様はだいぶ昔に亡くなられましたでしょう?」
後ろからヘルパーさんの声も聞こえる。私はなんだかきまりが悪くなって、一つ咳払いをする。
「ああ、そうじゃったな。」
私は椅子に座り直して、桜の枝を見上げた。薄紅色の小さなかけらたちは、強く風が吹くたびにぱらぱらぱらと零れ落ちてゆく。そのうちのいくつかは私の頬や髪をかすめ、ひらひらとはためいて、春の陽光にきらりと光っては地面へとゆっくり落ちてゆく。それは、ばあさんの表情のようで、真っ青な空の背景によく映えて見えた。
私は、もう一度、あの桜酒が飲みたい。
川沿いの桜並木はどこまでも続いていて、みな満開だった。遠くまでずっと、桃色のかたまりが連なっている。年老いて衰えた私の視力にそれは均一なトーンとして映ったが、それでも美しいことに変わりはなかった。
車椅子の両側の車輪が、ミシミシと音を立てながらゆっくりと進んでゆく。桜の花びらでできた絨毯の上を、噛み締めるように踏みしめてゆく。
「〜〜〜〜〜〜〜」
後ろからヘルパーさんが何か声をかけるのが聞こえるが、少し風が強いせいもあって聞き取れない。私は右耳に手を当てて補聴器のズレを気にしてみる。補聴器は風にとても弱いのだ。
私の口の中に、甘塩っぱい懐かしい香りが広がるような気がした。微かに残る塩気と、そして上品な日本酒の甘く柔らかな味わい。桜酒。そうだ、桜酒の季節だ。私なにか閃いたようになって首を持ち上げた。頭上からはたくさんの花びらが降ってくる。私はその一つ一つの香りを思い浮かべる。
桜酒は、ばあさんがこの時期になると、昔から気に入ってよく作ってくれるのだった。七分咲きの桜の花をいくつか取ってくると、洗ったあと塩とお酢に漬けて重しをし、二、三日放置したあと天日干しをする。そうしてできた桜の塩漬けを、再び塩抜きして、お湯やお水で割った日本酒に入れる。
私は、ばあさんの作るこの桜酒が大好きだった。春だけ限定の、やわらかな香り。それはばあさんの作る料理もそうだったように、ばあさんらしいあたたかなものだった。
「桜酒、飲みたいなあ。」
私は思わずしゃがれた声で呟いた。そういえば去年は桜酒は飲んだだったろうか。ばあさんは作っていたような気もするし、作っていなかったような気もする。今年こそはお願いしてみよう。
目を凝らしてよくよく一つ一つを見れば、ピンクの強いもの、白の強いものと、桜は思い思いに枝を伸ばして、青空にその美しい花を咲かせている。全国にあるソメイヨシノはみな接木で広がっているから、確かにDNAがみな同じクローンなのだけれど、それでも私の目には、それぞれの木がそれぞれの個性を放っている輝いているように見えた。
私とばあさんは、川べりに綺麗な桜並木のある静かな村で育った。すぐ隣の家に住んでいた私たちは、小さな頃からよく一緒に遊んだっけ。そういえば今は、あの他の連中たちはどうしているのだろうか。
その頃から、ばあさんと私は仲が良かった。いつも一緒にいて似ていたのか、よく兄妹に見間違われた。同じ学校を卒業して、同じように東京に出てきた。お金のなかった私たちは、本当の兄妹のように一緒に東京で暮らした。激動の、人や経済、何もかもが渦巻いて、すべての出来事が古いものから新しいものへと新陳代謝されていった時代。私たちはその中で、寄り添うようにして生き、そして寄り添うように桜を見ていた。
ばあさんが最初に桜酒を作ったときのことを、私はいまだに覚えている。当時新聞記者だった私が、なんの収穫も得られず悪戦苦闘していたとき。上司に殴られ、取材相手に土下座をして過ごしていたあの日々。深夜に帰ると、常夜灯だけが灯る狭い和室の机の上に、桜酒が置いてあった。あの時飲んだやわらかな味わいを、今もまだ覚えている。微かに残る塩気と、そして上品な日本酒の甘く柔らかな味わい。全身の緊張が優しくがほぐれ、私は軽い酩酊とともに、故郷のあの桜並木を思い出したのだった。
私たちはよく似ていたが、それでもやはりいろんなところが違っていた。その同じところや違いの気づきの一つ一つが、どうしようもなく楽しかった。そうして私たちは結婚した。
ばあさんは、桜のような女だった。しっかりとした芯のある幹を持ち、そして美しい表情をした。たまに機嫌を損ねても、また時期がくれば優しくぱっと微笑んだ。そうして私たちは、たくさんの春を過ごし、たくさんの桜を見、たくさんの桜酒を飲んだ。
桜吹雪は、風が強まるごとにその勢いを増して行く。激しく吹き付ける東風に、桜の木からはもう一枚の花びらもなくなってしまうのではないか、というくらい薄紅色のかけらが舞ってゆく。私はそのあまりの強さに目をぎゅっと閉じた。
そして目を開いたそのとき、私は薄紅色の空間のなかにいた。前後左右上下のすべてが桜色に囲まれ、私はまるで浮いているようで、遠近感すらわからないほどだった。
老眼になった目をよくよく凝らしてみると、周りを囲むそれらは、たくさんの桜の花びらだった。黒い地面も、青い空も、道の景色も覆うほどの桜の花びらが、静かに私の周りを覆っていた。あたりには鳥の声も虫の音も、風の音さえ聞こえない。ただ桜の花びらが重力にしたがって地面に触れるときの、しとしととした音だけがかすかに聞こえている。
私は、思わず周りを見回した。これは一体、なんなのだろうか。しかし不思議なことに、私はとても落ち着いていた。それどころか、とても優しい心持ちだった。あたたかな、やわらかな、なにか懐かしい気配が自分の心の中に糸を引いているような感覚だった。
そうして私は車椅子から立ち上がり、振り返った。誰か人がいるのが見える。私はよく目を凝らした。もう、私の眼は老眼などではなかった。はっきりと、その表情が見てとれた。
「ばあさん……」
反射的に私の口から思わず呟きが溢れる。私はしっかりとした足取りで、ばあさんのいる方へと駆け出していった。
「ばあさん……」
しかし、ばあさんは虚像のようで、歩いても歩いても、決して近づけはしなかった。ただ薄紅色に覆われた先に、ぽつんと一人浮いている。
「〜〜〜〜〜〜〜」
ばあさんが何か言うのがわかった。しかし、うまく聞き取れなかった。私は耳の補聴器を投げ捨てる。もはや補聴器など今の私には要らなかった。声が聞きたかった。私は走るようにして手を伸ばした。
「あの、ばあさん、今年の、桜酒は……」
そう言った瞬間、私の体は急速に現実に引き戻された。私は、車椅子から手を伸ばした格好で落ちかけていた。目の前の地面は黒々としていて、桜の花びらが何枚か落ちている。
「おじいさん、何をおっしゃってるんですか。奥様はだいぶ昔に亡くなられましたでしょう?」
後ろからヘルパーさんの声も聞こえる。私はなんだかきまりが悪くなって、一つ咳払いをする。
「ああ、そうじゃったな。」
私は椅子に座り直して、桜の枝を見上げた。薄紅色の小さなかけらたちは、強く風が吹くたびにぱらぱらぱらと零れ落ちてゆく。そのうちのいくつかは私の頬や髪をかすめ、ひらひらとはためいて、春の陽光にきらりと光っては地面へとゆっくり落ちてゆく。それは、ばあさんの表情のようで、真っ青な空の背景によく映えて見えた。
私は、もう一度、あの桜酒が飲みたい。