二〇二三年の八月は依然として猛暑続きだった。
今年完成したばかりと話題になっていたヨドバシカメラを正面から望む。実に五年ぶりの仙台は何も変わっていないような面をして、いざ帰ってみると何もかもが違っていた。
「すげえ……」
「ここ、本当に大きいですね。なにか買いたいものでも?」
「いや、何も。死ぬ前に一回見ておこうと思って」
すっかり圧倒されている俺の腰には、拳銃を突き付けられている。
俺は、いま自分の隣にいる夏らしく涼しげな装いの女性のことを何も知らなかった。
なぜ、こんなことになっているのか。正直なところ俺にも分からない。彼女とはここへ来る新幹線の車内で出会った。彼女の隣へ座る際に持っていた鞄を落としてしまい、それを彼女に拾って貰ったときの「ありがとうございます」が、俺と彼女の最初の会話だった。この時は、ただ仙台に着くまで隣で座っているだけの人。本当にそれだけの認識のはずだった。
しかし、福島を越えた辺りで事情が変わった。
「静かに、これは拳銃です。撃たれたくなければ私の言うことを聞いてください」
「は、はあ」
突然のことで、何をされたかすら理解するのに時間がかかった。ゆっくりと腰元の方に目を遣ると、確かに何かを当てられている。布で隠されているが服越しには銃口のようなものを感じ取ることが出来た。
多少驚きはしたが、あまり怖くはなかった。
何故なら、俺は仙台に着いたら自死を計ろうとしていたからだ。
理由は単純。去年の夏、育英が優勝したから。
だからここで脅迫に背いて殺されても、俺にとっては寧ろ好都合だった。ただ一つだけ面倒なことがあって、俺はある人と一緒に死のうという約束をしていた。ここで死んでもいいのだが、約束を反故にするというのは何というか心持ちが悪い。
そもそも、こうして俺に凶器を突き付けてまで何がしたいのか分からなかった。銀行強盗の人質にでもするつもりなのだろうか。と思ったが、俺ではいささか役不足。死にたい俺はみずから撃たれに行ってしまう。
申し訳ないが他をあたって貰おう。もし断って激昂されても、その銃の引き金を引いてくれるなら結果オーライだ。そう考えて、お断りの言葉を口の中で用意していると
「あの。あなた、自殺するつもりですよね」
その瞬間、俺が用意していた「他をあたってください」はどこかへ消し飛んでいた。
なぜ、目の前の少女が自殺のことを知っているのか分からなかった。彼女が言うには、鞄を拾ったときに気付いたらしい。
「落とした鞄がスカスカなのと、やけに澄んだ目が不釣り合いでした」
「それだけで分かるものですか」
「実際当たってるでしょう?」
彼女は得意げに微笑んで見せた。占いでもなんでも、自分のことを言い当てられると背筋がゾワりとしてしまう。
けれど、良いのだろうか。命を絶とうとしている人間に向かって拳銃を突き付けた所で、何の強制力もない。取引としては無理筋なはずだ。
そんな俺に何を要求するのか、もしかしたら「ここで自爆しろ」みたいなとんでもない注文ではないかとつい身構えてしまった。しかし彼女の口から出てきたのは、
「私が行きたいと言ったところに連れて行ってください。わかり易く言えば、あなたは私専属の仙台観光ガイドです」
それは何の衒いもない、まさしく『お願い』そのものだった。
普段の俺なら、もとい今すぐにでも死にたい俺なら断っていたかもしれない。
こんなの、子供のお守りとなんら変わらない。ガイドなら別で雇えば良いだけだ。
しかし、彼女が銃を向けるという手段をとってまで、なぜ俺に脅迫をしたのか。興味が湧いてきてしまった。幸いなことにまだ約束までは時間がある。
これで何か面白いものが見れるなら、死んだ友人に笑って話せるかもしれない。これぞまさしく冥土の土産。
ヨドバシの荘厳さに一通り満足して、どこから案内しようかと辺りを見回してみる。
相変わらず俺の腰には拳銃があてがわれているが、これだけ人が居てよくバレれないものだ。日本人というのはここまで平和ボケした民族だったのだろうか。
「お兄さん、あれ」
彼女が指さした先、花が植わっている石のベンチでは、大きな円盤のようなものを叩いている男性が、路上ライブをしていた。地面に置かれたスケッチブックには「ハンドパンマン」と書かれている。
「新宿駅の前みたいですね」
彼女の言葉に、確かに。と頷いてしまう。俺も通勤の合間に新宿駅を通る際、よく見かけたものだ。まあ、仕事は辞めたしいまから死ぬ予定の俺には関係のないことだが。
「東口なんかは、たまに歌ってる人もいたな」
「へぇー。あ、そういえばわたし、昔歌手になりたくて路上ライブしてたことあるんですよ」
「ああ、確かになんかやってそう」
「もしかして馬鹿にしてます? まあもう辞めちゃったんですけどねー」
少女の声は心なしか弾んでいるようにも沈んでいるようにも聞こえた。それは俺も同じで、路上ライブにはあまりいい記憶がない。
彼女は演奏の間隙を縫って、演奏者に「良い演奏でした! 応援してます」と言ってこちらへ戻ってきた。演奏者の人が深々とお辞儀をしたものだから、彼女の隣にいる俺もつられて礼を返す。すごく単純に、律儀なんだなと思った。
「さて、次はどこへ行きましょうかっ」
「決めてなかったのか。俺も仙台は久しぶりだし、案内できるかわからんのだが」
「そうですね。じゃあ、なんか仙台っぽいもので」
そう言われても困る。最後にこの街を歩いたのはもう七年も前のことだし、商店街に入っているテナントもすっかり変わってしまっている。何より、これは東北の中心地であることの弊害か「仙台っぽいもの」というのは案外少ないが……。
最初に思い浮かんで向かったのは、蒲鉾(かまぼこ)店だった。
店の前は平日にもかかわらず意外と人が溜まっている。レジと思わしき場所からは列が伸びているくらいの賑わいだった。
「瓢箪(ひょうたん)揚(あ)げが有名なんだ」
「へぇ、牛タンしか知らなかったです。よく食べてたんですか?」
「いや、牛タンとこれは仙台の人ほど食べない」
列は予想よりも早く進み、さほど待つことなく買うことが出来た。店から出て、一度手を合わせるポーズをとってから、いかにも瓢箪の形をした揚げ物にかぶりつく。アメリカンドックのような衣の裏から顔を覗かせる、蒲鉾の弾力。いままで食べたことなんて殆どなかったのに、懐かしい感じを覚えてしまった。最後に食べたのはいつだっただろうか。
「あの、お兄さんは」
「小関(おぜき)でいい」
「小関、さんは、どうしてその」
「ああ、自殺?」
瓢箪の上の部分を咀嚼しながら、少女はこくりと頷いた。
「……Twitterで」
一週間前。自殺の決心がつく前に、少しだけ自分と同じような人の心境が気になって、Twitter(もう新しい名前がだいぶ定着しているが俺は大衆への反抗心でそう呼んでいる)を徘徊していた時に、自殺という文言で検索を掛けたことがあった。
検索結果の最上位には自殺防止センターの電話番号が表示されていたが、無視をした。
何度か画面をスワイプして、アイコンと文字の羅列を眺めていても、自殺したいと感じる人に対する憐憫や軽蔑が、世論として多いということを知るだけだったのだが。
その中に一つだけ、
『自殺したいと思っています』
というつぶやきを見かけた。
何の変哲もないただの文章。しかし俺はその簡潔な一文に妙な真実味を覚えていた。
つい出来心、だったのかも知れない。次の瞬間には、俺はスマホに添えていた指を滑らせてリプライを送っていた。
『初めまして。良ければ一緒に自殺しませんか』
その後何度かリプライだけでやり取りをして、俺の地元の仙台で決行しようという話に落ち着いた。集合時間は午後六時半、場所は分かりやすく仙台駅のステンドグラス前にした。何を使って、どうやって自殺するのかは決めていない。ただ、俺からは一つだけ「出来るだけ大勢の前で自殺したい」と注文をつけた。理由は今年も育英が優勝しそうだからだ。相手について知っているのは『オカ』というユーザーネームのみ。
横断歩道の信号が変わるのを待ちながら、瓢箪揚げを完食した少女は俺の話を黙々と聞いていた。
「なんでそんなに死にたいんですか」
「育英が今年も優勝しそうだから」
「あの、脅迫されてること忘れてないですよね?」
拳銃の銃口がグッと腰に押し付けられる。ふざけていると思われたのだろうか。信号が変わって、人の群れが一斉に動き出した。
「あっ。そういえばわたし、国分町? に行ってみたいです。なんか有名みたいですし」
「ああ、ブンチョーね。まあ確かに有名だけど」
「けど?」
「この時間帯は行っても多分面白くない、夕方じゃないし、ハッピーアワーにもまだ早い」
国分町というのは仙台の中では有名な歓楽街で、夜になると飲み屋のキャッチやネオンの光で賑わう一帯のことを指している。業界用語風に言うと『ブンチョ―』。しかし、まだ日が出ているこの時間帯ではほとんど店は閉まっているはずだ。それに、
「あんまり駅から離れると都合が悪いから、出来れば近場だと助かる」
「そう、ですか」
銃口を当てる力が、少しだけ強くなった気がした。
歩き疲れた。と彼女に言われたので、俺たちは一旦大町通り沿いにあるヴェローチェへ入ることにした。俺はコーヒーを、彼女は元気な声でソイラテを注文して、木造を模した壁紙が貼られている店内の隅っこに座った。
「はぁー、疲れた」
座り込む彼女の表情は、言葉とは裏腹に満足そうだった。
「あの、」
「なんでしょう」
「なんで隣に座ってる」
彼女はテーブルを挟んだ向かい側の椅子——ではなく、長いソファーに俺と並んで座っていた。まあ理由は簡単で、俺の横腹に銃を当てるためだろう。拳銃は相変わらずペイズリー柄の布で覆われていて、その全貌は推測することしか出来ない。彼女は表情を変えないまま、「知ってるくせに」と言ってソイラテを啜った。
「ありがとうございます、わたしのわがままに付き合ってもらって」
閑散とした喫茶店の中で、彼女はポソりと呟くように切り出した。
「いえいえ、もう死ぬ身なので。それに脅迫されてる身でもあるわけだし」
「あの、一つ聞いても良いですか?」
一体なんだ、と首だけで返事をした。
「駅から離れると都合が悪いっていうのは」
「え? ああ、約束があるんだ、一緒に死のうっていう」
我ながら可笑しな約束だと思う。隣を見ると、ソイラテを傾けたまま、彼女は何もないところを見つめていた。
「その約束、本当に行かないとだめですかね」
背景の音が、まるでスピーカーのしぼりを捻ったように大きくなったような気がした。
俺は、その質問にすぐ答えることが出来なかった。意図が分からなかったからだ。
「……まあ、決めたことだから」
コーヒーを呷る。
彼女の顔を目の端で窺うと、また少しだけ寂しそうな顔をしていた。
暫しの沈黙が俺たちの周りを包んで、時間の進むスピードが少しだけ遅くなった感覚に襲われる。
「すみません、少しお手洗いへ行ってきてもいいでしょうか」
彼女はそう言って席を立った。「構いませんよ」と言った俺に「わたしが戻るまで絶対、絶対に動かないで下さいねっ」と念を推してきたのだが、説得力がまるでなくてまた少し可笑しくなる。
騒がしいのがいなくなって、妙な緊張から解き放たれたような気がした。凝りをほぐすように肩と首を回していると、俺たちの席の隣、紅茶の入ったカップを口に付けている老人と目が合った。本当にたまたま、一瞬だけ。
「元気の良さそうなお嬢さんですね」
すぐに視線を外したのに、まさか話しかけられるとは思っていなくて、失礼にもビクッと肩で反応してしまった。
「え、あ、はい。そうですね」
何と言ったらいいか分からなくて、判然としない答えを返した。
「デートですか?」
「いえ、そんなんではないです」
「そうでしたか。じゃれ合っていて、とてもお似合いなのに」
じゃれ合い。傍から見れば俺たちはそう見えるのだろうか。
「えっと。それは、どういう」
発言の意図を汲み取れずにいると、老人は自分の腰をトントンと、指でつついた。
「なにか、腰に当てられてませんでしたか」
背筋が凍る。
「なんのことですか」
「気のせいでしたかな。店に入った時から腰になにか黒いものを、ずっと」
まずい、拳銃を見られていた。思えば当たり前のような気もするけれど、完全に気を抜いてしまっていた。脅迫がバレるのは構わないが、もしもそれが騒ぎになって、警察などに保護されるようなことがあったら最悪俺が死ねなくなる。そうなるのは、本当に困る。
「えっと、あれはペットボトルですよ。コーラの入ったペットボトル」
取っ手付けたような嘘が、口をついて出た。
老人は口元の顎髭に手を当てて、少しばかり訝しんだ後、
「そうですか、ならいいんですけども」
とだけ言った。
「この年になると妄想が地に足着かなくなってしまうものなので、気になさらないでください」
表情には出さないが、ひとまず安堵を覚える。
「しかし、今日はいい天気ですね。何をするにも、本当に良い日だ」
この老人と話すのは、少し危ない気がする。もしかしたら、歳でおかしくなってしまったのかも知れない。心拍数が少しだけ上がった感触がした。
「お待たせしました。おや、まだちゃんと居ますね」
そのすぐ後に彼女が戻って来たので、「もう、出よう」と短く告げて、俺は彼女の手を取って店を出ることにした。
来た道を戻って、仙台駅の方を目指す。
こんなことをしている場合ではなかった。
「小関さん」
彼女に付き合っている場合でも、彼女の願いを叶えてやる道理もなかったのに。
「小関さん」
思い出せ。俺は死ぬためにここへ来たんだ。それ以外の事なんて背負う必要すらない。
「小関さんっ」
強く名前を呼ばれて立ち止まる。懐かしい顔を、思い出すところだった。
「手、離してください」
言われて、自分がずっと彼女の手を握っていたことにハッとした。慌てて放すと、彼女は自分の手首を撫でながら、「いきなりどうしたんですか」と訝しむ目でこちらを見た。
「俺は駅に戻る。案内はここまでだ」
そう言って駅の方へ歩き出そうとすると、今度は逆に彼女に腕を掴まれた。
「いやです」
「……離してくれ」
「いや、いきなり戻るとか意味わかんないじゃないですか」
「意味が分からないのは君の方だ!」
俺は腕に力を込めて、彼女の制止を振り払った。
「他人にいきなり銃なんか突き付けて、そうすれば俺が言いなりになると思ったのか?」
「……違います」
「ならアレか? 自殺者を弄んで楽しいのか?」
「……違います」
「じゃあなんなんだよ!」
抑えようと思っていた声が苛立ちで震えていることが自分でもわかった。
「君は、君は一体何がしたいんだ」
「小関さんは、わたしの知っている人だったからっ」
「——は?」
この人は、何を言っているのだろう。
「半年前、路上でライブしてたわたしが、配信者の人に絡まれてて、それを小関さんに助けて頂いたんです。覚えてないかも、しれませんけどっ」
そこまで言われて、ようやく思い出す。そう、半年前。あの頃は新宿を経由して帰ることが多くて、よく駅前の路上ミュージシャンを眺めて帰るのが日課だった。あの時たまたま見かけた誰かは、迷惑系の動画配信者に問い詰められていた。
親友が死んだことで自分を責めていた当時の俺は、頑張っている誰かを晒しものにする行為がどうしても許せなくて、思わず横から彼らの間に割って入ったのだ。酒を入れてしまっていたから、その後どうなったか覚えていないのだが、まあ喧嘩になって負けたんだろう。全身が痛いまま目を覚ましたことを覚えている。あの時は自分を少しでも肯定するために、誰かを肯定したかった。とにかく誰かに優しくしたかったのだ。
「ずっとお礼が言いたかったんです。でも、これから死のうとしてることを知って、まさかやりとりしていたのが小関さんだったなんて思わなくて……止めないとって、思って」
ちょっと待て。
やりとりって、何のことだ。自殺の話をやりとりしていた相手なんて……まさか。
「じゃあ、もしかして。お前が『オカ』なのか?」
俺の言葉に、彼女は驚いたように目を大きく見開いた。それから少し瞑目して、やがて覚悟を決めたように真っ直ぐにこちらを向き、頷いた。
嘘だろ。こいつが『オカ』だなんて。
いや、いやいや。
「おかしいだろ。お前が『オカ』なんだったら、お前は今日、俺と一緒に自殺する筈じゃないのか」
「……。」
「答えろよ!」
「…………相手が小関さんだと知って、事情が変わったんです」
彼女の声音はまるで慎重に言葉を選びながら話すように、重々しいものだった。
「銃を使って脅したのも、わざと駅から離れたところへ行こうと提案したのも、身勝手なことだとは分かってます。騙していて、すみませんでした。あと、これも拳銃なんかじゃありません」
彼女が持っていたのは、コーヒーの入ったペットボトルだった。彼女はそれをこちらに手渡す。ずっと押し当てられていた飲み口の部分が俺の体温で仄かに温かった。
彼女の話は全くもって不自然ではなかった。言うことにも筋が通っている。
しかし、まだ何かが引っかかっていた。
そもそもどうして彼女は俺と同じ新幹線、それも隣の席だったんだ? 集合が六時半で、仙台に早入りなんてする必要はない筈なのに。それに新幹線で話した時点では、俺はまだTwitterで『オカ』と知り合った人物だとは言っていなかった。それなのに、こいつは最初から俺を駅から遠ざけようとしていた。何より、
何故こいつは『オカ』とやりとりしているアカウントを俺だと判断したんだ?
「どうしてお前は、俺が今日『オカ』と自殺することを知っていたんだ」
「それは……」
すると、彼女の様子が突然おかしくなった。
まるで今から重大な秘密を打ち明けるかのように、恥ずかしそうに顔を覆って何度か「ごめんなさい」を繰り返していた。
「その、実はわたし……小関さんに助けて貰ってからずっと……わたし。あなたのことを、その、尾けてて」
何を言われているのか、分からなかった。
再び背筋がゾワりとした感覚に襲われる。
「小関さんが使っているアカウントも、特定してました」
彼女の表情を窺い知ることは出来なかった。しかし、手で覆われていない口の端はほんの少しだけ上がっているような気がした。
「小関さんの住んでるところをアタリをつけて検索してみたら、配信者を叩いてる呟きをしている人がいて、行動範囲を絞ったら見事に見つかりました。育英が嫌いなことも、地元が仙台なこともっ、最初から全部知ってました」
饒舌になっている彼女を、俺はすっかり冷めた目で見る事しか出来なかった。
「君、おかしいよ」
口から漏れ出た端的な言葉は、アーケードの雑踏や往来の人たちの声ですぐにかき消されてしまった。
「じゃあ、行くから。もう邪魔すんな」
俺がアーケードの出口を抜けようと歩き出すと、彼女は進行方向に回り込んで、深々と頭を下げながら声を張り上げた。
「死なないでくださいっ、お願いします! わたしを助けてくれた小関さんには、死んでほしくないんですっ!」
彼女の深々と下げられた頭を、俺は一瞥もせずに素通りした。
腹が立っていた。まるで自分の決意を弄ばれてるみたいで、とにかく苛立たしかった。
何に怒っているのかも、よく分からない。彼女が『オカ』だったことなのか、彼女が俺をストーカーしていたことなのか、一緒に死ぬと思っていた彼女が、俺が死ぬのを邪魔していたことなのか。
いや、そんなことはいい。彼女のことはもう忘れよう。死ぬと決めていたのに、道楽に付き合ってしまったのが良くなかった。
今すぐにでも、ここでもう死んでしまおう。
すぐそこのイオンで包丁でも買って、人の多いところで腹を割いて、盛大に内蔵でもぶちまけてやろう。車に轢かれるもいい。首を吊るのは難しいから、飛び降りなら。しかし出来そうな建物が周囲には見当たらなかった。
となるとやはり、車に轢かれるのが手っ取り早い。
都合よく、あてなく歩いていた先で青葉通りにぶつかった。人通りこそ閑散としているが、ここは車がかなり頻繁に行き交っている。歩道の通行人にチラチラと見られながら一人呆然と立ち尽くして、俺は道路を見ていた。
このまま真っすぐ歩けば、やっと死ぬことができる。
全身の毛が逆立って、心臓の脈が早まっていくのを感じた。
……。
しかし、俺の足は動こうとしなかった。
彼女のことが、頭から離れなかったからだ。
「死んでほしくない」なんて、他人から言われたのは初めてだった。それにその言葉は、あのとき死んだ友人に一番言ってやりたかった言葉だった。
ピピピ——ピピピ——、ポケットの携帯が鳴る。
取り出すと、携帯のアラームには『育英優勝』とラベリングされていたアラーム。
そうだ、仙台育英と慶應義塾高校の試合が終わる頃を狙ってセットしておいたんだ。長引いていることも加味して多少早めに設定していたが、大体の結果は分かるだろう。
Twitterで検索してみると、試合結果が更新されていた。
「……え」
育英は決勝で負けて、準優勝だった。
結果は二対八。言葉を選ばずともボロ負けだ。これじゃ号外にはならないし、駅前に人も集まらないだろう。
続けて携帯の通知が鳴る。確認するとTwitterからで、名前の所に『オカ』と表示されていた。
『あと少ししたら、仙台駅前で』
もう一度、道路の方を見る。
先ほどのような高揚は、もう何処にも残っていなかった。
引き返して仙台駅のペデストリアンデッキの上まで出ると、帰宅ラッシュで人通りが多くなっていた。その人ごみの中、少し道幅が広くなっているところに彼女の姿を見つけた。彼女の居る方へ近づくにつれて、一定のリズム旋律を伴った声が日の傾きだした仙台駅の往来から聞こえてくる。
彼女は歌っていた。手に新品のハサミを持って。
バッグが開けられているから、最初からずっと持っていたのだろう。
周囲の人たちはそれをパフォーマンスだと思っているのか、なんの疑問も抱かず、マイクもアンプも楽器も持たずに歌う彼女にパラパラと手拍子を送っていた。
彼女の歌声は、歌手を目指していただけあってか、素人の俺が聞いても上手いと分かった。野外で歌っていることや、通行人や車の騒めきで音が吸われてしまっているにも関わらず、その声は力強く、また透き通るように俺の耳に届いていた。
彼女の周りには、人だかりが出来ている。
彼女はこちらに気付くと、先ほど見せたような歪んだ顔で笑った。それはただの笑みかもしれないが、これが終わったら死ぬつもりだという意味を確かに孕んでいた。
沢山の人の前で死にたい。
きっと今、彼女と一緒に死ねたなら、その願いが叶うかもしれない。俺を置いて死んでいった友人の気持ちが、少しでも分かるかも知れない。
けれど、目の前の彼女に死んでほしくないと、俺の心はそういう本音を漏らしていた。
一歩、二歩、十歩ほど踏み出して、並ぶ。
そして上から被せるように、俺も彼女の歌を歌った。
彼女は一瞬だけ驚いたような顔を見せて、それでも歌をやめる訳にはいかないのか、何とか軌道修正をしながら歌い続けた。俺はそもそも彼女の歌っている曲なんて知らないから、出鱈目に彼女の歌に被せながら歌った。
お陰で息も調子も合っていない、不格好で聞くに堪えない歌唱になっていた。けど、これでいい。仙台駅の夕景に消えていくへたくそなデュエットは、一人、また一人と客足を遠のかせていった。
やがて、俺たちの前に誰もいなくなると、俺は彼女が手に持っていたハサミを静かに取り上げた。特に何の抵抗もなく、ハサミはスルりと彼女の手を抜けて、俺の手に収まる。
彼女はというと、暫く俺の方をただじっと見つめていた。その目には諦めが浮かんでいて、俺は胸を撫でおろす。
数秒後に、俺は人生で初めて女性から平手打ちを食らった。
俺たちは、駅前の木が植わっている段差に揃って腰かけていた。夕日はすっかり空を赤く染めて、夜空が後を追うように顔を覗かせ始めている。
「うち、両親いないんです。二人とも事故で死んじゃって、親戚もいなかったし、その時十八で、学校も卒業してて」
「……歌手を辞めたっていうのは」
彼女はこくりと小さく頷いた。
「バイトして家賃払って、就活もしましたけどそれもダメで。路上ライブを続けていけなくなって、小関さんに助けてもらったのもその頃でした」
それから彼女は話さなくなった。八月の暖かい風が、じっとりと俺たちの間を吹き抜けていく。俺は一度深呼吸をして、それからゆっくりと口を開いた。
「友達がいたんだ。多分、家族と同じくらい大切な人が」
思えば、こんな話を誰かにするのはこれが初めてだった。
「とにかく聡くて、賢い奴だった。あいつになら何でも話していいような気がして、実際なんでも話してた。とにかくあいつの言うことは全部に芯が通ってて、何度か救われたことすらあったんだ。おれはあいつが学校の先生になりたいことも知ってたし、あいつはちゃんとその夢を叶えてた。お互い忙しくなって、会話が減っても連絡は取るようにしてて、だから、悩みも、ぜん、ぜんぶ、知ってるきがして……」
上手く息が吸えなくて、俺はそれから三分ほど嗚咽した。
「あいつの正しさがその学校でどんなふうに扱われてたのか、おれは知らなかった。いじめられていた生徒を助けるために……あいつは他の教師を敵に回して……そんなことしなければあいつは……あいつは自分の正しさにころされて……そんなことが表に出ないまま、あいつをころした学校は甲子園で優勝したんだ」
いままで生きてきて、人に何かを話すことがこんなに難しいことはなかった。
それから暫く、落ち着くまで俺と彼女は他愛のないことを話した。俺をストーキングしていた時の話も聞いたし、彼女の名前が「オカダアスミ」だということも今更知った。十分ほど話して、呼吸も落ち着いたとき、
「また、死にたくなるかもしれない」
そう口をついて出た言葉に自分でも驚いた。何故かと言うとそれが紛れもない本心だったからだ。彼女は俺の顔を覗き込んで、すぐに前を向いた。
「けど今はあんまり死ぬつもり、なさそうじゃないですか」
どうやら俺の目はくすんでいるらしい。彼女は本当に自殺したい人間を見分けることが出来るようだった。
「それは、君もじゃない」
「間違いないです」
俺は先ほど彼女から取り上げたハサミを彼女の腰にあてがって、ポケットから取り出したハンカチを上からそっと被せた。
「なんか飲みに行こうか、新しいヨドバシの一階が飲み屋になってるらしい」
「良いですけど、わたしギリ二十歳じゃないですよ」
会話を途切れさせないようにしながら、東へ向かって歩き出す。
この先も、もしかしたら死にたくなるかもしれない。その時死ねたら、多分それが死ぬべき時なんだろう。もしも向こうで親友に会えたら、この話をしたい。きっとそれが冥土の土産なんだと思う。
通勤ラッシュがピークを迎えて、すっかり騒がしくなったペデストリアンデッキ。
二〇二三年の八月。仙台の街で自死を願った二人の命が、この世に命を留めた。
二人だけが。
バン。
歩き出した俺たちの後ろで、何かがぶつかった鈍い音と、遅れて悲鳴がこだました。
振り返ると、デッキの一階下がったところ、車の行き交う道路の辺りで人だかりが出来ていた。フロントガラスの割れた軽自動車の先には、血を流して倒れ込む老人の姿。
状況が全く理解できなかった。
見たところ、車が大きく進路を外れた形跡は無く、歩道と車道の間にはフェンスが建て付けてある。まず事故ではないことが見てとれた。そればかりか、これじゃまるで。
慌てて携帯を取り出すと、時刻は午後六時半。
それは紛れもなく、当初『オカ』と待ち合わせをしていたはずの時間だった。
「嘘をついてごめんなさい」
隣を見ると、同じくデッキの上から事故の様子を見下ろしている彼女がいた。
「私、実は『オカ』じゃないんです」
今年完成したばかりと話題になっていたヨドバシカメラを正面から望む。実に五年ぶりの仙台は何も変わっていないような面をして、いざ帰ってみると何もかもが違っていた。
「すげえ……」
「ここ、本当に大きいですね。なにか買いたいものでも?」
「いや、何も。死ぬ前に一回見ておこうと思って」
すっかり圧倒されている俺の腰には、拳銃を突き付けられている。
俺は、いま自分の隣にいる夏らしく涼しげな装いの女性のことを何も知らなかった。
なぜ、こんなことになっているのか。正直なところ俺にも分からない。彼女とはここへ来る新幹線の車内で出会った。彼女の隣へ座る際に持っていた鞄を落としてしまい、それを彼女に拾って貰ったときの「ありがとうございます」が、俺と彼女の最初の会話だった。この時は、ただ仙台に着くまで隣で座っているだけの人。本当にそれだけの認識のはずだった。
しかし、福島を越えた辺りで事情が変わった。
「静かに、これは拳銃です。撃たれたくなければ私の言うことを聞いてください」
「は、はあ」
突然のことで、何をされたかすら理解するのに時間がかかった。ゆっくりと腰元の方に目を遣ると、確かに何かを当てられている。布で隠されているが服越しには銃口のようなものを感じ取ることが出来た。
多少驚きはしたが、あまり怖くはなかった。
何故なら、俺は仙台に着いたら自死を計ろうとしていたからだ。
理由は単純。去年の夏、育英が優勝したから。
だからここで脅迫に背いて殺されても、俺にとっては寧ろ好都合だった。ただ一つだけ面倒なことがあって、俺はある人と一緒に死のうという約束をしていた。ここで死んでもいいのだが、約束を反故にするというのは何というか心持ちが悪い。
そもそも、こうして俺に凶器を突き付けてまで何がしたいのか分からなかった。銀行強盗の人質にでもするつもりなのだろうか。と思ったが、俺ではいささか役不足。死にたい俺はみずから撃たれに行ってしまう。
申し訳ないが他をあたって貰おう。もし断って激昂されても、その銃の引き金を引いてくれるなら結果オーライだ。そう考えて、お断りの言葉を口の中で用意していると
「あの。あなた、自殺するつもりですよね」
その瞬間、俺が用意していた「他をあたってください」はどこかへ消し飛んでいた。
なぜ、目の前の少女が自殺のことを知っているのか分からなかった。彼女が言うには、鞄を拾ったときに気付いたらしい。
「落とした鞄がスカスカなのと、やけに澄んだ目が不釣り合いでした」
「それだけで分かるものですか」
「実際当たってるでしょう?」
彼女は得意げに微笑んで見せた。占いでもなんでも、自分のことを言い当てられると背筋がゾワりとしてしまう。
けれど、良いのだろうか。命を絶とうとしている人間に向かって拳銃を突き付けた所で、何の強制力もない。取引としては無理筋なはずだ。
そんな俺に何を要求するのか、もしかしたら「ここで自爆しろ」みたいなとんでもない注文ではないかとつい身構えてしまった。しかし彼女の口から出てきたのは、
「私が行きたいと言ったところに連れて行ってください。わかり易く言えば、あなたは私専属の仙台観光ガイドです」
それは何の衒いもない、まさしく『お願い』そのものだった。
普段の俺なら、もとい今すぐにでも死にたい俺なら断っていたかもしれない。
こんなの、子供のお守りとなんら変わらない。ガイドなら別で雇えば良いだけだ。
しかし、彼女が銃を向けるという手段をとってまで、なぜ俺に脅迫をしたのか。興味が湧いてきてしまった。幸いなことにまだ約束までは時間がある。
これで何か面白いものが見れるなら、死んだ友人に笑って話せるかもしれない。これぞまさしく冥土の土産。
ヨドバシの荘厳さに一通り満足して、どこから案内しようかと辺りを見回してみる。
相変わらず俺の腰には拳銃があてがわれているが、これだけ人が居てよくバレれないものだ。日本人というのはここまで平和ボケした民族だったのだろうか。
「お兄さん、あれ」
彼女が指さした先、花が植わっている石のベンチでは、大きな円盤のようなものを叩いている男性が、路上ライブをしていた。地面に置かれたスケッチブックには「ハンドパンマン」と書かれている。
「新宿駅の前みたいですね」
彼女の言葉に、確かに。と頷いてしまう。俺も通勤の合間に新宿駅を通る際、よく見かけたものだ。まあ、仕事は辞めたしいまから死ぬ予定の俺には関係のないことだが。
「東口なんかは、たまに歌ってる人もいたな」
「へぇー。あ、そういえばわたし、昔歌手になりたくて路上ライブしてたことあるんですよ」
「ああ、確かになんかやってそう」
「もしかして馬鹿にしてます? まあもう辞めちゃったんですけどねー」
少女の声は心なしか弾んでいるようにも沈んでいるようにも聞こえた。それは俺も同じで、路上ライブにはあまりいい記憶がない。
彼女は演奏の間隙を縫って、演奏者に「良い演奏でした! 応援してます」と言ってこちらへ戻ってきた。演奏者の人が深々とお辞儀をしたものだから、彼女の隣にいる俺もつられて礼を返す。すごく単純に、律儀なんだなと思った。
「さて、次はどこへ行きましょうかっ」
「決めてなかったのか。俺も仙台は久しぶりだし、案内できるかわからんのだが」
「そうですね。じゃあ、なんか仙台っぽいもので」
そう言われても困る。最後にこの街を歩いたのはもう七年も前のことだし、商店街に入っているテナントもすっかり変わってしまっている。何より、これは東北の中心地であることの弊害か「仙台っぽいもの」というのは案外少ないが……。
最初に思い浮かんで向かったのは、蒲鉾(かまぼこ)店だった。
店の前は平日にもかかわらず意外と人が溜まっている。レジと思わしき場所からは列が伸びているくらいの賑わいだった。
「瓢箪(ひょうたん)揚(あ)げが有名なんだ」
「へぇ、牛タンしか知らなかったです。よく食べてたんですか?」
「いや、牛タンとこれは仙台の人ほど食べない」
列は予想よりも早く進み、さほど待つことなく買うことが出来た。店から出て、一度手を合わせるポーズをとってから、いかにも瓢箪の形をした揚げ物にかぶりつく。アメリカンドックのような衣の裏から顔を覗かせる、蒲鉾の弾力。いままで食べたことなんて殆どなかったのに、懐かしい感じを覚えてしまった。最後に食べたのはいつだっただろうか。
「あの、お兄さんは」
「小関(おぜき)でいい」
「小関、さんは、どうしてその」
「ああ、自殺?」
瓢箪の上の部分を咀嚼しながら、少女はこくりと頷いた。
「……Twitterで」
一週間前。自殺の決心がつく前に、少しだけ自分と同じような人の心境が気になって、Twitter(もう新しい名前がだいぶ定着しているが俺は大衆への反抗心でそう呼んでいる)を徘徊していた時に、自殺という文言で検索を掛けたことがあった。
検索結果の最上位には自殺防止センターの電話番号が表示されていたが、無視をした。
何度か画面をスワイプして、アイコンと文字の羅列を眺めていても、自殺したいと感じる人に対する憐憫や軽蔑が、世論として多いということを知るだけだったのだが。
その中に一つだけ、
『自殺したいと思っています』
というつぶやきを見かけた。
何の変哲もないただの文章。しかし俺はその簡潔な一文に妙な真実味を覚えていた。
つい出来心、だったのかも知れない。次の瞬間には、俺はスマホに添えていた指を滑らせてリプライを送っていた。
『初めまして。良ければ一緒に自殺しませんか』
その後何度かリプライだけでやり取りをして、俺の地元の仙台で決行しようという話に落ち着いた。集合時間は午後六時半、場所は分かりやすく仙台駅のステンドグラス前にした。何を使って、どうやって自殺するのかは決めていない。ただ、俺からは一つだけ「出来るだけ大勢の前で自殺したい」と注文をつけた。理由は今年も育英が優勝しそうだからだ。相手について知っているのは『オカ』というユーザーネームのみ。
横断歩道の信号が変わるのを待ちながら、瓢箪揚げを完食した少女は俺の話を黙々と聞いていた。
「なんでそんなに死にたいんですか」
「育英が今年も優勝しそうだから」
「あの、脅迫されてること忘れてないですよね?」
拳銃の銃口がグッと腰に押し付けられる。ふざけていると思われたのだろうか。信号が変わって、人の群れが一斉に動き出した。
「あっ。そういえばわたし、国分町? に行ってみたいです。なんか有名みたいですし」
「ああ、ブンチョーね。まあ確かに有名だけど」
「けど?」
「この時間帯は行っても多分面白くない、夕方じゃないし、ハッピーアワーにもまだ早い」
国分町というのは仙台の中では有名な歓楽街で、夜になると飲み屋のキャッチやネオンの光で賑わう一帯のことを指している。業界用語風に言うと『ブンチョ―』。しかし、まだ日が出ているこの時間帯ではほとんど店は閉まっているはずだ。それに、
「あんまり駅から離れると都合が悪いから、出来れば近場だと助かる」
「そう、ですか」
銃口を当てる力が、少しだけ強くなった気がした。
歩き疲れた。と彼女に言われたので、俺たちは一旦大町通り沿いにあるヴェローチェへ入ることにした。俺はコーヒーを、彼女は元気な声でソイラテを注文して、木造を模した壁紙が貼られている店内の隅っこに座った。
「はぁー、疲れた」
座り込む彼女の表情は、言葉とは裏腹に満足そうだった。
「あの、」
「なんでしょう」
「なんで隣に座ってる」
彼女はテーブルを挟んだ向かい側の椅子——ではなく、長いソファーに俺と並んで座っていた。まあ理由は簡単で、俺の横腹に銃を当てるためだろう。拳銃は相変わらずペイズリー柄の布で覆われていて、その全貌は推測することしか出来ない。彼女は表情を変えないまま、「知ってるくせに」と言ってソイラテを啜った。
「ありがとうございます、わたしのわがままに付き合ってもらって」
閑散とした喫茶店の中で、彼女はポソりと呟くように切り出した。
「いえいえ、もう死ぬ身なので。それに脅迫されてる身でもあるわけだし」
「あの、一つ聞いても良いですか?」
一体なんだ、と首だけで返事をした。
「駅から離れると都合が悪いっていうのは」
「え? ああ、約束があるんだ、一緒に死のうっていう」
我ながら可笑しな約束だと思う。隣を見ると、ソイラテを傾けたまま、彼女は何もないところを見つめていた。
「その約束、本当に行かないとだめですかね」
背景の音が、まるでスピーカーのしぼりを捻ったように大きくなったような気がした。
俺は、その質問にすぐ答えることが出来なかった。意図が分からなかったからだ。
「……まあ、決めたことだから」
コーヒーを呷る。
彼女の顔を目の端で窺うと、また少しだけ寂しそうな顔をしていた。
暫しの沈黙が俺たちの周りを包んで、時間の進むスピードが少しだけ遅くなった感覚に襲われる。
「すみません、少しお手洗いへ行ってきてもいいでしょうか」
彼女はそう言って席を立った。「構いませんよ」と言った俺に「わたしが戻るまで絶対、絶対に動かないで下さいねっ」と念を推してきたのだが、説得力がまるでなくてまた少し可笑しくなる。
騒がしいのがいなくなって、妙な緊張から解き放たれたような気がした。凝りをほぐすように肩と首を回していると、俺たちの席の隣、紅茶の入ったカップを口に付けている老人と目が合った。本当にたまたま、一瞬だけ。
「元気の良さそうなお嬢さんですね」
すぐに視線を外したのに、まさか話しかけられるとは思っていなくて、失礼にもビクッと肩で反応してしまった。
「え、あ、はい。そうですね」
何と言ったらいいか分からなくて、判然としない答えを返した。
「デートですか?」
「いえ、そんなんではないです」
「そうでしたか。じゃれ合っていて、とてもお似合いなのに」
じゃれ合い。傍から見れば俺たちはそう見えるのだろうか。
「えっと。それは、どういう」
発言の意図を汲み取れずにいると、老人は自分の腰をトントンと、指でつついた。
「なにか、腰に当てられてませんでしたか」
背筋が凍る。
「なんのことですか」
「気のせいでしたかな。店に入った時から腰になにか黒いものを、ずっと」
まずい、拳銃を見られていた。思えば当たり前のような気もするけれど、完全に気を抜いてしまっていた。脅迫がバレるのは構わないが、もしもそれが騒ぎになって、警察などに保護されるようなことがあったら最悪俺が死ねなくなる。そうなるのは、本当に困る。
「えっと、あれはペットボトルですよ。コーラの入ったペットボトル」
取っ手付けたような嘘が、口をついて出た。
老人は口元の顎髭に手を当てて、少しばかり訝しんだ後、
「そうですか、ならいいんですけども」
とだけ言った。
「この年になると妄想が地に足着かなくなってしまうものなので、気になさらないでください」
表情には出さないが、ひとまず安堵を覚える。
「しかし、今日はいい天気ですね。何をするにも、本当に良い日だ」
この老人と話すのは、少し危ない気がする。もしかしたら、歳でおかしくなってしまったのかも知れない。心拍数が少しだけ上がった感触がした。
「お待たせしました。おや、まだちゃんと居ますね」
そのすぐ後に彼女が戻って来たので、「もう、出よう」と短く告げて、俺は彼女の手を取って店を出ることにした。
来た道を戻って、仙台駅の方を目指す。
こんなことをしている場合ではなかった。
「小関さん」
彼女に付き合っている場合でも、彼女の願いを叶えてやる道理もなかったのに。
「小関さん」
思い出せ。俺は死ぬためにここへ来たんだ。それ以外の事なんて背負う必要すらない。
「小関さんっ」
強く名前を呼ばれて立ち止まる。懐かしい顔を、思い出すところだった。
「手、離してください」
言われて、自分がずっと彼女の手を握っていたことにハッとした。慌てて放すと、彼女は自分の手首を撫でながら、「いきなりどうしたんですか」と訝しむ目でこちらを見た。
「俺は駅に戻る。案内はここまでだ」
そう言って駅の方へ歩き出そうとすると、今度は逆に彼女に腕を掴まれた。
「いやです」
「……離してくれ」
「いや、いきなり戻るとか意味わかんないじゃないですか」
「意味が分からないのは君の方だ!」
俺は腕に力を込めて、彼女の制止を振り払った。
「他人にいきなり銃なんか突き付けて、そうすれば俺が言いなりになると思ったのか?」
「……違います」
「ならアレか? 自殺者を弄んで楽しいのか?」
「……違います」
「じゃあなんなんだよ!」
抑えようと思っていた声が苛立ちで震えていることが自分でもわかった。
「君は、君は一体何がしたいんだ」
「小関さんは、わたしの知っている人だったからっ」
「——は?」
この人は、何を言っているのだろう。
「半年前、路上でライブしてたわたしが、配信者の人に絡まれてて、それを小関さんに助けて頂いたんです。覚えてないかも、しれませんけどっ」
そこまで言われて、ようやく思い出す。そう、半年前。あの頃は新宿を経由して帰ることが多くて、よく駅前の路上ミュージシャンを眺めて帰るのが日課だった。あの時たまたま見かけた誰かは、迷惑系の動画配信者に問い詰められていた。
親友が死んだことで自分を責めていた当時の俺は、頑張っている誰かを晒しものにする行為がどうしても許せなくて、思わず横から彼らの間に割って入ったのだ。酒を入れてしまっていたから、その後どうなったか覚えていないのだが、まあ喧嘩になって負けたんだろう。全身が痛いまま目を覚ましたことを覚えている。あの時は自分を少しでも肯定するために、誰かを肯定したかった。とにかく誰かに優しくしたかったのだ。
「ずっとお礼が言いたかったんです。でも、これから死のうとしてることを知って、まさかやりとりしていたのが小関さんだったなんて思わなくて……止めないとって、思って」
ちょっと待て。
やりとりって、何のことだ。自殺の話をやりとりしていた相手なんて……まさか。
「じゃあ、もしかして。お前が『オカ』なのか?」
俺の言葉に、彼女は驚いたように目を大きく見開いた。それから少し瞑目して、やがて覚悟を決めたように真っ直ぐにこちらを向き、頷いた。
嘘だろ。こいつが『オカ』だなんて。
いや、いやいや。
「おかしいだろ。お前が『オカ』なんだったら、お前は今日、俺と一緒に自殺する筈じゃないのか」
「……。」
「答えろよ!」
「…………相手が小関さんだと知って、事情が変わったんです」
彼女の声音はまるで慎重に言葉を選びながら話すように、重々しいものだった。
「銃を使って脅したのも、わざと駅から離れたところへ行こうと提案したのも、身勝手なことだとは分かってます。騙していて、すみませんでした。あと、これも拳銃なんかじゃありません」
彼女が持っていたのは、コーヒーの入ったペットボトルだった。彼女はそれをこちらに手渡す。ずっと押し当てられていた飲み口の部分が俺の体温で仄かに温かった。
彼女の話は全くもって不自然ではなかった。言うことにも筋が通っている。
しかし、まだ何かが引っかかっていた。
そもそもどうして彼女は俺と同じ新幹線、それも隣の席だったんだ? 集合が六時半で、仙台に早入りなんてする必要はない筈なのに。それに新幹線で話した時点では、俺はまだTwitterで『オカ』と知り合った人物だとは言っていなかった。それなのに、こいつは最初から俺を駅から遠ざけようとしていた。何より、
何故こいつは『オカ』とやりとりしているアカウントを俺だと判断したんだ?
「どうしてお前は、俺が今日『オカ』と自殺することを知っていたんだ」
「それは……」
すると、彼女の様子が突然おかしくなった。
まるで今から重大な秘密を打ち明けるかのように、恥ずかしそうに顔を覆って何度か「ごめんなさい」を繰り返していた。
「その、実はわたし……小関さんに助けて貰ってからずっと……わたし。あなたのことを、その、尾けてて」
何を言われているのか、分からなかった。
再び背筋がゾワりとした感覚に襲われる。
「小関さんが使っているアカウントも、特定してました」
彼女の表情を窺い知ることは出来なかった。しかし、手で覆われていない口の端はほんの少しだけ上がっているような気がした。
「小関さんの住んでるところをアタリをつけて検索してみたら、配信者を叩いてる呟きをしている人がいて、行動範囲を絞ったら見事に見つかりました。育英が嫌いなことも、地元が仙台なこともっ、最初から全部知ってました」
饒舌になっている彼女を、俺はすっかり冷めた目で見る事しか出来なかった。
「君、おかしいよ」
口から漏れ出た端的な言葉は、アーケードの雑踏や往来の人たちの声ですぐにかき消されてしまった。
「じゃあ、行くから。もう邪魔すんな」
俺がアーケードの出口を抜けようと歩き出すと、彼女は進行方向に回り込んで、深々と頭を下げながら声を張り上げた。
「死なないでくださいっ、お願いします! わたしを助けてくれた小関さんには、死んでほしくないんですっ!」
彼女の深々と下げられた頭を、俺は一瞥もせずに素通りした。
腹が立っていた。まるで自分の決意を弄ばれてるみたいで、とにかく苛立たしかった。
何に怒っているのかも、よく分からない。彼女が『オカ』だったことなのか、彼女が俺をストーカーしていたことなのか、一緒に死ぬと思っていた彼女が、俺が死ぬのを邪魔していたことなのか。
いや、そんなことはいい。彼女のことはもう忘れよう。死ぬと決めていたのに、道楽に付き合ってしまったのが良くなかった。
今すぐにでも、ここでもう死んでしまおう。
すぐそこのイオンで包丁でも買って、人の多いところで腹を割いて、盛大に内蔵でもぶちまけてやろう。車に轢かれるもいい。首を吊るのは難しいから、飛び降りなら。しかし出来そうな建物が周囲には見当たらなかった。
となるとやはり、車に轢かれるのが手っ取り早い。
都合よく、あてなく歩いていた先で青葉通りにぶつかった。人通りこそ閑散としているが、ここは車がかなり頻繁に行き交っている。歩道の通行人にチラチラと見られながら一人呆然と立ち尽くして、俺は道路を見ていた。
このまま真っすぐ歩けば、やっと死ぬことができる。
全身の毛が逆立って、心臓の脈が早まっていくのを感じた。
……。
しかし、俺の足は動こうとしなかった。
彼女のことが、頭から離れなかったからだ。
「死んでほしくない」なんて、他人から言われたのは初めてだった。それにその言葉は、あのとき死んだ友人に一番言ってやりたかった言葉だった。
ピピピ——ピピピ——、ポケットの携帯が鳴る。
取り出すと、携帯のアラームには『育英優勝』とラベリングされていたアラーム。
そうだ、仙台育英と慶應義塾高校の試合が終わる頃を狙ってセットしておいたんだ。長引いていることも加味して多少早めに設定していたが、大体の結果は分かるだろう。
Twitterで検索してみると、試合結果が更新されていた。
「……え」
育英は決勝で負けて、準優勝だった。
結果は二対八。言葉を選ばずともボロ負けだ。これじゃ号外にはならないし、駅前に人も集まらないだろう。
続けて携帯の通知が鳴る。確認するとTwitterからで、名前の所に『オカ』と表示されていた。
『あと少ししたら、仙台駅前で』
もう一度、道路の方を見る。
先ほどのような高揚は、もう何処にも残っていなかった。
引き返して仙台駅のペデストリアンデッキの上まで出ると、帰宅ラッシュで人通りが多くなっていた。その人ごみの中、少し道幅が広くなっているところに彼女の姿を見つけた。彼女の居る方へ近づくにつれて、一定のリズム旋律を伴った声が日の傾きだした仙台駅の往来から聞こえてくる。
彼女は歌っていた。手に新品のハサミを持って。
バッグが開けられているから、最初からずっと持っていたのだろう。
周囲の人たちはそれをパフォーマンスだと思っているのか、なんの疑問も抱かず、マイクもアンプも楽器も持たずに歌う彼女にパラパラと手拍子を送っていた。
彼女の歌声は、歌手を目指していただけあってか、素人の俺が聞いても上手いと分かった。野外で歌っていることや、通行人や車の騒めきで音が吸われてしまっているにも関わらず、その声は力強く、また透き通るように俺の耳に届いていた。
彼女の周りには、人だかりが出来ている。
彼女はこちらに気付くと、先ほど見せたような歪んだ顔で笑った。それはただの笑みかもしれないが、これが終わったら死ぬつもりだという意味を確かに孕んでいた。
沢山の人の前で死にたい。
きっと今、彼女と一緒に死ねたなら、その願いが叶うかもしれない。俺を置いて死んでいった友人の気持ちが、少しでも分かるかも知れない。
けれど、目の前の彼女に死んでほしくないと、俺の心はそういう本音を漏らしていた。
一歩、二歩、十歩ほど踏み出して、並ぶ。
そして上から被せるように、俺も彼女の歌を歌った。
彼女は一瞬だけ驚いたような顔を見せて、それでも歌をやめる訳にはいかないのか、何とか軌道修正をしながら歌い続けた。俺はそもそも彼女の歌っている曲なんて知らないから、出鱈目に彼女の歌に被せながら歌った。
お陰で息も調子も合っていない、不格好で聞くに堪えない歌唱になっていた。けど、これでいい。仙台駅の夕景に消えていくへたくそなデュエットは、一人、また一人と客足を遠のかせていった。
やがて、俺たちの前に誰もいなくなると、俺は彼女が手に持っていたハサミを静かに取り上げた。特に何の抵抗もなく、ハサミはスルりと彼女の手を抜けて、俺の手に収まる。
彼女はというと、暫く俺の方をただじっと見つめていた。その目には諦めが浮かんでいて、俺は胸を撫でおろす。
数秒後に、俺は人生で初めて女性から平手打ちを食らった。
俺たちは、駅前の木が植わっている段差に揃って腰かけていた。夕日はすっかり空を赤く染めて、夜空が後を追うように顔を覗かせ始めている。
「うち、両親いないんです。二人とも事故で死んじゃって、親戚もいなかったし、その時十八で、学校も卒業してて」
「……歌手を辞めたっていうのは」
彼女はこくりと小さく頷いた。
「バイトして家賃払って、就活もしましたけどそれもダメで。路上ライブを続けていけなくなって、小関さんに助けてもらったのもその頃でした」
それから彼女は話さなくなった。八月の暖かい風が、じっとりと俺たちの間を吹き抜けていく。俺は一度深呼吸をして、それからゆっくりと口を開いた。
「友達がいたんだ。多分、家族と同じくらい大切な人が」
思えば、こんな話を誰かにするのはこれが初めてだった。
「とにかく聡くて、賢い奴だった。あいつになら何でも話していいような気がして、実際なんでも話してた。とにかくあいつの言うことは全部に芯が通ってて、何度か救われたことすらあったんだ。おれはあいつが学校の先生になりたいことも知ってたし、あいつはちゃんとその夢を叶えてた。お互い忙しくなって、会話が減っても連絡は取るようにしてて、だから、悩みも、ぜん、ぜんぶ、知ってるきがして……」
上手く息が吸えなくて、俺はそれから三分ほど嗚咽した。
「あいつの正しさがその学校でどんなふうに扱われてたのか、おれは知らなかった。いじめられていた生徒を助けるために……あいつは他の教師を敵に回して……そんなことしなければあいつは……あいつは自分の正しさにころされて……そんなことが表に出ないまま、あいつをころした学校は甲子園で優勝したんだ」
いままで生きてきて、人に何かを話すことがこんなに難しいことはなかった。
それから暫く、落ち着くまで俺と彼女は他愛のないことを話した。俺をストーキングしていた時の話も聞いたし、彼女の名前が「オカダアスミ」だということも今更知った。十分ほど話して、呼吸も落ち着いたとき、
「また、死にたくなるかもしれない」
そう口をついて出た言葉に自分でも驚いた。何故かと言うとそれが紛れもない本心だったからだ。彼女は俺の顔を覗き込んで、すぐに前を向いた。
「けど今はあんまり死ぬつもり、なさそうじゃないですか」
どうやら俺の目はくすんでいるらしい。彼女は本当に自殺したい人間を見分けることが出来るようだった。
「それは、君もじゃない」
「間違いないです」
俺は先ほど彼女から取り上げたハサミを彼女の腰にあてがって、ポケットから取り出したハンカチを上からそっと被せた。
「なんか飲みに行こうか、新しいヨドバシの一階が飲み屋になってるらしい」
「良いですけど、わたしギリ二十歳じゃないですよ」
会話を途切れさせないようにしながら、東へ向かって歩き出す。
この先も、もしかしたら死にたくなるかもしれない。その時死ねたら、多分それが死ぬべき時なんだろう。もしも向こうで親友に会えたら、この話をしたい。きっとそれが冥土の土産なんだと思う。
通勤ラッシュがピークを迎えて、すっかり騒がしくなったペデストリアンデッキ。
二〇二三年の八月。仙台の街で自死を願った二人の命が、この世に命を留めた。
二人だけが。
バン。
歩き出した俺たちの後ろで、何かがぶつかった鈍い音と、遅れて悲鳴がこだました。
振り返ると、デッキの一階下がったところ、車の行き交う道路の辺りで人だかりが出来ていた。フロントガラスの割れた軽自動車の先には、血を流して倒れ込む老人の姿。
状況が全く理解できなかった。
見たところ、車が大きく進路を外れた形跡は無く、歩道と車道の間にはフェンスが建て付けてある。まず事故ではないことが見てとれた。そればかりか、これじゃまるで。
慌てて携帯を取り出すと、時刻は午後六時半。
それは紛れもなく、当初『オカ』と待ち合わせをしていたはずの時間だった。
「嘘をついてごめんなさい」
隣を見ると、同じくデッキの上から事故の様子を見下ろしている彼女がいた。
「私、実は『オカ』じゃないんです」