薄い長袖が丁度良い気温が、毎日続くようになってきた。生ぬるい風も不快には思わず、もうすぐやってくる梅雨を予感させた。
もう一時間くらい歩いただろうか。この町で一番大きな村上さんの家が見えてくる。やっと半分だ。あの角を曲がると、唐突に、不自然に穴が空いた地面がある。前を歩く七歳三人組に声をかけた。
「もうすぐ穴があるから気をつけてね、みんな。前の人にぴったりくっついて歩くのよ」
「「はーい」」
「美代子お姉さんも敏子にくっついて歩いてね!」
「うん、ありがとね敏子ちゃん」
敏子の肩にぽんと手で触れて、若干空いてしまった、前を歩く大人たちとの隙間を埋めようと軽く押してあげた。
この間、嵐の如くやってきたアメリカの飛行機によって空けられたその穴には、昨日降った雨で茶色く濁った水たまりができていた。
空襲って、隕石が降ってくるようなものだと思ってた。無差別で、どうしようもないもので、受け入れることしかできない厄災。
でも、大きな建物や兵隊さんの武器を作る工場が崩壊しているのを見て、その隕石は、人の手によって作られた爆弾で、敵が同じ人間であることを私は初めて理解した。
本当なら、今頃立派な紫陽花が咲いていたはずの村上さんのお庭。
あの日、焼け跡の野次馬に、母に連れられて私はここに来た。その時に村上の奥様が母に、とにかく死ななくてよかったと言っていた。広くて手入れされていたお庭は、花の気配など残っていなかった。
私は、この家の紫陽花が好きだった。
父が毎日家に帰ってきていた頃、この時期になると散歩の道をいつもと変えて、一緒に紫陽花を眺めに行った。
星が仲良く集まっているみたいなきらきらとした蕾や、ひとつずつ花開いていく過程。空よりも海よりも青く、繊細な彩りを魅せるこの花の変化を父と二人で毎日見守っていた。
父も、この家の紫陽花が好きだった。
でも今は、私たちの散歩道を父とではなく、隣組の皆さんと一緒に歩いている。
「歩こう会」なんて言って、みんなで歩いてお国のために、いざという時のために体力をつける取り組みらしい。たった七歳の子供たちも、年齢など関係なく二時間ほど毎日歩いている。体の大きな和男くんは、時折歩きたくないと駄々をこねる誠くんを引っ張りながら。敏子ちゃんは、七歳歳年上の私の手を握りながら。懸命に大人について行こうとする。
父が出発した日から顔色が悪かった母は昨夜ついに熱を出した。いつも列の一番後ろで国旗を持って歩く担当の母の代わりに、今日は私がそれを肩に担いで歩いている。
柄杓ほどの長さの棒の先で揺らめく日の丸が風でたまに顔を覆ってきて、邪魔だった。
「俺の兄ちゃん、今度兵隊さんになるんだぜ」
二人よりも一歩前に出て後ろを振り返りながら、和男くんが言った。どこか誇らしげな表情をしている。二人も、そうなの! と食いつきがよかった。
「俺も早く大きくなって、兄ちゃんみたいに兵隊さんになりたい! そんで、米兵を駆逐するんだ!」
「僕らが大きくなる頃までにこんな戦争終わってないと嫌だなぁ」
「そうよそうよ」
「それはそうだけど……」
和男くんは、何か言いたげな、少しムッとした顔で前に向き直った。
「早くアメリカに勝って、日本にないお菓子をアメリカ人に作ってほしいなぁ~」
そう言って、敏子ちゃんはお父さんが東京に行った時にもらって帰ってきたという穴の空いた、丸がいっぱい重なった甘いお菓子の話をしてくれた。
三人のお喋りを聞きながらだと、いつもよりかは足取りが軽いことに気がついた。学年が大きい順から大人に着いていくから、私はいつも大人のすぐ後ろを歩いている。お母さんが羨ましくなった。
これからも、この子たちと一緒に歩けばこの馬鹿馬鹿しくて無駄な時間が有意義になるのに。
そもそも、この間みたいにいつ空襲が来るかわからないのに、呑気に外を二時間も歩いている場合じゃないでしょう。
空襲があった次の日から「いざという日は近いかもしれない」「もっと体力をつけてお国のために働けるようにしなければ」という声は大きくなった。どの組の大人たちも張り切ってるって学校のみんなも言っていた。
母にも言った。こんなの無駄だし疲れるだけだって。母は、「二度とそんな事を言ったらいけません」と怒っていた。汚いものを見るような目だった。
「あるけあるーけあーるけあるけ」
道が下り坂になり、もうすぐ私たちの家が見えてくる。今日の会ももうすぐ終わるという喜びからなのか、いつもここら辺から大人たちは歌い出す。前の方につられて、三人組も声を合わせた。
傾きかけた太陽の光に小さな虫が群がる時間。他の組はもう帰宅が済んだのか、それぞれの家から夕飯の支度をしているのであろう、味噌の香りが時折漏れ出てきている。
「お腹すいたなぁ」
敏子ちゃんが、風で飛んでいってしまいそうなほど薄い腹をさすりながら言った。
「もう少しでおうちに着くわよ。頑張ろう」
「兵隊さんになったら、豪華なご飯が食べられるんだぜ」
和男くんが、兄のことを自慢する時と同じ顔で言った。
「そうなの? どんな?」
「肉とかじゃないか? 新聞に書いてあったってにいちゃんが言ってたんだよ。やっぱり俺兵隊さんに……」
「そんなわけないだろ。僕の親戚のお姉さん、この間まで戦地で看護婦さんやってたんだけど、痩せ細って、病気になって帰ってきたぞ」
確か誠くんのご家族に、赤十字の看護婦さんがいるって聞いたことがある。女として、一番直接戦争に関わる人々だと学校の先生が言っていた。
「えー、でも兄ちゃんが、これからは贅沢なご飯が食べられるからって最近俺に米とかくれるんだぜ?」
「和男が食いしん坊なこと知ってるからだろ。それに……」
段々と誠くんの声が大きく、早口になってきた。
「新聞は嘘つきだって、お姉さんが言っ……むぐっ」
私は容赦無く誠くんの口を掌で押さえた。前に恐る恐る視線を向けると、案の定大人達の目は光っていた。誠くんの体を私の方に向けて、目線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
「そういうことは、私にだけ話しなさい。誠くんも、誠くんのお母さんも怒られちゃうんだよ」
誠くんは、両肩に置いてある私の手を払ってから、しおらしくはぁいと返事をくれた。
私だけに話しなさい。私もこの間、父に言われた。歩こう会を母に悪く言った日の夜、寝る前に父が私の部屋を訪ねてきた時のことだった。
「母さんも、少しは美代子と同じ考えかもしれないけどね、大人だから、怒らないといけなかったんだよ。わかるね?」
「はい」
寝るために敷いた布団の上に二人、膝を抱えて座って並ぶ。
「父さん」
私は父の顔を見ずに言った。
「ちゃんと帰ってきてね」
海軍の任務に向かう父を見送るのはもう数えきれないほどになるけれど、戦争を肌で感じることが多くなった今、なんとなく父はもう帰ってこられないのではないかという恐怖が強く心を揺らした。
父は私の肩を抱いて、正面を向いたままの私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫、美代子と母さん二人きりにはしないよ」
部屋の茶色い電気が弱々しくチカチカと光って、私の不安を煽っているように感じた。
「それに、今度の作戦は大きな船四隻で向かうんだ。絶対に勝てるよ。もうおやすみ。あ、この電気、明日家を出る前に直しておいてあげるからね」
そうして、父は出発した。それからの母の顔色の悪さから、口では絶対に言わないけれど、母も父を心配しているのだろう。
「あるけあるーけあーるけあるけ」
少し前まで紫陽花が咲いていたような道。今は彩りがなくなってしまった道を、前で歌いながら歩いている元気な大人達だって、みんな本当は、大切な人を思って辛い気持ちを隠しているのかもしれないと思えば、ほんの少しだけ安心できる気がした。
坂を下り切ってすぐに、私たちの家がある。夕方になると、若干風は冷たい。いつの間にか冷えた手を七歳組の三人に降って、家の扉を開けた。
熱を出している母でも食べられるように、私の分のお米も使ってお粥を作ってあげよう。
「ただいま」
靴を脱いで中に入ると、居間に母が座っていて、おかえりと返ってくる。
『六月五日、金曜日。十八時になりました』
最近よくつけっぱなしになっているラジオが、今日の日付と、現在の時刻を知らせた。