暗く絞られた照明が、カウンターの上を幻想的に浮かび上がらせている。私は氷で薄まったモスコミュールを一口啜って左を向いた。美しい鼻立ちが深い陰影をその顔に描いている。長く心地よい曲線を描くまつ毛にシャンデリアの光の粒が滑べる。私はまた思わず息を止めて彼を見ていた。
彼はロックのジャックダニエルを右手で気だるげに持ち上げ、少し口に含んで静かに置いた。からころと氷の音が寂しい。彼の喉仏がゆっくり上下に動く。私は彼の横顔が好きだったことを思い出す。
「元気にしてた?」
横顔が今も変わらず素敵で、だから私は思わずまたそんなことを口走ってしまう。
「うん、それなりに。」
彼の返事はそっけない。そのそっけなさがまるであの頃のまんまで、たったそれだけのことで、私の胸はきつく縛られたようになってしまう。
私はグラスの底に少しだけ残ったモスコミュールを飲み干した。絶妙な甘さと酸味が喉へと抜けてゆく。モスコミュールは、どんな感情をも爽やかにしてしまうから嫌いだ。全てが透き通ってしまう。
私はバーテンダーにスコッチのロックを頼む。吊り下げられた照明が水晶の結晶のようにきらきら照らすグラスに、ジョニーウォーカーのブラックラベルが注がれる。私は、寂しいのだろうか。
スコッチ特有の酸味感と木由来の芳醇な香りが口に広がる。アルコール感がつんと鼻をついて、温かな塊となって喉奥を流れ落ちる。私はゆっくりと深呼吸して気を落ち着かせる。もう彼を前にしてもビクビクしたくはない。
彼はまたゆっくりとした動作で淡々とジャックダニエルを飲んでいる。バーボンとスコッチの違いくらい、私たちは違っているのだ。
「彼女さんとは、まだ上手くやってるの?」
私はなんの気もないそぶりでそう、聞く。前を向いたまま、一口ウイスキーを口にする。
「いや、別れたよ。」
彼はそう言って、懐からセブンスターを取り出す。なれた手つきで箱の上を軽く叩き、そこから一本を引き抜いて、そっと口に咥える。
「え。別れちゃったの?」
私は口に含んでいたにウイスキーを一気に飲み込んで聞き返した。喉奥が焼けるように熱い。
「うん。」
彼は丁寧な動作でライターをたばこの先に近づけ、火をつけた。さりげなく風除けを作る左手が分厚くて大きかった。私はその手を握った感触を思い出す。少ししっとりしていて、包まれるような触り心地。どこにだって、私を連れ出してくれた手のひら。今はただ、吹いてもいない風を除けるためだけに大きい手のひら。飾り気のない無骨な左の手のひら。
「え、なんで?」
彼はゆっくりと煙を吸って、ゆっくりと吐き出した。灰色の煙はゆらゆらと立ち上って上の暗がりへ消えてゆく。その靄のような静けさが、私は好きだ。
私はずっと、彼のたばこを吸う時の横顔が好きだった。ベランダでひとり寂れた夜景を眺めながら吸っている横顔や、夜の高速道路を運転しながらたばこを片手にするその横顔が、ずっと好きだったのだ。
「俺、もう結婚したくないからさ。」
「うん。」
「それで……、揉めちゃって。」
「そっか。言ってたもんね。」
「うん。」
私はジョニーウォーカーの入ったグラスを持ち上げて軽く揺らした。氷の音がころころと軽やかに響く、その音が鼓膜に心地よかった。
そんなことで別れる彼が、きっと恨めしいんだと思う。この歳になるまで付き合って、結婚しないなんてきっと。でもそんなことを責めて何になるだろう。彼は自由人で、それで。私には今やもう、何にも責める権利などないのだ。
彼がまたゆっくりと煙を吐き出す。煙はふわっと軽やかに浮かんで、目に心地よかった。それで、もうとうの昔になくなったはずの、恋心なんてものがよみがえりそうだった。それは少し怖くもあったが、ひどく甘いものだった。今だけは、そんな心地に浸っていても、きっといい。
私はうっとりした気持ちでたばこを吸う彼の横顔を見つめていた。
「もう誰とも結婚するつもりはない?」
「うん。ずっと。」
「そっか。」
私は少し、ほっとしたような、さびしいような、そんな気持ちを胸に覚えた。思えば私はずっと、彼の横顔ばかり見ていた。ずっと、ずっと、君の横顔ばかり見ていたなぁ。
彼の長いまつ毛が、揺れる煙の中で微かに光ってはくすむ。落ち着きを払った碧い瞳が、照明を静かに映している。その影に、彼の哀しみが宿ったみたいで、けど、私は、その心の裡に気づけなかったんだった。心の底から愛していた日々も、共に暮らした日々でも。
私は、左手の薬指の付け根を軽くさすった。氷の溶けて少し薄くなったウイスキーを、一息に飲む。過ぎ去ったことと、これからのこと。淡く透き通った爽やかな味わいが一気に喉に押し流される感触は、まるできらきらした走馬灯のように、私を熱くさせる。
「ねえ、後悔してない?」
「なにを?」
こちらを静かに見つめる眼差し。それは無色透明で、美しく柔らかだった。
「私と、結婚したこと。」
「いや、全く。」
彼はそう即答して、そして、少し言葉を止めた。その昏く光る眼差しを、たばこの燃えている先に移す。煙は相変わらず、同じ速度で燃え続けている。
「君と会えて本当に良かったよ。いろんな経験をして、いろんな日々の、生活の、意味を知れた。それは頼りないものだったかも知れないけれど、それでも、俺にとって大事なことだったんだ。その、知るってことはさ。」
酔いか照れかでほんの少し桃色に染まっている頬に、私は静かに微笑んだ。不器用に話す言葉に、もうこれで十分だと思った。
彼は残り少なくなったたばこを灰皿に押し付けてそっと火を消す。
「なんかメシでも頼もうか。」
「うん。」
私はグラスに残っていたウイスキーを飲み干した。スモーキーな香りが口の中に広がる。指輪のついていない彼の左手が、バーテンダーを呼ぶために挙がった。
彼はロックのジャックダニエルを右手で気だるげに持ち上げ、少し口に含んで静かに置いた。からころと氷の音が寂しい。彼の喉仏がゆっくり上下に動く。私は彼の横顔が好きだったことを思い出す。
「元気にしてた?」
横顔が今も変わらず素敵で、だから私は思わずまたそんなことを口走ってしまう。
「うん、それなりに。」
彼の返事はそっけない。そのそっけなさがまるであの頃のまんまで、たったそれだけのことで、私の胸はきつく縛られたようになってしまう。
私はグラスの底に少しだけ残ったモスコミュールを飲み干した。絶妙な甘さと酸味が喉へと抜けてゆく。モスコミュールは、どんな感情をも爽やかにしてしまうから嫌いだ。全てが透き通ってしまう。
私はバーテンダーにスコッチのロックを頼む。吊り下げられた照明が水晶の結晶のようにきらきら照らすグラスに、ジョニーウォーカーのブラックラベルが注がれる。私は、寂しいのだろうか。
スコッチ特有の酸味感と木由来の芳醇な香りが口に広がる。アルコール感がつんと鼻をついて、温かな塊となって喉奥を流れ落ちる。私はゆっくりと深呼吸して気を落ち着かせる。もう彼を前にしてもビクビクしたくはない。
彼はまたゆっくりとした動作で淡々とジャックダニエルを飲んでいる。バーボンとスコッチの違いくらい、私たちは違っているのだ。
「彼女さんとは、まだ上手くやってるの?」
私はなんの気もないそぶりでそう、聞く。前を向いたまま、一口ウイスキーを口にする。
「いや、別れたよ。」
彼はそう言って、懐からセブンスターを取り出す。なれた手つきで箱の上を軽く叩き、そこから一本を引き抜いて、そっと口に咥える。
「え。別れちゃったの?」
私は口に含んでいたにウイスキーを一気に飲み込んで聞き返した。喉奥が焼けるように熱い。
「うん。」
彼は丁寧な動作でライターをたばこの先に近づけ、火をつけた。さりげなく風除けを作る左手が分厚くて大きかった。私はその手を握った感触を思い出す。少ししっとりしていて、包まれるような触り心地。どこにだって、私を連れ出してくれた手のひら。今はただ、吹いてもいない風を除けるためだけに大きい手のひら。飾り気のない無骨な左の手のひら。
「え、なんで?」
彼はゆっくりと煙を吸って、ゆっくりと吐き出した。灰色の煙はゆらゆらと立ち上って上の暗がりへ消えてゆく。その靄のような静けさが、私は好きだ。
私はずっと、彼のたばこを吸う時の横顔が好きだった。ベランダでひとり寂れた夜景を眺めながら吸っている横顔や、夜の高速道路を運転しながらたばこを片手にするその横顔が、ずっと好きだったのだ。
「俺、もう結婚したくないからさ。」
「うん。」
「それで……、揉めちゃって。」
「そっか。言ってたもんね。」
「うん。」
私はジョニーウォーカーの入ったグラスを持ち上げて軽く揺らした。氷の音がころころと軽やかに響く、その音が鼓膜に心地よかった。
そんなことで別れる彼が、きっと恨めしいんだと思う。この歳になるまで付き合って、結婚しないなんてきっと。でもそんなことを責めて何になるだろう。彼は自由人で、それで。私には今やもう、何にも責める権利などないのだ。
彼がまたゆっくりと煙を吐き出す。煙はふわっと軽やかに浮かんで、目に心地よかった。それで、もうとうの昔になくなったはずの、恋心なんてものがよみがえりそうだった。それは少し怖くもあったが、ひどく甘いものだった。今だけは、そんな心地に浸っていても、きっといい。
私はうっとりした気持ちでたばこを吸う彼の横顔を見つめていた。
「もう誰とも結婚するつもりはない?」
「うん。ずっと。」
「そっか。」
私は少し、ほっとしたような、さびしいような、そんな気持ちを胸に覚えた。思えば私はずっと、彼の横顔ばかり見ていた。ずっと、ずっと、君の横顔ばかり見ていたなぁ。
彼の長いまつ毛が、揺れる煙の中で微かに光ってはくすむ。落ち着きを払った碧い瞳が、照明を静かに映している。その影に、彼の哀しみが宿ったみたいで、けど、私は、その心の裡に気づけなかったんだった。心の底から愛していた日々も、共に暮らした日々でも。
私は、左手の薬指の付け根を軽くさすった。氷の溶けて少し薄くなったウイスキーを、一息に飲む。過ぎ去ったことと、これからのこと。淡く透き通った爽やかな味わいが一気に喉に押し流される感触は、まるできらきらした走馬灯のように、私を熱くさせる。
「ねえ、後悔してない?」
「なにを?」
こちらを静かに見つめる眼差し。それは無色透明で、美しく柔らかだった。
「私と、結婚したこと。」
「いや、全く。」
彼はそう即答して、そして、少し言葉を止めた。その昏く光る眼差しを、たばこの燃えている先に移す。煙は相変わらず、同じ速度で燃え続けている。
「君と会えて本当に良かったよ。いろんな経験をして、いろんな日々の、生活の、意味を知れた。それは頼りないものだったかも知れないけれど、それでも、俺にとって大事なことだったんだ。その、知るってことはさ。」
酔いか照れかでほんの少し桃色に染まっている頬に、私は静かに微笑んだ。不器用に話す言葉に、もうこれで十分だと思った。
彼は残り少なくなったたばこを灰皿に押し付けてそっと火を消す。
「なんかメシでも頼もうか。」
「うん。」
私はグラスに残っていたウイスキーを飲み干した。スモーキーな香りが口の中に広がる。指輪のついていない彼の左手が、バーテンダーを呼ぶために挙がった。