一九四二年、八月の終わり頃の冷たい朝であった。かさの掛かった薄い橙の電灯は陽光にかき消されそうな微かな音を頭上から降らせている。土と草と露が朝日に混ざって溶けた香りの中で私は目を覚ました。隣ではまだ小夜子が床に身を横たえて眠っている。私は起き上がるとそっと硝子戸を引き、淀んだ部屋の空気を外へ逃がした。柔らかに差し込む陽光が音も無く小夜子に降りかかる。私は彼女が眩しくないように、その枕元へと坐った。彼女の着物の上からでもわかる線の細い輪郭に飾られた胸が静かに上下していて、枕からは黒髪が枝垂れている。やつれた頬は青白く、額にはじわりと広がった脂汗が光沢を描いており、閉じられた瞼と深々と彫り込まれた隈がその苦悶を際立たせる。それでも唇だけは、痛いほどの朱が差していた。
小夜子と私が結婚したのはちょうど五年前である。彼女は当時十七だった。今より体つきがよかったが、それでも華奢であった。決して器用ではなかったが気立てがよく、良く笑う娘だった。仕事から戻ればいつも小夜子が柔らかな微笑みとともに出迎えてくれる。そんな穏やかな日々がつづいていたある時、彼女は病に伏した。風邪にしては咳が長く続くと思っていた矢先の事、前触れもなく彼女は倒れた。
「一寸具合が悪いだけです」
彼女はそう言って、安静を勧める私の目を盗んでは家事に向かおうした。その無理が祟ったのか、彼女はある時にまた、はたと倒れそれからほとんど寝たきりになってしまった。ほとんど眠れず、みるみるうちにやつれ、日毎に生気の失せていく顔で「直ぐに良くなりますから」と無理に笑って見せた。医者の見立てによると小夜子は結核であった。
私は枕元に二つある洗面器のうち水を張った方を手繰り寄せ、手拭いを水に濡らした。人肌よりは冷たく、緩やかな温もりを保った水が滴る音と宙を舞う細かな埃がばかりが部屋にあった。彼女の前髪を爪の先で梳かすように払い、苦悶に湿ったその額を軽く拭いてやった。
「もう、朝なのですね」
いつの間にか目を開けていた彼女はその瞳だけを動かして私を見ていた。薄く開かれた口の間から見える歯よりもその顔の白さが際立っている。気づけばその腕が確かに私の着物の裾を握っていた。近頃では茶碗を持つことさえままならないほどで、強く握れば容易く折れてしまいそうな彼女の手が精一杯の力をもって握っても、私の着物に皺をつけるのがやっとであった。彼女は硝子戸の向こうの庭に視線を向けていた。薄汚れた雀が一羽、辺りを跳ね回り、時折鳴き声を上げながら地面を啄んでいたかと思えばやがて音もなく飛び去った。彼女は何も言わず、苦しげに寝返りを打つと大きく息を吐いた。その震える吐息には嗚咽が混じっていた。
昨年の暮れの開戦から生活は一段と苦しくなった。病床の小夜子を医者にかからせることも、満足のいく薬を与えることもできない。彼女は少しづつ私の掌から零れ落ちていく。傷んで尚美しい黒髪も、いつか食べた異国の菓子のように甘い声も、その涙一滴までも留めておくことができない。彼女を掬いあげようと気休めでしかない足掻きに縋り、慰めては慰められているばかりであった。私には涙を流す彼女の隣に寄り添うことしか叶わない。
「我儘を言ってもいいでしょうか」
どのくらい時間が経ったか分からない。日はいくらか高く昇っていたようだった。小夜子は私に背を向けたまま、仄薄暗い部屋の隅を見つめているようだった。骨ばった背が着物越しに分かる。彼女がそんな事を言うのは初めてだった。私は「構わないから」と言ってその薄い肩に手を添えた。何としても、叶えてやりたかった。
小夜子は暫く黙っていたが、「林檎が食べたいです」とだけ言った。
小夜子は林檎が好きだった。秋頃になれば決まって週に一度は林檎を食べていた。だが、果物は贅沢品になって久しい。くし型に切り分けられた林檎を最後に見たのは、もう何年か前だった。何軒も、何軒もかなり苦心して店屋を周り、私はようやく林檎を見つけた。その林檎は特有の斑点模様がなく一色に覆われていた。その紅は、ともすれば顔が映りそうなほど深く、日の光の中で宝石のように鋭く輝いていた。林檎は広げた私の掌より小さく、持ち上げた時、懐かしいあの酸味がかった香りが音もなく鼻先をくすぐり、瞬く間に全身を駆けた。私は迷う余地もなく、その一等いい林檎を買った。
私が戻った時、小夜子は朝と変わらずその身を横たえていた。彼女は私の姿をみとめると明るい顔をしてそっとその身を起き上がらせて寝癖のついた髪を纏めて、それから慌てて軽くはだけて覗く鎖骨を隠しながら着物を直した。そして私の取り出したその林檎を見て、幾分か幼さの残る無邪気な笑顔と歓声を漏らした。
「向こうで切ってくるから少し待っていなさい」
「ここで切ってください」
台所へ持っていこうとする私を静止して、彼女は真っ直ぐ私を見てそう言った。吸い込まれそうなその目に見据えられた私はただ頷くと包丁と皿を持ち出した。
私は皿に林檎を置いて軽く袖を捲り上げるとゆっくりと芯を割るように林檎を真っ二つに切った。白い果実の真ん中に黒々とした種が二つ覗いている。滴る果汁がくすんだ銀の鏡面に映る私の象を一層歪ませている。林檎の皮に添えた刃は果実の端で惑っていた。私は小夜子の手ほどきを受け、やっとのことでその刃を林檎に食い込ませた。
私は力加減に苦心した。ふとすればその細く白い果実を潰してしまわぬかという不安に駆られていた。助けを乞おうと横目に見た小夜子の表情は幼子が新しい玩具に向けるそれであった。無邪気な曇りない微笑み。その顔を見て、私は林檎を持ち直した。指先の力は、いつかの晩に小夜子の肌をなぞった時の、その手を初めて私から握ったときの力であった。包丁が林檎の薄皮を剥ぎながら進む度に、ちょうど剃刀の刃が生肌を逆撫でるような軽い音を立て、光沢のある紅い皮が一筋、また一筋と剥がれていく。不慣れな私はなかなか上手くできなかった。皮の発する青い草のような匂いが部屋を覆い、小夜子は悪戦苦闘する私を面白そうに見つめていた。そして時折吹き出すように笑って、かと思えば「危ないですよ」と血相を変えて言ったりした。
ようやく切り出した林檎は、不揃いだった。少しささくれた楊枝を深く林檎の実に刺して、私は小夜子にそれを差し出した。彼女はそれを受け取ろうとしなかった。見合いの席で初めて会った時の様に真っ直ぐ私を見つめていた。そして恥じらうように身を引いて、その佇まいを直しながらもう一度私のことを見ながら言った。
「食べさせてくださいませんか」
私は重みを帯びた楊枝を摘んで彼女の口元に運んだ。静かに目を閉じた小夜子は形の良い口を開いた。生糸のように輝く肌と、ちらりと除く八重歯が口内の鈍い赤を際立たせる。温い吐息の向こう側で綺麗な歯に守られた先の尖った舌が仄かに蠢く。やわらかいその唇に林檎に触れる。その刹那に小夜子の体がびくんと跳ねた。彼女が口腔を更に開き、その前歯が林檎にしっかりと食い込むのを私は楊枝伝いに感じた。私が楊枝から手を離すと同時に新雪を踏みしめるような音を立てて林檎が噛み締められていく。口の端から一筋に林檎の果汁が零れ、顎の下に添えられた彼女の手に滴り落ちる。その瞬間に店先で林檎を手に取った時よりも、その林檎に刃を通した時よりも、強く確かな林檎の—あの酸味に尖った甘美な香りを私は感じた。伏せがちであった目が大きく見開かれて、その端正な顔が仰ぐように軽く上を向き、顕になった喉の奥をこくん、という嚥下とともにその果汁が流れ、続けて一際大きな欠片がゆっくりと落ちていく。梳きあげられたばかりの和紙のようなその肌は、日に透かせばその奥までも見通せそうな程であった。彼女の喉にある嵐は林檎の汁に潤され、小夜子はいつかの小夜子に戻っていた。
慈しむような視線とともに、小夜子は林檎をすっかり食べた。そして甘い息を大きく吐いて、私の手を力強く握った。痛いほどに握りしめていた。潤んだ黒目は紙に一滴落ちた墨のように広がっていて、昼の陽光より、夜の闇よりも光っている。彼女は蕩けたような表情で微かに震える吐息とともに私にもたれかかった。私がその頭を撫でてやっていると、やがて小夜子は咳もなく穏やかな呼吸を保ちながら眠りに落ちた。数十ヶ月来に見る、穏やかな寝顔であった。
その晩に小夜子は死んだ。口も聞けぬ程に咳込んで、細い手の隙間から止めどなく溢れた赤黒い血は洗面器に収まりきらず、着物を布団をも染め上げた。こと切れる瞬間に彼女はひび割れた声でただ一言だけ、私に感謝を述べた。暫く、私は呆然として、物になってしまった彼女を見つめていた。その時けたたましく戸を叩く音がした。
「おめでとうございます」
玄関を開けた先にいた男は薄汚れた軍服に目深に帽子を被っていた。そうして、極めて事務的に、まだ小夜子の温もりが残る私の手に一枚の紙を差し出した。その紙は光沢のあった林檎より、小夜子が吐き出した血よりも薄く、淡い赤色であった。
小夜子と私が結婚したのはちょうど五年前である。彼女は当時十七だった。今より体つきがよかったが、それでも華奢であった。決して器用ではなかったが気立てがよく、良く笑う娘だった。仕事から戻ればいつも小夜子が柔らかな微笑みとともに出迎えてくれる。そんな穏やかな日々がつづいていたある時、彼女は病に伏した。風邪にしては咳が長く続くと思っていた矢先の事、前触れもなく彼女は倒れた。
「一寸具合が悪いだけです」
彼女はそう言って、安静を勧める私の目を盗んでは家事に向かおうした。その無理が祟ったのか、彼女はある時にまた、はたと倒れそれからほとんど寝たきりになってしまった。ほとんど眠れず、みるみるうちにやつれ、日毎に生気の失せていく顔で「直ぐに良くなりますから」と無理に笑って見せた。医者の見立てによると小夜子は結核であった。
私は枕元に二つある洗面器のうち水を張った方を手繰り寄せ、手拭いを水に濡らした。人肌よりは冷たく、緩やかな温もりを保った水が滴る音と宙を舞う細かな埃がばかりが部屋にあった。彼女の前髪を爪の先で梳かすように払い、苦悶に湿ったその額を軽く拭いてやった。
「もう、朝なのですね」
いつの間にか目を開けていた彼女はその瞳だけを動かして私を見ていた。薄く開かれた口の間から見える歯よりもその顔の白さが際立っている。気づけばその腕が確かに私の着物の裾を握っていた。近頃では茶碗を持つことさえままならないほどで、強く握れば容易く折れてしまいそうな彼女の手が精一杯の力をもって握っても、私の着物に皺をつけるのがやっとであった。彼女は硝子戸の向こうの庭に視線を向けていた。薄汚れた雀が一羽、辺りを跳ね回り、時折鳴き声を上げながら地面を啄んでいたかと思えばやがて音もなく飛び去った。彼女は何も言わず、苦しげに寝返りを打つと大きく息を吐いた。その震える吐息には嗚咽が混じっていた。
昨年の暮れの開戦から生活は一段と苦しくなった。病床の小夜子を医者にかからせることも、満足のいく薬を与えることもできない。彼女は少しづつ私の掌から零れ落ちていく。傷んで尚美しい黒髪も、いつか食べた異国の菓子のように甘い声も、その涙一滴までも留めておくことができない。彼女を掬いあげようと気休めでしかない足掻きに縋り、慰めては慰められているばかりであった。私には涙を流す彼女の隣に寄り添うことしか叶わない。
「我儘を言ってもいいでしょうか」
どのくらい時間が経ったか分からない。日はいくらか高く昇っていたようだった。小夜子は私に背を向けたまま、仄薄暗い部屋の隅を見つめているようだった。骨ばった背が着物越しに分かる。彼女がそんな事を言うのは初めてだった。私は「構わないから」と言ってその薄い肩に手を添えた。何としても、叶えてやりたかった。
小夜子は暫く黙っていたが、「林檎が食べたいです」とだけ言った。
小夜子は林檎が好きだった。秋頃になれば決まって週に一度は林檎を食べていた。だが、果物は贅沢品になって久しい。くし型に切り分けられた林檎を最後に見たのは、もう何年か前だった。何軒も、何軒もかなり苦心して店屋を周り、私はようやく林檎を見つけた。その林檎は特有の斑点模様がなく一色に覆われていた。その紅は、ともすれば顔が映りそうなほど深く、日の光の中で宝石のように鋭く輝いていた。林檎は広げた私の掌より小さく、持ち上げた時、懐かしいあの酸味がかった香りが音もなく鼻先をくすぐり、瞬く間に全身を駆けた。私は迷う余地もなく、その一等いい林檎を買った。
私が戻った時、小夜子は朝と変わらずその身を横たえていた。彼女は私の姿をみとめると明るい顔をしてそっとその身を起き上がらせて寝癖のついた髪を纏めて、それから慌てて軽くはだけて覗く鎖骨を隠しながら着物を直した。そして私の取り出したその林檎を見て、幾分か幼さの残る無邪気な笑顔と歓声を漏らした。
「向こうで切ってくるから少し待っていなさい」
「ここで切ってください」
台所へ持っていこうとする私を静止して、彼女は真っ直ぐ私を見てそう言った。吸い込まれそうなその目に見据えられた私はただ頷くと包丁と皿を持ち出した。
私は皿に林檎を置いて軽く袖を捲り上げるとゆっくりと芯を割るように林檎を真っ二つに切った。白い果実の真ん中に黒々とした種が二つ覗いている。滴る果汁がくすんだ銀の鏡面に映る私の象を一層歪ませている。林檎の皮に添えた刃は果実の端で惑っていた。私は小夜子の手ほどきを受け、やっとのことでその刃を林檎に食い込ませた。
私は力加減に苦心した。ふとすればその細く白い果実を潰してしまわぬかという不安に駆られていた。助けを乞おうと横目に見た小夜子の表情は幼子が新しい玩具に向けるそれであった。無邪気な曇りない微笑み。その顔を見て、私は林檎を持ち直した。指先の力は、いつかの晩に小夜子の肌をなぞった時の、その手を初めて私から握ったときの力であった。包丁が林檎の薄皮を剥ぎながら進む度に、ちょうど剃刀の刃が生肌を逆撫でるような軽い音を立て、光沢のある紅い皮が一筋、また一筋と剥がれていく。不慣れな私はなかなか上手くできなかった。皮の発する青い草のような匂いが部屋を覆い、小夜子は悪戦苦闘する私を面白そうに見つめていた。そして時折吹き出すように笑って、かと思えば「危ないですよ」と血相を変えて言ったりした。
ようやく切り出した林檎は、不揃いだった。少しささくれた楊枝を深く林檎の実に刺して、私は小夜子にそれを差し出した。彼女はそれを受け取ろうとしなかった。見合いの席で初めて会った時の様に真っ直ぐ私を見つめていた。そして恥じらうように身を引いて、その佇まいを直しながらもう一度私のことを見ながら言った。
「食べさせてくださいませんか」
私は重みを帯びた楊枝を摘んで彼女の口元に運んだ。静かに目を閉じた小夜子は形の良い口を開いた。生糸のように輝く肌と、ちらりと除く八重歯が口内の鈍い赤を際立たせる。温い吐息の向こう側で綺麗な歯に守られた先の尖った舌が仄かに蠢く。やわらかいその唇に林檎に触れる。その刹那に小夜子の体がびくんと跳ねた。彼女が口腔を更に開き、その前歯が林檎にしっかりと食い込むのを私は楊枝伝いに感じた。私が楊枝から手を離すと同時に新雪を踏みしめるような音を立てて林檎が噛み締められていく。口の端から一筋に林檎の果汁が零れ、顎の下に添えられた彼女の手に滴り落ちる。その瞬間に店先で林檎を手に取った時よりも、その林檎に刃を通した時よりも、強く確かな林檎の—あの酸味に尖った甘美な香りを私は感じた。伏せがちであった目が大きく見開かれて、その端正な顔が仰ぐように軽く上を向き、顕になった喉の奥をこくん、という嚥下とともにその果汁が流れ、続けて一際大きな欠片がゆっくりと落ちていく。梳きあげられたばかりの和紙のようなその肌は、日に透かせばその奥までも見通せそうな程であった。彼女の喉にある嵐は林檎の汁に潤され、小夜子はいつかの小夜子に戻っていた。
慈しむような視線とともに、小夜子は林檎をすっかり食べた。そして甘い息を大きく吐いて、私の手を力強く握った。痛いほどに握りしめていた。潤んだ黒目は紙に一滴落ちた墨のように広がっていて、昼の陽光より、夜の闇よりも光っている。彼女は蕩けたような表情で微かに震える吐息とともに私にもたれかかった。私がその頭を撫でてやっていると、やがて小夜子は咳もなく穏やかな呼吸を保ちながら眠りに落ちた。数十ヶ月来に見る、穏やかな寝顔であった。
その晩に小夜子は死んだ。口も聞けぬ程に咳込んで、細い手の隙間から止めどなく溢れた赤黒い血は洗面器に収まりきらず、着物を布団をも染め上げた。こと切れる瞬間に彼女はひび割れた声でただ一言だけ、私に感謝を述べた。暫く、私は呆然として、物になってしまった彼女を見つめていた。その時けたたましく戸を叩く音がした。
「おめでとうございます」
玄関を開けた先にいた男は薄汚れた軍服に目深に帽子を被っていた。そうして、極めて事務的に、まだ小夜子の温もりが残る私の手に一枚の紙を差し出した。その紙は光沢のあった林檎より、小夜子が吐き出した血よりも薄く、淡い赤色であった。